第3部_ 第5章 自由と内なる生命力「憎悪」「反抗」

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ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)

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Post時間:2011-11-08 18:06:44
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     自由否定の代償としての憎しみと恨み (前)




    憎しみ、恨みというのは、しばしば、心理的精神的自殺をさける唯一の方法である。



それは、ある威厳、自己同一性の感情を保有するという機能を果たしている。

幼児期の不幸な境遇によって壁に押しやられてきた人間は、
その憎悪を内なる砦(とりで)とし、威厳と自負の最後のよりどころにしている。


実際、
人が自由を断念するとき、
そこにその内的バランスを回復するため何かが入り込んでくる。
それは外なる自由が否定されるとき、内なる自由からでてくるものであって、
彼(彼女)の圧制者に対する憎しみである。


それは
(*圧政をうけている)個人(国の場合は国民)が
あたかもその征服者に対して、沈黙の中で
おまえは俺を征服した。しかし自分はなお、お前を憎む権利を失っていない
と告げているかのようである。

その征服者に対する軽蔑は、
たとえその外的条件が本質的な人権を否定するようなことがあっても、
なお、本人に自らの力で、自己同一性を保持させうるのである。


治療の場合
人間としての力の行使を、徹底的にもぎとられている人が、
一定期間たって、その憎悪や怨恨を感じたり、あるいはそれをぶちまけることができない場合には、
予後がさらに悪い。

傷つけられた人間が、
憎んだり、怒りを感じたりできる能力は、
とりもなおさずその圧制者に対して反抗できるという、その人の内的潜在力を示すものである。




もし、人が自分の自由を放棄するようなときには、
だれかに憎しみを向けねばならなくなるということを
もう一つの事実が証明してくれる。

すなわち、
全体主義の政府は、その人民のため、何らかの憎しみの対象を設定しなければならない
むろん、この憎悪は、
政府が人民からその自由を奪いさることによって生まれるのである。

ユダヤ人という名は、
その「敵性国家」という名とともに
ヒットラー治下のドイツにおいて、スケープゴート(身代わり)の役を果たした。
また今日、
スターリン主義は、ロシヤ人民の中にある憎悪を
「戦争挑発的」西欧国家に向けねばならない。 
小説「1984年」の中に見事に描き出されているように、
政府が人民の自由を剥奪しようとするなら、
人民の憎悪をサイフォンで吸いあげ、それを外部集団に向けねばならない


―さもないと、人民は反抗するなり、集団精神病になるか、あるいは心理的に「死んで」しまい、
人間として(ないし戦闘力として)役に立たない無気力なものになってしまう。

このことは
exlink.gifマッカーシズムのもつもっとも悪い側面のひとつに例を見いだす。
マッカーシズムは、朝鮮で行きづまっている状況にわれわれを釘付けにしている当の相手、
すなわちロシア共産主義に対し、アメリカ人の感じている無気力な憎悪を利用しているのである。
そしてこのマッカーシズムは、
市民のこの憎悪を自分たちの仲間の市民に向けさせることになる


 もちろん、われわれは、
憎悪や怨恨をそれ自体がよいものであるとは思わないし、
あるいは、
どれほど憎んでいるかをもって、健康な人間のしるしであるといっているのではない。

またわれわれは、
人間発達の目標は、
その両親や権威在るものを憎むことであるといっているのでもない。



 
 
 
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     自由否定の代償としての憎しみと恨み (後)


憎悪と怨恨は破壊的な情熱であり、
人間成熟のしるしは、それら情動を、建設的なものに変形することである。


しかし人間は、長い目で見ると
自己の自由を放棄するよりは何かを破壊している



今日の伝統的な社会では、
憎しみを抱くことが、是認されるようには思えない。
それは
四十年前に、性的衝動が認められず、
二十年前に、怒りや攻撃心が、良い社会では不適切なもの、と考えられていたのと似てる

これら否定的情動は
それが偶然の過失としてあらわれる場合には大目にみられるけれども
やさしい、克己的な、いつも均整のとれた、よく適応したブルジョワ市民の理想像には
ふさわしくないものであった。

したがって、憎悪と怨恨は一般に抑圧されてきた。


われわれが
ある態度、ある情動を抑圧するとき、
われわれがしばしば正反対の態度にでたり、あるいは
それをうわべで装うことによって平衡をたもつことは、
よく知られている心理的傾向である。

たとえば、
自分のきらいな相手にたいして、
しばしばことさら丁寧にふるまっている自分に気がつく。
もしあなたが
不安から比較的自由なら、
形の上でだけていねいな態度をとる自分に、パウロのことばをひいて
仇を恩でかえして、相手に恥じ入らせる、自分の敵をよく扱うのだ
と言い聞かせるだろう。

しかしもしあなたが
発展途上で、さらに困難な問題に遭遇しなければならない不安定な人物であるとすれば
あなたはあなたの憎むまさにその相手を「愛する」よう
自分自身の説得につとめるかもしれない。



支配的な母親や父親
あるいはほかの権威者に対して過度に依存している人が
相手に対する憎悪をかくすために、
あたかも相手を「愛している」かのごとくふるまうことはめずらしくない

(*しかし)
憎悪や怨恨を、このようにしてまぬがれることはできない。
たいてい、その情動をさらにほかの人の上に置き換えるなり、
それらを自己-憎悪(self-hate)にかえてしまう


 このように、われわれが
自分の憎悪に正面きって遭遇できるということは
きわめて重大なことである。
しかも今日では、
われれれが、自分の怨恨に直面することの方が、
避けがたいことにすらなっている。
というのは、一般に洗練された、文明化した生活の中では、
憎しみの感情は恨みの形をとるから である。


現代社会のほとんどの人は、自らを省みて、
いま何か特定の憎しみをもっていることに気がつかないかもしれない。
しかし(*深く掘り下げていけば)間違いなく大量の恨みごとがあるのに気がつくだろう。
個人競争の定着してきた現代、
恨み がこのように普遍的な、慢性の、しかも浸食性の情動であるという事実は
いいかえれば、憎悪 の方が一般に抑圧されているということを意味する。



 さらに、
もしわれわれ憎しみや恨みごとに率直に立ち向かわないなら、それは遅かれ早かれ、
誰にもなんの役にもたたないある種の感情、 自己憐憫 に代わってゆく傾向がある。
この自己憐憫は、
憎しみや恨みの「保育された」(preserbed)形体である。
われわれはそのとき、自分の憎しみを「はぐくむ」(nurse)ことができる。
また、
自分に憐れみをかけ、運命は自分になんと過酷なことか、
どうして自分はこんなに苦しまねばならぬのか と思いをめぐらすことで自分を慰め、
それによって自己の心的バランスを保ち、―さらに自ら何も手を下さないでいられる。



 exlink.gifフリードリッヒ・ニーチェは、
現代のこの怨恨という問題をきわめてきびしくかつ深く感じとっていた人物である。
 鋭敏なほかの多くの同時代人とおなじく、彼は自由の否定されることに反抗した。
しかし、
その反抗の域を完全に越えでることはできなかった。

 彼の父親はルッター派の牧師で、彼が少年の時に世を去っている。
 そのため彼は、親戚の手で、人間を台なしにしてしまうような雰囲気の中で育てられた。
 ニーチェは、ドイツ的な生活背景のもつ、しめつけるような状況下に苦悩した。
 しかし同時に、たえずそれと闘っていた。


教義的にはともかく、精神的にはきわめて宗教的だったニーチェは、
社会のもつ因襲的な道徳の中で、怨恨の果たしているおおきな役割
を見ぬいていた。
ニーチェは、
中産階級の心情はこの怨恨によって貫かれており、
この怨恨が、「道徳」の形で間接に出現していると考えた。

ルサンチマン(ressentimennt=怨恨)はわれわれの道徳の核心をなすものであり、
 キリスト教的愛は、弱者の抱く怨恨の擬態である、


と述べている。  
(*「道徳の系譜」第一論文10あたり)
怨恨によって動機づけられたいわゆる「道徳性」なるものを実例をみたいなら
今日、ちいさな村や町のゴシップに耳を傾ければ十分である。


 事実そうであるが、ニーチェの見方は一方的であるとみる人でさえ
自分で率直に自分の怨恨に直面し、それを努力して切り抜けるまで、
愛とか、道徳性とか自由を云々しても、それがほんものでないことを承知している。
われわれはこの憎しみを
真の自由再建のための動機づけとして利用すべきである。
それができない限り、
破壊的情動を建設的なものに変えることはできない。


まず第一にやるべきことは、
いったい自分がだれをもしくは何を憎んでいる憎んでいるのか
その対象を確かめてみること
である。
たとえば、
独裁政権下にある人を考えてみると、
自由回復のための反抗に際して、とるべき第一の手段は
その憎しみを独裁権力そのものへ向けることである。


憎しみと恨みは、一時的に
われわれの内的自由を保持してくれる


しかし遅かれ早かれ、われわれは現実に、
この憎しみを活かし用いることによって
自己の自由と威厳を確立しなければならない。
さもないと、その憎しみの方が、こちらを滅ぼしてしまう

ある人が詩の中で述べているように、
そのねらいは

新しいものを獲得するために憎む」 である。






 
 
 
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     自由にあらざるもの (*反抗について)(1)



  自由は反抗ではない。
  反抗は
正常なものであるが、自由に向かう過渡的な運動である。


 幼児が「いや」といえる力を通して、
独立宣言を意味する腕力に訴えようとするとき、
それはあるていど反抗をしていることになる。


 青年期にあっては(他の段階でもおそらくそうだが)
親の支持しているものに対する反抗勢力はしばしば過渡なものになる。
それは、
青年はこの世界に足を一歩踏み入れたとき、
自分自身の不安とたたかっているからである。

親が「それはいけません」というとき、
青年はしばしば親に対し反抗の叫びをあげねばならない。
というのは
その「いけません」という声は
自分の中の臆病な一面
(craven side)がそう言っているのだ ということを
本人は知っており、
親の庇護という壁のうしろにかくれたいという願う自己の一面が
そこに露出していることを彼が感知しているからである。



 しかし、反抗はしばしば自由そのものと混同される。

反抗していると、実際に、自分は独立しているのだという妄想感を味わえるで、
嵐になると、その反抗自体が誤った寄港地の役を果たす。


反抗に夢中になっていると、
反抗にはつねに、反抗の対象となるルール、法律、期待など外的な構成物が前提されていること
を忘れる。
しかも、
当人の安全感、自由感、さらに抵抗力の感覚、というものはこの外的構成物によっているのである。
それらは借り物であって、いつ何時でも、とり去られてしまうものである。

心理学的にいえば、多くの人は、この段階で反抗をストップしてしまう。

彼らの道徳感覚は、ただ
自分はどういう道徳的因襲に不服従であるかを知っている、というところから出ている。
いいかえれば、
反抗者は、無神論や無信仰を宣言することによって、間接的な確信を得ているといえる。



 
 
 
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     自由にあらざるもの (*反抗について)(2)



  1920年代の心理的なヴァイタリティ(生命力)は、反抗からきていた。

exlink.gifフィッツジェラルドexlink.gifローレンスの小説、それにある程度exlink.gifルウイスの小説の中にこのことが読み取れる。



当時の解放された青年のバイブルであったフィッツジェラルドの『exlink.gif天国のこちら側
そのほかの彼の小説を今読んでみてたいへん興味のあることは、
少女にキスすることや、いまではちょっとした過ちくらいですむくらいのことに、
青年がなんと熱狂したことかということである。

D・H・ロレンスは小説『exlink.gifチャタレイ夫人の恋人』を書くことによって
大きな改革運動をもたらした。その中でかれは、
夫が不能になってしまったチャタレー夫人がたまたま所有地の一労働者を恋人にする権利をもった
というテーマを扱っている。
今日、その小説を書く作家なら、夫を不能にしてしまう必要をみとめないし、
したがって性的自由はいまではほとんど論議の必要もない。


それは「自由恋愛」とか、育児についての「自由な表明」などの考え方それ自体が、
まじめな論議の値打ちのないものになったということではない。
いいたいのは、それらの考え方が、
否定的に、しかも主としてわれわれの賛成できないやり方で制限されていたということである。

われわれが反対したのは、恋愛に対する外からの強制、こどもたちの自由な発達の芽を厳格に摘みとってしまうような
やり方に対してである。
後者の例をとると、
親のしてはいけないこと、親の干渉してはならないこと、
さらに極端な形では、こどもはしたいよう何でもしてよいということが強調されていた。

このようなまとまりのない生活が、
実際は、こどもたちの不安を増大するものであることが理解されていない。

また次のことも理解されていない。

親はこどもの行動に多大の責任をとるべきこと、また
積極的自由とは、将来の可能性を秘めた人間としての子どもに対するほんとうの尊敬という関係において
現実に親が子どもの養育に責任をもつことにあること、
親は発達するこどもの成長可能性に対してあらゆる現実的な余地を与えること、
そして親はこどもをして、その願望や感情をことさら曲げるよう求めないこと、


以上のことが注意されていない。



 1920年代末に大学にいたわれわれの世代は、
いろんな主義・主張や改革運動をよりどころにして、そこから活力を得ていた。

またわれわれの抵抗してきた対象、
それが戦争であれ、性的タブーであれ、友愛結婚であれ、酒、あるいは禁止等々いずれにせよ、
それをしっかり認知することで、どんな活力を感じとっていたか、思い出すことができる。

しかし今日、その意味での反抗では、人心をつなぎとめることは難しい時代である。


偉大な偶像破壊者exlink.gifH・L・メンケンは当時の高級司祭であった。
そのころ学窓にあっただれもが彼のものを読んでいたようである。今だれが彼のものを読むだろうか。

 [訳注:メンケン:Henry Louis Menken(1885~1956)アメリカの批評家、ボルチモア生まれ。1889年以後死ぬまでジャーナリズムの世界で活躍。
ピューリタニズム、デモクラシーその他の自国文化に徹底的な批判と毒舌を加え、同時にアメリカ独自の文学をもつべきことを主張。(*exlink.gif名言集)]


今この種の反抗をやることはむしろ全然退屈なことである。
何も、反抗すべき一定の基準もないときに、反抗したからといって何の活力も得られない。

それは
銀行の貸付金を回収したというのではない。
ただその銀行が倒産してしまい、どの貸付金ももはや何の価値ももたなくなってしまった状態なのである。


今世紀の中ごろまで、
19世紀に遡る破壊の過程、諸規範の変形の一部をなす破壊が続いている。
そこでわれわれの得ているものは、空虚さと、とまどい、である。


スコット・フィッツジェラルドが初期に描いているような『exlink.gifすべてかなしき若者たち』は
少女とのキスに自分の内なる力を感じとっていた。しかし
それも「日常のこと」になった今日、何ら特別の活力の充実を与えないとき、
彼らは自分自身の中にその内なる力を探し求めねばならず、
しかも多くの場合、その欠除に気がついたのである。



 
 
 
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     自由にあらざるもの (*経済的自由放任主義について)(3)



  反抗する者は、現行の規範や社会的習慣を攻撃することによって、
  自分の方向感覚やヴァイタリティを手に入れる。



したがって、自分自身の規範を発展させる必要は無い。

自発性、新しい信念、新しく建設の土台を据えられるような状態へ、
努力して到達するというはるかに骨の折れる過程をさておいて、
その代用として反抗がある。


自由の消極形体は自由を放縦(license)と混同している。
そして、
自由というものは責任という概念と矛盾するものではないという事実が
看過されている。


もう一つよくある間違いは、「無計画性」
(planlessness)を自由と混同することである。
このごろ作家の中にはつぎのように主張するものがある。
すなわち、
経済的な自由放任―各自意のままにさせる―
が時代とともに変えられるとすれば、われわれの自由はそれと共に消えるだろう。という説である。
こういう著者の議論はよく次のような形をとる。
自由は生き物に似ている。それは分割できない。
 そこで、もし生産手段の私有権がとり去られるとすれば、
 われわれは自分独自の方法で、生計をたててゆく自由をもはやもたない。
 そのときには、われわれは全然自由をもてなくなるのだ.

といった見方である

 これらの作家の見方が正しいとするならば、実際それは不幸なことである。
そうなれば、一握りのグループを除いて、あなたや私やほかの誰も自由にはなれなくなる。
なぜなら、巨大産業の今日では、市民のうちほんのわずかな人だけが、
とにもかくにも生産手段を私有できるからである。


当初、自由放任は偉大な理想であった。
だが時代は変わってゆく。

今日では
ほとんど総ての人が、産業であれ、大学であれ、労働組合であれ、
巨大集団に所属することによって、自分の生活を立てているのである。

われわれの世紀、二十世紀の「ひとつの世界」(ワン・ワールド)は、
近世初期や、アメリカ開拓者の時代の企業家の世界と較べると、
はるかに 相互依存関係によってなり立つ世界 になっている。

自由を見いだすのは、
もはや自分所有の工場や大学をつくりだすことによってではない。



古い自由放任の慣行を保存しないと、自由は失われてしまうというような不安や叫びが
なぜでてくるのか。私には奇異に感じられた。
次の事実こそ、自由の失われる理由のひとつではないだろうか。

すなわち、
現代人は、日常のきまりきった仕事や、社会的因襲というマス・パターンに従うことによって
内面に向かうべき心理的・精神的自由を完全に放棄してしまい、
そのため、残された自由のあかしは、ただ経済的に強大になること(aggrandizement)
と解していることである。


現代人は、隣人と経済的に競争するという自由を、
主体性維持(individuality)の最後のものとしてきたのだろうか。
そして、それが自由というものの全体的意味を代表させねばならなくなっている。
つまり、
もし郊外住まいの市民が、毎年新しい車を買うこともできず、
いまより大きな家を建てられず、自分の隣人とわずかでも違った色に家のペンキを塗ることができないなら、
彼・彼女は自分の生活は目的をもたず、自分は人間として生存していないとでも考えてしまうのか。

競争的、自由放任的自由に、とくに重点がおかれているため、
かえってどれほど、自由のもつほんとうの意味の理解をさまたげていることだろうか。


確かに、自由は分割不可能なものである。
そして、それこそが、
自由を
 特定の経済学説、生活の断片、少なくとも過去の生活の一側面
同一視することのできない理由である。





 
 
 
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     自由にあらざるもの (4) (*保守的_経済的_自由主義について)  (*last)



  自由は生きものである。  


そして自由な生き方は全人格をあげて、
同胞のコミュニティにいかに関係づけるかにかかっている。

自由は開かれたものであって
たえず成長しようとしている。

自由は、
よりすぐれた人間的価値のためには、変容を許すだけしなやかなものであること
を意味する。


自由を、所与のシステムと同一視することは、自由を否定することになる。
それは自由を結晶化し、
それをドグマ(*宗教的教義・教条主義)にかえてしまう。

もしわれわれが、
過去において十分にその効果をあげていたものをここで失うことは、われわれの総てを失ったことになる、
というような言いわけをして、伝統にしがみつくということは、
自由の精神にそむき、
将来にわたる自由の成長発展をさまたげるものである。


アメリカの独立的フロンティア精神と同じく、
西欧世界の16世紀から19世紀へかけてはパイオニア的実業家、商人、資本家のような勇気ある人々がいたが、
もしわれわれが彼らと勇気を張り合い、
彼らのやったようにあえて大胆に思索し、
今日のもっとも効果的な経済手段を計画するならば、彼らに対してもっと忠実にあるであろう。




 本書は、経済学ないし、社会学の本であるよりむしろ心理学書に属する。
ただ、
われわれはつねに社会的環境に生きており、その環境が人間の心理的健康を条件づけている、
という理由から、本書はより広い視野にたって論じているのである。

ここで述べたいことは
私が社会的・経済的に理想とする社会は次のような社会であるということである。

 その社会では、ひとりひとりが自分の自己存在を実現し、
 自己の潜在力を実現し、仲間にいろんなことを与えたり、もらったりできる。
 しかも、威厳のある一個の人間として働けるチャンスをそなえた社会である。

 

いいかえれば、その自由とは、
よりすぐれた人間的価値を実現する機会として消極的ではなく、
防衛的、積極的に定義される自由である。

したがって、
ファシズムや共産主義のような集産主義はこれらの価値を否定するものであって、
どうあってもそれに反対せざるをえない。

主として、人間および人間の自由に対する真の尊敬にもとづく社会の建設という
よりよき積極的理想に没頭するときだけ、
われわれはそれら集産主義をみごとに克服することになるだろう。





 
 
 
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     自由とは何か(1)



 自由とは自分自身の発達に、関与できる能力をいう。 


自由というのは自己を形成する力である。
自由は、自己意識の一側面である。

いいかえれば
自分自身というものをわかっていないなら、
われわれは、本能だけで歴史の自動的な進行過程のままに
押しながされてしまうことになる。

しかしわれわれは、己れを意識できることによって、
自分が昨日なり先月はいかにふるまったかを想起することができる。
こうした過去の記憶によって、
たとえそれがささやかであっても、いまここで、いかに行動すべきを判断できる。

われわれは、想像力によって、来るべき明日の状況を思い描くことができる。
―晩餐のデート、仕事の約束、会議の予定―など
イメージの世界で、さまざまな選択場面をくりひろげ、
その中から最善の道を選びだすことができる。


自己を意識することによって、われわれは次のことが可能になる。
すなわち、
刺激と反応というぬきさしならぬ連関の 外 に立ってひと休みし
しかもその一時停止によって、
いずれの側に重みをかけるべきか、いかに応答すべきかを決断できる。



  自己意識と自由は、手を取りあって進む。

このことは、その人のもつ自己認識(self-awareness)が
少なければ少ないほど、当人の自由もそれだけ縮小されている、
という事実によってわかる。


ある人間が意識的に「忘れ去っている」が、
なお無意識的に当人を動かしているもの、すなわち
禁止、抑圧、幼児期の条件づけ によってコントロールされる度合いが強いほど、
当人は自分ではどうすることもできない力にいよいよ押しまくられることになる。



はじめて精神療法に人が助けを求めてくるとき、彼・彼女がたいてい並べたてるのは
自分はこれこれの形で、「駆りたてられている」という訴えである。
彼・彼女らは突然、不安ないし恐怖に襲われたり、
おるいはこれという理由もないのに勉学や仕事が妨げられる。

要するに彼・彼女らは自由でない。
―無意識的パターンによって束縛され、駆りたてられている。


 何ヶ月かの精神療法の後、わずかの変化があらわれてくることがある。

  自分の夢を順序立てて思いだし始めたり、
  ある治療場面では、自分はいまこの話題を変えたい、そして別の問題で援助してもらいたい
  と述べてイニシアティブをとったり、
  ある日のこと治療者がしかじかのことを言ったとき、自分は腹がたったということが言えたりする。
  あるいは、
  以前は、どんなことにも感動しなかったのに、泣くことができるようになる。
  突然、自発的に、心から笑うことがある。

  あるいは、数年間ありきたりの友人であった誰々は好かないが、誰それは好きだ、と言い出す。

このようにして、わずかではあるが、自己認識は、
自己自身の生活を方向づける力の拡大と手をたずさえて現れてくる。

 
 自己意識の増大にともなって、選択の自由の領域も拡大していく。
自由は累積的なものである。

幾分かの自由をもってなされた一個の選択は、次の選択に際して、より大きな自由を可能にする。
自由はそれを使うごとに、自己圏の拡大となってかえってくる


 
 
 
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     自由とは何か(2)



 だれの生活にも無数の決定因が働いている。 


 われわれは、自分の肉体的条件、経済的状況によって規定され、
 たまたま二十世紀のアメリカに生まれあわせた、というような事実によって決定されている。



さまざまな形で、特に、われわれ自身の気がつかない傾向によって、
われわれは、心理学的に決定されている。


しかし、この決定論的な見方に立って、いかほど多く論じようとも、
なおわれわれの認めなければならないことは、
自分を規定しているもの一切を認識する段になると、
おのずから限界がある
、ということである。
決定因すべてを知り尽くすことはできない

                              
(*赤字=元本では傍点)

そして、
当初はきわめてささやかであるにしても、
その決定因にたいし、いかに反応するかについて、
われわれは、 ある決定権(say=発言権、言い分)をもちうるのである。


このように、自由は、
われわれが人生の決定論的表現にたいし、
いかにかかわり合うかということの中に現われてくる。



 あなたがもしソネット(十四行詩)を書こうとするなら、
 韻律法とか、語をつなぎ合わせる時の約束事とか、あらゆる種類の現実的な抵抗に
 あなたは遭遇することになる。

 あるいは、家を建てようとするなら、
 れんが、モルタル、材木、といった決定素材にぶちあたらざるを得ない。
 そういう時は、まずその素材を知り、その限界を認識することが先決条件となる。


exlink.gifアルフレッド・アドラーがよく力説していたように、
あなたがソネットの中で述べていることは全て、
とりもなおさず、すぐれてあなた自身のものであって他人のものではない。
あなたが家をたてるときのパターン、スタイルは、
あなたが幾分なりとも自由をもって、所与の材料というぬきさしならぬ現実をいかに処理したか、
その処理結果の産物である。




  「自由決定論」の論議は間違った論拠によって論ぜられている。
それは自由というものを
「自由意志」とよばれるまるでなにか絶縁した電気仕掛けの押しボタンのように考える誤解
に通じている。
自由は、生活を現実と調和させるところにあらわれてくる。
しかもその現実とは、
休息や食物への欲求のように単純であったり、死のように究極的なものであることもある。


exlink.gifマイスター・エックハルトは、彼の機敏な心理学的助言の一つとして、
自由への通路を、「あなたが先へ進めず妨げられているとき、狂っているのはあなた自身の態度である」
と述べている。


  われわれが[color=darkblue
]現実を盲目的必然としてではなく、
選択によって受けいれるとき
自由が伴っている[/color]。


限定を受け入れるということは、
「断念する」とはまったくの別もので、
建設的な自由行為でありうるし、またあらねばならない。


何らかの限界、ないし、制約の壁にぶち当たってたたかう必要のない場合よりも
選択によって行動することのほうが、創造的な結果をうむことになる。



 
 
 
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     自由とは何か(3)



 自由に没頭している人は、現実とのたたかいに時を浪費しない
 その代わり、キルケゴールが述べているように
 彼・彼女は「現実を賛美してかかる」
(extols reality) 



一例として、人間が大幅に制約されている状態、
結核のような病気をわずらっている場合をあげよう。

ほとんどあらゆる行為が条件づけられている。彼・彼女は
厳格な摂生下のサナトリュームにいて、しかじかの時に休み、
一日のうちただ十五分だけ散歩ができるといった規定の下にいる。

 そういう環境にあって、当人がその病気という現実にいかに関わり合うかという点で
 人によって状況は同じではない。

 あるものは断念し、文字どおり、自らの死を招いてしまう

  ほかの患者は、やるよう求められていることは何でもやる。
 しかし「自然」あるいは「神」が自分にこんな病気を与えたという事実にたえず憤懣をもらし、
 表面上はルールに従順だけれども、内面的には反抗している。
 かかる患者は一般に死なない。
 かしまた良くもならない。
 
 人生のどの領域での抵抗とも同じで、彼・彼女はたえず足踏みして同じ地点に立っている。  


 しかしまた別の患者は
 きわめてまじめに、自分が病気だという事実に直面してゆく。
 サナトリュームのベランダにあるベッドに横たわりながら
 長時間の瞑想を経て、この悲劇的事実を意識のなかに沈ましてyふく。

 こうした自己認識の中で
 以前の自分の生活は、この病気に屈してしまうほど、
 どこかが間違っていたのだということを 理解しようとする。
 彼・彼女は、病気であるという残酷なまでに決定的な事実を、
 新しい自己認識への道として活かしてゆく。


こうした病人は、とるべき最上の方法や自己の鍛え方を選び出し、それを確認できる人たちであって、
そのやり方は決してルールの中に固定されるようなものではなく、日々変化してゆく
病気を通して彼・彼女を勝利に導くことになる。

 彼・彼女は肉体的健康をきづきあげるだけでなく、
 病気であったという経験を通して、人間的に根本的に拡大され、豊かになり、強くなっていく。


 彼・彼女は、
 決定的な事態というものを知ったうえで、なおかつ自分なりの 型 に形作ってゆく
 という根本的な自由を確認する。
 そして、
 ひどく決定的な事実にも、自由をもって遭遇する。

 そうした選びを行う人だけが
 病気をしたことによって、人間としていっそう完成されていく




人は自己の性を観察できることによって、
自己の生活を決定している直接の事象を超越できるのである。

結核であれ、ローマの哲学者exlink.gifエピクテスのような奴隷であれ、
死を宣告された囚人であれ、人はなお、
こうしたぬきさしならぬ事実にたいする関わりかた、処しかたを選びとる自由をもっている。

しかし、今日のごとき、
狂気(distraught)の社会においては
心理的、精神的統合をめざして進む現代人にとって、その自由のあり方は、劇的なものより、
むしろ日々の決断場面における、着実な自由行使のほうがいっそう重要になる。



ここでいう自由とは、
単に個々の決定場面において、「イエス」「ノー」をいう問題 ではない。

すなわち自由とは、
自己自身を形造り、創造できる力である。

ニーチェの言葉を用いれば、
自由とは、
われわれが真実あるところのものになることである。」


(to become what we truly are.)





 
 
 
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Post時間:2011-11-11 03:10:58
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     自由と構造 


自由は決してからっぽの中では出てこない。

 自由は無政府状態ではない。

こどもの自己意識が両親との関係構造の中で、いかに生まれるか、はすでに述べた。
そこでは、
人間の心理的自由は、あたかも無人島のロビンソン・クルーソーのような発達の仕方をするのではなく
自己の環境世界の重要な重要な他人との、たえざる相互働きかけの過程の中に発達するものであること
を強調しておいた。


自由は、孤立して生活しようとすることではない。
ただ、
人が自分の孤立に直面することができるとき、
その環境世界との関連構造
(stracture of relations)
特に、自分をとりまく他者の世界にあって、
責任をもって、意識的に行動を選びとることができる 
ということである。



その連関構造が不当に強調されるとき起こりうる不合理な結果は、
フランス実存主義の主導者、サルトルの作品にうかがえる。(以下、サルトルへの批判 
 例「運動が気取りをふくんだ流行や、若いパリっ子レジスタンスの溜まり場になってしまうと、どこかまちがっている。」)
サルトルの実存主義がフランスの抵抗運動から遠く隔たっていくにつれ、そこに何があらわれるだろうか。
   幾人かの鋭い批評家は、ティリッヒはそれが権威主義に走る可能性を見ている。それがカトリシズムかもしれない、
マルセルは、それがマルクス主義へ走るだろうと予言している。」

(*結果的にサルトルはマルクス主義の同伴者となり終生そこへ留まった、吉本隆明は指摘している。
 ここでは、実存派心理学と言われるロロ・メイがサルトルを批判していることだけ確認しておけば十分である。
 ちなみに日本では大江健三郎がサルトルのほとんど模倣に近いスタンスを取っていた)



ここで環境世界と人間との関係構造が、どうあるべきかについてくわしく立ち入る気はない。
 ギリシャ人はそれをロゴス(ここから 論理的[logos] という用語が出ている)とよんだ。
 ストア派の哲学者たちは、人が幸福に生きるべき所与の生活形体としての自然法 という概念をもっていた。
 17世紀、18世紀には、普遍的理性 への信仰があった。

あらゆる時代を通して、思索する人間は、さまざまな方法で、
ある構造の記述を求めてきた。
その各自が、意識的にしろ無意識にしろ、
自分が行動する上での何らかの「構造」を仮定していた。
たいていの人が
社会から期待されている通りに、自分を無意識的に順応(conformity)させることから出てくる
あるルールを仮定している。


われわれが、「順応」とか「権威主義」といって記述してきたものが、
今日多くの人々に無意識的にとり入れられて、構造としての役割を果たしている。
とにかく、自己自身に対し、
一体自己はどんな構造を仮定しているのかと強く、意識的に自問してみるのはよいことである。

しかるべき構造観をつくりあげることは、
もちろん哲学・宗教・倫理の問題であり、
それに心理学を含む社会諸科学が参与することもある。

次章以下においては、
どのような種類の構造-倫理学・哲学・宗教において-が
個々人格の潜在力のもっとも完全な実現に資するものか
という問題を考えてみたい。





  
 
 
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最終更新:2015年05月16日 08:09