猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

狼国精霊説話集 其の壱 守護のシグワラ

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 狼国精霊説話集其の壱・守護のシグワラ

 

 

 その土地は豊かで獣も草もよく育ったが、故に飢えた者に襲われることとなった。
 弱きものどもの悲鳴に心を痛めた精霊は彼らに盾を授け、その慈悲を以て守ったという。
――守護のシグワラ

 


 太陽は中天に差し掛かっている。巨大な影に足を踏み入れたところでキズナシは顔を上げた。苔生した巌が猛々しく空を突き上げている。雨がほとんど降らない狼の国では、空はいつも青く澄み渡っている。空だけではない。山脈。血。誇り。精霊。名前と場所が違うだけで、狼の山岳地帯はどこも似たようなものだ。キズナシが生まれ育ち、そして追放された故郷と何一つ変わらない。
 キズナシは黒い狼だ。全身余すところなく、まるで黒が他の色を拒んだかのように黒い。大柄な体を更に黒い外套で覆い隠し、黒い瞳は茫と景色を映している。その首に巻かれた首輪だけが白い。
「キズナシ!」
 名を呼ばれて振り返る。小さな相方はなだらかな坂道に苦労しているようだった。
「キズナシってば!」
 キズナシが立ち止まると、小さな猫の少女はちょこちょこと走ってくる。猫の中でも小柄な彼女は狼の仔供が着るようなかわいらしい外套を着ている。十分美人に分類されるであろう容姿だが、きれいというよりかわいいと言われてしまう部類だ。その背中にはキズナシのものよりもやや大きな荷物が背負われていた。今回はよかったようなものの、やはり今度からは自分の分の荷物を増やそうか、とキズナシは思う。
「ミナ」
 名前を呼ぶと、少女はにゃっと怒った。
「置いていかないでよ!」
「ああ」
「ああじゃなくて! なんでそんなに急ぐのよ!」
「ああ」
「……ねえ、キズナシ。ちょっと頭貸してくれない」
「ああ」
 頭三つは小さい相方に乞われるまま頭を下げたキズナシの鼻面をネコパンチが一閃した。急所を叩かれてキズナシは顔を顰める。
「なにをする」
「むしろこっちが聞くけどなにしてるの? っていうかあたしの話ちゃんと聞いてよ!」
「ああ」
「反応を返してよ! 『ああ』とか一つ覚えに繰り返してないでさ、もう!」
「ああ」
「……あんたはそういう奴よ……そういう男よね……」
 聞いている様子のない黒い狼に呆れ果てたミナはすたすたと歩き出す。その後に続こうとしたキズナシは、ぴたりと足を止めた。
「ミナ」
 キズナシが鋭く呼びかけると、ミナの顔が隠しきれない脅えに染まる。
「山賊?」
「後ろに」
 それだけ言い置いて、キズナシは自分の荷物を投げ捨てた。
 息を吸う。
 吐く。
 それを待っていたかのように、矢が飛んできた。ひょうと空気を裂いて自分に向かってくるそれをキズナシは外套の端で払い落とす。見当違いの場所に突き刺さったそれは人の手から放たれたものに違いなかった。
 山道はその足場の悪さから不意を突き易いものの、襲撃しやすい場所というのは限られている。予想通り斜面の上から駆け降りてくる狼の一団が見えた。皆手に手に長物を振り回し、何事か吼えながら突進してくる。相手にするには面倒な勢いだ。
 キズナシは先程の矢を拾い上げ、その集団の足元に向かって投擲した。直接刺さるほどの勢いはなかったものの、それに驚いた先頭の狼が足をもつれさせる。勢いを殺しきれずに転んだ彼に後続が衝突し、突然の出来事に対応できなかった仲間も同じ道を辿る。そうして集団が混乱している隙に、キズナシはミナを抱きあげた。
「掴まっていろ」
「うん」
 キズナシは走り出した。倒れている狼たちを飛び越え、斜面を斜めに蹴って遠くに着地する。山賊たちの呻きはすぐに遠ざかって行った。

 


 ミナが目を覚ましたのは柔らかな寝台の上だった。顔を横に向けると黒い狼と目が合う。
「起きたか」
「ん……」
 キズナシの黒い瞳は茫として何を考えているのか判然としない。それでも、今はこちらを向いているのが感じられる。ミナが身を起こそうとすると、黒い手がそっと背中を支えてくれた。
「気分はどうだ」
「大丈夫」
「そうか」
 大きな手が離れていく。焦点を絞り切れなかった意識がはっきりしてきた。黒い大きな手に抱え上げられて、それからの記憶がない。山賊から逃げるため、手加減なく走ったのだろう。
「ここは?」
「シグワラだ」
 今日明日に着く予定だった氏族だった。言われてみれば部屋の内装に見覚えがある。どうやらいつも泊めてもらっている部屋に寝かされていたらしい。荷物は寝台の脇に置かれている。
 一つしかない。大事な、商品が入った荷物。
 俯くと、そっと抱き寄せられた。キズナシの顔は平生と変わらないように見える。
「キズナシ」
「ああ」
「ありがと」
「ああ」
「……気にしないでね」
「ああ」
 自分の声がみっともなく震えているのがわかる。目元がじわりと熱くなる。これは泣いてもいいな、と思ったところで小屋の扉が開かれた。
「あら」
 入ってきたのはいつもなにくれとなく世話を焼いてくれるシグワラ氏族のエテノアだった。ごめんなさいねなどと言いながら悪びれた様子もない。ミナは慌てて寝台に顔を埋めるが、後の祭りだった。一方素早く身を離したキズナシはなんでもないような顔をしてそそくさと出て行く。
「キズナシ!」
「村の長老たちにお前が起きたと伝えてくる」
「キーズーナーシー!」
「すぐ戻る」
 ぼそぼそとした声が消えていった。
「……あのやろー」
 ミナがベッドに顔を埋めたまま悪態をついている間に、エテノアはぱたんと扉を閉めた。
「あの人が『ああ』じゃない返事をするの、初めて見たわ」
「自分が都合悪いときはちゃんと返事するのよ。そうじゃなかったら『ああ』しか言わないくせに」
「なるほどねえ」
 感慨深く頷きながらエテノアは水の入った器を渡してくれる。一息に飲み干して、ミナはほうと息を吐く。いやに喉が渇いていた。
「そういえば聞いたわよ。山賊に襲われたんだって? 大変だったわねえ」
 顔馴染みの気安さで、よっこいしょとエテノアは寝台に腰かけた。三人の子持ちであるエテノアはぽってりと肥えている。寝台がみしりと嫌な音を立てた。
「ほんとびっくりしたよ。山道でいきなり襲ってきてさ。あそこらへんに山賊が出るなんてそんな情報なかったし」
「わかるもんなの?」
「そりゃわかんないけどさ、ここらへんは出る! みたいな話はやっぱり仲間内で回るのよ」
「へえ、そうなのねえ」
 関心があるのかないのか、エテノアは相槌を打ちながらミナの手から器を取り上げた。備え付けの水瓶から座ったまま水を掬う。横着をしたせいで床に少し零れたが、エテノアは気付いてもいない。主婦とはこういうものなのかと思いながら、ミナは受け取って礼を言う。
「ミナ無事か? ってあれ、なんでかあちゃんがいるんだよ」
 戸口からひょいと顔を出したのはエテノアの末っ子で氏族の戦士を務めているアザエだった。ぱさついた灰色の右手には八十センチほどの鉄剣が握られている。
「親に向かってその言い方はなんだい。なによ、これ見よがしに剣なんか握っちゃってさ」
「わ……悪かったよ。それよりミナ、大丈夫か? なんともなかったのか? 怪我は?」
「うん。傷一つないよ」
 心配そうなアザエに笑ってみせる。落ちつきのない息子にエテノアはフンと鼻を鳴らした。
「キャンキャンキャンキャン、犬みたいに吼えて大変だったのよこの子ったら。ミナーミナーって」
「しょっ……しょうがないだろ! お前は気失ってるし、キズナシは門飛び越えてくるし!」
「門って……え、あの門? 嘘でしょ?」
「ほんとだよ。イェシャが見たって言ってたから」
 シグワラの精霊は守護を司ると、そう信じられている。そんな精霊を祭る村として、守護の象徴である門は過剰なほど巨大に作られていた。開け閉めするだけで大の男二人を必要とするその門は、少なく見積もっても十五メートルほどの高さがある。アザエの口ぶりからして、キズナシは本当にそこを飛び越えてきたらしい。それも、ミナと荷物を抱きかかえたままで。
「うっわ……」
 黒い狼の身体能力が高いのは知っているが、一体何をどうやったのか、ミナには想像もつかなかった。魔法使いならまだしも、狼のキズナシは魔法が使えないはずだ。それはアザエも同じようで、納得のいかない顔で剣を弄っている。
「お前らだったからよかったけど、やっぱそんな簡単に侵入されちゃ俺らの誇りに関わるんだよ。なのにキズナシの野郎は『急いでいたもので』とかしれっと言いやがるしさ。それでじいちゃんたちが『お前らがたるんでおるからこんなことになる!』とかなんとか言いだして、説教だぜ? どういうことだってんだよ」
「なにそれ。変なの」
 ふてくされているアザエは容易に想像できた。用もないのに剣を握っているのは、傷つけられた自尊心を少しでも保とうとしているのだろう。先程からエテノアの機嫌が悪かった理由をやっと見つけて、ミナはくすりと笑ってしまった。
「そうだ、じいちゃんたちが呼んでたぞ。詳しい話を聞かせてほしいって」
 そこで、本題を思い出したといった体でアザエが言う。隣でむっつりと水を飲んでいるエテノアに気付かないふりをしてミナは首をかしげた。
「なんで? キズナシは?」
「話だけならキズナシにもう十分聞いたよ。要するにあれだよ、珍しい奴と飲みたいんだよじいちゃんたちは」
「ああ……そゆこと」
 ミナがシグワラの酒宴に招かれるのは毎度のことだった。行商人が商売をする上で客である氏族との良好な関係は不可欠だ。最も、シグワラほど受け入れてくれている氏族相手なら本当にただの宴会気分ではある。
「じゃ、行ってくるね」
 ベッドから降りて伸びをする。尻尾の具合を確かめていると、アザエがちぇっと舌を鳴らした。
「いいよなー。俺らこれから夜番だぜ。感謝して酒飲めよ」
 アザエの何気ない一言で部屋の空気がさらに冷えこんだ。もうエテノアの方を見る気にもなれない。曖昧に頷いて、ミナは部屋を出た。
「キズナシのこと、よろしくね」
 扉を閉めたか閉めないかといったところで、エテノアが爆発した。建物の外にまで聞こえる声で誇りだの責任感だの怒鳴っている。それに対するアザエの声はどうにも頼りない。彼が戦士になったのは単に体格が良かったからという、少々不安が残る理由だ。エテノアの愚痴を真面目に聞いていれば、彼女がいかに戦士に向かない性情の息子を心配しているかがわかる。さすがにそこはアザエもわかっているだろうから、ミナは何も言わないでいるが。
 ミナは溜息一つついて小屋を離れた。エテノアの説教は終わりそうにない。

 


 目の前で茫と立っている黒い狼のことが、アザエは心底嫌いだった。憎んですらいる。この黒い狼は誰かがそのために誂えたかのようにアザエを苛立たせた。
 今日だってそうだ。山賊に襲われて、こいつはミナを抱いて逃げてきた。そうしておいて偉そうに賊の風体を述べ、注意を促した。あまつさえ守護のシグワラに対して、村の防御が弱いなどと言い放ったのだ。
「誇りはあるだろう。だが、事実だ」
 あの場で吊るしあげてしまえばよかったのだ。シグワラの守護を、氏族全体を侮辱したのだから。けれど、戦士団はその忠告を受け入れた。いかなる立場であれ、戦士の価値とは強いか弱いかで決まる。そしてキズナシは、アザエなど比べることすら許されないほどに、強い。
「おい」
 剣先でつつくと、黒い瞳がこちらを向いた。
「本当のところ、どうやったんだよ」
 二人が立っているのは昼間キズナシが飛び越えた門の前だった。精霊がおわすと言われている頂上は見ることはできない。
「飛んだだけだ」
 キズナシの声は淡々としている。馬鹿にされているようで、腹が立つ。
 尾切りのくせに。
 その一言をアザエは心の中で噛み潰した。

 アザエがミナと出会ったのは、まだ彼女が隊商の一員として働いていたころだ。外見からてっきり小さな女の子だと思って話しかけたアザエは鼻面をネコパンチで直撃されてとても悔しい思いをした。会うたびにちょっとした喧嘩をした。
「あたし、独立するんだ」
 そう目を輝かせて語る彼女を心待ちにするようになったのは、いつだろうか。彼女が独立したとの話を他の商人から聞いたときなど待ち遠しくて眠れなかった。俺を護衛に雇えよと、そういうつもりで。
 なのに。
 久しぶりに姿を見せた彼女は、黒い狼を連れていた。黒い外套をいつでも着ているそのわけはすぐに知れた。キズナシは、尾切りだったのだ。尾を根元から切り落とされる最高級の加辱刑を受け、氏族を追われた男。キズナシなどという明らかな偽名を名乗り、自ら誇りを捨てる狼。そんな男はやめろとミナに何度も言った。尾切りとはどういうものか、口を酸っぱくして説明した。そのたびにミナは黙ってただ首を横に振った。その信頼の根が見えないのがもどかしい。それさえわかれば断ち切ってやれるのに。自分の方がよりふさわしいのだと言えるのに。

「アザエ」
 気付けば黒い瞳がまたこちらを向いていた。
「んだよ」
「ミナと俺が襲われた街道を外れたあたりに、氏族が一つあっただろう。友邦ではなかったな」
 息が止まる。この男はどこまで知っているのか。八つ当たり気味に睨みつけても、その表情は能面のように動かない。
「……ああ」
「そうか」
 なんでもないことのような一言に、頭が真っ白になる。気付けば怒鳴っていた。
「ああそうだよ友邦じゃねぇよ! でもな、隣人だ! 知ってるさ! だから……」
 飢えた彼らが今何をやっているかくらい、知っている。けれど、止められない。今自分たちが飢えていないのは単に街道が村の近くを通っていたからだというただそれだけのことで、立場が違えば自分もきっと剣を握って街道に立っていただろうから。ミナに剣を向けていただろうから。
「放っておくつもりはねえ! 飢えた隣人を放っておくほど、俺たちの誇りは、守護のシグワラは汚れちゃいない!」
「そうか」
 ふと、その声に寂しさが滲んだような気がした。自分がひどく悪いことをしてしまった気がして、アザエはキズナシから目を逸らす。
「そうだな」
 今度の言葉にははっきりと感情が感じ取れた。怯む。
「言ってろ……」
 実のところ、助けるかどうかはまだ話し合いの段階だった。自分たちシグワラ氏族もそう楽な暮らしをしているわけではないのだ。それでも、言わずにはいられなかった。
 何も言わず、キズナシはふらりと歩き出した。ミナを迎えに行くのだろう。呼び止めることもできず、アザエは空を仰ぐ。地平線を赤く染め、峰に沈まんとする太陽にすら嘲笑われているような気がした。

 


 キズナシが行動を起こしたのは夜の訪れに合わせてだった。日が沈み、闇が辺りに満ちたのを見計らって部屋を出る。酔ったミナを寝かしつけるのには随分と苦労させられた。
 音もなく村の中を移動し、昼間の門まで辿り着く。そこを警護していたのはアザエだった。母親に用意してもらったらしい肉を美味そうにぱくついているその横で傍らの篝火に照らされて地面に突き刺された剣が鈍い輝きを放っている。闇に紛れて剣を奪ってやろうかとの馬鹿な考えが一瞬頭を過ぎり、そのまま消えていった。キズナシはアザエのことが嫌いではない。負い目もある。第一、そんなことをして遊んでいる場合ではない。
 闇に紛れて外に流れ出る。煌々と輝く二つの月に感謝しながらキズナシは昼間駆けた道を辿る。山賊たちに襲われた場所にはやはり何も残されていなかった。そのかわり、ここから移動した跡がはっきりと残っている。気配を殺してキズナシはその後を追っていった。その胸にあるのは荷物が片方しかないのに気付いたミナの顔だ。ミナの荷物にも商売が成り立つくらいの商品は入っていたが、キズナシの荷物には客に約束した商品が入っていた。襲ってきた男たちの風体からねぐらはそう遠くないだろうと見当はついた。賊について何事か知っているらしいシグワラ氏族の様子からアザエにかまをかけて確信を得た。ならば、踏みこむだけだ。
 徐々に人の気配が感じ取れるようになり、キズナシは足を止めた。目を凝らせば闇の中に小さな集落が見える。規模からして戦闘単位として数えることができるのはせいぜい十人足らずだろう。侵入を防ぐための塀も急作りらしく雑な造りをしている。守護のシグワラと比べるまでもない。いかにも戦慣れしていない、小さな村だ。塀を難なく乗り越え、集落の中に忍びこむ。と、人影があった。腰のナイフを引き抜き、突進する。
 そこでふと違和感を覚えてキズナシは足を止めた。よくよく見れば門番らしき人影は立ったまま涎を垂らして寝ていた。口には喰いかけの肉がひっかかり、傍らには石槍が突き立てられている。どこかで見たような光景だ。アザエはちゃんと起きているのだろうか、とキズナシは思う。ナイフを収め、周囲に気配がないのを確かめて男を物陰に引きずりこむ。それでもまだ寝ている男の口吻を掴み、腹を数度殴る。ここでようやく男は目を覚ました。暴れ出そうとする眼前にナイフを突きつけて黙らせる。
「騒ぐな」
 闇に際立つ鈍い輝きが効いたのか、男は素直に頷いた。
「昼間、商人を襲っただろう。荷物はどこへやった」
 手を放してやると男は素直に喋った。
「お頭が持ってっちまった……後は知らねぇよ! 俺みたいな下っ端には触らせてもくれねぇんだから!」
「声を落とせ。どこだ」
「村で一番大きい家だよ……そこの二階に、いると思うぜ」
「お頭というのは」
「なんか昔、この村を出てって傭兵してたって奴でさ。俺らに戦い方とか仕込んでくれてんだ。最近戻ってきたんだよ」
「山賊稼業を言いだしたのもそいつだな」
「そうだよ。まだ成功したことはないけど、みんなで頑張ればきっと大丈夫さ」
 褒められた子犬のように男の眼はキラキラしている。単純に、自分たちのことを喋るのが嬉しいらしい。誇りどうこう以前に味方の情報を敵に喋ることがどういうことか考えてもいないのだろう。
 キズナシは頭が痛くなった。
 考え直す。昼間の襲撃もひどいものだった。この氏族は正直なところ衰退もやむなしといった水準にまで弛んでいる。下手に戦慣れして血の味を知っていたら面倒だったが、この様子ではお頭とやらさえ排除すれば大人しくなるだろう。
「忠告する」
「えっなんだ? どうでもいいことだったらぶん殴るぞ!」
「向いてないぞ」
 キズナシは心からそう告げて、男を気絶させた。


 集落の間取りはシグワラと似通ったところがある。目的の建物にはすぐに辿り着くことができた。別の建物から飛び移り、二階の窓に張り付く。中には一人しかいないようだったが、その一人がひどく殺気立っているのが感じられた。襲撃を予期されていたと見るべきか。諦めて窓を叩き割る。すぐさま突き出された槍を避け、室内に転がりこむ。待ちかまえていたのはやはりお頭と呼ばれていた狼だった。身のこなしからして戦い慣れてはいるようだが、それだけだ。流れで傭兵をやっていたのだろうとキズナシは見当をつけた。
「やっぱり来やがったか。待ってたぜ」
 舌なめずりする首領格の狼に気を配りながら、キズナシは室内を観察した。そう広くもないが、首領格の手にある鉄槍を振り回すには十分な広さがある。部屋の隅に階段があるのが見えた。ゆっくりと槍の間合いの縁をなぞりながら、キズナシは階段に近づく。
「逃がすかよォッ! お前らぁ!」
 首領格が喚く。その隙に、ナイフを階段に突き立てる。
 息を吸う。
 吐く。
 その息に力を込めると、階段が霞み、闇に沈んだ。
「あ?」
 戸惑う首領格の耳に、ばたばたと階下で動き回る足音が届いた。
「おかしらーっ! 階段が見えません!」
「おかしらー! 階段が消えちまいました! どうなってますか? おかしらー!」
 状況がわからない。その心の隙間にそっとナイフが滑り込んだ。
「く!」
 とっさに反射神経に任せて槍を薙ぎ払う。さすがに当たるのか、黒い狼はふわりと距離を離した。生物とは思えない、重さを感じさせない挙動だ。
「お前……魔法か!」
 黒い狼は無言のまま、両の手にナイフを構えた。
「う……」
 足元から這い上がってくる冷気に、首領格の尻尾が萎える。夜襲されるだろうという予感があった。わざと自分ひとりになって初撃を誘い、凌いだところで仲間で取り囲む。そういう作戦だった。シグワラを引き連れてくるか護衛一人で来るかはわからなかったが、大勢でかかればなんとかなるだろうという見込みがあった。それを崩された今、頼りにできるのは己の鉄槍だけである。
「ク……クソッタレ!」
 敵の獲物がナイフである以上、大きな挙動は取れない。加えて、先程一本を階段に突き立てたにも関わらず敵の手には二本の刃がある。予備がある以上、投擲してくるのは間違いない。敵が尋常でないのは既にそれと知れている。しかし、と思う。魔法で階段を封じたらしいが、それとて有限。時間がたてば効果も切れるだろう。最悪、窓から飛び降りたっていい。長い傭兵稼業、そうして命を拾ったことなどいくらでもある。ちょっとやらかしてしまい、ほとぼりを冷ますために帰ってきたここだが、他にも逃げるための場所などいくらでもある。そう自分に言い聞かせ、鉄槍を握り直す。
「名乗れ! 我が名は」
 すとん、と。言いかけた言葉が塞き止められる。先程まで遠くでナイフを構えていたはずの黒い狼がすぐ横に立っていること、その瞳がじっとこちらを覗きこんでいること、自分の言葉を塞き止めたのがその手に握られたナイフであること、それらを知り、首領格はやっと自分の死を悟った。
「名はもうない。お前も、俺も」
 優しげな囁き。ナイフを引き抜かれた喉元からほとほとと血が滴り落ちる。そのまま、どうとうつ伏せに倒れた。ゆっくりと闇に蝕まれていく視界の端に、黒い狼がいる。
 魔法の有効時間を削る時間稼ぎのはずだった。それでも、最期に名乗ることすら許されない。
 そう思うと、自分がひどく惨めで、名前のなくなった狼は泣いた。


 荷物に血がついてしまったのは失敗だった、とキズナシは思う。静かな闇夜だ。月明かりの下を、キズナシは歩いていた。一刻も早く、ミナのところへ帰りたかった。身体の中で血が疼いているのがわかる。戦士としての自分が、戦い足りない、シグワラの安全のためにもあの氏族を皆殺しにするべきだ、と訴えている。馬鹿馬鹿しい。一番強いであろう首領格ですら自分の踏み込みに対応できなかった。いわんや、だ。それこそ戦いではなく、虐殺だ。
 手はべっとりと濡れている。近くの川で洗い流してきたはずなのに、まだ血で濡れているのがわかる。首領格の死体は、恫喝の為に元が人間であったとはわからないまでに切り刻んておいた。もう十分血は吸ったと思う。まだ足りないとも思う。
 出てきたときと同じようにシグワラに入り込む。アザエは寝転がって寝ていた。蹴り起こそうとして、やめる。今の昂りに任せていては殺してしまう。キズナシはアザエのことが嫌いではない。かわりに無造作に置かれた剣を顔の真横に突き刺しておいた。自分の上を横切った死にも気付かず、アザエは気持ちよさそうに眠っている。
 ミナ。ミナ。
 侵入してきた黒い狼にも気付かず、寝台の上の彼女は安らかな寝息を立てていた。荷物を壁際に投げ捨てて、小さな体に縋りつく。身じろぎと共に、その瞼が上がる。蜂蜜色の瞳が黒い狼を見つめる。
「血の匂いが、するね」
 何も言わず、キズナシはその身体を抱く力を一層強くする。ミナの小さな手がそっとその頭に触れ、強い毛皮の上を滑り落ちていく。そうして、二人は呼吸を一つにしていく。荒れ狂う血の滾りが収まっていく。

 

 

 目の前で茫と立っている黒い狼のことが、アザエは心底嫌いだった。憎んですらいる。この黒い狼は誰かがそのために誂えたかのようにアザエを苛立たせた。
 木立を挟んだ向こうではミナと村の狼たちの賑やかな声が響いている。
「オレ……オレダヨオレダヨオレオレ! どう?」
「どうって言われても、ねぇ……」
「おっかしーなー。かの猫井が落ちもの研究によって編みだした新技術で、なんでもこう言われるとお金を払ってしまうとかいう話なんだけど」
「なんのこっちゃ。いいから商品出してくれよ、ミナ」
「ん……おっかしーなー。ならない? オラオラオラオラ!」
「さっきと違わね? 無駄だって、無駄無駄無駄無駄」
 どこも見ていないような瞳とは対照的に、黒い耳は木立を向いている。あちらで行われている会話を一字一句たりとも聞き逃していないのだろう。だから、嫌いなのだ。両手両足を縄で縛られ、村の戦士三人にこうして取り囲まれているというのにキズナシは涼しい顔だ。気にもしていない。いくら顔馴染になり形骸化してきた尾切り対策とはいえ、こうも相手にされないとなれば面白くなかった。
「おい」
 黒い瞳がこちらを向く。
「お前さ……昨日の夜……」
 言いかけて、アザエは聞かれてはまずい話なのに気付く。他の戦士二人。黙っていてくれと言ったところで、どこからかエテノアの耳に入るのは間違いない。キズナシは素知らぬ顔でじっとアザエを見ていたが、すぐに顔を木立の方に戻した。
 と、その顔がざっと別の方向を向く。
「お、おいキズナシ」
「客だ」
 一言言い捨てて黒い狼は動きだした。アザエを含めた三人は慌ててそれに続く。キズナシを縛っていたはずの縄が地面に落ちていることにもう誰も触れない。
 おおーい、という声がシグワラの門の向こうから響いていた。泣き声が混ざっている。先に行っていたはずのキズナシの姿はない。三人が顔を見合わせていると、門の上からふわりと黒い影が降ってきた。
「おわっ! キ、キズナシッ!」
「一人だ。武装はしている」
 それだけ伝えてキズナシは黙り込んだ。判断はアザエたちに任せる、ということだろう。話しかけられたのが自分だったので、アザエは声を張り上げた。
「誰だ! 名乗れ!」
「ウフキリだよぅ! ってその声、アザエか?」
「ウフキリって……お前か!」
 門の向こうで泣き叫んでいるのは、アザエが狩りの途中で何度か出くわしたことのある同い年くらいの狼だった。なんとなく気があって、たまに会ったりしていた。
 街道に山賊が出るようになるまでは。
「開けてくれよぉ! 殺されちまうよぉ! 開けてぇ!」
 慌ててキズナシを見ても、首を振る。この狼が動かないのなら、危険はないのだろう。悔しかったが戦士としてのキズナシを疑うほど腐ってはいない。
「わかった! 今、開ける!」
 どうすればいいか迷っていたらしい他の二人が慌てて開門の作業に移る。アザエの横でキズナシはすらりとナイフを抜いた。
「お、おい……」
「用心だ」
 やがて門が開ききる。転がり込んできたウフキリは顔をぐしゃぐしゃにしてアザエに飛びついてきた。持っていたらしい槍は気持ちいいくらいぽいと放り投げられている。
「あじゃえぇええええありがじょおおおおお」
「お、おいどうしたんだよ落ちつけって。おい」
「たず、たずけ、このままじゃ俺たち殺され、うえっ、殺されっ」
「落ちつけってば。どうした? 何があった?」
 助けてと言われれば放っておけないのがシグワラ氏族だ。閉門していた二人の狼も顔色が変わった。キズナシはいつの間にか姿を消している。
「おか、おあいあがっ」
「おあいあ?」
「お頭だよ! お頭が!」
「お頭が」
 呂律こそ回っていないが、ウフキリは必死に叫んでいる。
「ババっ、ば、バラバラにされてて」
「バラバラって、え、つまり殺されてたってことか?」
「夜になんかが、来て、俺を気絶させてっ」
「朝になったらお頭とかいうのがバラバラになってたと?」
「う、うう、ううううう……」
 そこにきて限界が来たのか、ウフキリは失神した。三人は顔を見合わせる。夜に襲撃者が来て誰かを惨殺したと、そういうことだろうか。アザエが何か言う前に二人が駆けだしていく。すぐに戦士団が編成され、ウフキリの氏族に向かうだろう。なんといっても、守護のシグワラなのだから。助けを求める者あらば、守ってやらねばならない。
 キズナシは姿を消したままだ。


 

 

 空が青い。エテノアが作ってくれた弁当を齧りながら、キズナシは上を向いた。その隣ではミナが不服顔で同じく作ってもらった弁当を眺めている。
「あーもう……次の注文もろくに聞けなかったじゃない! もう!」
「戦士団が出払ってしまっていたからな。女衆から聞けただけよかったとしよう」
 シグワラ氏族を後にした二人は岩陰で休憩を取っていた。大きい荷物をミナが、小さい荷物をキズナシが。それぞれ横に置いて、座っている。
「そりゃね、氏族の誇りが大事なのはわかるわよ。でもだからってあたしたちのことまるっきりほっとくってどうよ! どうなのよ!」
「一大事なのだから仕方がない。守護のシグワラだからな。誇りを捨ててしまっては、氏族として成り立たなくなる」
「わかってるけど……わかってるけどさ。よーし、今度からあっちの氏族も巡回ルートに入れるからね。因縁つけてぼったくってやる」
 尻尾をぴしりと叩きつけ、ミナはころんと横になった。それを横目で見ながらキズナシは干し肉をゆっくりと噛んで戻す。
「だいぶ弱っている氏族だったからな。場合によってはしばらくシグワラに世話になっていることもあるだろう。巡回ルートを作るのはまだ控えた方がいいのではないか」
「キズナシ」
 蜂蜜色の瞳に見据えられて、キズナシは怯んだ。
「どうした。なにか不満でもあったか」
「今日はよく喋るね、キズナシ。あちらの氏族に関わってほしくないのなら、素直にそう言ったらどう?」
「……」
「……」
「ミナ」
「うん」
「……」
「……」
 先に目を逸らしたのはキズナシの方だった。黙って干し肉を噛む。ミナは何も言わず、ただ溜息をついた。
「……ほとぼりが」
 キズナシはぼそっと言う。
「ほとぼりが、冷めるまでは」
「最初からそう言ってよ」
「ああ」
 ミナには襲撃者がこの黒い狼であろうことくらいとうにわかっている。荷物を取り返してきてもらったことに不満があるはずもないし、シグワラ氏族の手が入れば山賊デビューを果たそうとしていたらしい件の氏族もまともになるだろう。意図したのかどうかは知らないが、物事は全ていい方向に進んだようだし、キズナシのやったことを責めるつもりは毛頭ない。顔を出さない方がいいこともわかる。ただ、どうしてそう、言うべきことを言わないのか。目を合わせようとしないまま弁当を食べ終えた相方に聞こえるように、ミナは大きく溜息をついた。

 

 

 

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