第3部_第6章 創造的良心Ⅰ(倫理・価値・神話にみる反抗)

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ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)

 
投稿者 メッセージ
Post時間:2011-11-11 07:02:22
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                   第六章 創造的良心 

 
   人間は倫理的動物である。

―たとえ不幸にして、現実にはそうでないにしても、
 可能性の点では倫理的である。

人間の倫理的な判断能力(自由や理性、その他人間固有の特質との関係)
は、人間の自己意識性にもとづいている。


 数年前、ホバート・マウラー博士はハーバートの心理学実験室でささやかな実験を行った。
その計画は、動物がある種のネズミ・エチケットとでもいうものを学ぶことであった。
―すなわち、食物をつかむ前に、三秒間待つことである。
 ねずみはもし待たないなら、オリの床を通してある電気ショックによって罰を受けた。
 
 ねずみは直ちに罰が与えられた場合、
 すぐ、「行儀良く」待って、それを食べ、安心してそれを享受することを学習した。
 しかしその罰が、9秒ないし12秒遅れると、ほとんどのネズミが学習できず、
 罰のことなどおかまいなしに食物にくらいつくか、それとも
 「神経症」になってしまう。(食物からまるで引き下がり、飢えとフラストレーションに陥る。)


要するにねずみたちは、
食物に対する「目前の」欲求行為をやれば、「さきで悪い結果」をまねくということを
比較考量できない。
 
  
 
 人間は「あとさき」をふりかえることができる。
人間は直接の瞬間を超出できる。
過去を想起し、未来に向かって計画をたてることができる。

人間は、ささいな直接の善をさておいて、
ある未来の瞬間まで現れない大きい善を選ぶことができる。


同じ理由で、人間は、
他人の欲求や願望の中へ自分を移しいれて、
それをじかに感じることもできる。
また自分を他人の立場において考えることもできる。
自分自身だけでなく、仲間の善をめざして、自己の選択を下すこともできる。

たいていの人にとって、不十分で萌芽的であるかもしれないが、これが
「汝の隣人を愛し」自分自身の行為とコミュニティの幸福との間の関係を意識できる能力
の始まりである。



 人間は、「価値や目標の選択」ができるだけでなく、
人格の統合
(*抑圧や矛盾のない自己同一性意識の獲得)をめざすなら、
ぜひそうしなければならない動物である。
というのは、
価値(人間が進んでゆく目標)は、
人間にとって心理的センターであって、
磁力の中心が磁力線を引き寄せるのと同様、自分のもっている諸力をひきよせる
一種の統合中心としての役を果たすからである。


われわれが、自分がいま何を「欲しているのか」を知ることは
こどもや青年にとって、自己-方向づけ能力の萌芽として重要なものである。

まず、自分がいま一体何を欲しているか
を認知するということは、成熟してゆく人間にとって、
価値をみずから選択できるという能力を証拠だてるものであり、
その第一歩である。


 
 
 
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  ここまでの章で見てきたように、
  現代人の慢性的な心的障害である、不安、当惑、空虚は主として
  さまざまな価値の混乱、価値間の矛盾によって生じている。


われわれには依るべき心的核心が欠けている。

個人の内在力や完成(integrity)の度合いは、
当人がよりどころとしている価値を、
どれほど信じているかにかかっている。



本章では、諸々の価値を、人間がどのていど、
成熟的、創造的に選択し、確認できるかをみていこう。

まず第一に、
あなたがどんな価値を抱き、私がどのような価値を奉ずるか
それを確認することの難しさは、
ひとえに、われわれの住んでいる時代にかかわっている。


つねにそうなのであるが、
何を考えるにしても、懐疑主義や疑惑が伴ってでてくる過渡的時代には、
各自はより困難な課題を背負わされている。


伝統的な意味での信念(faith)をかつぎ回ることには
何の意味も見いださなかったゲーテは、次のように記している。
「どんな形体であれ、信念によって導かれている時代はつねに、
 本質的に輝かしいもの、向上的、稔りある時代であって、繁栄に向かうものである。

 いかなる形であれ、
 懐疑主義が、あてもなく支配している時代は、かりに一時の光彩をはなったことはあっても
 その意味を喪失してしまう。……」 (なぜなら)
「本質的に不毛なもの」ととり組んでも、よろこびは見いだされないからである。

やや誇張された表現であるが、もしゲーテがここで、信念という言葉によって
社会に充満し、その社会に意味の中心を与え、その社会の構成員に目的意識を与えるような確信(convictions)
のことを語っているとすれば、それは歴史的にみて正しい。


 exlink.gifペリクレス時代のギリシャ、
 exlink.gif
イザヤ時代、
 十三世紀のパリ、(*
exlink.gifルイ9世の時代、ノートルダム大聖堂やサン=ドニ大聖堂が完成した繁栄期)
 あるいはルネッサンス、および十七世紀 をかえりみてみるならば、
 こうしたそれぞれの時代の確信が、その時代の想像力をいかに結集したかがうかがえる。

しかし、史上、ヘレニズム時代の終わりや、中世思想の黎明期のような
過渡期、ないし崩壊期においては、その「信念」は解体する傾向にある。


そこに一般に二つのことが起こってくる。
 
第一に、
社会内に根づいた信念や伝統は、個人のバイタリティを抑制する 死せる形態
に結晶化する傾向が起きる。
たとえば、
中世の衰退期になると、かってはげしく利用されたシンボルは
ドライな空虚な形式となり、論じやすいが内容のないものになってしまった。

過渡期にあらわれる第二のことがらは、
ヴァイタリティが伝統から剥離し、
地上のあらゆる方向に流れていく水のように力をなくした散漫な反抗
になってしまう傾向になる。

我々自身の生きてきた1920年代にもこのことは多かれ少なかれあてはまることである。

おおよそこれは今日われわれのかかえているジレンマではなかろうか。


一方には権威主義的傾向があり、
他方では方向を失ったヴァイタリティがとまどいしている。

たしかに歴史はさまざまの角度から説明されるが、
現代のような社会変動の時代、
(*exlink.gif1950年代のアメリカ
人々は「根無し草」のように安定感を欠き、
嵐のときの安全地帯として、権威や安定した制度にしがみつこうとする。


リンド夫妻がその「過渡期のミドルタウン」(不景気時代のアメリカの研究)で述べている。
「たいていの人は、生活のあるゆる領域での変動や不安定に同時に耐えることができない」
―そこでミドルタウンの市民たちは、経済・政治面で、さらに保守的な権威主義的信条に走り、
 いっそう厳格な道徳的態度へ向かっていき、自由な教会よりも、
 exlink.gifファンダメンタリズム(根本主義)の教会メンバーになる人の数が増えていった。―


この二十世紀半ばに、われわれの直面している危険は、
何を信じていいのかわからず、混乱し、当惑し、時には恐慌状態を呈する人々が、
exlink.gif1930年代のヨーロッパもそうであった)
破壊的で、デーモン的な(重力的な)価値をひっつかむということである。



共産主義は、「既成宗教の衰退によって生まれる信仰の空白を満たすためにはいってくる」
exlink.gifアーサー・M・シュレディンガーは書いている。
「共産主義は、内的不安とか疑惑といった傾向をいやすところの目的意識を提供してくれる。」

 アメリカ国民が共産主義になるとは思われないが(少なくとも私には思われないが)、
しかし現代社会において、破壊的価値にとびつく結果は、別の形をとってあらわれてくる。
宗教・教育・哲学、それに科学における独断主義の傾向の中に、
権威主義的傾向が育ちつつあることは否めない。



脅かしや、不安を感じている人々はいっそうかたくなり、
内に疑惑を抱いているときには、独断的になりがちである。
(*そのことによって)自分自身のヴァイタリティ(*生命力・活力)を失ってしまう。
人々は、防衛のための隠れ家をつくるため、
名残りの伝統を利用し、その背後に尻込みしてしまう。


しかし
多くの人は、過去への逃避がききめのないことに気づいている。
(幸いにも、exlink.gifヘンリー・リンクの『宗教への復帰』は一時的には人気があったが、影響力はつかの間であった)
こうした努力は、基本的には、自己敗北的(self-defeacting)である。
われわれは、
外側から何か「センター」になるものを、あてがうことは決してできない。

exlink.gifギルバート・マレーが述べているように、
混乱したヘレニズムの時代のごとく、「活力の喪失」(failure of nerve)のために起こる宗教的関心の復活は
社会あるいは人々自身に対してなんの役にもたたない。
その事業はいかに難しくても、
自分の自己認識活動なり、われわれの住む社会を受け入れねばならない。

われわれは、
歴史的状況に勇気をもって直面するだけでなく、我々自身をより深く理解することによって、
自らの倫理センターを見いださなければならない。




過去数年間の中に、
「宗教への復帰」とは違うもうひとつの動きが起こってきた。



多くの知識人をはじめ、鋭敏な人々は、
文化のもつ宗教的・倫理的伝統から逃避していることの損失、ならびに
イザヤ、ヨブ、仏陀、老子の思想を知らないということは、
価値発見の必要な時代に、なにかとりかえしのつかないほど重要なものを失いつつあるのではないか
と考えるようになった。

人々は過去の倫理的、宗教的智慧に新しい関心を示しだした。
 この傾向はexlink.gifデヴィット・リースマンexlink.gifアメリカン・スカラー誌
 の中での「フロイド・科学・宗教」のごとき論説や、ホバート・マウラーの著述の中に見いだされる

 (*オーヴァル・ホバート・マウラー(Orval Hobart Mowrer 1907年 - 1982年)
  アメリカの心理学者。邦訳「疎外と実存的対話」(O・ホバート・マウラー、上里一郎、誠信書房、1969年初版、絶版または重版未定)

 1950年のパルティザン・レヴュー誌は連続四号にわたって「宗教と知性」というトピックをめぐって、
 作家、詩人、哲学者など二十人の論説を全面的にかかげている。


こうした傾向が単に現代不安の産物でないというなら、それは実際、健全な傾向といえよう。
しかし、危険もある。
宗教的伝統といっても、その比較的芽につきやすく、
華々しいが、健全とはいえない傾向にしがみつく傾向である。
宗教に対する知識人の興味が、
主として権威主義ならびに反動の発展にそそがれるようになれば、
失われるものもいよいよ大きい。


問題は、倫理・宗教的の点で健全なもの、
しかも個人的価値・責任・自由を減らすよりもむしろ増大してゆくような確かなものを
何が生みだすか を識別することにある。

前章までに触れてきたように、
健全な倫理意識はどのように人間の中に生まれ、
かつ、発展するかをたずねることから始めよう。





 
 
 
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       アダムとプロメチュース (1)(*アダムとイブ)



人間は、
 太陽に向かって花が生長するように、自然に倫理的判断ができるようになるのではない。

自由をはじめ、人間の自己-意識から生まれる側面と同様、
倫理的認識は、内的葛藤や不安という代価をはらって得られるものである。


 この葛藤は、
最初の人間についての魅力的な神話、
アダムに関する聖書物語の中に描かれている。

これは実は、紀元前八五〇年ごろ、旧訳聖書の中へもちこまれ、
書きなおされた古代バビロンの物語であるが
(*参考サイトexlink.gifexlink.gifexlink.gif他多数) 
この物語は、
倫理的判断と自己意識が、どのようにして同時に生まれるかを描いている。


 アダムとイブは、
 神が「見てたのしく、食べておいしいあらゆる種類の木を生成させた」エデンの園に住んでいる。
 この楽園は、あくせく働く必要もなく、欠乏ということを知らない。

 さらに重要なことは、
 アダムとイブには何の不安も罪の感傷もなかった。
 いわば「自分が裸のままであることを知らない」彼らは、
 生活のため大地にたたかいを挑む必要もなく、自らの中に何らの心的葛藤もなく、 
 神とも何の精神的葛藤もなかった。 

 ただ、アダムとイブは神によって、
 善悪を知る智慧の木の実や、生命の木の実を食べてはならないよう命じられていた。
 それは
 「彼らが善悪を知る神に似ることのないためであった」。

 アダムとイブがはじめて木の実を食べてしまったとき、
 「彼らは目を開けた」
 そして、
 はじめて善悪を知ったことの印は、不安と罪の経験として現れてきた。
 彼らは「自分の罪を意識した」。

 
 そしてこの物語の作者が、そのこどもらしい、魅力的な文体で記しているように、

 真昼に、神が毎日の散歩に楽園をよこぎるとき、
 アダムとイブは、神に見られないように木々の間に身をかくした。


 彼らの不服従を怒った神は、彼らに罰を割りあてた。
 婦人はその夫に対して性的あこがれ(sexual craving)を抱き、
 出産の苦しみを味わうよう宣告された。
 そして、男性には
 労働という罰を与えた。


   おまえは 額に汗して生活の資を稼がねばならぬ
   おまえが大地にかえりつくまで――
   おまえはちりだから
   ちりにかえらねばならない。



この有名な物語は、事実、初期メソポタミアの素ぼくな表現をとっているが、
あらゆる人間の発達途上、1~3才の間のある時期に、遭遇するところのこと、
すなわち、自己意識の出現を述べているのである。
そのときまで、各自は
エデンの園に住んでいるのである。

エデンの園は、幼児、動物、天使たちに固有の状態を代表している。
そこでは、倫理的葛藤も、責任も存在しない。
恥も、罪も知らない無垢(イノセンス)の時代である。



生産活動のないパラダイス(楽園)の状況は文学作品の中で
さまざまな形で現れている。

それらの描写は、自己認識の生まれてくるまえの初期状態、
あるいは無垢の時代と心理学的に大いに共通点をもつ
さらに極限的な状況、つまり、
子宮内生存に対する
ロマンチックなあこがれに立ち戻ってゆくことを示している。





  
 
 
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       アダムとプロメチュース (2)(*アダムとイブ)


 「無垢(イノセンス)状態」の喪失、および倫理感覚の萌芽を手始めに、
 人間は、自己意識、不安、罪悪感といった人間特有の重荷を相続するものであることを
 アダムとイブ神話は示している。



後になってのことかもしれないが、
同じく人間は、自分が「ちりからできている」という認識に達する。
つまり、自分はやがて死ぬものであるという自覚、自己自身の有限性を意識するようになる。


 その積極的な側面を考えるなら、
智慧の実を口にすること、正邪(right and wrong)の区別を学ぶことは
心理的、精神的人間の誕生を現している。

exlink.gifヘーゲルは人間の堕罪神話を、「上向きの堕罪」(fall upward)であると述べている。
神話を創世記のなかにとりいれた古代ヘブライ人は、それを天井の歌をもってたたえ、
歓喜すべきこととしている。
というのは、
アダム創造のときより、むしろ、このときこそ
人間がほんとうに人間存在として生まれる日だからである。



 
 しかし、驚くべきことは、これが全て、神の意志、神の命令に「そむく」できごととして
 描かれていることである。


神はここでは怒れるるものとして描かれている。
神はいう。
「人間のやつは善悪を知ることによって、おれたちに似てきた。
 このままにしておいて、もし人間が手をのばして、生命の木の実を手に入れ、
 それを口にするようなことになったらどうなるか。
 あいつらは永遠に生きることになる」

この神は、
人間が智慧を身につけ、倫理的感覚をもつことを望んではいなかったと考えるべきだろうか。
―創世記神話に出てくるように、
 この神が人間を自らの姿に形どって造ったということに、何らかの意味が含まれているとすれば、 
 それは、自由、創造性、倫理的選択という点で、神に似ることを意味する。

神は、人間を
「無垢」のまま、心理的・倫理的盲目状態のままにおくことを望んでいた
と解すべきだろうか。 

こうした解釈は、
神話についての鋭い心理学的洞察とはあまりにかけ離れているので、
われわれは他のいくつかの説明を見つけなければならない。


たしかに
それが紀元前3,000~1,000年へのかけての萌芽の時代に端を発するものではあるにしても
この神話は素ぼくな見方を示している。
素ぼくな語り手たちが、
建設的な自己意識と反抗を区別できなかったことは理解できる。
(今日でも、多くの人たちにとってその区別は難しいのだから)


この神話の神は、
もっとも古く、素ぼくなヘブライ種族の神、ヤッハウェー(yahweh)であって、
この神は、嫉みと復讐の神として有名である。
  後の予言者たちが反抗したのは、
ヤッはウェーの残忍な、非倫理的なやり方に対してであった。


ここで、
同じ古代に生じたオリンパス山のゼウス・そのほかの神々という
併立するギリシャ神話に目をやるならば、
われわれは、アダム神話のもつ奇妙な矛盾に光をあてることができる。

 
 
 
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         アダムとプロメチュース (3)(*プロメテウス)


 exlink.gif プロメチュース(*以下プロメテウスと表記)は、
  神々から火を盗み、
  それを、人間が暖をとり生産に利用できるよう、人間に与えてしまう。

 ある晩、
 地上に燃えるあかりを見たexlink.gifゼウスは、人間どもが火をもっていることに気づき、
 怒りのあまり、
 プロメテウスをつかまえ、コーカサスへ追放し、
 鎖で山頂に繋いでしまう。

 ゼウスのたぐいまれな想像力は、
 昼は、はげたかにプロメテウスの肝臓を食わせ、
 夜の間にそれが再生されてもとに戻ると、次の日、再び、はげたかの餌食になる
 という拷問をつくった。


 これは不運なプロメテウスに対し、絶えることなき苦悩を保証するものである。   

罰に関するかぎり、残酷さの点ではゼウスのほうがヤハウェーよりも上手である。


 今や人間が火を所有してしまったことに怒りを燃やしたギリシャの神は、
 一切の病気、悲しみ、悪徳を、蛾のような動物の形にしてひとつの箱の中に閉じ込めてしまい、
exlink.gif マーキュリーにそれを持たせて、
exlink.gif パンドラexlink.gifエピメテウスが幸福な暮らしをしている
 地上のパラダイスに運ばせた。

 好奇心の強いパンドラがその箱をあげたとき、
 それら生きものが地上にとび出した。
 そして人類は、これら決して尽きることのない苦悩にさいなまれることになる。


神の
人間に対するこうした扱いにみられるデーモン的要素は、たしかに美しい情景ではない。



 アダムの物語が自己-意識の神話であるように、
 プロメテウスは創造性のシンボルである。
―すなわち人類に新しい生き方をもたらすのである。
 実際、プロメテウスの名は「予想」
(*pro(先・前)metheus(考える者)=先見の明を持つ者*wiki)
 を意味する―

すでに述べたように、
将来を見通し、計画を立てる能力は、自己意識の一面にすぎない。
プロメテウスの苦悶は、創造性に伴う内的葛藤をあらわしている。
それは不安と罰をあらわしている。
―そしてそれは、ミケランジェロ、トーマスマン、ドストエフスキーその他多くの創造的人物が
 われわれに語っているように―

人類に新しいものをもち込む人間の当然うくべきものである。



 アダム神話の場合と同じように、
ゼウスは人間の向上衝動を嫉妬し、罰という形で復讐をはかっている。
ここにも同じ問題が起きる。
―神々が人間の創造性に反撃するということはどんな意味をもつのか、と。


 たしかにアダムとプロメテウス、いずれの行為にも神々への反抗がみられる。
これが、あるがままのそれら神話が意味をもってくるポイントである。

ギリシャ人、ヘブライ人たちは次のことを知っていた。
すなわち、
人間が自己の人間的限界を超出しようとするとき
無理を押す罪を犯すときexlink.gifダビデexlink.gifウリヤの妻を奪った行為)
傲慢のきわみをなすとき(トロイを征服したときのアガメムノン
あるいは、
身に万能の力ありと僭称するとき
(近代ファシズムの観念論)
自己の限られた知識をもって究極の真理ととるとき(宗教的、科学的を問わず、ドグマ(教条主義)的人間のやるごとく)
そのとき人間は危険な状況にある。

ソクラテスは正しかった。
智慧の始まりは、自己の無知を認めることであり
自己の能力の限界を認めてかかるときだけ、
ある程度その限界を超えることができるのである。

神話は、誤った自惚れに対して警告する点で健全である。




 
 
 
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         アダムとプロメチュース (4)(*抵抗)


  ところで、上述の神話が描いている反抗は、あきらかに正当であると同時に建設的である。

  したがって、それらの神話を、
  自己の有限性、および、自惚れに対して人間の闘う姿として簡単に捨て去ることはできない。


これらの神話は、次のような心理的葛藤を描いている。

こどもが「開眼し」、自己-認識を得るには、つねに、
それが親(*あるいは親代理となる重要他者)であれ、神であれ、
権力をもつ者との潜在的な葛藤を引き起こす          

しかも、
こうした抵抗は、
それを抜きにしては、
子どもは、自由、責任、倫理的選択を主張できるだけの潜在力をもち得ず、
人間固有のもっとも高価な性格特性が眠ったままになってしまうような
この抵抗がなぜ非難されねばならないのか。


  これら神話の中には、
ねたみの神々によってあらわされている強固な権威と、
新しい生命や創造性の急激な出現とのあいだには、古くからの葛藤があることが語られている。


新しいヴァイタリティの出現は
いつもある程度、既存の習慣や信仰を破壊してゆくものであり、
それは、成長してゆく人間だけでなく、
権力の座にあるののにたいしても脅威と不安をよび起こすものである。

「新しいもの」を代表する人々は、
オレステスやエディプスが見いだしたように、
堅固な権力との死闘の中に身をおくことになるかもしれない。

アダムの不安とプロメテウスの体験したような苦悩は、
創造的人間それ自身の中には、前進することの恐怖のあることを心理学的にもの語っている




これら神話の中には、
人間の勇気ある側面だけでなく、
自由よりも逸楽を求め、
成長より安定を好むところの奴隷根性的側面が語られている。
アダムとイブの神話の中で科せられる罰が「性的欲求」と「労働」であるという事実は
重要なポイントである。

というのは、土を耕し、食物を生産し、自ら手を下すことによって創造する機会、
これを罰としての労働と考えさせるのは、
われわれの中にあって、
いつまでも面倒を見てもらいたいという欲求のためではなかろうか。

性的欲求それ自体を重荷ととるのは、
自分自身が不安であることを示すものではなかろうか。

実際exlink.gifオリゲネスがやったように、
自らの自己認識を去勢してしまうことは、
欲求を切断することによって、葛藤を避けようとするものである。



確かに、自分自身の生活の糧を生産しなければならないことに伴う不安と罪、
それに性欲、自己意識のもつほかの側面に含まれる問題は
苦しいものである。


ときどき、それはたしかに大きな葛藤や苦悩をひき起こすことがある。
精神病のような極端な場合をのぞくとしても、自己認識、創造性といった冒険のために払う代償としては、
不安や罪悪感はあまりにも高価である。という主張もありうる。
無垢な幼児であるよりむしろ人間存在であろうとするための
力を得るためたの代償として、それらはあまりに高価すぎるのだろうか。



  これらの神話は、
それがギリシャ、ヘブライあるいはキリスト教のものであるにせよ、
あらゆる宗教的伝統のもつ権威主義的側面を示している。
それらが、新しい倫理的洞察にたいして反撃してくるのである。

それは嫉みと、復讐の神ヤハウェーの声としてあらわれたり、
息子の地位と権力に嫉妬して、自分の息子を棄て狼にゆだねる王、エディプスの父親の声にみられる。
あるいは、若々しいもの、
成長するものを押しつぶそうとする首長や僧職者の形をとることもある。
さらに
新たな創造性に抵抗するドグマティック(教条的)な信念や厳格な習慣にもみられる。


 たしかに、全ての社会が両面をもたねばならない。
一方には、新しいアイデアや倫理的洞察を生みだすところの根源力が必要であり、
他方には、過去の価値を保存する制度というものがなければならない。


新しいヴァイタリティと古い形式、変化と安定、
現存の制度を攻撃する預言的宗教と制度を保護する僧職宗教
といった両面なしに
いかなる社会も永続することはできない。



しかし、すでにみたように、今日、われわれの直面している問題は、
順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる(*ことである)。

                                     (*次節へ)




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         アダムとプロメチュース (5)(*順応・服従)


  今日、順応することを目標とする圧倒的傾向がみられる。


集団が自分に期待している通りに、
死にものぐるいになって生きようとするレーダー型の人間
(*周囲に合わせるため常に周囲へアンテナを張っている人間)
は、あきらかに
自己の所属集団の基準に「適応する」ことをもって道徳と思っている。


こうした時代においては、倫理とは、
いよいよ「服従」と同一視される傾向にある。

われわれは
社会と教会の指示に従っているかぎり「善良」ということになる。


アダム神話をひととおり見るだけなら、この傾向はうまく合理化されている。つまり、
―もしアダムが服従していたなら、
 彼は決して楽園を追放されることはなかったことを指摘できる。
この見方は、
現代の混乱した時代においては、きわめて強力に訴えるものがある。


心配も、欠乏も、不安も、葛藤も、個人的責任もない
パラダイスによって象徴される状態が、
不安の時代においては切に望まれるからである。


このように、
自己意識を発達させないことが、暗黙のうちによいこととされ、
それはあたかも、
文句をいわず、服従するのがよいこととされ、
個人的責任をひき受けることが少なければ少ないほどよいこと
とされているようなものである。



 服従することがどうして倫理的とされるのか、
われわれの目標が単なる服従であるとすれば、われわれは
犬を要求される通りに動くよう訓練できる。事実、犬は、
その飼い主の人間以上に、いっそう「倫理的」になるかもしれない。

飼い犬は、
自由が抑圧され、拒否されることに対する抗議として、
たえずくすぶっている神経症的なものを、
なにか不服従の「行為」の形で爆発させることをしないように
仕付けられているからである。



 さて、社会学的レベルでは、受け入れている規範に従うことがなぜ倫理的なのか。

一九〇〇年代において、その当時の理想とされる生活を充実させる人は
当時のほとんどの人と同様、性的に抑圧されてきていた。
一九二五年になると、その同じ人物が、当時うけ入れられている生活様式にたいし、
おだやかではあるが、反抗的になってきた。
一九四五年になると、
キンゼイ報告にでてくるような行動様式のほぼ平均的なもので、その行動を導くようになってきた。

それを「文化的」ないし「道徳的」ルール、あるいは
絶対的な宗教的教義と呼んで、そのルールをいかめしくしたところで、
こうした「順応性」のどこが倫理的なのか。


あきらかにこのような行動は、人間的倫理の 本質から、はずれている。
―すなわち、
 ここには他者との独自なかかわり合いを敏感に認識するとか、
 ある程度の自由と責任をもって、創造的関係をつくりあげることがなされていない。






倫理的感受性と現在の制度との間に生ずる葛藤ならびに
倫理的自由に伴う不安について、
もっともはっきり描きだしているのはドストエフスキーの「大審問官」である。

                                
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         アダムとプロメチュース (6)(*ドストエフスキー)


倫理的感受性と、
現在の制度との間に生ずる葛藤
ならびに、倫理的自由に伴う不安について、
もっともはっきり描きだしているのはexlink.gifドストエフスキーの「大審問官」
(*『カラマーゾフの兄弟』中の一章)である。



  ある日、キリストがこの世に還ってきて  
  静かに、控えめに町の人々を治療したが、
  誰もがそれを認めていた。

  それはたまたまスペインの宗教裁判中であった。

  老枢機卿である大審問官は町でキリストに逢い、
  彼を獄につないでしまった。

  真夜中のこと、審問官が獄にやってきた。
  それは
  なぜキリストが地上に還ってこなければならかったかという理由を、
  だまっているキリストに説明するためであった。

  一五〇〇年の間、教会は、
  キリストの行った、
人間に自由を与えるという 根本的な間違い
  是正するためにたたかってきた。
  そして審問官はいう、
  


  人間どもは、自分たちのやったことをイエスがもとにもどすことを
  許さないであろう。

  キリストの間違いは、
   「厳格な古代法のかわりに、キリストが、自由な心情をもって、
   何が善であり、悪であるかを単独で決定しなければならない」
  という重荷を人間に課したことであり、
  自由選択というこのおそろしい重荷は人間の手に負えないものである。

  キリストは、このうえもなく人間を尊敬した、と審問官は主張する。
  そしてキリストは、次のことを忘れてしまったという。すなわち
  人間は実際のところ、こども扱いされ、「権威」と「奇跡」によって導かれることを願っている
  ということである。 
  
  
  キリストは、悪魔が誘惑して述べているように、
  人間に単にパンのみを与えるべきであった。
  それなのに、

   「キリスト、おまえは人間から自由を奪わず、私の申し出をことわってしまった。
   考えてみるに、もし服従がパンであがなえるとすれば、その自由になんの価値があろうか。……
   しかし結局人間どもは、その自由をわれわれの足下にさし出して、
   われわれに請うことになる。私たちをあなたの奴隷にしてください。
   その代わり、食べさして下さい。と、……

   キリストよ、お前は忘れてしまったのか、
   人間は善悪を知る選択の自由よりも、平安と死をさえ望んでいることを。」


  キリストの 自由な生き方にしたがうことのできる少数の英雄的に強い人間がいる、と
  その老審問官は続ける。

  だが、たいていの人間が求めているのは、

   「すべてが一つの、同意見の、調和ある蟻塚に合体されることである。…
   私はお前に告げよう。不幸な人間がもっとも苦しめられるのは、人間が
   もってうまれた自由という あのさずかりものを、手渡してしまえる相手を
   一刻も早く見つけたいという心配なのだ。
   そのさずかりものを受け取るのは教会である。
   “われわれは、その人間が従順か否かに従って、彼が妻や愛人と暮らすこと
    こどもをもつこと持たないことを、許可したり、禁じたりすることになる
    そして人間どもは、よろこんで、心からわれわれに服従するであろう。……
    というのは、服従は、
    自分の力で自由な決断を下そうとするとき、耐えねばならぬ大きな不安や、
    おそろしい苦悩から人間を救ってくれるからである”。」
  

  その老審問官は、「
なぜお前はわれわれの仕事の邪魔に戻ってきたのか」 
  と、いくぶん悲しそうにことばを変えて質問し、
  去り際に、明日キリストは焼かれることになると告げてゆく。




もちろんドストエフスキーは、
審問官がカトリックとかプロテスタントとかの味方であると
いっているのではない。

彼はむしろ、
「同意見の…蟻塚」を求める宗教のもつ
生-妨害的な側面を描きだそうとしているのである。

これは人間を奴隷にし、
一杯のポタージュのためもっとも高価なものを犠牲にしてしまったexlink.gifエソウのように、
もっとも貴重なもの、自由と責任の放棄を誘うような要素を指摘している。

したがって、
それを中心に自分の生活を統合できるような価値 を求めている今日の人間に必要なことは、
容易に手に入る簡単な出口は何もないという 事実を直視することである。 



 
 
 
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         アダムとプロメチュース (終)(*倫理と宗教)

 

歴史をふりかえってみると、
倫理的預言は、宗教的伝統の中に生まれ、かつ育ってきた。
―それを知るには、exlink.gifアモスexlink.gifイザヤ、イエス、exlink.gif聖フランシスexlink.gif老子、ソクラテス、スピノザなどを思い出せばよい。

しかし他方、
倫理的に敏感な人間と、宗教制度との間には、よりきびしい闘いが存在する。

倫理的洞察は、現存の慣習に順応することを攻撃するところから生まれてくる。

山上の垂訓で、
キリストは自分の提出する新しい倫理的洞察それぞれを述べる前に、
次のような言葉を繰り返して言っている。
「…と言えるをなんじら聞けり、されどわれはなんじに告ぐ」と。
この体験は、倫理的感受性をもった人間には、たえず繰り返されるものである。
すなわち「新しい酒は、古いつぼに入れてはならない。さもないと
つぼは破裂し、酒はこぼれてしまう。」* 
(*exlink.gif邦訳聖書ではつぼではなく革袋

これは常にあることであって、
ソクラテス、キルケゴール、スピノザのような、倫理的に、創造的な人間は、
伝統的組織のもつ公式化された「規律」とは反対の、
新しい倫理的「精神を」見いだそうとしている。
これら倫理的指導者と、既存の宗教・社会制度との間にはたえず緊張関係が続き、
時として、歴然としたたたかいとなる。
倫理的指導者はしばしば教会を攻撃し、教会は彼らに敵としての烙印を押す。
 ―「神に酔える哲学者」(God-toxicated philosophar)exlink.gifスピノザは破門された。
 ―キルケゴールの著書のひとつは、『キリスト教徒への攻撃』(exlink.gifattack upon christendom)と題されている。 
 ―イエスやソクラテスの処刑されたのは、道徳的、社会的安定をおびやかすものとしてであった。
歴史的事実として、
ある時代の聖者たちがいかにしばしば、前の時代のいわゆる無神論者(atheist)であったかを知ると
驚かざるを得ない。



 今日、倫理的成長に反するものとして、既存の宗教的制度を攻撃する人の中に
ニーチェ、フロイドがあげられる。
exlink.gifニーチェは、
キリスト教道徳は、怨恨(ルサンチマン)によって動機づけられているとして抗議し、
exlink.gifフロイドは、
宗教は人を、幼児的依存症に安住させるものとしてそれを批判する。

彼らの表明しているのは、人間の幸福や、自己、
(*フロイドの場合は精神分析本来の意味でのexlink.gif自我)  
実現(fulfillment)に対する倫理的関心である。

ある地方では
彼らの考えは宗教に敵対するものとみなされてきたが(ある部分はそうである)
やがて先の世代では、彼らの重要な洞察は、倫理宗教的伝統の中に吸収されてゆき、
宗教は彼らの貢献によってさらに重要なもの、より有効なものになることと思う。
たとえば、exlink.gifジョン・スチュアート・ミルによると、
彼の父親、exlink.gifジェームス・ミルは、宗教を「道徳の敵」と考えていたとのことであるが、

 父親のミルは、スコットランドの長老派教会で教育を受けている。
 しかし後になって教会から離脱している。
 それは、exlink.gif予定説に説かれるような、
 人は自らの選択によることなく、そこへ向かいつつあるということを承知のうえで、
 神は地獄をつくることができた、という考えを受けいれることができなかったためである。

 彼は次のように考えた。

 人間の意志行為によって成り立つものである道徳の規準を、
 根本からだめにしてしまったものが宗教である。
 しかもこの宗教は、実際には人間のことを惜しみなくお世辞のことばを使っておだてているが、
 よくみると、人間をあきらかに憎らしいものとして描いている。

(息子の)ミルは19世紀中頃にあらわれるこの種の「不信仰者」(unbeliever)について次のように述べている。

「不信仰者の中のもっとも立派な人たちは、…
 もっぱら、自分だけが宗教的であると僭称する人々よりも、
 宗教ということばのもつほんとうの意味での、真実、宗教的な人である」 と。
 


exlink.gifニコライ・ベルジャエフは、ロシアの正当派神学者かつ哲学者である。
その彼も、
前述のミルが述べている同じサディズム的な教義に抗議している。
そして、次のような事実に反撃している。
「キリスト教徒は、低頭し、へつらい、平伏することによって、
 自分がいかに敬虔であるかを表明してきた。しかしこんなものは
 奴隷根性(servility)や屈辱を示すジェスチャーにすぎない。」
史上まれにみる倫理#2C4E16的預言者すべての例にもれず、ベルジャーエフは、常に
神の名において神にたたかいを挑むのである」 と述べている。
自分がそれに反抗を決意すべき対象を裁くあたって、
 私は、ある究極的な価値(ultimete value)にふれることなく、
 またその究極的価値の名においてではなくして、反抗を打出すことはできない。
 いいかえれば、私は神の名において反撃するのである。」 



このように、
新しい洞察と、旧慣墨守的な権威とのたたかいの中には、
共通のモチーフがある。

アダムとヤハウェー、
プロメテウスとゼウス、エディプスと父親、
オレステスと母権制権力 
といった二者間の葛藤、実際の人間倫理史上の予言者の中にみられるたたかいである。

それは、レベルこそ違え、
われわれが、こどもと親とのあいだの葛藤の中に思い出すのとおなじ心理学的モチーフ
ではないだろうか。

もっと正確にいうと、
(*以下原文傍点)
それは
あらゆる人間に見られる自己意識の拡大、
成熟、自由、責任性、の確立をめざしてたたかう傾向と、
他方、
いつまでもこどものままでいて、
親あるいは親に代わるべき者の保護下にいたいという傾向、
この両者間の葛藤ではなかろうか。







 
第6章 Ⅰ 了
 
 
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最終更新:2015年05月16日 08:58