第3部_第7章 勇気 (孤立,創造,親,自己愛・虚栄,愛


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ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)

 

 

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   第七章 勇気-成熟の徳- 


  いつの時代にあっても、勇気というものは、
  人間が、幼児期からパーソナリティの成熟にいたるまで、けわしい岩山を越えてゆくのに
  欠くことのできない素朴な徳である。



しかし不安の時代、大衆道徳と個人的孤立の時代にあっては、
勇気は必須の条件である。

社会の習俗が比較的安定した導き手である時代には、
個人は、その発達途上の危険にさいして、比較的しっかりクッションで支えられている。

しかし現代のごとき過渡期においては、
個人は、幼児期に自己の責任をひきうけ、
かなり長期にわたってそれにたえてゆくことになる。


ここで、勇気という項目に一章をさくことを不思議に思われるかもしれない。

というのは、過去数十年にわたるわれわれの傾向として、
一般に、勇気というものを騎士道といった旧式の徳に分類してしまうか、あるいは
せいぜい、それをスポーツをやる青年、戦場の兵士にとって必要なものとみとめるくらいであった。

われわれは、
生命というものを過度に単純化して考えたため、
勇気という問題を避けて通ることができた。
そして死について意識することを圧えてきた。

しかも、幸福と自由は自動的にやってくるものだと自分に言い聞かせ、
孤独と不安と恐怖はつねに神経症的で、適応がもっとうまくいけば克服されるものと考えていた。
そうしたものを扱うにあたって、必要とされる勇気は、専門家による援助を受けるよう処置を講ずることである。

しかし、そこには、
発展途上の人間すべてが遭遇するところの 正常不安体験 というものがなお残っている。

勇気が本質的なものである、という意味は、
その不安体験は回避すべきものでなく、直面すべきものだということである。

われわれが述べるのは、
戦争や水素爆弾のような、外的脅かしに直面するのに必要な勇気についてではない。
われわれが述べるのは、
内的素質としての勇気、自己意識や自己の能力にかかわる関わり方としての勇気
についてである。

自己意識の扱い方の面で、この勇気が達成されるとき、
われわれわは、きわめて平静に外的状況に直面できるのである。




 
 
 
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 題名:7章 #2
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          自己自身になりきる勇気 (1) 


  ここでいう勇気とは、ある人が自らの自由を達成しようとするとき生じてくる不安に
 遭遇できる能力である。




勇気が必要とされるのは、
親の保護からの分裂がもっとも著しいとき、すなわち、
自己意識の誕生、就学、青年期、恋愛、結婚、究極的な死など
人生の危機状況に直面するときだけではなく、
なじみのある環境から、辺境をこえてなじみのない環境へ移動してゆくとき、
その中間地帯に足を踏み入れる場合である。


「その究極の分析において、勇気は、
 生存のショックに対する確実な反応にほかならない。
 しかもこのショックは、自分自身の本性を実現させるためには、うまれてこなければならないものである。」


と、神経生理学者exlink.gifクルト・ゴールドシュタインは適切に指導している。


 勇気の反対は、臆病ではなく、それはむしろ勇気の欠除態である。
ある人が臆病であるというのは、その人が怠け者であるというのと同じ意味である。
それは、われわれの持つ生き生きとした潜在力が実現されないか、あるいは
阻止されている状況を示している。

われわれが現代という特殊な時代のかかえている問題を解決しようとするとき、
勇気の反対物は、自動機械順応性
(automation conformity)である。



 自分自身になる(自分の自我になる)という勇気は、今日、最高の徳として賞賛されることがほとんどない。

それを困難にしているの一つの理由は、
多くの人がなおその勇気を、十九世紀末の独立独行型の息づまるような態度、
あるいは『インヴィクテウス』という詩
(*exlink.gifインビクタスinvictus)
のテーマ「自分は自分の運命の主人」であるかのように、
いかにそれがまじめなものであろうと、どこか奇妙なものを連想することにある。

今日、自分自身の確信を主張することは、「危険に身をさらす」こと
(sticking one's neck out=首をつきだす)だと、
多くの人はみている。
この無防備な身構えによって述べようとしている要点は、
どんな通りがかりの人でも、首をつきだして歩いていると、頭を切り落とされてかねない、ということである。

あるいは人々は、
信念をもって邁進することを、「危険に身をさらす」
(going out ona limb=枝の上を歩く)という。
これはどんな情景を表現しようとするのか。


 木の枝にとまっていてやれることはただ、もう一度張ってもどり、
 その枝をのこぎりで切り落として、自分も落ちてしまうのか。
 それは殉教者のような、そしておそらくいたずらに墜落してしまったexlink.gifイカルスのように劇的である。

 あるいは、枝の上にとどまって、ヒンズー教の樹上座をやる者のように無為徒食して、
 そんなことにさほど価値を認めない一般民衆の笑いものになり、とうとう枝が枯れて、
 重みで、その枝がおれてしまうまでそうやっているというやり方もある。



 これら二つの表現が強調している点は、
いちばん恐ろしいことは、集団から離れ、はみ出してしまい、集団と調和しないという事実である。
孤立して、一人ぼっちになるとか、あるいは「社会的孤立」すなわち
笑われ、あざけられ、あるいは拒否されるのが恐ろしくて、人々は勇気がないのである



exlink.gifウォルター・キャノン博士が
exlink.gifヴードゥー死」(voodoo death)の研究であきらかにしていることは、
未開人は、共同体から心理的に孤立すると、死んでしまうこともある、という事実である。

社会的に追放され、種族のものから、
あたかも、もう存在しないもののように扱われた原住民が、
実際にしおれて、死んでしまったケースが観察
されている。

これはexlink.gifウィリアム・ジェームズのことばを思い出させる。
彼は、社会的に承認されないことによって、「素知らぬふりをされる」(to be cut dead)
という表現には、詩以上の真実が含まれるという。


このように、
集団から拒絶されるという危険をおかしてまで、自己の確信を固執することが、
死ぬほどおそろしい、というのは、神経症的な想像のつくりごとではない。






 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (2)(*性、創造)


  今日、われわれに欠けているものは、ソクラテスあるいはスピノザのもっていた
     親しみのある、あたたかい、個人的、独創的、建設的な勇気 についての理解である。




われわれに必要なのは、勇気のもつ積極面の理解である。
成長の内なる側面としての勇気、
自己自身に与えるべき力に先立つ建設的な自己意識形成法としての勇気である。


このように本章で、自分自身の信念の固執を強調しているのは、
空虚な分離状態で生活することをいっているのではない。
実際、勇気は、他者との創造的なかかわり方の基盤をなすものである。


愛のもつ性的な側面から一例をあげると、

 男性にみられる勢力の減退からくる問題の多くは、
 母親の対する恐怖をとおして、
 婦人一般をおそれていることが原因であること、はよく知られている。

 しかも、この恐怖は、ペニスをワギナへ挿入するとき、
 ペニスが吸収され、取り去られてしまうのではないかという恐怖、
 婦人に支配され、あるいは婦人に依存するようになることの恐怖によって
 象徴的に表現されている不安の焦点をなすようなものであることも知られている。

 治療においては、こうした問題の起源がすっかり、明確に解決されなければならない。


しかしこれが達成され、そして神経症的不安が克服されると、
そのとき勇気は、他者とかかわり合う能力と手をとりあってすすまねばならない。
しかも性的な例をあげると、
この勇気は、
積極的な性交に必要な自己主張だけでなく勃起の能力のなかに、象徴的にも、実際的にも示されている。

この性的な類推は、
生活のほかの関係場面についても、そのまま当てはまる。
自分の自我を主張するときだけでなく、
自分の自我を与えるときにも勇気が必要である。



  創造活動には勇気の必要なことはよく知られている。
自己の体験からこの真実を十分承知していたexlink.gifバルザックは、
この主の勇気について生き生きと記述している。
(以下『従姉妹ベット』より)

  とりわけ、芸術の中で、最大の栄養をにないうる性質のものは
  ―しかも、このことばによって精神のあらゆる創造活動を含まねばならない―
  勇気である。
  普通の人では考えも及ばない、おそらくここではじめて述べられる、そういった種類の勇気である。
  ……
  すばらしい作品をもくろみ、夢み、想像することはたしかに楽しい仕事である。
  ……
  しかし未完成の仕事を生みだし、作りだし、骨折って育てること、
  ミルクを十分ふくませて床につかせたり、毎朝尽きることのない母性愛で抱き上げ、
  きれいにふいてやり、すぐ引きちぎってしまう美しい衣装を何度もくりかえし着せてやり、
  しかもこの一見狂ったような生活の激動によってけっして失望せず、
  そこから、
  彫刻にあってはすべての目に、文学にあっては一切の心に、
  絵画にあってはすべての記憶に、音楽にあってはすべての人の心情に語りかける生きた傑作を
  つくりだすこと。
  ―それが創造という仕事というものである。
  手はいつなんどきでも心にしたがうよう準備ができていなければならない。そして心の創造的瞬間は、秩序に服さない。
  ……
  しかし仕事は、しばしばその仕事の重圧によって、
  繊細でしかも力強い人間によっておそれられると同時に愛されるところの
  うんざりするたたかいである。
  ……
  もし芸術家が、軍人が攻撃の矢面に立つように、あとをかえりみることなく、
  自分の仕事に身を投じないなら、そして破裂孔のなかで落岩の下敷きになった抗夫のように掘らないなら、
  ……
  その仕事は決して完成しないであろう。その仕事は生産の不可能な仕事場で亡びてしまい、
  その芸術家は、自分自身の才能の自滅をながめることになる。
  偉大な将軍とおなじ報酬、、同じ勝利、同じ栄誉が偉大な詩人にも与えられるのはこの理由による。



われわれがバルザックのやらなかったような精神分析的研究をとおして知ることは
次の点である。

創造活動が大量の勇気を必要とする理由の一つは、
創造とは幼児的過去への結びつきから自由になることであり、
新しいものが生まれるためには、古いものを破壊することである。

芸術あるいは実業の面で、外面的仕事を創造すること、および自分自身を創造すること、
いわば自分の能力を発達させ、より自由になり、より責任をとるようになること、
これらは同じ過程の両面をあらわしている。

純粋の創造性からでてくる行為はすべて、
より高度の自己認識と個人的自由の達成を意味する。


しかし、それはこれまでの神話でもみてきたとおり、
かなりの内的葛藤が含まれている。 

 

ある風景画家は、自分にとって大事な問題は、
自分を所有欲の強い母親への結びつきから解放することだと考えていた。

 彼は何年ものあいだ、肖像画を描きたいと思いながら、
 決してそれを実行できないでいた。

 あるとき彼は、とうとう勇気をふるって、三日間にわたり、
 「とび込む」思いで数個の肖像がを描いた。
 できあがったものは、すばらしいものであった。

 彼はかなりの喜びを感ずるだけでなく、同時に強い不安を覚えた。
 三日目の夜、彼はある夢を見た。

 その夢の中で、母親は彼に、お前は自殺をするに違いない、と語った。
 そこで彼はおそろしい、圧倒的な孤独感に襲われ、友人たちにさよならを言おうと、
 電話をかけていた。



つまるところこの夢は次のことを語っている。

「もしお前がなにかを創り出そうとするなら、お前は親しいものと離れ、
 ひとりぼっちになり、死んでしまうだろう。
 親しいものと一緒にいて、創造なんかしないほうがよい」と。

この、強力な無意識のおびやかしの素性をみるにつけ、
その後彼が、
夢にあらわれてきた不安の反撃に打ち勝つまで、一ヶ月も肖像画が描けなかったことは、
きわめて重要な意味がふくまれている。



 

 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (3)(*身体的勇気と道徳的勇気)


     バルザックの叙述の中で、われわれ同意しかねる点がひとつある。
それは、「普通の人たちには、この勇気のことは何もわからない」という表現である。

(*「普通の人では考えも及ばない、おそらくここではじめて述べられる、そういった種類の勇気である」)

これは勇気というものを、
軍人の突撃や、礼拝堂の天井画を描くミケランジェロの苦闘のごとき、
劇的な行為と同一視することからくるあやまりである。

勇気というものを、「英雄」たちや芸術家だけのものとすることは、
生けとし生ける人間だれもの内なる発達の深みについて、
いかにわれわれが知らないかを暴露するだけである。


人間が集団から―象徴的には子宮から―
一歩踏みだすごとに、
自分自身の力で人間になるには、勇気が必要である。
それは一歩ずつあたかも自己の誕生の苦悩をかみしめているようなものである。

勇気は、それが死の危険にさらされている軍人の勇気にせよ、
就学時のこどもの勇気にせよ、いずれにしても
親しいもの、安全な場所からの離脱を意味する

みずからの自由を守るため、
時々おこってくる重大な決定だけでなく、
一つ一つの煉瓦を据えてゆく刻々のささいな決定にあたっても、勇気は必要とされる。


 このように、われわれの述べているのは英雄たちについてではない。
実際、
無分別
(rachness)のような見えすいた英雄主義はしばしば
勇気とはまったく別物から生まれたものである。

 第二次大戦で、
 危険をおかす点で、きわめて勇敢であった空軍の「熱烈」なパイロットが実は、
 しばしば、内なる不安に打ち勝つことができず、
 そのため外面的な無鉄砲な行為にでて、危険を招き、
 それで不安を補償しなければならない人物であった。


勇気は、内的状態として判断されねばならない。
そうでないと、外面的行為はきわめて人を惑わすものだからである。

というのは、内的自由を保持し、新しい領域への内なる旅を続けることは、
外的自由を求めて、挑戦的に立ち向かうより、
はるかに大きな勇気の必要な仕事だからである。

戦争で無鉄砲になることと同じに
殉教者になることはしばしば、よりたやすいことである。

不思議に聞こえるかもしれないが、
自由の中で、着実に、辛抱強く成長してゆくことは
おそらく、すべての中で、もっとも難しい仕事であり、
もっとも大きな勇気を必要とするものである。

いやしくもここで「英雄」ということばを使うとすれば、
それは傑出した特別の行為についていうのではなく
あらゆる人の中にひそんでいる英雄的要素のことをいうのである。


 勇気というのは、本来的には、道徳的勇気をさすのではあるまいか。

身体的苦痛をあえておかす能力を意味する、一般に身体的勇気とよばれるもの
単に身体的感覚の違いだけかもしれない。

こども、あるいは青年たちがたたかう勇気をもっているかどうかは、
そこに含まれる苦痛の多寡によるというのは、ただ二次的な意味しかもたない。

それはむしろ次のことにかかっている。
すなわち、
そのこどもがあえて親の反対をおかして行動できるか、
あるいは自分の安全確保の手段として、独立で、無意識に引き受けた役割が自分のためになっているか、
それとも、従順で「弱々しくふるいまうことで」
(playing weak)他人に気にいられようとしているのか
ということである。

内的葛藤なしに闘うことのできた人々は、一般に、
身体的苦痛は、戦うよろこびを感ずるゆえに克服されてしまうという。
そして死の危険をおかす。

いわゆる身体的勇気は、ほんとうは道徳的勇気とはいえないのではないだろうか。



 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (4)(*親の問題 1《症例》)



私の臨床的経験からいえることは、
人の勇気を発達させるにあたって、最大の邪魔ものは、
自分自身の力に根ざさない生き方を強いられるときである。

これは、次のような青年のケースにみられる。

 彼は同性愛的傾向、強い不安感と孤独感、定期的に自分の仕事を分裂させてしまう反抗的傾向
 こうしたもののために治療を求めてきた。


 彼はこどものとき、弱虫とみられ、ほとんど毎日のように学校の友だちにいじめられても、
 まったく立ち向かうことができなかった。

 6人兄弟の末子であった。4人の兄と、すぐ上に姉がひとりいたが、

 その姉は幼いうちに死んでしまった。 その姉は4人の男子のあとの待望の女子だったので、
 母親はとてもあきらめきれなかった。
 母親がとくにこの末子をかわいがるようになったのは、そのときからである。

 母親はこの男の子を少女のように扱い、少女のような服を着せ始めた。
 こうして彼は、女性的興味を発展させ、男の子たちとスポーツもやらず、
 もしたたかいを挑めば、兄たちがほうびにお金をくれたけれど、たたかおうとしなかった。



これらのことは、まったく理屈にあった発展であった。
彼は、自分と母親との現状の関係を、危険にさらしてはいけなかったのである。
というのは、彼が差し出された少女としての役割を受けいれるならば、
母親に受けいれられ、認めてもらえることがはっきりしていたからである。

―しかし、どこで彼は第5番目の男の子としての存在を保っていたのだろうか。
 彼は事実、少女ではなかったので、母親はすでに無意識的には彼を拒絶していた。

もし彼が少年のようにふるまうと、それは母親に、自分は少女をもたないということを示し、
少女は死んでしまったということを思い出させることになり、母親の憎しみを買うことになる


これら外からの要求は、あきらかに彼の内なる男性的傾向に反するもので、
大きな恨み、憎悪、そしてやがて反抗をひき起こすことになる。
―しかも彼は、そうした感情のいずれも、
 母親に向かって表明することはできなかった。
男性としての勇気の発展する基盤が、彼のもとから取り去られてしまったのである。


 成人したいま、彼は、社会的な反抗行為によって、大いに勇気を発揮した。
 そしてもし男性的権威に対する反抗が必要とされれば、喧嘩のなかにも飛び込んだ。
 しかし、だれか齢上の婦人、
 すなわち母親に代わるものに抵抗することから、何か問題が生じるときには、彼はおそろしくなった。
 ―彼の実際の母親は、このときすでに死亡していた。



彼にとって、どうしてもふりはらうことのできないものは、
自分自身の心の中に母親イメージによる最終的な拒否と、
母親からの孤立であった。



このように、もしある人間が終始、
親の目の中にある自分の役割、いいかえれば
自分自身のなかにもち運び、永続化させているイメージに従って生活しなければならないなら、
その人間は、
自分の支持しているものがなんなのか、自分が何を信じているか、
自分自身の力がいったいどんなものなのか、
こうしたことがわからないのである。


 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (5)(*親の問題 2 )



 普通のこどもは、耐えがたいほどの不安もなく、歩一歩自分を形成しながら、
 親からの分化過程をたどってゆく。


それは、
ときどきころがり落ちる苦痛やフラストレーションを経験しながらも
最後に成功の歓喜をあげることができるのと同じように、
通例こどもは、
自分自身の心理学的独立を歩一歩、感じとってゆくのである。

親の愛を意識し、未熟さの程度に応じた保護のあることを認識し、時に親と衝突し、
就学という危険を冒しながら、成長してゆく勇気は圧倒されることがない。

彼のほうにその準備のできている限度以上にひとり立ちを要求されることもない。

しかしもしその親が、上述の母親のように、
自分自身の不安から、こどもにある役割を強制したり、こどもを支配したり、
あるいは、過度に保護を与えねばならないなら、
こどもの成長という仕事はますます難しいものになる。



 自分自身の力について、内心(しばしば無意識的に)自信のない親は自分のこどもに、とりわけ、
 勇気、独立、攻撃性などを要求する傾向がある。


親は息子にボクシングのグローブを買い、
幼児期に競争的グループにこどもを押し込むかもしれない。
またいろんな形で、
親自身がそうではないことをひそかに感じている「男性」になるよう主張する。


 一般に、過保護の親たちと同様、こどもを駆り立てる親も
ことさら大声で話かける行為のなかで、こどもに対する自信のなさをバクロしてしまう。
しかし
どのこどもも、過度に保護することによって勇気を発展させないように、
また、こどもを駆り立てたからといって、勇気がのびるものではない。
そのこどもは強情になったり、弱いものいじめをするようになるかもしれない。


 勇気というものは、
人間としてそのこども自身の力 や、こども固有の性質を“確信”する結果としてだけ
成長するものである。
この“確信”はその基盤を、
彼に対する親の愛、および自分の潜在力にたいする自信 においている。

こどもの必要としているものは、
過保護やけしかけではなくて、こどもへの援助であって、
それは、こども自身、その力を利用し、発達させられるようにし、
たいていの場合、親に対して
こどもを一個の人間として見、その子ども自身の固有の能力や価値によって、親はこどもを愛するべきだ
ということをさとらせることである。



 親がこどもに異性の役割を引き受けさせるような例は、もちろんまれにしかない。
よりしばしば見受けるケースは、

こどもが親の社交グループでの、社交的に望ましい態度を十分に身につけ、
よい点数をとり、大学ではいろんな社交グループのメンバーに選ばれ、
そう言われたくはないが「ノーマル」であり、しかるべき配偶者と結婚し、親の事業を継承すること。


これらが要求されるケースである。

ところで、
息子や娘がそうした要求を信じていないとしても、彼らがこうした要求に従うとき、
自分は親から財政上、そのほかの援助を必要とするという理由をあげることによって、
一般に自分の行動を合理化しているのである。
しかし、より深いレベルでは、
通例、勇気の問題により関係のあるもう一つの動機がある。

すなわち、
親の期待にそって生きることは、親からの賞賛や賛辞を得る方法であり、
「親にとっての掌中の玉」であり続ける方法である。
このように、虚栄や自己愛(ナルシシズム)は、勇気の敵である。


 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (6)(*虚栄・ナルシズム)



 ここでは、虚栄やナルシシズムの傾向を、
ほめられたい、好かれたいという強迫的欲求 と定義しておこう。
こういう人たちは、自分の勇気を断念してかかっている。

虚栄心の強い、自己愛的な人間は、
自分を高く買いかぶっているため、
表面上は、自分を過度にいたわり、危険をおかさず、
そのほかいろいろと、臆病者のようにふるまっているように見える。
しかし実際は、まさにその正反対である。


彼・彼女は、自分が必要とする賞賛や好意を
それでもって購うことができる商品として、
自分を大事にしなければならないのである。


さらにくだいていうと、
常に父親か母親によってほめられていないと、
自分を価値のないものと感じることになるからである。
勇気というものは、自らの威厳と自尊心から発するものであって、
自分自身をあまりにみすぼらしく評価する立場からは生まれてこない。

「彼はすばらしいやつだ」とか「彼女は美しい」とか、賢いとか善良だとか、
自分に対するほめことばをたえず期待している人々が、
なぜ、自分をそんなに大事にするかというと、
自分が自らを愛するゆえでなくて、
美貌とか、智恵とか、あるいはおとなしい振る舞いとかいったものが、
親からいい子だといってもらうための手段になっているからである。


これはとりもなおさず、自らの自我を軽蔑していることになる。

そして結果的には、
その素質ゆえに、公衆の目に賞賛の対象と映っている多くの天分のある人々が
受けている治療に確信がでてくると、
自分はまるでいかさま師のようだと告白するのである。



 虚栄とナルシシズム―賞賛され、賛美されたいという強迫的欲求は
われわれの勇気を徐々に弱めてしまう。
もはやわれわれは、自分自身の信念より、
むしろ他人の信念によりかかってたたかうことになるからである。



日本の映画「exlink.gif羅生門」では、夫と泥棒は、
両人が自らたたかうことを決断したときには、まったく思う存分たたかっているが、
妻に大いに嘲笑されるほかのシーンでは、彼らはただ、
妻が彼らに男らしい勇気
(masculine prowess)を要求しているという、
強迫下にたたかうのであって、そのたたかう力は半減し、同じ一撃を加えるにしても、
それは何か目に見えない網で、彼らの腕がうしろへ引かれているようなたたかいぶりである。


 われわれが、だれかの賞賛を目当てに行動するとき、
その行動自身は
自分に対する弱さと無価値さの感情をそのまま思い出させるものである。
そうでなければ、自分の態度を卑劣な目的に使う必要はなにもないであろう。

これはしばしば、
すべての中でもっともひどい屈辱
(humiliation)
である「臆病な」気持につながるものである。
それは、自らを敗北させることを知りつつ加担する屈辱である。

敵が自分より強いために敗けることも、そう悪いことではない。
しかし、勝利者とうまくやってゆくため
自分の力を、自ら売り渡すほどの自分の臆病さを知ること、
この自分自身に対する裏切りは、なににもまして、苦々しいばかりに嫌なことである。



 われわれの文化では、他人をよろこばせる行為がなぜ勇気をくじいてしまうのか

その個々の理由もまた現代文化に胚胎する。

すくなくともこうした行為は、男性にとっては、
しばしば自己主張のない、攻撃性のない、「紳士的」な人物の役割を演ずることになり、
当人が自己主張的でないと考えられるとき、
われわれは、性的潜勢力を含めた力をどうすれば引きだし、のばしてやることができようか。

 また婦人の場合でも
こうした形の讃めてもらうもらい方は、生来の潜勢力の発展を妨げることになる。

というのは、この
(*勇気に関する)潜勢力は、
全然行使されないか、あるいは全面的にあらわれてくるかのいずれかだからである。



 
 
 
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             自己自身になりきる勇気 (7)_end_ 


 今日のごとき順応(conformity)の時代においては、
 勇気の品質証明は、自分自身の確信の上に立って行動できる能力であり、
 頑固さ(obstinately)、あるいはごうまんさ(defiautly)ゆえではない。

 (これらは防衛の表現であって、勇気とはいえない)
 また、報復のゼスチャーとしての立ち上がりでもない。


勇気は断定的な選択であって、
「ほかのものを何も選択できない」ゆえの選択ではない。

たしかにわれわれは、勇気をふるって
勝ち得たある地位に、頑強にしがみつかねばならないときがある。

それは治療中にしばしばみられることである
人がなにか新しい成長をとげたとき、
自分がいままでやってきたようにやっているならばもっと気楽であるはずの友人や家族たちからの攻撃だけでなく、
自分自身の中でも、不安反応という形での反攻に耐えねばならなくなる。
いろいろな防衛反応もでてくるだろう。
しかしもし、護るにあたいするものを護りえたのならば、そのとき
われわれは、消極的にではなく、よろこんでそれを防衛したことになる。


  ある人間の精神発達の途上に、勇気が出はじめるとき
―つまり、他人にほめてもらいたいため自分の生命をささげるというパターンを脱却しはじめるとき、
 一般に中間的な段階が生じてくる。

確かにこの段階の人は独立の地歩をしめる。しかし、彼らは
自分が気にいられようとしてきた相手である権威者によって、その法律の書かれている法廷で、
自分たちの行為を弁解しなければならない。

この段階の治療過程にある人々は、しばしば
自分たちの言い分の正しさ、本来の自分になるべき「権利」を、親に説得しようとしている夢を
ほんとうに見るのである。

この段階は、多くの人の至りつく自由と責任が身につく段階からみれば
まだほんの序の口といえよう。



 分析が、この中途の段階で終わってしまうと、
それはその人を絶望的なジレンマにおとし入れることになる。

というのは、親あるいは親にかわる人間に、その法律の立案件をみとめ、
かつ法廷で弁護するということは、すでに相手の主権を、
暗黙のうちに認めていることになる。

これは彼・彼女に自由の欠けていたことを意味し、
もし彼・彼女らが自らの自由を主張するなら
罪をかんじなければならないことを意味する。

 カフカの小説『審判』の主人公は、
 自分を告発するものたちの完全な権威下で、自分の起訴訟を論じようとしているため
 常にとらわれの身である。彼はその時、絶望的なフラストレーションの状態になった。
 そして論理的には、
 ただ告発者に嘆願できるだけの地位になりさがっていた。

 
 訴えを受けたソクラテスは、アテネの告発者に向かって

 「アテネの市民たちよ、私はあなたより神に従う」 と述べた。
 これは、彼が

 行動の指針を自らの内奥に見いだしたということを意味する。



 最大の勇気を必要とするとりわけ困難な段階は、
その人たちの期待の下で生きていながら、その人たちにたいし、
彼らが法律をつくる権利を拒否するということである。
これは、もっとも戦慄すべき段階である。


それは自分の基準や判断が、いかに限られたもの、
不完全なものであるかを承知の上で、
それにたいして責任をとることを意味する。

これはexlink.gifP・ティリッヒが「自己の有限性を受けいれる」ということばで述べているものである。
それはすべての人がもたねばならない勇気である、とティリッヒは主張している。
それは
有限であるという事実にもかかわらず、本来の自己であろうとする勇気、である。

それは、自分はその究極の解答をもたない、ということを知りながら、
行為し、愛し、考え、創造することを意味する。
しかも彼・彼女は間違うかもしれない。


しかし自分のもたない力を発展させることは、
ただ「有限性」を勇気をもって受けいれること、および責任ある
(*結果を受けいれる)行為をおこなう
ということからきている。

それらの力は絶対的というにはほど遠いが、次のことがその前提となる。
つまり、ここまで述べてきた自己意識の多面的な側面
自己訓練、価値づけを行なう力、創造的良心、過去の智恵にたいする創造的な関係、などである。

この段階では、あきらかにかなりの程度の
パーソナリティの統合が必要である。
そして
その統合に必要な勇気は、成熟せる勇気である。








 
 
 
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             愛への序章 (1) 


 ここで、愛という特殊な主題について、こと細かに立ち入って述べるつもりはない。
それは、この話題については、本書全体を通していたるところで触れてあるためでもあり、
ある意味、本節だけでなく本書全体を「愛の序章」とよぶこともできる。



 まず第一に注意すべきことは、
実際、愛は現代社会においては、比較的まれな現象だということ。
だれもが知っているように、愛と呼ばれる関係には、百万と一の種類がある。

センチメンタルな衝動や、ロマンチックな歌・映画にでてくるような
ありとあらゆるエディプス的な「母親の腕への復帰」的動機と「愛」とのいろんな形での混乱
をいちいちあげる必要はない。

愛ということばが使われる時、そのほとんどが、
そこにある本当の動機をおおいかくしているという点で、正直ではない。


しかし、こどもに対する親の世話、および親に対する子の世話、
あるいは性的情熱あるいは孤独の分かち合いなど、
愛とよばれるほかの多くの、健全で、正直な関係がある。

現代の孤独な、順応主義的な社会で、個人生活の表層下に目をやるとき、
しばしば発見されるおどろくべき現実は、
実際こうした関係には愛の構成要素が、ほとんど含まれていない
ということである。
 
 もちろん、たいていの人間関係は、
いろんな動機がまじりあったものから出てきているものであり、
さまざまな感情がまじりあっている。

男女間の成熟した形での性的愛は、一般にふたつの情動が混じりあっている
 ひとつは「エロス」であって、これは他者にたいする性的衝動であり、
 個人の自我充実欲求の一部をなしている。
 もうひとつは、相手の価値・真価を確認すること、であって、
 今後述べてゆく愛の定義の中に含まれるものである。


 
 いかに愛するかを学び始めるもっとも建設的な方法は、われわれが、
いかに愛しそこねているかを知ることである。



現代社会は、その支配的な動機として、他人に優越したいという
四世紀にわたる競争個人主義を継承している。
とりわけ、当世代は、
大量の不安、孤独、空虚さを相続している。
これらは、いかに人を愛するかを学ぶためのよき前提条件とはいえない。


 国と国どうしの関係で、この問題をながめるとき、似たような結論がでてくる。
「愛はすべてを解決する」というような励ましの気持にはいり込むことはいともたやすい事である。
たしかに、この狂乱せる世界の、政治的、社会的問題は、
共感(empathy)、思いやり(imaginative concern)、隣人愛、「遠人」愛の態度を強くよび求めている。

しかし、人々に、私たちは愛し合わなくては、と語っても、それは何の役にも立たない。
それはただ、
すでに愛の領域で十分堪能させてもらった偽善やごまかしを増進するだけである。

ごまかしや偽善は、愛することを学ぶのに
あからさまな敵意よりも、かえって大きな妨害である。
というのは、すくなくとも敵意のほうがいつわらず率直な場合が多く、
また、それはとり除くこともできるからである。

 もし、愛することさえできれば、
世の敵意や憎悪は克服されるであろうというようなことを宣言するだけでは、
いよいよ偽善をまねくだけである。


 われわれがロシアとの関係において学んだことは、
その関係を、力から導くことや、
権威主義的なサディズムに、直接に、現実に直面することが
いかに重大なことか、ということである。

たしかに、
ほかの国民・国家のもつ価値や欲求を確認するような、国際関係におけるすべての新しい決議は
大いに歓迎すべきである。
すくなくともわれわれは、
われわれ自身が生き残るためには、他国の存在も確認してかからねばならないことを
やっとのことで学んだ。

こうした教訓はおおきな利得ではあるけれども、それをもって、たまたまこの種の行為が、
政治的レベルでわれわれが愛することを学んだ証拠である。と結論することはできない。

そこで再び、われわれが
もし自分自身、ほかを愛することのできる人間になろうと努めることから始めるならば、
隣人や異邦人にたいする思いやりによって、世界にもっと有益な貢献をすることになるだろう。

exlink.gifルイス・マンフォードが述べている。

もっともうるさく愛を叫ぶ人が、実はその愛を表現することのもっとも少ない人である。

 積極的に自ら愛しうるようになること、
 および愛を受けいれる準備のあることは、人間統合上の重要課題である。

 事実それは救済への“鍵”である。





 
 
 
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              愛への序章 (2)(*愛の定義) 

 
  今日、愛をめぐる考え方はきわめて混乱しており、
  愛とは何かの定義に見解の一致を見いだすことは難しい。



 愛とは、他者のいてくれることの喜びであり,
 自分自らの価値や発展同様、その相手の価値や発展を確認することである。
(原文傍点)

このように、愛には
常に二つの要素がある。

他者の価値と善という要素と、
他者との関係の中に見いだす自分自身のよろこびと幸福という要素である。


愛する能力の前提をなすものは、自己認識である。
なぜなら、愛には、他者と共感できる能力、
他者の潜在力を賞賛し、確認できることが必要だからである。

愛はまた、自由を前提とする。
自由を与えられるものであいような愛は愛ではない。

だれか別の人を自由に愛せないから、かわりにある人を愛するとか、
たまたま同じ家族内に生まれ合わせたから、ある人を愛するというのでは、
その愛は真の意味での愛とはいえない。

さらに、
他人なしではやってゆけないから、だれかを愛するというのならば
その愛は選びとられたものではない。



こうした不自由な“愛”の品質証明は、その愛に弁別力がないということである。
その不自由な愛は、「愛してる」相手の特質ないしその人の存在を、
別の人の特質ないし存在から区別しないのである。

こうした関係においては、
おなたは、あなたを愛すると称する人によって実際には「理解されていない」のである。
こうした関係では、
愛してる方も、愛されてる方も、人格をそなえた人間として行動しているのではない。
前者は自由に行動できる主体ではなく、
後者はしがみつかれる対象としての意味があるだけである。



 
 
 
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             愛への序章 (3)(*愛と依存) 



  現代社会には、数多くの人が、不安と孤独それに空虚感を味わっている。


こうした人々の住む現代社会には、
愛の装いをしたありとあらゆる形の依存関係がばっこしている。
この依存関係はさまざまで、
いろんな形の相互援助、あるいは欲望の相互充足(そういう名前で出てくればそれなりに結構だが)から
さまざまな人間関係に伴う「取りひき」関係をへて、
あきらかに寄生的なマゾヒズムにいたるまでさまざまである。

ひとりぼっちで、
孤独と空虚を感じている二人の人間は、お互いに、孤独の苦しみから逃れるため、
ある種の暗黙の協定によってつきあうことがしばしばある。

しかし「愛」が孤独をかき消すために使われるときは、
その愛は両人がいよいよ空虚を味わうという代価を払ってのみ、その目的が達成されるのである。


 愛は一般に、依存関係と混同される。
だが実際には、
独り立ちできる人間だけが、人を愛することもできるのである。

exlink.gifH・S・サリバンは注目すべき言い方をしている。

「こどもというのものは、思春期直前まで、人を愛しうるようにはならない。
 こどもに、それがいかにも愛らしくみえるよう、また自分でそう信じ込めるように
 ふるまわさせることはできる。
 しかしそれは、ほんとうの基盤があってでてきた行為ではない。
 しかも、それを強調するようなら、奇妙な結果をまねく。つまり多くの場合、
 神経症をひきおこす。」 

                  
    (1949「Culture and Personalioty」誌_論文より)


 いわば この年齢に達するまで、他人を認識したり、確認したりする能力が
他人を愛するまでに十分成熟していないということである。
幼児ならびに子どもとして、
そのこどもは、まったく正常に、親に依存しているのである。

そしてそのこどもは、とても親が好きなのだし、事実一緒にいたいのである。
こうした関係が生み出す幸福を親子ともども享受させてあげよう。

しかしそれは次の点で親にとって、きわめて健康な、心の安まることでもある。
つまり、親としては、神の役を演じる必要も減るし、
こどもの生活の自然な組織のなかで、親が果たす完全な重要性をひきうける傾向が少なくなる点で。

また
おもちゃの熊や人形、あるいはほんものの犬との関係で、人間との関係の場合よりも、
こどもがどれだけ多く自発的な情愛や「心づかい」を示すかがうかがえる。

人形は、人間の側に何の要求もしない。
こどもは、熊や人形のなかに、自分の望みのものを何でも投射することができるし、
こどもは、自分の成熟の度合いをこえて、相手の要求に応じて、共感を強いられることもない。


生きた犬は、生命のないものと人間との間の中間段階の役を果たす。

依存から、依存可能性
(dependability)を経て、相互依存性にいたるまでの各段階は、
こどもの愛能力の成熟発展段階を現している。





 
 
 
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Post時間:2011-11-18 19:09:12
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             愛への序章 (4)(*愛の取引き) 



 E・フロムそのほかが指摘しているように、現代社会では、
 愛することからわれわれをさまたげている主な原因のひとつは「われわれの市場的構え」
(marketplace orientation)
である。


われわれは、売り買いのため愛を利用している。

その一例は、親がこどもを世話するとき、
その返報としてこどもが自分たちを愛してくれることを期待するという事実の中にみられる。
たしかに、もし親の方でそうした愛を固執するなら、
こどもはいくつかの愛行為を装うようになるだろう。

しかし遅かれ早かれ、返報として要求される愛がまったく愛ではないことがわかる。
このような愛は「砂上楼閣」であって、こどもたちが若い大人に成長したときには
がらがらとくずれてしまうものである。

というのは、親がこどもを養い、こどもを保護し、キャンプへ送り、
後には大学へ出すという事実は、
こどもが親を愛するという事実と何か必然的な関係をもつのか。


次のことは理屈の上では考えられることである。
 トラックから自分を守ってくれる街角の交通巡査を息子または娘が愛するようになること、
 あるいは、軍隊にいるとき食物を与えてくれる炊事軍曹を愛するという場合など。


この要求のさらに深い形態は、
親が自分のために犠牲になってくれたから、
親を愛さねばならない
というケースである。

しかし、この犠牲も、
別の形の取り引きであるかもしれない。
しかも動機の上では、
他人の価値や発達を確認するということとは
何の関係もないかもしれない。



 われわれが、他人からだけでなく我が子からも愛が受けられるのは、
自分がそれを要求し、何か捧げ物をし、欲求するからではなく、
他人を愛しうるというこちら側の能力に、応じて受けられるものである。
しかし、愛の能力はまた、われわれ自身の権利で、人間になりうる能力による。

愛するということは、与えることを意味する。
そして与えるためには、自己感情の成熟が必要となる。


愛がどんなものであるかはスピノザのことば、
「ほんとうに神を愛するということには、その返報としての愛の要求が含まれない」
に示されている。
ここで述べているのは、「断念」あるいは自己放棄
(self-abnegation)としての愛についてではない。

人はただ与えるべき何ものかをもっているから、また
与えるべきものの元になる力が内にみなぎっているから、与えられるのである。



 愛というものを弱さと同一視することによって、
攻撃心や競争的勝利感とは区別される純化されたものとして
愛をみようとしなければならなかったことは、現代社会にとってもっとも不幸なことである。

じっさいこの考え方の植えこみ方が非常に成功したため、
人は弱ければ弱いほど、それだけいっそう人を愛するようになり、
強い人は愛する必要がないという共通の偏見があるくらいである。


 愛における思いやりは、パンにおけるイースト菌に似ている。
イーストがないとふくれあがらないパンのように、ねっとりとした重々しいものになる。
しかし不思議にこの思いやりの心はしばしば愛体験とは別のものとされてきた。

忘れられてきたことは、
思いやりは、内なる力と手をとり合ってゆくものだということ、
強くしてはじめてやさしくもありうるということである。

さもないと、思いやりとかやさしさは、しがみつくことの仮装である。




 
 
 
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Post時間:2011-11-18 19:33:33
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             愛への序章 (5)(*忘我)_last_ 



     読者のなかには、次のような疑問を抱かれるかたもあろう。 

    「しかし人は、だれかを愛することによって、自分自身を失うのではないか。」


たしかに、創造的意識のばあいと同じく、愛のいとなみにおいても
人は他者と合体してしまうというのはほんとうである。
しかしこれを「自己の喪失」とよぶべきではない。

繰り返すと、創造的意識とおなじく、愛の働きは、自我実現の最高レベルをさしている。
たとえば、
性が愛の表現であるとき、オルガスムスの瞬間に体験される情動は、
敵意や勝利感ではなくて、他者との「合一」(union)である。


詩人が愛のエクスタシー
(*恍惚的忘我感)を歌うとき、それはわれわれにとって偽りではない。
創造的エクスタシーのばあいと同じく、
一個の主我
(identity)とほかの主体との間の障壁を
一時的にとび越えるとき、それは自我実現の瞬間である。

それは自ら自我を与えることであると同時に、自分の自我を見いだすことでもある。
このようなエクスタシーは人間関係上の、もっとも完全な相互依存性を現している。

そこでは創造的エクスタシーのばあいと同じパラドックスが適用されうる。
われわれが一人立ちし、自分自身の権利で人間になりうるという
より強い能力を獲得したときだけエクスタシーの中に、自分の自我を没入できるのである。

 われわれはここで実行できそうもない理想案を述べているのではない。

友情(それは親子の関係にとって重要な一側面であろう)とか、
いろんな度合いの人間的なあたたかさと理解の相互交換、
性的なよろこびや、情熱のわかちあいなど、
一切の積極的な関係を規制したり、軽視したりするつもりはない。

われわれは、その理想的な意味での愛をおおいに重要なものとする現代社会に
きわめて共通な誤りにおち入りたくない。
そして、「高価な真珠」は決して見いだせなかったということを認めるか、それとも
自分が感じているすべての情動が「愛」であると
自分にいいきかせようとする偽善におちいるようなことはしたくない。

ただ繰り返し述べておきたいことは、
それらの情動を、その正当な名前で呼ぶようにしたいということである。


もしわれわれが、
愛することはたやすいことであると自分に言い聞かせるのをやめ、
いつも愛について語っているくせに、それをほとんど持ち合わせない社会にあって
愛しているような、幻想的な仮装をかなぐり捨ててしまえるほど
十分現実的であるなら、
もっと健やかに
愛の何たるかがわかるのではないだろうか。









(以下_哲学的真理に関する項 省略) 第7章 了
 
 
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