猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

犬国奇憚夢日記12b

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匿名ユーザー

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 ~承前


 かつて、スキャッパーから王都ソティスへと向かう街道は、国道とは名ばかりの酷い道だった。
 石畳による舗装すら行われていなかった頃の街道は、ひとたび雨が降ると通行に非常なる困難を伴うとまで王都に報告されたのだと言う。
 だが、マサミたちの地道な努力の積み重ねが功を奏した農作物の作況改善による収量の向上は、常時スキャッパーから王都方面への移出傾向になっていて、その輸送の為にスロウチャイム家の私財によりコツコツと積み重ねられた改良工事が終わった時、この街道筋は飛躍的な発展を遂げていた。

 それ故、スキャッパーから王都へ向かうこの道は、輸送産業のシンジケートだけではなく、広域商人や旅人達も使う表街道として、常に人通りのある状態になっていた。
 そしてまた、この道を通る種族はイヌだけではなく、ネコやトラなど様々な種族の旅人もここを通過して行き、本来ル・ガルでは使えない筈のネコの国の通貨セパタを落としていく。

 なぜセパタが使えるのか?。それは、年に2度通るスロゥチャイム公爵家が本来の変動相場制を無視し、常に1トゥン=25セパタの固定レートで両替し集金している安心感であった。街道筋の商店や商人宿がある意味で不安無く、また、ユーザーに対するサービスの一環としてセパタを使えるようにする事。実はそれもまた、この街道に人が集まる要因の一つであった。

 だが、大量に持ち込まれるセパタを両替するだけの原資をどうやって集めているのか? イヌの国の中でもその話題が貴族の間で盛んに取り上げられている。
 公爵家は手のうちを全くと言って良いほど見せていない事もあって、ますます訝しげに眺められる事も多い最近なのだった。

 だが、見せてないのではなく、見せていても、何処の貴族もそれを信用しないと言うのが実態に近いと言っても過言ではない。

 ・・・・何処かでスロゥチャイム家に保護されたヒトの男は、ヒトの世界をまたに駆けるファンドマネージャーだったらしい。

 ルカパヤン経由でネコの国へ送り込まれたそのヒトの男はルカパヤンのからの投資と言う形でスロゥチャイム家が集金したセパタを原資に、ネコやキツネやその他の種族も入り混じるシュバルツカッツェの証券市場でマネーゲームを繰り広げているらしい。

 そこから生み出される莫大な資金は都市国家ルカパヤン建設の原資となり、また、様々にマネーロンダリングされ消毒された資金は、ルカパヤンの穀物市場で買い付けられる膨大な食料の支払いに充てられ、飢えるル・ガルを喰わす為に使われていた。
 また、それだけでなく、様々な形でイヌの国から流出していくトゥンをネコの国の市場内で回収し、それを使ってルカパヤンの行政自治府が雇うイヌの国からの出稼ぎ労働者の給与支払いに充てられている。送り込む労働者の管理はスロゥチャイム家が一括して行っている形にすれば、公爵家が街道で集めたセパタは数倍の規模になって公爵家へと帰ってくる。

 マサミとカナの残して行った意識改革の根幹。有能な人材を、その才能を生かす形で取り立てて戦力にする。身分格差を乗り越える事を良く思わない人間は一方的に取り残されていく。経済の進展は様々な古典的かつ封建的な身分階級を破壊する威力を持っている。

 ヒトの世界から来た者ならば、誰でもそんな事は常識だ。

 発想の転換と攻めの経営。そして、積極的な人材の教育と登用。それまでの身分制度とイヌ種族内部での種族間区別を無視した、斬新な政策。平民出の雑種やマダラが行政機関の長を勤めるなど、それまででは考えられない事だった。

 長らく続く封建的な制度と凝り固まった常識意識にどっぷりと使った地域が、もはや改善不能なほどに制度の硬直化を招き、そして経済的にどんどんと凋落していく中、かつてル・ガルでも最下層の地域だった南部14群はスキャッパー地方を中心にもはや別の国家と言っても通用するかのような繁栄を手に入れている。

 ただ、それを受け継ごうとしているイヌは、馬車の中で退屈を持て余している・・・・・

「そろそろ馬車も飽きてくるな・・・・」

 立派な4枚ドアの大型馬車に揺られる公爵の一行。
 いつの間にか馬車は王都の都市圏へと歩みを進めていた。

 長い手足を窮屈そうに折りたたんで優雅に澄ましているつもりのアーサーなのだが・・・・
 折りたたみの窓を開けて、子供の様に顔を出し風を浴びる。

「アーサーさま?お行儀が悪いですよ?」

 アーサーと並んで座るスロゥチャイム公爵の向かいの席。
 上等な衣装に身を包んだ、まるで人形の様なマヤがそっと諌めた。

 深い藍色のワンピースに真っ白い雪のような襟飾りと袖飾りをカフスで止めたマヤ。
 母譲りの艶やかで豊かな黒髪には、まるで雲の冠のようなオーナメント。
 豪華なレースのフリルがついた飾りエプロンは母カナも使っていたものだ。

 閑を持て余してると察したのか、マヤはバスケットから新鮮な桃をいくつか取り出した。
 母の形見でもある飾りエプロンが汚れないように、作業用のエプロンを膝に重ね、揺れる車内で器用に皮をむき始める。

 その繊細で流れるような指先の動きに、アリス夫人は目を細めた。

 もうすっかり昔の事になってしまった遠い日。
 アーサーやヨシたちを連れて郊外へと向かっていた揺れる粗末な馬車の中。
 笑顔のカナが器用にリンゴの皮を剥き、閑そうにする子供達に食べさせてたのをアリスは思い出した。

「カナの娘はやっぱりあなただけね」
「え?」
「リサもミサもそれは出来ないわよ。多分あなただけ」
「そうですか・・・・」

 ちょっと潤んだ瞳で笑うマヤ。
 剥きあがった桃をいくつかに切り分けてフルーツフォークを沿え、笑顔と一緒に差し出す。

「きっと母がやっていた事を私が一番見ているからでしょう。どうぞ」
「そうね・・・・」

 小さなボウルの中に納まる桃を食べながら、アーサーの目はマヤの細くて華奢な指先を追っていた。

「リサもミサも私が育てたようなものだから。ヒトの育てたヒトの娘はあなただけね」
「・・・・言われてみればそうかもしれません」
「あの娘(こ)達はヒトの姿をしたイヌに育ってしまったのかも知れないわね。かわいそうな事をしたわ」

 ちょっとショッキングな事をさらりと言って。
 アリス夫人の目は馬車の車窓遠くに注がれた。
 高い山にはまだ雪が残るものの、平地はすっかり初夏の空気だ。
 白く煙ったような見通しの悪い大気と、やや湿った生暖かい風。

 家並みの隙間には渇いた畑。芽吹いた作物の幼い若葉が直射日光に焼かれている。
 もうすぐ霧の季節が来る。海の恩恵が無い内陸部にも届く大量の湿った空気がこの地方の水源でもあった。

「あの雪解け水を集めて引っ張ってくる水路があればなぁ・・・・・」

 ボソリと呟いたアーサー。
 だが、雪解け水が大量の伏流水となって地下を流れている事を知らぬわけでもない。
 いくつもの巨大な風車を動力源として、24時間くみ上げ続ける膨大な地下水は、この辺りの都市圏水需要をまかない、それだけでなく、農業用水でもあった。

「あなたたの生き世のうちにそれを作りなさい。きっと名前が残るでしょうね」
「俺の名前か・・・・ 王都に名前が残るなら頑張る甲斐はあるな」

 ふと、すれ違う馬車に揺られる乗客と目が合ったアーサー。向こうの馬車にもヒトの姿があった。
 もごもごと桃を食べつつ、アーサーはマヤを見た。イヌと比べヒトの寿命は短い・・・・

「なぁマヤ。お前の亭主はどんな男が良いか考えた事はあるか?」

 唐突に話を振られ、マヤは一瞬口ごもる。
 アーサーの悩みはすなわち。かつて母アリスや父ポールが散々気を揉んだことだ。

「・・・・考えた事は・・・・ない ・・・・です ね」

 桃の入ったボウルを持ったままマヤはちょっとはにかんだ。
 僅かに顎を引き、そして左へとふる。
 上目遣いの眼差しがアーサーに注がれるのをアリス夫人が笑ってみている。

「その仕草はカナにそっくりだわ」
「娘ですから」
「そうね。そんな眼差しでポールが見つめられて、昔はよく困っていたわよ」

 フフフ・・・・
 上品に笑う姿は本当に人形の様でもある。
 だが、熱い夜のひと時を知るアーサーにとっては、マヤの見せるもう一つの一面に戸惑うのも事実。
 潤んだ瞳でジッと見つめられれば、男の本能がムクリと膨れ上がって、グッと硬くなっていくのを抑えるのは難しい。

「本当の事を言えば、わたしはアーサーさまのお嫁さん志望でしたけど・・・・ でも・・・・」
「イヌとヒトは違うから。あなたも私も立場が違うだけで同じ悩みね」
「ですからせめて。もし私が結婚するなら、アーサーさまの様な男性と。そうおもいます」

 不意に向けられた刃のような言葉にアーサーがうろたえる。
 無防備にぶつけられる本音は、どんな言葉よりも威力があった。

「俺のように・・・・か。 で、それは実際どんな男だ?」
「そうですね」

 どこか値踏みするような眼差しが容赦なくアーサーに注がれる。
 その眼差しが純粋で純情で、そして、手を伸ばしても届かぬ憧憬で。
 例えそれが何であれ、主としては全て受け止めなければならない。

 なんとなく理解したつもりになっていた事なのだが。
 アーサーにとっては試練でもあった。

「無鉄砲で大雑把で破天荒で。でも、強くて優しくて。う~ん・・・・ 父のようでもあって・・・・」

 ジッと見つめながら嬉しそうに語るマヤの笑顔。
 アリスはそれがどこか懐かしくて。

 そしてそれがマサミの妻カナの眼差しであったと思い出した。

「父ね。それは理想像としての父親?それとも」
「えぇもちろん。そうですよ、父です。父の背中はいつも大きかったです」

 ニコッと笑うマヤを見ていたら、遠い日にマサミの跨る馬の鞍の上で、マサミに抱き付いていたマヤをふと思い出した。
 息子にとって母親は特別な存在であるように、娘にとって父親は特別な存在である。

 そんな事はアリス夫人にとっても、ある意味で常識以前の事柄であった。
 戦死した兄たちに剣を教えていた父ジョン・スロゥチャイムの凛々しい背中。
 マヤが目を閉じて父の背中をもう一度、瞼の裏に描くように。

 静かに瞳を閉じたアリス夫人は、意識を遠い日の彼方の、あの東部ミール地方の草原へと馳せた。
 幾人もの騎士を背後に従え、ジョン公はいつも馬群の先頭にあった。
 すぐ後には優しかった兄たちがいた。

 真っ赤なビロードの馬上マントを翻し、大きく立派なこしらえの大剣を腰から下げて。
 鼻筋の通った面長の顔立ちと、やや小さくて円らな瞳。
 眉間のやや上に白くワンポイントが入っていたのは、ジョン公の識別点の一つだった。

 そしてその特徴は、息子アーサーに受け継がれている・・・・

「アーサー。あなたのその眉間の白は・・・・『お爺様の自慢の白・・・・ですよね』

 アリス夫人の指先がアーサーの眉間に伸びる。
 その仕草は、マヤの母カナの手が兄ヨシヒトの髪を揃える仕草にも似ていた。

「親子ってきっと似るんですね。どんなに違う命だって思っても。やっぱり似るんですね」

 呟くようにして窓の外に目をやったマヤ。
 なにか凄く大切な物に気が付いたような、そんな妙な満足感を覚えている。

 それぞれが思い思いに大切な記憶を確かめるように。充足した記憶の海を泳ぎながら、でも、どこか侘しげな。
 そんな沈黙が馬車の中を漂っている。そしていつの間にか、馬車は王都の中心部へと舳先を向けた。

 初夏の陽気に包まれる王都の中央地区。
 高い城壁に囲まれた巨大な城塞都市は幾つかの門が設置されていて、しかも、城内を何段階かに区切る区画分けのそれぞれに、また小さなゲートが設置されていた。

 基本的に城内の移動や往来は自由だ。
 だが、それぞれの大通りや商店街と言ったブロックには、細かく営業許可時間や往来の自由を認める時間が書かれている。
 肥大化した官僚組織による膨大な規制法令により雁字搦めになっている城下の人々。

 アッパータウンの華やかな空気や官庁街のお堅い雰囲気。
 道を行く人々になんとなく生気が無いのは、暑いからと言う訳では無さそうな気がする。
 そして、ダウンタウンの中は、なんとも殺風景で殺伐とした空気だった。

 城内を流れる川を挟んでダウンタウンと対峙するのは、王都の貧民街。
 川沿いはまだ多少何とかなってそうな者たちのバラックや掘っ立て小屋があるものの、その奥には崩れかけた公的施設や手入れされぬまま放棄された住民サービスの為の施設に身を寄せる文字通りの乞食たち。

 鼻に付く饐えた刺激臭は、川のほとりの空気がそうさせるだけじゃ無さそうだ。
 下水もし尿の汲み取りも。ゴミの収集や当てなく斃れた者の亡骸の収容までも。
 最低限の住民サービスですらも放棄されたこの世の事象の地平の・・・・その果て。

 彼らの視線が注がれる先は、王都東側にある巨大な食糧倉庫群だ。
 常に近隣の高級貴族らが支援する上等な装備の機動師団や銃兵師団により土嚢のバリケードが築かれ、貧民や喰い詰め者達の暴動に備えている。

 都市部のおよそ400万を越える人口に対し、供給される糧秣類の供給量はトータルで80%を割り込みかけていた。
 まだ多少は生活力があったり資金力がある者であれば、食べる物を買い求め生きていくことは割と容易い。
 だが、体を壊したり、或いは病に倒れたり。
 日々を生き抜く力を失った者たちにとっては、この街の現実は厳しいを通り越している。

 中心部の乗合馬車が出る駅逓の辺り。
 道行く大人のズボンの裾を掴み、お乞食(もらい)をせがむ孤児の子供たち。
 だが、そのせがむ相手の大人達ですらも余裕のある訳でもなく・・・・

 細い路地の奥から湧き上がるように出てくるハエの大元は・・・・・
 考えたくも無い事がここにはあるのだった。

 栄える街と滅び行く人々。本当に一握りの者たちが繁栄を謳歌する一方で、約半数を占める貧民は餓えと渇きに耐えて夜を超える。
 まったくもって制度硬直化し、自らの責任回避の為だけに生きる政治システムの生んだ、逃れようの無い現実。

 ル・ガルの限界はもうすぐそこまで来ていた・・・・・・・・

    ―― そこの馬車!

 スロゥチャイム卿の乗る馬車は中央街の入り口で王都の警備を担当する近衛師団に停められた。御者はゆっくりと馬車にブレーキを掛け速度を落とす。それと同時に怪訝な目線を若い兵士に送ったのだが・・・・・

    ―― 素直に従わんと身のためにならんぞ!

 高圧的な口調でヘラヘラと笑いながらやってくる兵士達。
 だが、あと数歩で馬車と言うあたりまで接近したとき、彼らは自らの行いに戦慄した。

 豪華な馬車を牽く4頭の馬は何も知らぬように水を欲しがっている。
 御者台から降りたドライバーは兵士達に全く構わず、荷台から水桶を取り出して水を飲ませはじめた。

 馬用の水桶すら上等な拵えの大きなものだ。
 そこらの安貴族とは次元が違う・・・・・

 御者は大げさまでに恭しい姿勢で馬車の扉を開けた。
 車内から送られてくる目線の厳しさに兵士達がその場で直立不動になる。

 だが、不機嫌そうに馬車から降りてきた公爵はそれを横目に眺めながら、大きな声で担当者を呼びつけた。

「隊長をここへ。一体どういうこと?分かるように説明なさい」

 尋常ならざる不機嫌そうな雰囲気に近衛師団の若い士官は飲み込まれている。
 部下の兵士たちが小銭欲しさに暗黙のリベートを要求するべく、ちょっと豪華な馬車を停めた。
 しかし、降りてきたのはよりにもよって公爵家の現頭首だった・・・・

「もっ 申し訳ございません公爵様」

 平身低頭に頭を下げて赦しを請うているのだが、少なくとも目の前のイヌはそんな事をする雰囲気じゃない。なんだなんだと集まってくる野次馬たち。暇を持て余している奴らが突っ込んでくる首は、大概碌な事にはならない。

 どっこらしょ・・・・

 そんな掛け声が聞こえてきそうな雰囲気と共に、馬車の中から一際大きな体をしたイヌの男・・・・ アーサーが降りてきた。馬車の中ではマヤが事の推移を楽しそうに見守っている。

「んで、一体全体、なんだってんだよ」

 険悪な空気を漂わす公爵のすぐ脇に立って、集まった野次馬たちへ視線を一巡り流して。
 どこか『暇つぶしにちょうど良いか・・・・』とでも言いそうな空気で。
 長い手足を曲げたり伸ばしたりしながら、アーサーは大きく深呼吸した。

「なんか臭うな。いつから王都はこんなに臭くなったんだ? 無能な野郎どもの放つ使えねー臭がひでぇな」

 白黒ブチの若い士官がジッと言葉攻めにも耐えて頭を下げていた。
 光を浴びてマホガニーレッドに輝く耳の毛をボリボリと弄りながら、アーサーはそれを見下ろしている。

 だが・・・・

「なっ なんか・・・・ くださ・・・・・」

 ふと気が付くとアーサーのズボンの裾をどこかの孤児(ガキ)が引っ張っていた。
 薄汚れた顔と痩せ細った手が痛々しい。
 体を覆う部分よりも穴の開いた部分の方が大きい服を着て。

 艶の無くなった体毛と乾ききった鼻先。
 もう何日も何も食べていない・・・・

 そんな姿だ。

「おい。お前だ」

 おそらく最初に公爵の馬車を停めたであろう若い兵士がアーサーに呼び止められた。
 つい出来心でやったとは言え、冗談で済むような相手ではない事を瞬時に理解したようだ。立っているのが精一杯と言った風に震えているその兵士。

 アーサーは傲岸不遜な態度で手招きした。

「仮にも俺は軍本部付きの将校だぜ? 呼んだらすぐここへ来い」

 着ている軍服の飾りボタンがカチャカチャと賑やかな音を立てるほどに震え上がった兵士。
 仲間たちから押し出されるようにして一歩前へ出たその青年が恐る恐るアーサーを見る。

「なにガタガタ震えてやがる。そんなんじゃ戦で役に立てねーな。シャキッとしろ!シャキっと!」

 無造作に上着の内ポケットへ手を突っ込んだアーサー。
 その仕草は懐から拳銃を取り出す姿そのものだった。

 若い兵士の顔に一瞬浮かんだ絶望の表情。
 あぁ、俺は今日ここで死ぬんだ・・・・
 そんな諦観の笑みがうっすらと浮かび上がっていた。

 だが

「あそこに見えるのはパン屋か?」

 アーサーが指差したところには小さなパンの看板があった。

「誰か答えろ」

 だが、その場は静まり返っている。

 チッ・・・・

 舌打ちしたアーサーがポケットから出したのは小さな皮袋だった。
 軽く振れば中から聞こえるのは金属同士がぶつかり合う賑やかな音。

「マヤ」
「はい」

 唐突に呼ばれたマヤが馬車から降りてきた。
 王都の大衆から見てもヒトの付き人などあまり見るものじゃないようだ。
 取り巻いていた野次馬達の間から小さなどよめきがおきた。
 物珍しげにジロジロと見られ、マヤは少し恥ずかしそうだ。

「これで買えるだけパンを買ってきてくれ。わかるな?」
「はい。承知しました」

 アーサーから皮袋を受け取って歩き出そうとした瞬間。
 その肩にアーサーの手が伸びた。

「ちょっと待った」

 振り返ったアーサーが先程の若い兵士をもう一度呼んだ。

「おい、今からお前にチャンスをやろう。うちのヒトの女があそこへ買い物に行く。行って帰ってくるまでに何かあったら貴様の首は俺が撥ねてやる。が、無事に帰ってきたら今日の事は無かった事にしよう。どうだ?」

 迫力ある声音でそういったアーサーだが、若い兵士は心ここにあらずな状態でまだ震えていた。
 見るに見かねてずっと頭を下げていた若い士官が声を掛ける。

「あの、小官が変わりに・・・・『お前には言ってない』 失礼しました!」

 頭を下げ続ける士官の声がより一層細くなった。

「あっ あの・・・・ その・・・・」

 ガタガタと震える若い兵士がやっと声を絞り出した。

「なんだ」

 目を白黒させて震える兵士が、上官たる士官へ目をやった。

「たっ 隊長の・・・・ しっ 指示を あっ 仰ぎたいのですが よっ よっ よっ 宜しいでしょうか?」

 チッ・・・・
 聞こえるように舌打ちして、アーサーの視線が兵士から士官へと流れる。

「おい、そこの大尉」
「はっ!」
「上手くまとめろ。ぬかるなよ」
「承りました!」

 小隊!複列縦隊!整列!

 はきはきとした命令に近衛連体の若い兵士たちがサッと動いて、野次馬に集まった人の列を割って伸びた。
 パン屋の方へ向かって、まるでモーゼの十戒のように人ごみが割れる。

「マヤ、いいぞ」

 マヤがコクリと頷いてそのイヌの縦列の真ん中を歩いていった。
 野次馬が手を伸ばしそうになるのを、若い兵士たちが蹴り上げるようにして防いでいる。
 上等なワンピースの長い裾がヒラヒラとなびく程に大股で歩いて行ったマヤ。
 愛想笑いを振りまいてパン屋の中に消えて行った頃、地域を担当する警備責任者が慌ててやってきたのだった。

    ―― 公爵さま・・・・

 血の気の引いたイヌの士官と並んでお詫びの言葉をダラダラと並べる担当者。
 スロゥチャイム公爵が厳しい口調で叱責しているのを、アーサーは横目で眺めている。

 ややあって、両手に抱えるほどのパンを持ってマヤは帰ってきた。
 幾人かの若い兵士がその後に続き、リアカー一杯にもなるほどのパンを持っていた。

「あるにはあるんじゃない。食べるものが」

 言うだけ言った後で不機嫌そうに黙っていた公爵がやっと口を開く。

 マヤが持っていた紙袋の中にあるパンを一つ取り出して、その臭いを確かめ、小さくちぎって口に運ぶ。

「うん。まともね。で、これをどうするつもり?」

 アリス夫人の問いかけにアーサーもまたパンを一つ取り出して答えた。

「まぁ、焼け石に水だろうけど・・・・ しない善よりする偽善。先代執事はそのように教えてくれました」

 ニヤッと笑った口元には、どこか悪巧みとも思える意地悪さが垣間見える。

「よーし!小僧どもはここに整列!順番を守らない奴は無しだ!小さい順に一列に並べ!」

 パンをポンポンと右手でもてあそぶアーサーが号令を掛けると、孤児や浮浪児たちがアーサーの前に並び始めた。

「一人2個ずつだ。他人のパンを盗む奴と順番を守れない奴は街から放り出すぞ!」

 一番前に並んでいた見るからに幼い子供が、薄汚れた手でアーサーからパンを貰った。
 その子供は行儀よく頭を下げてありがとうと言った。
 アーサーはその子供を呼び止めた。

「坊主。あすこの兵隊の隊長はいつもどうしてる?」
「威張ってます。凄く怖いです。いつも棒で叩かれます」
「そうか。わかった」

 もう一度お辞儀をした子供がおいしそうにパンを齧りながら歩いていった。
 2番目の子供もまた泥に汚れた手でパンを貰った。

「あいつはいつもどうしてる?」

 アーサーの指差した先は、やはり同じ近衛師団の警備隊長だった。
 小さな目がジッと睨んだ後、アーサーに向き直って言った。

「仲良しだった子はあいつに蹴られて死んじゃった!」

 そうかそうか・・・・ 
 うんうんと頷いた後で、同じようにお辞儀をして謝意を述べ、どこかへ消えていった。

 そんな事を繰り返しながら何十人と言う子供たちがパンにありつき、そして近衛師団の隊長の普段の悪行を洗いざらいしゃべって言った。

「さて、じゃぁ・・・・」

 腕を組んでその話を聞いていたスロゥチャイム公爵はすっと差し出した右手の指だけでその隊長を手招いた。
 目を見開き耳をワナワナと震わせて屈辱に耐えていた大尉だが、ふと公爵に呼ばれたことで嫌でも現実に引き戻されたようだ。

「申し開きがあったら先に聞きましょうか。近日、枢密院会議が開かれるからそこで議題に載せ稟議します。それなりの沙汰が来るつもりで居なさい」

 まるで温かみを感じない冷ややかな視線が大尉と警備責任者を貫く。
 どれ程震えても、もう手遅れだ。

「公爵様・・・・ どうか、寛大な御処置を賜りたく・・・・」 

 震え上がった大尉が懐から取り出したのは、かなり膨らんだ財布だった。
 街の様々な顔役から賂を巻き上げているのだろう。
 警備主任の権限を盾にやりたい放題やってきたんだろうが・・・・

「で、幾ら包むって言うの?はした金じゃ受け取らなくてよ」

 ここで賄賂は効きそうに無い・・・・
 おそらくこれまでは現金で乗り切ってきた部分もあるのだろう。

 だが、実際目の前にいるのは他の貴族など話しにならない財力の持ち主だ。
 手詰まり感から来る絶望感は如何ともし難かった。
 表情に浮かぶ絶望の色は、生を諦めし者の笑みにも似ていた。

「そうね。少々もらった所であなたはまた他から巻き上げるのでしょう?立場を利用して幾らでも。そうなったら私が恨まれる。そうじゃなくて?」

 腕を組み、冷たく高圧的な口調で攻め続ける公爵。
 直立不動で事の推移を見守る周囲の一兵卒達もまた、青褪め震えている。

「数日中に当家の次期領主をここへ視察に送り込みましょう。それまでにあなたとあなたの部下達が心を入れ替えて、恵まれぬ住民へ公僕として奉仕の精神を持って友愛に善処するならば、今回の件は不問にしましょう。ただし、それが見られなければ・・・・」

 スロゥチャイム公爵の女主人は通りに群がった民衆を一瞥し、再び鋭い視線を隊長へと突き刺すように向けた。

「北の外れの国境地帯なんかに単身赴任も良いんじゃないかしらね」

 おそらく。
 彼は今の今まで出世コースを歩んできたのだろう。国境警備隊など冗談じゃない。

 掘っ立て小屋レベルのあばら家で吹雪に耐え、孤独に耐え、定時連絡だけをして。
 あとは麓からの薄い魔洸電波を何とか拾うレベルの映像通信機での大して面白くも無い娯楽放送だけを見て眠るだけ。

 稀に温泉付きの所もあるそうだけど、そう言うところはきっと強いコネのある人間が優先的に送り込まれるんだろう。使い古した雑巾色の雑種のイヌがすっかり着崩れた制服を着て、ヒトの親子の使用人を引き連れ警備所に帰っていく姿を若い頃に何度か見ている。
 どう見たって賂か、さもなくば上からの配慮としか思えない。

 事実上の左遷で送り込まれる様な警備詰め所など、どうせ高い山のてっぺん辺りにあるような、本当に酷い所だ・・・・
 そして、大概そんな所は命知らずなオオカミの男たちが仲間同士の武勇争いを兼ねて喧嘩を売りにやってくる。

「こっ 公爵さまの寛大なご処置に感謝いたします。心を入れ替え必ずやご期待にお応え出来ますよう善処いたしますので・・・・」

 取り繕ったようなおべっかの言葉を吐いて慇懃に頭を下げた大尉。
 つられるようにして地域警備主任のイヌも頭を下げた。

    フン・・・・

 ひとつ鼻を鳴らして鬱陶しそうに視線を切ったアリス夫人。
 僅かに中を彷徨った視線が落ち着いたのは、パンを配り続ける息子アーサーだった。

 嬉しそうにパンにありつく子供たち。
 ボロボロになった衣服を身にまとって、幾日も風呂に入ってないと見られる汚らしい脂まみれのイヌの大人たちも、拝むようにしてパンにありついている。

「あれは画期的なことだったのね・・・・」

 すっかり遠くなってしまった昔々の日々。
 まだ小さな建物だった紅朱館の前で、若々しいマサミが一人ずつ名前と年齢を聞き、それをメモしながら配っていた皿一杯のスープを、公爵は思い出していた。

 第2部 了

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