猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

虎の威08

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虎の威 第8話

 
 
 皮袋に着替えや食べ物やオルゴールを詰め込んで、つけ耳つけ尻尾の上からしっかりとフー
ドを被り、千宏はどきどきと、そしてわくわくと馬車に乗り込んだ。
 千宏は、この家と市場以外にこの世界を知らない。市場以外の場所を目的地に家を離れるの
は初めてだ。
 そうでなくても、夜に外出するというのはなんとなく特別な感じがして、それだけで妙に興
奮する。
 アカブはなんだかげんなりしているし、バラムは不機嫌そうだし、パルマはそわそわとして
いたが、そんな事も吹き飛ぶくらいに千宏はうきうきとしていた。
「うれしそうだな……」
 共に馬車に乗り込み、呻くように言ったのはアカブである。
 千宏は窓越しにパルマと抱擁を交わし終え、しっかりと座席に座りなおして当然とばかりに頷いた。
「そりゃ嬉しいよ。超絶楽しみ。だって行ったことないところに行くんだよ? あたしがイヌ
なら尻尾も振ろうってもんだよ」
「絶対に宿から出るなよ」
「……でないよ?」
「……出るなよ」
 一瞬の間を見逃さず、釘を刺すようにアカブが言う。
「出ませんよ」
「チヒロ。俺は本気で言ってんだ」
「本気で出ないってば」
「チヒロ!」
「でーまーせーんーよー」
 だったら俺の目を見て話せと怒鳴るアカブを完全に無視し、がたがたと揺れる景色に目を細める。
「外は怖いなぁ、不安だなぁ。襲われたらどうしよう。絶対部屋から出ないもんね」
 にまにまと口元が緩んだ。
 自分の言葉の白々しさに思わず声を上げて笑いそうになる。
 アカブは苦虫を噛み潰したような表情で根気強く説教を続けていたが、それを右から左へ受
け流し、千宏はいつもと違う景色を見せはじめた馬車の窓から感動の声を上げて身を乗り出した。
 いつも通る道を反れ、月明かりを反射してきらきらと光る川からどんどん離れて行く。
「ねぇ、これから行く町ってどんなとこ? なんて町?」
「……エクカフ」
 苦々しい表情はそのままに、アカブが答える。
「星の町って意味だ。夜でもやたらと明るい。むしろ夜の方が明るい」
「おいしい物ある?」
「外に、出るな!」
 思わず聞いた千宏の言葉に、アカブが脅かすように言う。
「だーから。出ないってば」
 硬い事言うなよ、とでも言うような口調で言われた言葉をアカブが信じるはずも無く、結局
エクカフという町についての情報はほとんど得られぬまま馬車は進んだ。進みに進んだ。窓の
外を眺めるのにも飽きてきた。それくらい進んだ。体を伸ばしたくて狭い馬車の中でじたばた
する。アカブは随分前に「寝る」と一言宣言し、本気で眠りこけてしまって未だに起きる気配
もない。
 千宏は座席で器用に横たわる巨体を恨めしげに睨みつけ、靴を脱いだ裸の足で、げしげしと
アカブを蹴った。
 足の裏に当たるもふもふとした毛皮が気持ちいい。
「……あたしも寝る!」
 寝ているアカブに宣言し、千宏は荷物を枕にして座席にごろりと寝転がった。
 
 
                ***
 
 
 ついたぞ、起きろと揺すられて、千宏は馬車に揺られながらすっかり眠り込んでいた自分に
気がついた。
 起き上がろうとすると体のあちこちに変な癖がついていて、伸ばそうとすると腕が痛い。
 馬車から差し込む光に既に朝だと知らされて、千宏はごしごしと目を擦った。
「一晩中かかったの?」
 
「一晩かかるもんなんだ」
 答えながら、アカブが先に馬車を降りる。
 続いて馬車を飛び降りてとんとんと腰を叩くと、そこは人でごった返していた。
 市場では獣臭いと思ったが、この町には妙に甘ったるい香りが満ちている。
「うわぁ――凄い」
「つかまってろ。はぐれるなよ」
 初めて市場に行った時にバラムにそうしてもらったように、千宏はアカブに手を引いてもら
って人混みを歩いた。
 人混みを歩きながら、きょろきょろと回りを見る。
 市場なんかとは比べ物にならないほど華やかに着飾った虎女達は誰も彼もが強烈に色っぽく、
すれ違う男達は老いも若いも様々で、皆一様にギラギラとした印象があった。
 これは本当に部屋から出ない方がいいかも知れないと、千宏が思い直すほどである。
「……あれおいしそう」
「なに?」
 聞き返され、屋台に並んでいる甘そうな果物を指差す。
 するとアカブはあからさまに顔を顰めて、やめとけ、と短く吐き捨てた。
「なんで?」
「幻覚作用がある。おまえが食ったら発狂するぞ」
 うえぇ、と情けない声をあげ、千宏はさっと屋台から目を反らした。
 ひょっとすると、このあたりの屋台で売っている食べ物はみんなそういう物なのだろうか。危なくて迂闊に買い食いも出来やしない。
「ルームサービスにも気をつけろよ。このへんの宿のメニューには、大概精力増強なんかを目的
にしてるもんが混じってる。もちろんおまえが食ったらどうなるか保証はできん」
「そんなの見分けらんないよ!」
「俺が見分けといてやる」
 危険だ。この町には危険が満ちている。
 千宏は早くも来たことを後悔しつつあった。だが、後悔しながらもわくわくしているのは否

できない。
 アカブは白い壁の小奇麗な宿屋の扉をくぐり、フロントで行儀よく一礼した虎女に空き部屋を訪ねた。
 予約していたわけでは無いらしい。
 それとも、そもそも予約と言うシステムがないのだろうか。
 よく分からないが、滞りなく隣り合った二部屋確保する事が出来たらしく、千宏はフロント
の訝るような視線に肩を竦めてアカブに渡された鍵を握り締めた。
「……変な目で見られた」
「あたりまえだろ。この町の宿に男が女連れで来て二部屋取ったんだぞ」
 ラブホテルにカップルが現れ、別々に部屋を取るような物だろうか。なるほど怪しい事この上ない。
「こんなに人いるのに、よく部屋空いてたね」
「朝だからな」
「ふん?」
「今日の朝、帰った奴の部屋が空いてる。特にここは高級な方だから、長期に滞在する奴も
すくねぇし人気もねぇ」
「高い方なんだ。やっぱり。他の宿と違うもんねぇ。いつもこんな宿取るの?」
「おまえがいるからに決まってんだろうが!」
 怒鳴られて、さようでございますねと繕い笑いでアカブをなだめる。
 心配してくれているのだ。なるべく安全な場所に置いてくれようとしている。
 後で様子を見に来る、と残して隣の部屋に消えたアカブを見送って、千宏も早速自分の部屋
へと足を踏み入れた。
 想像していたより狭かったが、想像していたより綺麗だ。
「まぁ、ようはコトを致せればいいんだもんね……広さはいらないよね」
 荷物を置いて、やけに広いベッドに腰を下ろす。
 サテンのような、シルクのような肌触りだが、実際に材質が何かは分からない。
 とりあえず決まりごとのようにベッドの上でぼんぼん跳ねて、すぐさま飽きて千宏は部屋の
散策に乗り出した。
 散策――と言っても広くはない部屋である。風呂場を確認すれば終わりである。
 この世界に来て、しみじみと思うことがあった。
 風呂が広いのだ。やたらと広い。ホテルの個室風呂でもゆうに六畳はある。
 
 男の体格が大きいので当たり前と言えば当たり前なのだが、元の世界で狭い風呂しか経験し
た事のなかった千宏にとっては心底感動する、ありがたい類の事である
 早くも風呂に入ることを楽しみにしながらベッドルームに戻り、千宏は備え付けの小型冷蔵庫
に目を留めた。
 電気で動いているわけではない事は知っている。
 魔素がどうとか言っていたが、千宏には詳しい事は分からなかった。とにかく、魔法的な
概念らしい。
 しゃがみ込んで冷蔵庫を開け、その中身の充実具合に驚いた。
 飲み物らしき液体の詰まった入れ物や、お菓子と思しき袋や箱。おー、とかわー、とか声を
上げて感心していると、急に背後から肩を掴まれて乱暴に冷蔵庫を閉められた。
 ぎょっとして見上げた先に、慌てた様子のアカブの顔。
「い……いつの間に……」
「油断も隙もねぇやつだな。こんなかの物には手ぇつけんな」
「えぇ! 食べちゃだめなものとそうじゃないの選別してよ!」
「おまえが食って命の保証があるものなんざ入ってねぇ!」
 断言されて軽くへこむ。
 ここに宿泊する者達は普通の物は食べないのだろうか。
「つまんないー。つまんないー!」
「だからついて来んなつっただろうが……」
「やっぱり面白い」
「どっちなんだ!」
 素直なアカブの反応に、けらけらと声を上げて千宏が笑う。
 ぶつくさと文句を言いながらルームサービスのメニュー冊子を開き、アカブは商品名を隠す
ようにペタペタと付箋のような物を貼り始めた。
「それが張ってある奴は頼んじゃだめなのね」
「そうだ」
「食べるとどうなるの?」
「命の保証は――」
「わかった。頼まない」
 声を低くして何度目とも知れない脅し文句を吐こうとするアカブを制し、千宏はふらふらと
部屋を歩き回って最終的にベッドに倒れこんだ。
 他にする事がないからである。
 ごそごそと荷物を漁ってオルゴールを引っ張り出し、ゼンマイを回す。
 くるみ割り人形の旋律に浸りながらベッドに仰向けに寝転がり、千宏はごろごろとベッドの
上で転がりまわった。
「そういえばさ」
「なんだ」
「受付のお姉さんは発情してなかったね」
「抑制剤使ってるんだろ」
 そういえば、バラムが発情を抑制する薬があると話してくれた事がある。
 さして興味のある話でもなかったので、疑問が解決しただけで満足する。
 その後もアカブは部屋の中をうろつきまわり、怪しげな色をした入浴剤を回収したり、可愛
らしい小瓶に入った香水を指差して間違っても使うなと釘を刺したりと、抜かりなく保護者と
しての任務を遂行した。
 ありがたい事である。
 ようやく全てを終えた頃にはもうすぐ昼と言う時刻で、千宏はアカブの背中に向かってお腹
が空いたと騒ぎ立てた。
 これにはアカブも特に怒った様子もなく、もうすぐ昼かと同意する。
 ベッドに転がっている千宏を呼び寄せて内線と思しき機械を手に取り、アカブは使い方を
千宏に教えながら通話相手に商品番号を伝えて受話器を置いた。
 形はそのまま電話機である。
 ルームサービスを待つ間も食事を取りながらもアカブは母親のように小言を絶やさなかった
ので、とうとう千宏はおざなりな返事を返すこともやめて完全に無視を決め込んだ。
 外に出るなよ、と釘を刺されれば、うん、これおいしいね、と答えるような具合である。
 ちゃんとじっとしてるから自分の部屋に帰れと言うのに信用ならんと部屋に留まり続け、
アカブは結局日が落ちるまで千宏の部屋を動かなかった。
 話し相手がいるのはありがたい事だったが、これではバラムの言ったとおり、アカブが気の毒だ。
 
 しかし出て行けと言っても無駄である事は明白だ。ほっといて女を漁りに行ってこいとあけ
すけに言ってみてもいいだろうが、今までの倍の量の小言を半分の時間で聞くことになりそうである。
「ねぇ、あのさ」
「なんだ」
「あたし、お風呂入りたいんだけど……」
 狙い通り、アカブは見事に固まった。
 どれだけ小言のレパートリーがあるのかと興味深くなるような説教をやめにして、疑るよう
な目つきで千宏を見る。
「本当に部屋から出ないって誓うよ。お風呂に入って、字の練習でもしながら時間潰す。もう
夜になるんだよ? お説教聞きすぎて眠いくらいだよ」
「俺だって好きで説教たれてるんじゃねぇよ! おまえの事を心配してだなぁ……!」
「わかってるよ! つれてきてもらっただけでも感謝なんだから、これ以上迷惑かけません。
だから安心して。なにか用があれば、あたしから部屋に行くから。アカブは二週間後にあたし
の部屋のドアをノックしてくれればそれでいいよ」
「いや、そういうわけには……」
「アカブ! あたしお風呂に入りたいの。わかる? 一人にしてって言ってるんだよ! それ
ともあたしのお風呂でも覗きたいわけ?」
 うぐぐ、と、アカブが鋭い牙の隙間から呻き声を洩らす。
 数秒の睨み合いの末に諦めたようにのっそりと立ち上がり、何度も何度も千宏に外に出るな
と釘を刺しながら、アカブはじりじりとドアへと向かった。
 たっぷりと時間をかけてドアにたどり着き、ノブを握ってなお振り返る。
「ぜ……ったいに外に出るなよ! なるべくなら部屋からも出るなよ!」
「わかってるよお母さん! あたしもう子供じゃないの!」
 アカブが間抜け面で目を瞬く。
 千宏が片眉を吊り上げると忌々しげに悪態を付き、アカブは叩きつけるようにドアを閉めて
ようやく部屋を後にした。
 溜息を一つ、千宏はやれやれと天井を仰ぐ。
 窓の外は薄暗く、町には明かりが点り始めていた。
 色とりどりの輝きが建物を飾る――まるでネオンのようだと思った。
 窓からひょいと身を乗り出し、けばけばしく露出度の高い女達の甲高い笑い声に身を竦める。
「……サイズの比率明らかにおかしいんだけどなぁ」
 男女が連れ立ち、寄り添って歩く姿を見下ろしながら呟いて、千宏はひらりと身を返し、
アカブに宣言したとおり浴室に向かった。
 
 
                   ***
 
 
 エクカフの夜は明るい。
 けばけばしく、毒々しく、喧しくてごみごみしている。
 女達は着飾って男を誘惑し、男達はもとよりその誘惑に乗るつもりでこの町を訪れる。
 アカブはこの町が嫌いではなかった。色とりどりの明かりを見ているのは好きだし、やや女
性不審気味ではあるが女は嫌いじゃない。
 この町が好きかと聞かれたら二つ返事で頷く事は出来ないが、それでも毎年この町を訪れて
いるのがこの町を嫌っていない何よりの証拠だろう。
 千宏から部屋を追い出され、やる事も無いので仕方なく夜の街に出た。
 仕方なく――もなにもこれが本来の目的なのだから当たり前ではあるのだが、部屋に残して
きた千宏が気になって仕方がない。
 町にいくつもある社交場の前に立ち、アカブは顔を顰めて中に入るのをためらっていた。
 社交場――と言っても、上の階に部屋を用意していたり、訪れる者全員の目的が一つである
ことを除けば単なるけばけばしい酒場である。
 白い毛並みは珍しく、バラムと比べさえしなければアカブの容姿はいい方だ。
 一度店に入ればそれこそ引く手あまたで、その気になれば一日に何人もの女をはべらせる
ことだって可能だろう。
 だが、落ち着かない。気が散って仕方がない。
 まるで、一人で歩けない赤ん坊を部屋に残して、生まれたばかりの小動物を放置して夜遊び
に出たような――そんな後ろめたい気分が付きまとって離れない。
 店に入って、女を抱いて、一晩明けて宿に戻り、部屋に千宏がいなかったらどうすればいい。
 何処を捜せばいい。どう捜せばいい。
 
 発情期の女のにおいがアカブの情欲をくすぐる。ほぼ全ての店から溢れ出す甘ったるい香り
が本能に揺さぶりをかける。
「……無理だ」
 忌々しげに吐き捨てて、アカブは駆け出した。宿に向かって。一目散に。
 他の町に行こう。千宏を連れてもう少し足を伸ばし、二週間という長い休暇でもっとこの
世界を見せてやればいい。
 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
 千宏がいるのだ。無理にさして好きでもない町に来て、義務のように女を抱く必要は何処にも
ない。旅の連れがいるのだ。もっと他に楽しみ方がある。
 ふと、立ち並ぶ屋台の前でアカブは足を止めた。
 もしまかり間違って千宏が一人で部屋を出たりしていなければ、千宏は今頃、早くも退屈に
喘ぎながら手作りの焼き菓子をかじっているに違いない。
 おいしい物ある? と千宏は聞いた。あるとも、と答えてやらなかったのは、千宏が一人で
行動したがるのを最小限に抑えたかったからである。
 自分が付いているのなら、この危険な町だって隅々まで案内できる。
 アカブは土産を買っていってやろうといくつもの屋台に立ち寄り、一日中小言を聞かされて
へばっているだろう千宏の驚愕を思って一人口角を持ち上げた。
 
 
                ***
 
 
 想定外の事が起こった。
 予想外だった。考えもしなかった。
 まさか――まさかアカブ以外がこの部屋のドアを叩くなど、千宏には全く想像し得ない
驚天動地の大事件だった。
 実際には、宿の関係者である可能性までは考えた。
 だからこそ千宏はつけ耳とつけ尻尾を装着し、すっぽりとローブを被って応じたのである。
 窓の外からの視線を気にして、風呂上りにもつけ耳は外さなかったが、ローブはさすがに
脱いでいたのだ。
 その状態で、窓から外の様子を眺めていたのが原因だろう。
 今、ドアの前に立っている野性味溢れる虎男を前に、千宏は呆然と立ち尽くしていた。
「窓からおまえが見えたんだ――連れはいないんだろ? 俺を試してみねぇか」
「……私、発情期じゃないんです」
 妙に堅苦しい言葉を吐いてドアを閉めようとしたあたり、千宏は自分で自分を心の底で
徹底的に褒め殺した。
 そして、ドアを閉めようとした千宏の努力を無視して力づくでドアをこじ開けた虎男を、
心の底で徹底的に罵った。
「つれねぇな。安心しろよ。少し遅れてるからってどうってことねぇ。薬でどうにでもなる」
「あの、旅の途中でこの町に立ち寄っただけで、私は別にそういった事が目的では……」
 ずいと足を踏み出した男の勢いに思わず後ずさってしまい、千宏は内心舌打ちした。
 男が部屋に入ってくる。慌てて押し戻そうとした腕を捕まれて抱き寄せられ、千宏は這い上がって
来る不快感に戦慄した。
「や……やめてください! 人を呼びますよ! やめてよ馬鹿! やめろつってんだろ!」
「そう言いながら全然抵抗しねぇじゃねぇか。フード脱げよ。黒髪なんて珍しいじゃねぇか。
もっと見せびらかせって」
 これでも抵抗しているのだと怒鳴ろうとした矢先、ついとフードを跳ね上げられる。
 出来のいい付け耳がばれる事はなかったが、本来の耳の存在に気づかれたら厄介だ。ヒト
だとバレたら、それこそそのまま拉致されるに違いない。
 じたばたと身を捩っていると男が拘束を緩めてくれたため、千宏は慌ててフードを被って
部屋の隅にうずくまり、徹底的な拒絶を示して男を睨んだ。
「出てって」
「そうつんけんするなよ。ムードなんかにこだわるタイプか? なんなら一曲歌ってやろうか」
「出てけって言ってんだよ! 自惚れんな醜男! あたしには連れがいるんだ! 今はいない
けど、そのうち帰ってくる!」
「そうだな。他の女と何発かやってからな。だからその間俺たちも楽しもうぜ? な?」
 千宏の罵声など全く意に介さず、男が更に足を進める。
 時間はたっぷりあるのだとでも言いたげである――実際、それはもうたっぷりと時間はある
のだが――。
 
「あたしの連れ、嫉妬深いんだ」
「本気か? そんな男やめちまえよ」
「あたしに触ったら殺されるよ。本気で。絶対」
「返り討ちにしてやるさ」
「アカブって言うんだ。白い毛並みで、凄く綺麗で、大きくて、強いんだぞ!」
 強がって怒鳴ってはみたが、男は平然としていた。
 眼前に立ち塞がる男との距離は、もう手を伸ばせば届いてしまうほどである。
 しゃがみこんだ視界は低く、千宏には男の足しか見えない。
 その足の向こうに見えるドアを真っ直ぐに睨み、千宏は腰のナイフを握ろうとして、風呂場
に置いてきてしまったことに気がついた。
 急に心細くなる。
 見上げた先にあるのは、面白がるような余裕を含んだ笑顔。
「出ってよ……」
「どうして」
「嫌だからに決まってんだろ! 願い下げなんだよ! 出てけ! 出ていけ!」
 ふわりと、体が宙に浮いた。
 うわ、と零す間もなくふかふかのベッドに転がされ、圧し掛かられる。
「嫌なら抵抗すりゃいいだろ。ん? 抵抗しねぇってことは、嫌じゃねぇんだろ?」
 だから、これでも全身全霊を込めて抵抗しているのだ。
 瞳一杯に涙を溜めて男を睨み、千宏はまたこのパターンなのかと泣きたくなった。
 しかも今回は、合意の上とみなされているのでなお性質が悪い――ような気がする。
「嫌だ」
 アカブと生活を共にしたおかげで、虎男に対する恐怖心は大分薄れていた。
 喉が引きつって声が出ないと言う事もない。
「本当に、嫌なの。抵抗しなくてもわかるでしょ? 本気で嫌なの。嫌なんだよ!」
「まぁ待てよ。今薬やるからさ」
「いらないよ薬なんか! いらない! いらない!」
 男が取り出した小瓶を瞠目し、千宏は男に圧し掛かられた時より遥かに身の危険を感じて声を荒げた。
「こいつは効くぜぇ? 泣くほどよがらせてやるよ。ほら、口開けろ」
 死ぬ。これを飲んだら間違いなく死ぬ。死ななくても発狂する。
 瓶のふたを開け、口元に寄せられるのを嫌がって、千宏は思い切り顔を逸らして悲鳴を上げた。
「それ、アレルギー!」
「――あん?」
 男が反応したのを好機と見て、千宏は一気に捲くし立てた。
「その薬アレルギーなの。飲むと全身に蕁麻疹がでてやるどころの騒ぎじゃなくなるから!
はやくそれ引っ込めて! 鳥肌立ってきた!」
 実際、千宏の全身は余す所なく鳥肌状態である。
 そうか、だめかとあっけなく薬を引っ込めてくれた男に心から感謝して、千宏は再び自身の
機転に涙ながらに称賛を送った。
「し、死ぬかと思った……」
 思うに、この世界の人間にはいい人が多い。と言うより、トラは全体的にいい人な気がする。
 ずりずりと男の下から這い出してベッドの上に正座をし、千宏はしっかりとフードを被り
なおしてひたと正面に男を見据えた。
 男もそれに釣られたように、千宏の正面に胡坐をかく。
「あのね、あたし、実は奴隷なんだ」
「ど……奴隷?」
「そう。奴隷。ご主人様は今、町で女漁りしてるけど、帰ってきてあたしが誰かと寝たって
知ったら絶対にあたしの事酷く殴る。殺されるかもしれない。だから、抑制剤で発情を抑制し
てるし、他の男とも寝られない」
 すらすらと出てきたデタラメな作り話に、千宏自身が驚いた。
 人間、切羽詰るとどんな途方もない嘘でも真面目な顔で語れるものである。
 果たして、この世界に同族を奴隷にする制度があるかどうかは知らないが、不謹慎ながら
今回ばかりはそれがある事を願わずにはいられない。
「あの、だから今日の所はお引取り願ってですね……君は他の、もっと美人な人をひっかける
といいよ。さっきは醜男とか言ったけど、ほんとはいい男だし……たぶん」
「逃げよう!」
 がしっと肩を掴まれ、力強い声に愕然とする。
「――へ?」
 
 思わず零した千宏の声を耳に入らない様子で、男は千宏の腕をつかむとひょいとその体を
抱え上げた。
「そんな野郎の奴隷なんざやってることねぇ。安心しろ。俺が逃がしてやる」
 まずい――ことに、なった。これはまずい。善意の果てに誘拐される。
「い……いや、あの、ご、ご好意はありがたいけど! それ程酷い扱いも受けてないから……」
「殴られて殺されるんだろ!」
「あー、いや……まぁ……でもそれはあたしが不貞を働いた場合で……」
 いい人だ。善人だ。善意に燃える正義の塊だ。
 千宏は内心頭を抱えて悶絶した。なんとかこの状況を打開しなければならない。悪のご主人
様が帰って来て、この正義感を殴り倒してくれないだろうかと都合のいいことを考えずには
いられない。
 そして、男が千宏を抱えて勢いよくドアを開けた瞬間、都合のいい考えは実現した。
 ぎょっとして目を見開いた、間抜け面のアカブである。
 実にタイミングよく現われてくれる兄弟だ。おかげでいつも命拾いをしている。
 いかんせん、土産らしき物を抱えたアカブの姿が、奴隷を殴る極悪なご主人様とはかけ離れ
てはいるが――。
「ご――ご主人様!」
 それでも、言わずにはいられなかった。
 はっとした男が千宏を降ろして背後に隠し、状況が理解できていないアカブと対峙する。
 ご主人様発言に面食らっているのは明らかだ。
「てめぇか。この女の持ち主は」
 その敵意むき出しの発言に、さっとアカブが表情を引き締める。そうしていると中々に悪役
面である。千宏は生まれて初めて、悪役の勝利を本気で祈った。
「――どういうことだ、チヒロ」
「は! あ、あのですね……ま、窓から外を見ていたわたくしめを気に入ってくださったらしく、
この方が部屋にいらっしゃいまして……」
「嫉妬深いご主人様で、他の男と寝たら殺されるって怯えてたんだ。人間を奴隷扱いするなん
ざ――ましてやこんな小さくて細っこい女を殴るなんざ最低のくず野郎だ!」
 愕然とアカブが目を剥き、どう言う事だと千宏を睨む。
 男の背後でへこへこと頭を下げ、千宏は本当に申し訳ないが話しを合わせてくれないかと
身振り手振りで訴えた。
「おい坊主……」
 面倒くさそうな溜息を一つ吐き、アカブがとん、と男の肩を叩く。
 瞬間――。
「出直せ」
 破顔一生、千宏には目視できない速度でアカブの拳が男の横っ面を殴りつけ、千宏を庇う
ようにして立ち塞がっていた男は白目を剥いて昏倒した。
 あんぐりと口を開けて男を見下ろし、ついで痛そうに腕を振りながら突っ立っているアカブを見る。
 その片腕には土産の袋を抱えたままで、千宏は唇を引きつらせて乾いた笑いを零した。
 今さらながら、カブラ達に同情する。
「おら、とっとと部屋に入れ。ご主人様のお帰りだぞ」
「は……お、お帰りなさいませ。お帰りを心待ちにしておりました。本気で。死ぬほど」
 半ば呆れ気味に指示されて部屋に入り、千宏は気を失っている男にもう一度だけ一瞥をくれ
てから、
小声でごめんね、と謝ってしっかりとドアを閉め、鍵を下ろした。
 
 あの状況に至ってしまった顛末をやや誇張を交えて伝えると、アカブは納得してくれたのか
千宏を激しく叱り付けはしなかった。
 それどころか、おまえを一人にした俺が悪いとまで言い出す始末である。
 そのアカブの言葉により一層申し訳なさが引き立って、千宏はアカブが買ってきてくれたお
土産をありがたく頂きながら何度も何度も謝った。
「と、ところでさ……」
 なんだ、とアカブが顔を上げる。
 聞いていいものか悩むような質問だったが、しかし千宏は思い切って切り出した。
「随分帰ってくるの早かったけど……その、わ、忘れ物かなにか?」
 まさか、女に相手にされなかったのかなどと聞く訳にはいかず、いわんやアカブって
はやいの? などと聞く事は許されない。
 
 幾重にもオブラートに包んだ千宏の質問の真意を理解したのかどうかは知らないが、アカブ
はこんがりと焼けた鶏肉にかぶりつきながら千宏を見た。
「おまえが心配だから帰ってきた」
「……へ?」
「気が散って女どころじゃねぇよ。実際、帰ってきて正解だったわけだしな」
 それはまぁ、確かに帰ってきてくれて助かったのは事実だが――。
「あの、じゃ、じゃあ……その、し、してないの?」
 下世話な質問である。
 アカブはあからさまに嫌そうな顔をして、それがどうしたと吐き捨てた。
「だ、だってさ! あの、この町って発情期の女の人が沢山いるんだよね。ってことはさ、あ、
アカブだって、その人達の近くにいたら欲情するんでしょ? 我慢してるの?」
「んんなこと聞いてどうする」
「だって! が、我慢は良くないよ! あたしはもう大丈夫だからさ、も、もう一回出かけて
きなよ。ね? 夜はまだ始まったばっかりだよ!」
「大丈夫ねぇ……」
 呆れ混じりにアカブがドアの外に視線を投げる。
 うぐ、と言葉を詰めた千宏を一瞥し、アカブは再び鶏肉にかぶりついた。
 この話題はお仕舞いだという合図である。
「……あの」
「今度はなんだ」
「じゃあ、その……な、な……な……」
「な?」
「な……なめてあげようか……?」
 今にも消え入りそうな声で、と言うよりほとんど消えているような声量での千宏の提案に、
アカブは手にしていた肉の塊を骨ごと握力で粉砕した。
 気まずい沈黙が流れる。
 アカブは身じろぎ一つしない。
「だ、だってさ! あ、あたしが無理やり付いてきたせいで……その、折角の発情期を、無駄
にすることになりつつあるわけで……そ、それじゃあ申し訳が立たないでしょ?」
 だから、だからと繰り返し、固まってしまっているアカブを見る。
「だ、だからですね……せ、せめて、その、ご、ご奉仕をだね……」
「な……何を舐めるって?」
 無理やりとぼけて見せたアカブの言葉に、千宏は耳まで真っ赤に染めて俯いた。
 馬鹿なことを言った。馬鹿なことを言った。馬鹿なことを馬鹿なことを馬鹿なことを――!
「だから! アカブの、その、下半身のイチモツをだね……! あたしの舌でもってご奉仕を
して慰めてだね……!」
「よせ! それ以上言うな! 言うんじゃねぇ!」
 羞恥のあまり安っぽい官能小説のような表現を使って説明を計った千宏に対し、アカブは
おお慌てで制止をかけた。
 恐らくはアカブも真っ赤になっているのだろうが、生憎と毛皮のせいでわからない。
 凄まじい緊張感が二人の間に走っていた。
 とてもじゃないがお互いに目を合わせられない。
「お……女に恥をかかせるもんじゃ、ないらしいよ……」
「こ、これを断ってもおまえの恥にゃならねぇだろう……」
「な、舐めてほしくないの……?」
「いや、そういう聞き方はずりぃだろ……」
 ごくりと、お互いの喉が鳴る。
「おまえ……俺の事、男として見てねぇんじゃ、なかったのかよ……」
「み……見てたらこんな事言ってないよ……」
「見てねぇ奴にそんな事が言えんのか……」
「言えてるんだから、言えるんじゃないかな……」
 アカブがソファに腰を下ろしたまま、爪でこつこつとテーブルを叩いた。
 苛立たしげに視線をあちらこちらへさまよわせ、重々しく目を閉じてはまた開く。
「……家族だ」
「でも、バラムはパルマと……その、するじゃんか」
「パルマは元々そのために来たんだ!」
「それでもするじゃないか! アカブはあたしに舐めて欲しくないわけ? それとも舐めて
欲しいわけ? はっきりしろよ男らしくないな!」
「そりゃあ……! おまえ……そりゃ……」
 息苦しいほどに心臓が脈打ち、千宏はぐっと胸の辺りを押さえこんだ。
 
「……じゃあ、頼む」
 そう、アカブが呟いた瞬間、心臓が明らかに大きく脈打った。
 うわぁ、うわぁ――と心の中で繰り返す。
 頼まれてしまった。頼まれてしまったからには、もう引き返せない。引き返せないのだ。
「じゃあ、あの……お風呂、入ってきてください」
「あ、お、おう……」
 ぎこちなく、よそよそしく言葉を交わす。
 ぎくしゃくと浴室に消えたアカブの後ろ姿を見送って、千宏はベッドにダイブしてもんどりうった。
「うわぁああぁ! あぁああぁ! ばかばかばかばか! あたしの馬鹿! ドアホ! 単細胞
生物以下の思考力しか持ち合わせてない脳みそセリー女!」
 毛布に包まり、枕に深く顔をうずめ、もごもごとそんな事を絶叫する。
 舐めると言う事はつまりフェラだ。フェラチオだ。和風に言えば尺八である。
 そんな事やった事もないのに、舐めてやろうかなどとよくぞ言えたものだ。気持ちよくして
あげられなかったら恥さらしもいい所だ。
 始めたはいいけれど、「やっぱ気持ちよくないからやめよう」なんて流れになったら恐らく
一生立ち直れない。
「どうやるんだっけー、どうやるんだっけぇぇ……!」
 裏スジを舐めるだとか、睾丸も揉むだとか、亀頭あたりを念入りにだとか、耳年間な部類の
千宏は知識だけは豊富である。
 ベッドに腰掛けたアカブのモノを舐めしゃぶっている自分の姿を想像してしまい、千宏は再
び奇声を上げて悶絶した。
 絶叫マシンの列に並んだら最前列に当たってしまい、しり込みしているような様子である。
 今更やめられない。引くに引けない。やるしかないのだ。自分がやると言ってしまったのだ。
 相手はアカブだ。アカブだから大丈夫だ。意味のわからない理論を頭の中で繰り返し、必死
に自分に言い聞かせる。
 
 毛布に包まり、頭を抱え、とうとう口に出して大丈夫大丈夫と呪文のように繰り返している
うちに浴室で動きがあった。
 来る。出て来る。出て来てしまう。
 瞬間、すっと頭が冷えて行くのを感じ、千宏は毛布を跳ね除けベッドサイドに腰掛けてアカブを待った。
 ドアが開き、律儀に服を着込んでアカブが出てくる。
 まぁ、舐めるだけならば脱衣の必要は無いのだろう――少しだけほっとした。
 ごく最近知った事なのだが、昔から伝わる魔法というものがあるらしく、風呂上りに毛を拭
くのが大変で困る――という事は、少なくともアカブに限っては無いらしい。
 確かに、誰も彼もが毛むくじゃらのこの世界ならば、風呂上りに毛を乾かす魔法があっても
おかしくはないだろう。
 今も風呂上りにも関わらず、アカブの毛並みはふかふかである。
「じゃあ……ここに」
 気まずいので視線を合わせず、ぽんぽんとベッドサイドを叩く。
 素直に従ったアカブの重みでベッドが沈み、千宏は大きく息を吸い込んだ。
「さ、先に言っとくけど、上手ではないからね」
「あ、あぁ。わかってる」
「そ、そう……ならいいんだ」
 ぺたりと、カーペットの敷き詰められた床に膝を付く。
「あ、あのなチヒロ」
「なに?」
「別に……い、嫌ならやめてもいいんだぞ」
 まるで悪事を働こうとする友人をたしなめるようなその口調に、千宏はむっとしてアカブを
睨み上げた。
「嫌じゃない」
「そ、そうか?」
「嫌じゃないよ!」
「わ、わかったわかった! 悪かった!」
 半ば自分に向けて怒鳴ったようなものだったが、アカブは慌てたように謝罪を述べて再び
気まずそうに沈黙した。
 そうだ。そうとも。嫌じゃない。
 千宏は失礼しますよ、などと仕事的な言葉を吐いてアカブのズボンの前を開け、恐る恐る
その中のものを引っ張り出した。
 
 人間のものを見た事がないので比較する事は出来ないが、印象の中のカブラよりは小さいよ
うに思う――と思ったが、まだ完全に勃起しているわけではないのだから当然か、とも思う。
 全て体毛に包まれているのかと思っていたがそういうわけでは無いらしく、全体的にほわほ
わとした繊毛は生えていたが想像してたよりもずっと生々しい。
 舐めるのか。これを。舐めるのだ。これを。
「……まだなんもしてないのに、なんか硬いね……」
「この状況でたたねぇ男がいたらお目にかかりてぇよ……!」
 恥ずかしそうにアカブが吐き捨てる。
 そういうものなのかと納得する事にして、千宏はしっかりとフードを目元まで引き下ろした。
 舐めている顔は傍から見ると間抜けらしいと知っていたので、見せたくないのだ。
「あの、どこが気持ちいいとか、言ってくれていいからね。言うとおりにするから」
「あ、あぁ……」
「じゃあ……はじめます」
 なんとなく正座で一礼したくなる気分である。
 ごくりと唾液を飲み込んで、千宏はぺろりと舌を出し、様子を見るようにちろちろと竿のあ
たりをくすぐった。
 特に妙な味はしない。少し大胆に舐めてみる。
 たっぷりと唾液を乗せ、舌全体を使ってねっとりと――。
 
 ヒトの体温は、トラのそれより少し低い。
 少しひやりとする感触に戸惑ったが、おずおずと這わされる舌は滑らかで、どこかもどかしい
快感にぞくぞくする。
 イヌの女の舌はたまらない――とどこかで聞いた事があるが、そのイヌでさえヒトの口はた
まらないと評するのだから、相当なものなのだろう。
 ぺちゃぺちゃと音を立てて舐める千宏の頭をローブ越しにそっと撫でると、千宏はビクリと
肩を震わせて一瞬舌の動きを止めた。
「ど、どうかした?」
「チヒロ、しゃぶってくれ」
「しゃぶッ……! あ、あぁ、うん。わ、わかった……」
 必死に嫌がるまいとするその態度に、よしよしと千宏の頭を撫でる。
 躊躇するような間を開けて、千宏がぱくりと先端を銜え込んだ。
 ふにふにと柔らかな唇がカリのあたりを包み込み、舌が怯えるように、探るように亀頭を撫でる。
 苦しそうに大きく上下する肩が妙に扇情的で、慣れて来たのかちゅぱちゅぱと音を立てて
控えめに吸い上げられる感覚にアカブはうっとりと目を閉じた。
 千宏としてはそんなつもりは無いのだろうが、まるで焦らされているような錯覚を覚える。
 そのもどかしさが心地よくて、乱暴に喉の奥まで突き入れたくなる衝動を押さえ込む。
 初めてにしては上手い方だと思った。思い出したように空いた手で咥えきれない部分を
しごいたり、やわやわと睾丸を揉んだりしている。
 歯を立てる事もないし、あらぬ力で握りつぶされる心配もなさそうだ。
 顔が見たいと思った。フード越しに撫でていた手に力を込めて、皮でも剥くようにずるりと
フードを脱がす。
 慌てて取り返そうとした千宏を制して続きを促すと、千宏は恨みがましそうにしばし動きを
止めただけで、大人しく指示に従った。
 興奮しているのか、ただ息が苦しいだけなのか、千宏は顔を真っ赤にして呼吸を乱していた。
 時折口を離して呼吸を整え、舐め上げ、くすぐり、くわえ込む。
 唾液が絡み、舌が、指が、唇が、じわりじわりとアカブを追い詰める。
 自然と呼吸が乱れた。それに気付いたのか、調子付いたように千宏が動きを速める。
 這い上がってくる欲求を抑えて、抑えて、抑え込んで――。
「出すぞ――ッ!」
 短く吼えるように宣言し、意味が理解できなかった様子の千宏の口の中に思い切りぶちまけた。
 驚いたように息を詰め、千宏が身を引こうとするのを許さずに全て口の中に注ぎ込む。
 半ば恍惚として全て出し切りようやく解放してやると、千宏は苦しそうにぼろぼろと涙を流
してむせ返った。
 ぽたぽたとカーペットに白濁とした液体がこぼれる。
「な……なんで口の中に出すんだよ! 馬鹿! さいっあくだよもう! にが! まっず!
うっわまっず! なにこれ!」
 耐えられないと言うように、千宏が立ち上がってばたばたと洗面所へと走って行く。
 
 盛大にうがいする音を聞きながら苦笑いを浮かべ、アカブはものを納めて立ち上がった。
 余韻もへったくれもない。
「悪い。平気か?」
 洗面所を覗き込むと、ぐちゅぐちゅと口をすすぎながら千宏が恨みがましそうな目でアカブ
を睨んだ。
 水を吐き出して口を拭い、平気、とだけ言い捨ててアカブの横をすり抜ける。
 部屋に戻るなり千宏はテーブルに並んでいる土産の中からクッキーを選びだし、口いっぱい
に頬張ってろくに味わいもせずに飲み下した。
「あんなの平気で飲める人ってどうかしてる」
「味わった事はねぇが……俺もそう思う」
 口直しとでも言うように次から次へとクッキーを口の中に放り込みながら、千宏は恥ずかしいのか、
怒ったようにアカブから視線を反らした。
「き……気持ちよかった……?」
「よくなかったら口の中に出したりしねぇよ」
「そ、そっか……ならまぁ……うん、よかった……」
 照れたのか、少し嬉しそうな表情で、千宏がもごもごと呟く。
 事実、本当に気持ちよかった。
 さすがにプロ並みとは言えないし、慣れている女に比べたら遥かに稚拙だったが、柔らかく
ぷにぷにとしていて滑らかな舌の感触はトラの女には真似できない。
 思い出すと、出したばかりだと言うのにまた勃ってしまいそうな気配を察し、アカブは慌てて
記憶を振り払った。
「ありがとうな」
 ソファに腰を下ろしている千宏の隣に座り、ぽんぽんと頭を撫でる。
「……うん」
 照れくさそうに頷く横顔は可愛らしいが、恋仲のような甘い雰囲気は何処にもない。
 行為の最中にさえ、どこか事務的で作業めいた感覚があったのだ。それを行為の後に求めるのは
土台無理な話である。
「……あのさ」
「ん?」
「二週間……毎日、しないと、意味ないんだよね……これ」
「ああ、そりゃ――」
 明日にでもこの町を出るから、という言葉は、喉から出ずに途中で止まった。
 気付いてはいけない事に気付いてしまった。
 千宏は今、この状況から逃げられない。ここで一言、ああ、そうだなと肯定すれば、千宏は
毎日――望んでかどうかは別として、進んでアカブに奉仕をしてくれるだろう。
「顎が筋肉痛になりそう……っていうかさ、く、口に出すのはもうやめてよね。ほんっと凄い
味なんだから。あと臭い。人間が口にしていいもんじゃないよあれ」
「あ、あぁ……そうだな」
「あの、よくわかんないんだけどさ……その、い、一日一回で、た、足りないんだったら……
それも言ってくれていいからね? 一応、全部あたしのせいなんだし……」
 それ以上誘惑しないでくれ、と思った。
 千宏が恥ずかしそうに顔を伏せる。
「――チヒロ」
「うん?」
「明日の朝、町を出るぞ」
 え、と千宏が目を見開いた。
 でも、だってと目を瞬く。
「他の町に行こう。二週間ありゃあ海にだって余裕で行ける。今までは目的がねぇからここに
来てたんだ。おまえがいるなら、なにもこんな所でぐだぐだしてる必要はねぇ」
「――海? 海があるの?」
 きらきらと、千宏が目を輝かせて驚いた。
「うわぁ! み、見たい! 見てみたい! 連れてってくれるの?」
「あぁ、連れてってやる」
 その答えに感極まって歓声を上げ、千宏はアカブの首に突進するように抱きついた。
「ありがとう! アカブ大好き!」
 ぎゅうぎゅうと締め付けられ、アカブは半ば気が抜けたようになってその背中をぽんぽんと叩いた。
 
 馬鹿げている。
 千宏は家族だ。
 それを、こんな町に繋ぎとめて――それこそ、本当に性奴隷のように扱おうなどと――。
「でもいいの? 旅費だってかかるだろうし……」
「問題ねぇよ」
「海って事はさ、船もあるんだよね?」
「あぁ、あるな。入り江の対岸を結んで船が出てる――乗りてぇか」
「の、乗れるの?」
「そりゃ船だからな」
 当たり前だろう、とアカブが笑う。
 千宏は感動で顔を真っ赤に染めて、湧き上がる衝動を抑えきれないとでも言うようにばしばしと
アカブの肩を叩いた。
「ついてきてよかった。ほんとにうれしい。死ぬかもしれない。なんかアカブに一生しがみ
付いてたい気分」
 言うなり、再びアカブの首にしがみ付く。
「よし、なんか色々腹を括った! 吹っ切れた!」
「あん?」
「あたしの体、好きに使っていいよ」
 満面の笑みで言われたその言葉に、アカブは表情を失った。
 無邪気ゆえに、なぜかその言葉がひどく重く感じられる。
「それくらいしか出来ないから、なんでもして。何でも言って。なんでもするし、なんでもしていい」
「チヒロ……」
「ほんとだよ? 舞い上がって適当な事言ってるんじゃないよ。本気だから! 安心して何で
も言って! それくらい感謝してる!」
「チヒロ、よせ。そんな事言うんじゃねぇ」
「でも――」
「いいんだ。見返りなんぞ求めて言ってるんじゃねぇ。おまえはもう十分仕事してるじゃねぇか。
これ以上何もさせやしねぇよ」
「だけど……」
 不安そうなその体を、たまらずぎゅうと抱きしめる。
 先程自分が考えた事を見透かされたような気分だった。
 いや、きっと見透かされていたのだ。ずっと千宏は、だから必死に家族であろうと努力していたのだ。
 そう思うとひどく悲しかった。
 千宏がそう思わざるを得ない状況を作り出していたのは、他ならぬ自分の下心だ。
 ヒトである千宏に対し、一度も情欲の目を向けた事が無かったのかと自問すれば、答えは否である。
「家族じゃねぇか。そうだろ?」
「あ、アカブ……ちょ、く、苦しい! 半端じゃなく腕! 力入ってる! くるし――ってか
いだだだだ!」
「家族が! 一緒に! 旅行をするのに! なんでおまえが礼なんざする必要があるんだ!
そんなのおかしいだろ? おかしいよなぁ!」
「わかった! おかしい! わかったから!」
「いいやおまえはわかってねぇ! 一晩かけてまずおまえが何をわかってねぇかたっぷりと
教えてやる!」
 千宏を解放してそう怒鳴ると、千宏は泣きそうな顔をして、
「えぇ! またお説教!?」
 と悲鳴を上げた。
 それでもどこか楽しそうで、嫌そうにしながらでも嬉しそうで――。
「……アカブ」
「なんだ」
「ありがとね」
 ちゅ、と、千宏の唇がアカブの頬に押し付けられる。
 瞬間、本当に一晩中かけてするつもりだった説教の言葉が雲散霧消してしまい、アカブはに
まにまと笑う千宏に形ばかりの悪態をつき、乞われるままに同じベッドで眠りに付いた。
 
 
 

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