猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

続虎の威05

最終更新:

jointcontrol

- view
だれでも歓迎! 編集

続・虎の威 05

 
 シャコ男の言葉どおり、翌日、船は問題なく出港した。
青々とした海を真っ白に泡立てながら、大型の蒸気船に寄り添うように中型の帆船が海を滑る。
 みんなネコの国に行くのだとカブラは言った。
 蒸気船は貿易船で、大陸をぐるぐると回るようにして次々と積み荷を代えて海を旅するのだと言う。
 千宏たちは蒸気船と帆船の列から離れたはるか後方をのんびりと進む、定員五十名程度の小型帆船に乗船していた。
 船室と呼べるような物は無く、船内で寝転がったり、甲板で椅子に座ったりと、みな思い思いに過ごしている。
 船団の方には様々な種族が乗っているように見えたのに、この船に乗っているのはトラばかりで、ハンスだけがその中で異様に浮いていた。
「あたしたちもネコの国に行くの?」
 狩に行く――という話を聞いただけで、千宏は正確な目的地を知らなかった。
 船内の売店で買った正体不明の果物を弄繰り回しながら、千宏は長々と寝そべっているカアシュに問いかけた。
「いんやー? この船は途中で船団と別れて、ちーっこい港に行くんだ。そこはまだトラの領地で、ものすんげーど田舎なんだけど、その先に遺跡があるんだ」
「遺跡?」
 問い返すと。カアシュは意外そうにヒゲをひくつかせた。
「そうか。チヒロは知らねぇのか。えーとな。古代遺跡ってのがあってな、そんなかはトラップだとかなんだとかがごっそりあって、でもお宝もごっそりあるんだ」
「おたから?」
「何に使うのかもよくわからねぇ、超技術の集合体らしいんだけどな。まあ俺たち一般人には関係ねぇ話だ。俺たちに関係があるのは、遺跡がある森の方でな」
「ああ。狩だもんね」
「遺跡がある森は領主を跳び越して国の管轄になってな、立ち入りが制限されるんだ。遺跡は危険だし、あらされても嫌だろ? でも、遺跡の周辺ってのは珍しい動物が多いんだ。だから遺跡に立ち入らない事を条件に、トラにだけ狩猟が許可されてんだ。まあ、許可は取らないといけないんだけどな。俺達は許可証があるから、年に一度一定期間だけ森に立ち入りが許可される。俺たちが同行してれば、別にトラじゃなくても森には入れるんだけどな」
 言って、カアシュはその許可証とやらを見せてくれた。
「――なにこれ? カフスボタン?」
 カアシュが差し出したものを見て、千宏は目を瞬かせた。
 不思議な色合いの不透明な石が、小ぶりのカフスボタンに埋め込まれている。
「そう。俺はカフスボタンにしてるけど、カブラはペンダントで、ブルックは腕輪にしてる。この宝石が許可証なんだ」
「へぇー。そうなんだ。おもしろいねぇ」
「遺跡の周辺にはトラップが仕掛けてあって、この石を持ってないとそれが発動してえらい目に会うんだ。だから制限区域の中ではみんなこの石を持ってる。同行者は制限区域の入り口で、番兵から臨時でこの石を借りるんだ」
 言って、カアシュは再び大事そうにカフスボタンを鞄の奥にしまい込んだ。
「それってさ、あたしも中に入れるの?」
「おう。俺が同行者だって紹介すりゃあ、簡単に入れるぜ?」
「入ってみた――!」
 ガッシと、力強くカアシュの頭を掴む手があった。
 ぬっと後ろから顔を出し、背筋も凍る悪人顔が冷えた目つきで千宏を睨む。
「……カアシュ。ちょっと、面かせや」
「か、カブラ……!? ち、ちが……違うんだ! 俺はただ……! 別に……! そんなつもりじゃ……!」
 つつ――と、カアシュの額から細く血の筋が延びる。
 カブラの鋭い爪の先端が、深々とカアシュの額に突き刺さっていた。千宏だったら確実に死んでいる深さの傷である。
「チヒロ」
「ひへぁ!? いえ! もちろん入りたくなんかないですよ! 森の奥とか入りたがるなんてアホですよ! 虫に刺されるしね! 興味ない興味ない!」
「……そうか。ならいい」
 釘を刺すような視線を残し、カブラがカアシュの頭を掴んだままずるずるとどこかへ引きずって行く。
 カアシュはじたばたと手足を振り回した。
「ごめんカブラ! ほんとごめん! 反省してる! 本気で! ああブルック丁度よかった助けてくれ! っておい! なんだよ無視するなって! 気付いてるんだろブルック! ブルック! ブルーック!」
 そして二人は甲板へと上がっていった。
 やれやれとばかりに冷や汗をぐいと拭い、千宏は首を反らせて傍らに立つ巨体を見上げた。非情にもカアシュを見捨てたブルックである。
「騒々しいやつらだ」
自分だってよく大声で怒鳴りあうくせに棚に上げ、ブルックは二人の様子に呆れたようにぼやきながら、先ほどまでカアシュが横たわっていた場所に腰を下ろした。
「カアシュに悪い事したかな……」
「うん?」
「あたしが入ってみたいなんて言ったから、森の話をしたカアシュが怒られた」
 ああ、と頷き、違う違うとブルックは手を振った。
「あいつ一回許可証盗まれたことあるんだ」
「え? 盗まれるって……じゃ、あれ持ってたら誰でも中に入れちゃうの? 許可証取った本人じゃなくても? それとも、宝石として価値があるとか?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだけどな? 遺跡があるって話は聞いたか?」
「うん。古代遺跡だって」
「そうだ。遺跡荒らしってのがいてな、許可証を盗まれて、それがそいつらの手に渡ると、解析されて“なりすまし”をやられる事があるんだ。遺跡を狙う奴にとっちゃ、遺跡の周りのトラップもでかい難所だからな。悪くすると本来の持ち主が殺されて、完全にすり変わられちまうこともある。人目のあるところでほいほい出していいもんじゃねぇんだよ」
「ははぁ……そりゃ……大変だ」
 甲板の方で、カアシュの上げる甲高い悲鳴が聞こえた。
 ブルックは我関せずと、ごろりと寝転がって目を閉じてしまう。
 ハンスは昨夜からずっと機嫌が悪く、初めてであった時のように部屋の隅でうずくまっている。
 千宏は手にしていた果物をじっと眺め、そして思案の果てに勇気を出してかぶりついた。

***

「……どいなか」
 いつの間にかぐうぐうと眠り込んでいた千宏は、血まみれのボコボコになったカアシュという衝撃的な気付け薬で一気に目を覚ました。
 そして船から地上に降り立っての第一声が、これである。
「らからろいなからっていっはお?」
 カアシュが腫れ上がった顔で理解不能な言葉を吐く。ブルックと千宏は同時にカブラに振り向いた。
「ちょっと殴りすぎたんじゃねぇのか?」
「カアシュかわいそー」
「うるせぇ! 学習能力の無いコイツが悪い!」
「らいろーぶら。みはべほぼいばふへーんは」
 ホラー映画もかくやというありさまで笑みらしきものを浮かべながら、カアシュが未知の世界の言語を吐く。さすがにカブラも少々やりすぎたと思っているのか、頑なにカアシュの方を見ようとしない。
「とにかく宿を取らないと……それとも民宿? まさか野宿とか言わないよね」
「いや。この町には泊らねぇで、そのままイークキャリッジで遺跡の街に向かう」
 言って、カブラは重そうな荷物を担ぎなおし、のしのしと歩き出した。
「イークキャリッジって?」
「この辺にはイークっていうでかい虫がいるんだ。アホほど足が早くてな、それに車を繋いで走るんだよ」
「へー……虫……」
 フナムシの恐怖再び。ブルックの説明にそんな言葉が頭を過ぎる。
 カブラの後を追って歩き出したカアシュとブルックの背中をしばし見詰め、千宏は溜息を吐いてハンスに振り向いた。
「行こうハンス」
 ハンスは答えず、黙ったまま歩き出す。
 千宏はわずかに顔を顰め、もう一度溜息を吐いた。

 足の速い虫を想像する。
 真っ先に、黒光りする扁平なあの生物を思い出す。
 ぶんぶんと頭を振り、他の生物を想像しようと努力する。そして無駄な努力に終る。手続きのために入った建物の待合室で、千宏は一人涙した。
「なに泣いてんだおまえ……」
「ほっといて! 個人的なことなんだから!」
 ブルックの気遣いにそんな冷たい言葉を返し、ごしごしと涙を拭う。
 こんなことでめげてはだめだ。
 だが今は、心底たらい一杯に熱湯が欲しかった。
「用意できたぞ! 荷物持ってこっちだ!」
 カブラの呼び声に、千宏がびくん、と全身を硬直させる。
「あたし歩いていこうかな……」
「なにアホなこと言ってんだ。ほらいくぞ」
 ブルックが呆れたように言って歩き出す。冷たい男である。
 傍らのハンスを見上げる。やはりイヌの表情は分からない。
 今朝から溜息ばかりだ、と思いながら溜息を吐き、千宏はのろのろと立ち上がった。
 実物を見てみると、予想外に可愛らしい――などという無駄な期待を胸に秘め、そして華麗に裏切られるために。

 つやつやと黒光りする、扁平で細長い多脚生物に引かれるイークキャリッジに揺られながら、千宏は多大な精神的ダメージをこうむって真っ青になっていた。
 不気味な虫でも巨大化すればそれなりに可愛く見られるものだとよく言うが、どうやらそれは全ての生物に適応されるわけではないらしい。
 イークキャリッジの乗車部分は箱ではなくカゴ型の吹きさらしなため、座っていても風になびく触角がカブラの肩越しにちらちらと見えた。
「熱湯が欲しい……熱湯……洗剤入りの熱湯……」
 異世界の言語を話すカアシュと、宇宙と交信を続ける千宏と、一言も喋らないハンスのおかげで、イークキャリッジは混沌とした空気に満たされていた。
 虫を操る御者はさぞかし居心地が悪かった事だろう。
 しかし遠目に街を見つけると、千宏は魂の抜けた瞳に再び生気を宿し、感嘆の声を上げた。
「でぇ――けぇえぇ! なにあれ? なにあれ! 超大都市じゃん!」
 なだらかの丘をカサカサと這い登っていたイークキャリッジは、頂上につくなり眼下に広大な樹海と、それに隣接する一大都市を見下ろすこととなった。
 地平線まで延びる森の緑と、家々が立ち並ぶ文明が対照的で、互いの存在を引き立てあっている。
「ほとんどが狩人と研究者と観光客相手の宿泊施設だ。それと客相手の娯楽施設、武器屋、防具屋、飲み屋、簡易研究施設、病院。とにかく何でもそろってる」
「ここに住んじゃえばいいのに!」
「一年のうち一月しか森に入れねぇのにか? 狩が出来ねぇ間に干からびちまうよ」
「そっか。ローテンション組んでるんだ……なるほどねー。へーぇ。なるほどねー」
 正面のカブラの肩に圧し掛かり、身を乗り出して街を見る。
 ブルックの解説に仕切りに感心しながら、千宏は興奮してばしばしとカブラの頭を叩いた。
「なんで俺は殴られてんだ……?」
「役得じゃねぇか」
「そう思うか?」
「そう思うな」
「そうか」
「そうさ」
 そんな二人の会話にも気が付かず、千宏は不気味な多脚生物の存在も忘れてわくわくと表情を緩ませた。
「ここでなんか色々買って、それで貿易っていうのもいいなぁ。臨時収入でそれなりに元手もあるし」
「臨時収入?」
 不思議そうな問いかけに、はたと真下に視線を向ける。
 カブラの不審そうな蒼い瞳と目が合って、千宏は突如カブラの鼻面をひっぱたいた。
「いってぇ! 突然何しやがる!」
「るうさい! えっち!」
「お前が勝手に圧し掛かってきたんじゃねぇか!」
「うるさい強姦魔!」
「それは言わねぇってお約束ぅぉおおぉぉおぉ!」
 カブラばかりか、ブルックとカアシュまで頭を抱えて悶絶する。
 ふん、と冷たく鼻をならし、千宏は自分の座席に戻った。
 
***

「贅沢は、敵です」
 感情を失った瞳で、冷徹な鋭さを込めて千宏はきっぱりと言い放った。
 広壮な大都市の、薄暗い路地裏の、狭苦しい宿屋の一室である。
「大体さ、観光客向けの宿の宿泊費用がぼったくりなんてことはどこの世界でも一緒なんだよ。っていうか正直寝られる場所があればそれでいいし。あたし日本人だし。ベッドとか無くても枕あれば寝られるし」
「だからってここまで底辺な宿を取る必要は無かった気がするんだが……」
「あっそう? へー。お金持ち。すごいね。じゃあ三人で他の宿探してくれば? あたしのことは放っておいてくれて構わないから」
 どろどろとした負のオーラーを目視できる程の濃度で発散している千宏の汚泥のような表情に、カブラは引きつった表情を浮かべてしぶしぶ記帳を済ませた。
 かくして、一行は拠点を得ることに成功した。
 千宏は相変わらずハンスと同室で、カブラたちも三人で同室である。
 この二部屋の宿代を合わせても、最高級の宿泊施設では一人部屋も借りられない。
 悪徳ここに極まれり。
 千宏は完全に拗ねていた。
「ったく。えーえー研究員なんてインテリな方々は、会社のお金でいい宿に泊まれるんでしょうよ。こちとら短い人生かけて出稼ぎに来てるんだから、そんなボッタな宿泊施設こっちから願い下げですっつーんだよ」
窓を開けると壁がある。壁には亀裂がはしっていて、壁紙はあちこちはがれている。床は傷んでギシギシいう。そんな部屋に据え置かれたパイプベッドの、恐ろしく固いマットレスの上で薄汚れた枕を抱きながら、千宏はぶつぶつと文句を言い連ねた。
「信じられないよほんっとにさぁ。エクカフより高いんだから! あーあーいいご身分ですよねー!」
 叫んで、枕を投げ出すように大の字に寝転がる。
 天井には正体不明の染みがあった。不意に、なにやら床にはいつくばってごそごそやっていたハンスが立ち上がり、つかつかと部屋を出て行ってしまう。
 千宏は何事かと目を瞬き、することも無かったので慌ててハンスについていった。
 二人の部屋は二階にある。角を曲がって階段を降りていったハンスを追いかけて、千宏も階段を駆け下りた。
 狭苦しいロビーでは、宿屋の主人がカウンターに頬杖をついている。片耳の無いトラの男で、トラの美醜が分からない千宏が見てもあまりいい印象を覚えないから、相当な醜男だ。
 階段の手すりから身を乗り出してロビーを覗き込むと、ハンスは真っ直ぐにカウンターに歩み寄った。
 なんだ、出かけるわけではないのかと溜息を吐き、部屋に戻ろうと体の向きを変えた瞬間。視界の端に信じがたい場面を捉え、千宏は再び階段の手すりにしがみ付いた。
「ハンス! 待っ――!」
 千宏が静止を叫ぶより前に、ハンスは腕を振り上げるなり男の顔面を殴りつけた。
 耳を覆いたくなるような鈍く重い音がして、直後に男が椅子ごとひっくり返るけたたましい音が響く。
「な――何しやがるこのイヌ野郎!」
 叫んで立ち上がろうとした男の襟首を引っつかみ、ハンスはそのまま男の体をカウンターから引きずり出した。
 トラにしては随分小柄な男だが、それでもイヌのハンスよりはふたまわりも大きい男だ。全身の毛を逆立て、男はお返しとばかりに力任せにハンスの顔面を殴りつけた。たまらず、千宏は踵を返して階段を駆け上がった。
「カブラ! カブラー!」
 ロビーの騒がしさを聞きつけて、カブラたちは既に廊下に出ていた。
「どうした! 何があった!」
「わかんない! でも、ハンスが――!」
 聞いた瞬間、カブラの目の色が変わった。
「野郎! やっぱりか――!」
 叫ぶなり、カブラはロビーを目指して駆け出した。
「ちょっとま――! ちょっと! カブラ違う! 穏便に! 穏便に!」
 喧嘩の仲裁を頼みたかっただけなのに、カブラは明らかに喧嘩に参加する気だった。しかも、ハンスの敵として。
 まずいことになった。頼る相手を間違えた。
「カアシュ! ブルック!」
「わかってる! 行くぞカアシュ!」
「おう!」
 顔が激しく変形していても、応じる声だけは力強い。
 千宏が再びロビーに辿り着いた時には、ハンスは既に宿屋の主の腕を背中に捩じ上げ、カウンターに押さえつけていた。完全にハンスの勝利だ。だがそこに、カブラが問答無用で殴りかかる。
 虚を疲れたハンスは目を見開き、何事か言おうと口を開くが、しかし言葉を発する前にカブラに殴り飛ばされ、壁に激突した。
「カブラ! ハンス!」
 千宏が叫んで駆け出そうとするのを、カアシュとブルックが制して変わりに飛び出した。
 床に倒れたハンスに再び掴みかかろうとするカブラを二人掛かりで押さえ込む。
「何しやがる! てめぇらどういうつもりだ!」
「落ち着けカブラ! チヒロがいるんだぞ!」
「そのチヒロがやれって言ったんじゃねぇか!」
「言ってないよそんなこと! あたしは仲裁して欲しかったの!」
 千宏が叫ぶと、カブラは一瞬情けない表情を浮かべ、しかしすぐに牙を向き出してハンスを睨み付けた。
「だけどこいつはそこのおっさんを殴りやがったんだぞ!」
「お前だってよくやるだろうが!」
「俺はトラだがこいつはイヌだ! トラ同士が殴りあうのとイヌが噛み付きやがるのとでは話が違う!」
「盗聴器だ」
 カブラとブルックの言い合いに、ようやくハンスが口を挟んだ。
 ハンスが何か投げ渡す仕草をし、それをブルックが受け止めて光にかざす。カブラもハンスに殴りかかろうとするのをやめ、目をすがめてそれをじっと睨み据えた。
「俺たちの部屋に仕掛けてあった。鼻に引っかかるような魔力を感じたんで調べてたんだ。ベッド裏に貼り付けてあった。恐らくトラじゃ気付かない」
「盗聴器って……こんな世界にそんなハイテクなもんがあるの!?」
「少なくとも俺の国にはあった」
 こともなげに答えて、ハンスがやれやれと立ち上がる。口から血が垂れていた。どうやら歯が折れたらしい。
「こいつが盗聴器だって証拠はあるのか?」
「本人がそう言ってたんだから、間違いないんじゃないか?」
 ブルックの問いに、ハンスはちらとカウンターの奥に引っ込んでしまった宿の主に視線を投げた。
「イヌの魔法を知りたいかと脅したら白状した。実際には、俺は魔法なんかろくに使えないがな」
 ブルックがカアシュと共にカウンターの奥に消え、主人の懇願の声が上がる。
 一分ほどの沈黙があり、
「カブラ! 完全にハンスはシロだ! 女の客はあの部屋に泊めて盗聴するのが趣味なんだとよ!」
 ひょいとブルックが顔を覗かせる。カブラはぎしぎしと、ひどくぎこちない動きでハンスに振り返り、床に膝を付くなり猛烈な勢いで床に額を叩きつけた。
「すまんかったぁ!」
 平伏である。
 千宏は既視感を覚えた。
「俺は……俺はとんでもねぇことを……! 俺を殴ってくれ! 心行くまで殴ってくれ! 鈍器で殴ってもいい! 俺は最低のクズ野郎だ!」
 がすがすと床に額を叩きつけ、おいおいと泣きながら謝罪する。
 これにはハンスも面食らい、対応に困っておろおろと視線をさまよわせた。
「俺はただ……護衛の仕事をしただけだし……そりゃ、あんたから見れば、俺は怪しい。同族が俺みたいなイヌに捻られてたら、ああするのも仕方ない……」
「ハンス……おまえ……お前ってやろうは……!」
 立ち上がり、カブラはがっしとハンスの手を握り締めた。
「なん――って心の広い奴なんだ! 俺はお前を誤解してた! 今までのことを水に流してくれとは言わねぇ! だが俺にとっておまえは今から親友だ!」
 暑苦しい。
 そんな千宏の感想と同様に、ハンスもやや引き気味――かと思いきや、まんざらでもないらしく、ふさふさと尻尾が揺れている。
 そうか、イヌは仲間意識が強いのか。
 親友という言葉に浸っているようにさえ見えた。犬は群れの中で自分の序列を決めると言うが、この場合カブラはハンスにとって上になるのか、下になるのか――。
「好きにしてくれ……リーダーはあんただ」
 どうやらカブラの方が上らしい。どこまでも卑屈な男である。
 逃げるように千宏のもとに駆けてきたハンスを見上げ、千宏は痛そうな口元を見て顔を顰めた。
「で? どうするんだ? このおっさん」
 カアシュとブルックに挟まれて居心地の悪そうな宿屋の主人に、一斉に視線があつまる。
 カブラが何か怒鳴り声を上げる前に、千宏は人差し指を突き立てた。
「宿賃の永久無料で手を打とう」
 今度は千宏に視線が集中する。
「そ――そんなことでいいのか?」
 訊ねたのは、意外にも宿屋の主人だった。
 女神を見るような目つきで千宏を見ている。
「リンチにかけて牢にぶち込もうぜ? その方が社会のためだ!」
「それより去勢しちまおう。トラの風上にもおけねぇ野郎だ」
 カブラとブルックが次々にいい、人語を喋れないカアシュがこくこくと頷く。
 なるほど二人の言葉に比べれば、千宏の提案は女神のごとき寛大さを持っている。
「じゃあ、それとあたしの小間使いも。暴力沙汰はもうたくさんだよ。あたし血を見るのって好きじゃないんだよね」
 カブラとブルックが文句を垂れるが、千宏は取り合わなかった。
 最低な宿屋だが、無料となれば話は別だ。
 宿屋の主人をぼこぼこにしてうさをはらすより、実益があった方がはるかに有意義である。
「それじゃ、それで決まりね。やったー! 宿代浮いた! もーかっちゃった」
 カブラたちはやはり不満そうだったが、特に実害も無かったため強くは言えず、千宏本人それでいいならば――としぶしぶ引き上げていった。
 屈強な三人の男たちに解放され、宿屋の主人がへなへなと崩れ落ちる。
 ふと、千宏は傍らに立つハンスを振り仰いだ。
「ハンス」
「ん?」
「次からは、誰かを殴りに行く前にあたしに一言相談して? 今回みたいな騒ぎはなしにしたいんだ」
 きょとんとして、ハンスが目を瞬く。
「今回だって、あたしに一言相談してくれれば、たぶん誰も怪我しないで済んだんだ。ハンスの歯だって無事だったしね。あんたがあたしに雇われてくれてるのは分かってる。でも、それでも雇い主はあたし。だから、これは雇い主としての命令。聞けないんだったら、あたしはあんたを雇ってられない。いい?」
 ハンスは何も答えない。
 無言のまま、ただこくんと一度首を振った。
「よし! それとハンス」
「……ん?」
「ありがとうね」
 相変わらず、ハンスは何も言わない。
 そして先ほどと同様に、ただこくんと大きく頷いた。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

目安箱バナー