猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威21

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匿名ユーザー

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 茶色く乾いた大地を蛇行する小さな川が、うっそうと生い茂った雑木林へと流れ込
んでいた。
 荒地の只中に一点だけあるその緑の集合体は、砂地の箱庭に放り込まれた森の玩具
のように周囲の景色から浮いている。土地の養分を一点に集中させる技術があるため、
荒野に森や畑が点在する景色は別段珍しいものではないのだと前にハンスに説明を
受けたが、それでも千宏の目からすると、荒地で無理矢理育ったような緑はひどく滑
稽に思えた。
 魚の跳ねる穏やかな川に、風うねる緑の草原。視界一杯に広がる黒い森に、空を覆
う高い山。そういった景色が千宏は好きだ。
 そこにレンガ造りの建物と、三人の白いトラがいれば申し分ない。可能ならば一人
はマダラであるといい。
 そんなことを思いながら、千宏は隣を歩くトラのマダラを伺い見た。
「マダラが珍しいか?」
「あ、いや! いやその……知り合いにもマダラがいて……」
 慌てて答えて、千宏はトラから目を反らす。
「なんか懐かしくて」
 けれども、じろじろ見られれば不愉快だろう。
 千宏は視線を正面に戻した。
 雑木林はもう目前に迫っていた。馬車から様子を伺ったときちらと家屋のような物
が見えた気がしたが、近づいてみるとやはり木々に隠れるようにして建物が一つある。
 随分と大きな建物だった。朽ちて壁が崩れている部分も見られるが、大量の蔦植物
に半ば埋もれながらもしっかりとそこに建っている。
「元は農家の穀物倉庫だ。中はほとんどがらんどうだが、一応家具はそろってる」
「ベッドも?」
「軽く十人分はあるぜ」
 千宏の短い問いかけに、トラは自慢げに尻尾を立てた。盗賊一人がわざわざ十人分
のベッドを調達する理由もないので、行商人を襲った結果だろう。とても褒められた
行為ではないが、千宏はあえて指摘しなかった。ハンスを手当てし、休ませる場所を
提供してもらえるならば、相手がトラの盗賊だろうがネコの王族だろうが構わない。
 建物をはっきりと視認してから、さらに十分位歩いただろうか。距離はさほどない
のだが、ごろごろとした石が多くてどうにも歩きにくかった。馬車に乗っている時は
気にならなかったのだが、建物の周囲だけ石の数が異様に多い。
 まるで、意図的に石を集めてばら撒きでもしたようだった。事実、そうして外部か
らの侵入者を警戒しているのかもしれない。
 これだけ足場が悪ければ、音を立てずに歩くことは難しい。奇襲対策にはそれなり
の効果を発揮しているのかもしれない。
 行政が盗賊行為を容認しているのだから警戒する必要などないようにも思えるが、
行商人達が金を出し合って傭兵を雇う場合もあるのだろう。
 事実千宏は、ネズミの御者にそういう類の人間だと思われていたのだ。
 そういえば――と千宏はここにやってきたいきさつを思い出す。あの猫の商人は、
一体どういうつもりで千宏とハンスをここに送り込んだのだろうか。まさか住所を間
違えたということもないだろう。
 昔はここに医者が住んでいたのだろうか? 猫の寿命は異常に長い。五十年前をつ
い最近だと語るのだから、そんなことがあっても不思議はないのかもしれないと、千
宏は内心嘆息した。

 元が穀物倉庫であったという言葉通り、巨大な大扉を抜けて建物の中に入ると、そ
こにはただただ広大な空間が広がっていた。
 部屋の左右にいくつか見られる扉は、それぞれ休憩室や管理室、副次的に利用され
ていたのであろう小規模な倉庫などに繋がっており、それら全てが今ではただの遊戯
室や寝室になっているとトラは楽しげに説明した。
「ようこそ我が城へ。まずはこの重たいのをどうにかしよう。ささやかだが客間があ
る」
「客間?」
「盗賊にだって客はあるんだぜ?」
 怪訝そうに聞き返した千宏に、トラはどこか嫌そうに言い返す。
 ハンスを肩に担いで言われるままに小さなドアを開けると、なるほど確かに、そこ
には簡素な客間があった。
 ベッドとテーブルセットがあるだけのつまらない部屋だが、体を休めるには十分に
事足りる。
 ハンスの体をベッドに横たえ――と言うより放り出し、千宏は窮屈そうな服のボタ
ンを外して所々黒く焦げ付いた体毛を見て顔を顰めた。ハンスの腰のバッグから、ト
ラヤキが目だけ出してじっとハンスの様子を伺っている。
 トラヤキも一緒にトラップにかかったはずだが、こちらはなんの怪我もしていない
ようだった。皮製のバッグの中に入っていたので、影響が及ばなかったのだろう。
 いつもならばバッグから飛び出してきて、ハンスの胸の上でぽんぽんと飛び跳ね始
めるところだが、トラを警戒しているのか身じろぎ一つしなかった。
「本当に大丈夫なの?」
「ネズミのジジイだってピンピンしてただろうが」
「そりゃまあ、そうだけど……」
「つーかよ、おまえさん、イヌより自分の心配した方がよかねえか? ボロッボロじ
ゃねぇか。それにその顔の傷」
「顔?」
 何のことかと聞き返してからはっとして、千宏は頬に手を当てた。馬車から放り出
されたり、ハンスに投げられたりで、ガーゼがいつの間にか剥がれ落ちていたらしい。
 自分ではどういう状態になっているか確認は出来ないが、顔の傷も含め、トラが眉
をひそめる程度にはひどい状態らしかった。
「またざっくりと抉れたもんだなぁ。ネコと殴りあったのか?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっと事故があって……。ここにくれば医者に会え
るって紹介されてきたんだけど、盗賊は医者じゃないもんねえ」
 突然、トラが足を止めた。釣られて千宏も立ち止まり、複雑そうな表情を浮かべて
いるトラを見上げる。
「……ヒト商人の紹介か?」
 千宏はあからさまに顔を顰め、警戒心をあらわにしてトラを睨み付けた。
「なんであんたが――」
「ああ待て! 待て待て警戒するな、ちゃんと説明する! するから!」
 詰問しかけた千宏の声を、トラが慌てた様子で遮った。千宏をトラだと信じている
からなのだろう、この男は千宏の機嫌を損ねたくは無いらしい。
 理由は明白だった。トラの男は、トラの女に拒まれたら手を出せない。盗賊までも
がその理念の中で生きる物かは知らないが、この男がマダラである以上、実力行使に
出ようとしても血みどろの死闘に発展することは目に見えていた。
 あくまで、千宏が本物のトラ女であるのならば――だが。
 警戒心を緩めず、険しい表情を崩さない千宏に対し、トラはどこか居心地悪げに耳
を伏せてぽつぽつと喋りだした。
「俺は盗賊だからよ、商人の馬車を襲うわけだ。普通はこっちの街道に来た馬車を狙
うんだが、たまーに出張して、猫の道の馬車も襲うことがあってな」
 猫の道とは、察するに有料街道のことだろう。千宏はますます眉間の皺を深くして
トラを睨んだ。
 その道を通れば絶対に安全であるから、商人たちは金を払ってまで有料街道を使う
のだ。であるにもかかわらず、有料街道にまで盗賊が出没してしまっては、その道の
利用価値は著しく低下する。商魂逞しいネコが、そんな馬鹿を許すわけが無かった。
少なくとも千宏ならば、盗賊を使ってまで道の価値を高めておいてその盗賊に道の価
値を下げさせるような真似はしない。
「そんな目で睨むなって。ちゃんと分かるように説明するから。だからよ、ネコにと
っても目障りな商人ってのがさ、いるだろう? 税金を誤魔化しているとか、売っち
ゃいけねぇ物を売ってるとか。そういう商人の馬車が特定の時間に、特定の場所を通
るって情報が時々ふらっと届いてな」
「情報? って……誰から」
 トラは首を傾げる。
「まあ、役人だろうなあ。直接顔は出さねぇが、手紙がふらっと舞い込むんだ。で、
その手紙に書いてある場所と時間だけは猫の道でも警備が甘くなって、馬車が襲われ
ても誰も気が付かないし、駆けつけない」
 千宏は何度か目を瞬き、わずかに口を開いてすぐさま引き結んだ。
 言うべき言葉が見つからない。
 それはつまり、つまり――だ。
「役人の不利益になる商人を、役人の命令で襲ってるって事?」
「命令ってわけじゃねぇよ。その手紙は別に無視してもいいんだ。ただ……わかるだ
ろ? そういう馬車は襲うと美味しいんだ。あこぎに儲けてる奴らがほとんどだから
積荷はいいもんばっかだし、生かして返すなんて制約も無い」
 ネコの国に来て随分と経ったと思うが、ここまでこの国に倫理観を疑ったのは始め
てである。悪徳商人を排除したいという気持ちは理解できるが、証拠を掴んで捉える
ことが出来ないからと言って盗賊に殺させるのはさすがに少々行き過ぎている。
 消される可能性を知っていながら悪徳に手を染める商人たちも、度の過ぎた拝金主
義だとは思うが――。
「それで、四日くらい前にヒト商人を捕まえてな」
 言って、トラはあからさまに顔を顰めた。何度か口を開きかけ、言うべき言葉に迷
うようにすいと視線を床へと逃がす。
「酷いもんだった」
 何が、どう――とトラは口にしなかったが、それでも千宏はするりと理解すること
が出来た。頬の傷に指をやり、舌の根からこみ上げてくる苦いものを飲み下す。
「で――だ。俺が奪えるような積荷も無かったし、胸糞悪いんで殺しちまってもいい
かと思ったんだけどよ。何でも欲しいものを用意するから助けてくれってあんまり惨
めに泣いて頼むんで、だったらトラの女を寄越せって言ったんだ。一週間以内に用意
できなかったら、寸刻みにして殺してやるって脅しておいてな」
 トラの女を、ネコの商人が、盗賊の住処へなど寄越せるわけが無い。それも、たか
だか一週間の短期間で。次に馬車が通ったら宣言どおり息の根を止めてやろうと、そ
う思ったのだとトラは言う。
 せいぜいそれまで怯えて暮らせば、少しは自分の仕出かした悪魔のような所業の卑
劣さが分かるだろうと。
 それなのに――と千宏に視線を投げて、トラは苦笑いと共に肩を竦めた。
「あんたが来ちまった」
「別に来たくて来たわけじゃ……」
「いや、わかってる、本当にすまん! とんだとばっちり受けさせちまったなぁ。ま
さか怪我した女に医者だと吹き込んで来させるとは……」
 思いもよらなかったんだよと呟いて、トラはへたりと耳を伏せた。それは彫像のよ
うに美しいトラのマダラがやる仕草としては少々子供じみており、懐かしい違和感を
千宏に呼び起こさせる。
「俺も治癒魔法とか使えたらよかったんだが、ああいう細かい魔法ってのはみじんも
使える気がしねぇ」
「いい医者なら傷跡も綺麗に消してくれるって言うけど、お金がなぁ……」
 できることなら、傷跡になってしまう前に治療したい。怪我ならば普通の病院でも
治してもらえるが、傷跡を消すとなると途方も無い金額を要求される可能性が高かった。
 ヒトが抱けるのならば、傷くらい気にしないという客ももちろんいるだろうが、た
とえわずかでも商売に差しさわりが出来るのは間違いない。
 ヒトを買う資金はすでに用意してあるのでそれほど切羽詰って稼がなければなら
ないということも無いのだが、生活するのにも金は要る。
 ネコの甘言になど乗らず、あのまま街の病院に駆け込んでいればよかったのだ。
「町に帰ったら、あのネコぎたぎたにしてやる」
 決意を込めて低く罵ると、トラが笑って応援してくれた。この気さくさは実にトラ
的な性格だと思うのだが、どうにもこの男には拭いがたい違和感がある。
 この世界に落ちてきてたかだか数年しか経っていないのに、トラの何を知っている
のだと問われれば答えに詰まるが、トラとはこんなにも――こんなにも、物事に融通
の利く性格をしていただろうか。
 千宏の知っているトラならば、たとえネコの軍団が襲ってくると言われたって決し
てネコの役人に隷属したりはしなかっただろう。道理を無視した頭の固いプライドと
いう物が、トラの馬鹿馬鹿しくも清々しい一面であると千宏は思っていたのだが、こ
のトラにはそれが無い。
 ネコ的である、と。トラは侮蔑の意味を込めてよく口にする。そして千宏の目の前
に立つこのトラは、まさにネコ的な性格をしていると千宏は思った。
 無論、口に出すような愚かな真似はしないが。
「そういや、あんた名は?
「変な名前だからあんまり答えたくない」
「なんだそりゃ。笑わねぇから言えって」
 千宏は小さく息を吐き、絶対に笑うなと念を押すような表情を作ってトラを睨んだ。
この前置きをしておけば、トラとしてはあり得ない本名も怪しまれずに本名として名
乗ることができる。
 偽名を名乗るとボロが出ることもあるだろうが、これならば妙な目で見られること
もなかった。
「千宏」
 短く答えると、案の定トラは驚いたように眉を上げた。しかし深くは追求せず、
そうか、とだけ言って破顔する。
「確かに珍しいが、変ではねぇ」
「ありきたりなフォローをありがとう。で、そっちは?」
「シャエクだ。お近づきの印に、いいもん見せてやるよ」
 子供のように笑って、シャエクと名乗ったトラのマダラは千宏の手を取って駆け出した。
 ちょっと、と言う間も無く強く手を引かれ、千宏も半ば引きずられるようにして走り出す。
 広い倉庫を横切って階段を駆け上がり、シャエクは足を止めずに二階に立ち並ぶ扉
の一つに勢いよく飛び込んだ。
「コウヤ! 客人だ!」
 シャエクが叫ぶ声に一瞬遅れて、千宏も室内へと転がり込む。勢い余って転びそう
になるのをどうにか堪えて、ようやくまともに顔を上げるなり千宏は息を凍りつかせた。
 窓の前に、椅子が一脚。
 粗末な木の椅子だった。そこに一人、黒髪の男が静かに腰を下ろしている。
 年は四十の半ばか、若く見ても三十はとうに越えているだろう。伸びた前髪がひど
く鬱陶しそうで、無精ひげのせいもあって正確な年齢は分からなかった。
 ひどく痩せていて、髪と同じく黒い瞳には生気がまるで見出せない。
 ヒトである。
 それが、シャエクの呼びかけにだいぶん遅れてのろのろと顔を上げた。
「俺のヒトだ。商人と会ったって事は、あんたもヒトが欲しかったんだろ? しかも、
正規の店じゃ買えねぇわけありだ。コウヤ、挨拶しろ」
 一拍。
 反応の遅い機械のようにゆっくりと口を開き、コウヤはどこも見ていない瞳で、た
だ視線だけを漠然と千宏に合わせた。
「お目にかかれて光栄です。足萎えの私に出来ることがございましたら、何なりとお
申し付けください」
「足……?」
 思わずこぼれた千宏の言葉に、シャエクはああ、と静かに頷く。
「腱が切られてるらしくてな、歩けないんだ。三年前に襲った馬車から奪って、それ
以来オレが飼ってる」
 言って、シャエクはどこか気まずそうに千宏を見た。
「あんま、面白くねぇって顔してんな。男の俺が、若くもねぇオスヒトを拾って飼う
なんざ物好きだって思うか?」
「あ、いや……あたしは……」
「割といいもんだぜ。会話も出来るし、年くってるぶん泣いて暴れるなんてこともね
ぇ。この様じゃ仕事はさせられねぇが、逃げ出すなんてこともねぇしな」
 それに、と表情を緩ませて、シャエクは千宏の耳に唇を寄せて囁いた。
「たっぷり仕込まれてる分、具合もいい。試したきゃ、今夜一緒に楽しんだっていい
んだぜ。足はダメだが腰なら動く」
 奔放なトラ女として言わなければならない台詞は、瞬時に頭に浮かんできた。だが
どうしても、なんど口を開いても喉から声が出てこない。
 きっとひどい表情をしているだろうと思った。そして事実、シャエクは凍りついた
まま一言も喋らない千宏に困惑したように眉をひそめた。
「なあ、おいチヒロ? どうした? こいつが気に入らないか?」
「ごめん、ちょっと……」
 息を吸って、千宏は逃げ出すように部屋を飛び出し、廊下の手すりに縋ってこみ上
げてくる吐き気を押さえ込んだ。
「チヒロ!」
 心配そうに駆け寄ってくるシャエクの顔をまともに見ることが出来ず、チヒロはう
つむいたままくぐもった声を出す。
「少し、具合が悪いみたい。疲れてて……見ての通り、あんまり体強くないんだ。ハ
ンスと一緒に休ませてもらってもいい?」
 事実千宏の顔色は蒼白であり、じっとりと滲んだ脂汗が切迫した体調不良を物語っ
ていた。シャエクはその様子を見るなりすぐさま千宏の身体を抱え上げ、階下の客間
へと駆け込んだ。ハンスとは違う部屋のベッドである。
 シャエクに触れられたくはなかったが、具合が悪いと主張しておいて介助を強く断
るのも不自然だ。相手は盗賊であるのだし、機嫌を損ねるのも出来れば避けたい。
 横たえられるなり毛布を引き寄せて枕に顔をうずめ、千宏は弱弱しい声で謝罪と感
謝の言葉もそこそこに目を閉じた。
 この世界に来て初めて、飼われているヒトを間近で見たように思う。
 コウヤと呼ばれた男のあの目、あの顔――昔商人の馬車で見たヒトのそれと全く同
じに見えた。恐怖も絶望もない、ただ漠然とした諦めだけがその瞳には色濃くて、と
ても正面からその瞳を受け止めることができなかった。
 コウヤが自分と同じオチモノなのか、はたまたこちらで生まれたのかは千宏には分
からない。だが誰かがコウヤを売り、買い、壊して、そして奪った。
 まるで物のように。
 奴隷であるということはそういうことだ。知識の上では知っていたし、歴史の事業
でもさんざんに聞かされた。けれど、理解できるということと、受け入れられるとい
うことはまったくの別物である。
 受け入れられると思っていた。自分はトラなのだと偽って、あの箱庭を故郷と決め
て、この世界の人間であるように振舞えると思っていた。
 だが物のようにヒトを買って――そして、自分はどうするつもりだったのだろう。
子供が欲しいと思った。それにはオスヒトが必要だった。
 だがオスヒトを買った、その後は? 箱庭に連れ帰ればいいのだろう。そもそも買
われたヒトには意思を主張する権利などないのだから、飼い主である千宏が全てを決
めればいい。そもそも「あとは自由にすればいい」と買ったヒトを放逐したところで、
彼らはまた捕まるか、死ぬかするしかないのだから、千宏と共に生きるしか選択肢が
ないのだ。
 誰かの保護がなければ、この世界でヒトは生きられない。
 だから仕方がないのだ。自分で自分の身を守れないヒトには他者の庇護が必要で、
売られているヒトは買った人間がその責任を持つべきである。ならばせめて、できる
範囲で最高だと思える環境を与え、そこで人生を謳歌してもらうのが最良だ。
 だがそれは、千宏が最も忌むべき行為ではなかったのか――。
 ペットとして保護され、甘やかされ、ただ生きることを厭って飛び出してきたのは
千宏自身だ。
 ヒトである自分が、ヒトを買って、ヒトを飼う。その行為の下劣さに、千宏は今ま
で気付かぬ振りを押し通してきた。
 自分の尊厳のため、自分の夢のため、他人の尊厳を踏みにじって自分の所有物にし
てしまうことを、社会がそうなのだから仕方がないと言い訳をし続けてきた。
 ヒトである自分が、道端ですれ違うヒトと恋愛をして結婚をすることなんて出来よ
うはずも無いのだから、売っているヒトを買うしかないではないか――と。
 事実だ。今もそれは事実であると思っている。
 だけど、だけれども――。
「……ったまんなか、ぐしゃぐしゃ……」
 金でヒトを買ってしまったら、ヒト売買の市場に賛同したことになりはしないか。
ヒトがもののように売り買いされている世界を、受け入れ認めたことになりはしないか。
 しかしそれ以外にどうやって、この世界で同族の男を探すというのだ。オチモノを
拾うのをひたすら待つなど馬鹿げている。
 理想が、現実が、誇りが、尊厳が。
 全てがひどくいびつだった。それら全てが千宏の中でぐるぐると渦を巻き、頭痛と
吐き気で目が回るようだった。
 ぎゅっと、千宏はバラムにもらったダガーを強く胸に握りこむ。
 人を安心させようとするように笑う鷹揚な彼の笑みが、今ひどく見たいと思った。

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