金剛樹の梢の下 第4話
一面の赤い炎。熱気を孕んだ風は、話に聞いた事しかない砂漠のそれを思わせ。
古老の昔語りに聞いただけの想像の中のそれよりは、幾分か湿気を含んだ汐の香り。
炎を纏った梁が落ちてくる直前に、窓から逃げ出した緑の翼。
その腕に抱きこまれた、日光を照り返して黄金に光る翼。
その姿を、焼け落ちた天井に視界を塞がれる寸前まで瞳に焼き付ける私。
崩れてきた建物から庇うように、私の体を抱きこむ翼と腕。黒い二対の翼は母の物。
がっしりとした筋肉質の、灰黄の土ぼこりに似た色の羽根に包まれた腕と翼は父の物。
さらりと私の周囲を包む黒い真っ直ぐな髪。炎の加護を歌い上げる、母の細い声。
焼けた梁に半身を押しつぶされた父の呻き声。
その全てを炎から守ろうと、覆いかぶさる白い鱗。
飛竜の羽の隙間から吹き込んだ熱風が、息継ぎの為に母が声を途切れさせた刹那にまともに吹き付ける。
炎とまるっきり変わらない温度の風が、高く飛ぶには脆弱な咽喉と肺を、ちりちりと炙る。
激しく咳き込みながら、私の青い差し色の混じった灰白の翼ごと、強く強く抱きしめる母の腕。
がつっ!
私は、多分悲鳴を上げたのだろう。飛び起きる途中でしたたかに額を強打。
急に体を起こした反動なのか、ぶつかった衝撃なのか、音を立てて枕の上に頭が落ちた。
これはいつも見る夢。繰り返し見るただの悪い夢。
ぶつけた衝撃に星の舞う視界で天井を見上げ、そう、いつものように自分に言い聞かせる。
激しく打つ自分の胸の鼓動を聞きながら。これは夢。
夢に過ぎないから、だから今は大丈夫。今は、もう。そう、何度も何度も。
ただし、全て過去にあった事、過去に有り得た事、過去に無かった事。
今となっては、もう夢で再現されるだけの。
繰り返し立ち戻る思考に、無くした右眼が、ずくり、と痛みを感じた。
痛むのは眼だけでは無かったのだけれど。
もう一度、今度はゆっくりと体を起こした。
じんじんと痛む頭を、痛みを振り払うようにぐるりと回してみる。
飲まされた妙な薬のお陰で、ついさっきの記憶はおぼろに断片的。
なんかとんでもない事をやらかしたような、しかもそれを、見られてはいけない人に見られてしまったような……。
「目が覚めましたか?」
耳に馴染んだ、しかし聞いて嬉しくも無い声。
ガタガタと耳障りな音を立てて、寝台に椅子を寄せてくる青年の姿に、軽く眉をしかめて見せた。
「ええ、もうすっかり」
そう答えた自分の息の中に、先ほど飲まされた何かの、甘ったるい匂いを嗅ぎ取った。
「服、こっちに置いておくからねぇ」
カーテンの向こうで、さっきの猫耳おねーさんの声がする。
「こりゃどうやって使えば良いんだ?」
体を洗ってこい、と言われて放り込まれた小部屋で、俺は途方に暮れていた。
ちょろちょろと流れる水の音がする。目の前には、壁からちょっと張り出した段差。
その上にあるくぼみは、多分洗面台か浴槽か、なんだろうな、うん。
人1人どころか、2・3人くらい余裕で入れそうな大きさがある。
だけど、蛇口とか、レバーとか、水道っぽい物は見当たらない。
で、この水音の元は何だ? 耳を澄ませば、確かに水の音が聞こえるわけなんだが。
何だこりゃ、壁に……竹?
薄い緑でちょっと透明感のある、しかし透けてるわけでもないと言う、
今まで見た事も無い奇妙な素材の壁に、どう見ても竹製な管が這わせてある。
高さは丁度、腰のあたりか? 浴槽っぽい物の、ちょっと上だ。
途中に栓のような物があって……、ちょっと引っ張るとあっさりと取れた。
勢いよく水が流れ出して、浴槽の中に溜まっていく。水音の元は、これか。
見る見る内に溜まっていくぬるい水。
見る見るうちに浴槽を満たし、縁を越えてあふれ出す。
これ、どうやって止めりゃ良いんだ? って、栓すりゃ良いのか。
しかし、部屋の中はそんなに寒くは無いけど、この季節に水浴びしたら、風邪引きそうだな。
まー、仕方ないか。浴室に放り込まれる時に押し付けられた布を見おろす。
タオル地でもなんでもない、ただの大きな一枚布だ。渡されたって事は、コレを使って体拭けって事なんだろう。
浴室のすみっこに転がっていた手桶は、ぴかぴか光る赤銅色。
さっき溢れた水はどうなったんだろう、と周りを見回すと、浴槽の反対側の壁の下端に細長い穴が開いているのが見えた。
そのまま外に、排水を流し出しているわけか。
浴槽に手桶を突っ込んで水を汲み上げた。ざぶっと音を立ててかぶったけど、やっぱり冷たい。
夏のプールよりちょっと冷たい程度か。とっとと浴びて、出るしか無さそうだな。
石鹸やなんかは、特に見当たらない。壁際に立ててある竹筒は……、なんだこりゃ。
砂か? さらさらとした砂が、半分くらいまで入ってる。水で体流すしか、ないよなぁ。
「で、説明してもらえる?」
濡れタオルでごしごしと、顔にへばりついたべたべたを拭う。
どこかで嗅いだ事の有るような無いような、そんな変な臭いがなかなか取れない。
いつもなら、さっさと甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる白羽の姿は、ない。
それがまたムカツク。
「ええっとぉ」
悪びれた様子も無く笑う先生が、にへへと笑う。
「ぶっちゃけた話、元老院の依頼ってゆーか、悪巧みの一環?」
はい? 何の話?
問い詰めると、あんまり知りたく無かったような話が飛び出てくる。
どこまで本当かはわからないけど。
「だからぁ、姫様、その年になって、まだコドモの体のままでしょぉ?」
うるさい、ほっといて。 羽根に色なんて、無くても良いじゃない。
「だから、手っ取り早く適当なオトコをあてがって、そっちのほうからオトナになってもらおーかなって」
はい? ソッチって何の事?
「ほら、トリの男相手にすると万が一、って事があるけど、ヒトなら妊娠しないし」
あー、そう言う向きの話なんだ……。って、ちょっと待って、待ってってば。
「ちょっと待ってよ。本当にホントの事?」
イーシャ先生の言葉を呆然と聞いていたアタシは、気を取り直してそれだけ聞き返す。
「ホントにホントよぉ。種族が違うから、ヒトとトリじゃ子供出来ないんだってば」
いや、そっちじゃなくて。
種族が違えば、普通子供が出来ないのは当たり前。
同じトリ同士でも、歌鳥とか、戦鳥とか、地奔(ちばしり)とか、時告(ときつげ)とか、
海羽とか、氏族が違うだけで妊娠率ががくっと落ちる事は常識。
あー、里の外では、前から順にカナリア、ハヤブサ、ダチョウ、ニワトリ、
ペンギンって呼ばれてるって白羽が言ってたんだけど、アタシは良く知んない。
出た事無いし。
だからそーじゃなくって!
「なんで元老院が絡んでくるのよ!」
思わず大声になったアタシを、イーシャ先生が落ち着かせようとする。
どうどう、って馬じゃないんだから!
「ここじゃ、ちょっとねぇ……」
そう言いながら、イーシャ先生はちらりと、カーテンに隠されたベッドの方へ視線を動かした。
ベッドには、あの後、ぱたっと気絶してしまった白羽を寝かせてある。
神楽先生が、介抱と言ってついてる、はず。……変な事、してないでしょうね。
拾ったオチモノの姿は、ここからは見えない。
いろんな汁でべったべたになったからって、診療所作り付けのお風呂に入らせている。
お風呂って言っても、この時間じゃ水しか出ないけどね。
えーっと、確かオチモノの技術で……。
『スイドー』と『そーらーオンスイキ』って言ったっけ? 忘れたけど。
いちいち水汲みに行かなくても良いし、お湯も一応出るのが便利よね。
太陽が出てる時間じゃないと、どの階層でもお湯は出ないわよ? 念のため。
「それで? なんで元老院が出てくるの?」
わざわざ手術室に場所を移して、聞いてみる。
防音と気密? ってのがしっかりしてるから、ここでの話は、そうそう簡単には外には聞こえない、と言う話。
通話管も通ってないしね。
「ほらぁ、今、金剛樹にはまともな音律使いが居ないでしょぉ」
「いや、それは……確かにそうだけどさ……」
だんだん、アタシ自身でも自分の声が小さくなっていくのが判る。
ここで言ってる『金剛樹』ってのは、里全体じゃなくて、里を治める王家の事。
音律の中には、『踏み込んだ人の方向感覚を奪う結界を張る』とか『聞いた相手の抵抗力を奪う』とか、
『相手を支配する』とか『相手に一つ、行動を取らせる』とか強い効果のも色々あるんだけど、
『子供の咽喉には負担が大きい』とか、『面白半分で歌われちゃたまらん』とかで、楽譜すら見せてもらえないのよ。
本当かどうか判らないけど、『死ね』とか『爆弾抱えて突っ込め』とか、そんな命令も出来るって話も聞いたし。
でも、この里で歌鳥が上に立っていられるのは、そんな『子供じゃ歌えない』音律があるからで……。
「黒音女王は10年前に崩御、ソラチヒコもミナチヒコもたったの10歳。
シロガネヒメは女王と同時に死亡。最年長のコガネヒメ、貴女にもまだ、成人の兆しが無い」
すらすらっと、真面目な口調でイーシャ先生が口にする。
「元老院の中には、『金剛樹を廃して白凰樹(はくおうじゅ)を』って意見を出す人も居るって」
里で唯一、成人した歌鳥が居る家の名前が出てきた。
と言っても、今の所歌鳥の家系は金と白の二つだけ、なんだけどね。
「元老院の意見は真っ二つ、どころじゃないわ。元老院議長を女王に~とか、
神楽くんを~とか、コガネヒメの成人を待つ~とか」
うわぁ……、そんな話になってるんだ。
「って、ミナちゃんとかメイちゃんとかマイちゃんとかが言ってたのよ」
い、意外と侮れないわね、赤い足の女達。そう言うと、イーシャ先生が笑って言った。
「まぁ、ベッドの中で口が軽くなる男は多いし? 誰に決まるか、出来るだけ早く知っておく方が良いしね」
そ、そうですか……。
「まぁ、10年前のあの件が無ければねぇ。もうちょっと」
アタシが小さい頃……、ある一連の事件が元で、元々少なかったアタシ達歌鳥の数ががくっと減った、らしいのね。
歌鳥の女王の死、その責任を取らされた『黒』出身の近衛の長が翼切断刑の上公職追放。
その直後に起こった『黒』の館の火事で、歌鳥の半分以上を占めていた『黒』……、黒鳳樹(こくほうじゅ)家が滅亡。
今はもう、『黒』の血筋の歌鳥は、一人も、居ない。居ないって事になってる。
戦鳥との混血が何人か居るらしいけど、残念ながら彼らには歌鳥の耳も咽喉も授からなかった、らしいのね。
ほら、混血児はたいてい母親似じゃない? 父親が歌鳥でも、母親が戦鳥だと、ちょっとねー。
武門だったと言われている『黒』。他の家よりもいーっぱい居たはずの『黒』の<郎党>、
黒鳳樹に仕えていたはずの戦鳥達もちりぢりばらばら。
今となっては、誰がそうだったのか判ったもんじゃない。
「抑えになってた『黒』が消えたから、おカタイ『白』が好き放題! こっちとしてもやりにくいったら」
あー、そりゃ神の僕と夜の蝶とは犬猿の仲、だろうね……。
「ちょっとついてきなさい!」
服が置いてあった小部屋―――多分脱衣所なんだろう―――に黄色い羽の少女が乱入してきたのは、
俺がちょっと浴衣に似たような形の『着替え』を手に途方に暮れている最中だった。
「ちょ、まだ服着てねーって!」
がしっと腕をつかまれて慌てる。
人間と違って先に行くほど細くなる、演奏には向かないっぽい指と、その先に生えた細い爪が食い込んでけっこー痛い。
裸のまま脱衣所から引っ張り出されそうになった俺を助けてくれたのは、物凄く意外だったが猫耳さんだった。
「ほらほらぁ、そんな裸のまんまじゃ、風邪引いちゃうでしょ? ただでさえ、ヒトは体が弱いんだから」
そう言いながらてきぱきと、棒立ち状態の俺に服を着せてくれる。
いや、自分じゃーそんなに体が弱いとか思ってないんだが。
猫耳おねーさんが俺の体に触れるたび、ちりちりっとした感触があった。
……静電気に似てるけど、ちょっと違うな。
「はい、足上げてぇ」
いや、ズボンみたいなのは自分ではくから! はかせてくれなくて良いから!
ナニをじっくり見ないで下さい、お願いしますホントに。マジではずかしいから。
半ズボンよりちょっと丈が長いかなー、という感じのズボンに、浴衣にしては裾が短いなーという感じの上着を合わせる。
なんて言ったらいいのかな。ハンテン? ドテラ? いや、綿が入ってたりするわけじゃないけどさ。
大きく開いた袖ぐりと、さらにそのちょっと後に入ったスリットが、物凄くすーすーして……。やっぱり、寒い。
「で、ここはこーね」
足元にかがんだ猫耳さんが、ズボンの裾からぴょろりと出ている紐を、きゅっと引っ張った。
手際良く、ちょいちょいっと膝の下で締める。ちょっとあまった生地が、膝のあたりでだぶついた。
あー、なんかこんな服装見た事あるかも。歴史とか国語の教科書で。
……ここはどこの映画村だ。いや、映画村に鳥人間は居ないだろうけど。
「ん~……やっぱり、しっぽ付いてないと目立つかしらぁ?」
猫耳さんが、服を着せられ終わった俺をじっくり眺めて呟いた。しっぽ?
「ほらこれぇ」
そう言いながら取り出してきたのは、ふわふわとしたしっぽのような物だった。
つるんとした外見の手の平くらいの長さの物に、猫のしっぽみたいなのが、にょろりん、とくっついている。
太さも長さも、目の前の猫耳さんのしっぽと同じくらいか。
「ここをこうするとねぇ、くねって振動するのよぉ。素敵でしょぉ?」
ちょっと待て。それってどう見てもバで始まる名前のアレじゃねーか?
ぴきっとでも音がしそうな勢いで固まった俺の前で、楽しそうにソレを振ってみせる。
マジ勘弁してください。本気で。彼女もまだなのにんなもん突っ込まれたら、男として何か大事な物を無くしそうなんでっ!
本当に、羽根生えてる人が止めてくれて助かった。
「そんなものつけたら、余計目立つじゃない!」
……俺をかばってくれたわけじゃ、無さそうだけど。
「で、連れて帰って良いわけ?」
俺が、猫耳おねーさんのなすがままになって服を着せられている間中、
ずっと腕組みしてじろじろ見ていた黄色い姫様?(推定仮称)が言う。
「良いわよぉ。服着せるついでに、検査も済ませたし」
待て。さっきのアレはなんだったんだ。そう思ったのは、俺だけじゃ無かったらしい。
「ちょっと! さっき白羽にやらせてた事は!」
「あたしのぉ、趣・味♪」
にこにこと、罪悪感のかけらも持ち合わせていないような調子で答える猫耳おねーさん。
黄色い少女と俺のため息が重なったのは、多分偶然じゃない。