第五章 権力の意味 (定義・分類・諸相


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ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)

 

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投稿者 メッセージ
Post時間:2009-08-15 12:36:39
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1 権力の定義づけ

権力(*power、パワー)とは、変化を惹き起こすなり、
あるいはそれを避けることのできる能力のことをいう。 

権力には二つの次元がある。
その一つは、 潜在性としての権力、ないし潜在力としての権力である。
それはまだ十分に発達しきっていない力であり、それは
未来のあるときに変化を惹き起こすことのできるものである。
この未来の変化についてはこれを「可能性」(possibility)として語るのである。

他の次元は、 現実体(actuality)としての権力である。
(私がこの章で述べようとしているのはこの側面である)

権力というものは、もともとは社会学的な用語であり、主として
国家や軍隊の行動を述べるのに用いるカテゴリーである。
 しかしこの問題を検討するものが、
権力というものは、人間の情緒や態度や動機といったものに依存するものであること
をわかってくるにつれて、彼らは、必要な明確化のために心理学のほうへ向かったのである。


心理学においては、
権力は、他人を感動させ(affect)、影響を与え、変えることのできることを意味する。

各自は,,,込みいった人間関係の中にあり、
他人を推進したり、撃退したり、結びつけたり、同一視したりするのである。
かくて、地位や権威や威信といったものが権力問題の中心になるのである。

私は、ある人物が何らかの価値をもち、他人に影響を与え、
そして仲間からの承認を得ることができる、という確信を指すのに
「意味の感覚」(sense of significance)という語句を用いてきた。
 
 
 
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権力と支配力(force)との間の関係はなにか。

支配力は,,,アメリカでは広く権力と同一視されてきた。
この国では支配力は、たいていの人の場合、権力と自動的に結びついている。
これが、権力が「汚いコトバ」として軽蔑されけなされてきたその主たる理由である。

ジョン・デューイは、強制力(coercive force)は
エネルギーとしての力と、暴力としての力の、中間地帯である、と考えていた。
「支配力に依存せず、それを利用しないということは、
 単に現実の世界に足場を持たないということである」

支配力や、強制あるいは強迫(compulsion)は、権力を構成する上で欠くことのできないものである。
戦争はそうした、構成要素の一つである。
(*あるいは)病人ないし子どもの場合、
強迫あるいは強制というものは、
(*彼らの)能力ないし他人についての知識の欠除
(原文ママ)に応じて
用いられなければならない。
(*たとえば)私の息子が三歳であったとき、
私は、ブロードウェイを横断するとき、子どもの手をしっかり握っていた。
これは、子どもが成長し、交通事情を学び、横断の責任を自分で安全に引き受けることができるにつれて、
緩和されてゆく(*権力の)条件である。

しかし支配力の適用には究極的な限界がある。
ある種の動物が近くにいる他の動物ぜんぶを絶滅させるまでその力を用いるなら、
そうした動物を必要とするとき、食料としてそれらを持てなくなるだろう。

,,,西部における鉄拳戦では、
敵のアイデンティティを破壊することこそ、まさに射撃の目的である。
したがって私はこれを、
支配力と結びついた権力の持つ自己破壊的な影響力の一例とする。

殺されて、明らかにその存在を失ってしまう人物は、もはや、
当人がコミュニティに対してできるだけのものを与える存在ではなくなり、
もはや関係を持つことのできない人間であって、
われわれは、それゆえにさらに貧しい者になる。

他人の自発性が破壊されるときには、
同時にその破壊する者も損害なしではすまされない。
これは洗脳、条件づけ、催眠状態、における強制や強迫の極端な形での危険である。

権力は、それが出会う人間の
自発性の確認とともに動かねばならない。
このことは、長い目で見れば、
その権力に、最大の成功を保証することになる。

 
 
 
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2 権力と知識人(略)-返却までに時間が余れば最終項に追加-
3 権力の諸相

A 搾取的権力(Exploitative power)
 これはもっとも単純で、人間的に言ってもっとも自己破壊的な権力である。
これは、人びとを、権力を持った者に従属させることである。
もちろん、奴隷はその明らかな例である
― 一人の人間が多くの肉体に権力を及ぼし、事実多くの人の全有機体に権力をふるうのである。
搾取的な権力は、権力を支配力と同一視するものである。
この意味で、鉄砲(firearms)の使用は、
たまたまピストルを持った人間のきまぐれにまかされるとき、搾取的な権力の一形態となる。

日常生活の中で、この種の権力を行使するのは
根本的に拒否されてきた人びとであり、その人たちの生活はきわめて実りのないもので、
彼らは搾取以外に他人に関係づける方法を全然知らないのである。
この権力は、ときには
婦人を性的に扱うことが「男性的」(masculine)な態度として合理化されたことさえある。
興味のあることであるが、
(中世の)騎士や乙女たちの社会内にはびこったであろうこの種の権力から、
中世の宮廷愛は、愛の中では(*この種の男性的権力は)決して利用去るべきではないというルールによって人びとを守ってきた。


搾取的な権力は、暴力ないし、暴力の嚇しをつねに前提としているのである。

この種の権力の中には、厳密に言って、
犠牲者の側には、選択ないし自発性というものがまったくない

 
 
 
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3 権力の諸相

B 操作的権力(Manipulative power)
 これは、他人の上に及ぶ権力である。
操作的権力は、その人物の絶望ないし不安によって導き出されてくる。

マーシデス(*第四章で取り上げられた黒人売春婦)は、
継父の、売春せよという要求を、
自分自身の頼りなさや、他に何もできないという理由で、受け容れている。
この当初の同意のあとでは、この人間にはほとんど自発性ないし選択性は残されていない。


搾取的権力から操作的権力への移行は、われわれのフロンティアでは
ガンマン(Gun man)が、ぽん引き('con' man) にとって替わられるということの中に見られる。
,,,たとえ、犠牲者を生かしておくということ以外に他になんの理由もないにしても
ぽん引きのほうは、ガンマンの野蛮な力よりはるかに破壊性の乏しいものである。

スキナーによる、exlink.gifオペラント条件づけの提案は、操作的な力のもう一つの例である。

(*オペラント条件づけ:条件反射ではなく条件学習によって行動の方向づけ・強化をする。
 たとえば、ペットのトイレトレーニングや子どもの躾けなど。行動療法では、
 患者に報償(代用貨幣トークン)を与えることによって行動の強化を図る、という
 オペラント条件づけ療法(の一種)などがある。)

科学的な視点からすると、限られた動物研究から発展したシステムを、
人間社会そして事実上人間経験の全域に適用しようとすることは誤りがある。
万事がこの操作システムに適合するよう作られねばならないし、
もしそれがこのシステムに適合しない場合には、それは即座に、
新しいスキナー世界から投げ捨てられることになる。
...スキナーが自分のデータを得るためにねずみや鳩の利用を任意に選択したことによって、
人間の自由や尊厳(dignity)というものは排除されたのである。
行動主義(心理学)者のように、もしあなたがそのスマイルという“行動”自体を認めても、
スマイルする“人”を認めないならば-つまりその行為を行う“人”をオミットするなら-
どのようにしてあなたは、ほほえんだり、顔をしかめたり、泣いたり、殺したり、愛したりする
人間社会をもれなく理解することができようか。

スキナーは彼自身、自分自身の権力欲求に、意識的に直面していない人間の
現代の一例である。
彼はこうした欲求を「支配したい情熱」(passion to control)と呼んでいる。
行動せよ、こんちくしょう。お前が行動しなければならないやり方で行動せよ

 (スキナー著『心理学的ユートピア』 英雄ファリスの、彼の鳩たちへの言葉)

これが、実際にはその名は何と呼ばれようとも、強力な権力欲求であることを示すには、
こみいった精神分析など必要としないであろう。


ドイツ人は、1933年(*ナチス党が政権掌握した年)に先立つ何年か、
彼らの将来について経済的には絶望と不安状態に置かれていた。
,,,彼らは、自分たちの不安を鎮めてくれるかもしれないという希望をつないで
ヒットラーの‘操作的権力’に屈したのである。
,,,同じように、今日の人びとも、自分の不安をのがれたいという希望をもって、
スキナーのユートピア的提案に向かうかもしれない,,,


操作的不安に関して、私の提案する原則を述べると、
状況によってはその不安は必要なものであるけれども、
それはできるだけ、節約して使われねばならない、ということである。

 
 
 
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3 権力の諸相 

C 競争的権力(conpetitive power)
 もうひとつ別の権力に対抗する権力である。
この権力は、当人の相手が下落していくことによって、上昇していく人間に見られる。

工場や大学には多くのこうした例がある。
たとえば、望まれている地位はたった一つであるのに志望者は多い、といったときの
会長ないし議長の任命がそれである。
それはまた、等級づけシステムによるライバル同士の学生に見られる
,,,このシステムは、学生が相互にいたわり合い協力することに対し、
破壊的・個人的影響力を増進するものである。


この種の権力をめぐる主な批判は、それの持っている狭量さ(parochialism)にある。

この種の権力は、連続的に人間の住んでいる人間コミュニティの領域を縮小させてしまう
――もっとも、操作ほどには徹底的なものではないにしても。

しかしこの点で、われわれの気づいていることは、
破壊的な権力から建設的な権力へきわめて興味ある移行をすることである。
というのは、競争的権力によって、人間関係に
興趣(zest)と生命力(vitality)を与えることができるのである。
(私がここで述べているのは、刺激的かつ建設的なライバル関係のことである)

思い起こす価値のあることは、アイスキュロスの『オレスティア』、ソフォクレスの『エディプス』
エウリピデスの多くの作品は、競争の中で作られたのである。
その意味するところは、破壊的なのは競争それ自体ではなく、ただその種の競争力である。

 
   
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3 権力の諸相 

D 成長促進的権力(Nutrient power)
 これは、他者のためになる権力である。

このもっともよい例は、普通、親がその子どもの面倒を見ることにあらわれている。

それはひとつの権力形態である。 
というのは、子どもはその幼いときにはわれわれの努力や注意を必要としているが、
全生活に渡って、われわれも時々、他者のために尽力することから快楽を得ているのである。
明らかにこの種の権力は友人や愛されているものとの関係で大量に必要であり、
また価値のあるものである。

他者に対する世話――われわれは他者よかれと願っている――によって与えられるのが
この権力である。その最上の意味で、教えるというのはよい例である。

 
 
 
 
Post時間:2009-08-15 18:40:23
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3 権力の諸相

E 統合的権力(Integretive power)(前半)
(前半は「批判」について、後半はキング牧師・ガンジーの非暴力的抵抗について)

 この権力は、他者と「共なる」(with)権力である。
そのとき私の権力は隣人の権力を助長することになる。

ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、こう述べている。
 『もしすべて重要な真理の主張に対して、その反対者が存在しないなら、
  そうした反対者を想像し、もっとも腕のたしかな欠点をあばきたてる者の思いつけるような、
  この上なく強力な議論を供給することが不可欠である。


レクチャーのあと、話し手にとって、聞き手の質問が
どれほど価値のあるものかを実感していないものはまれである。
それらの質問は、新たな洞察をもって、自分の主張を変えるなり
あるいは防衛することを話し手に刺激し強制するのである。

われわれのナルシシズムは、われわれの弱点を指摘してくれる人びとの
傷に対してはいつも抗議する。,,,たしかに批判というものはしばしば不快なものであるし、
批判に直面すると人は自らの自我を締めつけねばならない。 われわれは、

操作的な権力によって(強制的に批評家を押えることによって)、また、
競争的権力によって(批評家をばかに見ることによって)、後もどりしてすべり込むこともできる。
成長促進敵権力によって(彼が混乱していて、われわれのケアを必要としている旨を意味することによって)、
われわれの薄い皮膚を守ることさえできる。

しかしこうした方法へ退行してゆくならば、われわれは、
たとえそのケースが敵対的あるいは友好的なものであれ、
質問者がわれわれに与えつつあるかもしれない
新しい真理に接するチャンスを失ってしまうのである。


(*ロロ・メイ自身の体験)
私の分析家が、自分が不快であると見ている性格構造について何かを指摘しようとしたとき、
まず最初に私はただちにそれを否定した。
後になってくると、私はその洞察の真理を実感して、
自分の性格構造をこの新しい真理に従って変えるという苦しみを体験しなければならなかった。
 この告白はドラマティックなものではない。
私の会った全ての人がまた、似たような状況で、まさに正確にこのやり方で反応したからである。



統合的権力は、ヘーゲルの、命題-反対命題-統合、という弁証法的過程によって
成長へと導かれてゆくことができる。


 
   
Post時間:2009-08-15 22:07:21
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3 権力の諸相

E 統合的権力(Integretive power)(後半)

ルーサー・キング師は、自分の相手に対する
非暴力の効果について述べているが、この点で彼は統合的な権力の良い例である。
「自分の方法は、相手を武装解除する方法である」
「この方法は、相手の道徳的な防衛をあばき、
それは相手の志気を弱め、同時に相手の良心に働きかける。
相手はそれをどう処理して良いかまったくわからない」
この権力が成功しているのは、非暴力的な人びとの勇気だけではなく、
非暴力的権力の受け手である人びとの、道徳的発展と自覚によるものである。

同じことは、ガンジーの好戦的非暴力(militant nonviolence)についてもいえる。,,,
全(*大英)帝国に抵抗して、軍事力では決して持ち得ないような方法で
断食をやることによって、帝国を動かすことにガンジーはみごとに成功したのである。
 キングが述べているように
「それは良心に働きかけた」のである。


非暴力的な権力は記憶に依存している。,,,
ガンジーとキングは、相手がガンジーらを傷つけたということを
記憶しなければならない位置に相手を据えたのである。

人間は記憶に苦しめられる(afflicted)奇妙な存在である。
自分の記憶を自分の自我像に統合できないなら、
人は自分の失敗に対し、ノイローゼないし精神病で償いをしなければならない。
こうして人は、概して空しい結果に終わるのであるが、
自分をひどく苦しめる記憶から自らをふりほどくように努めるのである。



非暴力的人間に見られる本物のイノセンスは、当人にとって力の根源となる。
 イノセンスの質的にまがいものと本物との区別は、
第一に,,,非暴力によって何ら認識は阻止されないという事実である。
第二に、それは責任の放棄も含まれていない。
第三に、その目的は、個人自身のために何かを手に入れることではなく、
      自分のコミュニティのために何かを得ることである。



非暴力的な権力は、支配者の倫理に対する刺激として、
彼らの制度の持つひとりよがりに対する強い非難として働くのである。
支配階級に所属する者は、
非暴力的な階級からそしらぬ顔で目をそむけることはできない。
というのは、非暴力の人は、明らかにこの問題に悩み、
これによってその問題を劇的に表現しているからである。


それが本物であるとき、非暴力は宗教的な性格を帯びてくる。
というのは、そのまさに本性上、
非暴力は人間的な権力形態を超えるからである。

しかし,,,
ほんものの非暴力的な力の全てには、
その役割を僭称しようとする偽物が、数多くつきまとうのである。


 
 
 
 
Post時間:2009-08-15 22:22:00
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3 権力の諸相

五つの種類を異にする権力は、
同じ人物の中に時を異にして、明らかにすべて存在する。

仕事の面で操作的権力ないし競争的権力を行使する多くの実業家は、
家族のもとに帰ったとき、成長促進的な権力を身につけることになる。

問題は――道徳的な問題であるが――
そのパーソナリティ全体の中で、それぞれの権力がどのような割合になっているか
ということである。

何人も、願望や行動の面で五つのタイプの権力体験をまぬがれることはできない。

ただひとりよがりの厳格さだけでは、
自分は権力のいずれからも免疫であるといううぬぼれを当人に抱かせることになる。


人間発達のための目標は、所与の場にふさわしい、これらそれぞれの違った権力の
用い方を学ぶことである。