猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威23

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匿名ユーザー

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 部屋に近づく足音で、ハンスは目を覚ました。
 腕の中で寝息を立てる千宏の存在を確認し、内心安堵の息を吐く。
 昨夜意識を取り戻し、逃がしたはずの千宏が自分と同じくトラの巣に捕らわれていることに気付いたときは
絶望したが、腕の中に今こうして無事でいることを考えると状況はそれほど悪くないように思えた。
 あのまま千宏が逃げ延びたとしても、結局千宏は一人ネコの国に取り残されることになる。それはあるいは、
こうして二人でトラの巣にいることより危険なことだったかもしれない。
 そう考えることが惨めな慰めだという自覚はあるが、楽観的な逃避も時には重要だと千宏ならば言うだろう。
言うまでも無く絶望的な状況であるのなら、ほんのわずかな希望に縋ることは悪ではない。
 ハンスは全身を緊張させて剣を握りこみ、近づいてくる足音に耳を澄ました。
 足音が止まる。
 この部屋の前ではなかった。本来ならばハンスが寝ている予定の部屋である。ノックもなく扉を開き、無人の
ベッドを訝るように足が止まった。
 舌打ちを一つ、まっすぐにこちらへとかけてくる。叩きつけるようにドアを開き、ベッドへと駆け寄ってきた
トラの喉元に、ハンスは音もなく剣の切っ先を突きつけた。
 うお、と吼えて仰け反ったトラが、危うく喉を貫きかけた刃を見下ろして冷や汗を滴らせる。
 シャエクである。
「おいおい……ベッドまで貸してやった恩人に対して、この扱いはひでぇんじゃねぇのか? イヌの兄さんよ」
「チヒロと俺を解放しろ」
「これだよ!」
 短く吐き捨て、シャエクは突きつけられた切っ先を鬱陶しそうに払いのけた。
「イヌってやつらはなんだって、どいつもこいつもこうなんだ? 自分の要求を主張するばっかで、交渉どころか
会話ひとつなりたたねぇ! ったく、イヌなんざ助けるんじゃなかったぜ!」
 あのまま殺しちまえばよかったんだと吐き捨て、シャエクはすいとハンスの背後に視線を移した。
「……具合は?」
「なに?」
「チヒロだよ。体、弱いんだろ? 昨日だって真っ青になってしゃがみ込んじまって……」
 ああ、とハンスは頷いた。
 千宏はまったくの健康体だが、トラの基準からすると体つきは貧相で色白だ。あまりにも頻繁にどこか悪いのか
と訪ねられるものだから、最近では自分から体が弱いのだと前置きするようになっている。
 シャエクが勝手に思い込んだのか、千宏がそう説明したのかは分からないが、どちらにせよ千宏が病弱だと
思われていることは好都合だった。
「……すぐに医者が必要だ。顔の傷を見ただろう? 細菌感染を起こせば命に関わる。有り金は置いていく。
今すぐ俺たちを解放しろ」
 言うなり、シャエクは無邪気に笑って肩越しにドアを指差した。
「だと思ってな。医者、連れてきたんだ」
 予想だにしなかった言葉に、ハンスは返す言葉を失った。
「おまえら元々ここに医者を探しに来たんだろ? ネコの商人に騙されてよ。で、チヒロも困ってるみたい
だったし、ちょいとひとっ走りな」
 主人の窮地に医者を呼びに走るのは、世界的にイヌの専売特許ではなかったか。
 そもそも昨晩ハンスが眠るまでは、確かにシャエクは眠っていたはずだ。では一晩どころか、明け方から
現在――おそらくまだ午前だ――の間に町まで走り、医者を連れて戻ってきたと言うことになる。
「と……トラは長い距離を全力疾走できないものだろう」
「ああ。だからそこの道まで」
 それ以上の説明は必要なかった。相手は盗賊で、こちらも元は盗賊である。たまたま医者が通ったのか、
役人となんらかの取引をしたのかは知らないが、ともかく医者の馬車が近くを通りかかり、シャエクに襲われた
ことは間違いない。
 やられた。これで千宏は、早急にここを出なければならない正当な理由を失ったことになる。つまりこのトラは
そうまでして、千宏をここに繋ぎとめようとしているのだ。
 ハンスは内心どころかあからさまに歯軋りし、低く唸ってシャエクを睨み付けた。
「おー、怖。勘弁してくれよ、イヌの兄さんよ。マダラの俺にゃあ、おまえさんのひと噛みが命取りだ。そんな
ギラギラした牙むき出して睨まれたら、恐怖でパニクって何しちまうかわかんねぇぜ?」
 だからほら、とシャエクはハンスに顎をしゃくって見せる。
「チヒロを医者に見せようや。ついでにおまえさんも見てもらうといい。結構痛かっただろ? 俺のトラップ」
 トラが自慢げに笑うその顔は、まるで子供のようだと誰もが言った。なるほど確かにそうだとハンスも思う。
 無邪気である。そうであるがゆえに、今はその笑顔が恐ろしく空寒い。
「……チヒロ、起きろ」
 ともあれ、千宏に医者が必要なことは事実だった。ヒトだと明かさず治療を受けることができるかは疑問だが、
腕のよいネコの魔法医師ならば種族の差などさしたる問題ではないだろう。
 後ろにかばった千宏に声をかけると、千宏はもぞもぞと毛布を引き寄せながらぼんやりと目を開けた。
「あー……朝ごはんは……お味噌汁とシャケで……納豆は、うずらの……」
「寝ぼけてる場合か!」
 思わず吼えると、千宏はバネ仕掛けの人形のように飛び起き慌ててハンスの背中に飛びついた。そこから
ひょこりと顔を出し、シャエクの姿を見止めて目を瞬く。
「えーと……」
「おはよう」
 楽しげに笑ったシャエクに対して、ああと千宏は間の抜けた声を上げた。まだ寝ぼけているのだろう、
かりかりと頭をかきながら、
「はよ」
 短く答えてへらりと笑う。緊張感の欠片も感じられないその笑顔に、ハンスは脱力して額を押さえた。
「チヒロを治したら無傷で解放してやるって約束なんだ。患者を待たせてるらしいから、手っ取り早く
済ませようや」
「約束……? 守る気があるのかはなはだ疑問だな」
「おい、いい加減にしろよてめぇ! 言っておくが俺はな、別におまえさんなんざ殺しちまったって
良かったんだぜ? それをわざわざ生かして医者まで呼んでやったってのに、なんでそう突っかかる!」
「チヒロの機嫌を取るためだろう。仲間を殺せば懐柔は難しくなる」
 好意的解釈など、最初からする気も無いハンスである。
 シャエクはとぼけた様子で肩を竦め、ついと視線を虚空に逸らしておどけてみせた。
「ま、そんな考えもちったぁ……ねぇとは言えねぇな」
 存外に素直である。
「だがそれにしたって良心的なもんだろ? おまえさんを殺して、チヒロを犯して、そんで飽きたら
殺しちまう――なんてこたぁ、盗賊にとっちゃ朝飯前だ。まあ俺のたくらみがどうあれチヒロに医者が
必要だろう? うだうだ言ってねぇで付いてくりゃいいんだよ」
 事実、閉じ込められたという事実にさえ目を瞑れば現在に至るまでのシャエクの行動は実に友好的だった。
 であるからこそ、ハンスはシャエクに対し言いようのない空寒さを感じずにはおれなかった。ネコの国で
役人と結託し、仕事として盗賊をこなすようなトラが――トラ的であるわけがない。
 だが現状では従うより他道はなかった。千宏には医者が必要であり、ハンスには千宏を連れてここを脱する
力が無い。
 足取りも軽く部屋を出たシャエクを追って、ハンスは眠たげに目をこすっている千宏を促してベッドを降りた。


 綺麗に傷の消えた顔を鏡で眺め、千宏は感心も感動も忘れて首をかしげることしかできなかった。
 何度頬をさすってみても、力を込めてつねってみても、表皮が剥がれてその下から元通りの傷が顔を
のぞかせるなどという事もなく、完全に傷は治癒していた。
 ネコの魔法はすさまじいものだと噂には聞いていたが、ほんのわずかな時間傷に手をかざしただけで深々と
抉られた傷が跡形もなく消えるとは――ウサギの魔法はこれを上回ると言うのだから、人外魔境の境地である。
「どうもありがとう」
 この状況下で礼を言われても困るだろうとは思うが、千宏は今にも気を失ってしまいそうなネコの医師に
精一杯の笑顔で礼を述べた。
「患者が待ってるんだ……さあ、約束は果たした。早く解放してくれ!」
 千宏の礼など耳に入っていないように、ネコはしきりに時間を気にしながらシャエクに解放を要求する。
 シャエクは感知した千宏の傷に満足したように頷くと、すいとハンスを指差した。
「そっちのイヌもだ。軽い火傷程度だろうが見てやってくれ」
 馬鹿な、とネコが青ざめる。
「そんな時間は――!」
「だったら急げよ。でなきゃ勝手に出て行きゃいいさ。別に止めやしないぜ、俺」
 とは言っても倉庫の周囲はトラップで固められており、魔法に長けたネコといえどシャエクの力がなければ
脱出することは難しいだろう。可能だとしても、訓練をつんでいなければ時間がかかるのは間違いない。
 確か、患者を待たせているらしいとシャエクが言っていただろうか。憎憎しげに歯を軋り合わせるネコの
顔には、明らかな焦燥が滲んでいる。
 この医師が自分達のために襲われ、ここに連れてこられたと思うと千宏もひどく気が急いた。できるだけ
早く解放してやりたいが――。
「俺はいい。医者に見せるような怪我はない」
 静かに治療を拒否したハンスに、千宏はぎくりとしたその顔を見上げた。
「ハンス、でも――」
「俺は平気だ」
 いつもと変わらぬ無表情で、ハンスが千宏に頷いてみせる。
 ハンスは危険を犯さない。たとえその結果ネコの医師がどれだけ困ることになろうと、千宏を守るためには
自分に治療が必要だと思ったなら、何も言わずに治療を受けるはずだ。
「あたし達はもう平気。だから早く――」
「治してけ」
 千宏の言葉を遮って、シャエクは安堵の表情を浮かべかけたネコに短く命じた。千宏は目を瞬き、困惑の
表情を浮かべてシャエクを見る。
「けど……」
「よせ、時間が無駄になる」
 緊迫した声で千宏を制し、ハンスは千宏に変わってネコの前に腰を下ろした。ネコは尻尾の毛をざわつかせ、
一秒の時間も惜しいとばかりにハンスの治療に取り掛かる。
 まるで嫌がらせのようだった。無駄に時間を消費させ、ネコが焦るのを見て楽しんでいるようにすら見える。
 事実そうなのだろうか。
 千宏が表情を伺うと、シャエクはその視線に気付いて子供のように笑って見せた。
「イヌはすぐに見栄張るからな。我慢強いってレベルじゃきかねぇやせ我慢するだろ?」
「ああ……うん、まあ……」
 ハンスは自分から何かを要求するようなことをしない。これがすべてのイヌに共通する特徴かどうかは
知らないが、イヌの軍人には少なからず似たような性質があるものだとハンスは言った。
「でもハンスは頑丈だし、軽い火傷程度だったら……」
「軽い火傷でも油断は禁物だ」
 そうだろう? と問い返されては、そうだけど、と答えるしかない千宏である。
 それから、一分も経っただろうか。
「終わったぞ!」
 ネコが慌しく立ち上がり、シャエクへと振り向いた。
「ああ、早いな。ご苦労さん」
 焦燥の色濃いネコとは対照的に、シャエクはあくまでゆったりとした動作で頷いた。
「それじゃあ……俺ちょっと出てくるから、戻ってくるまで適当にくつろいでてくれ。帰ったら飯にしよう」
 ゆったりと笑ってきびすを返し、シャエクは尻尾を軽く振ってネコを促した。ネコは慌てて鞄を引っつかみ、
小走りでその背中を追いかけていく。
 千宏は深く息を吐いた。シャエクの足音が遠ざかってゆくのを聞きながら、
「ちょっと……手放しでいい奴とは言えない雰囲気になってきたな」
 小さく本心をこぼす。
 ハンスは忌々しげに鼻の頭に皺を寄せた。
「最初っからそんな雰囲気は感じていない。そもそもどうして信頼に足る存在だと思えたのかすら俺には
理解できない。忠告しておくが、マダラだからと侮ると痛い目を見るぞ」
「別にマダラだからって……」
 マダラであるからと言って、どうして侮ることなどできようか。一般的な男より弱いと言われたところで、
千宏からしてみれば十分に脅威である。
 たが事実、警戒が緩んでいたのは確かだった。表面上は警戒していたが、心底から疑わしいと思っていたかと
聞かれれば否だ。
 ただ、トラのマダラであると言うだけで――。
 千宏は肩を落として困ったようにハンスを振り仰いだ。
「実はあたしのご主人様がさ、トラのマダラなんだよね」
「……主人?」
「うん。あたしを拾ってくれた人で、バラムって言うんだけどさ。それが底抜けにいい奴で、ちょっと根暗だけど
優しくて……」
 千宏はローブの下に隠した腰のナイフに手を伸ばし、薄布を一枚隔てた上からするするとその輪郭をなぞった。
 千宏の手には大きすぎて、最初は握るのもやっとだった大振りのナイフだ。それが今ではどういうわけか、
随分と手にしっくりと馴染む。 
 脆弱なヒトである千宏が持つ、使わないことを前提とした唯一にして最後の牙。千宏が得た自由の象徴であり、
ヒトとしての誇りの証明。
 このナイフを与えてくれた男のことを思い出すだけで、胸に暖かな痛みがこみ上げてくるようだった。
「うん……ちょっと、警戒が緩んだ。いかんいかん! こんなことじゃ!」
 千宏は大きく頭を振り、自らの頬を強く張る。
 今は感傷に浸っている場合ではない。同じトラのマダラであろうと、シャエクとバラムは全く違う人間だ。
この場を脱することを真剣に考えなければ、恐らく取り返しの付かないことになる。
「あんたは――」
 突然、ハンスが硬い声を出した。
「……あんたには主人なんて、いないものだと思ってた」
 言って、すいと視線を逃がしてしまう。千宏はその横顔をまじまじと眺め、何事か言おうと口を開いた。
 その瞬間二階で何かがひっくり返る音が盛大に響き、千宏は文字通り飛び上がって驚いた。
「何!? 何があったの!?」
「何か倒れたんだろうが……他に誰かいるのか?」
 他に、誰か――?
 あ、と短く声を上げ、千宏は反射的に駆け出していた。
 動物が迷い込んだか、賊が侵入したのでなければ、今の音はコウヤだ。足が悪いと言っていたから、移動の
際につまづくか何かして転倒したに違いない。 
「チヒロ!」
「二階にヒトがいるんだ! その人、足が悪くて……」
 慌てて追いかけてきたハンスにそれだけ言って、千宏は階段を駆け上がり、昨晩シャエクに案内されたドアを
乱暴に叩き開けた。
「コウヤさん!」
 部屋の中には案の定、椅子ごと床に倒れ付したまま動かないコウヤの姿があった。駆け寄って抱き起こすと、
ひどく憔悴した様子でぐったりと目を閉じている。
 転んだと言うよりは、倒れたと言うべきか。コウヤはのろのろと目を開くと、千宏の腕から逃れようとする
ように身を捩った。
 意識があることにほっとするのも束の間、千宏はコウヤが全身を緊張させていることに気付いて表情を曇らせる。
「申し訳ありません……すぐ、椅子に戻りますので、どうか……」
「ま、待って待って! 頭とかうってたらやばいから、ベッドで少し休んだ方が……!」
 半ば無理矢理千宏の体を押しのけて、コウヤは倒れた椅子に縋って身を起こした。だがその体はすぐにぐらりと
傾いて、床に倒れそうになるのを千宏が慌てて抱き止める。
「コウヤさん!」
「チヒロ」
 硬く強張った声が頭上から降ってきて、千宏はコウヤを抱きかかえたままハンスを見上げた。その沼色の瞳が
ひどく複雑な色をたたえて、ひたとコウヤを見据えている。
「――服を脱がせてみろ」
「……はあ?」
 何を突然言い出すのか。ほぼ初対面に等しい男性の服を、承諾もなく突然剥げるわけがないだろう。
 思い切り疑問を込めて聞き返した千宏の視線を受けて、ハンスは無言のままコウヤの傍らに片膝をついた。
そして、コウヤのシャツの裾を掴んで無遠慮に捲り上げる。
「ちょっとハンス! 何やって――」
 言葉は最後まで出てこなかった。
 傷。傷。傷。傷。
 傷がコウヤの体を埋め尽くしていた。シャツを捲くり上げて見える部分など、腹から胸にかけての体のほんの
一部でしかない。そのごくわずかな面積だけでも、おびただしい量の傷があった。
 それも――古い物だけでは、ない。
 足が悪くてよく転ぶから、痣や擦り傷が多いのだと説明されたところで、到底納得できるような傷の数では
なかった。
 事実転んでできた傷なのだとしても、日に何度、どういう形で転べばこれほど深刻な痣ができると言うのか。
「……足の悪い人間に立てと命じて、転ぶ姿を見て喜ぶ。そういう手合いは、少なくない」
「ハン――」
「栄養状態は悪くない。傷の手当は一応してあるようだし、清潔も保たれている。服もヒト用の物を用意したんだ
ろう。ましな部類だ――チヒロ。このヒトは、大切にされている」
 だけど、と千宏が口に出す前に、ハンスはきっぱりとして言った。
「助けようと思うな。新しい傷に比べて、古い傷ははるかに深刻な物ばかりだ。舌を焼かれ足の腱を切られてる。
そのヒトは、救われた結果ここにいる」
 何を、馬鹿な。
 千宏は無言でコウヤの体を抱きしめ、かたかたと肩を震わせた。
 大切にされるということがどういうことか、千宏はちゃんと知っている。ましな部類と言えば確かにそうだろう。
だが違う。これは。この扱いは。大切にするだなんて上等なものでは決して無い。
「助ける」
「チヒロ……」
「だってこの人怯えてた!」
 鋭く叫んで、千宏はハンスからかばうようにコウヤの体を抱きこんだ。
 倒れたコウヤを抱き起こした時、コウヤの全身は恐怖にすくんでがちがちに緊張していた。倒れたことを
責められると思ったのだ。気を失うほどに衰弱して椅子から転げ落ちたのも関わらず、駆け寄ってきた人間に
怯えなければならないような環境が、救われてなどいるはずがないではないか。
「チヒロ……俺たちは正義の味方じゃない」
「分かってる……」
「その男よりひどい扱いを受けているヒトなんて五万といる。その男一人助けたところで、何かがかわる
わけじゃない」
「そんなの分かってる!」
「そもそも――助けた後はどうするんだ。俺はあんた一人を守るので手一杯だ。しかもそのヒトは歩けない。
お荷物を背負い込めるほど俺は有能な護衛じゃ――」
「だけどここにいるんだ! こんなに弱って、怯えて、あたしの腕の中にいるのに……あたしの目の前でこんなに
苦しんでるのに! 他と比べてましだからって見捨てて行くなんてできっこないじゃないか!!」
「そうしなければあんたの身が危険になるんだ!」
「そうだとしても、あたしは――!」
「殺してください」
 草を踏むようなはかない声が、恐るべき力を持って千宏とハンスの口論に幕を引いた。
 千宏は凍りついた表情を取り繕うことも出来ぬまま、腕の中のコウヤに視線を戻す。
「……え?」
「救ってくれると言うのなら……殺してください」
 どう答えたらいいのか分からなかった。どこか亡羊としたコウヤの瞳にはっきりとした意思の光が宿り、
懇願の色さえ浮かべて千宏を見据える。
「ど……どうして……そんな――」
 ハンスが小さく舌打ちし、忌々しげに立ち上がった。
「そこまでだ。シャエクが戻ってくる」
 ハンスはコウヤを救うなと言う。コウヤは殺してくれと言う。
 ならば決まりだ。千宏は顔を上げぐっと唇を引き結んだ。
 腹をくくる時だ。他者をねじ伏せ、我を通すという腹を――。
「ハンス。コウヤさんを下のベッドに運んで」
「チヒロ!」
「それから!」
 鋭く言って、千宏は立ち上がってぐいとハンスの顔を引き寄せた。極至近距離でその瞳を覗き込み、決して
譲らぬという意志を込めて口を開く。
「今だけ盗賊に戻って。それでトラの巣を落とすにはどうすればいいか――考えて」
 ハンスはしばし呆気に取られ、何度か口を閉じつ開きつした挙句弱々しく頭を振ってコウヤの体を抱き上げた。
「嫌だと言っても……あんたは一人でやろうとするんだろう」
「よくお分かりで」
 それならば、とハンスもまた唇を引き結ぶ。
「俺の腐った性根が役に立つ。あんたは女で、相手はトラだ。おあつらえ向きに、古典的だが有効な作戦が
使えるだろう……」
 ああ、と。千宏は肩を揺らしてくつくつ笑った。
 イヌの盗賊とヒトの娼婦がそろっているなら、作戦は単純かつ明快だ。
「あたしの手練手管が役に立つ――か」

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