猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

イノシシの国03a

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イノシシの国 イノシシ編パート3

 
 

 
「それは摘むな」
 バジの制止に、なせはしゃがんだまま振り返った。
 山道を抜けて野の道へ。そしてまた山道へ。
 徒歩での旅を繰り返し、二人は移動を重ねてきた。
 傷を治す膏薬が残りわずかになってきて、薬草を噛んで代用してやった事が始まりだった。
 バジにとって生きる術のひとつだった事に、なせは大いに興味を示した。
 一人分の食料が乏しくなって来た頃合いで、軽い気持ちで食用の野草などを教えてやると、程なく粥に具が入るようになった。
 今日もまた、何気なく、なせは道端の野草に手を伸ばしていた。
「ここは、山だ。山の菜は山の氣が凝っている。イノシシならともかく、ヒトのおまえが食べていいものか、判断がつかぬ」
 ちょうど坂を上っていく林の中。ゆるやかな勾配は一見すると山なのか坂なのか区別しにくい。
 なせは手を引っ込めて、不安げな表情で彼を見上げる。
「毒、とも言い難いのだが……」
 バジは言い淀んだ。
 山菜はイノシシ達の間では食用であると同時に、薬草として重宝される。だが、他の種族に供する時は気を使う。
 イノシシ達には何の害もない。
 隠れ里や堀町の浮民にとって、時折体に合わない事がある。
 そして、この国に近寄らない、近寄る事さえ出来ない者達にとっては、死に至る毒である。
 落ちてきたヒトにとって、どう何が作用するかはわからない。
「……非常に苦くてな、口が曲がる」
 長い事かかって言葉を選んだバジに、なせはくすっと笑んで、立ち上がった。
「ぬしさまがそうおっしゃるなら」
 衣のホコリをはたいて、また歩き出す。
 その澄んだ横顔に目を向けて、バジは横を歩きながら無意識に首をかしげた。
「ぬしさま、見て? あの花のなんときれいなこと」
 道沿いの花を愛でるなせは、バジの縞合羽を愛用し、その下には破れを繕った元の着物を着て、バジの笠を被っていた。
 剥き出しの足は微かに跡が残るものの、あまり目立たなくなっている。とはいっても変わらず手足に擦り傷を作るのは毎日の事である。
 鞠山衆から手に入れた小袖には袖を通そうとはしない。
 あの日の事は、お互いあれから一度も口にせず、バジは微かに負い目を感じていた。
 飢えぬ程度に飯を食わせて、歩いて、寝やすそうな場所で野宿して、たまに道沿いのお堂で寝る。それを幾度繰り返したか。元々さほど距離の進まない旅路であったが、軟膏が尽きるだけの日は過ぎている。
 バジは、あれから進路をひとつに定めていた。
 そこについたら、すべてを投げ降ろせる。荷も、ヒトも、情も。
 バジの眼が細められる。ずっと抑えてきた『冬』への渇望。研ぎ澄まされる五感。
 近頃はなせに付き合って食事をするのさえおっくうだった。
 なせは、何も知らない。
 バジは彼方の空に目をやった。
 
『この地はなんと素朴な事か』
 他国の行商人はいう。
 イノシシの国には、何もない。
 大陸に名の知られた都も、名所も、特産物もない。
 あるのは無数の小さな山と、その間に広がる野と川、小さな里と、小さな堀町。
 ただそれだけである。
 野は里や堀町の点在する場所で、里の周りは多くは田畑となって、街道と獣道で縦横に結ばれている。
 街道とて道幅は狭く、舗装されているわけでもないから、悪路が続く。大方は橋も架かっていない。
 イノシシの国で変わったところと言えば、山にヌシがいるところだ。彼らは畏敬の対象であり、どんな衆も捧げ物をかかさない。バジも山を抜ける時は祠に挨拶をかかさない。
『この地はなんと安穏な事か』
 いずこより落ち延びた浮民はいう。
 イノシシ達は基本的に他国に興味がない。あまり遠出もしないので、滅多に他国でイノシシ達を見かけることもない。また、他国との距離がありすぎて、国交もない。唯一国境を面していると言えるほど里が近いのは、狐の国だけだ。
 男達は群れず、統率する王もなければ、内乱もない。そもそも立てる旗印などありもしない。まとまらないので、他国に攻め入ることもない。
 『白膚』の住む堀町は深い堀に囲まれていて、拡張する事は許されていない。だから仕事は細分化し、その日暮らしでも食べていけるような仕組みになっている。
 他に、散在するイノシシの職人達を束ねる元締めがおり、堀町で流通を請け負う。
 イノシシの男達は普段、勝手気ままに、ある者は職人として、ある者は、また違う仕事をして、堀町からも里からも離れて暮らしている。
 里はイノシシの女系が住む普通の里と、隠棲する浮民の隠れ里がある。どちらも警戒心が強く、閉鎖的ではある。
 しかし、普通の里は『冬』になれば里の移動も可能だし、イノシシの国に元から暮らす女なら、イノシシでも『白膚』でも『赤膚』でも『黒膚』でも平等に受け入れられる。
 隠れ里もそれなりの人数が集まって移住してくれば、山の自然を必要以上に侵さぬ事で居住が黙認される。
 豊かな野山と、きっぱりと男女で分かれた生活、足りるを知る暮らし。それがイノシシの国の日常であり、掟である。
 
 だが。
 
 同時にこうも言われる。
 
『化生さえいなくなればもっと発展するものを』
 山へ行って行方知れずになった者の遺言である。
『魔剣が使い物にならなくなるとは、いや聞きしに勝れど、恐ろしい』
 武器の行商人が去り際に言い残した言葉である。
『こんな穢れた地になど足をつける気にもならぬ』
 狐の巫女が国境で言い捨てた言葉である。
 
 イノシシの国には、何もない。
 魔力、魔法、魔術、魔洸。
 イノシシの民はそれを知らない。イノシシの民はそれを感じない。イノシシの民はそれを使えない。だから、存在さえ作り話だと思っている者も多い。
 だが、他国から来た者は違う。それが存在しないからこそ、浮民は流れ、術者は遠ざけ、商人は嘆き、ある品はがらくたと化す。
 ヌシ達の伝承によればすべては散じ、地に還る。
 生じた力は形となる前に霧散し、放たれた力はかき消え、イノシシの国を漂う凝りモノとなる。
 凝りモノは山に集う。山はすべてを吸収し、野を無害な土地とする。山に育つ草花は、凝りモノを滋養として育つ。化生も山に生まれ、山に死ぬ。
 ヌシ達はその環の中に組み込まれ、山と共にある。
 ヌシ達こそがこの国の支えであり、この国をなす根幹である。
 『冬』は、そのヌシ達がイノシシにさだめた掟であった。
 
 下り坂を行き、水たまりをよけながら、枯れ草原の中の獣道に入り込む。
 ゆるく曲がっている細道は、周囲の枯れ草の高さと相まって迷路と化している。
「あまり離れるなよ」
 そう声をかける。
 ヒトはその気になれば結構歩けるものだな、と草の陰に隠れたなせの後ろ姿を見ながらバジは感心していた。
 その辺、気もそぞろなイノシシとは違う。
「ばーじーさーまっ」
 草むらの陰からぴょこんとなせが顔を出す。
 悠然と歩くバジの表情がまったく変わらないのを見て、へそを曲げる。
 一体幾つなのか、と思わぬでもない。
 そもそも背丈が違うのだ。草原とほぼ同じ背丈のなせはうまく隠れたつもりだが、バジにとっては草は胸の辺りまでしかない。そのおかげで、辺りはよく見渡せた。
「ん」
 なせの向こう、枯れ草原の中ほどにへしゃげた窪みがある。その近くに木肌のこすれた跡を見つけて、バジは目を細めた。
 あれはおそらく……。
 鼻歌をうたう、なせを見る。
 他に人気もない。臭いもしない。
「なせ」
「は、はい、ぬしさま」
 バジだ、と訂正しようとして、幾度も元に戻った事を思い出し、バジは言葉を続けた。
「小用だ。ここで待っていろ」
「はい。人が来そうだったら草むらに隠れればいいのですね?」
「うむ」
 周囲を嗅ぐ。地面すれすれからも、特に臭いはしない。
 バジは安心してなせを置き去りにし、枯れ草原の奥に分け入っていった。
 
 イノシシ族は案外清潔好きである。
 堀町では蒸し風呂、里では水風呂、だが何といっても、旅の愉しみといえば、泥浴びに限る。
 草原は背後で途切れていた。
 草のない、泥地。
 木の枝に荷物と帯、着物をひっかけ、身震いする。
 着物の下に隠れていた、背中のたてがみが窮屈そうに寝ているのを起こす。
 下帯に目をやって、一瞬迷う。
 しかし、程なく下帯は木の枝にぶらさがっていた。
 まずは背中から。
 泥を丹念にこすりつける。
 そのうち矢も盾もたまらなくなって、ごろごろと転がり出した。
 窪んだ泥地は、先程通り過ぎた水たまりの比ではない。大きさも程よく、バジの巨体が転げ回るだけの余裕があった。
 思う存分堪能すると、木の根に腰かけ、しばらく待つ。
 しばし愉悦にひたってから、なせを待たせている事を思い出す。
 泥もすっかり乾いていた。
 木で体を擦り、泥を落としつつ、樹脂で毛並みを磨く。爽やかな木の香りが漂う。
 ついでに牙も研いでおこうかと、目を細めた瞬間。
 物音に気づいた。
「ばじさま?」
 時遅し。
 振り返ったバジの前に、目を丸くしているなせがいた。
 
 不覚。
 バジの心境を表すなら、それしかない。
 なせの視線は、木の枝や、バジの剛毛に覆われた裸の胸、背中、そして下半身などを彷徨って。
「あ」
 と、かなり遅く、両手で目を覆った。
 生憎泥場から出て、木に体を擦りつけていた身。隠すものは何もない。一物は剛毛の中に埋もれているとは言え、さすがに前から見られたら隠れるものも隠れない。
 指のすき間からこちらを見ているなせに、バジは仏頂面で立ち上がった。
 隠すから恥ずかしいのだ。
「……もう少し待っていろ。待たせたかわりに今度はおまえが入れる水浴び場を……」
 バジは、興味津々で泥に足を突っ込んでいるなせの姿を見た。
 縞合羽を脱いで笠とともに草原に置き、着物の裾は帯に折り込み、太股の半ばまで露出している。袖もまくり上げ、試してみる気満々である。
「なせ?」
「肌に良いのでありましょう?」
「いや、俺の抜け毛がだな」
 人の話など聞いていない。
 日焼けしていない太股や二の腕が眩しい。
 ではなくて。
「なせ、やめぬか。俺の毛並みの虫でもついたら困る」
「ばじさまのお側にいて、体がかゆうなった事はありませぬ」
 なせはそう言い切り、楽しげに腕や頬に泥を塗ってみている。
「乾かしてからとれば良いのでしょうか?」
「だから……」
 バジは嘆息した。
 ああ、泥を顔にまで塗りたくり始めた。
 ヒトの好奇心とは恐ろしいものだ、とバジは思う。危険なものに足を踏み出さないように、気をつけなければ。山のヌシの怒りをふとした弾みに買うとも限らない。
「乾かしたらすぐに泥をとるのだぞ」
 バジはあきらめて、木の枝から下帯を取ろうとした。
 ……届かない。
 いや、正確には、そこまで体を伸ばすと下腹が隠しようがない。
 なせに背を向ければいいのだ。目を離してもタカが知れている。と己に言い聞かせるのだが、うまくいかない。
 さっきから気になって仕方がない。
 そして、違う方向にも気になって仕方ない。
 『冬』は間近である。
 『冬』ともなれば、イノシシの男は発情した女を求めて、飲まず食わずで彷徨うのが常である。
 イノシシの女は限られた僅かな日数しか発情しない。
 発情の匂いは、すべてのイノシシの男を狂わせるほど強力である。
 『白膚』の女はそういった制限がないから、いつでも抱ける。だが、イノシシの女の振りまく匂いには敵わない。
 が、しかし。
 なせから時折、何故かその発情の匂いに似た芳香を感じる事があるのだ。
 その匂いに反応していきり立つ一物に、旅の間バジは理性を働かせるのに一苦労していた。
 そして、今も。
 胸元から、首筋から、匂い立つ、恍惚の香り。
 ただの汗だと思っても。
 バジは段々前かがみになるのを押さえようがなかった。
 
 なせはどうみても、子供の大きさだ。
 小さく、細く、頼りなげな肢体。足にも腕にも贅肉がなく、すらりとしている。
 歩いてきたせいか、太股は意外と肉がついていたが、着物の下の体も、たいした事はない、はずだ。
 バジは横目でなせをちらちらと見ながら、一人自問した。
 子供に欲情するとは、イノシシの恥。
「ぬしさま?」
 なせが枯れ草で手をこすって乾いた泥を落とし、こちらを見る。
「なんでもない」
 バジはその前に背を向けていた。
 ……隠しきれぬ昂ぶりに、あれこれと違う事を考える。
 食料の分配に思いをはせれば、先程かがんで野草に手を伸ばしていたなせを思い出す。
 他の男と遭遇する事を考えれば、なせともし他の男が出会ったらどういう反応を示すのかが気になってしまう。
「ぬしさま」
 なせの声が間近でした。
 背中にすぐ、なせの気配。
 とっさに、枝から着物をつかみ、ばっと背中へと羽織る。
「きゃう」
 小さな声がして、その後にべちゃ、という音がした。
 あえて振り返らず、平常心を取り戻すために深呼吸をして、意識を切り替える。
 下帯も身に付けてから、ようやくおもむろに振り返った。
 なせが泥場に尻餅をついて、こちらを不満げに見上げていた。
「……んもぅ」
 口をとがらせるなせをあえて無視して、股引を履き、支度を整える。
「不用意に近づくからだ。……行くぞ」
「いずこへ?」
 バジは、己のひづめの跡に寄り添うような、なせの小さな足跡を見ていった。
「無論、水場だ」
 
 なせの尻の泥も乾く頃、二人は水場へとたどり着いた。
 崖下の小さな泉は、滝とも呼べぬ、細い湧水の流れの下にあった。
 あたりは薮に囲まれ、見通しも悪い。
「ここならいいだろう」
 バジは泉に背を向け、近くの岩にどっかと腰を下ろした。
 肩に引っかけた荷をほどきはじめる。
「……あの、着替えはどうすれば?」
「その辺の岩にでもひっかければいいだろう。おまえと違って覗きはせぬから安心しろ」
「まあ、ぬしさまったら」
 なせの鈴を転がしたような笑い声が、頭上から降ってきた。耳元に一瞬息が吹きかけられる。
 バジは己を抑えた。なせの気配が去るまで、顔を上げなかった。
 足音が駆けていく。
 草の擦れ合う音と、衣擦れの音。
 深く息を吐くと、バジは腰帯に提げた煙草入れから煙管を取り出し、火をつけ、一服した。
 小さな水音が耳に入る。
 煙の輪が空に昇っていく。
 バジは大きく息を吐くと、1回分が終わった煙管を眺めた。
 なせが立てているであろう水音は、まだ背後から響いてくる。
 バジは、煙管をしまい、ついでにちらりと泉を盗み見た。
 苔むした深緑の泉に浮かび上がる、白い裸身。
 濡れた黒髪が張り付いた白い背中。
 水の中に消える、小さな尻。
 目に焼き付いたそれを振り払うように、荷から豆本を取り出す。
 絵と文が同じ頁に書かれた、堀町で流行の艶本の類いである。豆本版は過去の人気作を集めており、持ち運びに優れ、イノシシの男のあいだでひそかな人気を得ていた。
 200年程前から人気のある楽憂亭円斎の作で、かつて一世を風靡した『白鞠月恋獄』というものだ。
 『白膚』の妓女白絹と、北方より流れ着いた異人との悲恋である。
 始めは白い鞠にしか見えない異人が、白絹との七夜にわたる睦みあいで徐々にやせ細っていき、最後には白兎の姿に変わる様と、北方仕込みの見慣れぬ体位、白絹の媚態が売りの艶本であった。
 バジは、ぼんやりと頁をめくる。
 いつもなら、楽しめるはずの物語が、扇情的な絵図が、まったく頭に入ってこない。
「ばじさま」
 はねる水音とともに、ふいになせの声がかかって、バジはびくりとした。
 小さな尻の割れ目が、ちょうど脳裏に浮かんでいた。
「なんだ」
 いつにも増して、低音のぶっきらぼうな声を返す。
「赤い小袖をくださいまし。今着ていたのは洗ってしまいました」
「うむ」
 豆本をしまい、荷から赤い小袖を取り出す。
「ほれ」
 バジは立ち上がって、小袖を投げようとして、手を止めた。
 濡れた髪のなせは、雑巾絞りにした着物を草の上に広げようとしたところだった。
 胸の膨らみは、ちょうど頂点で水の中に消えている。
 澄んだ泉は木陰とは言え、にじむ裸身がくっきりと、輪郭をあらわにしていた。
「……少しは隠さぬか」
 バジは苦言を呈す。
「はい?」
 なせが小首をかしげた。
「だから」
 なせがすうっと、鼻元まで水に潜った。
 岸辺に白い腕が伸び、しっかと捕らえる。
「足がところどころ着きませぬ故」
 水辺から身を乗り出した黒髪の向こうに浮き上がった背中と、尻、そして足が見える。
 バジは、内から沸き上がる衝動をこらえ切れずに、小袖をなせの頭へと投げた。
「あっ」
 なせが手を伸ばして受け止め、小袖が濡れるのを防ぐ。
 バジは、それを見ずに怒り肩で立ち去っていき、木陰へと消えた。
 
 
 旅路は、また、始まる。
 小袖の裾をからげ、バジの匂いのしみ込んだ縞合羽と笠を深く被らせ、なせの手を連れて、バジは荒々しく歩いていた。
 引きずるような勢いで歩くバジに、なせが小走りでついていく。
 だが、元々足の長さはほぼ同じ二人。すぐに歩みの歩幅は同じになった。
 バジは苛立っていた。
 子のくせに『白膚』の妓女のような、赤い着物が汚れを落とした白い肌に映えるのは何故だ。
 小さな体のくせに、妙に女のような色気を纏わせるのは何故だ。
 なせは、うつむいて手を引かれていた。
 バジは不機嫌を隠さずに、なせを見やり、それから、前方から漂ってくる匂いに、なせの手を離し、普通に歩くよう言った。
 なせがはっと緊張する。
 程なく、荷車の音が響いてきた。
 奇妙な網笠をすっぽり被った男が、荷車と共に近づいてくる。
 なせは、縮こまるようにバジの後に隠れた。
「よう」
 男が手を上げ、こちらに挨拶してきた。
「蜂飼衆か。南へ行くのか」
「おうよ、もう北の方は霜が降りてきてな。冬も近い」
 男は大げさに震えてみせる。
「その後ろのガキはどうした」
「ああ、途中で拾ってな。仕方ないから故郷へ遠回りするところさ」
「たしかにガキ連れじゃあ、女にもてねえな。難儀なこって」
「まったくだ」
 編笠の中から、鼻先を突き出して、男は臭いを嗅いだ。
 バジの着物の裾をつかむ、なせの握りこぶしに力が入ったのがわかった。
「……しかし、そのガキ、随分変わった匂いがするな。イノシシじゃねえのかい?」
 蜂飼衆の男が、バジの後ろを突き出た鼻で指し示す。
「多分ネズミの子だろう。俺には関係ないがな」
 バジは安心させるように、笠を被ったなせの頭をぽんぽんと撫でた。
「そうか。ではな」
 蜂飼衆は怪しむ様子もなく、荷車を引かせた甲殻の獣を促して、また歩き始めた。
 この国では見知らぬ他種族も珍しくない。ましてや、バジの匂いがたっぷり染み込んだ縞合羽と笠の匂いが、男の鼻を鈍らせた。
「よい『冬』を」
 バジは見送る。
 荷車が見えなくなるまで、なせの体はこわばっていた。
「……今のは?」
 細い声で尋ねる。
「養蜂を商いとする連中だ。花の蜜を集めて国中をまわる」
 蜂蜜を見ると、ふるさとで一口だけ飲んだ、蜂蜜酒が思い出される。
「さあ、行くぞ」
 バジが歩き出すと、なせはこくりと頷いてついてきた。
 これから先は、秋も深まる、紅葉の地であった。
 
 
 イノシシ編 参(了)
 
 
 
 
 

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