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狗国見聞録 第7話(後編)

 
 
      ※     ※     ※     < 5 >     ※     ※     ※
 
 
 
──むかしむかし、今から2000年以上も前の、遠いむかし。
 
その頃の世界では、『魔法』は今みたいに万人に広く開かれた物ではありませんでした。
『機械』や『魔法科学』、『魔洸』なんて便利なものは、勿論ありません。
民が火を起こそうと思うなら何度も火打石を鳴らさなければならず、
あるいは苦労して木と木を擦り合わせなければならなかった、そんないにしえの時代。
……そうして『魔法』が、最も力を持っていた時代です。
 
無限の野があり、高き山々があり、果てなき草原が広がり、深い森が広がり。
国はそれほど大きな力は持たず、村は山間に、町は野に城壁に囲まれて点々と点在し。
…そうしてそこに、『本物の魔法使い』と『本物の魔女』がいたのでした。
 
そこには「早く寝ないと悪い魔法使いがやってくるぞ」と寝物語の脅しがあり、
現実に『悪い魔法使い』が小さな村をしばしば襲う事があれば、
人々が『良い魔法使い』に助力を求め、また助言を求める光景が、…だけど確かにありました。
 
……古い、今ではおとぎ話の中でしか見られない、とても古い光景。
…解明も体系立てられてもいない『魔法』が、しかし『神秘』と『未知』の中にあった世界。
…魔法使いがそこらに溢れていなくて、本当に極々少数しかいなかった時代。
…全ての『魔法使い』と『魔女』が、すべからく『畏怖』と『崇敬』の対象であった風景。
 
人外未踏の深山に分け入れば、そこには洞窟や庵の中に偏屈で気難しい魔法使いがいて。
魔法の業とは、そんな彼らが師匠から弟子へと一子相伝で受け継いで来たかけがえなき財産、
間違っても今の様に魔法学校で魔法が教えられたり、本屋で魔道書が売ってたりなどしない、
厳格な秘密主義と神秘主義、知識の独占専有の賜物たる至宝でした。
 
魔法が、しかし産業などという国策の下の民芸品・貿易品風情になど堕ちなかった時代。
魔法が、しかし商売などという金儲けの道具になんか堕ちず、誇り高く在った時代。
 
だから庵や洞窟ではなく、大学の研究室で魔法を研究する今のこの時代、
煮立つ大釜を杖でかき回すのではなく、遠心分離機やコンロが主流となったこの現代。
…『魔洸』などという万能魔力や、『魔法科学』による機械と魔法の融合の台頭に、
『神秘』が、『未知』が、『畏怖』が、『崇敬』が、薄れ消えていってしまう今の風潮を厭い嫌う、
いにしえの流れを組む『本物の魔法使い』達は、はるか昔のその時代の事をこう呼びます。
 
──『古き良き時代』、と。
 
 
 
「……そ、それとこれとが、どう関係あるのさ」
 先の見えない話に『顎の下』から上がるあたしの声は、だけどちっちゃい。
 いや、だって――
「…………」
 ――ほ、ほら、だから止めろよ、そういう風にどっかノスタルジックな目で人の顔覗き込むの!
 人の頭吹きながら、そういうドギマギしそうな目で見つめてくるなってのよ!!
「……あるよ、関係」
 
 てゆーか、乗っちゃったし、膝の上に。
 …い、いや、だだだだってっ、こいつがあんまり「おいでおいで」って手招きするからっ!
 乗らないわけには、…とも思うけど、でも乗っちゃってからやっぱ乗らなきゃ良かったと――
 
「……だってそれを壊したのが、オレらだったから」
 
 
 
──【アルス・マグナ・カルタ】
歴史学上では『大魔術憲章』、『魔法大改革』とも呼ばれる2000年前のその宣誓は、
しかし単体ではあまり大した歴史的意味を持ちません。
 
…その宣誓よりも更に約100年後に起こった【大戦】と合わせて、
初めてその宣誓は歴史的に重大な意味を持ちます。
 
──国内の全ての魔法使いは、その自分達の研究結果を王国の為にと差し出すべし──
 
平たく言ってしまえばそんな内容のお触れ書きがその国のあちこちに立てられたのが、
『古き良き時代の終わり』の始まりでした。
 
…触れを出したのは、若干32という低年齢で即位したばかりの、時の狼国国王リュカオン。
 
 
 
 ──『狼国国王』?
「…え? …って、イヌの国の話じゃないの?」
 なんでオオカミなんだよ、と上げた声を遮ったのは。
「ううん、イヌの国の話だよ」
 ……?
「ね? お前は、『イヌ』と『オオカミ』の違いは何だと思う?」
 ……????
 
 
 
ですがそれは、どれだけ恩賞を与えられようと従えるわけの無い命令でした。
先程も言いましたよう、その当時の魔法の業とは、それぞれの魔法使いが師匠から弟子へ、
各々一子相伝で連綿と受け継いで来たかけがえなき財産、知識の集大成。
敵に知られる事は弱点を相手に教えるも同じ、世の周知になる事は全てを失うも同じ。
 
それでなくてもリュカオンは、即位前から『うつけのリュカオン』との呼び名が高い、
粗暴な行動や愚かな行動が多い事で知られた王。
 
……2000年前当時の他の国々もまた、そんなリュカオンの行動にまずは呆れました。
その頃の魔法使いは、数は少ないとはいえ反面そのほとんどが偉大で強力な存在。
秘密主義の一子相伝という性質上、王族側も対応しきれない未知の魔法も使われ兼ねず、
下手にその怒りを買った王侯貴族が、
今も残る昔話や童話のように、呪いやら報復やらで散々な目に合うなんて事もしばしば。
 
だから御伽話によくあるような、『王城』側と『森の魔女』側との極力の相互不干渉。
『古き良き時代』の長らくの伝統だったそれをリュカオンが打ち壊した時、他国の権力者達は、
表面上では見て見ぬフリを通しながらも心の中ではみな一様にこう思ったのです。
(──バカかあいつ?)と。
そうして(──ああもう、猫にされるのか、蝙蝠にされるのか、蛙にされるのか)とも。
 
 
 
「……だけど、何も起こらなかった」
 ポツリと呟く雑巾に。
「何も起こらないまま、そうして100年、リュカオンの在位は続いた」
 似たような人間が、元の世界のあたしの国にも居た事を思い出した。
「気がつくべきだったんだよ、そんな愚かな王が、なんで100年も王座に居続けられたのか」
 それまでの概念をことごとく打ち壊した時代の異端児。
「でもその頃の狼国を通って来た旅人が持ってきたのは、王がまた新しい女を召し上げたとか、
離宮で酒池肉林の限りを尽くしたとか、諫言を述べた臣下の首を刎ねたとか、そんな話ばかり。
旅人の情報が全てなくらいだから、当然スパイとか、諜報機関なんてものもその頃はなくて」
 愚かな君主を演じて周囲の皆を侮らせて騙し、
「…だから皆、騙された」
 若い頃は、『うつけ』と呼ばれて周囲の人間を呆れさせた、
「他の国の当時のある重鎮の備忘録なんかを見たら、『リュカオンが王であり続ける限り
狼国はもう長くないかもしれない』なんて懸念まで書かれてたくらいだからね」
 だけど戦国時代に三人居たという為政と戦争の天才の、最初の一人。
 
「じゃあ…」
「うん」
 こくりと頷いたこいつの姿が、その事実を明確に肯定する。
「…全部、リュカオンの演技だったんだ」
 
 
 
大陸の全ての国において単に【大戦】と言うのなら、それは唯一つの戦いを表します。
 
後世の歴史家が【アルス・マグナ・カルタ《大魔術憲章》】と呼ぶ宣告よりおよそ100年後、
時の狼国国王リュカオンは、『大陸の他の全ての国々』に対しての宣戦布告を行いました。
……それがより正確には『魔法大戦』、『リュカオンの乱』とも呼ばれる、
大陸史上最も大きく、最も大きな影響を後世に与えたと言われている戦争の始まりです。
 
『一つの国』が『同時に他の全ての国に宣戦布告を行う』というその暴挙に、
普段からのリュカオンの愚行もあって、どの国も最初は冗談だと(そうして中にはとうとう
リュカオンの気が狂ったかと)思って話半分に相手をしていた観がありましたが――
 
――しかし当時もオオカミの国の隣国だったネコの国が、
だけど有り得ないぐらいぐらいの速さであっさりと征服されてしまったのを見せられて、
全ての国々はようやくそれが冗談では無いのだと言う事を悟り……
……そうして自分達の危機を、自分達がリュカオンに謀られていたのだという事を知りました。
 
その当時までは『うつけ』『愚王』と呼ばれていたリュカオンの評価が、
後世でそうであるような『征服王』『貪狼』『暴狼』という評価に改まった瞬間です。
 
 
 
「リュカオンの軍は、当時のレベルとしては桁外れに強かった」
 オオカミの軍隊がネコの国の国境を侵してから、王都制圧を完了するまでおよそ3週間。
 その間にネコの軍隊は三度オオカミの軍と戦を合わせ、
 そうして三度とも一日と陣営を持たせられずに敗走したと言われています。
「大陸全て、全部の国を同時に相手にして、それでも尚圧倒できるくらいに強かったんだよ」
 元々当時の大陸では一番の強国であって、単純な兵力でも大陸一だったオオカミの国。
 しかしそれでも、そんな圧倒的とも言えるオオカミの軍の強さ、電撃侵攻は異常すぎました。
 …しかもネコの国に差し向けられたオオカミの軍隊の数は、
 当時12師団(約12万人)あったと言われる内の約4分の1にあたる三個師団のみ。
「…でも、それも当たり前の話だね」
 たった3万の軍が第一次侵攻戦、第二次侵攻戦を経て、第三次の王都前決戦、
 決死の覚悟で布陣したネコの国の総軍10万人を、しかし実に死者1万人という被害を与えて
 敗走させた時、全ての国がその報に耳を疑ったと言われています。
 
「リュカオンが……イヌの国が世界で一番最初にやらかした、戦争史上、魔法発展史上
最も最悪の発明だったって、軍学者や魔法史学者が口を揃えて言う事はなんだと思う?」
 ──王都を奪われて反対側の国境間際、隣国であった狐国の援軍と合流した
 残りのネコの国の軍は、『どうしてこんな』という援軍の言葉に、口々にこう答えたと言います。
 
「……『魔法の軍事転用および戦争への導入』、…そうして『攻撃魔法の整備・体系化』だよ」
 
 ──オオカミの軍は、その一兵までもが皆ことごとく『魔法』を使う、と。
 
 
 
 戦争に魔法が使われる。
「そ、それって結構当たり前の事っていうか、誰にでも出来る発想だったんじゃ?」
 よく小説とかゲームとかじゃ魔法使いは普通に火の玉飛ばしたり雷落としたりしてるから、
 あたしとしちゃあそれって別に珍しい事でも何でもないように思えたんだけど。
「…………」
 黙って首を振るこいつを見る限りは、だけどそうではなかったらしい。
 
「…2000年前の時点では、少なくともそれは誰も考えつけないような奇天烈天外な発想だった。
その頃の魔法は、とてもじゃないけどそういう物じゃあなかったらしいからね」
 うーん…、つまり、中世でガリレオが地動説を唱えても誰も信じなかったのや、
 ニュートンが発見するまで誰も引力に気がつかなかったのと似たようなもの?
「魔法なんて言っても水を葡萄酒に変えたり、人間を蟇蛙に変えたりなんてのがほとんどでさ。
『破壊と殺傷の魔法』なんて極一部、それもすごく無駄で大掛かりな物が大多数だったみたい」
 …はぁ、つまり要するに『ファンタジー小説やゲームの魔法』じゃなくて、
 『ディズニーワールドや子供向け絵本の魔法』だったわけだ。
「そうして『魔法は王家の血筋と魔法使いしか使えない、庶民や平民には使えない』ってのが
当時としての絶対の常識っていうか、誰もが信じて露ほどにも疑わない事だったらしいからね」
 分かる分かる。『教会は絶対』とか『王権神授説』とか『天皇は神』とかを、
 誰も信じて疑わなかった国や時代が、あたしらの世界にもあったしなあ。
 
「…だからリュカオンが、初めてそれをやった人間だった」
 つまり古代の戦争で、鉄器がそれまでの青銅器を圧倒・駆逐するように。
「初めてリュカオンが、魔法を戦争の道具にした」
 あるいは火薬や爆弾が、初めて戦争で用いられた時のように。
「不干渉・不可侵だった『王国側』と『魔法使い側』の垣根を取り払い、『良き時代』の掟を壊し、
『魔法』を軍事に組み込んで、『魔法』を戦略や戦術に一般レベルで組み込んだんだ」
 …2000年前、リュカオンとかいうオオカミの王様はそれをやったらしい。
 
 
「ファイヤーボール《火球》、ウインドカッター《鎌鼬》、ストーンブラスト《石礫》──」
 言われた言葉は、あたしだってどんな魔法なのか一発で分かる有名魔法。
「今なら子供だって知ってる、火の玉を作り出して、風の刃を作り出して、念動で足元の石を
持ち上げて、そうして相手にぶつける初歩中の初歩、最も単純で簡単な攻撃の為の魔法」
 そんな内容を説明されなくたって誰でもピンと来るような、
 ポピュラーで魔法の代名詞みたいな魔法だけど。
「後に氷の刃を飛ばす魔法がネコ達の手で加えられて四魔、今だと不安定で使い手が少ない
雷球の魔法や、サカナ達がよく使う水流の魔法を加えて五魔とか六魔とかも言うけれど、
でもその最初の三つを編み出して、一般兵レベルでの習得を実施したのがリュカオンだった」
 ──でもそんな魔法でも。
 だけど一番最初に発明して、広く世の中に知らしめた人間が居わけで。
「リュカオンは桁外れの『魔』を持ってたわけでも、神掛かった『武』を誇っていたわけでもない、
…ただ、為政と用兵……『政治』と『戦争』、そうして『それ』の天才だったって言われてる」
 聞けば当時の魔法とは限られた人間、限られた者達の超専門知識的分野で。
 だから誰も、それを考えなど思いもつかなかったらしい。
 より高度で、より複雑、より他にはない偉大な魔法を生み出す事に専念した人はいたけど、
 だからこそリュカオンがしたような方向に、魔法を向けようとする人間は居なかった。
 
「…『単純で簡単な魔法を作る事』……『魔法を簡素化して体系化する事』の」
 
 簡単で、単純で、魔法の才能がほとんど無い人間でも、それぐらいだったら使えるような、
 極限まで無駄な要素を省いて簡素化され、だけど必要最低限の殺傷力を持たせた魔法。
 『攻撃魔法』『攻性魔法』――『より効率良い破壊と殺傷の為に作られた魔法体系』
 
 
 
「まず他の国々が学んだ事は、リュカオンの兵と正面から戦っちゃいけないって事だった」
「え……?」
 なんで『正面から』? と思ったあたしに。
「ファイヤーボールしか使えない、ウインドカッターしか使えない、石礫しか飛ばせない兵士が、
だけど100人、1000人集まって、いっせーのーでの合図で一斉にそれを唱え始める」
 諭すように、その光景を教えてくれる雑巾。
 
「…どうなると思う?」
 
 …………。
 ……うげ。
 なんかもう、想像したくないな、それ。
 ファイヤーボールも積もればメテオ、ウインドカッターも積もれば竜巻じゃん。
 
「大戦以後に『リュカオンの研究』は全ての国に遍く公開されたから、今では防御魔術や
対策の仕方も確立されてるけれど、…でも少なくとも大戦中のそれは――」
 
 ── 一方的な蹂躙、完全な虐殺。
 
「降り注ぎ爆発する炎に驚いた馬がパニくっちゃって騎馬兵部隊は使い物になんないし、
乱れた気流に矢は舞い上がって叩き落され、弓矢部隊は完全に無力化、
そうして次から次へと飛んで来る石と土くれと砂に、肉薄する事すらできなかったらしいよ」
 炎の竜巻を起こすわけでも、嵐と雷雲を呼ぶわけでも、地震を起こすわけでもない。
 ただの一番弱くて単純な魔法を、しかし100人200人で一斉に。
 
「っていうかそもそも鎌鼬以前にただちょっと突風を起こすだけの魔法でも、
砂地なんかで100人200人が一斉に唱えたらそれだけで相手は大混乱だったみたい」
「うわ……」
 ただの風を起こすだけの魔法も、だけどそんだけ一斉に重ねられたら数の暴力、
 そりゃ瞬間最大風速50mとか100mとかの突風にもなるってもんだ。
 
「他にも予め仕掛けておいた惑乱の術の陣に相手を誘い込んで同士討ちさせたりとか、
幻術でこっちの兵力が実際の二倍か三倍かみたいに見せかけて動揺を誘ったりとか」
 …うっわ、地味にやらしくてせこい戦法だなぁ、と。
「たった3万で10万の軍を下した第三次猫国侵攻戦では、物的被害はなくて光と音だけの、
だけどその代わり物凄い閃光と爆音を出す魔法を例の如く100人単位で唱えて打ち込んで、
それで指揮系統乱れて混乱状態になったネコの軍隊の横っ腹突く感じで圧勝したらしいよ」
「…ひ、卑怯臭くないそれ?」
 思わず思ったことが口に出もしたのだけれど。
 
「…うん、でも、個vs個の戦いはともかく、軍隊vs軍隊の戦いってのはそういうもんだから」
 そう言って何気ない表情での言葉をもらした雑巾は。
「1対1の戦いには無い、『士気』と『統率』っていう重要なパロメーターがあるせいで、
だから個vs個の決闘と、軍隊vs軍隊の戦争は、全く別物だって言っていいくらいでさ」
 だけどとても真面目というか、淡々とした表情で言葉を続けていた。
 
「真正面からバカ正直にぶつかり合ったら、お互い大損害を出すような合戦でも、
でもちょっとした工作や布石、伏兵とかで出鼻を挫けただけで結果がものすごく変わってくる」
 それは冷たいとか、冷酷とかいうのとはまた違って、…ただとても冷静で落ち着いた。
 血みどろの戦場を前に、顔色一つ変えずに戦況を分析できる、優秀や軍師や司令官のそれ。
「…逆に言うなら士気が下がった方が負けで、命令系統や足並みが乱れちゃった方が負け。
兵士に動揺広がらせちゃった方が負けで、逃げ腰やパニックになっちゃった方が負けなんだ」
 武人の誇りや、魔法使いの矜持なんてものが何の役にも立たない、
 『戦い』ではない、『戦争』というを見てきた歴戦の兵士の顔。
「一旦崩されたら持ち直すのは難しい。取られたアドバンテージとイニシアチブは奪回しにくい。
群集心理や集団真理って言ってね、100人逃げるのを見れば500人逃げる、500人逃げるのを
見れば2500人逃げるって感じに、一度崩されたらそのままなし崩し的に持ってかれちゃうんだ」
 こういう戦術論を展開するこいつを見てると、頭が良いんだか悪いんだか分からなくて。
 戦争というものを淡々とそう捉えてるこいつが、『強い』んだか『弱い』んだか分からなくて。
 
「…だけどリュカオンは、それを誰よりもよく分かってた」
 ――でも、そう言って昔の偉大にして最悪とされる征服王についての感慨を述べる緑の瞳は、
 どこか哀しそうな色を含んでいて。
「そうして堅実に、その鉄則に忠実に従った」
 ――ああそうか、…そういうものなんだよなぁやっぱり、と。
 
「相手の意表をついて、あるいは動揺を呼び込んで、指揮系統が崩れたところに突撃し、
あるいは圧倒的火力で怯ませ士気を下げさせて、逃げ腰になった相手を追い散らした」
 頭が良いんだけど悪くって、心の在り様は強いんだけど弱くって。
 一面一面切り出していたのでは読みきれない、矛盾したものを内包した存在。
「どれも地味で狡い手口だったけど、でもそんな『基本への忠実』からは絶対に外れなかった。
だからこそリュカオンは今でも戦争の天才、戦術の天才だったって言われてる」
 大昔の王の事を『戦争の天才』、『戦術の天才』と言いながら、どこか複雑そうな表情をした
 その顔は、半分では納得しているんだけど、半分では納得していない表情だった。
「魔法っていう大きな力を手に入れても、だけどそれでもそんな戦争の鉄則を忘れなかった。
どこまで常勝を重ねても、魔法『を』使って戦うんじゃなくて、魔法『も』使って戦ったんだ」
 
 ――間違ってるのは分かるけど、だけどそれが戦争だから──
 仮にイヌの国の兵士が、みんなこいつのように考えられるのだったなら、
 どうしてイヌの国の『軍隊』は強いのか理解できるような気がした。
 
 
 
二年と経たぬ内に、実に大陸の三分の一がオオカミの国の版図に収まってしまうに及び、
時ここに至って散発的かつ個別にオオカミの国と戦っていた他の国々は、
このままでは自分達がリュカオンに対抗し得ない、最早なりふり構ってられない事を悟りました。
…そうして生まれたのが、オオカミの国以外の全ての国、全ての種族から成る大同盟、
──後の世で『対狼包囲同盟』と呼ばれるようになる大同盟です。
 
全ての王族と、魔法使いと、騎士と、貴族と、商人職人、農民平民が一丸となって。
後の世に多くの読み物や芝居の題材となった、この『貪狼リュカオンvs大同盟』という戦い。
幾多の劇的なエピソードが生まれたこの戦乱でしたが、
しかしそれでもリュカオンの軍と同盟国側とはようやく互角……
……いえ、むしろじわじわとリュカオンの側に押されつつすらあったと言います。
 
なにせ向こうにあるのは100年前からの備えと計。
対して此方は攻めれてから2年程度で出来た、にわか作りの協力体制。
何よりリュカオンの軍が用いる『攻撃魔法』の前に、
けれどどうしても決定的なその戦力差、覆す事は大同盟側にもできず――
 
 
 
「……そこで、裏切ったんだ」
 呟かれた言葉には、何の感情も込められていなかった。
 ただ過去にあった史実を、だけど教科書に書いてあるままにそらんじ上げるように、
 怒りも憎しみも、賛同も批判も、そこには無い。
 
「……『オオカミ』が、『イヌ』を」
 
 
 
      ※     ※     ※     < 6 >     ※     ※     ※
 
 
 
──むかしむかし
──ある国の欲張りな王様が、天にかがやく月を欲しがって
──その為にまずは地上のすべてを手に入れようと、大きな戦争を起こしました
 
──おどろいた他の国々は協力してそれに対抗しましたが
──だけど欲張りな王様の軍隊はとても強力で、そうして魔法まで使うので
──あばれる王様の軍隊を、だけどみんなが力を合わせても止めることができません
──押さえこむだけで精一杯
 
──誰もがもうダメだと思ったとき、だけど神様の奇跡は起きました
 
──欲張りな王様のお腹が裂けて、そこから二匹の獣が飛び出したのです
──白い獣は、王様の善良な心
──黒い獣は、王様の欲張りな心
 
──二つに分かれた王様と軍隊
──他の国々は白い獣とそれに付き従う軍隊に協力して
──黒い獣とそれに従う軍隊をやっつけて、手足をしばり大地の真ん中に鎖で繋ぎました
 
──白い獣の名前はオオカミと言い。
──そうして黒い獣の名前がイヌと言います。
 
 
 
「元々イヌとオオカミが一つだった頃から、オオカミの王国は80近い氏族から成立する、
古き時代の盟約と伝統・慣習に依った、緩やかな結合体制上の国家だったんだ」
 別れたのは僅か2000年の昔でしかない。
「その名残が、オレらの国では黒曜種とか白銀種とかの『血統』って呼ばれてるやつで、
そうして向こうの国では未だに残っている『氏族』だね」
 …だからイヌとオオカミとは、『違う種族』なのに互いに子を為すことが出来る稀有な種族だ。
 
 ただ、従い、尾を振り、全体の規律を重んじてそこに組み込まれる事を選んだ者達がイヌに。
 逆にそれに疑問を感じ、自由を愛し、隷属と服従を良しとしなかった者達がオオカミとなった。
 ……それだけの話。
 
「『武』も『魔』も大した事無かったけれど、優れた司令官だったリュカオンが、
だけど常に最前線で指揮を振るい続けてた、その事が逆に仇になった」
 開戦より5年、大同盟結成より3年。
 あと一息。
 あと一息で、大陸統一という大望が叶う。
「第一王子を旗頭に掲げての、辺境域27氏族の長と、全軍の4分の1からなるその反乱を、
リュカオンは未然に防げなかった、…止められなかったんだ」
 そんなあと一息という所、
 でもそんなあと一息という所だったからこそ、征服王の野望は防がれた。
 
 四分の三に減った軍、四分の一の戦力を得た敵側、渡ってしまった機密情報。
 軍の内情から補給経路に至るまで、…そうしてリュカオンの研究成果たる攻撃魔法の全ても。
 
 
 
 ──ぽとん、と小脇にすっかり冷たくなったタオルを置いて。
 
「……その後の顛末やリュカオンの最期とかは、この際あんま関係ないから、省くよ」
 どこか気だるげな表情をしながら、あたしを膝の上に座らせた『イヌ』が言った。
「ともかくオレら『イヌ』はそういう訳で生まれて、そういうわけで『此処』にいる」
 大陸全てを巻き込んで、一つの時代を終わらせた戦争の軍配がどちらに下ったのか、
 その様子を見れば、明確な言葉無くても一目で分かるというものだ。
 
 
「『──丘の、海の、砂の、森の、雪の、草の、谷の、山の、八方に置きて八監を為しや』」
「…え……」
 ふいに、何かの詩の一節でもそらんじるかのように紡がれた言葉。
「『――ネコの瞳にサカナのヒレ。ヘビの鱗とキツネの尻尾。ウサギの耳に、トラの咆哮、
ライオンのタテガミ、トリの羽根。…もちて暴狼の四肢をもぎ、縛りてこの地の央に封ず』」
 あたしは知らなかったけど、だけどそれはおよそ1900年の前の当時、
 二度とこんな脅威と惨事が訪れないように、当時の八強国の間で結び交わされた……
「『貪狼の、二度と月飲まんとせぬように。――グレイプニール《絹糸の盟約》』」
 ……そうして『今も半分生きている』、とても有名な条約の締結文の締めくくりだったらしい。
 
 直後にヘビが小国に分裂し、そうして数百年前にサカナが海に追いやられる等々、
 2000年の月日の間にだいぶ国の位置、強国・新興国などの版図の変遷はあったけど、
 それでも軍事国家であるイヌの国をここに縛り付け続ける、七重八重の強力な束縛。
 
 
 
「…『Inu』っていうのはね、この世界の古代語で『虜囚』、『鎖に繋がれた者』って意味なんだ」
 
 ──だからイヌとネコとは仲が悪い。
 ──そうしてイヌとオオカミとは、それ以上に仲が悪い。
 
「元あった領地まで没収、莫大な賠償金取られて、大陸中央部にある双子山脈の間の荒地帯、
この『天然の牢獄』に閉じ込められて、グレイプニール《絹糸の盟約》で縛られたオレらを……」
 ──総死者数実に20万人、国々の中で最も大きな被害を受けたネコの国は、
 だから元のオオカミの王国があった領地を奪って、南の出口の見張り番に立った。
 
「……良いオオカミと悪いオオカミを区別して、『悪い方』を指す為に使われるようになった言葉」
 ──大陸の国々に取って『良いオオカミ』で、イヌにとっては『ウラギリモノ』のオオカミ達は、
 牢獄の北にある鉱産資源の肥沃な山岳地帯を貰い、北の見張り番の役目を担わされた。
 
「…『罪人』、なんだ。 …つまり、オレらは」
 ……首輪に繋がれて、鎖をかけられた者達が、二度とおかしな事を企まむ事の無いように。
 
 
「……そうして《絹糸の盟約》があるせいで、オレらはここから出られない」
 膝の上に温かい生き物を置きながら、だけど彼はそれを吐露する。
「どこの国に戦争を仕掛ける事も、どこの国の領土を奪う事も出来ない」
 話したところで何になると、今までずっとそんな無駄な事と思ってきた事だったけど。
 …でもこうして話してみれば、ずっと誰かに話したがっていた自分の本心が自覚できた。
 
「せいぜい、出来て小競り合いさ。南のネコの国の国境近くで挑発行為を仕掛けたり、
『北伐』って言って北のオオカミの辺境部族の領土をちまちま掠め取ったりが関の山」
 そうして、それですらギリギリだ。
 それ以上をやってしまうと、本当に危ない。
「『向こうから』ならともかく、『こっちから』本格的侵略を行ったり、宣戦布告を行ったりしたら、
それが《盟約》の発動条件になっちゃう。…そうなったら――」
 
 『もしも貪狼が再び暴れ出し、大陸への脅威の先駆けとなる行動を取るような事があれば、
 その時は我ら八ヶ国、古の盟約に従って再び手を取り合い、共に貪狼と戦う事を誓います』
 
「――オレらは、ネコとウサギとキツネとヘビとサカナとライオンとトラとトリ……だけじゃなくて、
たぶん他の全部の国、…もう一度大陸全ての国を敵に回して戦わなきゃダメな事になる」
 それが、2000年かけてそれでも国力を取り戻し、
 だけどそれなりの大国となったイヌの国が動けない理由。
「戦術魔法と攻撃魔法の知識を独占してて、機械や魔法科学なんてものが無かった昔なら
ともかく、…今はそんな事されちゃったら、さすがの軍事国家もコテンパンの袋叩きだよ」
 牽制と国際外交という名の駆け引きの中で、彼らをきつく縛る一番の糸。
 
「…はは、おかしいね、軍事国家、軍事大国、大陸最強の軍隊を誇るはずのうちの国が」
 その矛盾に、軍人の端くれとして自嘲の笑いも浮かぶというものだ。
「だけどどこも攻められない、どこも侵略できない、土地も、資源も、何も、何も――」
 思わず自虐的になった言葉を。
 
 
「――……攻めたいの?」
 懐から聞こえてきた凛とした言葉に、我に返った。
 
「……侵略、したいの?」
 そう、ちょっと残酷なくらい、はっきりと問われるなら、でも。
 
 
「……わから、…ない…」
 
 
 イヌの国がある大陸中央部、東西を双璧の山脈に挟まれたこの荒地帯は、
 しかし『自然の牢獄』、『天然の牢屋』だ。
 
 一面に広がる荒地と湿地、沼地と岩地。
 痩せた大地には鬱蒼とした針葉樹林が広がり、気温は一年を通して低い。
 しょっちゅう霧が立ち込め、そうして空はほとんど陰鬱に曇ったまま、晴れの日の方が少なく。
 そうして冬には、両側の山脈に引っかかった湿った雲がとんでもないドカ雪をもたらす。
 
 地味はどこも悪く、作物はほとんど育たない。
 辛うじて育った作物も、しかし両側の山脈から吹き降ろす冷風のせいで冷害の餌食になる。
 天然資源、鉱産資源はどこを掘っても無きに等しい。
 唯一溢れるほどある大量の針葉樹も、しかし材質が悪くてせいぜい薪にしかならない程度。
 食料は、ネコや、トラや、サカナの国からの輸入に頼らねば暮らしていけず。
 資源は、ヘビや、カモシカや、オオカミの国からの輸入に頼らねば立ち行いてゆけぬ。
 
 …よく、飢饉が起きる。
 …王都や都市はともかく、田舎の町や村に行くと、未だに餓死者が出るほどだ。
 ……空を見上げても、青空の代わりにあるのは曇天。
 ……夏は肌寒く、そうして冬も肌寒く、一年を通してあまり気温の変化がない。
 ………寒い。
 ………ひもじい。
 …………足りない。辛い。満たされない。
 
 ──でも、それが『罰』。
 大陸全土を巻き込む大戦争を起こして、ネコの国だけで20万、大陸全てでは100万を越える
 莫大な数の人間を死なせた彼らイヌに対し、各国が話し合って決められた『刑罰』。
 それが、ここに放り込まれた事。
 元々の国土も取り上げられて、それまで誰も住むものの無かったこの荒地帯を割り当てられ、
 そこで暮らしていく事を義務付けられた。
 
 ……それでも、最初は耐えた。
 何故なら悪い事をしたのは彼らな以上、それでも耐えたのだ。
 戦争という麻薬がもたらした狂熱が去り、敗北という名の虚脱感に囚われて冷静な思考を
 取り戻してみれば、周囲にあったのは自分達に対する憎悪と敵意の目。
 次第に熱の冷めていく頭の中で、
 だけど罪の意識を自覚したからこそ、彼らはその刑罰を甘んじて受け入れた。
 ……受け入れたのだ。
 
「…でも、ある時から誰もが思い始めたんだ」
 なのに100年、200年、500年、1000年。
「『……この刑罰は、いつまで続くんだろう?』」
 毎年のように繰り返される飢饉、繰り返される灰色の空、繰り返される肌寒い日。
「『……いつになったら、この牢屋から出してもらえるんだろう?』…って」
 ──消えない過去の罪。 ──終わらない償い。
 
 
 ──…『目』は変わらなかった。
「アルス・マグナ・カルタと、それに続くリュカオンの乱のせいで、確かに2000年前まで
続いていた『古き良き時代』は終わりを告げて、そうして『流動と動乱の時代』がやって来た」
 100年経っても、1000年経っても。
「オレ達イヌが『魔法の神秘性の破壊』、『戦争への魔法の持ち込み』をやっちゃったせいで。
『王族と魔法使い以外でも学べば魔法は使えるんだ』って事実を大陸中に広めちゃったせいで、
安定と平和の緩やかな時代は終わりを告げて、革新と混迷の時代がやって来ちゃったんだ」
 それでも罪人を見るようなその目つきは。
 こんな目まぐるしい時代の引き金を引いた者達を見る冷たい目は。
「大戦で魔法の兵器・戦術としての恐ろしさを知った国々は、こぞってその研究を始めたよ。
結局話し合いの末に全世界に公示されたリュカオンの研究を元に、王族だけじゃない、
学者が、商人が、貴族の誰もがより優れた攻撃の魔法、より便利な破壊の魔法を作ろうと」
 ウサギやキツネ等の幾つかの種族は、300年、500年と経つ内に許してくれたが、
 だけどそれは国として許したのであって、一人一人が許してくれたわけじゃない。
「それでも戦火の傷跡、残された爪痕、大同盟が解散した後はあちこちの国で戦後処理の
不服や恩賞の過不足のいかんを争って揉め事が起きた、争いが起きた」
 ウサギもキツネも、だけど大戦時、やはり万人単位での死者を出した国だったは事実。
 …どこか胡散臭いものでも見るかのような眼差しは、だから1000年経っても変わらなかった。
 
 
 ヘビの国が今のような群雄割拠の戦国状態になったのも、引き金は『それ』。
 ザッハークによってまとめられるまで、分かれた国々は延々お互いの権利を主張して争い、
 そうしてより強力な魔法と、あるいはそれに対抗できる武術をと熾烈な開発競争を続けた。
 
 サカナの国が海に追いやられたのも、辿っていけば結局『それ』に辿り着く。
 『競争と動乱の時代』が来なかったら、『古き良き時代』が続いていたら。
 
 ある国ではクーデターが起こって古くからの王族が失墜した。
 強力な魔法兵団を有した貴族が、その代わりに支配者の座についたのだ。
 
 大戦以前と大戦以後では魔法を操る野盗や、
 魔法使いに引き連れられた盗賊集団などが多く見られるようになり、
 結果犯罪件数や街道の治安の悪さの悪化も進んだ。
 
 
 魔法に、魔法を使った道具、魔法を応用した技術や、大掛かりな器具や祭器を用いた魔法、
 あるいはそれらに対抗できる武術や戦術、防衛手段の熾烈な革新競争が繰り広げられ、
 そうして最近では落ちモノの機械や兵器、魔洸に魔法科学がそこに組み込まれつつある。
 
 この一万年、しかしそれまでの8000年とは比べ物にならない、たった2000年の間での進歩。
 しかしその引き換えとして、どこかきな臭くギスギスした、忙しくも目まぐるしいこの空気。
 どこの国でも、少なからずは国同士での牽制のし合いや睨み合い、
 あるいは同国内での複数の勢力による競争のし合いや覇権争いが存在する今の時代、
 だけど招いたのは、確かに『彼ら』。
 最初に引き金を引いたのは、夜明けの鐘を高らかに打ち鳴らしたのは、間違いなく『彼ら』だ。
 
 
 喧々諤々の言い争いの果て、だけど最後に行き着く結論は誰もどの種族も決まって同じ、
 ──『元はといえば』──。
 
 行き場の無くなった怒りと憎しみ、矛先を失ったやり場の無い想いが、
 だから最終的に向けられる先は決まって一緒、──『そもそも諸悪の根源は』──。
 
 ──一番最初に軍事に魔法を転用し、戦争に魔法を持ち込んだ、許し難い罪人。
 ──一番最初に『破壊の為の魔法』『殺傷の為の魔法』を体系立てて世に出した、大罪人。
 ──そうしてあの素晴らしき『古き良き時代』を壊してしまった、救いがたき咎人。
 
 2000年間、そんな白い目で見つめられ続けてきた。
 戦争の大好きな、戦争の得意な、大規模戦闘と軍略・戦略・戦術では誰にも負けない、
 しかしだからこそ物騒でどこか胡散臭い、イヌの国。
 
 ……でも。
「でも、オレらはっ――」
 叫んだ言葉を。
 
「…うん、分かってる」
 
 
 
 
 
「分かるよ、それすごく」
 貪狼、狗王等の蔑称で呼ばれる事がほとんどなリュカオンが為した、数少ない良政で、
 そうしてそれすらも良い事では無かったとしばしば言われる、革命的な施策。
 ……一部の限られた者の業だった『魔法』を、民に、弱き者達の手にも広めた事。
 
 歴史上初めて『魔法学校』なんてものを作ったのは、リュカオンだ。
 民の為、広く素質のある者を集め、奨学金制度まで作って、身分の貴賎・貧富を問わず、
 そうして彼は冷酷で無慈悲な実力主義者だったが、だけど故にこそ狂信・心酔された。
 
 自分達も強くなれるんだと分かった弱き者達は。
 ワイン片手の優雅な生活や、寝物語に憧れるしか出来なかった選ばれた者の力が、
 だけど自分達にも手が届くものだったと知った搾取される側の者達は、
 だからこそそこに憤りを感じた、正義を見た。
 
 魔法という名の『力』を独占して、彼らに嘘を教え続けてきた『上の身分』の者達に。
 相手の無知にかこつけて『富』と『知識』を独占し、
 緩やかな、しかし永遠の搾取の下に、その磐石の時代を保ち続けて来た者達に。
 
 だから『指導者』がそれを掲げた時、彼らは一も二も無くそれに従った。
 『力を与えてくれた偉大な恩人』を妄信し、傾倒して疑いなくそれに従った。
 
──パンをくれる者に、しかし『イヌ』は喜んで尾を振る。
──奇麗事ではない実物をもって『与えてくれる』者に、だけど『人』はどこまでも弱い。
 
 
「……良かれと思って、やった事だったんでしょう?」
 だから戦争は、いつだってそんなもの。
 
「……あたしの世界、あたしの元居た国でも、昔似たような事があったもの」
 都合よく湾曲されての広報、偏った世論構築、情報操作。
 規制・統制された内外の出入り。
 何が正しいのか、歪められて与えられた知識と教育。
 
 『神の為の聖戦』、『文明国が植民地たる野蛮国を啓蒙する為』、『大東亜うんちゃら』
 使い古された陳腐な、しかしその割には何度となく使われる言葉。
 
「……信じちゃったんだよね? …後から思えば『どうして?』って思える事でも、その時は」
 よって戦争を仕掛ける国は、まずは自国民を洗脳し扇動する事から始める。
 『自分達は悪い事をしている』『自分達は悪人だ』と自覚して戦争を行える国民はいない、
 ……そこまで『強い』人間なんて、だけど滅多にいないのが普通だから。
 
「偉い人の言葉だから、王様の命令だから、きっと正しいんだって」
 
 
 
 イヌ達は、導くのが好きだ、守ってあげるのが好きだ。
 何故?と聞かれても答えは出ない、おそらく種族的な性格と特性から来るものなのだろう。
 例えるならどこの小学校のクラスにも一人はいる、
 嬉々として学級会長だの委員長だのの面倒な仕事に立候補する仕切り屋タイプ。
 
 逆に個人主義者であるネコ達等からすれば、何をもの好きな、とか、お節介焼きめ、とか。
 理解できないといった具合に、目を細められる事も多いけれど。
 
 …でも誰に命令されたというわけでもないが、だけど導きたかった、守ってあげたかった。
 
 認めてもらいたかった、感謝してもらいたかった。
 ありがとうと言って欲しかった、助かってるよという言葉が欲しかった。
 ……必要とされたく、役目をもらいたかったのだ。
 
 
 【盲いた者を導くように、迷える羊を牧するように、我らが全てを導かねばならない】
 
 だからそう王が宣戦布告を行った時、後の『イヌ』たる誰もがそこに正義を信じて従った。
 
 ──解放してあげたかったのだ。
 無知ゆえに王族と魔法使いに縛られた、元の自分達と同じ平民・農民・庶民である彼らを。
 
 ──分けて、教えてあげたかったのだ。
 練習の末、初めて自分の手の内に炎が、念力が現出した時その喜び。
 絵本と伝説と選ばれた者達の中にしか無いはずの力が、だけど自分にも使えたその喜びを。
 
 ──……周りの者には、実際にはそれがただの傍迷惑でしかなかったのだとしても。
 
 
 
「信じちゃわざるを得ないような、疑問に思えないような、そんな空気に皆がやられちゃってた」
 そんなこいつらの気持ちが、だけどあたしにはよく分かる。
「少しでも疑問の声を上げると軍に捕まって、あるいは周りの皆から非国民とか言われて」
 田舎のお祖父ちゃんから小さい頃散々聞かされた話に、すごくよく理解できる。
「やれ負けそうになっても神様の風が吹くからうちの国は絶対負けないんだぞ、とか、
国の為に死んで来いって自爆戦術命令されたら、喜んでハイっていうような子供の兵士がいて」
 ――滅多に戦争を起こさない、世界大戦を起こした種族がイヌしかいない獣人と違って
 ――二回も世界大戦を起こして、悪いのも自分らの民族だけじゃなかったあたしらは、
 ――だけどその気持ちを、多分どこよりも理解できる
 
 
 
 そうして、負けて。
 
「でも今はそれが正しい事じゃなかった、間違った事だったって分かってるんでしょ?
冷静になったらそう分かれる頭があって、反省できる、後悔できる心があるんでしょ?」
 明らかにされた本当の事実、それまで遮断されてたのが入って来た外の情報。
 最初はにわかには信じられなくて……だけど狂熱が去ったその虚無感に、徐々にじわじわと。
 
 …だれも喜んでなんか、解放される事を望んでなんかいなかった。
 …正義なんて、どこにもない。
 …正しい事だと教えられていた事が、だけど正しい事じゃなくて。
 …残ったのは憎悪と怨恨、投げられる石と、『悪い奴』に対して向けられる目。
 …非難と罵倒、悪者だったのは自分達の方だったという、その事実。
 
「……だから罰も受けた」
 『人殺しは正しいと教えられて来た子供が良かれと思ってした殺人は犯罪なのか?』とか、
 『悪かったのは時代と空気、彼らもまた被害者だったんだ』なんて、
 …だけどそんな屁理屈、被害者の側から見れば「ふざけるな!」の一言だろう。
「……だから、償おうと思ったんだよね?」
 死んだ人間は、返って来ない。家族も、恋人も、友達も。
 100万もの獣人が命を落として、大陸中がボロボロになったその大戦争、
 『憎しみからは何も生まれない』なんて奇麗事じゃ、到底片付けられなかったはずだ。
 
 ──罪は罪。
 ──罰は罰。
 ――……だけど。
 
「……でも、だったら、やっぱりあんたらも、被害者だよ」
 何百年もかけて莫大な賠償金を払って。
 2000年間、大陸で最も酷い痩せた土地、天然の牢屋に閉じ込められて。
 …でも、まだ許されないんだろうか?
 ……100万の命と、初めて魔法を戦争に持ち込んで研究競争の引き金を引いた、
 この動乱の時代への夜明けの鐘を鳴らした罪は、2000年でもまだ足りない?
 
 
 
 
 
「…オレ…らは……」
「怖いんでしょ?」
 …そう。
 怖い。
 怖いのだ。
 
──いつまでこの刑罰が続くのか。
──いつまでこの刑罰に耐えなければいけないのか。
 
 ほとんどのイヌが、だけど漠然と考えているであろう事。
「……まだ、オレらの事はいいんだ。…それでもオレらの事だったら、耐えられる」
 現に、今だって耐えられている。
「ご先祖様が、到底許されちゃいけないくらいの罪を犯したのは、事実だから」
 それは認める、罪の意識はある。
 彼らは許されない事をしたのだ、その事はとてもよく分かっている。
 でも。
「…でも、未来の、『明日』の事を考えると」
 更にもう1000年先、2000年先の事を考えると、胸の中を走る何とも言えない感覚がある。
 …そうして子供達の事を、そのまた子供達、三代、四代先の子供達の事を考えると。
 
 ──飢饉。冷害。痩せた大地。少ない資源。一年を通して肌寒い気温。灰色の空。
 
「攻めたいわけじゃ、侵略したいわけじゃないんだ」
 いつまで。
 いつまでここに居なくちゃいけないんだろう。
 いつになったら、この牢獄から出ていいんだろう。
 
 ──100年、 ──200年、 ──300年、──500年、──1000年、 ──2000年。
 
「…ただ、出たいだけなんだよ」
 ネコの国のように交易の要というわけでもない、サカナの国みたいに海産資源豊富でもない、
 トラの国のように農業大国というわけでも、オオカミの国みたく鉱産資源に溢れてるわけでも。
 ヘビの国みたいな油や燃料も、カモシカの国みたいな工業資源があるわけでもなかった。
「…お願いだから、もう出して欲しいだけなんだ」
 ここは、寒い。
 ここには、何も無い。
「『土地』が欲しい。違う土地、別の土地、牢獄じゃない土地が」
 太陽が欲しい。…万年の曇り空ではない、燦然と降り注ぐ明るい陽光と鮮やかな四季が。
 冷害や大雪の無い土地が欲しい。…一年中通して肌寒かったりしない、温かい土地が。
 
「でも、出ようとすれば、オレらを縛った《絹糸》に引っかかる」
 だけど、だからと言って貰えるものでもなかった。
 肥沃な農土地帯を、くださいと言われて「ハイどうぞ」とくれる国などあるわけがなく。
 有数の大鉱山を、くださいと言われて「ハイどうぞ」とくれる国などあるわけがなかった。
「出ようと思う事が、だけど攻めなきゃ、侵略しなきゃダメな事で」
 ──つまりは、その矛盾。
 
 
「…それでも、お前みたいな考え方のがもうちょっと居てくれたら、変わったのかもしれない」
 膝の上に座ったヒトの少女を抱きしめて、
 泣き笑いの顔からはらはらと零す涙は、全てを知る者の証だ。
「『可哀想だね』『お前らも被害者だよね』って、心の底から言ってくれる人達が居たら、
もっと変わったのかも、もっと違ったのかもしれない」
 矛盾と、狂気と、間違っている事を知っていても、だけどどうする事もできなくて。
 分かるが故に心を殺して剣となり、国の為にと【ティンダロス】として生きてきた者の証。
 
「……でも、そんなの誰もいなかった」
 あるいはネコみたく商才に秀でてたり、ウサギみたく魔法に秀でていたら。
 キツネみたく占術に秀でてたり、ライオンみたく気に秀でてたら、また違ったのかも知れない。
「口では『許す』って言ってくれても、だけどオレらに太陽を、豊かな土地をくれる人達は」
 でも、イヌが得意なのは戦争で、秀でていたのは軍事だった。
 兵法、用兵、戦術、戦略、集団戦闘なら誰にも負けなくて、大規模戦闘ならどこにも負けず。
「オレらをここから出してくれる為に頑張ってくれるような他の種族の人間は、いなかったよ」
 兵器開発と傭兵業、軍隊派遣に犯罪者討伐、法律と裁判関係しか取り得がない、
 そんな彼らに過去の大逆と合わさって、扱いはどこか遠巻きに。
 
「……だから、おかしくなっちゃった」
 ──1000年が過ぎた頃、懲罰と反省のために入れられた牢屋が、だけど永遠の物だと。
 ──この罪が償いきれない物で、その重みから逃げる事も不可能な物なのだと分かった時。
 ──『イヌの国』は、少しずつ。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 7 >     ※     ※     ※
 
 
 
大戦より約1000年後で、今からだと約1000年ほどの前。
イヌの国の中央にある大荒地帯から、『真銀』の大鉱脈が見つかった。
……『真銀』とは銀に似た灰色の鉱物で、
非常に細工がしやすく魔法との親和性も高い為、魔法の器具を作るのに珍重される金属だ。
鉱脈は貴重で滅多に見つからず、そうして現代でもイヌの国にあるのが大陸最大のもの。
 
…最初の1000年間、あらゆる天然資源を持たず食料自給率にも欠け、
周囲の国に見られた足元、国力を回復させる事も出来ずにいたル・ガル王制公国は、
この唯一無二の天の配剤を足掛かりとして、
後の1000年の時をかけ、歴史上類を見ない驚異的な国力の復興を遂げる。
 
天然資源も最新技術も持たず、結果として中間加工貿易でしか身を立てられない身、
(主に猫の国を相手に)稼ぎは棒引きにされて、手取りはほとんど残らない。
そこに襲ってくる冷害と飢饉、医療公衆衛生が充実しない中、はやり病もしばしば猛威を奮い、
……しかしそんな地獄の1000年の間で、ただ一つ育まれた国の財産があった。
 
――『執念』と、『根性』。
 
かくして約1000年間『世界で最も貧しく悲惨な国』だったイヌの国は、
しかし次の1000年間で、再びかつてのような『軍事大国』の座に返り咲く事に成功する。
 
そうしてとうとう約200年ほど前には、最悪の土地条件というハンデを乗り越えて
最大大国であったネコのそれに匹敵する軍事力を取り戻したイヌに対し、
当然周囲の国、特に真南のネコの国と真北のオオカミの国はこれを警戒し危機感を強めたが、
しかしネコの国との国境間際での散発的な小競り合い、
オオカミの国の辺境部族に対しての『北伐』と称した遠征行為(後にこれがオオカミの国々の
統一気運の一因となるのだが)を仕掛けはこそしたものの、
イヌの国が1000年以上もの獄鎖に対する本格的報復行為に出る様子は見られなかった。
 
……『表向き』には。
 
 
 
「――【GARM】」
 ガルム、と。
「今だと全部で六つの外局から成る軍の暗部、『ル・ガル秘密諜報局』」
 諜報局というその言葉に、すぐさまCIAとかKGBとかその手の横文字を思い浮かべた
 あたしの単純な脳みそは、…だけどこの場合は正解へと通じる道だったらしい。
 
「表向きの組織である『王国諜報局』を隠れ蓑にしての三重の秘匿、他の国々はもちろん、
内国勢力である『議会』側や『国王府』側にも秘密で作られたル・ガル国軍の懐刀」
 イヌの国では軍と議会が対立してて仲が悪いとか、
 その両者の発言力が強くなりすぎて国王様の力は今じゃあまり強くないとか、
 その程度だったらテレビのニュースとかで断片的に勘付いていたけど。
「形式上は左軍に、だけどイヌの国軍である左軍と右軍の双方からある程度独立した権限を
持たされて、約800年前に創設させられた、裏の仕事をする為の諜報局兼特殊部隊」
 思わず見上げた先には、はたと前方を見据えた、何の激情も宿してなどいない目が、
 …憎む事にも哀しむ事にも疲れてしまった、そんな人間特有の虚ろな空洞が見えた。
 
「公式と書類上では『存在してない』事になってる、うちの国の最重要軍事機密の一つだよ」
 だけど何でもないように語られるその言葉の。
「存在自体、現役の軍幹部では2人の将軍と左右に8人ずつ、16人いる大将しか知らなくて、
幹部以外ではGARMの構成員自体とパイプ役、裏方衆や影の実力者とか…ぐらいだね」
 内に秘められた危険な匂いに。
 
 
「ちょ、ちょっとそういう事バラしちゃって、あたしは――」
「いいんだ」
 
 叫んだあたしの声を、宥めるように言葉を紡ぐのはイヌの口だ。
「だってオレは、自国の無関係者や他国の人間への機密漏洩をしてるわけじゃないし」
 不意ににやっと牙を出して不敵に笑って見せたその顔は、
 自棄っぽいんだかカッコいいんだか良く分からなくて。
 
「……『モノ』に向かって、独り言言ってるだけなんだからね」
 
 …………
 ……そ、そういうもんで良いんだろうか?
 
 
「で、でもあのにゃんこ魔導師、案外あっさり軍事機密知ってたような……」
「ああ、あれは別」
 ……いや、あれは別、って……
「だって噂だと殺した直後の人間の魂なら引っこ抜けて、そこに刻み込まれてる知識や記憶を
直接読み取って情報得られるらしいからね、あのディンスレイフは」
 ……いや、確かに論外だとは思うけど。
 つーか、なんだよその『殺して魂引っぱり出して直接記憶暴く』って。
 もろくそ外法とか禁術とかの匂いがプンプンするじゃんか。それ使われたら秘密もクソも──
「……そうしてそれじゃ、何の物証にもならないし」
「え?」
 ──無い、と、思うんだけ、ど?
 
「言っただろ? 公式上と書類上は『存在してない』って」
 
 ──ガラにも無く自嘲めいて笑うこいつに思ったのは。
 ──ああ、やっぱりこいつも『諜報員』なんだなあ、って事。
 
「【GARM】について記述された文書類は無い、【GARM】に対して割かれてる予算は無い、
そもそも【GARM】なんて部局がデータベース上無い、状況証拠しか無い、物的証拠が無い」
 
 ──在って無く、無くて在るが如し。
 ──目、耳、鼻、舌、触ることすらできないのなら、存在していてもいないと同じ。
 
 
「…それなりの立場にいた高官が亡命に成功して向こうの国で仔細情報まで供述したり、
暗号化された文書類の一つを適法なルートで入手でも出来れば話は別なんだろうけど。
…でも何の地位も権力も信用力も無い下っ端兵士の拷問にかけての自供なんて証拠力皆無、
そもそも読み取り可能な記憶媒体が存在しない場合、証拠なんて無いも同じだから」
 …うん、『個人的な確信』を得るだけなら、それでも足りるだろう。
 下っ端兵士を拷問して自白させての情報や、状況証拠だけからそう個人的に判断するのは、
 UFOはいるんだ、ネッシーや霊は存在するんだって自分なりの理由で信じるのと同じ事だ。
 『そうに違いないんだ』って個人が信じて行動する理由とする分には、それで十分。
 
 ──でも、それで通らないのが国同士の関係、『国際外交』というものだ。
 
「…例えば今のネコの国の王城は、裏でヒト奴隷使って何かの人体実験してる可能性がある」
「じ、人体じっけ――!?」
 動かぬ証拠、決定的な証拠がないという事は、国際外交ではそれくらい大きいらしい。
「今の女王はヒト奴隷を大量に買いつける事で有名でね、だからほとんどのヒト奴隷商人は、
まずはネコの国のシュバルツカッツェにヒト奴隷を売りに行くのが通例なんだけど――」
「だ、だけど?」
「――王城の中に『生きて』運び込まれたヒト奴隷に対して、正式な形で『生きて捨てられて』、
あるいは『死体になって』出てくるヒト奴隷の数があまりにも少な過ぎる」
 例えば城の外側のヒト奴隷商人の帳簿を、それとなく『諜報』して掴めて来た事実。
 『出て入るヒト召使いの数が、明らかに合ってない』というその現実。
「出入り商人の数を複数にして、表に出てくる国庫収支上は一応誤魔化してるみたいだけど、
でもあのペースでヒト奴隷が王城に登用されてたら、絶対食料とか生活消耗品とかが」
 …でもそれですらまだ足りない。
 それが何の役に立つかと言われれば、ピンボケした心霊写真程度が関の山。
「国内の一部じゃ『女王様は買い取ったヒトをこっそり元の世界に戻してあげてる』なんて噂が
まことしとやかに囁かれてるけど、その割には落ち物の自在送還や自在召喚が可能になった
って話も聞かないし、ネコの国の落下物研究も完全に『落ちて来る物』頼りで不安定なままだ」
 状況から論理的に推測される妥当な結論は、だけど所詮は推測、所詮は状況証拠。
「……で、国外勢力としてフツーに穿った見方をするとなると……」
「……何かの研究や実験のモルモットにされてるってのが、まあ【GARM】全体の個人的見解。
手打ちなんて説明じゃ利かないくらいの、大量のヒト奴隷があの城の中に消えてる事や、
危険廃棄物処理業者が見たって言う、『見た事も無いキメラの死体』の話とかも総合すれば」
 うわー諜報諜報してるなーと思うあたしだったけど……
「…でも、それが指摘や曝露、フローラの失権の何の役に立つんだと言われれば、ね…」
 
 ……まあ、でも、結局はそういうものなんだと思う。
 ──『政治』と『外交』は毒蛇の巣穴──とはどっかの小説家が言ってた言葉だけど、
 だけど本当にその通りなんだろう。
 ──『ネコの国が裏でこそこそ何かやってる』『イヌの国が裏でこそこそ何かやってる』
 そう信じて疑わない国や人物が居たところで、だけど現実には何ができるものか。
 あたしらの世界でも、お前ら生物兵器作ってるだろとか、お前ら核兵器持ってるだろとか
 言われて、だけど『はいそうですよ』だなんて素直に認めた国はいなかった。
 
 
「……だからおそらく議会側や国王府側、あと他国の中でもそれなりに勘のいい幾つかは、
薄々は存在自体、うちの軍の裏で動いてる『何か』がいるって事には勘付いてると思うけど」
 
 ──後から聞いた話では、『黒コートが来る』というのは、イヌの国の裏側では
 密かに囁かれているそれなりに有名な都市伝説であったらしい。
 …曰く、『他国の人間があまりにも深く国の中枢を探ろうとしたり、自国の人間であっても
 軍の最高機密に触れてしまったり等したら、黒コートがやって来て行方不明になる』、と。
 
「…でも実際に尻尾捕まえられたり、実情の把握や存在の物証を握られたりは、ね…」
 
 『なんだよそれ、魔法なんかが存在してて猫や犬なんかが歩き回ってるこの御伽話世界で、
 どこの某大国のMIB(メン・イン・ブラック)だってんだよ、あはははははは――』
 ……と、笑おうとして。
 …だけど笑えないんだという事に気がついて、頬の肉が引き攣ったのを覚えている。
 
 ……国家の剣として現れた時のジークは、『黒いコート』を身につけていたのだから。
 
 
「……作られたその本来の目的は、《絹糸》を緩め破る為の諸工作」
 だから【GARM】は、『禁忌を覗き込みすぎるとやってくるイヌの国の黒コート』は実在する。
 そうあたしは信じる、個人的にはそう信じられる。
 あの力、あの戦い方、この異常を見せられて、こいつの口から語られた言葉だから信じれる。
 
「1000年前の真銀の発見でようやくゆとりと余裕が生まれ始めた当時の『軍部』は、
何をするよりもまず真っ先に『その為』の秘密裏の機関を作ったんだ」
 復興諦観派の国王府や、復興穏便派の議会に対してすらとぼけ誤魔化し欺いて、
 強硬派の軍部が独断・独自に作った秘密の機構。
「設立当初は三頭だったけど、今は色々あって六つに分かれてる」
 …『軍部の独走』を招いてるなんて、それだけでもう十分ヤバイ状況だと思うのだが、
 それ程までに国王府の力の弱体化は酷く……
「『六局(りっきょく)』とか、『六外局(ろくがいきょく)』とかの暗喩で称される事が多いね」
 ……そうしてそれほどまでに、2000年という獄鎖は長すぎたらしかった。
 
 
第一局の担当は、犯罪者の仕業に見せかけての『直接的な対外破壊活動』とその隠蔽工作。
第二局の担当は、第一局の補佐および他国の反政府勢力・対抗勢力への物資・資金援助。
第三局の担当は、これは普通にスパイ活動全般、他には要人救出や亡命援助なんかも。
第四局の担当は、情報全般。各種魔術・科学対策と、通信傍受や暗号解読・情報操作専門。
第五局の担当は、暗殺と追跡、逃走者の処分、凶悪犯罪者の殲滅と、つまりコロシ専門。
第六局の担当は、同じコロシでもGARM一~五局の要員を含めた、軍内部への粛清と処分。
 
 
「……や、ばいじゃん、それ……」
 …さらっと説明されたのを聞いただけで眩暈を覚えるような、んな内容。
 他所の国にバレたら袋叩きにされるくらいじゃすまない、あまりにも危険すぎる。
「そうだよ、やばいんだよ」
 あたしの頭をぽんぽんと叩いて、何でもないようにほいほいと言うこいつ。
 …作り話には思えないのは、言葉の重みか、今日実際に見せられた出来事のせいか。
 
「…例えば、魔術原理主義過激派集団【レタル・セタ】、…覚えてる?」
 ふいに聞かれた唐突な質問に、一瞬頭がこんがらがる。
「…A級国際犯罪者集団、『古き良き時代』への回帰を崇謀して各国の機械賛仰主義者や
魔法科学者、あるいはその賜物たる生産物や施設に対しての無差別な破壊活動を行う…」
 …ああ、思い出した! テレビでやってたイヌの国の議会場を爆破したとかって連ちゅ――
 
「……あれね、GARM第一局の一つ、【ケルベロス】の仲間だよ」
 
 ――……は?
 
「本物の魔術原理主義者集団も幾つかいるけどね、少なくとも【レタ・セルタ】は『軍の犬』」
 
 ――……へ?
 
「『A級国際犯罪者集団レタ・セルタは、イヌの国の軍でも手を焼いてなかなか捕まえられず、
だから躍起になって捕まえようとしている違法魔法使い集団』、…ここまでが一重の秘匿」
 まさかそんな、と。
「『だけど捕まえられないのも当然、実はイヌの国の軍にはレタ・セルタの幹部と通じて
情報を洩らす代わりに賄賂を受け取っている汚職軍人がいるのです』、…ここまでが二重の」
 そこまでスケールが大きいのかよと、思わず絶望的にもなりたくなったが。
「…そうしてここまでは気が付く人間もいるから、ちゃんとその時の為の尻尾きりの用意もね。
っていうか、その汚職軍人も実を言っちゃえば【ケルベロス】か【オルトロス】の人間だよ?」
 第一局の隠称は【ケルベロス】。『炎を吐き撒く乱暴者』。
 第二局の隠称は【オルトロス】。『狡猾なる二枚舌』。
 …あたしらの世界の古いお話でも、この世界のと同じく二匹は兄弟だったっけ、と。
 
「向こうも、こっちも、99%の下っ端は『それ』を知らない。
普通の下っ端の、ほとんどの善良なイヌ、善良な軍人は、レタ・セルタ壊滅の為に必死で」
 ──思い浮かぶ、TVドラマとかよくある光景。
 『どうしてですか!』とかって怒って机を叩く若い捜査官と、その前で黙って首を振る上司。
 もうちょっとでずっと捕まえられなかった大規模犯罪組織を捕まえられそうという、
 その段階になって突然降りなくなった操作資金と人員、違う犯罪者を追えという命令。
 『上の命令だ』と苦々しく言う上司は、だけどそこまでは気が付いているんだろう。
 軍の大物の誰かが、相手の巨大犯罪組織と癒着しているという、その事実までは。
「…向こうも『数人の強力な魔法使い』以外は指示に従って首領を崇めるだけの下っ端で」
 ──また思い浮かぶのは、偏屈で少しイカレた魔法使いが首領で、
 後は命令された通りに動く以外ないゴロツキというよくあるファンタジー的盗賊集団。
 こういう集団の場合、トップに権力が集中し易いのはお約束というもの。
 逆らえば怖いけど、逆らわなければ極めて優秀・有能なカリスマボスに、誰も逆らわない。
 …ある日ボスが『これが私の後継者だ』と言って似たような気味の悪い子供を連れてきても、
 誰もボスのその決定に逆らおうとは思わないだろう。…悪い魔法使いがどこからか
 才能のある子供を攫ってきて自分の後継者にするだなんて、本当によくある話なのだから。
 
「でも、だからこそ、気が付かない」
 …ああ、それがもし本当なのだとしたら、そりゃ誰も気がつかないでしょうよ。
 若くて正義感溢れる捜査官を諌める物分りのいい上司ですら、気が付かないだろうさ。
 …仮に気が付いたら、人並みに善良なそのイヌの上司さんは、きっと狂ってしまう。
「全ては軍部統括者の意思で、2将軍と16大将の意思の下に行われていた人形劇だって」
 二重底の宝箱に、しかし三重目がある事には誰もが意外と気がつかない。
 幾多の犠牲を払って敵の組織が潰されて、そうして真の黒幕も一通り見苦しく足掻いた後、
 潔い敵組織の首魁の首と、悪あがきこの上ない汚職軍人の首が並んで斬首された後は…
 ……誰もが、普通に思うだろう、これで一件落着だと。
「それがシナリオの全貌で、そうして決して辿り着く事がない三重秘匿」
 
 ……誰も、思わない。
 まさか当該犯罪者組織の首領が、『冷酷無比な犯罪者を演じて』死刑に殉じていったなど。
 まさか問題の汚職軍人が、『私欲に走った裏切り者を演じて』死刑に殉じていったなど。
 全ては任務の為で、そうして二人とも実を言うなら【GARM】の局員。
 
「こ……国家…ぐるみ…」
「それは違うよ、正確には軍上層部の決定、国家はぐるんでないし軍もぐるんではいない」
 仰け反って言うあたしに、だけど雑巾はなぜか首を振って釘を刺した。
「…議会と国王府はもちろん、軍の下っ端だってまさかそんな事が裏にあるだなんて、ね」
 まるでそれが一番重要な事だとでも言うみたく、遠くを見ながら疲れたような目をするこいつ。
 ──『今更いい子ぶって奇麗事を』とか。
 ──『敵を欺く為とは言え平気で味方を欺けるなんて』とか。
 その目とその表情は、そんな言葉を言う事もできるような表情だったけれども。
 
「……そうしてどうしてそんなまどろっこしい事するのか、分かるよね?」
 ──あたしにできるのは、ただこいつの中にたまった毒を抜いてやる事だけ。
 
 
 
 
 
「……直接動けないからでしょ、イヌの軍隊は」
 それが《絹糸の盟約》の効果。
 だからこそイヌは、南のネコ、北のオオカミの国境近くであれほど挑発行為を繰り返してる。
 …相手が挑発に乗ってくれたら、戦争できるから。
 『自分達から』は宣戦布告は行えないけど、『相手がしてきた』なら応戦行為に出れるから。
 
 でも今のオオカミとネコの支配者は両方とも賢君、さすがそこの所は分かってるらしく、
 適当に挑発行為をあしらわせるだけで、何をやっても挑発には決して乗ってきてくれない。
 そうしてそもそも、ワイバーンでも越えられない東西の数千メートル級の山脈のせいで、
 イヌが軍隊を動かそうとすると北のオオカミか南のネコの領地を絶対に通らないといけない。
 …当然この二国は、通っただけで領域侵犯を唱えて《絹糸》発動の条件とするだろう。
 
 『東西の壁』と、『北の門番』、『南の門番』。
 …つまり、大陸最強のはずのイヌの陸軍は、最強なのに国内からは出られすらしない。
 最高でも数百人規模での傭兵派遣が認められた程度、
 現在16師団編成48万の軍の、たとえ1師団とて国外に出すことは許されていないのだ。
 ……だったら。
 
「最強であるイヌの軍隊が直接動かせないなら、だったらそれ以外を間接的に動かせばいい」
 当たり前と言えば、当たり前の発想。
「国際犯罪者なんて、まさしくそれにうってつけの存在じゃん」
 そうして、その統括情報の管理を一手に任されているのが、イヌの国だ。
「『魔法原理主義者』だかなんだか知らないけど、イカレタ思想をぶち上げてるテロリストほど
装う相手としては最適でしょうね。…何をやっても『どうせキチガイだから』で相手にされない」
 あらゆる国との折衝を含んで、次から次へと国から国へと移動する犯罪者達の、
 どこからどこへ移動したか、何を行ったか、国ごとにてんでバラバラな情報を取りまとめる、
 恐ろしく七面倒臭くて、はっきり言って超地味かつ目・肩・腰が疲れる、毎日同じ事の繰り返し。
 
「複数の国で、明らかに営利目的じゃない、無差別に施設・設備に広域破壊がしかけられても。
…そこに『イヌの国にとって都合の悪い施設』が幾つか含まれてても、誰も疑問には思わない。
そこに少しだけのデータの改竄が加わったなら、ますますもって誰も違和感抱かないでしょうね」
 
 新し物好きのネコは三日で飽きた。ウサギは一時間と仕事せずに熟睡。
 キツネはなぜか「あややや」とドジを繰り返す。ヘビは職場内で喧嘩しないでくださいよ。
 サカナはうわーインクが滲むからだから仕事の合間の水浴びは止めてくださいって――
 ――ってな感じで、結局言いだしっぺのイヌに押し付けられた時には、
 イヌが当時からそれを目論んでいたのか、それともその頃はまだ純粋だったのかは判らない。
 
「相手はキチガイテロリスト、物盗りの犯行のはずなのに財布取られて無いとか、そういう次元
ですらもうないんだもん。キチガイの行動パターンなんて誰も読めない以上、起こった事が全て。
…架空のイヌの用途機密な軍事施設をでっち上げて、勝手にそれが被害にあった旨の情報を
加えておけばあとは完璧よ、見事に『イヌの軍』も被害者の仲間入り。…しかも機密の軍事施設
だから話題にならなかった事とか、何の軍事施設だったのかも簡単に誤魔化せる…でしょ?」
 
 ただ、『地味で正義とか法とかが絡む仕事は、お仕事大好きで真面目君のイヌに』
 …という図式は、すでにその頃から大陸全体・種族全体にあったのだという。
 ……誰もがやりたがらない面倒でつまらない仕事ほど、イヌは喜んでやりたがった、と。
 
 ――木の葉を隠すなら森の中、森を隠すなら世界の中。
「……国際犯罪者総数の内、九割八分が本物だよ」
 ――逆に裏を返せば、2%は意図的に改竄された情報が含まれているという事だ。
「…でも、仕方なかった」
 ――他の種族がそれを知ったなら、一体イヌの事を何と言うんだろう?
「…仕方なかった、…仕方なかったんだよ…」
 ――裏切り者?
 ――背信者?
 ――やっぱりイヌは、2000年前から何も変わっていない?
 
「……『イヌの軍隊が直接動けないから』……」
 第一局ケルベロスに限定するなら、その答えでも正しいかもしれないが。
「それは『6分の1』当たってて、『6分の5』違うよ」
 【GARM】全体の、軍上層部のその行動に話を広げるなら、それは違う。
「本当の理由はね……」
 そんな複雑じゃない。…もっともっと単純な……
 
「……そうしないと、死んじゃうから」
 
 
 
 『軍事』以外でこの2000年間、イヌの国が最も発達させた、世界に誇れぬ自慢のもう一つ。
 ……それが、『諜報』だった。
 
 仕方の無い事だったのかも知れない。
 豊かなネコの国の一番の貿易相手国、一番の売りつけられ相手は、昔からイヌの国。
 農業大国であるトラの国の一番の貿易相手国は、やはり昔からイヌだった。
 閉鎖的な事で有名なウサギの国も、イヌとだけは貿易を行ってくれた。
 ……頭を下げて、土下座してでも頼んだのだ。
 どうか自分らに物売ってください、自分らの作った物買ってくださいと、誇りを投げ捨てて。
 
──暮らそうと思えば鎖国政策を取っても立ち行けるような他のほとんどの国と違い、
──『食料』と『資源』が致命的なイヌの国は、貿易しないと生きていけない。
 
 不作、不作、不作、不作、冷害、冷害、冷害、冷害。
 …食料自給率は、半分にも達しない。
 海に面していないから、海産物は全てサカナの国頼りだ。
 山々は痩せ、薬草とかまでキツネやライオンに頼った。
 魔法薬は高くて買えなかったが、それでもネコの国の強引な商人などに
 『これを買わないとうちの商会の食料は卸してあげないニャ』と言われると、従うしかなく。
 
 多くのイヌが、出稼ぎの労働者として他の国に出かけていって、
 もっぱら土木作業などの肉体労働や、危険な仕事、畑の小作、下働きなどに従事した。
 安い賃金でも働きすぎなくらい働くイヌは、どこの国でもトラやオオカミ以上に重宝されたが、
 逆に言えば『勤勉さ』ぐらいしか、自分達にはとりえが無かったという事でもある。
 ぺこぺこぺこぺこ、頭を下げるのはいつもイヌの国だった。
 いつも他国の顔色を伺わなければ、生きていけないのが自分達だった。
 『罪人』の子孫達の国だという事も、そこに拍車を掛けて。
 
──それでもまだマシになった、後の1000年と比べても。
──最初の1000年は、ことさら酷かったと言われている。
 
 だから食料も、医薬品も、資源も、働き口も、ほとんどを他国に頼っていたイヌの国だ。
 そうしていつもギリギリのカツカツだったイヌの国だ。
 ちょっと他国が関税を引き上げただけで、いきなりそんな事をされたこの国はぐらついた。
 ちょっと自国の国力強化の為に援助支援を打ち切っただけで、ぱたぱた人死にが出た。
 安い給料で働きすぎるイヌが某国の不満の対象になり、締め出され行き場を失った事も。
 
 そういう事が何度か続く内に、自然とイヌの国はなおさら怯えてビクつくようになった。
 他国の動向にいつも気を配り、聞き耳をそばだてて、些細な動きも見逃すまいと。
 自国の人間を敢えて他の国に派遣して、逐一その国の情勢を探ったりもするようになった。
 ……それが自分達の死活に繋がる重大事だからこそ。
 
 他の国が動けば、イヌの国も動く。
 他の国が動揺すれば、イヌの国も動揺する。
 大陸共通通貨セパタで世界を座巻し、大陸の国々に『最も影響を与えた』のがネコの国なら、
 逆に大陸の国々から『最も影響を与えられた』のがイヌの国だったろう。
 それくらいイヌは他国の顔色を伺って、しっぽを振らなければ生きていけない国だった。
 
 ──世界を裏から牛耳るつもりなんてなかった。
 …ただほんのちょっと、せめて自分達がもうちょっと楽できるぐらいに。
 せめてほんの少し方向を変えようと、死に物狂いで危ない綱渡りをしている内に、
 いつの間にかその原型となるシステム、そのノウハウが出来上がっていて、
 …そうして他国にはない高度な諜報ネットワークと、その技術の蓄積が出来上がっていた。
 ……もう後には引けない、重たい嘘の積み重ねも。
 
 
 工作二局――第一局ケルベロスと第二局オルトロスの原型は、そこから来る通りだ。
 
 自国の強化を図るための、関税の引き上げや貿易の取り止めなんかされたら困るから。
 イヌの出稼ぎ労働者をあまり雇わないようにしよう、なんて政策を打ち出されたら困るから。
 …そんな事をされたら何人餓死者が、何人失業者が出るか分かったもんじゃなかったから、
 だから後には引けないその崖っぷち、死に物狂いで『その手の介入』を行ってきた。
 自分達に不利な政策を行おうとしている政権と敵対する政権に密かな援助支援を行ったり、
 どうしても首を縦に振ってくれない人間を、事故や野盗の仕業に見せかけて排除したり。
 
 情報二局――第三局ケルビムと第四局ショロトルの原型も、そこから来る通りだ。
 
 他国と関わらなければ生きていけないイヌ達にとって、『情報』は命だ。
 逆に正確な情報の入手とその伝達の迅速さの重要性にどの国よりも早く気がついた事が、
 イヌの国の『諜報』の発展を何よりも促した。
 …だから『偽善の天使犬』達は、今では大陸の全ての国に大なり小なり散らばされている。
 ゴミ回収や煙突掃除、トイレの汲み取りといった仕事を装って潜り込んだ者達から、
 普通に学者や酒場のマスター、新聞記者の特派員や外交官として潜り込んだ者達まで、
 一体何人が散らばされているのか、正確な数はジークにも分からない。
 
 …だから『宵闇の魔導王』達は、今日も他国の魔法や魔法科学による遠距離通話の傍受や、
 新しい暗号式や魔法式の解読・解明に対して余念が無い。
 手紙や伝令すら使わずにそれを用いて為される遠距離交信には、当然重要なものが多い。
 エンコードされて発信され、受信されてデコードされるその中途にあるものを、
 横から傍受して解読できただけで、それはイヌの国にとって大抵大きな利益になる。
 
 ただ、それでもまだ。
「でも、それでも最初の三局と、直後に第三局から分離した四局まではまだマシな方さ」
 それでもまだ、最初の内は『生き延びる為』のはずだった。
「…本当にヤバイのは、残った五局と六局」
 生き延びる為に、仕方なく泥水をすすっているだけのはずだった。
「『腐肉喰らい』【ティンダロス】と、『死神』【アヌビス】」
 ……いつからだろう?
「【GARM】設立からしばらく経って作られた、処分二局」
 
 『最低限生き延びる為』のはずが、『また力を取り戻す為』に変わっていったのは。
 そうして『また力を取り戻す為』だったはずなのが、
 いつの間にか『世界をより自分達に都合のよい方向に動かす為』になったのは。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 8 >     ※     ※     ※
 
 
 
きっかけは、約1000年前のイヌの国の転換期に、パブロフという学者が提唱した理論。
 
当時の少なからずなイヌの国の学者がそうだったように、
彼もまた2000年前の大戦で自分達が負けた理由を、歴史的な観点から考証した学者だった。
学会に提出されたその論文が指摘した内容曰く、
 
1.イヌの軍隊、ひいてはイヌという種族全体の、ゲリラ戦術・遊撃戦術に対する脆弱性
2.『プロビデンス』の存在
 
直接な原因を『今のオオカミによる裏切り』としながらも、
しかし2000年前の大戦がそれを起こしてしまうまでに熾烈化・長期化した事について、
パブロフはそんな二つの遠因を挙げた。
 
1.に関しては、イヌとネコとの種族的な対比を引き合いに出し、
 「協調主義者で全体主義者なイヌ族は、基本的に群れれば群れるほど強くなるが、
 しかし個人レベルで見た場合、その戦闘力は実は下手するとそこらウサギよりも弱い。
 上から命令され、指示してくれる人間がいれば安心して速やかにそれに従えるが、
 でも上から命令されないと何していいのか分からない、自分一人だと何にも決められない」
 「反面、自由主義者で個人主義者なネコ族は、大集団では足並み揃わず協調性に欠けるが
 個人単位・小隊単位では恐ろしく強く、ゲリラや遊撃での強襲が一番怖い。
 その分アドリブ的な行動が目立つし、命令の曲解も多く、気に入らない仕事には意欲を欠き、
 給料の分・仕事の分だけは死なない程度に働くというクールでドライな人間が多いのだが」
といった論説を展開した後、
当時の資料より第三次王都前決戦で1万を破って残り9万を敗走させたはいいが、
その後の占領下のネコの国で、駐留したイヌの軍隊がいかにネコの残存勢力のゲリラ戦術に
苦しめられ、精神的な疲弊を余儀なくされたかを実際の事件を上げて列記。
…また、実際に実力が同じくらいのはずのネコとイヌとが一対一の決闘を行わせたデータから、
主に駆け引きや化かし合いによって、必ずと言っていいほどイヌが負ける事も引き合いに出し、
 
『個人単位での戦闘行動や駆け引きにおける、イヌという種族のあまりにもな弱さ』
を指摘することで、その章の最後を締めくくっている。
 
次いで2.の『プロビデンスの存在』では、
今日では『規格外』『皇族血統者』『特異点』とも呼ばれる『強過ぎる個人』に対して言及し、
 「リュカオンの最大の失敗は、『たかが個人』の力を、けれど甘く見過ぎた事である」
 「弱い者でも100人、1000人と力を合わせれば悪魔や魔王にだって勝てるはずだという
 一見正論にも見える理論に、だけど何故か固執し拘ったのがリュカオンの唯一の失策」
 「彼の戦術は『一定レベル以下』の兵士を瞬時に大量に駆逐・圧倒するのには大いに
 功を奏したが、それに慢心して強過ぎる個人、それも各国の女王級や将軍級の
 プロビデンスに対してもそれが通用すると思い、とりたてて特別な戦術を講じなかった」
と歴史考証を行った上で、
 「確かに天空の星々を降らす大魔法使いや、槍の一振りで10人単位の人間を闘気で
 バラバラにするような恐るべき武人とて、しかし1000人、10000人の兵士に囲まれては、
 たとえ雑兵相手でも流石に『個人の限界』、数の暴力に押し潰されてしまう事だろう。
 確かにそれを行えば、たとえ選ばれた勇者でなくても人間の力で魔王や竜王をも殺せる」
 「…だがそれは同時に、『たった一人』相手に1000人、2000人の一般兵を失うのを覚悟で
 ぶつからなければならないという事、はっきり言って利の出ない事この上ない」
と説き、
『プロビデンスvs一般兵数千人』という構図の利率の合わなさ、損害の大きさを唱えた上で、
『プロビデンスにはプロビデンスを』という理論を提唱し、その章の締めくくりに変えている。
 
 
──…とまあ、ただここまでは、当時としてはそれ程珍しくなかった理論、既存だった考え方。
そこまでだったならパブロフの唱えたその理論――『ティンダロス理論』は、
誰にも見向きもされないよくある凡庸な論文に終わっていた。
 
…ただ、そうでなかったという事は勿論それで終わりなんかではなく。
 
3.その対策
 
……『戦史学』はあくまで副業であり、本業は『魔法生物学』であったパブロフは、
上記の二点の問題点を踏まえた上で、しかし当時は誰も考えなかった様な『具体的解決案』を、
次の第三章でもって『自身の実験結果』も紹介しながら細々と書き連ねたのである。
 
──個人単位での戦闘行動や駆け引きにおいては、イヌという種族のあまりにもな弱い
──プロビデンスに対しては、素直に同じようなプロビデンスをぶつけるのが得策
 
──……ならば作ればよいのだ、自分達の手で、個人単位でも強い最強のイヌの兵士を。
対ゲリラ用の殲滅兵器にして、対プロビデンス用の規格外狩り。
 
 
「…んで、問題のその方法ってのが、抽出した複数の『魂』を一つの肉体の中に注入して、
魂の許容量の拡張と精神の増設……後天的な才能の引き上げを行おうってものだった」
 んな聞くだけで胡散臭い理論を、乾いた笑いを浮かべていう雑巾だったけど。
「その頃は遺伝子……DNAだとかテロメアなんてものは到底発見されてなかったけど、
キメラやホムンクルス、ゴーレム作成に関する技術はあったから、つまりその延長線上だね」
 『キメラ』やら『ホムンクルス』やら『ゴーレム』やらが存在するこの世界では、
 あんまりそれはあたしらの世界ほどインチキ臭い話でもなくて。
「……要するに、兵士10人殺してその魂を1人の中に突っ込めば、強い兵士出来るだろって」
 …でもそれにしたって、トチ狂った理論なのには変わりないのか。
 要するに人間を材料にして、『生物学的』にではなく『魔法生物学的』に
 強化人間だの改造人間だのを作ろうっていう、つまりはそういう話なわけで。
 
 
当然、パブロフのそのあまりにも生命倫理を無視した論文は一躍学会の話題になったが、
しかし結局は禁忌に触れるとして異端扱いされ、学会全体から無視されるに及び――
 
 
「――追放されたって事に『表の歴史』ではなってるけど、だけどホントはそれ、嘘なんだ」
「…………」
 あたしの髪を撫でながら首を振って言うこいつ。
「本当はその理論に着目した軍が、表の世界からパブロフを消して裏で迎え入れたんだよ」
 それを黙って聞きながら。
「焦ってたんだね、その頃の軍も」
 だけどそこまで言われれば、あたしにだって先が読めるというもんだ。
 
 
魔法習得、練兵統率、文系学問、そうして勤勉な労働精神も、
だけどあまり金の掛からない、全て自己の修練から生まれるものだという点では一致している。
…要するに人の精神から生まれ出て、努力次第でなんとかなる代物なのだ。
 
新魔法や新魔法体系の開発や発明には、膨大な費用がかかる。
新兵器開発や、近年では銃器などの近代兵器の導入にも、膨大な費用がかかる。
理系・工学系の学問――近年では魔法科学もそこに含まれるが――には、高価な実験設備や
試行錯誤の段階における莫大な出費がつきもので、やはり膨大な費用がかかる。
 
…機械や魔洸機械に関してはネコの国からのお下がりや中古品、一昔前の旧式のものを
格安で払い下げてもらう事で導入している上、軍事演習が終わった後は全軍総出で
練習用の矢拾いを行うようなビンボでみみっちいイヌの国に、
とてもじゃないけどそんな事に割ける大量の研究開発予算なんかあるわけなかった。
 
…何より真銀が出たとは言え、それでも慢性的な資源不足と食糧難に悩まされるイヌの国、
『科学』ではネコに負け、『魔法』ではウサギに負け、『鍛冶製鉄』ではオオカミに。
日進月歩していく周りの国の魔法技術や科学技術に、危機感を覚えたのも無理はなく。
魔剣作成に始まるエンチャンティドなどの加工貿易技術だけでは足りない、
他国に寄り掛からずとも、自国だけで決定的な切り札と出来る何かの技術を欲した結果が……
 
 
「『魂』――『心』や『精神』っても言えるけど」
 魔法の力に、知性の力、心の力。
 考えようによっては半永久的に無限の力を生み出すその力の本質を探る為に。
 
「…そのあやふやで不明瞭なものの本質と性質を掴む為に、100人や200人じゃ……ううん、
ひょっとしたら1000人や2000人ですら利かないような数のイヌが、モルモットにされてったよ」
「な……!」
 
 だけど、馬鹿げてると思う。
 100とか1000とかって数もそうだが、でもよりにもよって『自分の国の国民』を――
 
「……材料には事欠かないんだよ、昔も、『今』も」
 
 ――国民をと……思うのだが……
 
「……『野良』って言ってね」
 ――ファンタジーの、御伽話の世界だと思っていた。
「出来ちゃったけど金銭や血統の問題で、堕ろす事も育てる事も出来ないような子イヌや、
あるいは大きな飢饉が来たせいで養っていけなくなって、でも殺す事もできないから、
親に大きな街に連れてこられた後、置き去りにされた口減らしの為の子イヌがいてね…」
 ――魔法なんてものがあって、ワイバーンとか六本足の馬とかがあって、
 二足歩行のイヌやネコ、ヘビやサカナ、獣人と呼ばれる人間達が歩いてて。
「…そんな『野良』が王都とかの大きな街の、治安や公衆衛生の悪化の大きな一因で、
スリに万引き、物盗りに傷害沙汰に殺し、王都の住民や商店への被害が絶えないから」
 ――でも、それこそファンタジー的な言い方をするなら、
「……定期的に『駆除』されるんだよ」
 ――やっぱり『光あるところには必ず影が生まれる』ものらしかった。
 
 
「ネコの王都のスラムも酷いけど、うちの王都のスラムはもっと酷い、…多分大陸で最悪だね。
『裕福な国』の、『裕福な階層』の人達が見たら、きっと悲鳴を上げて吐いちゃうんじゃないかな」
 貧しいという事は、そういう事だ。
 力が無いという事は、そういう事だ。
「『死体回収人』って言ってね、冬は餓死や凍死でゴロゴロ、夏もチンピラ同士の勢力争いや、
病気のせいで道端で野ざらしになっちゃうのがあるから、それを回収して回る仕事がある位で」
 全員が生き延びれるだけの食べ物すらないとは、そういう事。
 ただ生き延びる為には仲間の死体も食べ、泥や雑草も食まなければならなかっただけ。
 
「だからそうやって薬殺処分されるくらいなら、道端で野垂れ死ぬくらいなら」
 裕福で恵まれた環境で子供を産んだ『人間』は、一番弱い子を大事に育てようとする。
 分け隔てなく可愛がり、皆を平等に生き延びさせて育て上げようとするのだ。
 過酷で厳しい環境で子供を産んだ『獣』は、一番強い子供を大事に育てようとする。
 全員育てるのが無理だと分かれば、弱い子供から順に情け容赦なく切り捨てる。
 そうして一番生き残る望みが高い子だけでも、せめて何とか育て上げようとするのだ。
 
「……それでなくても、捕まった『野良』の中でも才能や能力に秀でてるのを軍がスカウトして、
徹底的に『調教』して『矯正』したあと立派な兵士に育て上げるってのは、昔からあったから」
 だから、その土壌は十分にあった。
「…今更ガス室送りになる『野良』の数が半分に減ったり、人買いが買ってくイヌの数が
これまでよりも何割か増えたりした所で、別に気に止める人なんていなかったはずだよ」
 国家権力が、組織ぐるみで彼のような存在を作り出そうとする、その土壌は。
「…特にちゃんとした血筋や家柄を持ってる中~上流階級の人達は、
オレら『野良』の事をゴミくらいにしか思ってない人が多いし、ね」
 
 ──日夜餓死や凍死で死んでいくスラムの浮浪児に対し何ら救済策を取る事もなく、
 あまつ『駆除』と称して薬殺処分する『制度』が国家権力の手で公然と日々行われている。
 
 そんな他の国の、他の種族の人間達が見たら明らかにおかしいと感じるような事も、
 でも2000年間、ずっと極限状況の緊張化に置かれ続けてきたイヌ達にとっては。
 ──『全員は生き残れない』以上、『より大きな損害を防ぐ為』にの、『必要最小限の犠牲』。
 弱い奴、無能な奴、無価値な奴から順番に蹴り落として……
 ……蹴り落とさなければならないような選択を幾度と無く迫られ続けてきたイヌ達にとって、
 それはいつの間にか、ついぞ当たり前の事になってしまっていた。
 
 
 
 ある者には精神崩壊ギリギリまでの苦痛を与えて。
 またある者には全身に電流を流し、あるいは直接脳に微弱な電流を流し続けるなどして。
 様々な投薬、様々な魔法、呪い、肉体的負荷に精神的負荷、実験に次ぐ実験、そうして解剖。
 『魂』の性質を見極める為と、そうして『魂』を現実に抽出する為に、
 軍という権力機構の擁護の下、内国の議会や国王府などにすら秘密裏に行われた実験は、
 しかし確かに、その『湯水のように使った人命』の数に比例して、
 他のどの国、どの種族も得ていないような、禁断の知識と多大な利益を軍にもたらした。
 
 軍の将校用図書館の地下深く、幾重にも物理的・魔法的な防衛が施された禁書室には、
 現にそんな『貴重なデータ』が、大切に収められている事をジークは知っている。
 ――『人間(イヌ)は平均して、どこまでの苦痛にだったら物理的に神経が耐えられるか』
 ――『微弱な酸・微弱な電流下に長期間置かれ続けた人体に、どんな変化が起こるか』
 
 その裏側にある詳しい理屈や高尚な理論なんか判らなくたって、
 とりあえず『実物で』『実際に』『何度も』実験してみれば、おのずと見えてくる何かがある。
 『十分な数の症例と被検体』を元に、平均を取られて統計も立てられたそれらは、
 ティンダロス計画から生まれた意外な副産物にして、有用な資料の数々だ。
 
 
「……そうして『それっぽいもの』も、一応抽出は出来たんだけどね」
 ただ、そこでとある問題が起きる。
「その『魂の濃縮エキス(仮)』を注入されたイヌは、今度はみーんな廃人になっちゃった」
 適量の水をつめた皮袋に、その数倍の量の水をつめればどうなるか。
「慌てた研究班はまた色々やったよ。一度に投入する量を減らしてみたり、拷問を加えたり
高濃度魔素に浸したりして、精神強度や魔法耐性を上げた個体に注入してみたり」
 イヌという小さな器に、入りきらないそれ以上の魂。
 何度やっても『はじけて』しまうそこに、何とか押し込めようと四苦八苦して。
「それでも一応、完成はしたんだよ、試作ティンダロスの第一号は」
 
 十数度目の試みにして、ようやく目指したものは完成した。
 辛うじて精神を『はじけ』させず、イヌの身に余る大質量の魂を受け止めたその器は。
「……完全に、暴走体だったらしいけど」
 しかし『はじけ』こそしなかっただけで、修復不可能な程の『変調』をきたしていた。
 ……『はじけ』こそしなかっただけで、自我と理性は完全にぺちゃんこになっていた。
 
 
 そのたった一匹の暴走体のせいで、研究班は壊滅、研究所も半壊。
 逃げ遅れた職員は、食い殺されるか、犯されてから殺されるか、ミイラにされて殺された。
 食欲・性欲・睡眠欲、それと生存本能と闘争本能だけで動くそれは、
 もしもの時の為の三重四重の防護壁と防御結界を、しかし力ずくで破って逃走しようとした。
 …超一流の魔法使いでも無断侵入はできないように作られたその施設を、
 内側からとは言え力まかせに突破していったそれは、
 言うまでもなくというか、かなりとんでもなかった存在だったらしい。
 それを抑えつける為に理由も聞かされず召集された近隣の部隊の兵士、
 および研究員の生き残りの証言をまとめたものを読むと、それがよく分かる。
 
 『最初は精神の反応速度に肉体の方がついてこなかったらしく、二三度無様に転んでいたが、
 すぐにそれを学習したらしく、肉体を魔力で補強して行動し始めた、早すぎる』
 『信じられない状況判断能力と環境適応能力、すさまじいスピードで経験から学習していく』
 『恐るべき速度での傷の再生を確認。治癒魔法を使った様子なし。ありえない』
 『ブレス能力確認。バカな、あれはイヌだぞ、ドラゴンだとでもいう気か』
 『咆哮。魔力によるものと思われる大規模な爆発現象。研究所の防衛機構の崩壊を確認』
 『二度目の咆哮。重力異常、空間湾曲現象確認、流星群の雨が包囲軍に落とされる』
 『八割が戦闘不能。これ以上の拘束結界の維持は困難。だがあれを野に放つ事だけは』
 『苛立った化け物の三度目の咆哮。更なる空間湾曲、奴を中心に風景が歪んで見える程。
 危険な兆候。回数を重ねるほど明らかに何かに慣れてきている。このままでは最悪時間さえ』
 『もうだめだ』
 
 
「──その化け物は、だけどとりあえずそこで止まったよ」
 
 しかし次の瞬間、
 全身から血水を噴出して『それ』ははじけとんだ。
 
「耐え切れない脆弱な肉体を、魔力で補強して尚のその限界線を超えちゃって、
正真正銘『イヌとしての器』の方が『イヌ以上の存在としての魂』に耐え切れなくなったんだって」
 無理矢理の自己再生、消費効率を無視した連続での大規模魔力行使。
 『生物』としての……『物質』としての強さの方が、『精神』の強さについていけなくなった。
 死体にすらならず、細胞一つ一つを溶かしてその存在は肉汁になった。
「…でも、紛れも無く強さは本物だった。自我が壊れちゃって、正気失って暴走しちゃって、
最後には身体の方がついてけなくて自壊しちゃったけど、でもその瞬間的な強さは
プロビデンスや異能者……イヌの範疇すら越えて、伝説上のモンスターや神にも匹敵する位」
 
 それだけ禁忌の研究を重ねても、今日でも未だ『魂』の性質をつかめた人間はいない。
 ティンダロス計画の研究チームだって、本当はただあの手この手を尽くした結果、
 余分なものを取り除いたその最後に残った『魂っぽいもの』を抽出出来たに過ぎなかった。
 …――それが本当に『魂』なのかすら、未だに100%は言い切れない状態だ。
 
 だから、それを投与すれば単純に魔力や魔法センスが上がるのだろうと考えていた者達や、
 あるいは生まれ持った才能限界の天井を壊せる程度なのだろうと思っていた者達は、
 誕生したその『イヌの姿を保ったままイヌの範疇を越えたもの』に、素直に皆畏怖した。
 『魔法を生み出す為の半永久機関』ぐらいに『魂』を捉えていた者達は、誰もが皆恐怖した。
 
 傷は再生するは、ブレスは吐くは、理性無いのに本能だけで呼吸するのと同じく魔法を使う。
 それは最早獣人ですらなく、ドラゴンやオーガー、トロールやノスフェラトウといった、
 一部伝説でしか見られなくなったような高位のモンスター……『魔法生物』や『幻獣』に近い。
 ……となれば連中もまた、『魂』の強い存在なのだろう。
 『魂』の強化・大質量化とは、ああいう存在……より世界に近しい高次存在に近づく事か。
 
 そうしてそんな高位幻獣の魂の強さすら超えて、
 より魂を強化して、より高次の存在へ精神を昇華させていったその果てにあるものは──
 
 
「――何百っていう死者と負傷者を出しても、だけど軍の決定は『研究の続行』だったよ」
 
 ──……それでも上層部は、調査報告書と研究所の壊滅ぶりから、諸手を上げて喜んだ。
 数少ない予算を振り絞って、なおその機関――生体魔導兵器の研究機関に回した程だ。
 ……土地・食料・資源・金銭のいずれでも他国に劣り、
 労働力や勤労意欲、学問や精神力という非物質的な物にしか取り得のないイヌの国にとって、
 その暴走体が見せた異常な強さ、突き詰めれば届くかもしれない魂の強さは、
 喉から手が出るほど欲しいものだったから。
 
 ……そうして生き残った研究者の半分が、『神』の影に怯えて『消される』事を選んでも、
 それでも残りの半分は、命惜しさと抑えられぬ好奇心にその命令に従った。
 プロトタイプの暴走による被害は甚大だったけど、
 それでもそこから掴み取れた、幾つかのヒントもまたあった。
 
 ──ただ大量に魂をつぎ込めば良いわけではなく、肉体限界とも相談する必要がある。
 ──一度に急激に魂の増量を行うから自我が潰れてしまう。だったらもっと時間を掛けて…
 
 より慎重になった実験と、しかし相変わらず人倫にも劣る、尊厳無き命の浪費を経て。
 幾つかの失敗と、その過程での十数もの実用まで至らなかった試験体。
 完全にその生成ノウハウが確立されるまではさらに百余年を要したが、
 とりあえずGARM第五局ティンダロスが正式に設立されたのは、今から600年近く前の事。
 
 
 
「……オレが知ってるのは、ここまで」
 
 そこまで言って、ジークは一つ大きな息を吐いた。
 …タオルとバケツの水は、今はすっかり冷たくなってしまっていたが、
 語っている間のありあまる時間、十分すぎる程丁寧に汚れを取り除いていたせいで、
 もう一度新しくお湯を沸かし直す手間は最早必要ないだろう。
 
「それからもう300年後に創設された、第六局のアヌビスの詳細までは知らされてないよ。
…オレら【GARM】の局員を含めた内部の人間の裏切りを処分する為の内規執行官で、
ティンダロスの改良型後継体、定員3名がオレと同じように軍内に散らばってる事ぐらいしか」
 
 『過去』も、『原因』も、『理由』も、『経過』も、全て説明した。
 ……である以上、納得できるはずだった。
 「自分はたくさんの人命を浪費した上で作られた生物兵器です」という、
 それだけを聞いたら突飛で納得できない理不尽のワケも。
 
「五局のオレに掌握権限が与えてるのは、一局から五局に関する情報までだから」
 
 だからこれで納得できないのなら、それも仕方のない事だ。
 それでもイヌのする事を納得できないというのなら、それは仕方の無い事だ。
 哀しいけれど、だけど相容れないのなら。
 ……それでも許せないというのなら、仕方がない。
 
 
「……そういうわけで、」
 くるくると、脚の包帯を解きながら、
 だけど『種族:イヌ』というのは訂正しなきゃいけないなぁと、内心思う。
「オレは、【ティンダロス】なんだよ」
 …確かに『元イヌ』ではあるけれど、でも今は最早イヌですらない、
 自分は『イヌの形をしたイヌじゃないもの』、魔法生物ティンダロスなのだから。
 
「正式なナンバーで94体目の、多重魂載型の生体魔導兵器」
 膝の上に乗せて抱っこしながら、長々と話し込むこと一時間弱。
「【GARM】の第五局員で、イヌの国の暗部」
 薬を塗って安静にしてたし、右腕と腹部はともかく、それ以外は『もう十分な』時間。
「狙った獲物は逃がさない、地の果てまでも追いかける、『時越え』『不浄の猟犬』ティンダロス」
 はらりと落とした包帯の下では、もうほとんどの火傷が新しい皮膚と産毛で覆われている。
「主な仕事は追跡《トレース》に、殲滅《アサルト》・処分《デリート》・暗殺《サイレントキル》」
 切り傷や刺し傷の大半が、肉が盛り上がって跡を残すだけ。
 
 『たった一時間』での、獅子の国の気功の達人でも説明がつけられないこの再生力が、
 他でもなく、彼が化け物である事の何よりもの証拠。
 
「屋内や敵アジトでの少数狭域戦闘を想定し、対ゲリラ、対凶悪犯罪者殲滅を副次目的に…」
 
 ……イヌの姿形を保ったまま、だけどイヌとしての次元を超越してしまった存在で。
 
「……最終的にはいつかやってくる『来たるべき日』に備えて、隣の国のリナ将軍や、
うちの国のレガード元将軍みたいな『化け物みたいに強い個人』にぶつける為に作られた、
混じった雑血と泥の中から掬い上げられての、対規格外存在用の人造プロビデンス」
 
 ……キメラやモンスターと大差ない、人外の存在である事の。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 9 >     ※     ※     ※
 
 
 
 ……ジークは、それでも自分は恵まれた方だと思っている。
 人がゴミみたく死んでいくあの腐ったスラムの中で、それでも『たまたま』古い教会の前に
 捨てられていた所を、『幸運にも』凍死する前に拾われて、『幸いなるかな』そこは取り立てて
 悪逆な施設というわけでもなく、しかも彼一人を養っていくだけの余裕がギリギリあった。
 
 両親どころか家族の顔すら知らないが、それを苦に思った事も親を憎んだ事もない。
 顔どころか匂い、抱かれた感触すら覚えてない相手なんて、そもそも憎み様すら無かったし、
 それ以前に周りの孤児仲間も、大体が皆そんな感じだった。
 …小さい頃親に王都に連れて来られて、気がついたら置き去りにされていたという兄に、
 …小競り合いから刺されて、教会の前に倒れていた所をシスターに助けてもらったという姉。
 
 ズィークバル・ローヌという名前と苗字は、【ティンダロス】になった時に貰ったものだ。
 先にあったのは本名の方ではなく、呼び名としての愛称の方。
 赤ん坊だった彼が拾われた時に、教会のみんなが考えてくれたという名前。
 
 ──寒く、ひもじく、貧しかったけど、
 だけどそれなりに、幸せだったのだと思う。
 …一歩外に出て、一歩路地裏を覗き込めば、老若男女を問わず動かなくなった肉の塊が
 転がっている、死と病で溢れていたあの灰色の空の下では。
 
 
 
「……はい」
 笑って、膝の上に座らせていた小さな生き物をストンと下ろす。
 時計を見れば、もう日が変わった頃だ。
「…たかだか一介の軍曹風情の、根も葉もない作り話はこれでおしまい」
 仮に今の会話を影から全て記録している者が居たところで、
 それがそういうもの、その程度のものなのだという事をジークは知っていた。
 
「そろそろ寝よう? …眠れなくても、それでも横になって安静にしてた方がいいと思うから」
 ……眠れないだろうとは思う。
 ただでさえ不凍薬の効果で強制的に襲い来る睡魔が遠ざけられているところに、
 …悔しいが紛れも無く本物だった、エリクシール《精妙薬》。
 
「…さ、もう遅いから――」
 そうして自分にとっても、それが同じではあっても。
 だけど目を瞑って横になるだけで、それでもだいぶ休息に──
 
 
「……なに、されたの…?」
 
 
 ──…………
 
「だからお話はもうお終――「「はぐらかすなよバカ!」」
 押しのけようとした腕を、がしりと掴まれた。
 ……細い、簡単に捻って肩を外せそうな柔らかい腕で。
「……訊き方が悪かったんだったら、言い直す……」
 1時間前までは血の滲んだ擦り傷があったのに、
 今はその痕が薄っすら見えるだけの、真新しい表皮を震える眼で眺めながら。
 
「……『あんた、何されたの?』」
 ──でも、その震える目が困る。
「…何さ、生物兵器って……」
 ──その匂いが、その輝きが困るのだ。
「…何、されたのさぁ……」
 瞳を潤ませて、上目遣いにこちらを見上げてくる彼女。
 それにおさまっていた昂ぶりが再びぶり返されて、
 股間の間にぶら下がったものが再度ぴくりと鎌首をもたげるのを感じる。
 
 
 
 育った教会はレシーラ教のそれで、シスターはイヌではなくウサギの老婆。
 なんでイヌの国にウサギの教会が?と思うかもしれないが、別にそれ自体珍しい事ではない。
 
 政教分離、『誰も神なんか信じない』理性崇拝が推奨されているイヌの国だけど、
 軍部や議会が危機を覚えるような規模にならない範囲での、信教の自由は許されていた。
 自活できないその性質上、オオカミ以外の他種族を、この国は自国民よりも優遇する。
 …そもそも国境では揉めてるはずのネコとすら、尾を振って商売を行ってる位なのだ。
 
 結果他種族のボランティアは多く、寄付を行ってくれる物好きな外国人は少なくない。
 ……『土地』と『無資源』という根本的な問題が解決されない以上、
 人口50万の王都にどれだけの大金がつぎ込まれても焼け石に水ではあったけれど、
 それでも無いよりマシの典型例、それがジークの教会のシスターだった。
 
 正確な年齢は不明だけどかなりの高齢で、少し目と足腰が不自由だったが、
 だけどそこらのイヌよりも野良であるジーク達に対して優しかった。
 歌を歌ったり経典を読み上げたりする以外は特に宗教的な儀式も強要もなくて、
 もっぱら読み書き計算と内職の手伝いなどが日々の日課だったから、
 ひょっとすると教会というよりは孤児院に近かったかもしれない。
 
 『あの頃』の自分は『今』と違ってバカだったから、きっと迷惑を掛けたと思う。
 各国独自の文字どころか、大陸共通文字の基礎すら覚えるのに四苦八苦していた位だから。
 
 
 
「……お前は知らなくても……いい事だよ」
 なるべく冷酷に、突き放すように言ったつもりだった。
「陽の当たる世界で暮らしてる、『化け物』でない普通の人間が、知っていい話じゃない」
「ッ!!」
 『化け物』と、そうジークが自分の事をはっきりと卑下した瞬間、
 キッと見開かれた彼女の瞳、大きく平手が振りかぶられる。
 
 ──だが遅い。
 脳内加速による相対時間の引き伸ばし、スローモーションで振り下ろされた平手を
 捻り上げて吊り上げるなど、彼にとっては造作もない事。
 
 そうして吊り上げて、覗き込みながら。
 
「知って、どうするのさ」
 
 ……そんな事が言いたいんじゃないのに。
「お前に、何ができるの? 何を、救ってくれるの?」
 また発作のように込み上げてくる、どす黒いもの。
 …きっと今の自分は、とても嫌な顔をしているんだろうと思う。
「過去を、無かったことにしてくれる? 背中の罪の重さを、消してくれる?」
 だけど、すごくイライラして。
「そもそも魔法の『ま』の時も分からないお前に、話したところで何が分かるのさ」
 ぶつけられてくる純粋な、すごく混じり気のない一途な気持ちにイライラして。
 
「例えば【蠱毒】って言われて、お前それ何か理解できるの?」
 
 ──そうして、しくじった。
 
 ──完全に、こちらの軽率だった。
 『この世界』と『上の世界』。
 違っているようで、だけどどういうわけか共通した概念や認識が所々見られる事があり。
 魔法の業についても、『上の世界』では決して未知未開の概念というわけでもなく。
 
「知ってるもんそれくらい! 『オンミョージ』の映画、あたしだって見に行ったんだから!」
 涙ぐんだままで勢い言い返された言葉に、固まった。
「土の中に壷を埋めて! そん中にムカデとかヘビとかドクガエルとか入れて!」
 そのやり方が【蠱毒】の……巫蠱術の全てではないにせよ。
 だけど『この世界では知っているだけ犯罪』なはずの、禁忌の術、強力な呪いの法の概要を、
 どうしてこんな極平凡な女の子が知っているんだと。
「殺し合わせて生き残った最後の一匹を呪いに使――」
 
 
――『十分な期間をおいて緩やかに』
──『なるべく理性と人間性を保ったまま、可能な限りの無理な負荷をかけず』
──『そうして理に逆らわず理にそって、なるべく自然の法則に従って』
 
 ジュジュツヘイキは、呪術兵器。
 
――散々あれやこれやと禁道の研究をしておいて
――行き着いたのがそんなロートルな手法だったというのが笑わせてくれる
 
 ジンコノサンブツは、人蠱の産物。
 
──非常に狭い密閉空間内、他に食料の無い極限状況下で、無数の命の食い殺し合い
──魔法的な阻害により肉失いし魂は壷の外に出られず、全て生き残った者へと添加される
──…密かにキツネやヒツジ、あとは似たようなものが蛇国の一部に伝わるのを見る限り
──似たような発想をする者自体は、歴史上決して少なくはなかったらしい
──……『命』を対価に強大な力を招来する、生贄魔法のその極地
──その果てに生まれるのが、【蠱虫】という名の最強の呪詛だ
──費やされた命の数だけ呪力は増し、極めた凄惨さの分だけ毒のえげつなさも増大する
 
「……見る、な……」
 
──もっともそれが単なる呪術、呪いと毒を生み出す為の呪術儀式に留まらず、
──魂と精神……『存在そのもの』をムリヤリ上の次元に引き上げる為の昇華儀式なのだと
──そこに気がついた時点で、イヌの国が他の種族よりも数歩リードしていたが
 
「そんな目で、見るなよ」
 
──……だから、試した
──単純でちっぽけな命しか持たない虫や獣などではなく、より重く複雑なイヌを使って
──【人蠱法】と呼ばれる、その最も強力な蠱毒の法を
 
「そんな目で……」
 
──101匹(ワンオーワン)という素体数は、何度も繰り返された実験の果ての最効率点
──これより数を多くすると、壊れてしまう数が急激な上昇曲線を見せる
──使われるのは、まだ心が柔らかい成長期前の幼体のイヌ
──完全に観念が膠着してしまった成体では、ムリヤリ拡張される精神に心が持たないから
──基礎に持ってこられたのが、キツネの国の巫蠱術の理論
──壷に見立てての内魂転化空間の作成の際には、ウサギの国の魔法陣記述技術を
──それに彼らの研究結果を合わせて、そのノウハウは完成された
 
──ネコがその物質的な豊かさで、科学と機械……物理の力を極めたというのなら
──イヌはその精神的な強靭さで、それとは逆の力を極めた事になるのだろう
──連中が鉄と油と魔洸の力で戦うのなら、ジーク達は命と魂と精神の力で戦うだけの話
──負けはしまい、むしろ五分以上のはずだ、なぜなら……
 
 
「そんな目で見るなって言ってるだろうがッ!!」
 
 
「っ!!」
 ここまで言い聞かされても『その目』をやめない目の前の少女を睨みつければ、
 それだけで彼女の顔が苦悶に歪んで全身が強張った。
 
 ──精神掌握、あるいは精神操作。
 ティンダロスの中でも変り種、熱素操作等の物質界への干渉がとことん苦手な代わり、
 そっち方面への干渉が飛び抜けて優れたジークが、最も得意とする分野の一つ。
 
 ただし本来なら、どれ程巧みであっても決して『こういう使い方』には向かない魔法だ。
 正しい使い方は、その気はあるが決断を迷っている相手や、正常な判断が出来ないほど
 混乱あるいは朦朧とした相手の、背中をちょんと押してやる程度にの用途。
 それを『こういう使い方』すると、まず第一にバカでも精神攻撃されている事に気がつくし、
 なにより最悪、抵抗した相手の心が壊れる可能性すら生まれる。
 
「……蔑め」
「……だ」
 それを十分判っていて。
 だけどジークは、我を忘れてそんな強引な干渉を行った。
「……哀れめよ」
「…や…だ」
 頂点に達した原因不明のイライラに。
 『その目』を止めて、蔑みの目を、哀れみの目をするよう、強引に少女の心を『押す』。
 多分今の彼女の頭の中には、まさぐられるような不快感があるはずだった。
「ちゃんと、汚いものでも見るような目、しろ」
「いやっ……だ…」
 言う事を聞かないこいつにムカついて。
 生意気なこいつにイライラして。
 子供の癇癪、サディスティックな黒い衝動に身を任せるまま。
 
 
「『化け物なんかじゃない』?」
 ──だって、食べたのだ。
「…違うさ、『化け物』だよ」
 ──暗闇の中で、殺した相手の、心臓と、肝と、脳を。
 ──そうしないと、【蠱毒】にならないから。
 ──倒しただけじゃなくて、ちゃんと『食べて』己の糧にしないと、儀式の意味が無いから。
 
 
「…一度読んだ本、一度読んだ書類は、オレ、一言一句洩らさないで全部憶えられる」
 『庶民出、雑種イヌの軍曹風情』にしては、やたらと物を知ってて難解な学術書も読める彼。
 各国の風習やテーブルマナーから【GARM】の機密情報まで、完璧に憶えて復唱できる彼。
 ハードカバーを普通に読んでる彼を、彼女は普通に尊敬の眼差しで見てくれたけど。
「すごい頭がいい? 羨ましいぐらいの頭脳? …当たり前だよ、そんなの」
 でも、実は昔のジークはこんなじゃなかった。
 読み書き計算すらもまともに出来ない、どこにでもいる頭の悪い雑種イヌの♂。
 …こんな風になったのは、【ティンダロス】になってからだ。
「流石に単純に101倍は行かなくても、でも30~40人で分担して憶えてるのと同じなんだから」
 『旧式のポンコツ演算機でも、101台並列接続すれば』という理屈。
 …なんとも興醒めな、そうしてずる臭いタネ明かし。
 
「…自分で分かるんだよ」
 世界が変わる、その瞬間を説明するのは難しいけど。
 …でも今まで何度読んでも理解できなかった本が、一度で理解できる様になってしまっている
 自分に気がついた時、確かにジークは、酷い吐き気を感じた。
「オレはもうイヌじゃない、人間じゃない」
 それ以外にも、広がった知覚、鮮やかになった五感、とんでもない受動情報の処理能力。
 モノクロの世界からいきなりフルカラーの世界に叩き込まれたようで、
 …だけどそんな鮮明な世界は、さっきまで普通の人間だった身には、ドギツ過ぎた。
「越えちゃいけない線、越えちゃったんだって」
 
 完成したティンダロスの内、2人に1人は完成した時点で精神に異常をきたしている。
 それを越えても、だけど完成してから一年以内にもう2人に1人が使い物にならなくなる。
 使い物になるティンダロスは、そんなわけで4~500人使って1人生まれる程度だ。
 無理矢理上の次元の存在に押し上げられるという事は、それだけの負担を当人にもたらす。
 広げられた世界、重くなりすぎた魂に、心と感情がついていけなくなる。
 
 
「普通の獣人が、魔法を使わない生理レベルでのこんな異常な再生速度見せる?」
 倒れたシスター。
「普通の獣人が、脳内分泌や神経レベルでの生理機能の抑制・活性化を自分で出来る?」
 明け渡しを請求された教会。
「飛んで来る数十の矢や魔法を、瞬時に全部把握して適切な対応取れたりする?
普通の人間なら身体崩れる位の猛毒や魔素くらって中毒起こしても、まだ動けたりする?
脳内速度引き上げての、時間の相対的な引き伸ばしなんて芸当で来たりする?」
 
 『最後まで生き残る事が出来た者については、どんな願い事でも一つだけ叶えてくれる』
 スリで捕まった当時11のジークは、だからそれを願った。
 
 王道物語では踏み躙られ破棄されてもおかしくないそんな願いは、しかし叶えられ。
 ――叶えられたが、だけどそれがジークを縛る新たな鎖になった。
 
 『君が死んだ時、君が裏切った時、あの教会も同じように終わる事になる』
 
 『親切な誰か』のお陰で手術する事ができたシスターが妹達や弟達に迎え入れられて
 教会に入るのを遠くから見た時に言われた言葉。
 ……忠誠を誓うには、そうして守りたかった世界と決別するには十分な理由だ。
 
 
「…そうして、殺したんだよ。……何十人も、何百人も」
 ままごとが好きだった。
「500か、600か、…自分でもよくわかんないけどさ」
 お人形遊びが好きだった。
 
「騎士や魔法使いから、か弱い一般市民まで! 女の人も! 年寄りも! 子供でも!」
 今じゃ殺すのが、血を浴びるのが楽しくて、でも。
「…野盗の仕業と見せかける為に、屋敷中の人間を皆殺しにした事だって……」
 生き物や、花を眺めているのが好きだったのだ。
「『この子だけは』って言ってくるお母さんをね、子供ごと突き殺した事だってあるんだよ?」
 珍しく暖かい日。
 塀の下に咲いた一輪の花が、静かに風に揺れているのを見ていると。
「目撃者は全員消さなきゃいけないからね。オレらは最初から存在しないイヌなんだもの」
 …でもいつまで眺めていても飽きなかった。
「嘘じゃない、全部本当の……本当にオレがやって来た話さ」
 あの温かい匂い、日に焼けた地面の匂いを運んできた風。
 
 
「……なのにどうして、そういう眼で見るんだッ!!」
 …そうして無事な方の手を吊り上げて引き寄せて。
「なんで罵らないッ! なんでゴミでも見るような眼で見ないんだよッ!!」
「……ッ」
 だけどもうこれ以上『押す』事も出来なくて。
「どうして『こんなオレ』に、そういう風な眼を向けられるんだッ!!」
 
 ……そうして、思い出した。
 
 
 逸らされない瞳。
 震えているのに精一杯見つめ返してくる態度。
 
「あんたは、」
 このイライラに、どこで見覚えがあったのか。
「……あんたは、悪くない」
 この目が、一体いつの誰の目に似ているのか。
 
 
 
 叱られて、ぶたれた。
 今まで見た事も無い位の怖い声で、怒鳴られた。
 小さなミーアが病気で、お医者さんに見せるお金と、薬のお金が必要で。
 …だからサイフをすって来たのに。
 なのにシスターは、彼の頬を音が鳴る程強くはたいたのだ。
 あまつ、持ち主に返して来なさい、交番に届けて来なさいとまで。
 
──盗みは、いけない事だ
 
 分からなかった。
 既に意識の無いミーアの容態は、素人目にも一刻を争う状態だった。
 早くちゃんとしたお医者さんに見せて、すぐに入院させなければ命に関わるような。
 悠長な時間なんて無い。
 すった相手は、傍目にも裕福そうな貴族風の獣人で。
 これくらいのお金、取られたところで生き死にには関わらない程度のはずだった。
 
──命は、貴いものだ
 
『なんでだよ!』
 
 ──誰も見てないと思っても、だけど悪い事をするとちゃんとお月様は見てる──
 悪い事をしてはいけない旨を教える度に、口癖のようにシスターが言っていた言葉。
 
『ミーアが! ミーアが死んじゃう、死んじゃうだろこのままじゃ!』
 
 ……もしもそれが真実なのだとしたら。
 だとしたら月は、一体今のジークの事を、どんな風な目で見つめているのだろうか?
 
『シスターは、ミーアの命なんて別にどうでもいいのかよ!』
 
 今でも忘れられない。
 激情に任せてあんな事言わなければと、後悔してももう遅い。
 
『それでもダメなのかよ! このお金は、この悪い事は、ミーアより重いのかよ!』
 
 泣きながらそう叫んでいた自分と。
 目を開けた先にあったシスターの、表情が、目が、忘れられない。
 
 …そうだ、どれだけ後悔しても、もう遅いのだ。
 彼の肩を抱きながら、震える声で、
 それでも『お巡りさんの所に届けてらっしゃい』と言った、シスターの目。
 『ごめんなさい』とか、『違うんだよ』とか、『そんなつもりじゃ』とか、
 謝りたくても、だけど言ってしまった勢いを取り返せるはずもなくて。
 
 
 
「――あんたは悪くない!」
「うるさいッ!!」
 殴りつけられた壁に、一瞬遅れて盛大な音。
 パラパラと落ちる石粉は、ひび割れたしっくいが剥がれ落ちた結果だろう。
 
「お前に、何が分かるんだよ!!」
 ジークは、奇麗事が大嫌いだ。
「兄ちゃんも、姉ちゃんも、オレが喰ったんだッ!」
 綺麗なだけで、空腹を満たしてくれない物。何の物的な豊かさも与えてくれないもの。
「ヒトゴロシなんだよオレは! 何人も! 何十人も! 何百人もッ!」
 …でも同時に、それに恋焦がれてもいるのも事実だった。
「全体の為に、社会の為に、法の為にって、殺して、殺して、殺して来たんだッ!!」
 矛盾してるようで、だけどそんな誰もが満たされて傷つかない道を行けたらどんなにいいかと。
 
 
 
 ──善処も虚しく、二日後の早朝ミーアが動かなくなった時、だからジークには解らなかった。
 
 シスターのした事は、間違ってはいなかったけど、正しくもなかった。
 自分のした事は、正しかったけれど、だけど同時に間違ってもいた。
 
 病気の家族の手術代にとお金を盗み、着服しても、それでもそれは窃盗罪であり横領罪だ。
 それを無罪にすれば、次からは誰もが病気の家族の為に盗みや着服を犯すようになる。
 一人だけの特別は許されない。冷酷でもそれが『社会の法』。
 ……だけどそれでも、どうしてこんな小さなミーアが死ななければならなかったのだと思うと。
 
 ──たった数日で十年分も老け込んだかのように、疲れた顔でぼんやりとしたシスター。
 歯噛みする義理の兄と姉、泣いている義理の弟や妹達。
 
 分かっていた。
 盗みを現行犯で捕まった子供達がこのスラムでどうなるのか、彼も見て来ていたから。
 そんな子供達の溜まり場である孤児院が、どういう扱いやどういう目を向けられるのかも。
 だからシスターの行動は間違ってはいなくて。
 ……誰も悪くないのに、なのに誰もが傷つき救われないのは、どうしてなんだろうと。
 
──それが今のジークの、本当の意味での『原初体験』なのだろうと思う。
 
 もう動かない、ミーアの小さな手。
 『ジークにぃ』と呼んでついてくるミーアを、一番可愛がったのは彼だった。
 ミーアの目。
 シスターの目。
 
──『正しい事』は、なんだったのだろうと。
 
 
 
「やめ…ろよ…」
 止まないその目と、変わらぬ匂いに、音を上げたのは彼の方だった。
「やめろよぉ……っ」
 ずるずると、吊り上げた少女に逆に半ばもたれかかって抱きしめられる格好になりながら、
 ぼろぼろと零れる水滴が、だけど全てを物語る。
 
「赦……すな……」
 蔑んで欲しかった。
「…赦すな、オレの事、そんな優しい眼と匂いで見るなァッ!」
 ゴミでも見るような目で見て欲しかった。
 
「……血塗れ……なんだよぉ……」
 自分のした事について、ジークは言い訳をしない。
「憎んで…くれよ…」
 罵りや謗り、唾棄の視線も、甘んじて受け入れる。
「お願いだから……蔑んで…くれよ……」
 それだけの事をしたと、それで当然だと、何よりも自分でよく分かっていたから。
 それでも剣を捨てられず、それでも道を翻せない彼は、
 憎まれ、謗られ、忌まれながらでなければ存在できない者だと自分を理解していた。
 
「……図に、乗るだろ……?」
 ──甘やかされたくなかった。
「期待しちゃう、…調子こいちゃうだろ、…赦されたらあっ!」
 ──甘やかされたら、自分はどうなってしまうか、何をしてしまうか分からない。
 
 
 
 
 
「……あたしは――」
 だから静かな声色で紡がれた彼女の次の言葉に、
「――それでもあんたは、悪くないと思う」
 素直にのけぞった。
 
 
「なっ――」
「正直この国の過去とか、軍の行動の仕方ない理由なんて、どうでもいいの」
 諌声を発するよりも早く、真正面から射抜かれたその視線と、
「……だってあたしにとって重要なのは、あんただけなんだもん」
 畳み掛けるような爆弾発言に、別の意味でジークは面食らう。
 
「……分かんないよ、あんたの背負ったもんの重さや、体験してきたことの10分の1も」
 妙に硬質さが取れた、柔らかい声。
「分かってあげたいけど、多分あたしには無理なんだろうって思う」
「あ……」
 伏目がちな眼差しでの、その弱々しい様子に。
 
「『現実に人間で【蠱毒】試してみました、その完成品が目の前のイヌです』って言われても」
 そういうものなのかも知れないと、今更ながらに気がついた。
「『何百人殺してきた』、『とんでもない卑劣な事もやって来た』って言われても、実感湧かないよ」
 頭に血が昇って、自棄になっていたという事に、今更ながら気がついた。
 
──判れるはずがないのだ。
──あれを判れだなんて、それがどれだけ無茶な要求か。
──彼女はヒトで、ごくごく平凡の存在なのだから。
 
「現に生でジェノサイド見たのだってさっきが初めてだったし、
それだって殺されてたのはあたしみたいなヒトじゃない、半分ケモノな人達なんであって」
 シャツ一枚羽織っただけで彼の膝の上に座る、あまりにも普通で、あまりにもか弱い存在。
「あたし自身、本気で死にかけた、殺されかけたなんて経験あれが初めてだから……
……なんていうか、色々ありすぎて、逆に現実感湧かないんだよ」
 でも、だからこそ――
 
「……薄情、なのかな?」
 
 そう言って。
 所在なさげな、不安そうな目で彼を見上げてくる目の前の少女を、見ていると。
「そんな事……」
 重大な勘違いをしていたのではないかと、そんな考えが浮かんできた。
「ないと……思う……けど……」
 
 大切だからこそ、穢すべからずと神聖視していた。
 自分の持っていないもの、失ってしまったものを持っているから、強いと思った。
 柔らかにも、だけど確かに輝いているからこそ、自分なんかとは違うのだと。
 
 ……『自分なんかいなくても大丈夫な存在』、『一人でも立って歩いていける強い存在』、
 『こんな忌まわしき魔物の手なんか、本来なら無くても大丈夫なはずな存在』だと、
 無意識にそう大前提として、その上で全ての正論を組み立てていたが。
 
「……だからあたしに分かるのはね、」
 寄り添わされた身体の柔らかさ、囁かれた言葉の優しさは、
 静まっていた情欲を再び高ぶらせるには十分なものだ。
「あんたがあたしを、助けてくれたって事」
 情けない話、つけっぱなしだった急所防具に、この時だけは感謝した。
 体勢と位置的に、バレないでいるのは最早完全にそれのお陰だったからだ。
「本当はしたくないのを押し殺して、たくさん辛い目にあってもあたしを助けてくれた事で……」
 ──やばい、押し倒したい。
「……そうしてあんたもあたしも、生きてるって事……」
 ──押し倒して、プロテクターの下で窮屈にしているこれを、彼女の中に突っ込みたい。
 
 ……突き詰めれば、結局はそれだった。
 どれだけ理を並べ、正論を使って退けようと、根底にあるのはそれ。
 
 ジークは、自分は彼女には相応しくないと思っていた。
 掛け替えなき普通である彼女の傍に、普通でない自分が居てはいけない。
 巻き込みたくない、担わせたくない、汚してしまいたくない。
 
 だから拒絶する。
 だから遠ざけようとする。
 
「……ね? あんたが味わって来た道がどれだけ酷いもんなのか、
ほんの一欠けらも分からなくても、それでも判る事だってあるんだよ?」
 だけど同時に、守りたいのも事実だ。
 そう言って微笑を浮かべて抱きついてくる少女を、存分に撫で慈しみたいのも事実だった。
 
「例えば、とっとと投げ出しちゃえば楽になれるものを、バカ正直に必死こいて背負ってて」
 庇護欲をかき立ててやまない目の前のヒトの。
「心の中じゃ助けてって泣いてるのに、無理して平気そうな顔してどこまでも自分苛め抜いて」
 所有者であり、主であり、保護者である存在になりたく。
「本当は血塗れの自分が大嫌いで、だけど逃げたり、剣捨てたりとかもできなくて……」
 過保護と言われても、それでも心配でたまらない。
「……気にしなくていい事まで悩んでる、ぶきっちょで生真面目なイヌが居る事くらいは、分かる」
 そうして、優しく首の後ろを撫でてくれる彼女の手が心地良くて。
 …たとえ自分が相応しくないのを判っていても。
 ……それでも自分の代わりに彼女の主となる存在の事を考えると、…嫉妬を覚える。
 
「…あんたは、優しいよ」
 掴んでしまったら、二度と手放したくなくなる。
 ……手放せなくなる。
「…あんたは間違ってない」
 シてしまったら、一線を踏み越えてしまったら、そうなるのが判っているから、
 だからこんなにも拒絶しようとしているのに、遠ざけようとしているのに。
「……あんたは正しい」
 
 ──もっとも望んでいた言葉。
 ──それを自分は、彼女に言って欲しくなかったのか、それとも言って欲しかったのか。
 
「そっ――」
「この国の正しさや、世界一般共通の正しさなんて、どうでもいいの」
 抗いようがない。
「一番多くの人達が正しいって言って、一番多くの人達が間違ってるって言うような事、どうでも」
 そう言われてしまっては、だけど抗いようがない。
 
 ……『正しい事』が、ジークの全てだ。
 倫理や道徳、法と社会、公共の福祉に弱者の救済、弱きを助けて強きを挫き、
 そうして全体としての最大利益の為の犠牲を厭わない、それすらも全ては『正』より生じ。
 
 だが、だからこそ『正しい』以外での拒絶の仕方を、ジークは知らない、持ち得ない。
 
「ただ分かるのは、あんたが絶対に根っこから悪い奴なんかじゃないって事だけ」
 『その力』と、そして鋭敏な洞察力を持ったティンダロス・ジークは、
 打算や利得の感情を備えて近づいてきた相手なら、幾らでも突っぱね退けられるけど。
 …『仕事』や『公』にまで関わりそうな女なら、幾らでも冷たくあしらう事が出来るけど。
 
 一切『仕事』も『公』も関係ない、純粋な『私』の領域での無心のそれともなると。
 …裏表の一切ない友情とか信頼とか、愛とかにもなると――
 
「あんたが根はいい奴なんだって事、それだけなら理解できる」
 ――……だって、『選んでいない』のだ、彼は。
 
「そうしてあたし、確かにあんたの中に正義を見たよって、胸張って言える自信ある」
 正しい事を選んでいるようで、実は何一つ自分の意思では選んでいない。
 自分がいかに臆病か、何よりもジーク自身が知っている。
 
 無思考・無作為で、ただ機械的に『より正しい事』『一番正しい事』に従って……
 ……そうして『だってそれが一番正しい事だったから』と、そこに責任を、押し付けて。
 
 だから『正しい事』こそがジークの全部であり、存在意義すら超えて、存在そのもの。
 だから『正しい事』には逆らえない、『善』と『正義』には逆らえない。
 『正』に殉じているのではなく、『正』に縛られて磔にされているのがその正確な比喩。
 
 
 …秘密諜報局員であり、陽当たらぬ世界の住人。生物兵器にして、イヌを超えた化け物。
 同族殺しに飽き足らず、同族喰いまで犯した禁忌の兵器。
 手は、血塗られていて。存在は、普通じゃなくて。背負った罪と業は、余りにも重く――
 
「……だからあたしにとっては、あんたが正義」
「せ……」
 ――だけどそれでもいいよと言ってくる相手を、突っぱねる為の手札をジークは持たない。
 別に他者を巻き込むわけでもなく、共同体が傾くわけでもなし、あくまで一個人の個人的、
 …それでいて純粋な善意と好意から発する行動を向けられて、逃げる口実を彼は知らない。
 
「……あたしはさ、あんたと違って、結構バカでワルで利己的な女の子だから」
 ――何より、そこを愛したのだ。
「だからあんたがやった事は、全部間違ってなかったとか言っちゃったりする」
 笑って首に腕を絡めてくる彼女の、そんな所を。
「あんたがやった事は、ちゃんと正しかったって言っちゃったりするんだ」
 ごくごく自然体で、ごくごく普通、取り立てて正義を貫くわけでもなし、
「世界の全部が敵に回っても、それでもあたしは、あんたの味方をしてあげちゃうと思う」
 …なのに何よりも暖かく、そうして彼なんかよりもずっと『善』な存在に見える。
「化け物でも、人殺しでも、国家の犬でも…それでも最後まで、あんたの全部を肯定してあげる」
 得難きありきたり、得難き日常、得難き普通を、何よりも。
 
「だってあたしにとっては、あんたが全部だから」
「……っ」
 そうして実は懐かれてたと、今更のように自覚した時には、
 既にしがみつかれて、胸元にことんと顔を埋められていた。
 ──ボルテージ、一気に上昇
「あんたしかいないから、」
「…ちょ、ちょちょちょっ」
 強い強いと思っていた彼女が初めて無防備にしてみせた精神的な弱みに、
 どんな強敵を前にした時よりも心臓がバクバク言うのを感じる。
 ──というか、普段とのギャップもあって鼻血が出そうなほど可愛い。
「……あんただけいればいいから」
「ちょっと待ってって!」
 普段から男勝りで壁作られてる感まであったから、絶対そんな事ないと思ってたのに。
 
 ──え? あれ? なんかひょっとしてすっごい懐かれる?
 ──えええ? あれあれ? なにその縋りつくような目、股間に血が集まるんですけど。
 ──つーか、うっわ何コレ反則だって、襲う、襲う、襲うよこれ!!
 
 
「……こ、…怖くないのかよ……、…オレが……」
 むにっという弾力に富んだ感触が、二人の間にあるのだ。
 
「…ん、いや、ていうかあたしの世界の価値観から言うとさ、実は今までだけでも十分過ぎる位
あんたの存在自体が化け物っつーか人外っつーか常識外だったんだよね」
 爆乳…って程じゃあないんだろうけど、でも元となる身体の華奢さと小柄さがこれなもんで、
 体格と比例すると凄く大きく見える…というか、服着た時に目立つのをジークは知っている。
「そんな狼頭だか犬頭だか判んないの乗っけた身体に、髪の代わりに鱗生やした女の人とか、
天から星の光降らすような魔法使いが居る時点で、もう既にとっくの昔に許容量オーバーで」
 だって毎日、こっそりしっかり観察してたから、ちらちらチラチラ。
 細い胴回りには過負荷に見えるくらいのものが、ゆさゆさふるふる揺れるのを。
「だから今更そんな超人的な再生能力とか、人間離れした身体機能見せられてもさ。
慣れって怖いもんで今じゃあー、やっぱウェアウルフだなーぐらいにしか今じゃ思わないし。
…『銀の武器でしか傷つきません』なんて理不尽見せられても、多分あたし驚かないと思う」
 今まで別に、乳なんて特に注目した注目したり嗜好に拘った記憶はないんだけれど。
 …ここ数ヶ月、『巨乳いいかもな~』なんて思うようになったのは、絶対こいつが原因だと思う。
 
「それに普通のイヌやネコでもあたしらヒトの数倍の身体能力に自己治癒能力なんだもん。
それからさらにもう数倍になったところで、ぶっちゃけあんま違いよくわかんないし」
 
 「だから気にしてないよ」と、そうあっさり言われた事よりも、
 言いながらぎゅーっと抱きつかれた際に更に胸が押し付けられた事の方が、
 その時のジークにとっては一大事だった。
 むしろ、「え? そういうもんなの?」と、彼がものすごーく気にしていた重大事を
 消しゴムのカスみたく吹っ飛ばされていく度に、そっちの方の比重が高まっていって大ピンチ。
 
 ──柔らかいなぁ。
 ──揉みたいや。
 
 心の重荷を下ろしてみたら下にエロ本があったとか、暗雲が取り払われてみたら
 見えたきたのはピンク色だったとか、つまりは今のジークの気持ちを表現するとそんな感じ。
 「暗雲、重荷、戻ってきて!」と泣きたくなる位、別の意味で追い詰められてます。
 彼女の身体を受け止め抱きしめた腕を、解こうと思ってももう遅い。
 至福の暖かさと柔らかさの虜になったその腕は、既に脳の支配下を完全に離れた状態で。
 むしろ理性の意思に抗って抱きしめる力を少しずつ込めてるあたり、もうかなり×。
 
 そうしてちゃんとしっかり服を着せておけば良かったと、後悔しても後の祭り。
 自分の男物のシャツ一枚羽織っただけの目の前の女の子は、見るだけで凶器だ。
 体温とかラインとか感触とか、全部分かっちゃうのである、こんな安物のシャツ一枚だけじゃ。
 まだ真面目な話をしてて、そんな事をすっかり忘れてられたつい先刻までに戻りたかった。
 
 
「そ、それでもっ」
 それでも、必死に抵抗する。
「なんで、オレみたいなのなんかっ――」
 だって正直、このままじゃ本当にケダモノのように襲ってしま――
 
「……バカ」
 ──ぺしんと顔を叩かれて。
 …だけど当の叩いた本人の顔は、真っ赤だった。
 
 茹蛸のように顔を赤くした彼女は、そのまま少し目を右往左往させて。
 
 何度か口をパクパクさせた後。
 
 だけど耐えかねたようにぽすっと彼の胸元に再度顔を埋めて。
 
 それでも消え入るような声で。
 
「……あんたがいいの」
 
 そう呟いた彼女が、耳まで顔を真っ赤にしているのを見た時。
 
「あんたじゃなきゃ、やなの」
 
 駄々を捏ねるようにもう一度呟かれた時。
 ――ぷっつりと。
 
 
 
「……怖かった……」
 
「……怖かったんだよ、知らないオオカミ男に、犯されそうになって」
 
「この世界じゃ、あれがヒトの仕事だって言うんなら」
 
「誰かのモノにならないと、生きていけないって言うんなら」
 
「…だったらあたし、誰のモノにもなりたくない」
 
「……あんたのモノに、なりたいよ」
 
 
 
< 続→【淫の事】 >
 
                                         【 狗国見聞録 愛の事 】
                               ~世界の正義、社会の正義、人の正義~