猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

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 穴倉の底で、「ぼく」は生まれた。

 

 目がいいことが自慢だった。

 いつも一番に木苺や虫を見つけるのはぼくだった。

 イヌなのに、ネコみたいな子、とおねえちゃんに笑われた。

 おねえちゃんは僕より背が高くて、なんでもできた。

 だからぼくは、おねえちゃんがキライだった。

 ぼくが勝てるのは目のいいところだけ。

 でも、シンセキだから、コンヤクシャだから、ときどきいっしょにあそんだ。

 いつも持ってるポシェットから、キャンディだのキャラメルだの取り出して、自分だけ食べてるときはいちばんキライだった。

 ずるい、とぼくがおこると、きまって、ウィスキーボンボンをくれていた。

 こどもには早いわ、おいしくないけど、これならあげてもいいわ。

 ぼくはしかたなく、おねえちゃんにウィスキーボンボンをもらうのだ。

 ぼくが嫌な顔で食べるから、おねえちゃんはサル顔とぼくをわらった。

 

 

 ごうごうと屋敷が燃えて、火の粉が空に昇った夜のあと。

 

 残すのは強い仔がいい。

 

 大人たちが、そう言っていた。

 しかくい部屋、白い壁、大人たちも白い服。

 ぼくたちはよい子に並んでいた。

 ならんで、ならんで、あるいていく。

 暗い穴倉へぼくらは行く。

 出口のない穴倉へぼくらは行く。

 残すのは強い仔がいい。

 強くないなら、残れない。

 手にはなにも持っていなくても、ぼくに生まれつき牙と爪は備わっていて。

 けれどそれはどの子供もおなじだったから。

 いそがないといそがないと。

 こわくてたまらないから、はやく、だれよりさきに―――

 

 

 どうせ残すなら、強靭な個体が望ましい。

 必要な『素材』は百余り、収集は秘密裏に。

 当然、成功率はより高いほうが喜ばしい。

 まだ魂が柔らかな「幼生」だけが、素材となり得る。

 素材をただ集めることは出来ても、101人すべてを「どれが残っても望ましい」個体だけで揃えることは難しい。

 最後に残る個体を、恣意的に選ぶことが出来れば。

 だがそれでは儀式とならない。

 実験は行われているけれど、部分的には成功も見ているけれど、本来それでは意味を成さない。

 すべては閉じた闇の中で。

 最後の一人になるまで、誰が生きていて誰が死んでいるのか、観測も介入もしてはならない。

 けれど。でも。

 儀式に影響を及ぼさず、外側から望ましい個体を残すことができたなら。

 たとえばそう、

 訓練と適正検査で選りすぐった、年齢上限ぎりぎりの仔を一体。

 残りの100は牙を研いだことも無い、あわれな生贄たちで構成する、だとか。

 

 

 暗闇の悲鳴と泣き声。

 火花、火炎、ひらめいては消える。

 糞尿と血と嘔吐物と、焼け焦げた毛と肉の匂い。

 生暖かい湯気をたてて横たわる誰かにつまづいて、逃げ惑う。

 誰が口火を切ったのかは永遠に分からない。

 必死で音のしないほうへ逃げて、逃げて、暗闇のなか幾人もの誰かを突き飛ばして、逃げて、

 

 手探りで部屋の隅にたどり着いて、できるだけ小さく丸くなる。

 こわい。こわい。こわい。

 いつしか音が聞こえなくなっていて、終わったんだろうかという望みに顔をあげた。

 「ぼく」を照らした、あたたかな灯明と、おなじ光の輪のなかに浮かぶ誰かの影。

 黒い毛並み。

 「ぼく」よりいくつか年上の、「ぼく」にとってみれば「おにいさん」と呼べる、

 けれど後に思い返せば幼児と呼んで差し支えないほどの、少年の影。

 少年の毛並みは濡れていた。

 服は破れ、黒い何かに染まり、体に巻いたベルトにはいくつものナイフのホルダー。

 「ぼく」へ魔術の明かりを差し伸べ、少年は自然体に立ち、息を整えていた。

 明かりは、もう闇夜から襲うものがいなくなったというしるしだった。

 もう「ぼく」と彼しかいなくなったという、宣告だった。

 

 小便と涙と涎にまみれた、ちいさな「ぼく」は、部屋の隅でうずくまって見上げるだけだった。

 最後に大きく息をして、彼は「ぼく」へ踏み出した。

 濡れた床が、粘着質な足音をたてて。

 ほとんど空になったホルダーから、無造作にナイフを引き抜いて。

 これでおしまい。

 これで、おとなに言いつけられたお使いが終わるのだと。

 スープ皿の底に残った野菜の端切れを、お行儀よくスプーンでこそげ取るように。

 にちゃり、にちゃりと足音が来る。

 急がず、あわてず、かくじつに。

 「ぼく」は頭を抱えて目をそむけた。どうかこの夢がはやく覚めて。さめてください。

 フッ、と小さな吐息とともに、ナイフが、どうしようもない距離で、振り上げられる気配。

 子供の細い首筋に、せめて確実に、苦しまない終わりを下すために、彼はきっと集中したのだ。

 集中、してしまったのだ。

 ぱちん、と間の抜けた音がした。

 ほんとうに、ポップコーンがはじけるだけのような音だった。

 ぱじゅ、と、水気のある音がすぐに続いた。

 目を丸くして、それでも体のバランスをとろうと反射的に動いて、果たせずに目の前に少年が倒れた。

 主を失くした灯明が、じわりとにじむ。

 光が揺らめいて立ち消える、僅かな数秒、ガラスの目玉がぼくを映した。

 倒れた体が床でバウンドして、そこで明かりが途切れた。

 

 ふわりと、再び光がうまれた。

 そこに、おねえちゃんが立っていた。

 極度の昂奮で見開いた目。

 過呼吸寸前の息。

 白の髪は赤く赤く斑に染まり、ドレスもぐちゃぐちゃで。

 ぜったい触られてくれなかったポシェットの底が、ぱくりと引き裂かれていて。

 ここだけは白いままの手が、愛くるしい、淑女の手のひらに納まる優美な短銃を構えていた。

 

 おねえちゃんの、見たことのない形相に、「ぼく」はおびえた。

 言葉ひとつ発さず、彼女はツカツカと歩み寄り、倒れた誰かを見下ろして、躊躇なく引き金を引いた。

 火花。バン、とはじける音。

 大きく数度、息をして、おねえちゃんはようやく顔をあげた。

 銃口といっしょに、「ぼく」を見た。

 おねえちゃんが照らす明かりのなか、「ぼく」は彼女の名前を口にした。

 かすれてか細い、聞こえたかどうかも分からない小さな声。

 おねえちゃんの動きが、ぴた、と止まったような気がした。

 ……○○○? と、ほとんど吐息だけのような声が、「ぼく」の名前を呼んだ。

 あとは、沈黙。

 火薬と糞尿と血と焼けた毛と肉と湿気の匂い。

 冷えた床にうずくまって、「ぼく」たちは見つめあった。

 見つめあった、と思う。

 先に目をそらしたのは、おねえちゃんで。

 疲労でよろけるように、おねえちゃんは数歩下がって。

 ああ、と、今日のディナーが嫌いなキドニーパイだと知ったときの顔をした。

 きちんとのこさず食べないと、しかられてしまうから。

「………やだ。あたしは、そんなの、イヤだから」

 震えそうな、泣いているような声だった。

 ここは暗い出口の閉じた蟲の壷。

 最後の一人にならないと、あかるいところへは帰れない。

 きちんと、自分以外のすべてを食べないと、出られない。

 けれど、出てくるのはもう、はじめに閉じ込められた誰かではなくて。

 暗い閉じた地獄で生まれ、人でなくなった、新しいナニカに成ったモノ。

 

「……………だから、アンタ。ちゃんとみんな食べなさいよ」

 

 すぐには、何を言われたのか、分からなかった。

 

 こどもには早いわ、おいしくないけど、これならあげてもいいわ。

 ぼくはしかたなく、おねえちゃんにウィスキーボンボンをもらうのだ。

 ぼくが嫌な顔で食べるから、おねえちゃんはサル顔とぼくをわらった。

 でもぼくは、ほんとうは、甘いだけのお菓子はきらいで、ウィスキーボンボンがいちばん好きだった。

 それを教えるとくれなくなるから、言わない。

 ほんとうはおねえちゃんがこれを食べられないんでしょう、コドモだね、と言わない。

 ぼくはしかめ面をつくって、澄ましてウィスキーボンボンを食べる。

 どうして彼女が、自分は食べないものをいつでもポシェットに入れていたのか、あの日の幼い俺は気づかない。

 

 

 初夏の雨上がりの早朝。

 濡れた新緑と、まだ肌寒い冷えた風。

 何十年も前に焼け落ちた屋敷は、変わらずそこにあった。

「何も見るものなんかないぞ。ホントに」

「ひひひ。そーでもないって。物書きには何だってネタの種ってヤツだからさー」

 広大な敷地を踏破して、廃墟に踏み入る二人の影があった。

 夜明けでよろめく痩身と、やや中年の粋に入る長身。

 前夜の雨で湿る下草を踏みしめて、二人は幽霊も棲まない廃墟へ歩いて行く。

 かつては華やかであった郊外の屋敷跡。

 焦げた石作りの外枠だけが残り、天井も床も抜けて野ざらしになっている。

 静かだ。

 広大な土地の名義は、唯一生き残った息子が継いでいる。

 けれど火災の折に一度は行方不明となった幼子が、本物の後継者と証明されるまでに、土地以外の資産は散り散りになっていた。

 火災のあった夜に招かれていた親戚筋の一家も死亡し、その血筋が途絶えたことも、遺産争いを複雑にした。

 それも、すでに昔のこと。

 父母とたくさんの召使と暮らした屋敷は、わずかに外観だけを残し。

 軍に進んだ後継者は、火災を「偶然」に生き延びたあと、「発見」されるまでどこに連れて行かれたのか語ることはない。

 貴族の地位は残っていても、すでにほとんど意味を成さず。

 屋敷を直す必要もないまま、ただ朽ちるに任せている。

 郊外に屋敷を持っている、と口を滑らせた結果が、早朝のトレッキングだった。

 なににつけても物見高い、友人、のようなモノが、目を輝かせたのだ。

 月日が過ぎた。

 もう、廃墟に感傷を覚えることも無い。

 魚を食べれば、骨が残る。

 ここはすでに、そのていどの抜け殻にすぎない。

「なに、天井の梁って木で作んの? 抜けちゃってんじゃん。元は三階建て? 地下、あっ地下ある地下?」

 ネコのような好奇心のままにうろつく友人を、気をつけて歩け怪我するぞと冷や冷やしながら、野放しにする。

 なにが面白いのか分からないが、楽しいのなら連れてきた甲斐があった。

 タバコが吸いたいな。

 口寂しさについ懐を探る。

 目当ての箱はすぐ指に当たる。けれど堪える。アイツはタバコの煙を嫌うのだ。

 昼飯を食べに戻れるうちに満足してくれるかな、と軽く心配する。

 なにか小腹を埋めるものでも持ってくればよかったか。

 甘ったるい菓子の類は御免こうむるが、たとえば、ウィスキーボンボン程度の何かくらいは。

「おっ、美少女」

 瓦礫をひっくり返していた友人が、声をあげた。

 覗き見ると、朽ちかけた小さな額縁を手にしていた。

 まともな絵や写真なら火災と雨風で朽ちている。

 手にしているのは、当時流行っていた、陶製の絵画だった。

 土の板に絵を描き、焼くことで一枚板の陶器とする。

 奇跡的に焦げも割れもしなかったらしい。

 数万年色あせることがないという売り文句の小さな絵は、ばら色の頬の少女の肖像だった。

 何と言ったものか、困る。

 もう一ミリも揺らぐことの無い自分の心に、すこしだけ驚きもする。

 ドレス姿の、白銀の髪と耳の美少女像。

 見覚えのある絵だった。

 失われたものではなく、当時にも実際には存在しなかった姿。

 おねえちゃんは、こんな顔をしていなかった。

 すまして得意げな年上の婚約者。

 血に濡れた、見開いた目を忘れることは無い。

 肖像の中で、少女は理想の子供像を体現して、無垢にやさしく微笑んでいる。

「ああ。婚約者。ガキのころ、死んだ」

 何の気なしに、慣れた事実だけを口にした。

 なぜ友人が硬直して絶句したのか、本気で分からなかった。

 ながい沈黙のあと、もらっていいかと聞くので、別にと答えた。

 よほど、絵の美少女が気に入ったのだろう。

 数日後、俺は作家の部屋の隅に、目に留まらないように絵が飾られてることに気づくことになる。

 

 

ナレーション

「いぬのおまわりさん、ここほれワンワン。

 通称・首都警察なんでも課にはあらゆる事件・面倒ごとが押し寄せる。

 詰まったドブ掃除から迷子のヒト捜索、密室間男事件まで何でもござれだ。

 おい、そこのキープアウトくぐって進入しようとしてる一般ヒツジ!

 お前が首をつっこむと面倒が増えるから頼むから安全な部屋に閉じこもって俺の胃を労わって!

 そんないつものある日、町に一人の女が現れた。

 顔に大きなやけどのある、白銀の髪の女。

 肖像画の面影を残す彼女は、記憶がなく、身寄りもないと儚く微笑んだ。

 保護観察の数日間、それは火事の夜に失われたはずの日々。

 短い夏、なぜか余所余所しくチラ見してくる作家羊、懸命に今を生きようとする火傷の女。

 男が女とはじめに交わした握手の手は、柔らかく、小さかった。

 そして、彼らに最後の夜が訪れる。

 犬と羊とタイプライター劇場版『瞳の中のフィアンセ』。

 ―――ねえ、旦那。あの人、大事にしてあげなよ。」

 

 

 夜の繁華街の片隅。

 イヌの男女がふたりきり、屋台で肩を並べ、暖かい湯気の昇る皿を前に、感謝と疑問が告げられる。

「おまわりさん。どうして、わたしにこんなによくしてくださるんですか?

 ………もしかして、わたくしたち以前、お会いしたことが?」

 耳に甦るヒツジの言葉。

 ねえ、旦那。あの人、大事にしてあげなよ。

 去り際、寂しげに微笑んで、聡い偽ヒツジはそんなことを言ったのだ。

 眼球が映し出す失われた可能性。

 作業着同然の古着に身を包んで微笑む火傷の女と重なる、傷ひとつない大人の顔で微笑むドレスの誰か。

 幻の中、彼女はあの頃のように、黙って、悪戯っぽく首をかしげて。

 声を、聞かせて欲しいと、はじめて思った。

 大事にしてあげなよ。

 ……聡いヒツジは気づいている。

 感傷にすぎなくとも、蜜の罠だとしても、その傷跡は大事にするべきだと。

 なんて、甘っちょろい。

 俺が何十年も前に置いてきてしまった、青臭くて邪魔くさい、対岸の火事のように遠いもの。

 過酷なものも救われないものも知っているくせに、彼女が失ってない、愛おしい甘さ。

 

「………そうですね。実は、むかし、貴女によく似た知り合いがいました」

 そうして男は罠に踏み込む。

 

 深夜の王都の片隅、入念に設置された罠を、拘束を、おぞましき化け物は蹂躙する。

 偽りの人質の前に到達した男は、友人には見せたことのない無機質な顔で、タバコに火をつける。

 震える声で女は言う。まさか、こんな。ここまで。化け物め。

 男は平然とタバコをふかす。

 そう、茶番だったのねと女は罵る。

 茶番だったさと化け物は答える。

 女が贋物であることくらい、はじめから。

 でも仕方ない、と闇夜の赤い目玉が言う。

 あんたたちは良く調べた。俺にたどり着かれた時点で本来こっちの負けなんだ。でも。

 整形に、このためにつけられた火傷痕。

 肖像画の面影をどれだけなぞっても、騙されてやることはできない。

 だって仕方ない。

 彼女、本当はケダマだったんだから。

 保守的な家だったから、それを隠していたんだよ。

 それに。

 おねえちゃんは、あの穴倉で、俺がぜんぶ食べちゃったんだからさ。

 

 

 明け方、幽鬼のような影が帰宅したことを、居候は知らない。

 玄関広間のソファでいびきをかいていたから、ランプの灯が消えかけていたことも知らない。

 暖炉にくべられた薪だけが細々と、いつでもお茶を淹れられる湯を一晩保っていて、無言の家主を暖かく迎えた。

 散らかった原稿用紙と読みかけの本と、かじりかけのビスケット。

 野鼠の巣穴のような有様にくるまれた寝顔に、この指が触れないように毛布をかけて、しずかに対面のソファに腰を落とす。

 昇った朝日が、ゆるやかに広間に満ちて行く。

 

 

 知らない女の声で覚醒した。

 いや、まだ意識は半分閉じている。

 凛とした女の声。

 現実に二重写しになるそれは、いつもの白昼夢だ。

 五感を伴うそれは、常に失われた可能性のシュミレーション。

 けれど、なにか様子が違う。

 声。

 白昼夢の中の自分は自分の屋敷の中を移動している。

 独り言のようなささやき声の主は視界にいない。

 誰だ。

 視点が階段を上がる。

 違和感。なんだろう。

 寸分違わないおなじ屋敷なのに、違う視界。

 自分の腕に抱えた、清潔そうなリネン。

 細い手首と、自分のものとは違う白銀の毛並み。

 ノック。

「どぞー」

 腑抜けた声、聴きなれた声。

 いつもの散らかった居室で、椅子の上でタイプライターに向かう背中が見える。

「洗濯はアンタ担当するんじゃなかった?」

 怒ったふりをする「自分」。リネンをベッドの上に置く。

 いつもの景色。違うのは「高さ」だけ。

 気まずそうに笑ってごまかす物書きの表情まで、違って見えて。

「さーせん。だぁってさーあー、さー」

「あたしに言い訳しても知りません。どうしていつもギリギリなの? 先に先に済ませておけばいいんじゃない?」

「おうっふ。正論キタこれ。だめ人間なんでそうはいかねーんすよ……生きててごめんなさい」

「それと、へんなスカル柄とか、赤と緑のシマシマとか、そーゆーパンツやめてってば。

 外に干してて、他の人にあたしのだって思われたら、困るんですけど?」

「男装してんのに姉御とおんなじフリルすけすけを穿けと!??」

 

 

 この眼球が見せる白昼夢は、常に失われた可能性。

 けれど何でもありというわけではない。

 もっとも基本的な制約がある。

 視点は常に、この眼球を得た後の自分の視界であるということ。

 けれど。

 これは。

 残響のように遠ざかる白昼夢の名残を、つなぎとめる術もなく、眼を見開いて見送る。

 鈴をふるような女たちのお喋りが消えていく。

 それはかすかな、おそらくただ一度きり触れることの叶った可能性の欠片。

 この眼球が。

 俺以外の誰かに宿る可能性があったとすれば、それは―――

 

 

 数日後、王都の片隅で、衰弱した女が保護される。

 女は、全身にひどい怪我を負っており、重大な事件に巻き込まれたと見られた。

 王族や貴族しかかかることのできない名医に、偶然担ぎこまれたおかげで、怪我の予後は順調ということである。

「とくに顔面がぐしゃぐしゃだったっす! 女の顔にこんなことする奴は鬼っす、人でなしっす、許せないっす!

 おれビョーイン連れてったっす、行きつけっす、よぼーちゅーしゃに連れて行かれるっす!

 とにかく顔を治すよう言ってきたっす、元の顔には治らないけど、まともな顔にはできるって医者が言ってたっす!

 よかったっす、どうせなら美人にするっす、可愛ければうちのメイドになってほしいっす!

 女はやっぱり顔っすからね!」

 なお、女は原因不明の記憶障害の症状を示しており、名前・身元は不明、回復の兆しはない。

 

 

 もうひとつのケースの話をしよう。

 

 

 暗闇の悲鳴と泣き声。

 火花、火炎、ひらめいては消える。

 糞尿と血と嘔吐物と、焼け焦げた毛と肉の匂い。

 生暖かい湯気をたてて横たわる誰かにつまづいて、逃げ惑う。

 誰が口火を切ったのかは永遠に分からない。

 必死で音のしないほうへ逃げて、逃げて、暗闇のなか幾人もの誰かを突き飛ばして、逃げて。

 

 少年は暗がりの真ん中で小便をたれていた。

 みっともなく涙と鼻水をまきちらし、ただ運よく逃げ延びた子供。

 同年代の他の子供たちに比べれば大柄で、頑丈で。

 けれど、訓練された、年嵩の少年に比べれば、屠殺を待つ太った家畜にも等しい。

 少年の体に巻いたベルトにはいくつものナイフのホルダー。

 獲物へ最小限の明かりを向け、少年は自然体に立ち、息を整えていた。

 目の前に現れた血まみれの少年を、子供はぽかんと間抜けに見上げる。

 狩人は淡々と、踏み出した。

 濡れた床が、粘着質な足音をたてて。

 ほとんど空になったホルダーから、無造作にナイフを引き抜いて。

 だから獲物は、獲物らしく、哀れに脅えて震えるべきだ。

 なのに子供は、だらしくなく口元を緩ませた。

 少年が足を止めた理由は、この後、失われる。永遠に。

 子供は自分を屠りに来た悪鬼に、あろうことか笑いかけた。

 おこがましくも、自己中心的なことに。

 子供は、目の前に現れた、勇ましい姿の少年を。

 子供騙しの幻燈のヒーローが、自分をこの地獄から助け出しに来たと信じて疑わなかった。

 後に思い出してみれば、幼子と呼んでいい歳でしかなかった少年は。

 命を落としかねない過酷な訓練に耐えたのは、何のためだったか。

 幼心に、何になりたくて、何でありたくて、この牙を磨いたのだったか。

 少年は退いた。

 まばゆさに耐えられない影のように、何も告げることなく、暗がりに消えた。

 あとには、間抜け面で惚ける子供がひとり。

 遠くの暗がりで幾度か喧騒と火花があがって、やがて、静かになった。

 

 それが、顛末。

 覚えてももらえなかった、とある少年の末路の物語。

 閉ざされた穴倉で、誰にも観測されなかった儀式の失敗理由。

 決まりどおり、一人だけが生き延びたのに、その個体に何の超越も付与されなかった訳。

 彼は、まったく事態を理解してなかった子供は、その地獄で、ただの一人の人間の血肉をも口にしなかった。

 

 

「で、どうだ。アレは。おかしな様子はないか」

「おかしいと言うならいつものとおりですがね。まいにち始末書書かせてますよ」

「ふーむ。アレもねえ。お姫様のお気に入りだからねえ。下手は打てないんだけどねえ。

 経緯観測、無期限というのはねえ。困るよね。

 まあ、変わらず気をつけておいてくださいね、と」

「はい」

「じゃあ次。

 小説家先生の経過報告」

「報告に値する接触はありません。こちらのスパイ容疑はいい加減、打ち切ってもよいのではないかと」

「そんなこと分かってるの。影響力持ってるから、観察保留で済んでるわけだから。

 泳がせるのやめるってことは、軍の接収品って扱いに移行になるだろうね」

「あれの以前の飼い主が死亡した後に保護したのはたしかに軍属の私ですが、

 しかし表向きは非番中だったわけですので拾得物の所有権が現在どこにあるかと言いますと一概には」

「わかったわかったわかったからいざとなったら暴れて国外逃亡も辞さないって眼でこっち見ないで怖い」

「素晴らしい上司を持って私は幸運です」

「こんなことで中古払い下げとはいえワシらが街中でぶつかるなんてことになったら、機関の連中が

泡吹いてひっくり返っちゃうよ、もう。

 んー、あー、報告終わりね。

 ところでな、その先生のな、いま新聞で連載してるやつ。ワシ、読んでみたんだよ。

 小説なんて読んだことなかったけど、まあ、読めるよね、うん。

 ところで、殺人案件なのにさ、署長が出てこないよね、あれ。ところでワシ、取材ならいつでも」

「勘弁してください、署長……」

 

 

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