イノシシの国 イノシシ編パート6
六
旋風が、枯葉の上を踊り狂う。
低いうなり声が、木立の中を荒らす。
もつれあう着物を着た、剛毛の固まり。
それを追いかける、怒気に溢れた黒い影。
薮の影から転げ出た取っ組み合いから、ひとつの影が離れた。
「……なせに、何をした」
若者に馬乗りになったバジは、牙を剥き出しにして威嚇し、低く唸った。
答えを待たずに、牙に触れぬよう、数度太い腕で殴りつけると、若者は、呻いた後、首をだらりと弛緩させた。
「兄者!」
「弟者!」
後から追いかけてきた二人が、気を失ったひとりを見て、血相を変える。
イノシシの顔は表情が分かりづらい。
だが、逆毛を立てた三人は、一触即発の雰囲気を漂わせていた。
「ここを何処だと思っている」
仁王立ちになったバジはゆっくりと振り返る。
「仮にも、『西の要』の里のお膝元で、年端もゆかぬ、異種族の娘を襲うとは、イノシシの恥」
二人は答えず、顔を見合わせると、怒号とともに襲いかかって来た。
「小童が。毛の色も変わりたての小僧に、この俺が負けるとでも?」
そう言いながら、二人分の突進を受け止めて、片方をいなす。
投げを打つと、末の若者がもんどりうって倒れた。
だがもうひとり、年長の若者は……。イノシシの牙を向けて、バジに突進してきた。
「なんだと?!」
反射的に避けるも、鋭く尖った牙に、死角となった右肩の袖が裂かれる。
数歩左によろけたバジは、思わず強張った表情になっていた。
通常、イノシシ同士の喧嘩では、牙を使うのは御法度である。
牙を使った喧嘩は、異種族の敵に向けるもの。殴り合ったり、ぶつかりあったりはするものの、同族同士で牙を向けあうことはない。
だが、目の前のこの三人衆には、そんな掟等全く関係がなかった。
「小童が!!」
大音声が木立についた木の葉を揺らす。
「うらあああああ!」
いなした末の若者が、背後から露になった肩口に噛み付いてくる。
バジの中で何かがぷつりと切れた。
噛み付かれた腕を、ぶんまわして、太い腕で、胴を殴りつける。
肩の肉がちぎられたような鋭い熱のような痛みが走る。
枯れ草の上に血が飛び散る。
太い幹に衝突した若者は、口から泡を吹いて倒れた。
「……許さぬ」
掟を守らぬ事も。
無知な若さも。
生まれ里を荒らされた事も。
こんな輩に昔なじみが抱かれる事も。
なせに、手を出した事も。
押さえ込んでいた鬱屈が放つ場を得て、大気が揺らぐ程に怒張していくのがわかる。
最後の一人の、荒い息づかいも、動きも、隻眼ながら左眼を限界まで見開いたバジには見えた。
身を低くして、半身をひねりざま、相手の勢いを受け流して、投げた。
宙を巨体が飛んでいくのを反転して追いかける。
イノシシは、猪突と呼ばれる。
普段は足が短く、歩みは遅いが、その、短距離における速度と、跳躍力、それを裏付ける脚力は凄まじい。
土くれが、飛び散って、大地がえぐれる。
その中を、猛々しい岩塊と化した怒りが駆け抜け、放物線を描いて落ちてくる若者めがけて体当たりした。
空気が震える。
頑健な肩で、大岩までその躯を押し込むように突き飛ばし。
血のりのついた岩からずるりと若者の躯が血に横たわるまで、かっと、睨みつけていた。
ゆるりと身を起こすと、全身から湯気が立ち上る。
剛毛に覆われた右腕を赤黒いぬめりが滴り落ちていく。
無事な左腕で、三人の若者の脚を無造作にひきずり、幾重にも筋を枯れ草の上に作りながら、赤黒い雫を土にしみ込ませながら、
崖上まで来ると、無造作に放り投げた。
崖の高さは、バジの三倍程。
頑健なイノシシなら死ぬ高さではない。
力を失った若きイノシシ達は、ぐったりと重なりあった。
それを無表情に見下ろすと、薮へと右肩を押さえながら戻る。
山間に沈みかけた夕日。茜色に染まる木立の中、落ち葉の山を避けて、進む。
踏み抜かれた笠が、目に入った。
己のむせかえる血の匂いで、なせの匂いが嗅ぎ取りにくい。
バジは、口を大きく開いて、咆哮した。
「なせ!」
冷たい風が、バジの頬をくすぐる。
その風に混じるなせの、匂い。
はっとしたバジは、風上へと歩を進めた。
薮が、見える。
なぎ倒された枯れ草。
へしゃげた茂み。
足下が柔らかい腐葉土になり。
そして、うっすらと落ち葉がつもる中に、わずかな人型のふくらみを見いだした。
バジは力が抜けたように膝をつく。
動かぬ右手で、無骨な左手で、丁寧に落ち葉を取り払った。
片膝を曲げ、脚を放り出した姿。
閉じられた瞼。
薄く開いた唇。
青ざめた頬は、白く。
紅葉の梢の間から零れる茜にも染まらず。
バジは、泥と血で汚れた右の親指で、なせの頬を撫でた。
白い頬が汚れていく。
汚したい。
ふいに、バジの下腹部から、背中にかけて、律動がこみ上げた。
太い腕をのばし、乱暴に、胸元の合わせをはだけ、小さなふくらみにぎこちなく手を這わせる。
胸は確かに上下していた。
だが、なせは眼を覚まさない。
白いうなじに、荒い息をふきかけ、舌先を突き出す。
耳を澄ませば、鼓動の音がした。
だが、なせは眼を覚まさない。
昂りは極まり、バジはなせの上に覆い被さった。
組み敷かれたなせの肢体は、己の半分程しか無い。
その喉が、その唇が、その胸が、息をしている事に安堵しているはずなのに。
立ちのぼる恐怖の汗の匂いに、思いやっているはずなのに。
汗の匂いを、全て、己の唾液でぬぐい去ってやろう。
白い柔らかな肌を傷つける剛毛の肌をすりあわせて、牙をけしてその柔肌に触れさせぬように、爪をけして食い込ませぬように、
ざらざらとした肌をこすりつける。
きつく結ばれた帯だけが、なせの胴に残り、下帯と半裸をさらし、袖の中に剥き出しの肩から延びる腕を潜め、なせは媚態をさらけ出していた。
下帯の盛り上がりを舌先で嘗め上げると、なせが跳ねた。
ああ、ここも恐怖の汗にまみれている。
きれいにしてやろう。
泥と血で汚れていく白肌。
だが、あの同族の『白膚』とは違う。
どこまでも、華奢な、かぶりつきたくなるような肢体。
バジの最後の理性がはじけ飛ぼうとした時。
落ち葉を踏む音が、バジを瞬時に漢へと戻した。
素早く起き上がって、なせを視線から守ろうと背に隠す。
崖の方から、細長い影が、西日を背負い、森へと差し込んでいた。
何か手に獲物を拾い上げる動きが見えた。
敵はそのまま、怒号ともつかない叫び声を上げて、バジへと襲いかかった。
(了)