第2部 第4章 存在への闘い 「母親」「依存性」に対する闘い

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kusamura(叢)フォーラム

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                  第4章 存在への闘い

  
  自己認識への道は、変化に富んだ、困難や葛藤の峰々や
  絶望の打ち続く道ではなかろうか。



事実、ここで、人間になるということの
いっそうダイナミックな側面をみてみよう。


たいていの人にとって、とくに
自分自身の力で人間になろうとする彼らを阻止した幼児体験
を克服しようとする成人にとっては、
自己の意識化を成就すると、闘争と葛藤が出てくる。

彼・彼女らは次のことに気づく。

すなわち、
人間になるためには、
感じ方、経験のし方、欲求のあり方を学ぶだけではなく、
自ら率直にものを感じ、
欲することを阻むものに対し、たたかうことを学ぶことが 必要である。

彼・彼女らは、自分を抑制する鎖のあることに気がつく。

これらの鎖は、本質的には
彼・彼女らを両親(*あるいは重要な他者)に結びつけるきづなであり、
とくに現代社会では、それは母親への結びつきである。



   

人間の発達は
集団から個人としての自由への、
連続的な分化の過程である。


潜在力のある人間は、もともと胎児として母親と一体の存在であった。


胎児は 
子宮内で母親ないし赤ん坊側からの何の選択もなしに、
へその緒を通して、自動的に養われる。


胎児が生まれでて、
身体的なへその緒が断ち切られるとき、
胎児は身体的個体となり、

その後、
養育には 相方の側のなんらかの意識的選択 が含まれている。

母親は、イエス・ノーを言うことができる。
しかし
幼児はまだほとんど母親に依存している。


彼・彼女が、個体になるのは、
無限に続く段階を通してである。

―責任と自由の萌芽をともなう 自己の意識化、
―学齢期の親の膝下からの解放、
―思春期の性的個体への成熟、
―大学生として外界へ出るためのたたかい、
―職業選択、
―結婚にともなう新家族への責任 など。


全生涯にわたって、
人間はその全体からの連続的な分化過程を、一歩一歩、
新しい統合へ向かって進んでゆく。


事実、すべての進化過程を、全体からの分化過程とみることができる。


それは、また
集団から個人の分化であり、しかもその各部分は、
より高い次元で、相互に連関し合っているのである。

人間は、石や化学的混合物と対照的に、
彼の個的人格をただ意識的に、責任をもって選択することによってのみ充実することができる。
したがって、人間は身体的個体だけではなく、心理的、倫理的個体とならなければならない。

厳密にいって、
子宮から生まれ、集団から切り離されて自由になり、依存的態度が選択行為に変わる過程は、
人生のあらゆる決断場面で反復され、
死の床においてすら、人間の直面する課題である。



このように、人間すべての生涯が、
分化という一つの図表によって表現できる。


どこまで、自動的依存状態から自由になれたか、
との程度、独立の個体になれたか、
そしてどのくらい、自己選択の愛情、責任、創造的仕事といった新しいレベルに立って、
他者と交わることができるだろうか。



次に、
個人の集団からの分化に際して体験される心的闘争について
考えてみよう。




 
 
 
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        心理的なへその緒の切断 (1)


  誕生によってへその緒が切断されるとき、
  赤ん坊は 身体的には個体になる。

しかし
心理的なへその緒がしかるべきときに切断されないうちは
両親の家の前庭にある杭にくくりつけられている
ヨチヨチ歩きの子どもと同じである。
 そのロープの長さ以上には遠くへ行けない


彼・彼女の発達は阻止され、
屈服した成長への自由は、内側に向かい、怨恨・怒りとなってうづきだす。

こういう人間は ヨチヨチ歩きのロープの範囲内では
かなりうまくやっているように見えるかもしれないが、
結婚に直面したり、仕事についたり、最後に死に直面したりすると、
混乱してしまう。

危機に直面するといつでも、比喩的にせよ、文字通りにせよ、
「母親のもとへかえってゆく」傾向にある。


  ある若い夫はそれを次のように表現している。
 「自分はあまりにも母親を愛しているため、妻を十分愛せない。」

彼の間違いは、母親への関係を「愛」ということばでよんでいることである。
ほんとうの愛は、
拡張的なものであって、決して他者を愛することを拒まない。

すなわち排他的で、妻を愛することを拒んでいるのは、母親への結びつきである。
今日、この 鎖でつながれたままの傾向はとくに強い。


個人に対し、一貫して最小限の支えを与える 
という意味で、
社会はもはや「母親」の役を果たせなくなるほど、分裂してしまっている。

彼・彼女は 幼児期の身体的親へ
もっと緊密にしがみつこうとするからである。


実際のケースによって、これらの結びつきがどのようなものであるかを
より具体的に理解できる。
さらに、それらの 結びつきを断ち切ることがいかに難しいかもわかる。


 
 
 
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    心理的なへその緒の切断 (2)


事実、そのケースの特異な面は、母親の行為が
多くのケースにみられるように微妙でもなく、偽装もされていないことである。


   才能のある三十才になる男が 同性愛的感情に悩んでいた。
   彼には婦人に対し何ら積極的な感情がわかず、同時に
   婦人に対し、ひどい恐怖感をもっていた。


   彼はだれとも親密になることを避けた。
   そしてまた、
   大学院のドクター論文の完成を前に、
   どうしても完成できなかった


   ほんの子どもであった頃の彼は、弱々しく
   母親の尻に引かれている父親に対し、軽蔑感を抱くようになった。
   母親はしばしば子どもの面前で、父親をさげすむことがあった。

   彼は、かつて 議論の中で母親が父親に向かって、
   「お前さんなんか、生きているより死んだ方がましだ。
    だけどお前さんは臆病で、自殺もできないんでしょう」
   と言っているのを立ち聞きした。

   
   彼は登校のときも母親によってていねいに服を着せられており、
   喧嘩もできず、
   息子を乱暴者から護る必要があるときには、母親がよく学校へ出かけた。

   
彼女(母親)はとうとうその息子に親しくうちあけた。
どれほどひどく彼女が父親のことで苦悩したかを話した。
母親は息子に、彼のきらいなトイレの躾けをよく守ってくれるようもとめた。


   大学生になっても彼は、休暇で帰省すると、
   母親が夜中に二階にあがってくる足音をきいて、
   自分が服を脱いでいるときに、母親が部屋に入ってきやしないか、
   という不安のため、よく麻痺することがあった。


彼が少年のとき、母親はむしろ大っぴらに、夫以外の男性と関係をもっていた。
そしてそのことは、彼をひどくろうばいさせた。


   彼が思春期に達したとき母親は、彼が少女たちに逢うのを邪魔しようとした。
   しかし母親は、そのデートによって自分の社会的地位があがるような家族の娘と
   息子をデートさせようと努力した。


   少年のころ、彼は学校や日曜学校の練習で、
   「あなたの父母を敬いなさい」というおきてが朗唱できず、両親を大変困らせた。


   そして母親が婦人の集まりで、彼にピアノをひかせようとすると、
   以前にはどれほどよく知っていた曲にせよ、それをよく忘れてしまうのであった。


   彼は非常にできのいい少年で、学校でよい成績をとっていた。
   そして後年、軍隊では信望を得た。
   これらは、母親によって、彼女自身の威信を高める手段にされた。
    
 
    
読者は疑いもなくすでにお気づきのように、
彼の博士論文仕上げにブレーキがかかっていることと、ピアノの独奏を忘れることの間には
大いに共通のものがある。   
両者とも
彼の成功を母親が食いものにすることに対する反抗であった。

だれかが
あなたの成功を食いものにしようとするとき、それを防衛する方法は、
他人が利用できるようなことをなにも成し遂げないことである。



彼の治療中、
彼あてにやってくる母親からのたびたびの手紙には、
軽い心臓発作についての長々とした訴えや記述があり、
それといっしょに、
彼が家に帰り、母親の面倒をみてくれという露骨な要求と、
もしこれ以上彼女のことに関心を示さないなら、また発作が起きるかもしれない
ということがほのめかされていた。



 この青年の問題は、
いくつかの点で、現代社会の多くの青年にみられる典型的な問題である。

第一に彼のかかえた問題は、
感情の欠除、性的役割の混乱、潜勢力の欠除
である。
いわば、性と仕事との上に両親(*重要な他者)に悩んでいる。
    

第二の典型的な側面は、その家族パターンである。
これは、
フロイドがエディプスの原理ではじめて公式化したとき念頭にあった
父権性家族とは、大いに異なっている。
この青年の家族では、母親が支配的な人物であって、
父権は弱く、息子の目には、やや卑しむべき存在に映っている。


第三の面は、
その少年が母親のお気に入りで、いわば
女王の父君(prince consort)になっていて、父親の地位に据えられており
この偏頗な扱いは、
少年が母親をよろこばすかぎり続くということである。


 しかし王冠をいただいた頭は落ち着かなかった。
この青年はその王座についても、
何ら ほんとうの安全感や 力の充実を感じることはなかった。
というのは
彼自身の実力でそこの座をしめたのではなく、
母親のあやつり人形として、そこに据えられていただけだからである。



たしかに古典的なエディプスの場面が、この場合でてくる。
しかし重要な相違がある。

少年は去勢=権力の喪失を死ぬほどおそれている。
しかし彼を去勢するのは母親であって、父親ではない。
父親はライバルなんてとんでもないことで、母親がライバルのように見えた。


息子は同一視すべき男性的な力にみちた人物像を何ももたなかった。
したがって
成長過程にある少年にとって必要な
正当な権力経験のもとになるものが欠けていた。

この権力が欠けているかわりに、
彼はただ母親のお追従、甘やかし、そしておせっかいな世話やきを体験した。



こういう若者は、期待どおりにしばしば自分が文字どおり王子である
という夢想にひたる。
彼のナルシズムは非常に大きい。
というのは、そのナルシズムが、
自分はほとんど完全に無力だという
実際の内的感情にたいする補償の役割を果たしていた。


彼はなにかを成し遂げないことや、
ときどきことばの上でのいさかいによって
母親に対し、ほんのわずか反抗できただけある。
しかしこれは
主人に対する奴隷の受動的な反抗にすぎなかった。

この男性が婦人を死ぬほどおそれているということは少しも不思議ではない。
また、仕事面、愛情面、他者とのなんらかの親密な関係をもつという点で、前進できないほど
ひどい内的葛藤にとらわれていることも驚くに当たらない。




かかる病的なからみ合いから脱する道は何だろうか。


もちろん、こどもは、できるだけ自分を縮小して、
食いものにされることから身を守ることによって、
一時的に逃れる道を知っている。


そして残虐な運命の仕打ちを避けようとする。

弱々しい、アルコール中毒の父親と
支配的な殉教者タイプの母親とのあいだにはさまれて苦しんだ少年時代を回想して
彼が若い頃、自分自身をどう見ていたか、彼がそれを詩の形で表現している。


    お前はそこに テーブルの側に立っている 
    まだおもちゃの熊にしがみついている  
    人に見られないよう
    身をちぢめてしまう

    やっとおまえは ひとりぼっちになって  
    人に見つからないよう 人の欲しがらないようなものを固守している




それでも
―これは一般に後で起こることだが―
彼は「限りない苦悩にそなえて武器をとる」ことができる。

そして自分自身の権利で
人間としての自由を達成しようと積極的にたたかうことができる。


その問題に移ろう。



  

 
 
 
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     母親に対する闘い (1)


  かかる自由に対する戦いは、あらゆる時代を通して
  最高傑作ドラマの一つ、「オレステス」の中にあらわれている。

人間の葛藤を扱ったこの偉大な物語は、古代ギリシアのエスキュロスによって書かれた。
これを、現代詩として「悲劇の彼岸にある塔」という形で、exlink.gifロビンソン・ジェファースが再現した。

(*以下は、主にジェファースの作品に依るものと思われ、オリジナル(悲劇作品や伝承神話)とは所々異同がある)
 



  ミケーネの王 アガメムノン がギリシア軍を率いて出征中、
  彼の妻 
exlink.gifクリタイムネストラ は、
  彼女の叔父 エジステウスを情夫として引き入れた。


  アガメムノンが戦場から無事に帰還すると、彼女はこの夫を殺害してしまった

  続いて彼女は 自分の幼い息子 オレステス をも国外に追放した。
  娘のエレクトラも奴隷の地位に堕とした。


  追放された幼い息子 オレステスが成年に達すると
  彼はこの母親を殺すべくミケーネに帰ってきた。

  宮殿の前で、剣を抜いて立った息子を見たクリテムネストラは
  父親を非難することで、息子の同情を誘おうとする。

  「わたしの運命はわたしに過酷だった。我が子よ。」
  続いて脅かすように叫ぶ。
  「わたしの呪われた運命は決してその手をゆるめない。
   それはおまえを生んだのろいだ。」


  これらの戦略が役に立たないとみると、
  最後に彼女は、オレステスをいつわりの愛情表現、
  抱擁、キスで情熱的に息子の心を迷わそうとする。

  彼は突然へたへたとくず折れてしまい、
  「自分には抵抗できない。力が抜けてしまった。」
   と、ことばと一緒に、剣を落としてしまう。




この突然の活力の抜けた無抵抗状態について驚くべきことは、
実は、これは物語のうえだけではなくて、
今日、あらゆる精神治療家が多くの若者のケースで観察していることなのである。
すなわち、
支配的な母親とのたたかいで、その潜勢力喪失からくる行為である。

オレステスが立ちあがってその力を回復し、一撃を加えるのは、
ただ母親がすみやかに自分の兵士たちを呼び出すため、彼の無抵抗の瞬間を利用しているのだ
と気づき、母親クリテムネストラのいわゆる愛などは、全然愛ではなくて
息子を自分の権力下に置こうとする策略だと悟るときである。


   その時、実際は、オレステスが気狂いになってしまう。
   “復讐の女神たち”、「もつれあった蛇の絡み合う」頭髪をもった
    こらしめの“夜の精たち”につきまとわれる。



この女神像は、
自責や良心のとがめを擬人化したギリシャ神話に出てくる姿であり、
人をねむらせず、
神経症や精神病にさえ追いやることもある責めさいなむ罪悪感のシンボル化を、
ギリシャ人がいかにするどく、正確に記述しているかを知って驚かざるをえない。


    オレステスは、復讐の女神に駆りたてられ、眠れず、へとへとになってしまう。
    そして最後に、

    exlink.gifデルフォイexlink.gifアポロの祭壇のまわりに武器をもったままたおれてしまう。

    そして、そこでしばしの休息を得る。
    それからアポロの保護のもとに、女神
exlink.gifアテナのもとへ送られる。

    彼は、アテナの主宰する大法廷の前で、裁かれる。
    法廷で解決さるべき大きな争点は、
    子どもに対し支配的で、子どもを食いものにする母親を殺すことが
    はたして罪に値するか である。

    人類の未来に対して重要な問題なので、オリンパスから神々が
    その論争に参加するため山を下りてくる。
    多くの弁論のあと、女神アテナは陪審員に向かって説示を与え、
   「あなた方の高い権威を、埒を越えて放棄することのないよう」誓わせる。

    それは、神々の尊厳や聖なる恐怖を保持し、
    一方では(*地上が)「無政府状態」になる危険を、
    他方では「奴隷的支配」なる危険をさけうためである。
    
    陪審員は投票し、それは同点と出る。
    そこで市民的徳と客観性と智慧をそなえた女神アテナが
    決定票を投ぜねばならない。    

    アテナは法廷に布告する。
    もし人類が進歩すべきものなら、たとえそれが親殺しを含むにせよ、
    人々はかかる憎むべき親へのきずなから自由にならなければならない。

    そして女神アテナの投票によって、オレステスは許される。




このほんの筋書きだけのもとにあるものは、
人間的情熱の恐るべきもがきであり、
人間が経験することいずれにもおとらず深く基本的な葛藤である。

そのテーマは母親殺しであるが、実際その意味するところは、
人間として生きてゆくための、息子オレステスの苦闘である。
それは、心理的、精神的存在としての人間が
「生くべきか、死すべきか」苦悩する姿にほかならない。



アテナや他の神々がその裁判の弁論のシーンは
暗黒の地下から出てきたエリニエスによって代表される「旧い」生き方、慣習と道徳 
と、もう一方、
アポロとアテナによって支持され、オレステスの行為によって人格化される「新しい」生き方
との間の論争である。


これは、E・フロムが彼の著書「exlink.gif忘れられたことば」の中で説明しているように、
旧い母権制に対する新しい父権性の戦いとして社会学的に説明できる。
しかし、われわれがここで注目したいのは、その葛藤の“心理的内容”である。


魅惑的な心理的明敏さをもって、exlink.gifエスキュロスは指摘している。
オレステスは選ぶことこそできなかったが、その頂点をきわめることができた。
もし彼がその行為にでなかったら、彼は永遠に病むことになったであろう。
その結論へ導かれるクレセンド(漸進楽節)の中で、ギリシャ・コーラス(コロス)に
「兄がやってきた。日は白々と明けそめてゆく」と歌わせている。すなわち
オレステスの行為とともに、世界には新しい光がさし、夜明けがやってくる。



たしかにクリテムネストラは極端な例である。
実際に人間を動かす動機は、純粋の憎悪、愛情、権力への欲望といったものではなく、
むしろこれら諸動機の 複雑な混合物である。

クリテムネストラは一人の人物というよりむしろシンボルといった方が正しい。
子どもの潜在力を「追放」し、押しつけるところの親の中にある
支配的な、権力主義的傾向をあらわすシンボルである。




われわれがこのドラマを今日の問題と関連づけてみるとき、
多くの人々にとってこのドラマについてもっともショッキングなことがらは、
それがオレステスについて述べていることではなく、
ある母親たちがクリテムネストラ似ているという意味合いにある。





(*クリテムネストラのアガメムノン殺害は、長女を戦争への生け贄として
 アガメムノンに殺されたことへの復讐という側面もあるらしい。
 exlink.gifイーピゲネイア参照)
 
 
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     母親に対する闘い (2)


(*この悲劇において親を殺すということは何を意味するのか



その苦闘の本質は、
オレステスのような成長する人間が、
その成長と自由を窒息させるような権威主義的圧力に抗するたたかい
といえる。


家族サークル内でのこうした権力は
父親ないし母親
(*または養育する重要な他者)の中に台頭してくる。

なるほど
フロイドは次の点を多かれ少なかれ普遍的なことと信じていた。
すなわち、
その葛藤が父親と息子との間にあるということ。
―父親は息子を追放し、息子から権力をとり去り、
 去勢してしまおうとすること、
 そして、exlink.gifエディプスのように、息子は存在権を確立するために
 父親を殺さざるを得なくなるだろう ということである。


しかし今日われわれは、そのエディプス「コンプレックス」が
普遍的なものではなく、文化的、歴史的要素によるものであることを知っている。

二十世紀半ばのアメリカでは、たとえば、
いま二十才から五十才の人の育った家庭では、
父親ではなく母親が支配的な人物であったということ、
それから 母親への関係がもっとも重大な問題を提起し、
オレステス神話こそ、自分たち自身の経験を
もっとも切実に表現していると思っていること が挙げられる。

(私は、職業上精神療法を行った人々の深層の感情や夢だけでなく、
 私が一緒に話し合ったほかの治療家の経験にももとづいて述べているのである)


前述のケース
(*#3)のように、息子は
母親をよろこばすことだけによって褒美を得るようになる、という点で、
しばしば母親に鎖でつながれている。

それはあたかも
その息子の潜在力が
その母親の高い期待にしたがって生活するという目的だけに生かされている ようなものである。

潜在力が、だれか他人の命令によってのみ活用できるというのでは、
それは全然力とはいえない。
彼が、母親への結びつきから解放されるまで、
彼は個人としての自分の発達や、他人を愛することに自分の力を利用できない
のはあきらかである。


ここで支配的な母親との葛藤について述べると
読者の中には
最近流行のマミズム(exlink.gifMomism)についての論議を思い出される人もあろう。

マミズムの中にどれほどの真実がこめられているか。
私は、知ったふうをするのをよそう。

精神科医exlink.gifエドワード・A・ストレッカーが指摘しているように、
アメリカでは、そのシステムが母権制に似てきだした。

精神分析家exlink.gifE・エリクソン
は、その『exlink.gifこども時代と社会』の中で、
母権制の発展を論じて、
「マムは勝利者であるよりも被害者である」とみ、アメリカでは、
父親は週末だけ家にいる。そのため家族での中心的な位置を失いつつある。したがって
母親が権力の座につかざるをえないと述べている。
「父親がバップ(父ちゃん)になったときだけ、母親はマム(母ちゃん)になった。」


母権制は当面の問題である。


それにしても、
当今の母権制で婦人の行使する権力が、
強要的な性格なのはなぜだろうか。

 
 
 
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     母親に対する闘い (3)



現在の母親たちは一般に、混乱している
こういう問題が現代社会にでてきたのは、とくに、ひとつ前の世代の母親たちからである。
私にはその状況の心理的要因がわからない。

われわれがいえるのは、せいぜい、
前に引用した、青年を去勢しようとする母親のように、
精神療法をうけるこれら患者の母親が、
非常に大きな失望を経験しているかのように振る舞うという点である。


クリテムネストラは「年来の憎しみ」からああしたのだといっている。
たしかに、それ相当の理由がないなら、
クリテムネストラのような立場の人はだれもあのように
食いものにするような、要求がましい権力の使い方をしようとはしない。

その理由は一般に、彼女自身非常に傷つけられたということであり
将来の苦痛から自分を守るための唯一の方法が、
他人を支配することであると考えていることである。


われわれの社会において、
一つ前に世代の婦人は、
男性から受け取れるものについて大きな期待がかけられていたであろうか。

それは、
婦人たちが特別の価値をもっていた開拓者心理が
婦人達たちの尊敬されていた後期ヴィクトリヤ朝の態度と融合した結果であったろうか。

それではこれら婦人たちは、
彼女らがいつまでも変わらずサービスしてもらえるような期待を抱きえたのであろうか。


時代が進むにつれて、
婦人としての彼女らの機能は、どうしたことか根本的に挫折してしまった。
実際、この後期ヴィクトリア朝の婦人たちは性的にきわめて欲求不満であったようだ。


婦人たちはフロンティア地区で尊敬され、同時にフロンティアを文明化するよう期待されていたとき、
はたして婦人たちは、婦人であるということだけでどうして簡単によろこび満足することが
できたであろうか。

この世代の母親たちは
男性からすばらしいものを期待するよう導かれてきたので、
彼女らの夫に深く失望し、
息子を過度に所有し、支配することによって、その失望を補おうとした ということだろうか。




おそらくこれら全ての点が、
この特定のわれわれの社会における母子結合と
なんらかの関係をもっている。



しかしギリシャ人は、これらの問題を
社会学的、心理学的に提出することに満足しないで、
つぎの点を示唆することでわれわれの議論の基礎をゆるがす方向にある。
彼らはきわめて素朴に、

母と子との間には生物学的な結びつきがあり、
それが
子どもを親から解放するのを難しくしている。  
(*と示唆している)


この問題がドラマの中では、
オレステスを許す票を投ずるのがアテナであるとうい事実に示されている。
アテナは本人が述べているように
自分を生んでくれた母親の子宮を全然知らず」、父親ゼウスの額から
完全正装のまま飛び出してきた女神である。


これは熟考に値する驚くべきアイデアである。
第一、
子宮のおかげなしの生誕はそもそも十分驚くべき事である。
しかしギリシャ人がこのアテナを 智慧の女神としている事実を考えると
この誕生はさらにとまどいを与える。


女神は、
自分は全然子宮のなかにいたことがないので、
この(*母親殺しオレステスという)「新しい」ものの味方であって、オレステスのために投票するのだという。

これは次のような意味だろうか。

依存と偏見・未成熟から、
独立・知恵へと向かう人間の行路は
どうみても難路であって、身体的、心理的なへその緒によって妨げられるので、
知恵と市民道徳を代表する神話の女神は、
へその緒に立ち向かって闘わねばならぬ者として描かざるをえない
ということだろうか。


幼児は、
その子宮の中で懐胎され、
その乳房で養われる母親に対し、父親に対する以上の親密さをもつ。

幼児は、
母親の血をその血とし、その肉をわが肉としているがゆえに、
常に母親への結びつきによって縛られており、
母親関係というものは、未来よりもいっそう過去に向かっていて、
革命的であるよりもむしろ保守的である。



こういう風にギリシャ人たちは考えたのだろうか。


人間の知恵というものは、
そうした母子関係のきづなの全くないところに存在するということ、
あるいは、結びつきそのものの中に、なにか間違ったものがあるということ、
それ以上のことをギリシャ人は知っていた。
彼らは、
オレステスで述べているように、
「庇護されたい」という誘惑が、
子宮に復帰したいという傾向によって象徴されていること

および、
個人としての成熟、自由が、この諸傾向の反対であるということ
を言おうとしているのかもしれない。

これが、
知慧の女神が子宮をぜんぜん知らない という理由であろうか。


こうした問題に対する答えは、読者の判断にまかせたい。
話をオレステスの方に戻そう。


 
 
 
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     母親に対する闘い (4)(*last)


われわれの興味は、情動的葛藤にあるこの青年(*オレステス)が、
  人間として生きるため 自分の自由をいかに達成するか ということである。



母親を殺したあと、一時的狂気の状態にあったとき、
オレステスは、「幻視をわずらって」森の中をさまようことになる。

exlink.gifロビンソン・ジェファースは、その詩の中で、
オレステスはそれからミケーネの宮殿にかえり、そこで妹exlink.gifエレクトラ
父に代わって王になるよう彼を招く場面を描いている。

 オレステスは、おどろいてエレクトラを見つめ、そしてたずねた。

 母親を殺すというおそろしい行為をやったのは、
 アガメムノンに代わってミケーネの王になるためだった、というふうに考えるほど、
 お前はどうしてそんなに無分別になれるのか、と。

 彼にはそんなつもりはなかった。
 「都市国家の人々より成長していた」彼は去っていく決心をした。

 彼の悩みを、
 彼が婦人を必要としているのだとうけとったエレクトラが、彼に
 結婚しなさい、と進言したとき、彼は
 「そう言わせているのは、おまえの中にいるクリテムネストラである」
 と叫んだ。
 さらに、自分たちの不幸な家族が抱えている全体の悩みは近親相姦であることを指摘した。


 オレステスはひとりで、自分は
 「内面的にやせ衰えるようなことはしない」という決心をした。
 もし彼が彼女の願いを受けいれて、ミケーネに止まっているならば
 彼は「動く石に」に化してしまうだろう、と妹は悟った。
 彼がミケーネの近親相姦の巣から離れるとき、幾世紀経ても代わらぬ響きを伝える句
 「自分は外へ向かう愛におちいった」ということばで詩は結ばれている。




近親相姦という言葉は、
心なり、生活が家族の方、
「内側」に向けられ、したがって「外向きに愛すること」ができない 
ということの性的、身体的なシンボル化である。


心理学的にみて、
近親相姦的欲求が思春期をすぎても続くときには、
それは親に対する病的依存性が性的シンボルをかりて現れたものである。
その近親相姦的欲求は、「成長し」きっていない、
自分を親に結びつけている心理的なへその緒のきれていない人間に、
とりわけ、起きるのである。


性的満足は、
母親に授乳されているとき、そのこどもの受けとる口唇の満足に近い。
オレステスが述べているように、
近親相姦的関係にあって目立つことは、
相手からなめてもらいたい欲求。
「相手は自分をほめるべきだ」という考えである。


それは、幼児的依存性へ帰ってゆきたい、という要求であり、
それは、宗教的、心理学的にいってもイエスが宣言する内容と正反対のものである。
イエスは述べている。

われ地に平和を投ぜんがために来たれりと思うな。
 平和にあらず、かえって剣を投ぜんがためにこれり。
 それわが来たれるは人をその父より、
 娘をその母より、嫁をその姑より分かたんためなり。
 人の仇はその家の者なるべし。
」(マタイ伝10:34-36)

あきらかに、憎悪とか不和を唱道しているのではなく、
もっと根本的な形で、精神的発達というのは近親相姦から離れ、
隣人や異邦人を愛しうる能力に向かうことであると
述べようとしているのである。


ほとんどあらゆる社会で見いだされる近親相姦に対するタブーは、
それが「新しい血液」と「新しい遺伝子」を導入されることになるとか、
あるいは、もっと正確には、
変化と発展の可能性を拡大するという点で、健全な心理社会的価値をもっている。

近親相姦は赤ん坊に身体的害をあたえない。
それは単に、こどもの中の同じ遺伝形質を二倍にするだけである。

すなわち、近親相姦の禁止は、
人間の発達途上、より大きな分化に役立つ。
そして統合が同一段階を通してでなく、より高いレベルで見いだされることを要求する。
すなわち、人生航路である分化の連続に必要なものは、
近親相姦から離れ、外向きに愛しうる能力への発展である。

 
 
 
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     依存性への反抗 


  オレステス劇の精神は、全ての人が銃をとって母親を殺せといっているのではない。

断たねばならないものは、自分を親に結びつけている幼児的な依存性のきづなである。
このきづなは、外に向かって他人を愛することをさまだげ、独立性の創造を拒んでいる。


これは突然の解決によって道が開けたり、
自由の一大爆発でことが終わるような単純な事業ではなく、
また両親
(*あるいは養育情上の重要な他者)に対する「爆発的激情」によって
完成するものでもない。
実際、現実生活において、それは
新しい統合にむかって、成長という登り坂の長い道程をたどることになる。


精神治療をうける人は、しばしば数ヶ月にわたって、
自分のいろんなパターンを徐々にくぐり抜けてゆかねばならない。

そしてそれと気づかず、
どれほど自分が親と結びつけられているかを発見し、
この鎖が人を愛すること、結婚を妨げているかを繰り返し見いだすことになる。

彼は、しばしばかなりの不安と、時には実際の恐怖を伴う。

こうした鎖を断ち切るためにたたかっている者が
オレステスの一時的狂気にも似た
おそろしい情動的混乱や葛藤を経験するのは不思議ではない。
その葛藤は、本質的に、
保護されている、打ちとけた生活の場から、新しい独立場面へ、
また支えられている状況から一時的な孤立へとつき離されるときの葛藤である。

それと同時に、当人は不安や無力感を覚える。

その個人が、
発達段階上たどるべき諸段階を卒業できないときには、
そのたたかいはひどい形態(すなわち、神経症)をとる。

なにが人を親に結びつけておくのか。
典型的なギリシャ人であるエスキュロス
(*アイスキュロス)
その問題の源を客観的に描き出している。

  ミケーネの王家では、数世代にわたって邪悪な事態が続いた。
  それゆえ、オレステスにできることは母親を殺すことだけであったという


典型的な近代人であるシェークスピアは、
exlink.gifハムレットの似たような「存在への戦い」を
良心、罪悪感、勇気と優柔不断という
両面価値的感情(*アンビバレンツ)を伴う内面的、主題的葛藤として提出している。

エスキュロスもシェークスピアもどちらも正しい
こうしたたたかいは内側と外側の双方に起こる。



人が幼児期に耐えるところの権威主義的な束縛は 
外面的なものである。
成長する幼児は、
それがこどもを食いものにする親の子であろうとも、
あるいは反ユダヤ的偏見をもった国に生まれたユダヤ人であろうと、
外面的環境の犠牲者である。



こどもは是が非でも、自分の産み落とされた世界に対決し、
適応してゆかねばならない。


しかし、何人の発達過程にあっても、
権威主義的な問題は、内面化(internalized)されてゆく。

成長過程にある人間は、そのルールを引き継ぎ、
それを自分自身の中へ植えつけてゆく。
そして彼・彼女は、自分を奴隷にしようとする根源的な力と、
あたかも生涯かけてたたかい続けているがごとき態度をとる。


今日ではそれが内面的葛藤となってきた。
幸いにも、
この点ここには好都合な教訓がある。


人間は、抑圧的な力に身を受けつつ、
それを自分自身の中で動かし続けるがゆえに
それらの力に打ち勝つ力 をも 自分の中にもつ



つぎに、
自己を再発見しようと努力している成人にとっても
その戦いは主として内面的な闘いである。
「人間になるための闘いは、その人自身の中で起こる」

たしかに、
われわれは全員残らず、
自分を食いものにする人物、あるいは環境内の外的な力
に対して自分の態度を決めてかからなければならない。

われわれのたたかわねばならない心理的な闘いは、
われわれの依存欲求とのたたかいであり、
自由に向かって前進するときたちあらわれてくる不安、
および罪悪感に対するたたかいである。






 
 
 
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       自己意識の諸段階 (前)


    人間になるこということは、
    いくつかの自己意識の段階を経過することであることをみてきた。



第一は、自己意識の生まれる前の幼児の無心(innocenceイノセンス)の段階である。

第二は、抵抗(rebellion)の段階で、
    人が自分自身の権利で、なにか内的な力を打ちたてるため自由になろうとするときである。
    この段階には挑戦と敵意が含まれるかもしれない。
    その程度はともあれ、反抗は人が旧い結びつきを断ち切って、
    新しい結びつきをつくろうとするとき、
    必然的にでてくる過渡的過程である。

第三は、われわれが 通常の自己意識(ordinary consciousness of self)と呼び得るものである。
    この段階では、ある程度自分の間違いがわかり、自分の偏見に手心をくわえることができ、                       
    自分の罪悪や不安感を、学習経験として利用でき、
    責任をもって自己決定を行うことができる。

    これはたいていの人が、パーソナリティの健康な状態 というときに考えている内容である。 


ところで、
大部分の人はまれにしか経験しないという意味で
非凡な「第四」の意識段階がある。

    この段階は、ひとがある問題に対し、突然その洞察を得る、という場合に
    もっともよい例がみられる。
    ―突然、見かけのうえではどこからともなく、
     空しく何日も模索していた解答がひょっこりあらわれる ということがある。

    時に、こういう洞察は夢の中にあらわれる。
    あるいは、他の何か考え事をしているおゆな夢想の瞬間にあらわれる。
    いずれの場合にも、その解答が
    パーソナリティの 潜在意識的な水準 とよばれるところからやってくることはよく知られている。   
 
    このような意識は、
    科学的、宗教的、芸術的活動の中に、同じようにでてくるものである。
    それらは時に、「アイデアの出現」(dawning of ideas )
    あるいは「霊感」(インスピレーション)と呼ばれる。

    創造的活動をおこなうすべての研究者があきらかにしているように、
    この意識レベルはあらゆる創造活動に出てくるものである。




この意識レベルを何と呼ぶべきだろうか。

ある東洋的思考で呼ばれている
「客観的自己意識」(objective self-consciousness)、
これはその意識が、客観的真理をかいま見せてくれたからつけられた名称だがどうだろうか。
それともニーチェが名づけたごとく
「自己超絶的意識」(self-surpassing consciousness)、あるいは倫理宗教界で伝統的な
「自己超越的意識」(selftranscending consciousness)はどうか。
私自身は、
とくにきわだってはいないが、おそらく今日にあっては比較的満足できる
「創造的自己意識」(creative consciousness of self)を提案する。




この意識性
(awareness)に対する古典的な心理学用語はエクスタシー(exlink.gifecstacy)である。
このことばは、文字通りには、 自己の外に立つこと
すなわち、自己の通常のかぎられた視点外の見通しに立って、
あることについてある見方を把握したり、それを体験することを意味する。




普通われわれが
自分のまわりの「客観的世界」内に見ているものは、
それをわれわれが「主観的に」見ているという事実によって多かれ少なかれゆがめられ、
曇らせられている。


人間としてのわれわれの見ているものは、
いつも個人の目をとおしてであり
自分自身の私的な世界をとおして、各人、各様に解釈される
われわれは、
いつも主観性と客観性との間の二律背反につきまとわれている。


この意識の第四段階は、
まだ主客に分裂しないその下の層にその機能をもつといえる。

一時的ではあるが、われわれは、意識的パーソナリティの通常の限界を超えることができる

洞察ないし直観と呼ばれているもの、
あるいは創造性に含まれるところの、ただ漠然と理解されている別の過程を通して
われわれは、
現にあるがままの客観的真理をかいま見ることができたり、
非利己的な愛情体験の中に、何か新しい倫理的可能性を感じとるかもしれない。


 

 
 
 
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     自己意識の諸段階 (後)last



 ニーチェをはじめ、倫理学について述べている著者総てが指摘しているように
 自分自身の資質を十分に発揮する人間は、自己を「超越する」過程を経るのである
 という指摘は、非科学的感傷ではない。


これは
成長してゆく健康な人間の基本的な性格特性の一面、
瞬間ごとの、自分自身、および世界についての認識を拡大しつつあるということである。


多くの人は、この意識
(*自己の超越)を、ある特別な瞬間だけ体験するかもしれない。
たとえば、音楽に耳を傾けるとか、新しい愛情や友情体験のような
一時的にせよ、自分たちを、日常の閉ざされた、きまりきった生活のわくから
連れ出すような体験である。


それはあたかも、人が山頂に立ち、
自分の人生を広大な無限の見通しに立って眺めるようなものである。
人はその頂きからの眺望によって、自分の方向感覚を会得する。



また努力が鈍り、インスピレーションもわかず、
ためにしきりとそれが望まれるとき、
何週間も、辛抱強く低い丘の上をとぼとぼと徘徊するための導き手となる
心象地図を描き出すことができる。


というのは、
ある瞬間、われわれ自身の偏見によって曇らせられない真実を直視できること、
求めることなき他者への無償の愛に身を捧げうること、
今やりつつあることに没頭することによって生まれるエクスタシーの中で、創造活動のできるという事実

―こうしたなにかをかいま見たという体験の事実は、
われわれのその後の生活行動すべての基礎になる 意味と方向 を与えてくれる。



たしかに、
この(*第四の)意識段階には、ある種の自己-忘却が含まれている。
しかし、この自己-忘却(self-forgetting)という表現は、
その意識段階を伝えるには不十分である。

もうひとつの意味は、
この意識には人間実存のもっとも自己実現された状態
(fulfilled state of human existence)
が含まれるということである。



ここで論じている認識は、「求めれて得られる」ものではない。
それは
働きかけの行為のときよりも、むしろ受けて待つ態度
(receptivity)
くつろぎの瞬間にしばしばやってくるものである。


にもかかわらず、創造的人間を調べてみてわかることは、
その洞察自体は心のなごんだ瞬間にやってくるかもしれないが、
日ごろ、忍耐と勤勉をもってとり組んできた個々の問題について(*だけ)
その洞察を得ているということである。



たとえば人は
夢を見ようとして見れるものではない
しかし、
自分がやっていることに積極的な関心をもち続けているかぎり、
それらの夢からみのり豊かな洞察を得ることができる。
また、自分自身の夢に対する感受性を訓練によって、とぎすますこともできる。



ニーチェは、ゲーテについてこういっている。
(*紫:本では傍点)

 ゲーテは、
 自分自身を完成に向かって鍛えあげていった。
 そして自分自身を
創り出していった。

 …こうした
自由無碍な魂の持ち主は、
 よろこびに満ちた、
 まかせきった運命感を持して、
 宇宙のただ中に立っている。



 完成されたものの中にあっては、
 全てのものが回復され、すべてが肯定される、という
信念をもっていた。

 ゲーテはもはや何ものも否定しない



ニーチェは、このとき、
ゲーテの人間像を、創造的自己意識の人として描いたのである。




 

 
 
 
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最終更新:2015年05月15日 15:57