僕の奴隷は愚鈍で困る 2話
「今日は君の部屋を作ろうと思う」
今年最後の朝。対面の少女が我が家に来てから急に味の良くなったコーヒーを流し込みながら、内心前々から決めていた予定を告げる。
「私の部屋、ですか」
お、反応したな。
「そうだ。いままでは客間で寝起きしてもらっていたが、いつまでもそういうわけにはいかないだろう。
一つ物置になっている部屋があるんだが、そこを片して使ってもらおうと考えていてね」
僕の書斎に入りきらない本やら資料やらを放り込んでいた部屋なのだが、長年の蓄積の結果やすやすと手をつけられない魔窟と化している。
この休みを丸々一日費やして、一気に決着をつけてしまおうというわけだ。
「ですが、私は奴隷です。部屋など」
「そのフレーズは禁止したぞユキカ。いいから手伝いなさい」
なんだかんだで年頃の女の子だ。本来部屋の一つも無くては色々と困るはずだろう。
……なぜ普段以上に陰鬱な顔をしているんだ?
扉を開くと、薄暗く埃っぽい室内を埋め尽くす本、本、本に資料や書類、草稿、紙束。
薄暗いのは書棚が窓を塞いでいるからなのだが、それでもなお収まりきらない本が床に山と積みあがっている。
紐でとじた原稿用紙や新聞のスクラップが適当な箱に放り込まれたまま、埃でまだらに染まっていた。
足の踏み場もないとはこのことだ。こんなに酷かったか? この部屋。
「……とりあえず、僕の書斎に全部運ぼう。入りきらなかったらその時だ」
「はい、旦那様」
持ちあげた本の表紙に溜まった埃を吹き散らす。舞い上がる埃が口の中に入り込み、思わず咳き込んだ。
こうなると、もう少し気を使って掃除しておかなかったことが悔やまれる。
ぐ、気に入っているセーターの袖にべったりと埃が。
「旦那様がこんな仕事をなさらずとも……」
「君一人で全部終わるか? そもそも、こういう作業には家人で協力して当たるものだ」
そう。だから、八つ当たりしたりしないからさりげなく距離を取るのをやめてくれ。
起居を共にして今日で七日目。ユキカのこういう振る舞いにも多少は慣れてきたが、それでもこう、地味にじわじわとだね……。
ここのところ、ため息が増えて困る。
こちらの気も知らず、ユキカは重い本を抱えててきぱきと動き回っている。
以外にもこの子は家事に関してならば実に手際よく働くのだ。
いつの間にか用意していた固く絞った濡れ雑巾で、一つ一つ埃を拭き取りながら速やかに運びだしていく。
ああ、不用意に触らずそうすればよかったのか。
しかし、それは当然僕がそんな指示を出したのではないわけで。
「ユキカ」
「はい、旦那様」
いや、文句があるんじゃないんだ。ただ、彼女が自分で考えて雑巾を用意していることに驚いた。
考えてみれば料理なんかは僕が何も言わずとも色々作っているわけだから、丸っきり思考力判断力が欠けている
わけでもないんだよな。
「……僕の分の雑巾も持ってきてくれ」
「はい旦那様。ここに」
彼女のとは別に既に用意されていた雑巾を受け取る。こう、なんだ。この子に関することで、
こんな気持ちになるのは初めてだな。
「ありがとう。気が利くな君は」
ユキカの目がほんの少しだけ見開かれる。
「……ありがとうございます」
「さて、張り切っていこうか」
「はい、旦那様」
なかなか悪くない気分だ。早くも毛皮が埃まみれになっているが、こういう作業も悪くない。
あれから一時間、意外と早く床の上が片付いた。やはり2人でやると作業が早い。
次は書棚だ。みっちりと詰まっている本を残らず取り出して、しかる後に書棚を部屋の外に運び出す。
同じだけのペースで臨めばそう時間がかかるものでもないが……
「おお、ナツメ・ソルキットの『吾輩は猫である!』じゃないか。学生時代に読み込んだものだ」
『吾輩は猫である!』は猫国の政治学史上に燦然と輝く名著である。猫の民族的気質を詳細に明らかにした上で猫国の経済国家としての発展の可能性を説き、猫こそ全民族のうちで最も繁栄を享受しうる民族であると高らかに述べている。僕は狼として思うところが無いでもないが、今読み返してなお新鮮味を失わない経済への先見性を見せ、偏狭なナショナリズムに陥るのでなく堂々とした論理展開で猫族の可能性を論じて見せたこの著作には敬意を払わざるを得ない。ソルキットが当時「獅子の誇りも虎の牙も持たない、金と小手先に縋る小動物」とどこか侮られていた猫族たちを『我々は獅子でなく虎でなく、猫として生まれたわが身をこそ誇るべきである』と啓蒙しなければ、後の猫国の発展は無かったことだろう。猫国がリュカオンの大侵攻に際して兵力で負けようとも経済を武器に抗い通したのだってこの本に著された思想が大いに関係している。このように今日の猫国の発展の基盤をフローラ女王個人の功績にのみ依ると見るのは極めて近視眼的歴
史観と言わざるを得ず、そもそも僕に言わせればフローラ女王の政策思想の源流こそがソルキット以来脈々と受け継がれる民族哲学を高純度に集積したものであり……
「と、と、いかんいかん」
今は、片付け中だった。
どうにもさっきから懐かしくも素晴らしい著作の数々が目について、つい手に取って開いてしまうために片付けが進まないのだ。
その分ユキカが頑張ってくれているらしく、ふと気が付くたびに書棚の中段以下の空白はどんどん広がっている。
(ユキカの背丈では天井まである書棚の上の方には手が届かないのだ)
僕も真面目にやらなければと分かっているんだがつい……。
よし、今からでも気を引き締めて片付けに集中しようじゃないか。
……お、この本は、すっかり失くしてしまったものとばかり思っていた……
「あの、旦那様……」
……うん、うん……
がた、がた、がたん
……そうか、今読み返してみれば確かに……
がた、がた、がたり、がた
……ここの矛盾を補完する理論は確か……
がたん! どさどさっ!
「!!」
何だ、何の音だ!?
異音に慌てた僕が振り返るとそこには、
椅子の上に爪先立ちになって書棚の最上段に精いっぱい手を伸ばして掴まっているユキカと、
床にぶちまけられた数冊のハードカバー。
そうだ! 片付けをしていたんだよ僕は!
「すまないユキカ! というか大丈夫か!?」
「あ……も、申し訳ありません……本を」
椅子と書棚の間で精いっぱい突っ張った足と腕を震わせながら、青い顔でつぶやくユキカ。
あの音は本を落とした音か。
「いいから。ほら、降りれるかい?」
明らかに苦しそうな体勢を戻さないあたり無理なんだろう。ゆっくり腕を伸ばして、ユキカを抱えて床に下ろす。
「本当にすまない。つい夢中になってしまって……。無理せずに声をかけてくれればよかったのに」
「一度おかけしましたが、聞こえていらっしゃらないようでしたので」
「そ、そうかい」
それで椅子を持ち出して一人で頑張っていたわけか。見れば、すでに最上段以外の書棚はきれいに空いている。
この子にもう一度大きな声で呼びかける勇気を要求するのは余りに酷だ。
一回呼びかけただけでもかなり頑張ったのだと思う。本当に、心からすまない……。
「落ちた本でぶつけたりはしていないか?」
「はい、旦那様」
それはどっちの意味…ああ、額が少し赤くなっているね。悪かった、本当に、悪かった。
「少し休んでいなさい。後の作業は僕がやろう」
というかやらせてくれ。そうでもしないと主人の面目が立たない。
今度こそ、今度こそは真面目にやるぞ僕は!
書棚を全て運び出し、部屋中の埃を拭いて、途中で配達を頼んでおいた家具類を受け取って。
そうして片付け開始から5時間。やっと人の部屋らしき部屋が出来上がった。
といっても家具はベッドとクローゼットしかなく、床にカーペット、窓にカーテンを引いただけの殺風景な代物だが。
「ともあれ、こうして君の部屋ができたわけだ」
ユキカは戸口に立ち尽くしている。例の光の無い視線で茫洋と部屋を見渡したまま微動だにしない。
「どうした。不満かい?」
少しは喜んでいるのか、いないのか。能面のような表情からは全く伺い知ることができない。
確かに客間よりは手狭で殺風景で家具も安物だが、客間は客間である。
せっかく作った彼女だけの部屋なんだから、もう少し反応が欲しいところだが……。
視線の焦点を遠くに置いたまま、ユキカの唇がかすかに動いた。
「なにも」
「ん?」
「なにもありませんね」
…………。
……まあ、他に要るものがあるなら後から買い足せばいいんだが……
「ベッドに皮枷がついてない、首輪に繋ぐチェーンがない、窓に鉄格子が嵌ってない、壁に卑猥な道具がかかってない」
…………。
「なんにもない部屋ですね」
ぼんやりと虚ろな顔で、ぼんやりと虚ろな声。
目の焦点は陽光と風が吹き込む窓のさらに向こうにとんで行って、どこを見てるのかさっぱりわからない。
いつも通り、生きているくせに幽霊のような物腰である。
だがまあ、それなりに喜んでくれているようで僕は満足だ。