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夜明けのジャガー外伝01

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夜明けのジャガー 外伝1 星達の詩~一ノ星『祈り』~

 
 
   §  §  §
 
 
 入口に立つ。両足が揃う。左手に杖を持ち直す。右手で呼び鈴を揺ら……躊躇う。
 すう、はあ、呼吸を深く。もう一度。
 膝がくすくす笑う。つま先で床を叱る。堪えた。
 右の手首に下がった、愛用の巾着を手繰る。少し、勇気。顎を上げる。指が上がる。
 
 ―― チリン
 「はあい、どうぞ」
 
 跳ねる心。震える心。進みたい心。戻りたい心。
 それでも今、ここまで来た。それが事実、それが真実。
 見ていたいし、聞いていたいし、触れていたい。そして、言いたい。そう、言わなくては。
 
 「どうぞ?」
 
 はっと、顔を上げる。時間が。行く。行きたい。前へ。奥へ。明日へ。
 
 
   §  §  §
 
 
 見渡せば、いつもの光景、とティーエはの心は少し軽くなった。
 散らかり放題、と親友のクク・ロカが言っていたまさにその部屋。
 雑に見えて実は本人がすぐに手に取れる配置、に積み重なった論文の束が、大きな机の四隅にもはみ出している。
 あと何冊か積んだら倒れること必至な文献の塔が三つあるが、それはもう参照する必要がないからだろう。
 
 医務室に隣り合ってはいるが、彼の私室らしく私物もちらほらと。
 同心円がいくつも描かれている小さな射的は部屋中に。彼の机を中心に上下左右問わず、遠近もさまざま。
 すでに何本が投げ矢が精確に刺さっている。しかし本数は多くない。仕事の方に集中している証拠だ。
 散らかし屋の彼でも、射的周りは比較的物が少ない。彼も一人の戦士として、譲れないものがあるのだ。
 
 棚には、横倒しの透明な瓶が大小いくつか。
 その瓶の中には、有名な建築物を縮小した木の模型。物理的に瓶口からは入りきれないほど、中身のそれは大きい。
 仕事でも使うような極細の挟みを使って、模型の元となる部品を瓶の中に運び入れ、
 そしてその挟みだけで組み立てるのだそうだ。
 その根気の良さに、ティーエはただ感心するばかりだ。
 (名案と閃いた彼女は、その瓶に絵の具で花咲く樹を勝手に描いて、彼に怒られた。格好良くないらしい)
 
 室内に踏み入った彼女は、そしてもう一度見渡す。
 散らかっているようでも、埃が目立たないほどには掃除が行き届いていて、満足する。
 自分が掃除したおかげ、という痕跡が生きていることが、嬉しい。
 手にしていた杖をことり、と立てかけた。
 
「どうしましたか?」
 
 ゆっくりとした声だけが聞こえる。職業柄、お決まりのことば。
 彼のこの言葉だけで治った気がする、とはよく耳にする評価だが、それだけ信頼を得ているということ。
 ただ、今は何か口に含んでいるようで、かすかに湿った声音。
 声のした方へ目を向けると、背もたれの大きな椅子。長時間座っていても疲れないという、彼のこだわりの品。
 その大きさのせいか、オセロットの背丈は後ろからは隠れていて見ることができない。
 しかし、椅子の端から垂れ下がっているのは、黄土色をした長い尾。
 オセロットに一般的な長毛で、しんなりと美しいそれ。
 (ちなみにピューマは短毛で、ジャガーは中間毛だが、ほわほわ具合では負けていない)
 先端をくねくねと捻るのは彼の考え事をしているときの、もうひとつの癖だ。
 ティーエはいつも、じゃれてしまいたいような気持ちをぐっと抑えている。他にそうして良い時間のために我慢する。
 
 その人物はくるりと回転する椅子を回し、ティーエの正面に自分の姿を現した。
 彼の名はチタラ、黄土色のオセロット。彼女の主治医でもある。
「いえいえ。我は新作の茶葉を。ここに」
「ああ、いつもありがとう、ティーエ。君の診察が終わったら、もらうよ」
 優しく揺れる髭はとても穏やかな彼らしい。
 彼女の胸の中で抱き合っているのは、高揚感と充足感。
 ティーエは言われずとも自然にたおやかな足を進め、彼のすぐ前にある椅子に、すっと腰かけた。
「先生」
「ん?」
 咄嗟にティーエの喉から飛び出かける言葉。彼女はあわてて、こくんと飲み込んだ。
 
 よく、このようなときに一方的に言って相手を困らせる話を読んだり、聞いたりする。
 ティーエはぼんやりとそのようなことをしたくはない、と思う。
 だとしても、同じ女性だから気持ちは分かる。自分の身に起こった不安だから、相手も不安でないのが、さらに不安。
 だから相手にも早く胸の内を共有させたい。それが愛する異性ならなおさら。
 そして、いきなり面と向かって伝えてしまうのだ。
 さらには、変化する相手の顔色を見定めたりと、愛する異性がうろたえるのを目の当たりにしたがる攻撃的な例もある。
 けれども、そこで何とかするのが男性の甲斐性というものであるし。
 どんな行動をとろうとも、愛しているからという理由で全て許してあげてしまうのも、女性というものだ。
 ティーエは気を持ち直した。
 
 そんなことはともかくも、ティーエは日常を続ける。
「またそれを噛んでいるのですか?ずい分とお気に入りですね」
「あ、ああ。ごめんよ、ティーエ。今はこれ、邪魔だね」
 そう言って、チタラは口をもごもごとさせると、懐紙を出して口の中のものを吐き出した。
 ついで、手頃な大きさになるまできっちりと折りたたむと、突然部屋の隅に向けてキュっと鋭く投げた。
 見事その丸めた紙はくず籠の中に、すぱん、と納まる。(彼の部屋は散らかっているが、ごみの類はまったく落ちていない)
「……それに慣れてしまった我は、もう、はっとすることはありません」
「ははっ、そうだね。研究員だった頃から、これはもう日常なんだ。ごめんよ、ティーエ」
「いえいえ。先生、そのように謝らなくとも。……ただ、我らの他に人がおられる時には」
「うん、約束。君に恥はかかせたくないからね」
「我も、余計な口出しを慎みたいと」
「でも、二人のときならいくらでも構わないからね」
 ティーエは、少しもじもじと居住まいを正して微笑む。チタラに向けるだけの意味を持つ、微笑。
 
 余談だが、チタラが噛んでいたのは最近流行している菓子で、商品名は【コカ・ガム】。
 甘い味付けや、眠気を払うために辛い味付けをされているものもある。
 その正体は、精製しなければ疲労を回復させ、思考を明晰にさせる効果のあるコカ葉の粉末と、
 人体に無害なゴムの樹液を組み合わせたもの。(精製コカは麻酔薬。医師免許がなければ、扱うことはできない)
 元来、嗜好品としてコカ葉を噛むことはあったのだが、口元に青臭い汁が浮き、口臭の原因になるのが難点だった。
 そこでゴムの樹液に葉の粉末を混ぜることでその欠点を克服したのだ。
 今まで肩身の狭い思いをしてきたコカ葉愛用者には、朗報だっただろう。
 さらに、このチタラのように、葉噛みを敬遠していた人も手を出すようになり、爆発的に売れているようだ。
 【コカ・ガム】の販売に踏み切った、あるオセロトゥスーユの弱小会社は、現在かなりの大きさに発展している。
 
 ヒトの知恵を利用したと思われるこの商品に、一騒動あったのはまた、別のお話。
 
 ティーエは神官衣に指をすべらせ始めた。するすると衣が擦れ、彼女の褐色の肩が顔を出す。
 このウィラコチャ神に仕える美貌の侍女を診察できる、チタラへの羨望は計り知れない。
「ここへ来る途中、クク・ロカと一緒だったのです」
「へえ?俺はウナワルタ将軍とついさっきまで一緒だったよ。あ、ほら、まず眼帯取らないと。また引っかけるよ?」
 少しだけ咲く、ティーエの苦笑い。
 他人にはどうでもよいかもしれないが、本当にさりげない一瞬でも気遣いを感じられて、彼女は嬉しくなる。
 逆に言えば、感じられるのは自分だけだ、と誇らしくも。
「我としたことが。それで、パシャさんに異常のないことも伝えておきました」
「ああ、俺も将軍のところに行くんで部屋を出たら、廊下にクク・ロカがいてね。伝えた。……はい、籠」
 チタラは彼女専用になっている籠を差し出し、ティーエもそっと脱いだ服と巾着を預ける。
 ただし上半身だけで診察は済むので、神官衣は脱いだといっても腰のあたりまで下げただけだ。
 
 雨季の入りもあって、少し感じてしまうのは肌寒さ。ティーエはそっとむきだしの二の腕をさすった。
 心細い、と。そして再び沸き起こってしまったのは不安。焦燥。速まる鼓動。
 彼女は右手を肩から胸へと移していく。指が冷えている。同じく褐色の低い麓の方がずっとあたたかい。
 彼に贈ってもらった指輪が、また少し、勇気を呼び起こす。
 その指でさりげなく、彼女は自分の小さな乳房をたどった。
 
 その様子を感じ取ったのだろう。
 チタラは無言で椅子を回転させ、風通しを調整する。そしてまたティーエの正面を向いた。
「二度手間だったのですね。……ありがとうございます、先生。あら、先生こそ、また聴診器どこに置いたのやら」
「大丈夫。……うん、あった」
 彼の手の運びは一直線だった。まったく迷うそぶりすら見せないのがなんとなく悔しいと、彼女は思った。
 いつもいつも、彼は落ち着いて、大人びて。
 ティーエは、彼へ想いを伝えてしまったときのことを、ふわりと懐かしんだ。
「……先生の記憶野はいったい何でできているのでしょう、本当に。
 如何したらその墳墓のような机から探し出せますか」
「う~ん、俺にとってはどうしてみんな覚えられないんだろうって思うね。
 はい、息を吸って……吐いて、繰り返し」
 ひんやりとした、金属の感触をティーエは耐える。彼女は昔から冷たい聴診器がどうしてもくすぐったくて、
 医者も苦笑いしてしまうほどけらけらと笑ってしまうような子供だった。
 正面が終わるまでティーエはじっとしていたが、チタラの手が離れるとすぐに口を開いた。
「平均的な方は、三日前の夕食ですら忘れるそうですよ?」
「まさか」
 この「まさか」は侮った調子ではない。彼がそんな口調をするのは、おそらく気を許した親友にだけだろう。
 もっとも、親愛の情を含ませて、だが。
 それではどういうことかと言うと、覚えられないのは大変なことだと、愕然としているだけに過ぎない。
「ヨリコテ砦救援戦。砦に残る我が、最後に作った昼食は?」
「フアネ。具は海老とか貝が入った蒸しキヌア、塩胡椒味。(ピラフ入り饅頭のこと)
 ティーエのはたまにすごい味になることあるけど、あれは当たりだったね。はい、後ろ向いて。同じように」
「正解、でしょうか。というよりかは、作った我ですら忘れておりますが」
 ティーエは意図的に彼の言葉の後半を無視した。しかし、彼に背中を向けることはする。
 冷たい聴診器を待ち受ける。
 
「ティーエ。今日は済まなかった」
 しかし、背後から聞こえて来たのはそんな謝罪の言葉だった。
「また君に奇跡を行使させてしまった」
「いえいえ。あの、仕方なくも草刈衆に従わなければならなかった方を、
 可能な限り早く発見するには我の奇跡がもっとも効果的でした。
 そして、パシャさんを助けることができたのです。我は気にしていません」
「俺が気にしているんだ。君の主治医だよ? 俺は」
「チタラさんらしくありません」
 「先生」ではなく「チタラさん」と呼んだ、ティーエの語気は自然とやや強くなる。
 責めるつもりではないが、彼にこれ以上過ぎた負担をかけたくなかった。
 支えてもらった分、支えてあげられたらいいと思わずにはいられない――この時だけは、例の件を棚に上げて。
 
「チタラさんは、我の主治医ではありません。「先生」が主治医なのであり、「戦士チタラ」も含めて、
 「チタラさん」なのだと、我は定めています」
「それでも、ティーエを……俺は大切に、想っている」
 彼のゆっくりとした口調。高速で、思考を巡らせているときの彼だ。
「止むをえなかったとしても、ティーエの完治を少しでも遅らせてしまったのは明白なんだ。
 俺はこの指輪に誓って、君を、守りたいと願ったはずなのに」
 つまり、チタラは――ティーエの婚約者は――明晰な頭脳を全て活性化させた上で、そう彼女への愛を口にした。
 ティーエは嬉しくないわけがない。菊の花を支える、黄土色の土壌に抱かない愛情はない。
 それでも彼女はこう、考えている。
 その土壌を独り占めして、自分だけが恵みを享受して良い理由はない、と。だから、愛する人へ反論したのだ。
「それじゃ、こうだ。ティーエの言い方に合わせるとね。俺の中の主治医の部分は、そう伝えたがってるんだよ」
「我に、済まないと? では、チタラさんは?」
「そう伝えたうえで、ありがとう。おかげで、俺たちの大切な人を失わずに済んだ」
 ぎっ、と木と木が触れ合う音。
 後ろからティーエの素肌に、優しくも温かい、糊の効いた白衣ごしな彼の体温。少し、消毒薬のにおい。
 肩越しに胸の前に回ってくる、黄土色の毛並の腕。菊花色の尾と先端を絡ませる、黄土色の尾。
 椅子に腰を下ろした高い背のジャガーの女性相手に、
 どうにか抱きすくめている低い背のオセロットの男性がそこにいた。
 
 菊の花に似せた髪型から飛び出す、細かい付け毛にくすぐったそうにしながら、
 チタラは同じ菊花色の立ち上がった耳の裏に、目を細めて鼻先を埋めた。
「我の前で……パシャさんを「大切な」と?」
「うん、当然」
 そうチタラが答えると、きゅっと彼の尾が捻られた。しかし、余裕を見せてティーエの耳に甘く牙を這わせた。
 一方の彼女はやや肩をすくめながら、チタラの腕を自分の胸に押し付けた。
「俺の中の「戦士チタラ」の部分は、そう思って当然だからね」
「では、チタラさんは?」
「そう思ったうえで、ティーエが、世界で一番、大切。俺の、ティーエ……」
 
 この歓喜を、どうして表現しようか、と。テイーエの胸ははち切れんばかりに膨れ上がる。
 膨れ上がるたびに、幸福感が満ちていく。
 チタラが後ろから押さえつけるように、それでも優しく重さをかけてくるのも、彼女を昂ぶらせて行く。
 押さえつけられて、膨れ上がって。また重さをかけられて、ふわっと浮かび上がっていくような無限の錯覚。
 けれども。
 ティーエはチタラに伝えなければいけないことがあった。
 私室で個人診療を待っていてくれた彼に、ティーエは震える足をそれでも前に進めてここへ来たのだ。
 もう、怯える必要はなかった。
 もう、ティーエの想像はありえないものに成り下がった。
 彼女は目をつぶって幸福で瞳を潤したあと、籠の中で待っていてくれている巾着に目を移した。
 
「ティーエ」
「はい?」
「また今晩、ここにおいで……違う、来てくれ」
 気づけばチタラが踵を浮き上がらせ、鼻先を彼女の頬に押しつけたままそう言った。
 吹き込まれたように中で跳ね回るその意味に、ティーエは彼の腕をさらにきゅう、と握った。
「我も、お願いしたいのです」
 二人は、触れるだけのキスをした。彼からのキスは【コカ・ガム】の匂いが少し、とティーエは感じた。
 名残惜しそうに、チタラの体温が離れて行く。
「さ、続きだ」
「はい、先生」
「ははっ、君は本当に律儀というか。そうだね。パシャが起きてたらまずい、かな?」
 今まで散々惚気合ったというのに、何を言い出すのか、と。
 ティーエは口元にたおやかに手を添え、思わず吹き出していた。
 そしていつか笑顔で、自分たちが夫婦となることを皆に伝えられたらいい、とも。
 それは二人で話し合って決めたこと。
 しかし、そうするのは彼の予想よりはかなり早くなってしまうかもしれないことに、ティーエの胸は少し、ざわめいた。
 
「先生。それでは」
「うん。ま、検査だからね、一通り。終わったら、小窓を開けて」
「はい、我は一度失礼します」
 籠の中のものを残らず身につけ、ティーエは立ち上がる。
「え……っと、鏡は……」
「はいどうぞ」
 すっと、またもや最短で鏡を発掘したチタラは彼女の目の前に差し出す。
「厠、すぐそこなのに」
「いえいえ。身だしなみ、というものです。チタラさん」
 ティーエはそう言いながら、眼帯の位置を整える。
「まあ、俺も君のおかげでさっぱりしてるしね。文句は言わない」
「……清潔そうなお医者さま。優しくて、頭が良くて、憧れの先生」
「つい手折ってしまいそうになるくらい儚くて、
 礼拝で信徒の視線を独り占め、華奢でお嫁さんにしたい一番の侍女、でもあるね」
 その反応の速さが、かえって不安にさせてしまうというのも贅沢な話だろう、とティーエは苦笑する。
 今度はティーエが腰を折り、顔を傾けた。
 それとなく音を立てたい気分だったので、彼の鼻先を一瞬だけ強く吸う。
「あ、ごめん。もっかい欲しい」
「はい、チタラさん」
 ティーエに断る理由はない。浮かしかけた上体を再び沈め、彼の顎をくい、と持ち上げる。
 彼の素直さに免じて唇のほかに、ちょっぴり舌で舐めてあげた、ティーエだった。
 
 
 
 バタン、と扉を閉めると、ティーエはついさっき彼と触れ合わせたばかりの唇に指を添えた。
「大丈夫、大丈夫、……」
 奇跡の詠唱のように、念じる。彼女がいるのは、チタラの私室と医務室の間にある、小さな厠だ。
 その厠の今閉めたばかりの扉に背中を預け、ティーエは菊花を思わせる髪を後ろにくしゃりと押し付けた。
 手には、巾着。
 もう一方には、チタラから渡された検尿のための小さな入れ物。
「チタラさん……」
 ティーエは婚約者の名に、呟きを変えた。
 あえぐようにどうにか呼吸すると、チタラの私室へとつながっている小窓に、手に持つ二つごとそっと手の平をつく。
 巾着の口を緩めた。そこでずっと待っていてくれた物。ティーエをまさに翻弄している原因。
 小さな「それ」を外に出してあげる。
 愛しくて、切なくて、早く彼にも知ってもらいたい。もう何度も思ったことだ。
 そして同じように何度も覚えた不安は、葛藤は、恐怖は、すべて彼が払い落としてくれた。
 もう何も浮かんでは来ない。
 そもそもあの誠実な彼が、態度を反転させるかもしれないとひと時でも思った自分自身が、ティーエは恥ずかしい。
 彼に偉そうなことを言えたものではない、と。
 
「先生、終わりました」
 ティーエはすばやく指を動かした。
 検尿用の入れ物に「それ」をことりと落す。
 厠と彼の部屋をつなぐ小さな出窓に移動させる。彼を、待つ。そう、いつだって彼はティーエのすべてを受け入れた。
 
 戦死した元婚約者を含めて、チタラはティーエを受け入れた。
 医者であるところの己を賭けて、チタラはティーエに、病を克服するだけの力を呼び覚まさせると誓った。
 同族と結ばれることが「通常」とされるこの国において、
 オセロットの男性を好むティーエの特殊な性癖を、チタラは理解して、慰めて、受け入れた。
 
「はあい」
 
 途端に――ティーエは震え出していた。
 窓越しの遠い彼の声は何も変わらないのに、いや、変わらないからこそ募る不安。
 彼女はぎゅっと両手を組み合わせた。これではこの部屋に来たときと、何も変わらないではないか、と。
 婚約者の姿を見て、声を聞いて、肌を触れ合わせて、何を感じたか、それを忘れてしまうのか、と。
 それでもティーエの葛藤は収まらない。
 激しい動悸で耳がぽろりと取れてしまいそうだった。
 自慢の花弁も力を失って、枯れて、かさかさに萎れてしまいそうだった。
 逆に同色の尻尾は硬直して、縮んで、行き場を失って、心細げに神官衣に擦り寄ったまま。
 
 チタラの小刻みな足音が止まった。小窓ごしに、彼の白衣の裾がティーエの視界に入った。
 「それ」が入った入れ物が、消えた。
 チタラが、ティーエの愛する婚約者の呼吸が――一瞬のうちに、停まった。理解が、速すぎる。
 彼に全幅の信頼と愛を寄せているはずのティーエだが、
 彼女にとってはかなり珍しいことに、抑えきれなかった悲鳴のようなものを上げる。
「チタラさん! わ、分かりますよね!」
 静かに風にそよぐ菊のようなティーエが、来ないと信じているはずの嵐の予感に怯えて、震えた。
「我は、生理がとても規則正しく、ですから、ですから、ゆ、油断と言いましょうか」
 ぐらりと身体が平衡を失った。ウィラコチャ神の聖杖は部屋の入り口に置いてきていた。
 彼女は小窓の端に指先を突き立てて支えた。
「さ、授かってしまいました!チタラさんと、我の、その」
「ティーエ――」
 これまで押されっぱなしで一言もなかった、チタラが挟んだのは彼女の名。
 それがどのようなときの声なのか、連れ添ったティーエにも判別がつかない。
 それは自分が動揺しているせいだ、そう、もう一人のティーエが彼女に教えてくれる。
 
 一瞬で思考が埋まる。言い訳と呼ばれるものが、彼女の思考に突き立って行く。
 とても彼には及ばないだろうが、頭を捻って計画を立てた。
 面と向かっていきなり伝えたくはない、と思った。
 だから、こうして窓越しであるわけで、最終的な彼の答えを得られればいいだけだ。
 彼を狙って狼狽させることなど、していいわけがない、と思った。
 だから、彼に物証である妊娠検査計を示して、彼自身に判断するだけの時間を持たせたかった。
 けれども、と。
 やはりティーエは胸の内を、チタラと共有したいことに変わりはなかった。
 自身の内に蒔かれた種子はもう、芽を吹いている。今この瞬間も生きている。
 彼か、彼女かは――黄土色の豊かで、肥沃な土壌を、誰よりも何よりも、欲している。
 
「おめでとう、ティーエ」
 言ってくれた――彼女はさらに眩暈を起こしたようにぺたんと座り込んだ。
「そ、それは、誰のことば、ですか」
 自分のことながらなんて醜い言葉だろうと、ティーエは感じずにはいられない。
 先ほどまでの「チタラさん」との会話で、思いついてしまった。
 そして彼の知性を頼りにして、自分が欲しい言葉を、お腹の中の子にも聞かせてあげたいと思ってしまったのだ。
「「先生」としての、おめでとう、で――」
「君の、「チタラさん」として、だ」
 ああ。やっぱり、このオセロットを愛して良かった、と。
 ティーエは、菊花色のジャガーは、片側だけで一筋の涙。
 それは生まれたての陽光をきらりと返す朝露にも似た、とびきりの清らかさ。
 
 
 
「だからと言って、我はこのような展開を望んだわけではありません」
 ティーエはため息しか出せないでいた。
 本気で拒むことができない自分に対するため息だ。
「でも、俺だって確かめたい」
 きらきらと瞳を輝かせて、彼女の「オセロット好き」をこれでもかと刺激してくるチタラ。
 小さな顔、小さな三角の耳、くりくりとした瞳、小さくまとまった鼻先、ちまちまと生えた牙、他にもいろいろ。
 彼はただ嬉しくてそうしているだけなのだが、自分の姿を見られないだけあって無自覚なのも仕方がないことだろう。
 ティーエは理由の定まらない不満を言葉にする。
「……チタラさんは、我を信じていないのですか。我が偽りの結果を持ち込んだと考えているのですか」
「はいはい。恥ずかしいのは分かるけど」
「このような趣味をもつとは、我は初めて知りました」
「俺もティーエと共有したいんだ。だって、俺とティーエの、だろう?実際にもう一回やって、二人で確かめよう」
 小部屋から漏れるひそひそとした二人の会話。
 腰を抜かして動けなくなってしまったティーエと、ずかずかと厠に侵入してきていたチタラのものだ。
 彼らの上の小窓からは、未使用の妊娠検査計が冷めた目で見守っている。
 二人とも、隣でもしかしたら意識を取り戻しているかもしれない山吹色の彼女のことなど、すっかり意識の彼方。
 
 鼻歌でも歌いだしてしまいそうなほど上機嫌のチタラは、いそいそと準備を続けている。
「うーん、ここははっきりしておかないといけないね」
「何でしょうか?」
「避妊具を使わなかったこと。俺は医学に携わる者として、ありえないことだと思っている」
「「先生」として」
「そうだ、ティーエ。でも、それでも、君と確実な避妊をしようとしなかったのは」
「我が、わがままにも、欲しがったのです。チタラさんを、直に感じたかったのです」
「だーかーらー、そういうことに悲観的にならないように、はっきりさせるんだ。二人の間で自明であるとね。
 女の人の方が大変なんだから、そういう言い方はダメだ。「チタラさん」が困る」
 そう言いつつも、チタラの手は休まない。
 ティーエの神官衣をたくし上げようとして、
 しかし狭い室内と、華奢だが背の高いティーエの身体もあってか、割と苦労しているようだ。
 その真剣な作業ぶりとその目的を思い返して、ついティーエは可笑しさに笑ってしまった。
「うん。ティーエ、ちょっとお尻浮かせる?」
「……我も開き直ります。開き直ったチタラさんには誰も適いませんから」
 大きな衣擦れの音をたてて、徐々に神官衣がまくれ上がっていく。
 動けないでいる彼女を交互に傾けるようにして、片側ずつ長衣をずらす。
 彼女の、淡い水色の下着がチタラの眼に入った。
 一方のティーエは、少しひんやりとした木の感触で、内腿にぞくぞくとした何かを感じてきている。
 
 熱っぽく睫毛を振るわせたティーエだが、
「続けるよ。つまりね。俺はもう、あのときにはティーエを孕ませる気満々だったってこと」
 とたんにぱちりと、驚きに眼を開いた。
「孕ま……チタラさん、実はかなり興奮していますか」
「もう、すごく。君を、誰の眼にも入れたくないって思ってる。おそらく、男どもみんな眼の色変えるからね」
「……すると、この厠に閉じ込めてしまうのですか?」
「……ティーエが、今からやることみたいのを、これからもしたいのなら」
「いえいえ。遠慮したいと思います。ところで、今の間は何ですか?」
「うん。俺も飲まされたりとかしたら、ちょっと困るから。あ痛っ」
 どうやら、ティーエの尻尾は脱力の影響からは逃れているらしい。
 ゆらゆらと浮き上がって、調子に乗ったチタラの耳と耳の間をばしばしと叩いている。
 
 チタラが感じるのはこれ以上ない幸せな気分だろうが、彼にはまだ話の途中だという意識が残っている。
 愛する女性に悪戯をするのも、きちんと言うべきことを言うことも、どちらも大切なことなのだ。
「だから、不確実な避妊法に頼ったこと自体が……はい、ティーエ、どういうことかな」
「我の言い訳であるとともに、チタラさんの言い訳でもあります」
 そして、もう彼の全てを許してしまっているティーエはすぐに合わせてしまう。
「正解だ。でも、君は何も心配しなくていい。俺にどんどん押し付けてくれて構わない。
 ティーエの可愛いおねだりに、「先生」の部分を捨てて、ケダモノになった俺に全責任がある。
 ん、ということは、あの晩かな」
 考え込む隙などありはしなかった、そうティーエは思った。
 頭の回転が速すぎるというのは、やはり恐ろしい、とも。もしかしたら何事もほどほどが一番なのかもしれない。
「我も……指を折って数えてみました」
 ともかくも彼女は思考を切り替える。いろいろと並列して考えるのは得意な彼女だ。
 瞳を細めてティーエが微笑むと、さらりと菊の花弁たちもそろって囁いた。
「あの晩は燃えたね。確かサキトハに、こっそり彼女に口でしてもらったとか自慢されたのもあるし。
 サッリェは、ちょうどまた例のごとく二人で森へ消える日だったし。当てられたっていうか、うん。負けてら――」
「チタラさん!」
 どうやら、チタラは完璧この上なく開き直っている。目が据わっていると言ってもいい。
 知人どころか親友たちのそういった営みを事細かに説明されては、ティーエは困ってしまう。
 彼女はただ単に、子を授かった日を彼といっしょに確認して、祝いたかっただけだったというのに。
 
 ティーエは、鎌首をもたげて襲い掛かる斑蛇のように、チタラの黄土色の口元に菊花色の縄を巻きつかせていた。
「――!」
「チタラさん。落ち着くことができますか?」
 ぱちぱちと瞳をしばたかせて、チタラがこくこくと頷いた。
 どうやら成功らしいと、ティーエはほっとする。彼は開き直ると、ほぼ誰にも止められなくなる。
 あの勇猛な同期の戦士たちでさえ、一様にありもしない用事を思い出してどこかに行ってしまうくらいなのだ。
 しかし彼女は、自分が、チタラの逆らえない唯一の人物であることを逆手に取った。
 どのように変わろうとも、既に彼を受け入れてしまっているティーエならでは、とも言える。
 強制的に口を閉じさせることで劇的に元に戻せるという治療法を、紆余曲折の果てに発見・獲得していた。
「これはとても大切なことです。チタラさん」
 理知的な光が徐々に戻ってくる。それならば、と。
 ティーエは彼の確かな回答を得られることを信じた。というか、答えてもらわなければ納得がいかない。
「我らの寝台での営みも、触れて回っているのですか」
 その問いの答えは……不動、だった。
 このチタラをして、回答を導けないということは、それ即ち。
「チタラさん。我はひとつお願いを思いつきました」
 これは頷いた。ティーエはずっと彼の眼に宿る光を見つめている。
 瞳に奇跡を宿し、さまざまな恵みをもたらすウィラコチャ神の侍女らしく、眼球というものに神聖さを感じているのだ。
 両目ともに光を失いかけた彼女を、片側だけとも言えど完治させた彼のためにも、
 ティーエは見せつけるように顔ごと……チタラの顔ごと自分の側に引き寄せる。すごい勢いで。
「戦地ゆえに贅沢は言えませんが、今だけは耐えられなくなりました。
 片手だけに指輪をつけていると、身体が傾くような気がしまして……チタラさんの、想いが重すぎて」
「……ぷあっ」
 にっこりと微笑んだティーエは尻尾をするりと解放し、チタラは即座に新たな空気を吸い込む。
「誓う。誓う。お、俺の財布は全て君に預ける。近いうちにいっしょにもうひとつ指輪を」
 本当はいけないことなのだが、チタラの出張と、ティーエの通院、を合わせれば少しだけ本国で時間が取れたりする。
 これまでの二人の秘めた愛はこうして育まれていった、ということ。
「嬉しい。我の、チタラさん」
 ティーエはもうすでに脱力の戒めから逃れていた。
 上半身だけの神官衣で包み込むように、愛するオセロットを力強く抱きしめていた。
 
 ただそのとき彼女が、家計の一任という言質を獲ったことに対してほくそ笑んだかについては、それこそ。
 
 ――彼女の信仰する、太陽神ウィラコチャのみが、知りえること。
 
 
    §  §  §
 
 
「チタラさん。吸っても出ないものは出ないのです。吸われたら逆に、出ないと思うのですが」
 彼はまた開き直った、そうティーエは諦めた。
 しかし、それは彼が自分に夢中になってくれているということ。
 ティーエ自身も少し前のように正気に返らせたくない、と思っている。
 (それに、口を押さえつけては、チタラさんは舌を噛んでしまいます)
 頤を引いて、下にうずくまる彼を確認したティーエだが、チタラは見上げもしない。
 ちろちろと細かい牙を覗かせながら、一心不乱に彼女の秘処をなめている。
 ティーエは、ぞくり、と。
 男性の邪な光を彼の閉じがちな眼から感じて、喉を鳴らした。
 温厚なチタラもこのときばかりは攻撃的にティーエを、将来の妻を求めている。
 
「あれはもう良いのですか。二人で、確認するのではないのですか」
 長く平たい舌がさらに奥を目指したのが伝わり、ティーエはさからわずに頤を逸らした。
 強制的に天井方向を見ることになり、彼女は出窓を確認する。
 まだそこに、妊娠検査薬がかすかに顔を出している。
 ジャガーの長身もあって手を伸ばせば届かないことはないのだが、チタラの良いようにすることにした。
 (それに、手を離しては、チタラさんを締めつけてしまいます))
「良いですか……せずとも、良いのですか……」
 (耐えなくてはいけません。我がもっともチタラさんを、愛しているのです)
 またさらに、チタラの両手がティーエの内腿を外側に押し出す。
 彼女はもうすでに諦めているから、両方の膝裏にまわした両手にさらに少しだけ力を入れる。
 大きく割られた褐色の両脚が限界まで広がる。
 足首に引っかかったままの淡い水色の下着が揺れた感触。
 だが次の瞬間には、彼女の感覚はまた自分の脚の中心に戻る。
 チタラに、自分の奥の奥の最奥まで診察されている錯覚。
 ティーエは首の根が定まらなくなっていることに気づいていた。
 斜めになってしまった視界で、今度は潤みがかってもきた。逆らわず、片目の光を遮った。
 
「はっ……んふぅ……」
 すぐに、じわりじわりと高まっていく。
 ティーエはチタラから贈られてくる愛情を吸収する。黄土色の土壌から、生命力を吸い上げて咲く菊の花のように。
「ん、ああっ!」
 ティーエは膣内をざらりとさせられて褐色の肌をあわ立てる。チタラが急に舌を引き抜いていた。 
 こつんと頭を後ろにぶつけてしまう。ゴムの樹液のように徐々に固まっていったはずの快感を突然に中断されて、
 閉じていた片方の眼も開かされていた。
「今、一度……」
「うん……」
「途中で舌を止めて、また、少し戻って、一気に」
「そう、時間差。得意だからね、そういうの」
 (確かに、チタラさんは投擲にそのような技術をよく用いていますが)
 少しだけ速く呼吸しながらぼうっと見下ろしてくるティーエを、チタラは強くぎらぎらと見上げる。
 彼女がよくそうするように、チタラも愛するジャガーの片方だけの瞳に集中する。
 感じ取るのは、確かな期待と懇願と。愛情。
 
 だからだろうか。
 チタラは、彼女の瞳が淫らな色に染まるのをどうしても見たくなる。
 煽られて、昂ぶらされて、どうしようもなくなってから、ティーエの方からもとめさせたい、と。
 チタラはするりと、小さな体を移動させる。
 ティーエの膝下をくぐり、脇から小さな頭を突っ込み、いきなり至近距離に出現する。
 彼女の性癖を理解しているだけに、そしてもう当り前のことのように身体を重ねた自信からか、まったく遠慮がない。
 みるみるうちに、ティーエの褐色の頬に上っていくその筋の赤味。
 彼女が密やかに言うことには、小さくて可愛らしいのに、大人の雰囲気をしっかり持っているところに、
 恋を射止める矢が的中したらしい。
 チタラは特に放った覚えはないのだが、いや、嬉しいことに変わりはないと思っている。
 はっ、はっ、と呼吸を浅くしたティーエは、チタラをじっと見つめたまま動かない。
 「かわいい」とは声には出なかったが、わなわなと震える唇の動きは彼の親友ではなくとも、確かに読めた。
 
 チタラは激しくティーエの頭を引き寄せる。
 噛み千切ってしまうかのように、彼女の頬に上下の牙を立て、べとり、と舌を押し当てる。
 そのまま数瞬も経たないうちにティーエの唇がぱく、と開いた。
 チタラも一瞬で舌を差し入れる。二人の唾液が絡み合い、互いに飲み込みきれないそれらがだらだらと零れ落ちる。
 液体はふんだんに空気を取り入れ、ぐちゃぐちゃと淫らな音をたて続ける。
 二人とも肺にまわす空気が足りないかのように、肩まで動かして全力で鼻から呼吸する。
 口元がべたべたと粘ついても、さらに唾液で上塗りして滑らかになってしまう。
『……はあっ! はあっ、っは、はあっ……』
 ようやく、二人の――彼女が、何も知らない親友に教え諭した――愛の雫の交換が終わったころには、
 息が上がってまともにしゃべれないようだった。
 
「ふぅ、はっ、はぁ……チタラさん……」
「言ったよね。はぁっ、俺、かなり、興奮、してる、って」
「どうしま、しょう」
「どうもしなくて、いい。ただ、感じて」
 ティーエが再び口を開け、彼も応える。
 ただし今度はお互いを癒すように、労わるように、ゆっくりと舌をくねらせる。
 チタラの牙があくまで甘く優しくティーエの頬を噛み、
 ティーエの自由な左手はいとおしそうにやわらかくチタラの喉をくすぐる。
 二人とも芯を抜いたように、尻尾にこめていた力を抜き、見もせずに宙を漂わせる。
 正面側で先端が触れ合ったと思えば即座に、一回転、ニ回転、三回転と縄のようにより合わさっていく。
 彼女のいまだ盲いた右目を覆う眼帯がじわりとにじみ、完治した左目からはまた一筋、涙が流れ落ちた。
 
 二度目の交換も、やがては終わってしまう。
 深くゆるやかなキスは、かける言葉すら二人に失わせた。
 余韻を一時でも長くしようと、眼を細めて、微笑んで、鼻先を合わせて、また、そうしてキスをする。
 音を立ててついばみながら、チタラの手が一度だけティーエの薄い乳房をまさぐったあと滑り落ちた。
 一瞬だけ、楽しそうな彼の様子。楽しみを取っておこうとしている子供のような表情。
 くらくらと眩暈を起こしてしまったようなティーエはそれに気づかない。
 
 そして。
「あんっ!」
 くちゅ、と突然聞こえた水音に、ティーエは我に返った。
 チタラの腕がもぞもぞと下から潜り込み、温かくほころんでしまっている陰唇をぐい、と広げていた。
「すごいね」
 何が、と言わないチタラが憎らしいとティーエは顔を背けた。
 さすがに彼女と言えども正視することはできないようだった。
 そして、その様子が彼を喜ばせてしまうこともまた、いや、まだ分かっていない。
 チタラの精密な指が、確実にティーエの弱いところを攻めたて始めた。
 舌とはまた違う、しっかりと膣内をほじくる手応えに、彼女は思わず足先で床を叩いた。
 下腹部に力が入る。もっと、もっと彼の存在を感じ取る。
 
 そのとき、ちらりと浮かんだのはお腹の中の存在。
 むしろ今まで思い出してあげなかったことに、ティーエは一人胸の内で謝る。
 しかし、彼の精を受けた子なら、きっと強い子に違いないという確かな根拠があるせいだろう、と。
 それに密林の民の頑健さはこの種子にもしっかりと受け継がれているはずなのだ。
 今はただ、母が父に愛されているところを見て、聞いていて欲しいと、ティーエは思った。
 
「ん、く、ふぁっ! あっあっ!」
 一瞬だけ母となったティーエだが、すぐに意識がぱちんと切り替わる。
 あえぐ声音は、いつしかはっきりと高く、快感を愛しい男に伝える嬌声となる。
 より合わさった尻尾のうち一方が逃げようとして、一方がさらに捻って引き止める。
「いいね? 強く行くよ」
 チタラの自信に満ちた口調。
 また荒々しくも男の衝動が、ぐんと顔を出してきてもいた。
 二本指の抽送速度がいきなり速まる。
 跳ねる水音もくちゅくちゅと連続してティーエの立ち上がった菊花色の耳に届く。
「ひゃ、あっ! んあ、あぁっ! だめっ!」
 さらに速まる。すでにティーエの性感は痛覚とは無縁になっている。
 チタラの開き直ったときの激しい愛撫にきちんと応えられるまでに、彼女の身体は男というものに慣れている。
「いっ!ああ、ぃや、やああっ!はずか、しっ、ああ!」
 さらに、ぐじゅり、と。
 羞恥だけを表に押し上げるような淫らな音に、ティーエはついに頤を押し上げて啼き始める。
 感じようにもよっては、優しさとは絶縁されてしまったように、次々と繰り出されるチタラの愛撫。
 しかしティーエは受け入れる。決して拒まずに、彼が先ほど告げたように、ただ、感じるままに。
 床を弱く叩いていた足音が止み、今度はティーエの腰が浮き上がっていく。チタラは当然のように、追い詰める。
 
 ぴゅっと、突然だった。
 それを見た瞬間、攻め続けるチタラをさらに獰猛な野性が襲ったのだが、
 ちらりと浮かんだのは彼女のお腹の中にいるという、己の子。
 すっかり忘れていたことに、チタラは一人胸の内で謝る。
 しかし、彼女の器を継いだ子なら、きっと強靭な子に違いないという確信に似たものがあるせいだろう、と。
 それに密林の民の粘り強さはこの種子にもしっかりと眠っているはすなのだ。
 今はただ、父が母を愛しているところを感じていて欲しいと、チタラは考えた。
 
「ティーエ。潮、吹いてる」
「えっ、あ」
 急に名を呼ばれた彼女はうっかり見下ろしてしまっていた。
 彼にねだるように浮いている腰から、飛沫が見える。ティーエは恥ずかしくてぎゅっと眼を閉じようとして、
「ティーエ。上の検査計、取って」
 チタラに低くて上ずった色っぽい声に、引き止められた。
 指は相変わらず、うねるように動いてティーエの潮を断続的に噴かせている。
 彼女は眼が、離せない。何か自分の意志でないものに操られて、大きく小さく縦に横に痙攣させながら、
 どうしようもなく男を誘っている褐色の下半身から。
「われっ、は、しりませんっ、んっ!」
「早く。全部出ないうちに。これは小水、おしっこに近いんだ。だから」
「う、うそですっ。あ、いや!せんせっ、またでてっ、ひゃっ」
 少しだけ、チタラは可笑しくて髭を揺らした。
 うっかり「先生」と呼んでしまったティーエが可愛くて、チタラも一歩引いた冷静さで「先生」になる。
 ただし「チタラさん」はもちろん顕在だ。
 彼女の膣内の空気を全部抜いてしまうかのように、ぴっちりとさらに奥まで指を埋める。
「自分で見て、確かめるんだ。色は? ニオイは?」
「みな、いっ……いやぁ、かがなっい、あっん!」
 今度は「先生」と「チタラさん」を繰り返しながら啼き始めるティーエの眼帯は、もうぐっしょりと濡れている。
 彼女の赤く腫れた秘唇もその眼帯のごとく、しかし涙ではなく愛液をきらきらと撒き散らし、
 ねっとりと毛むくじゃらの指を咥え込んだまま離そうとしない。
「ほーら、肩を上げて、手を伸ばして」
「せんせっ、こそ手をっ、てを止め、チタらっ、ふぁあああぁっんっ!」
「うん。今のが一番大きかったかな。五度目で最大」
「ひぅ、えくっ、やぁ、やああぁぁ。もう、いやあぁのぉ!」
 チタラの愛する女性が五度目の絶頂に至ったのに遅れて、彼自身も目標を達成しつつあった。
 もうすぐ、本当にもうすぐなのだ、と。
「ティーエ。どう? したい?」
「はっい!チタラ、チタラっ、はや、く、早く貴方をくださ、くださいっ!」
 暴走と言ってもいいくらいだった、彼の肘から先がぴたりと止まる。黄土色の尻尾もようやく戒めを解き、
 菊花色の尻尾はくたりと床を叩いたあと、ぴくんぴくんと小刻みに跳ねている。
 ぺたんと落ちてしまうティーエの腰を逆の手で支えてあげながら、チタラは濡れそぼった黄土色の毛並の腕を、
「んっく!」
 ゆっくりと嬲るように引き抜いた。
 投擲で鍛えに鍛えたチタラの歴戦の右腕が、酷使した筋肉がぶるぶると震えている。
 そして、水練から上がってきたときのように、指先からはティーエの噴き出した潮が途切れることを知らない。
 
 
 
 チタラの両腕がまわり、ティーエの座りっぱなしで痺れたようになっていたお尻が揉み解されている。
「寝台の方に行かなくていいの?」
 内緒話のように小さな彼の声。
 彼女は答えない。ほとんど何も身に着けていないこの状況で、うろうろと出来るわけがないのだ。
 ティーエは無言のまま壁際を見やる。自分らしくないと、彼女は思った。
 脱ぎ捨てた衣服が折りたたまれているが、不慣れな子供のように定まっていないたたみ方だった。
 
 ティーエは口を閉ざしたまま、チタラを押し倒す。彼も、拒まない。
「でも少し肌寒いだろう?白衣、かけるよ。俺は自前のがあるしね」
 オセロットのチタラにとっては膝ほどまである白衣も、ジャガーのティーエにとっては腰ほどまでしか届かない。
 それでも二人一緒に白衣で包まれているような感覚に、ティーエはさらに彼を感じようと両肘をついた。
「ティーエ。怒ってるの?」
「いえいえ。我は怒ってなどいません」
 ただ、彼に伝わればいいとティーエは思い、いったん離れていた尻尾同士を再び絡み合わせる。
 膝の位置を調整して腰をゆっくりと落としていく。
 そして、性器同士が熱く触れた。ティーエは眼を閉じ、チタラをただ感じるだけ。
 二人で位置をずらして、結合のために最適な角度を探す。そして、やっと、あるべき処に二人は落ち着いた。
「……っはぁぁ……」
 ティーエはしみじみと実感するかのようにため息をついた。
「ティーエ。本当にありがとう」
 チタラも万感の思いからか、ゆっくりと、ゆっくりと感謝の言葉をかけた。
 
 ティーエはもちろん、彼のその口調の意味を知るだけにじいん、と胸の内を熱くする。
「我は、もう、疲れてしまいました」
 けれども、彼女の唇から洩れた呟きは、そんな戯言。
「君がかわいいからいけない」
「すいません」
「くくっ、何にすいません?」
「いえいえ。何となく」
 これまでの苛烈な攻めを感じさせないほど、チタラはゆっくりとティーエを揺らし始めた。
 突き上げることはせず、華奢だがそれでもむっちりと重い彼女のお尻を上下左右にそうするだけだ。
「あ……まったり、とした……」
「君は本当に独特だね」
 ティーエは、穏やかに小舟に乗っているような快感を訴える。
 チタラは彼女の胸に顔を押し付けながら、少しだけ呆れた様子で同じように微笑んで返す。
 くにくにとお尻を揉み解す彼の手は依然として止まらず、褐色のそこは熱をもち始め、紅く染まってきている。
 
 ぷちゅ、ぷちゅ、とどこか可愛らしい音だと、ティーエは思う。
「名前。名前は何にしましょうか。チタラさん」
「ティーエ。それはとても大事なことだ。よく思いついてくれたね」
「まだ早すぎるでしょうか」
「いや、そんなことはないよ。あとでゆっくり、ゆっくり……考えよう」
 今だけは君だけを、とチタラは念じる。
 そして目の前でぷるぷると前後に揺れている、彼が一番大好きな、ティーエの充血しきった桃色な蕾に舌を伸ばした。
「ひゃぅ、チタラさ、んっ、んっ」
 さすがに今まで触れてあげなかっただけあって反応がいい、とチタラはまた少し、嗜虐心を煽られた。
 彼女はこの淡すぎる膨らみを攻められるとあからさまに焦るのだった。
 チタラは今までに、ねちっこくしたり、焦らしたり、一度も触れなかったりと、この弱点を楽しんできた。
 だから、彼が愛情の末にただそこに吸い付いてしまっただけだというのに、彼女は身構える。
 
 そして身構えたティーエは今している行為を実感し直し、きゅっと切なくする。
「はっ、は、うっ……ぅ、くっ」
 彼女は恥ずかしいと思いつつ、物足りなくなる。
「あっあっ、んぁっ!」
 さらには音をたてないほどきつく吸い上げられて、ティーエは組んだ両手に頬を押し付けた。
 結っていた髪から零れ落ちてしまった一房が、はらりと流れた。
 その刺激にすら、ティーエは震える。挿した付け毛たちをも意識してしまうくらい、感覚に敏くなっていく。
「うっ、んん」
 ティーエははしたないと感じずにはいられない。牙をかみ締めて耐えようとする。
 思うががままに突き上げたいだろうに、一度も達せずに苦しいだろうに、
 我慢して気遣ってくれているチタラのために、だ。
 けれども彼女はもう既に、彼によって与えられ慣れた悦楽を欲しがってしまっている。
 
 おそるおそる、ティーエはお尻を浮かせてみた。
 そこを撫で続けていたチタラの両手もすっと迷いもせずに従ってきた。
「……っ」
 確実に読まれていた、とティーエは悔しさと恥かしさを混ぜ合わせる。
 それでも、下ろそうとは思わない。チタラもティーエを愛撫し続けるだけで何も言わない。
 ただ、黙って彼は腰を使い出した。
「んんんっ!」
 待ち侘びた彼自身の律動に、ティーエは手の甲に頬を押し付けて耐えた。
 チタラの尻尾がティーエのそれを引き、彼女のお尻を固定する。
 それはまた何かの前兆のように感じられて、ティーエはさらに身を硬くする。
 そして硬くすればそれだけ、彼女はチタラの熱くそりかえった塊をありありと実感してしまうのだ。
 
「すごっ、とっ、とてもっ、あっ……」
 彼の抽送が速さと深さを増した。ティーエの身体の下で、チタラの吐息が荒くなる。
 嬉しい、と。また彼女はじわり瞳を潤す。
 ありのままにチタラを感じることに、ティーエは全力を傾ける。愛する彼の好きなようにわが身を委ねる。
「いいっ! ああっ、いいのっ! これっ、すごくっ」
 快感がぱあっと光り輝いていく。
 朝陽を浴びて色づいていく世界に、ティーエの幸福感もまた限りなく高まっていく。
 いまや彼女のお尻は押し上げられ、チタラの尻尾を逆に引っ張るように菊花色のそれはピンと張っていた。
「ティーエ。待ってて……っ」
 彼女は喘ぎながらそれでもがくがくと何度も何度も頷いて返す。
 戦士として男として相応しい、大きさと張りと熱が満ちたチタラの男性自身を、
 ティーエの深くまで包み込む女性自身がぎゅうぎゅうと抱きしめ、つかまえて逃がさない。
 そして何度も何度も浮かんできては、ティーエの子宮全体を収縮させてしまうその予知。
 とうとう、チタラの爪ががっしりと、ティーエを拘束した。
「は、ああああっ!あ、あ、びく、って、また、あっああっ!」
 外れるわけがなかった。
 撃ちこまれる灼熱の精子を残らず収め尽くそうと願う、本能という名の、予知が。
 
 
   §  §  §
 
 
「ごめん。君をああいう風にしたいのは山々なんだけど」
「いえいえ。我はこれで満足です」
 ティーエの声を背後上から聞きながら、チタラはそっと私室に戻った。
「おんぶの予行演習です」
「君ぐらいに大きくなるまで、かなり時間がかかると思う」
「この子がオセロットであれば、そうはなりません」
「そうだね。どっちかな。どっちでもいいけど」
「我も」
「本当に?」
「いえいえ。お疑いになりますか?」
 二人用の寝台を、チタラ個人の私室に設置する理由はないわけで。
 一人分の広さしかないそこに、チタラはふらふらとなりながら腰を下ろす。
 
 ざっと派手な音をたてて沈みこむ敷き布。
 そこにしゅっと衣擦れの音をたてながら、座り込むティーエ。
「ああ。これほどに髪が乱れてしまって」
 慣れた手つきで付け毛を残らず抜いた彼女は、さらに髪留めも払って菊花色の長髪を流した。
 頤をそらして打ち振ると、少し癖がついたままのそれが末端で敷き布に散らばった。
「チタラさん」
 そうして、神官衣のティーエはとても嬉しそうに微笑む。
「ティーエ」
 立ち上がった白衣のチタラも、振り返って穏やかに髭を揺らした。
 こうすると身長の同じくらいの二人は、そろって鼻先を近づけ、淡いキスを交わす。
「俺の実家はね。両親ともオセロットだし、一人っ子だから」
「はい」
「新しく寝台を、君の身長に合う寝台を買わないといけないんだ」
「我にまかせてください。可愛らしい寝台を、我が選びます」
 また微笑み合って、じっと見つめあう二人。
「結婚しよう。来てくれるか」
「はい、我からも。お嫁さんに、してください」
 
 
 
 樹木神ピルイを信じる父と、太陽神ウィラコチャを信じる母と。
 新たに生を受けた種はどのように根を張り、陽を受け、実をつけるのか。
 
 優しく理知的な医者である父と、たおやかに家庭を支える母と。
 勇敢な一人の戦士である父と、神に仕える一人の侍女である母と。
 新たに生を受けた密林の子はどのように立ち、歩き、何を為す人となるのか。
 
 ――それらはまたきっと、神のみが、知りえること。
 
 
 
                        『夜明けのジャガー ~星たちの詩』
 
                                      一ノ星 『祈り』    終。
 
 
 
 
 

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