猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

草原の邦

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草原の邦 1話



 赤い葉がまたひらりと舞った。
 つないでいた手をひかれ、ちょうど木の根を避けようとしていた椿は、不意をつかれてよろめいた。
「わ!」
 足を踏んばると、つもった落ち葉のせいで靴底がずるりとすべる。
 地面はななめで、根っこや石があちらこちらに見えていた。こんなところで転んだら大変だ。
「どうしたの?」
 足の位置を替えながら問うが、後ろからは何の返事もない。
 もう、と椿は顔をしかめてふり返った。
 そこには、全身を夕焼け色に染めた妹が、ぼろぼろと涙をこぼしながら立ちつくしていた。
 頬と鼻は真っ赤で、髪をふたつに結んでいた黄色いリボンが解けかかっている。

 いつから泣いていたのだろう、と椿は思った。
「ハンカチは?」
 甘やかすとわがままがひどくなることはわかっていたので、椿は普段どおりの調子で聞いた。
 妹はふくれ面になり、首をふった。そしてそのままそっぽを向いてしまう。
 その態度にむっとしたが、椿は自分のハンカチを出し、ぐしょぐしょに濡れた顔をぬぐった。
 手が離れると、妹はしゃくりあげながら、体当たりするように椿の腕にすがりついてきた。
 体重をかけてぶらさがるようにされると、母のようには支えられない。体格はそれほど変わらないから、妹の加減のない力は椿にはつらかった。
「やめて、いたい」
 妹は聞こえないようすで、手放しで泣きはじめた。
 椿も泣きたかった。鼻の奥がつんとする。
 心細いのは彼女も同じだった。
 けれど、妹が泣いたら、なぐさめてやらなければならなかった。それが椿の役割だからだ。

「ねえ、足いたい。つかれた。ねえ、つばきちゃん、さむいよ」
 ひとしきり泣くと妹は文句を言い出した。
「さむいね」
 見上げると空のてっぺんはもう紫色だった。山に近いところは金色に光っている。
 椿は、どうしよう、と心の中でつぶやいた。
 すぐに陽が沈んでしまう。
 ふたりが立っているのは山の斜面だった。木に囲まれ、道はない。
 地面の勾配はきつくはないが、木の根がはりだし、大きな石が転がっている。
 落ち葉でかくれた根に足を取られそうになり、何度も転びそうになったふたりは、足が重くて身体が重くて、もうくたくただった。

 妹は涙に濡れた大きな目を椿に向けた。
「つばきちゃん。いつまで歩くの?」
 わからない。
「おかあさんどこ?」
 わからない。
 椿は首をふるしかなかった。

 ふたりは迷子だった。
 ハイキングの途中で、妹は野うさぎの後を追っていきなり走り出した。
 あわてて連れ戻そうとした椿は、妹の手を掴んだとき母の姿がないことに気がついた。
 妹の赤いリュックサックばかり見ていて、どこを走ったのか憶えていなかった。
 大声で母を呼んだが返事はなく、元の道を探して歩いても似たような景色が続くばかりだった。



 陽はかげり、冷たい空気が頬を撫でた。ぶるりと身体がふるえる。
 椿は妹の髪を撫でつけてやり、リボンはうまく結びなおすことができなかったので、ほどいてポケットに押しこんだ。

 ……おかあさん、探してくれてるのかな、
 椿は不安で仕方がなかった。
 母は今朝、いつになく機嫌がよかった。そして突然「紅葉がきれいだからハイキングに行こう」と言い出した。
 普段一緒に行動する叔父が出かけたあとだったから、椿は何も言えずだまって母を見返した。
「大丈夫よ。おじいさまの山へ登るだけだもの」母は微笑んだ。
「昔は駆けてまわったわ、そんなに遠くないの。今日は暖かいし、大丈夫よ」
 祖父の持つ土地は広く、屋敷の裏に山と谷があった。
 ハイキングは山頂まで一本だけある、曲がりくねった道を登り、途中にある池のほとりで遅めの昼食を食べて、山頂で風景をスケッチをする予定になっていた。
 迷子になったのは山頂間近だった。
 山を降っていけばどこかで道に出るはずだと椿は考えていた。



 先ほどまで夕焼けの赤に染まっていた木の幹は、今は墨で塗ったように黒い。
 山の奥でほうほう、と何か鳴いた。重なるように近くの梢が音をたてる。
 びくりとふるえた妹が身体を寄せてきた。椿もしばらく身を固くしていたが、それ以上変化はない。
 椿はそろそろと動いて、なだめるように妹の肩をたたいた。手をつなぎ直し、灯りが見えないかと、木々の間に目をこらす。

 再び歩き出そうとした瞬間を見計らったように、腕をひかれた。「なに?」
「つばきちゃん。ねぇ、おなかすいた」
 その言葉で、椿は妹が昼食をほとんど食べていなかったことを思い出した。
 いつも何かにいらいらしている母がやさしく微笑んでいたから、妹は走りまわり、喋り続けていた。空腹を訴えても仕方ない頃だ。
「わかった。……そこにすわって」
 倒れた木の幹を指し、椿は背からリュックサックを下ろした。昼食のサンドイッチが残っているはずだ。
 紙袋を探しあて、小さな一切れを取り出すと、妹の手に握らせる。妹の顔はぱっと輝いたが、具を覗いて眉をよせた。
「きゅうりきらい。レタスも」
 卵、胡瓜、レタス、トマトを挟んだ茶色と白の二色パン。
 椿は上機嫌でサンドイッチをつくる母の、白く細い指を想った。
 じんわり目頭が熱くなる。温かい手が恋しかった。
「チーズとハムは食べれないでしょ。ひさぎがいらないならわたしが食べる」
「食べるよ」
 妹は観念したようにパンを齧りはじめた。
「よく噛んで」
 うなずいたくせにサンドイッチはあっという間に、小さな口の中に消えた。
 胡瓜をそっと落ち葉の間に落としながら頬ばる。疲れきっていた椿は見ないふりをした。

 妹は緑色の野菜が苦手で甘いものが大好きだ。パンよりも菓子を好む。
 そして椿のリュックサックの底にはチョコレートなどの菓子が入っていた。出せば妹は喜ぶだろう。聞き分けもよくなるかもしれない。
 しかし椿はそれを出すつもりはなかった。いつまで山を歩くことになるのかわからない。
 椿は次いで、生クリームと苺とキウイのサンドイッチを渡してやった。
 自分用には蓋つきの容器から林檎をとり出す。
 うさぎ形に切った林檎を皮ごと噛みしめると、ほのかな塩味とあまい果汁が口の中に広がった。
 ふたつ目もほとんど噛まず食べ終えた妹は、暗くなった周囲を見まわして再び心細くなったのか、椿にすり寄ってきた。
 椿も夜の山が怖かった。ぎゅうと妹の肩に頬を寄せる。

 自分が寒さ以外でふるえてることに気づいても、どうしようもなかった。
 妹は椿に頼ることができる。でも椿には頼れるものがない。弱音を吐けないのはひどくつらかった。




 気がつくと空は濃い紫色に染まっていた。西の空は細く赤い雲に覆われ、燃えるようだ。
 水筒の温かい紅茶を少しずつ飲んで、身体が温まったところで椿は立ち上がった。
 足は泥がまとわりついたように重い。
 それでもこの場に留まるわけにはいかなかった。ふたりは毛布もマッチも持っていない。
 椿は妹に手をさし出した。
「ほら立って」
「うん」
 妹は素直に立ち上がった。小さな暖かい指が手の中に滑りこんでくる。

 異変を感じたのはそんなときだった。
 いやな感覚が、ざわざわと背中を這い上がる。
 ゴォ、と遠くから津波のように押し寄せる低い音。ふたりを囲む木々がふるえ、葉が数枚宙を舞った。
「どうしたの、つばきちゃん」
「しっ」
 妹を制した瞬間、地面が大きく揺れた。落ち葉が舞い上がり、硬いはずの地面がたわむのを椿は見た。
 宙に浮いたような妙な浮遊感のあと、突風がふたりをもみくちゃにした。
「やっ、つばきちゃ…」
 怖くて目を閉じた椿の耳に届いた、妹のうわずった声。
 手のぬくもりが急に去る。
 あっと思ったときにはもう遅かった。目を開けても暗闇ばかり。
「ひさぎっ」

 しっかり握っていたはずの手は離れ、椿の身体は落下していった。



            *



 丘の方向から一陣の風が吹いた。
 見上げた先で〈風〉の精霊が舞っている。夜営の準備をする手を止めて、ヒョウのイルムは〈風の丘〉に目をやった。
 何だろう?やわらかな草に覆われた小さな丘の下に、それまではなかった塊がある。
 小麦の袋程度の大きさで、布のようにやわらかそうな何か。真上で〈風〉が群れている。
 今度は何を運んできたのだろう。イルムは興味をひかれて立ち上がった。

 いたずら好きな〈風〉たちは遠くにあるものを運んでは、棲み処のまわりに転がしていく。
 草原南部で使われる道具から、異国、異界のまるで使い道のわからないものまで。付近の木立の吹きだまりにはそんな物がたくさん雨ざらしになっている。
 イルムはそれらを回収する為に、この地に寄り道をしていた。
 夜の草原には赤色の害獣が群れで現れるため、回収には日の出を待たなくてはならない。そのための夜営だった。
 白い火を起こせば、野生の四足は近寄ってこない。
 あたりは夜闇に包まれているが、特に灯りを持つ必要はなかった。闇に慣れたイルムの目には星の輝きさえも眩しく、草木の輪郭がはっきりと見てとれた。
 硬いものが擦れあう音がして、傍らの木に繋いでいたイルムのシュヴが「ピュー」と鳴いた。起こしてしまったらしい。
 イルムはもたげた頭部をとんとんと撫でてやり、シュヴが首を定位置に収めるのを確認してから歩を進めた。

 雨に洗われた草からは、濃いにおいが立ちのぼってくる。それに混じるかすかな生きもののにおい。
 馴染みがないが、ずっと昔に嗅いだことがあるような気がした。
 何であるかわからず、イルムは首を傾げる。
 次いで。
 ひらりと風に揺れたものを見て、ぎょっとした。暗い色をした布だと思っていたのは、人間の長い黒髪。
 ……まさか、巫師か?
 イルムは慌てて駆け寄った。〈風〉たちは、血のにおいのする金属を帯びた身体を避けるように、するするとその場を離れていく。
 巫師(シャマン)は美しい黒髪と歌声を誇る、国の宝だ。
 通常、彼女たちは王都の祭殿から外に出ない。イルムも雨季の大祭の折に遠くから見たことがあるきりだ。だが、その麗しい肖像は、国中のどの家庭にも飾られている。
 ……巫師が空を翔けてきたのか。
 巫師の高い魔力を持ってすれば〈風〉を掴まえ、移動することも可能なのかもしれない、とイルムは思った。
 ただ巫師の身体は、イルムたち草原で生きる民ほど、強くはない。動かないということは、気を失っているのか、……死んでいるのか。
 イルムは焦る気持ちを抑えつつ、手足を丸めて倒れている小柄な身体を抱き起こした。

 前髪は眉のあたりで揃えられていた。その下に固く閉じられた瞼。毛の生えていないすべらかな頬は血の気がないように見えた。
 ほのかな体温を感じてほっとしたとき、小さな頭がかくんとのけぞり、細いのどが露わになった。
 片手を差し入れ頭を支えてやると、イルムの指に何か引っかかるものがある。
 手ざわりのよい髪を撫で、そっとかき分けると見慣れないものがあった。
 毛のない丸い……耳。巫師では、ない。
 ……ヒトだ。
 驚くイルムの目の前で、ヒトの仔が身じろぎし深く息を吸った。
 睫毛がふるえ、薄く目が開く。
「……さま?」
 か細い声にイルムは咄嗟に応えることができなかった。代わりに髪を撫でてやる。
 それだけで安心したようにヒトは目を閉じた。
 寝息を立てるのを聞き、イルムはようやく身体の力を抜いた。

 ヒトの仔が、異国風の襟のついた服を着ているのに気がついたのは、その後のことだった。



            *



 早朝から、冷たい雨が降り続いていた。

 山の裏側は舗装された道もなく、十に満たない少女ふたりが長い距離を歩いたとは考えにくかった。
 だが、手がかりが何もない。
 少女たちの母は、問いにまともに答えようとしない。

 あの家系は変人ばかりだから、と囁く声を彼は奥歯を噛みしめながら聞いた。
 雨合羽のフードで、捜索班のメンバーはお互いの表情まで確かめられない。それが救いだった。
 まともに顔を見たら殴りつけてしまいそうだった。
 雨の降る中、捜索に協力してくれる人員を減らすのは得策ではないのはわかっている。

「つばきっ……ひさぎ」
 彼は小さく咳をして、声の出しすぎで嗄れた喉に手をやった。
 雨合羽を着ていても全身ずぶぬれだった。
 それでも頬を伝い落ちるぬるんだ水は気持悪い。拭いながら鈍色の空を見上げた。
 こんな天候の中、幼い姪たちは無事でいるのだろうか。

「おーい、こっちだ!」
 男の声が響く。彼はぬかるむ地面を慎重に踏みしめて、黒い人だかりの方へ近づいていった。

 倒木のそばには、前日彼が結んでやった、あざやかな黄色いリボンが落ちていた。

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