第2部_ 第3章 Ⅱ 「自己蔑視」「身体と感情

このページはhttp://bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65935からの引用です

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Post時間:2011-11-04 02:04:48
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       自己蔑視 (1)


   ここで話を進める前に、二つの反対説に答えておかねばならい。

すなわち、自己意識の必要性や価値をこのように強調することは、
人々をして 「あまりに自分自身に関心をもたせ過ぎることにはならないか」 と。

  そして一つの反論としては、
  それは人を、「あまり内省的」にするきらいはないかといわれ
  もう一つは、このようなことは、「人を高慢ちき」にするだけではないかという反論である。

   後者の立場に立つ人たちは、
「われわれは、自分自身をあまり高く買いかぶるなと教えられてきたではないか。
しかも自惚れは、現代悪の根源であると説かれてきたのではあるまいか」と反論する。

まず後者の反論について考えてみよう。
たしかに、われわれは、自己をあまり高くかいかぶるべきではない。
そして勇気ある謙譲こそ現実的な、成熟せる人間の特質である。


自己肥大
(self-inflation)や自己欺瞞(self-conceit)
という意味であまりにも高い自己評価は、
より大いなる自己意識、あるいはすぐれた自己-価値観からくるものではない。

自己肥大や自己欺瞞は、
一般に 内なる空虚さや 自己疑惑 のあるしるしである。
すなわち、自負心をひけらかすことは
内なる不安をカバーする一手段である。


自負心はかの繁栄の1920年代の特質であった。
しかし今日われわれは、この時代が、
実は、抑圧された拡散不安の時代の一つであることを承知している。


自らの弱さを感じ取っている人は、弱いものいじめ
(bully)をやり
劣等感のある人は、ほらふき
(braggart)になる。

 手足をやたら動かすことや、
 多弁、
 気取った所作、
 厚かましさ など、
これらはいずれも個人ないし集団内に
不安のひそんでいる徴候である。

そりかえった歩き方のムッソリーニや
精神病質者のヒットラーの姿を見た人は、だれでも知っているように、
ファシズムの中に大へんな自負心の誇示されているのを見る。

しかし、そのファシズムは空虚で不安な、
しかも絶望的状況下に発達したものである。
したがって、それは容易に、
誇大妄想的頼もしさ
(megaromaniac promises)を身につけてしまう。



二つの問題
(*反論)をさらに掘りさげてみると、
今日、自己の内なる自負心に反対するような多くの議論があり
自制心
(self-abnegation)に関する、数多くの訓戒めかしたことが述べられている。
しかし、これらの意見は
謙虚さとか、あるいは人間的状況に勇敢に立ち向かうといったこととは
まったく別の動機から述べられているのである。

  たとえば、これら多くの議論の中には、自己に対するかなりの軽蔑がみえている
  ということである。



(*最初の反論=「自己意識は人をあまりに内省的にしすぎるのではないか」に関連して)
exlink.gifオルダス・ハックスリー
われわれすべてにとって、耐え難いまでに荒涼とした、無感動な生活は
 自己とともなる、自己を相手の生活である
 と述べている。
幸いにも、ただちに気のつくことであるが、こうした一般化はあきらかに真実とはいえない。
スピノザ、ソロー、アインシュタイン、イエスにとって、
もっとも退屈で、無感動な時間は自己を相手の時間であったろうか。

実際、
ハックスリーの述べたことが当の彼自身についてさえあてはまるかどうか疑わしい。
そのほか、exlink.gifラインホールド・ニーバーなど、(*自分は)大いなる自信と自己主張をもちながら、
しかも人間が自己を押しだすことを悪と説く人たちについても同じ疑問がわいてくる。



事実、自己のうちなるうぬぼれや思い上がりに向かって説教するつもりなら
聴衆を得ることはきわめてやさしい。


というのは、
たいていの人が、
とにかく非常に空虚で、価値観の欠除を感じとっているため
自分を非難するものがあると、そちらが正しいに違いないと簡単に同意
してしまう
のである。




      
 
 
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       自己蔑視 (2)


  ここでわれわれは、現代の多くの
  自己-断罪感
(self-condemnation)のダイナミック(*動勢)
  を理解するうえで、なによりも重要な問題に当面することになる。


すなわち、
自己断罪は、代用的価値観を得るもっともてっとり早い方法である。

ほとんど価値観を喪失してしまった人々は、
一般にきわめて強力な自己断罪的要求をもっている。

自罰は、
無価値感や屈辱感からくる苦しみを消す
もっとも容易な方法だからである。


それはあたかも次のように、自分自身に言い聞かせているようなものだ

自分はかくも非難に値する。
 そうであるからには自分は重要な存在に違いない
」  
  あるいは
私がいかに高貴であるかをみたまえ。
 私は自分が及ばない点について、かく恥じ入っているのだ
」 と。

精神分析家はするどい指摘を行っている。
すなわち 分析を受けている人間が
つまらぬ罪で長期にわたり自己を非難し続けているとき、
当人は、「お前は一体、自分自身をだれだと思っているのか」とたずねられているように感じる。

自己断罪の人は、
神が自分をこんなに苦しめ、罰されるからには、自分もなんと重要な存在であることか
と、それをきわめてしばしば示そうとする。

過度な自己断罪は、かえって内にかくれた尊大さをとりつくろうための衣となっている。

自己を責めることによって、
自惚れを克服できると思っている人々は、
「自己を軽蔑する人間は高慢な人間にもっとも近い」というスピノザのことばを
熟考してみる必要がある。

 今日、こうした自己断罪のメカニズムは
 心理的抑圧状態の中に観察することができる。


たとえば、
親に愛されていないと思っている子どもは、
おおむね独り言ではあるがつねに次のように言う。

もし自分がこんなでなかったら、もし悪くないなら
 父母はわたしを愛してくれるだろうに
。」

これはどういうことかというと、
全力を出し切ることを避け、
自分が愛されていないことを知る恐ろしさを回避
しているのである。

また大人の場合
もし彼が自己を非難できるなら、
彼は実際、自分の孤独や空虚さの痛みを感じないですむ。

つぎに、
自分が愛されてないという事実は
人間としての価値観に疑問を投げかけるものではない。

というのは、人々はいつも、
もししかじかの罪あるいは悪い習慣がないなら、私は愛されるだろうに
ということができるからだ。


うつろな人々のみちみちている現代、
自己非難を強調することは、
病気の馬を鞭打つようなものであって、
それは一時的には馬をふるいたたすことはできても、
結局は人間としての威厳を失う結果になる。

自己尊重のかわりに自己非難をもってすることは、
孤独と無価値感という問題に
無意識のまま正面衝突することの回避になる。

しかも
自分のおかれている状況に率直にぶち当たり、
建設的にできるだけのことを全てやろうとする人の誠実な謙虚さよりも
むしろ、偽りの謙虚さへ向かう。

それだけでなく、
代用品である自己非難は、
人の憎悪の傾向を強化する
ことになる。

そして、
他者に対する態度は 一般に 
自己へ向かう傾向と平行しているため
他人を憎むという目に見えない傾向もまた合理化され、強化される。



自己-軽蔑が説かれるような社会では、
(*自己非難=偽の謙譲を説く社会)
たとえ当人は、
こんなに退屈で、無感動になっていると思っていても、
なぜその人が、
ほかの人たちまでその仲間に引き入れようとするほど、そんなに不作法で
軽率になるのか、もちろんその理由は説明されていない。

それだけではなく、
まぎれもなく一個の自己意識である「自分」を憎むと同時に、一切の他人を愛せ
と説く教えの中にある、多くの矛盾も
決して適切に説明されていない。

しかもそこには、
憎むべき被造物であるわれわれを 他人全てが愛してくれるであろうとか
あるいは
われわれが自分自身を憎めば憎むほど、それだけいっそう
ある暇なときにこの軽蔑に価する被造物「われ」を造る
というへまをやった神を、われわれが愛するようになる
という期待がはっきり読み取れる。




(蛇足:この#2は
 「自己意識の尊重は人を高慢ちきにする」として「偽の謙譲」を説く
 キリスト教系宗教家に対するロロ・メイの反駁、と考えると判りやすい)
 
 
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        自己蔑視 (3)


  自己-愛は、必要なもの、よきものであるだけではなく、
  それはまた他者を愛するための必須条件でもある。



exlink.gifE・フロムは、その見事な分析、「利己心と利己愛」の中で
利己心と、過度なの自己-関与(self-concern)は
(*いずれも)
実際は、内なる自己-憎悪のあらわれであることをあきらかにした。

フロムによると 自己-愛とは
利己的であることと異なっているのみならず、(*むしろ)それに反するものである。


すなわち、
内に無価値感を覚える人は、
自己を利己的な自己拡大によってつくりあげねばならぬ人であり、
いっぽう、
自己に対し健全な価値観を味える人、いわば自分自身を愛しうる人は
自己の隣人にたいしても寛容をもって接しうる
ことのできる基盤をもつことになる。



多くの 自己非難、自己蔑視は
とりわけ現代という時代特有の問題から生じてきている。

exlink.gifカルビンの軽蔑的な自己意識に対する感覚は次の事実と密接に関係している。。
すなわち、
発展した近代産業のさなかに立って、
各人は非常な無意味感を覚えている、という事実である。

二十世紀の自己軽蔑的傾向は、(*旧来の)
exlink.gifカルビニズムのみならず
空虚感という現代病にも起因するものである。

かくて、
今日みられる自己軽蔑的態度の強化は、
長いヘブライ・キリスト教的伝統からでてくるものではない。

exlink.gifキルケゴールはこのことを強力に表明している。

  それゆえ、もしその人が正しい方法で、
  自己自身を愛することをキリスト教から学ぼうとしないなら、
  その人は自分の隣人を愛しえない。

  …正しいやり方で自分自身を愛することと、
  隣人を愛することは 絶対類似の概念であって、
  ほんらい底辺を同じくするひとつのもの、同一のものである。
  …それが、「あなたがあなた自身のごとく隣人を愛し得るとき、はじめて
  隣人を愛するごとく、あなた自身を愛し得よう」という法則である。





 
 
 
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       自己認識は内向ではない(1)



上で述べたもう一つの反論(*「自己認識は人を内省的にしすぎるのではないか」という反論)
は、次のような質問の形で読者の心に浮かんでくるかもしれない。
  われわれは、自分自身を忘れようとつとめてはならないのか。
 
  自己を意識するというとき 
  それは、はにかんでいるとか、行動を阻止されているとか、
  社会的禁止に遭遇しているとう意味での自己意識ということにはならないか。

  

こうした質問の中には、あきらかに、かの有名な
ムカデのたとえが当てはまるのではなかろうか。

 すなわち、このムカデは、
 どちらの足のあとにどの足がくるのか、をあまりに考えすぎるとかえって動きがとれず
 みぞにはまりこんでばたばた狂気のようにもがくのみで ひどい目にあっている。 
 
このムカデの話は、あきらかに
「自分のいまやっていることをあまりに意識しすぎると、
 自分の身にどんなことが起こってくるかを考えてみよ」 と教えている。



これら反論に答える前に、まず指摘しておかねばならないことは、
アメリカでは、自己意識が 悪い意味で 反省過剰や、内気、行き詰まり、と同じに解される傾向にあって、
いかにも残念なことである。
もちろん、
この世に生をうけた人間は、人のあるべき状態として希望する究極のものは、
自己意識の状態である。しかし、ことばは応々にして人をあざむきやすい

この点に関してはドイツ語のほうがはるかに正確である。
自己意識にあたるドイツ語(selbst-bewusstseins)は、同時に、
そのことばの当然の帰結として、自己確信(self-confident)の意味を持っているからである。


ここで述べようとしていることが、
臆病、行き詰まり、病的な自己意識過剰とはまさに正反対のものであるということは、
例をあげてみるとはっきりするであろう。


 一人の青年が精神療法を求めてきた。
 かれは知的にはきわめて有能で、表面的にはたいへんうまくいってるようにみえるのに
 その自発性はほとんど完全に阻止されていた。
 かれはどうも他人を愛することができず、
 人とのまじわりによって得られるほんとうのよろこびを味わっていない。
 こうした問題のほかに、強い不安と周期的な抑うつ状態がみられた。


自己の外側にたって、自分自身をながめ、
さいごに自己-関与が極度に苦痛になるまで、決して自己を解放しない
というのがかれの生活の中で習慣化していた。


 音楽に耳を傾けながらでも、 
 どれほどよく自分が聞き入っているかという態度のほうが気になり、
 実際は、音楽が聴けなくなってしまう。

 恋愛についても、
 まるでかれは外側に立って自分自身を観察し、
 あたかも、「いかに自分は愛しつつあるのか」と自問しているように見える。


想像してみるに、こういうことが、かれの生き方を全面的に阻止している。
かれはそこで、精神療法を受けることになり、
自分自身の中で現になにが進行しているかを もっとよく認識しなくてはならないこと に気づき、
さらに、「自己意識」を高めることがこわくなり
したがって彼のかかえている問題はさらに悪化しそうにみえた。


 かれは一人っ子で、
 不安な両親の育て方には、保護過剰の傾向がみられる。
 たとえば、両親は息子を一人でおいたままにすることの躊躇から、
 全然夜の外出ができなかった。
 
 両親は息子の扱い方について、
 表面的には「自由」で、「合理的」のようであったけれども、
 かれは幼児期を通して、一度も両親に逆らって口答えをしたような覚えはないという。
 
 両親はよく学校の成績を親戚の者に自慢していた。
 しかし、両親は息子に対する実際の褒めことばを、
 直接本人に伝えるようなことはしなかった、



このように、幼児期において、
すでに、自立可能性に対する感覚や価値観を発達させることができず、
その代わりにすくなくとも間接的に、学校で受賞することによって、
ほめられたいという過度の関心を満足させていた。


 その上、
 かれは 十代の初めをヒットラー治下のドイツで過ごした。
 当時のドイツにあって、かれはたえず、お前はユダヤ人であって、
 無価値な奴だという、しつらえられた宣伝にたえずさらされていた。

 このように、彼は自分の外に立って、
 たえず自分自身を一個の大人として眺める習慣ができており、
 これが彼に新聞の切り抜きをやらせ、自己を判断し、測定させ、
 さらにナチは正しくないということを自らに立証し、
 両親から人間としての自分をほんとうに確認してもらおうとしているようであった。

 

たしかにこのケースの説明は簡単すぎる。

ただここで述べたいことは、
この人間の病的な自己意識および自発的かつ心から打ち込めないということは
正確には、自己意識の欠除、さらにくわしくいうと 
自分が行為しつつある自己(I)である という体験の欠除と結びついている。ということだ。


単に 自分自身の観察者になること や
自らの自己意識を 客体として扱うことは、
自ら、自分自身に対して異邦人になってしまうこと である





 
 
 
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       自己意識は内向ではない(2)


あのムカデの例は、
一般的にいって、 
自己認識の拡大 という困難な過程
突破しようする人の用いる一種の合理化である


たとえば、
自動車の運転方法、あるいは
運転する場の交通事情について、
知ることがすくなければ少ないほど、いっそう緊張も高まるし
それだけまた、自分自身にしがみついてかたくなる。

しかし他方
運転士としての経験も豊かで、
交通問題や危急のさいの対処方法についても詳しければ詳しいほど
それだけ自分の力を確信して、
ゆったりハンドルを握ることができる。

しかも運転しているのは自分だ、観察しているのも自分だという認識も湧いてくる。



自己を意識するということは、実際、
自己のあらゆる生活場面にわたって、コントロールのわくを拡げ、
その力の拡充とともに、自己解放の力もわいてくる


これは、みかけは、パラドックスであるが
その背後には真理の存在することを示している。

すなわち、
自己意識が強まれば強まるほど、
人は同時にますます自発的になり、創造的になり得る とういことである。


たしかに
子どもっぽい自己意識、幼児的自己意識を忘れてしまえ、という忠告は
結構な忠告である。
しかし この忠告はほとんど役に立たない。

なお、次章でのべるように、ある意味で、
人は創造活動に没頭するとき、自らの自己意識を忘れることがある
というのも正しい。

しかしまず、第一にわれわれの考えるべきは
自己意識をいかにして達成するかという難問である。





 
 
 
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       自己の体験と感情体験 (1)



自己意識の達成にあたって、
たいていの人は、始めにたちかえってなおし、
自己の感情の再発見をしなければならない。

驚いたことに、
いかに多くの人が、自分の感じとっているものについて
いかに 一般的な知り方 をしている
かということである。

多くの人は、「中国は東洋にある」 というような平板な言い方で、
漠然と「すばらしい」とか「きたない」とかいう感情表現を行っている。

自分と 自分がほんとに感じとっているもの との結びつきは、
まるで
長距離電話ごしに話しているように遠く感じられる。


彼らは直接、感じとっているのではなく、
ただ自分の感情についての 観念を述べているに過ぎない。
すなわち
多くの人は、自分のほんとうの気持ちによって感動しているのではない。
いいかえれば、彼らの情動が
彼らをすこしも動かしていないということである。


こうした自己の感情が体験されないような精神療法にあっては
来る日も来る日も、
はたしていま自分が感じているものが ほんものかどうか 
という問いに答えることによって、感情教育を受けてゆかねばならない。
なにより大切なことは
どれだけ多く感じているかということではない。

われわれは、
昂奮すること
(effervesce)が必要だといっているのではない。
それは感情
(sentiment)というよりむしろ
情的動揺
(sentimentality)ともいうべきものであり、
またそれは、
大げさな感情的身振り
(effection)であって感情(effect)とはいえない。

むしろ重要なことは、
その感情体験を行っている当事者は
ほかならぬこの「主我」(I)であり、
感情的自己であるという体験 であり、
能動的自己であるという体験である。

その体験には、
感じの直接性(directness) と 即時性(immediacy)を伴う。
われわれは、そうした感情を
自己の全レベルをあげて受けとる。 

われわれの感じ方は生き生きとしていて、みずみずしい。

そのとき、自分の感情は招集ラッパのようにせまいものではなく
成熟した人間は、交響曲のさまざまな楽曲を聞きわけるように、
強く、激情的な体験、あるいはデリケートで繊細な体験など
多くのニュアンスを分けて聴きとることができる。


ここからまた、われわれは
自己の 身体認知の感覚 を回復する必要のあることを知る。


 
 
 
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       自己の体験と感情体験 (2)


幼児は自己の身体を認知することによって、
個人の同一性感覚の一部を得ている。

幼児によって経験される身体感覚を、
自己認識の最初の核と呼ぶことができる
。」
と、ガードナー・マーフィー*が述べている。


*訳注 ガードナー・マーフィー(1895~1979 )現代アメリカの心理学者。
 ニューヨークのシティカレッジの教授。社会心理学その他の研究がある。
 その「パーソナリティ」は邦訳されている(誠信書房)*絶版。*ほかにexlink.gif「社会的動機づけ」/絶版




赤ん坊はくりかえし、くりかえし自分の足をのばすという運動を行う。
そして遅かれ早かれ、
ここにこの足がある。自分はそれに触れて、
それが自分に所属するものであることを感知できる。という体験

が生まれる。


性的感覚はとくに重要である。

というのは子どもが直接自分自身に関連づけられる
もっとも早く芽生える感情のひとつだからである。
性感帯が遊びや、衣服によって刺激されるとき、
自己意識感のまったく初の出現をみる。

残念なことに性的感情やトイレット経験と結びつく性的感覚は、
われわれの社会では古くから、強く禁止されてきている。
子どもはこうした感覚は「みだらなもの」と教えられてきた。
こうした感覚は自分を自分と認知する一方法である。

したがって、このタブーは、はっきりと、
お前のもっているお前自身についてのイメージは不潔だ
という意味をもつ。

これはいうまでもなく、現代社会にみられる自己軽蔑的傾向のうまれる
重要な一因
である。


自分の身体を認知できるということは、
全生涯を通してきわめて重要な意味をもっている。

おかしな事実だが、大部分の大人は、
身体認知を失ってしまい
、たとえほかから尋ねられても、
自分の足、くるぶし、中指、あるいはそのほか、いずれの身体部位についても
それをいかに感じとっているかをほかに伝えることばをもたない。

今日、
身体部位をはっきり認知できる人は、
おおそ初期分裂病の疑われる人か、ほかにはヨガないしそのほかの
東洋的訓練の影響下にある特殊な人に限られている。

たいていの人が、自らの行為の原則としているものは
手足がどのように感じようと、それはかまわない。
 自分は仕事にでかけなければならない
」 
という態度である。

人間の身体を、近代産業主義の目的に沿って
生なき機械に化してしまうとう状態が
数世紀も続いた結果として、
人々は身体にする、何ら注意を向けないことをもって
誇りとしてきた。


人々は身体をまるで、ガソリンが切れるまで運転可能なトラックのように
操作の一対象として扱っている



 
 
 
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       自己の身体体験と感情体験(3)



今日の人が身体に払う唯一の関心は、、
毎週、親戚の家へ、元気かとたずねておざなりに電話する程度の思いやりの態度であって、
しかも、実際、本気でその返事を求めているような気配はない



もし比喩的な表現が許されるなら、
そのとき、やってくるのが 自然 である。
自然はあたかも、「いつお前はお前の身体のいうことに耳を傾けるようになるのだ」
と問いかけるかのように、
風邪、流感、あるいはもっとひどい病気で人間を打ちのめすのである。

身体に対する被人間的な、疎外された態度は、
ひとたび病気になるやいなや、
その病気に対する反応のしかたに如実に示される。

 人々は、 「私は病気にかかった」 とう受動態で表現し、
 「車にぶつけられた」といういい方とちょうど同じに
 自分の身体を一対象として扱っている。

 次に人のやることは、ここですっかりお手上げしてしまい、
 床につき、医師の手当てや、新しい奇跡の期待できる医薬品に
 すっかり身をゆだねることで、自分の責任は終わったとみてしまう。



このように、たいていの人は、
科学的進歩というものを、受動的な身の処し方の理由づけにする


人々は、細菌とかビールスあるいはアレルギーが
どのようにわれわれの身体を襲ってくるかを知っている。
一方、
ペニシリンや硫黄ないしそのほかの薬品がまた
いかにそれらを治すものかも承知している


病気に対するこうした態度は、
自己の肉体を自己の一部として体験する自己意識にめざめた人間の
とる態度ではない。


それはたとえば、「肺炎球菌が私を病気にした。しかしペニシリンが私を治した。」
ということばにみられるように、受動的な態度しかとれない。
パーソナリティの区分化してしまった人間(compartmetalized person)
の態度である。


 たしかに科学のあたえてくれるすべての援助を利用することは
 ごくあたりまえのことである



しかし、だからといって、
自己の肉体に対する
自己の主権を放棄してしまう理由は何もない。
われわれが
自らの自律性を放棄するとき、
われわれは
あるゆる精神身体的病気に自己をさらすことになる。


ゆがんだ歩きぶり、不完全な姿勢 あるいは不完全な呼吸
にはじまる多くの身体機能の障害は、次のような事実によっている。

すなわち、
そういう人々の生活全てが
あたかも機械仕掛けのもののようなぎこちない動きをしており、
自分の足なり、そのほかの肉体の活動に
何の感情をも体験していない
という事実からきている。

たとえば、
ある人の足の機能不全を治療するには、
まず当人が歩くときそこに何が起こっているかを、
再び十分感じとれるようになることが
しばしば必要とされている。

心身症や、結核のような慢性病の克服にあたっては
いつ働き、いつ休むかを決めるため、
「身体の訴えに耳を傾ける」ようになることが
先決問題である。



自分の身体の語りかけ
に聞き入る耳をもった鋭敏な人間に、
生きるためのいかに多くのヒントや、導きや、直観がわていくるかは
まさに驚くべき事である。


自分の身体を通してくるいろんな反応調和してゆくことは、
自己の回りの世界や、
人々との情緒的関係の中にある自己の感情と調子を合わせてゆくことと同様、
周期的に破綻をきたすこともない健康へ向かう道である
といえる。



 
 
 
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       自己の身体体験と感情体験(4)


  われわれは、
  身体を仕事のための道具として用いること によって
  身体を自己から分離してしまうだけでなく、
  同じく われわれは、
  快楽の追求という面においても、
  自己から肉体の分離を行っている。


身体は、
なによりも感覚を運ぶものであって、その扱い方次第で、
あたかもテレビを調整するときのように、そこからわれわれは
いくつかの消化器官の快感や性的感覚を 得ることができる。

このセックスへの態度だけが
ほかから孤立しているという状況は、
すべて前章で述べたように身体をそれ以外の自己から分離させてしまう傾向
と無縁ではない。



exlink.gifキンゼイ報告の語る
性の相手とはまさに「性的対象」(オブジェクト)であって、
ここから多くの人は、自分はこれこれの人との性的な関係を望み
かつ「自分はこの人を選ぶ」という表現よりむしろ、
「自分の性的欲求はなんらかのハケ口を必要としている」
という考え方の中にある。


性行為を、
自己構成のほかの部分から分離してしまうというこの傾向は、
周知のように、一面ではピューリタンの態度の中にみられるものである。

しかしピューリタン主義とは反対の立場にある自由思想(libertinism)も、
性の自己からの分離という
同じあやまちを犯しているということは、一般にそれほど知られていない。



ここで、
肉体を 自己意識との結合状態につれもどすこと 
をすすめたい。
これは、すでに述べたように、
自己の 肉体の積極的な認知 を回復する
ということを意味する。


それはまた、自分の身体を 
行為自己(acting self)の側面として体験すること でもある。
すなわち
食事や休息のよろこび、
調和ある筋肉活動からくる爽快感、
あるいは性的欲求や性的情熱の満足
 などがあげられる。

これはいわば
「私の身体が感じとる」 ではなくて、
「私そのものが感じとる」 といった態度である。



性を自己認識のほかの部分から分けることは、
喉頭だけを孤立させて、
「友だちと話したがっている私の声帯」と言うような表現と同じく
おかしなことである。



 
 
 
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       自己の身体体験と感情体験(5)


  さらにわれわれは、自己を
  身体的健康という絵画の中にすえることを提案する。


病気になるのも、健康になるのも、
この「自分」をおいてほかにない。
病気をいう場合、受動態よりも
むしろ能動態でいうことを主張したい。

幸いにも
すくなくともここにあげる一つの病気については、
よくなる過程をいうのに、なお能動態の動詞を用いている。
すなわち、
結核患者は、しかじかのサナトリュームで自分は治った(I cured)という。

その病気が身体的なものであれ、心理的なものであれ、
病気というものは身体(あるいはパーソナリティないし心)に
たまたま生じた偶然の出来事ではなくて、
全人間(whole person)を再教育しようとする自然の智慧
と解すべきである。


病気を再教育として用いた例は
ある結核患者が友人に与えた手紙の中にうかがえる。

  「私が病気になったのは、単に私の過労によるものでもなく、
   また結核菌にたまたまぶちあたったからでもない。
   それは、自分がいままでの自分とは違う何かになろうとしたためです


   私は“大いに外向性を発揮し”、ここかしこを駆けずり回り、
   一度に三つの仕事をし、
   瞑想とか読書、思索に時間を割かず、

   またフルスピードで突進したり、働きまくるよりもむしろ
   “わが魂を呼び戻す”ような自己の側面を発達させることもなく、
    また,それを活用することもないままにしてきたためです。

   
   私の病気は、
   失われている自己の 内なる機能の再発見 を求める声であるとともに
   そのチャンスでもありました。

   その病気は、あたかも次のように語りかけているようでした。

   『お前はお前の全自己にならなければならない。
    それができないから、お前は病気になるのだ。
    そしてほんとうの自分になりえたときだけ、お前の病気は恢復する』



さらにつけくわえるなら,
自分の病気を再教育の機会とみている人間は、
心理的身体的にますます健康になり、大病のあと、かえって以前より、
さらにいっそう人間として充実したパーソナリティを獲得できる。

これは実際の臨床的事実である。



 
 
 
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       自己の身体体験と感情体験(6)


こうした病気のおよび健康の体験様式は、
 現代人を常に苦しめてきた心身間の二分法克服への道を開いてくれる


自己という見通しに立って、さまざまな病気を見るとき、
身体的、心理的、精神的といったそれぞれの病気が、
(この場合、精神的というのは、人生における絶望、無意味感をさす)
その世界内にあって自己の発見に難渋している同一状況の
色々な相を示すものであることがわかる。


たとえば、よく知られていることであるが、
いろんな病気が、その当人に対し、相互に交換可能な種々の目的に役立ちうる。
身体病は、
「浮遊している」不安にある焦点を与えることによって、
心理的な悩みを救うことができる

そのとき、当人は悩むべき具体物を把握する。

そして、身体病は
漠然と「浮遊する」不安よりもはるかに苦痛の少ない、
しのぎやすいしろものである。
また
身体病は、立派に責任を果たせるようになっていない人に、
責任回避の言い訳をあたえることができ、
ここでも心的苦痛が救われる。


このように、多くの人は、流感や大病の期間、
たとえその方法が建設的なものでないにしても、
それによって自己の罪責感を「まぬがれて」きた。

このように、それは是非そうあってもらいたい最終目標にしても、
人々の不安や空虚感、生の無目的性の克服を援助することなく
科学的進歩の方が、ジフテリア、結核、そのほかの病気を除去してしまうのであれば、
病いはどうしても
新しい吐け口をほかに求めることになる


これは乱暴な言い方のようにみえるかもしれないが、原則的に私はこのことを認める。


区分化された方法で病気に応戦することは、
七つの頭をもつヒドラに向かうヘラクレスのようなものである。
一頭を切り落とすごとに、さらに新しい一頭が生え出てくる。

健康への戦いは、
自己認識の統合という
より深い次元で戦いとられねばならない。


細菌とかバチルス(桿(かん)菌)
そのほか体内に侵入してくる外的有機物を殺す手段の発見以上に、
もはや病気になる必要がなくなるまでに
自己存在の確立を助けうる手段ができるようになってはじめて、
健康面での永遠の進歩がみられるものと思う。


この点を強調するからといって、
新しい医学的発見のもつ偉大なる価値を
過小評価するものではない。



 
 
 
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       自己の身体体験と感情体験(7)



   自己の感情を認識することは、
 自分がいま何を
欲しているのかを知る といった
   第二段階への基礎固めになる。


これは一見しただけでは、きわめて簡単そうにみえる。

自分の欲しているものがわからないような人間がどこにいようか、と。
しかし、
第一章で述べておいたように、
驚くべき事は、実際には、ほとんどの人がなんとそれを知っていないか
ということである。

人が素直に自分自身をふりかえってみるなら、
自分の欲っしているものだと思っている内容の大部分が、
-土曜に魚を食べたいといったふうの、ありきたりのものであるのに気づく。


自分の欲しているところのものは、
仕事上の成功のように、自然自分が欲しくなければならない
と考えているところのものであったり
隣人への愛のように、
そう欲することを欲しているようなものである。


われわれは、子どもたちが
自己の欲求をいつわるように教え込まれる以前には、
子どもたちの中に、直接の自然な欲求の表現をしばしば
はっきり読みとることができる。

子どもはいう。
「ボクはアイスクリームが好きだ
「ボクは三角袋(アイスクリームの入った)が欲しい
と主張する。

この場合、
だれが何を欲しているかという主体についての混乱はない


欲求のかかる直接性は、しばしば、陰気な場所にあって、
新鮮な空気を吸いたいという欲求のように出てくる。

子どもが三角袋を手にすることが、その場合一番よいことかどうかわからない。

もし子どもが自分で決断できるほどに十分成長していないなら
イエス・ノーをいうのはあきらかに両親の責任である。

しかし、
自分は三角袋を欲しくないんだ というようなことを、
子どもに説得することによって、
子どものほんとうの気持ちをいつわるよう、親に教えさせてはならない。


 自分の感情や願望を認識するということは、
ところかまわずどこででも、
無差別に、その感情や願望を表現してしまうということではない。

あとで述べるように
判断とか決定がくだされるということは、自己意識の成熟したしるしである。

しかしまず、
現在自分の欲しているものが何であるかわからないで、
将来自分が何を望むようになるか、ならないかの判断基準を
どうして把握できようか



  ある青年が、市電の中で、向かい側に座っている異性に対し、
  あるいは自分の母親に対し、色情的な衝動を抱いたと気づくことは
  そのまま、かれが、
  この衝動のままに行動することではない。
 
しかし、そうした衝動は社会的に受け容れられない。
したがって、かれは、おそらくこれを意識の領域にいれることは決してない。
  
何年か後、結婚して、妻と性的関係をもつとき
かれは、自分がこのことをほんとに欲しているからなのか、
それとも、これが社会的に認められているなり、期待されている行為、
いわば、当然なすべきことであるからか、
  
それをどのようにして彼は、知るのか。



 
 
 
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Post時間:2011-11-06 15:01:52
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       自己の身体体験と感情体験(8)


 自分の感情や欲望を再発見すること と並んで
 第三にやることは、
 自分自身の潜在意識との連関を回復することである。


現代人は
自分の肉体に対する主権を断念 しただけでなく、
自己の パーソナリティの無意識的側面 をも引き渡してしまった。
そして
無意識的側面は自己にとって疎遠なものになってしまった。

いままでみてきたように
人間経験のなかの、非合理的、主観的、無意識的な側面 への抑圧は、
産業社会ににおける、きまった、合理的な仕事を強調する現代人への要求
と平行して進んできた。

ところで
われわれに必要なのは、
できるかぎり抑圧されたものを発見し、それを進んで受けいれることである。

あらゆる時代を通して、
人間は、自分の夢を、たとえば智慧、導き、洞察の泉とみてきた。
しかし今日、多くの現代人は、
夢を、チベットの不思議な儀礼舞踏のように
自分には無縁な、おかしな物語くらいにしか考えていない
それは
自己意識のきわめて重要で、主要な部分を切り離してしまうことになる。
これでは、無意識のもつ豊かな智慧、力を活用できなくなってしまう。



無意識の内にある様々な傾向や直観は
普遍的認識からしめだされてはいるけれども、
それもまた自己自身の一部であり、
さまざまな度合いで 意識化 されるものである。

その王国内の
その部分に主権を回復することが、早ければ早いほど、それだけよい。


くわしく夢解釈の問題に立ち入ることは、本章の話題からそれることになる。
もちろん、夢の理解は、微妙で、複雑な問題である。
しかし、
多くの現代的な夢の解釈によって
難解なシンボルを読みとることは、
考えられているほど複雑ではない。

(*ただし、)こうした秘密のシンボルは
問題の全体を再び、外国語のようなものに置き換えてしまっている。
exlink.gifE・フロム博士は、「忘れられた言葉」の中で、
神話やおとぎ話と同じように、夢はぜんぜん外国語のようなものではなく、
実際は、全人類が共有する普遍的言語の一部である、と述べている。
(下意識下の「祖国語」についての再学習は、それらの本を参考にしてもらいたい)

本章で、ただ前もって求めたいのは、
夢とか、そのほかわれわれ自身の下意識的、無意識的側面が表現されたもの
に対する共感的な態度である。


夢は
葛藤や抑圧された欲望の表現であるだけではなく、
おそらく何年も前に覚えたが忘れてしまったと思っている以前の記憶が表現されたものとして、
拒否されるべきものでないとの態度をとるならば、
時に、自分の夢から有用な導きが得られるかもしれない。


そして夢の中で、
自分が自分自身に向かって語っている内容を
理解することに熟練している人は
その夢から、
ときどき自分の問題解決に対して
おどろくべき価値あるヒントや洞察を得ることができる。




 
 
 
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Post時間:2011-11-06 17:44:28
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       自己の身体体験と感情体験(9)



 本章の結論は、
 人が自己を認識すればするほど、それだけいっそう 生き生きしてくる
 ということである。



人間になるということは、
(becomining person)
認識の高揚を意味し、
自己たること(I-ness)の高められた体験を意味し、
生起しつつあることの主体は自分、行為する自分である という体験を意味する。

人間になるということが何を意味するか についてのこの見解によって
ふたつの誤りをまぬかれることができる。


第一に、[受動性]になることの誤りである。
すなわち、体験中の決定的な力に押されて
自己認識をおろそかにすることである。

(原注:[受動性](passivsm):私はこのことぱを被建設的な(神経症的な)受動形態を
                   あらわすように用いている。しかしこうした状態では、
                   自己意識はなお認知の中心に位置している。
                   リラックスしており、あるいは夢想しているのは’自己=I'である。)
  
旧式の精神分析の内のいくつかの傾向は、
この受動性を合理化するのに役だっている。
すべての人があらゆる種類の無意識的恐怖、欲望、傾向に
どれほど強く動かされているか、
また人間は、軽率にも信じられているような「権力意志」の19世紀人よりも
自分自身の心という家庭内では主人になりきっていないということ、

これらのことを示してくれたのは、フロイドの画期的な発見であった。

しかし、この無意識的な力のもつ決定的な意味を強調するとき、
有害な意味内容も、同時に持ち込まれた。
フロイド自身も、幾分その 決定論 に圧倒されていたといえる


たとえば、初期の精神分析家グロデックは
(訳注:ゲオルグ・グロテック :フロイド門下。
                            医学校を出たが文士肌の心理家であるので
                            分析的著述家に転向。分析用語「エス」は彼の
                            著"Das Buch von Es"に由来する)

われわれは、われわれの無意識によって生かされている
 と書いている。

またフロイドは手紙の中で、
グロデックが「自我の受動性」を強調しているのを讃めている。


しかし部分的誤解を訂正するため、われわれの強調すべきことは
無意識的な力についてのフロイドの探求のもつ全体的な目的は
人々がこれらの力を 意識内にもちこめるよう援助することである。

フロイドが繰り返し述べているように、精神分析の目的は、
無意識なものを意識にのぼらせることであり、
いわば認識領域の拡大であり、
船の甲板下で力を手に入れた反抗的な水夫たちのように自己を押しまくる
無意識的傾向を認識させることであり、
人が自分自身の船の針路を意識的に方向づける助けとなることである。


したがって本章で、
高次の自己認識を強調し、受動性に対する警告を発したことは、
フロイドの思想のもつ全体的な目的と大いに共通なものがある。





(*グロテック:邦訳のフロイド「自我とエス」の原注にも
 フロイド自身が「エス」という用語はグロテックの著作から取ったと明言している箇所があり、
 グロテックの“エス”という言葉はニーチェから採ったのであろうと推測している)

                 
 
 
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Post時間:2011-11-06 18:53:58
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       自己の身体体験と感情体験(10) last


 こうした人間観(*前節)によってもうひとつの誤解がさけられる。
 それは行動主義(activism)ということである。

これは自己認識の代わりに
行動性をもってくるやり方である。

行動性ということを、ここでは
この国できわめてありふれた考え、すなわち
行動的であればあるほど、人はそれだけ生きている実感をもつのだ
という傾向
 を指す。





はっきりさせておかねばならないことは、
本書で「行動的自己」ということばを用いるとき
それは多忙とか、何かをやっている
ということを意味するのではない。



多くの人が
不安をカバーする一つの方法として、
いつも忙くしているのである


彼らが行動的であるのは、自分自身から逃げ出すためである。
彼らは、
ただ急いでいるということだけで、
偽りの、一時的な生きがいを感じとっているのである。

それは
あたかも、ただ身体を動かしてさえいれば、何かが進行しているように思ったり、
また忙しいということが 自己の重要性を証明するものであるかのようにとっている。

exlink.gifカンタベリー物語の商人にみられるこのタイプについてexlink.gifチョーサー
「思うに彼は、自分が実際にそうであった以上に忙しいと思ったのだ」
と茶目っ気な鋭い批評をしている。



自己認識の強調には、たしかに
生きた、統合された自己の表現としての行動が含まれている。
しかし、
それはここでいう工藤主義とは正反対のものである。
―すなわち、
自己認識からの逃避としての行動とは正反対のものである。

きびきびと生きているということ
(Aliveness)
行動しない能力、
創造的に怠惰でありうること
 を意味する。


これは、大部分の現代人にとって、
何かやるということ以上にいっそう難しいかもしれない。

「怠けているためには
 強力な人格の自己同一性感覚を 必要とする」
(To be idle requires a strong sense of personal identity)

exlink.gifロバート・ルイ・スティーブンソン
(*『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などの作者)は急所をついて述べている。



自発性
(spontaneity)とは、
能動的な「自己」が、その形態(全体場面)の一部となることであり、
行動的「自己」(I)が、
与えられた瞬間に、特定の環境に対し応答することである。
自発的感情の一部である 独自性、固有性 は常にこうした見方から理解される。



ここでわれわれが提唱してきた自己-認識、
もっと静かな生き生きさ を思い浮かべてもらいたい。
西欧世界では、
危険なまでに、ほとんど失われてしまった黙想とか瞑想の方法である。

それは単に何かをすることよりも、
むしろ何かであることを新たに見直すものである。


自分の自己意識に対しこうした関係をもつとき、
たいへん働き者で、生産者であるわれわれ現代人にとって、
労働というものは、

自分自身からの逃避とか、自分の値打ちを証明しようとする方法ではなくて
外界、および仲間に対する自分の関係を 意識的に確認してきた人間のもつ
自発力の創造的な表現である。







    (第三章 了)
 
 
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最終更新:2015年05月15日 15:54