猫耳少女と召使の物語@wiki保管庫(戎)

狗国見聞録05c

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狗国見聞録 第5話(後編)

 
 
      ※     ※     ※     < 5 >     ※     ※     ※
 
 
 
 あまりに大きな轟音を聞いた時、人の耳は静寂を前にしたのと同じ状態になるらしい。
 
 
 
――無音
――冷たい
 
 あたしは死んだんだろうかと。
 鉛のように鈍重な意識、もう裸同然、節々に痛む体に思って。
 
――『節々に痛む体』?
 
 
 
「はは…」
 
 ぐっと力を『瞼』に込めて持ち上げてみるのと、その声が聞こえてくるのとは同時だった。
 
「ははははははははははははははは!!」
 痛む頭にいちいち響く哄笑。
 開けた眼前に広がるのは…、……信じられない光景。
「これだから! これだからお前達はボクを飽きさせない! 楽しませてくれる!!」
 あたし達のいる場所を中心として、頼りにならぬ目測に、はたして半径、100mか200mか。
 積もっていた雪が、水溜り一つ無く消失し。
「素晴らしい! 最高だ! まさか本当に『奇跡』を呼んでみせるとは!!」
 木々の残骸とクレーターだらけの焦土。
 降り注ぐ光爆に、どうやら一瞬、意識を手放していたらしいとは言え。
 ……なのに見てみれば、どうしてあたしは……満身創痍なりとも生きているのか。
 
「…ああ、いや、でもこれは奇跡と呼ぶにはあれか?」
 夢じゃない証拠に、未だにだらだらと上空から聞こえてくるのは、興奮を隠しきれない声。
 言い直しながらも、感極まった様子を隠せない昂揚の声に混じって。
「……ッ、…ケホッ、カフッ…」
「あくまで当然の帰結、あくまで起こるべくして起きた現象……」
 背後から聞こえてきたヤバげな咳に、あたしがゾクッして振り返った先。
 目に入ったのは。
 
「……だが、普通に考えてありえない行動。美しき献身愛。涙、涙の物語なのは、真実か」
 
 
 
「ぞっ、ぞうきっ……」
 
 病気の犬みたいに、唯一焼け残った大地に横倒しになって。
 真っ青な顔で、焦点の合ってない目。
 …エビみたく背を丸めて、体を痙攣させるあいつがいた。
 
「…ハッ、ケホッ、ケッ…ァッ…」
「ちょっ、し、しっかり……っ」
 慌てて背中に当てる手にも、小刻みに痙攣する全身、時々跳ね上がる四肢に、
 幾らなんでもこいつの容態が尋常じゃないのが即座に判る。
「……っ!」
 元の世界でも救急看護の技術も何も知らなかったあたしが、何を出来るわけでもないと。
 普段のあたしなら、冷静にそう考えていれたかもしれないが。
 それでも動転していたその時のあたしに、そんな冷静な思考なんてこれっぽっちも残ってなく、
 あわあわと半泣きになりながらも、無様に傷口を探して体中をぺたぺたして。
「…………な、なんで…?」
 なのに取り立てて大量出血や致命傷が見られるわけでもない体に、
 涙ぐんで思わずそう漏らした声、答えるように。
 
 
「――本当に無知なんだねぇお姉ちゃんは。…そんな事も知らないの?」
 焦土の上にて、ただ一人変わらず。
「それは急性魔素中毒だよ」
 ぱたぱたと純白をひるがえして、敵に塩まで送ってみせる、余裕さを保ったこの化け物。
 
「キュ、キュウセイマ――」
「万象に満ちる【魔素】。魔法使いが使う【魔力】はね、それを体に負担が掛からない程度に
少しずつ取り込んでは丹田で錬って、本人が使い易いよう加工し貯蓄しといた物なんだよ」
 ビクンを大きく身体を反らせた雑巾に向き返ったあたしの背後で。
「本式の魔法使いは、瞑想法とかで魔力の集錬速度を上げたりとかの鍛錬も積むけど。
でもこれってこの世界に生きる魔法を使用可能な――【魔素】に汚染された生物なら誰でも
自然にやってる事だから、別に何晩か寝て起きるだけでもまた魔力は溜まるんだけどね」
 ご丁寧に講釈を垂れてくれるのはいいが、助けてくれる気がないのが判る以上、
 んなご高説、今のあたしにははっきり言ってどうでもいい。
 
「……まあ、最近は『魔法科学』なんて物の発達で、機械の力で【魔素】を抽出・精製しての
万能魔力――【魔洸】なんてのが出来ちゃったから、瞑想法の「め」の字も知らないどころか、
魔力を充電する物だとか、魔洸ドリンクで回復する物だとか思ってるバカも増えたけど、さ」
 必死にこいつの背中をさする、…というか、さするしかできないあたしを横に。
 
「…本当に、神秘の徒たる魔法使いが、充電器や輸血パックで魔力を充する時代だなんてね」
 黒こげになった木々や、同じく嫌な臭いを放つ黒こげの……多分元死体の只中の。
 運良く黒焦げを免れた木々や死体ですら、水分を失ってカラカラになった、
 雑巾が何かをしてくれなきゃ明らかにあたしもああなってたそんな死の世界の中にあって。
「それはそれでバカバカしくて愉快だけど、だけど夢華のないつまらない時代になったもんだよ」
 『なにノスタルジックってんだよ、頭おかしいよお前! 死ね! ○×▼□――』
 と心の中で罵倒の限りを尽くしながら、必死に変な咳が止まらないこいつの背中を撫でる。
 
 そんなあたしの怒りを他所に、教授気取りにもったいぶってヒュンと杖を振り。
「…ともかく、周囲に満ちる【魔素】が無限でも、魔法使いの魔力に底があるのはそういう理由」
 ヒューヒューとヤバい呼吸を繰り返しながら。
「だから魔力がスッカラカンになると魔法は使えない……使えない、はずなんだけど……」
 明らかになんか瞳孔が拡大とかしているこいつを前に。
 
「……でも、魔力が底をついたのに、むりやり魔法を使おうとすれば、……どうなると思う?」
 …でも嫌でも聞こえてくる後ろの声に、ビクリと身体を引き攣らせてしまうのもあたしだ。
 
「結論から言うと、行使は可能だよ。周囲に満ちる未加工の【魔素】をむりやり体が取り入れて、
足りない分の魔力に見立てて目的現象を発動させる。…でも……」
 完璧な美声と、完璧なアクセント、完璧な抑揚。
 嫌でも耳に聞こえ溶け込んで来るこいつの声が、今はとても憎らしい。
 
「『負担が掛からない程度』を越え、丹田練成過程を省いて心身を駆け巡った未加工魔素は、
当然術者の身体に尋常ならぬ負担と負荷をもたらす。…同じ身体機能のそれで例えるなら、
尿素に変えられないアンモニア、未分解状態のアルコールやアセドアルデヒトみたいな物さ」
 いちいち絶望の塩を相手の心の中に塗り込んで来るこいつが。
 
 
「――言うまでもなく、有害。…なまじモノがモノなだけに、肉体だけでなく、精神まで蝕む」
 
 ……いやだ。
 
「軽度中毒、初期症状として、まずは耐え難い吐気、頭痛、耳鳴り、軽めの躁鬱症状が起こり」
 ……どうして、なんで。
「中度中毒、第二段階になると、幻痛、神経錯誤、平衡感覚失調、精神及び感情の不安定化」
 ……聞きたくない
「重度中毒、最終段階になると、五感の異常を含めた身体機能の失調や、神経伝達異常……」
 ……いや、だ。
 
「…耐え難い激痛と共に、痙攣、瞳孔拡大、精神裂壊が見られ、…最悪発狂、または死に至る」
 
 
 
 ふいに強い力で。
 がくんと、地べたに引き摺り倒された。
 
 痛みの駆け巡る身体に、だけどびっくりして、何事かと思ったその頭上で。
 ひゅん、と空を切る音を立て。
 あたしの身体が今まであった部分を通って、その向こうの地面を凍りつかせる氷の刃。
 
 
 
「……だっていうのに、なんで?」
 
 焦土の央にて、ディンスレイフが首を傾げたその先に。
「……こんな弱い、何の力も持たない無能の為に、どうしてそこまで出来るの?」
 ガクガクと痙攣しながらも、左手を突き出して怨敵のまなじりを見据える。
「お兄さんの手持ち魔力は、《レモラァ》を回避した時点で既に完全に尽きてたはずだ」
 ボロボロの黒衣、あたしを組み敷きながら地に這い蹲った、こいつの姿。
「――それ以上魔法を使い続けたら、 ほ ん と に 死 ぬよ? 」
 ヒューヒューおかしな息を吐く、雑巾の。
 
 ヒュッ、と振られた杖の先から飛んだ真空波が。
 …ぶつかる前にただの突風に戻って、泥だらけのあたしの髪を撫で後ろに過ぎてゆく。
「……やめて」
 差し出された白い袖先の左手から生まれた火の玉が。
 …震えながら突き出された黒い袖先に、くん、と当たる前に横に逸れて飛んでいく。
「…例え死ぬまで行かなくても。これ以上やったら、本当に一生残る様な心身障害に陥るぞ?」
 
 持ち上がった黒く煤けた石が。
「…もう…やめて…」
 パチパチと音を立てて、中空に生み出された雷の玉が。
「…何より今のお兄さんの身体は、死んだ方がまだ楽に思える位の激痛に襲われてるはず」
 
 掠れてしゃがれた咳が漏れて、地に這った雑巾の身体がのめっても。
「やめて、やめてっ、やめてえっ!」
 …それでも突き出された手、飛んできた数本のツララの軌道が全弾変わる。
「たかだか片手の指二本へし折られ、片腿の肉抉られたた程度の痛みは比べ物にならない、
全身の痛覚神経を一本一本捻られるかの、並の人間だったら十分発狂できるだけの痛みが」
 
 『指二本へし折られるのなんか比べ物にならない』『発狂できるだけの痛み』
 …さっきそれをやられ身に覚えたこの身としては、それがどれだけ恐ろしい事か、嫌でも。
 
「いやあっ、いやあっ、いやああああっ!!」
 どれだけ暴れても、震える体に、だけど押さえ込んだ血塗れの右手はがっちりと離れない。
「もういいっ、もういいから、もういいからやめて、やめてっ、やめてえええっ!!」
 暴れ泣き叫ぶあたしを押さえつけながら、それでも魔法が逸れていく。
 
「なんでっ!!」
「…なぜだ?」
 叫び、あるいは理解できないという顔で問うた問いは。
「どうしてさぁっ!?」
「…どうして、そこまで、できる?」
 奇しくも、同じで。
 
 
 
「――…言った…だろ、う…」
 
 ぶるぶる、震えて。
「……オレ、は…《秩序の剣》、《国家の、犬》……公、ぼ、く……」
 立ち上がる事もできず、辛うじて肘で身を起こしながら。
「……官憲の、手先が…しかし、国民を守る、事、忘れ、たら…なに、がっ、ゲホッ、ゲホッ!」
 血走った目で、咳き込みながら。
「軍人…公安…ハウンド、が……おまわ、りさ、んが…」
 とっくに限界超えて、今にも死にそうな身で。
「…街の、お巡りさんが。…無辜の…市民を守って。…何が……悪い…?」
 火事場の馬鹿力とか、命を燃やしてだなんて、流行らないのに。
 
 ――ふっ、と。
 
「…………だいじょうぶ…、だい、じょうぶ…だ」
 ……血でべたべたの汚い手が、あたしの頭を静かに撫でた。
「やっと。 ……ようやく、見つけた…んだ…」
 ……ガクガクブルブルしやがってる顔で、無理して笑顔まで作りやがって。
「…剣を振るう、守る、べきもの」
 ――どうしてこいつは、そんな笑顔で笑うかな。
「……オレが。 ……いていい、理由」
 ――どうしてこいつは、ここまで優しそうな目を声をできるかな。
 
「…………まも、るぞ……」
 痙攣しながらなのに、左手に短剣を握って。
「死んでも……守る!!」
 瀕死のはずなのに片膝を立てて立つ姿は。
 …もう言葉では、表し様がない。
 
 
 
「……そうか」
 そして、魔法を打つ手すら止めて呆然と。
「……貴様は、『犬のお巡りさん』なのだな」
 自分の方が、ありえない規格外なのに。
 まるでありえない物でも、見たがみたく。
「『英雄』でも、『勇者』でもない、ただのお巡り、辺鄙な山奥の町の交番の巡査風情で…」
 何とも間抜けな呆けた声で。
「……でもだからこそ、偽善と奇麗事を越えて、全ての『迷子の子猫』を守ろうとできる」
 しかしブツブツと。
「社会と秩序に組み込まれ、万民を守る事を務めとされた、国家の飼い犬、哀れな軍犬」
 まるで独り言めいて、あたしらを前に勝手に自分の世界に入り。
「本来正義など反吐の出る題目だが、しかし逆転の発想、それもここまで昇華されれば最早…」
 何か画期的な発明でも見たかのように、興奮と共に杖の宝珠を撫で。
 
「 …… は は 」
 ――ああ、やっぱりこいつは。
「 …… 素 晴 ら し い 」
 ――『キチガイ』だ。
 
「魔素中毒を起こしてひっくり返った瀕死のイヌに、それに守られる涙と鼻水塗れの弱きヒト!」
 鼻息も荒く、目を輝かせ、杖でぶんぶんとこちらを何度も指しながら。
「この上なく醜く――」
 狂ってないけど、狂ってる。
 力もあって、頭も良くて、…だけどだからこそ、永遠に歯車が噛み合う事はない。
 
「――そして、だからこそ、なんて美しい…!」
 
 夢見るような眼差しで、天に伸ばして掲げた腕を、胸の前へと握り締め。
 興奮に打ち震える、派手な詩人みたいな演出過剰の動作。
 
「なんてささやかで、なんて取るに足らない、…しかし奇跡まで呼んで、なんと強いっ!」
 猫耳、尻尾、裾を余らせた白コート。
 瞳のハシバミは繊細を、短めの茶髪は快活を。
 『見た目だけ』なら、ショタ好き垂涎、誰もが美とする、子供と大人の中間美。
「ここまで! ここまでの輝きとは! 5年…いや、10年ぶりか!? 間違いなく最高級ッ!!」
 無尽の魔力に、至高の魔才。
 天賦の美声に、完璧の抑揚、高き唱術・話術は自然すら騙し。
 遍く囲った神器・魔導器に、万魔万象を統べ揃え。
 あまつ持つのは不傷不動、決して傷つかぬ【賢者】の心。
 
 
「よもやこんな辺境、戯れのつもりが、ここまでの逸材に出会えるとは思わなかったぞっ!」
「「……だまれ」」
 
 ――でも、中身は、最低のクズだ。
 
「二流、三流であっても名優は名優!! 小粒であっても、しかし輝くものはなお輝く!!」
 見開いた邪悪の猫目、行き過ぎた興奮に剥がれ落ちた装いの純真無垢の裏、
 覗くのはおよそ外見からは似つかわしくない哄笑の表情と、見た目に外れた尊大な言動。
「素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らしいぞッ!! お前達を輝石級と認定しよう!!!」
「「……だまれ、キチガイ」」
 雑巾とあたしの声が重なるのが、同じ感想が漏れるのが、今はとても喜ばしい。
 …こんな外見だけの化け物に、ほんの少しでもエロ萌えを感じてた自分を今は悔やもう。
「誇れ! 誇れ! 誇れ!! このディンスレイフが、しかし貴様らに正真の賛辞を送るっ!!」
「「……だったら勝手に送ってろ、クソガキが」」
 
 三度重なったあたしらの声に。
 にいっと笑ったのは妖猫の笑み。
 
 
「…いいだろう」
 そう言ったディンスレイフが何を思ったか。
 ふいに例のごとく、手品で取り出したナイフに自分の親指をぴゅっと切った。
 
 
「…そこまで舞台に上がるを拒むのなら。…そんなに華と彩りを拒むなら」
 それに踏み込もうとする雑巾を。
 
「そんなに勇者や英雄としての死を嫌い、サーガの外、一介のお巡りとしての死を望むなら!」
 押さえつけるように返された左手から、再度のシューティングゲームの弾幕、無数の魔法。
 
「貴様らのその稚拙だが強い物語に敬意を表して、このボクの方が舞台の下に付き合おう!」
 しかもさっきの【火蝶】まで、今度は一瞬にして守りでもするかに、群れ現れる。
 
 
 ――そして、ぐぐぅ…っ、と押し込むように傾けられた杖に。
 全力全開、今度は最初からフルパワーでの弾幕展開。
 
 
 もう何もない焦土を抉っていく、炎や氷、風に雷、石打の洪水、光の奔流に。
「ガッ…ァァアア…」
 凍ったと思えば溶かされ、砕け散る風刃に放電が混じり、時折【火蝶】の特攻まで加わる中。
「ぞうきっ――「「…ゥ…ゥゥゥゥゥウウウウウ!!!」」
 しかしそんな雲霞の如き魔法の洪水が、全てこいつの手前で逸らされて、
 左手に引っ掴んだ短剣、突き出された痙攣の右腕、ただ両脇の大地を抉り過ぎていく。
 
 しかし、同時に たちん と。
「《汚れし水より、生まれ出でよ狂える水精、怨嗟と悔恨を飲み込んで、不浄のジンを此処に》」
 すっと頭を下げられた杖の頭、先端の翼部分より。
「《滅び行く崩霊、さかしまの狂霊、葦舟にて顕現せよ、――クリエイト・ブラッド・エレメンタル》」
 垂れた血を、ごぼっと音を立てて沸き立てて。
 
 その、それだけの魔法を、宙に浮かんで――浮遊の魔法を行使しながらも並行に。
 …一体幾つの魔法を同時に、そしてどこまで使ってみせるというのだろうか。
 
 
 
「……はは、っははははは、あっはははははははははははははは!!!!」
 笑い声と共に、ふいにうなりを上げて飛んできたのは。
 …そこら辺に転がっていた、半分ミイラになってた黒こげでない盗賊の手下達の死体。
 
「さぁどうした『人間』のお巡り? 絶対の強者が、貴様ら弱者を蹂躙するぞ!?」
 四方から飛んできたそれが、垂らされて泡立つディンスレイフの血の上で激しくぶつかって。
「田畑を荒らし家を踏む、悪いビヒモト《獣の王》を打ち滅ぼすのが」
 ──めきめき ぐしゃぐしゃ と。
「人に仇為す害獣を、しかし駆逐するのが貴様ら『軍人』の仕事じゃないのかぁっ!?」
 プレスにされた挽肉みたくに、不自然に小さく、内縮していくそれらに。
 だけど不思議と吐き気も背ける目もないのは、おそらくもう完全に感覚が鈍磨してるからで。
「なのに出来るのは、はは、せいぜい愛しの弱者を守ってのせめてもの無駄な時間稼ぎ!
ははははははっ、散り散りに裂き破れた精神、狂死の無駄死にでも殉ずるだけかっ!?」
 ──でも、みるみるただの赤黒い塊、赤黒い液体になっていくそれに。
 ──直感的に、何かヤバイものだと。
 ──さっきの降り注いだ『光の雨』並に、あるいはそれ以上にヤバイものだと。
 
「……なるほど【法の使徒】、【法の力】とは、その程度か」
 だけど雑巾は、顔面蒼白、膝をついたまま立つ事もできない。
 押し寄せる五色の奔流を逸らしながら、あたしなんかを守りながら戦ってるせいで、
 危機が迫ってるのが判ってても、動くことすらままならない。
「《正義の剣》、《秩序の剣》、《国家の剣》とは、つまりはその程度のなまくらガタナかっ!」
 それどころか片膝を立てながらも全身の痙攣、過呼吸はどんどん酷くなっていって。
「『獣』一匹殺せない、それが『社会』の、『人間』の程度という事かあっ!」
 叩きつけられる魔法の洪水の向こう、投げかけられる言葉、投げつけられる嘲笑に。
 …だけど変な呼吸の感覚が短くなり、とうとう頭まで垂れて、地に向いた。
 
 
「……赤子を攫って喰ってやろう」
 ──それでも、突然調子を変えたそんなディンスレイフの言葉。
 ──雑巾の身体が、ビクッと動く。
 
「生まれたばかりの乳児の肉は、骨まで食えて柔らかいからにゃ♪」
 ふざけた言葉。
 挑発なんだとは思う。
「……丹精込めて六ヶ月、育て続けた作物を、収穫間際に食い荒らしてもやろうなぁ」
 でも同時に、にやにやとした笑い、…こいつはそれをやるだろうとも、反面で思う。
「愛し合う恋人の片方を殺し、森に迷い込んだ子猫を喰らい、妊婦の腹を裂いて胎児を啜り、
真冬の最中、貴様らの作った家小屋を、鼻の一息で吹き飛ばし、腕の一振りで潰してやろう」
 この強さにかこつけて。
 ただ自分が楽しむだけに。
 右往左往して嘆き悲しむ弱者の愚かな振る舞いを、ただ見て、眺めて、楽しむ為に。
 
「な に せ ボ ク は 、 ビ ヒ モ ト 《 獣 の 王 》 だ からに ゃ あ ♪ 」
 
 こうやって揶揄して、人の言葉の揚げ足を取って、強いがゆえに無力を嘲笑って。
 
「……ッククククククククッ、」
 転じて冷酷な笑み。
「…あいにくと粗野で野蛮な『獣』なものでねぇ、貴様ら弱い人間共の事情なんて分からない」
 見下した、ゴミに唾でも吐きかけるような声に。
「お前らの『哀しみ』、お前らの『理屈』など、知った事じゃないんだよ、っははははははは!!」
 ギリッ…と、震えるのは雑巾の歯で。
 
「――だってこの世は【弱肉強食】♪ 生き物は皆生まれながらに死ぬまで【独り】♪
そして世界は平等にあらず、極めて【不条理】で【不公平】、それが真理で真実で♪」
 調子外れの歌、嘲笑いの言葉の果てに。
 かざした杖の下、泡立ち膨らんでいた赤黒い塊が。
「…弱い方、喰われる方が悪いのに、哀しみや復讐を題目に、【弱肉強食】の摂理に逆らって。
『愛』や『信』などを求め標榜して【独り】に耐え切れず、檻に囚われた心を羽ばたけると謳い。
【不条理】を許せず世界に逆らって、非弱肉強食、社会という名の幻の都まで築いてみせる…」
 涼やかな言葉と共に、ぱちん と弾けて。
 
「…貴様ら自称『人間』、自称『獣人』共の生き方の方が、幻、嘘っぱち、反世界なんだから♪」
 
 飛び散った、粘っこい濃縮の血溜りから、ふいに ぬっ、と。
 異次元から伸びでもするように、……『真っ赤な腕』が。
 
「傲慢にもなり切れず、獣にも戻れず、なんて中途半端で虚構だらけのいい加減……」
 
 ぞわり と直感的に、心の奥底、根源的恐怖に訴えかける『その何か』が。
 伸び上がって、ぱしゃり、と血溜りの淵を取っ掛かりに掴み、さらに肩までを――
 
 
「…ね、そう思うでしょ? …さっきからお兄さんの後ろで守られてばかり、ゴミクズ以下の……」
 
 ――ふいに圧し掛かる重みの消えた体、腰を掴まれて。
 
「……愚図のお姉さ――
 
 ――思いっきり、ぶん投げられた。
 
 
 
 
 
 空中に聞いたのは。
 うなりをあげて叩きつけられていたはずの初級魔法の嵐に混じって。
 
 「無駄だと言っ――
 という言葉に重なる、鼓膜を叩いた爆発音。
 
 靴が地を蹴る音。
 炭化した木が踏み折られる音。
 
 じゃああああ──っ!! と。
 焼けて油のしかれた中華鍋に、冷水でもぶちまけたかのような音。
 地を抉り穿っていた魔法の連弾の音が消え。
 キィー……ン と、虚空を切り裂く何かとても澄んだ綺麗な音が。
 
 
 
 次の瞬間、叩きつけられて、地面に横転したあたしの全身を、痛烈な痛みが襲う。
 …それでも耐えて目を開いた、その視界の広がる先には――
 
 
 
 
 
 ――もうもうとした白煙が。
 
 ……否、煙ではなくて、立ち込める湯気、……水蒸気の渦があった。
 
 
 場所は、ディンスレイフが浮かんでいた所。
 ただし黒衣のイヌの姿も、白衣のネコの姿も、一見して周囲には見受けられない。
 唯一判るのは、雑巾が何かをやったんだという事だけで。
 崩れ落ちそうになる身体に固唾を飲んで、あたしが晴れ行く水蒸気を見守る中で――
 
 
 
「――B+(ビープラス)」
 
 
 
 ――……見ま、もる、なか、で……
 
 
 
 
 
「……悪くない。エセ一流にしてはよくやった」
 徐々に拡散していく蒸気の向こうで。
 
「…だが、若いな。…あの程度の挑発に乗らずにいられないとは、まだまだ青い」
 だけど見えてきた光景は。
 
「……しかしこんなムチャが出来るのも、若さ故、」
 傷一つ付いていないディンスレイフに、突き上げられる杖。
「信じるもの、守りたいものの為に命さえ捨てれるのも、その熱さ、その幼さ故か」
 その杖の先、もう焦点の定まっていない目で空中に。
 
「……しかも、『炎の氷柱』」
 両刃の根元の柄先に、ルビーとアメジストを埋め込んだ黒曜の重戦斧を振り下ろした格好。
「ふっふふ、なんたる邂逅、これも運命の奇遇、偶然の女神の微笑みか?」
 ゼッ、ゼッ、と短い喘ぎを繰り返しながら、そのままの格好で固まらされた雑巾の姿と。
「懐かしい。初めてボクが年一の魔剣オークションを見学に行った年の、目玉品がこれだった」
 ずるりと、その手から力なく滑り落ちる、魔法の斧の姿。
 
 
 
      小娘を掴んだハウンドが、それを全力で横に投げた。
      そして返す左手に、性懲りもなく銀閃を放つ。
     「無駄だと言っ――
 
      矢、投擲武器、そして最近魔才の無い者達が使うようになった銃弾ですら。
      『自分へと向けられた、投擲者の手を離れての、害意ある、全ての飛び道具』は、
      それが投石器の大石や、大砲の弾、攻城兵器の類でも無い限り、
      悉く自分が張り敷いた【返し矢の法】に引き掛かり、例外なく放った者に撃ち返る。
      それに懲りもせずに短剣を放つ駄犬に軽蔑の目を向けようとして……
 
      ――バチャン、と。
 
      『自分に対して』ではなく、『自分の足元』に立った音に、目を剥いた。
 
      今まさに形を持とうとしている血精の澱み。
      投げられた肉厚の短剣……ソードブレイカーは、そこに突き刺さり。
     (ッチ! 技術だけはッ!)
      寸分の狂いもなく、術の魔力中枢点を貫いて。
 
      ……しかも。
      血溜りに突き刺さった短剣の柄に、何故かひっ絡まって来た小型のアームバック。
      違和感に身を固めるのと同時に。
 
     「《――起》」
 
      細く聞こえた声に、爆発、放電、氷塵、突風、火炎。
      入れ物を突き破って溢れたのは、ちょうど彼が操るような万象の洪水。
     「ッ!!」
      土塵を巻き上げて吹き上げる突風に、しかしそれが彼の所に届く事は無い。
      風すらもいなして、土煙すらもその純白の衣に寄せ付けない、
      それ程に強力な彼の防御の魔法であるのだが。
 
      ……それでも一瞬、目を焼かれて。
      自分のものと、更に混じって乱れ飛んだ五色に、視界を奪われたのは確か。
 
     「味な――」
      それでも、伊達に《トリックスターズ》、S級と呼ばれる世界の大犯罪者ではない。
      目も見えず、耳も聞こず、小賢しい幻術などを使われようとも、
      しかし命の動き、魔素帯びた者の大まかな位置など、
      真理の眼を持つ彼にとっては、たとえ目を閉じても手に取る様に判る。
     「――真似をっ!」
      素早く横に飛んだ者の気配を追いかけ捉えるように、
      かざした手を動かして、火球の、氷柱の、鎌鼬の、雷球の、石礫の雨を送りやる。
 
      ほんの少しだけひやりとしたのは、認めるが事実。
 
      …しかしそれ以上に、期待を込めて背筋に走るゾクゾク、興奮したのも確かだった。
 
      ――一命を賭し、捨命も辞さぬ覚悟をした人間の恐ろしさは知っている。
      実際に幾度か、そんな者達に窮地に追い込まれた経験がディンスレイフにはあり。
      そうして幾度か、信じられないものを目の当たりにさせられた経験が彼にはある。
      ……だがだからこそ、興奮は止まらない。
      ……そんな者達が、命を砕け散らせ、華散らす様は、いつだって何よりも。
 
      真横への動きが、直線へと転じた。
      直線に転じる瞬間、手に握ったのが何かはディンスレイフにも見当がついたが、
      …しかし何よりも、それよりも素晴らしいのがその動きだ。
 
     「……素晴らしい」
 
      ――逸らしてなど。
      ――すでに捌いてなど、いない。
 
     「……素晴らしいッ!」
      今や全身を魔素に侵されて、今すぐに死んでもおかしくない身のはずなのに。
      肩口にツララが突き刺さっても。
      雷球が確かに着弾して全身を光が伝っても。
     「素晴らしいぞッ!!」
      全身を貫いているはずの、死んだ方がましと思える魔素中毒の激痛にも関わらず。
      どてっ腹に火球を受けたのに、明らかに衝撃を無視して仰け反りもせず。
      鎌鼬に薄く切り裂かれた腕に、黒の布地を飛ばし、血を噴き散らしながら。
     「貴様、貴様ッ、実に――」
      木偶人形のようになったはずの鉛の体、動けるだけでも奇跡だと言うのにだ。
      もはや消音結界、消臭結界すら展開しない中。
      全力で踏み抜いた大地、バキンと炭化した木の枝をへし折って。
     「――最――」
      そうして走りながら後ろ手に掴み、背後に隠していたヘビィアクスを両手で振り上げ。
     「――高――」
      空っぽの魔力、限界まで魔素に汚染されたはず、発狂寸前のはずの身体なのに。
      魔力を――輝く紅玉に紫水晶、凄まじい蒸発音を立てながらスチームを撒き散らし。
      現れた熱風と気圧に、彼の身を守っていた【火蝶】の群れを吹き飛ばして。
     「――だ!!」
      全身全霊を持って振り下ろされた長柄両刃の重斧が。
 
 
      ……しかし キィー……ン と。
 
      突き出された杖の寸前。
 
      一見何も無い、何の抵抗もないはずの空間にめり込み穿って。
 
 
 
 ガランッ と、何かの上を滑り転がり落ちるように落ちた重戦斧。
「──そう言えば『PDR』……『魔法防衛三態』の、最後の一つの実演が無かったな」
 ふいに思い出したようにこちらを向いて、
 うっそりと微笑んだディンスレイフが、左手を虚空にかざすとそこに燐光が宿り。
 
「 ……これが、【プロテクション《防御》】だ 」
 
 …反応するように光り輝く可視となったのは、宙に浮かぶ本人を囲む球。
「ディフレクション《偏向》やリフレクション《反射》と違って、もっとも基本、もっとも一般的。
もっとも簡便で小細工なく、しかし故に術者の力量がそのまま忠実に反映される防衛術」
 光の膜。シールド。バリアー。
 ……おそらく様々な言い方ができるのだろう、
 指を立てて微笑むディンスレイフを覆った、ガチャポンのカプセルみたいなそれ。
 
 ……でも、それももうどうでもいい事だ。
 首吊り死体みたくダラリと四肢を垂れて、焦点の定まっていない虚ろな目。
 杖の先、中空に固定される雑巾の姿を、目の前にしては。
 
 
「──手は見事だったよ、始めから『これ』を見越して、だから一撃必殺を狙ってたんだろう?」
 …雑巾が、本当にボロ雑巾みたいだった。
「同時に二つ以上の魔法を使える、本式の戦魔法士。…攻撃と防御の魔法を同時に使える
一流魔法使いが相手になると、結界強度を越える攻撃を叩き込まないとダメージが通らない」
 感嘆を込めて、噛み締めるように呟くこの『強過ぎる個人』に対して。
 ひくひくと痙攣して動かない雑巾の姿は、ほとんど廃人みたくに見えて。
「そして無尽の魔力を持つこのボクでも、確かに一度に同時処理できる魔法量には限りがある。
……だから浮遊、火蝶陣、そして血精召喚にと、『スペックが一杯になった瞬間』を狙って来た」
 滲んだ視界の向こうに、それがぼやけていく。
 
「ふふ、しかも並の武器では通らないと見て、騎士ではなく軍人らしい発想、敵の武器まで使い。
フェイクで血精召喚を中断すると共に、一度見た相手の技、蒸気と気圧差で火蝶を消し飛ばし、
死を賭した身、もはや魔法を逸らそうともせず、モロに受けながらも正面から突っ込んできて…」
 ただ、それでも浅く短い切れるような息。
「…最後の最後、相手が油断した瞬間に、驚愕まで重ねての、知恵に、勇気に、環境、手札。
決定的な実力差を逆転させる為、それら全てを渾然一体にと繰り出された、必殺の一撃――」
 胸の上下に、辛うじて生きてるのが判る、瀕死の姿。
 
 
「――しかし、現実は非情。…それでも届かないものは、届かない」
 
 そんな、『まあまあ面白い映画だったよ、85点かな?』、とでも言うかのような。
 ねぎらいの、しかしあくまで人をバカにしたねぎらいを含んだその口調に。
「ボクの対物結界を力ずくで破ろうってんならさ、それこそ攻城兵器でも持って来ないと」
 ナルシスト、自尊心の塊。
 全ての『人の一生懸命』を踏み躙っておいて、尚なんの痛痒も感じないかのように、
 ハハハハ、と笑える、【賢者】の心を持ったこの目の前の、化け物、怪物、異形の悪魔に。
 
 
「…クソ、」「……ガキが……」
 
 
 震えて蒼褪めた、二つの唇から虚しくも漏れた言葉。
 
 言葉で言うだけなら、簡単で。
 ……でも、だけどそれでも、言葉でしか言う事ができないんだと、このガキは、多分一生。
 
「クソガキ? っははははは」
 万策が尽きた中で、髪をかき上げて子供が笑った。
「ネコを見た目で判断するのは、良くないなあ、お兄さんにお姉さん?」
 綺麗なボーイソプラノ、仮面を作って微笑んだ顔だけでは、類稀なる萌えショタっ子。
 ――でも。
 
 
 
「…… 図 に 乗 る な よ 若 造 共 が 。 こ う 見 え てもボ ク は 、 今 年 で 4 2 3 だ 」
 
 
 
 …………
 
 
 ……よん、ひゃく?
 
 
 
 言葉に、驚く暇もなく。
 
「《――飛べ、》」
 
 無慈悲にも左手に集まった、緑色の光。
 
 
「《ヘレスベーグ》」
 
 
 ばしゃっ、と。
 何か熟れた、スイカか何かの重い果実を地面に叩きつけるような音。
 空に駆け上がっていく巨鳥の形を取った緑の光に続いて。
 
 たくさんの血を、お腹から撒き散らして。
 
 赤いシャワー、まるで人形のようにガクンッと、斜め上方に飛ばされる雑巾。
 
 スローモーションみたいに。
 
「いっ……」
 
 そうして放物線を描いて、その頂点に達した時。
 
「《――潰れろ、ニッドホーグ》」
 
 バシンッと、まるで何かの巨大な手に地面に叩き落とされでもしたく。
 
 明らかに不自然な体勢、大地をへこませまでして、大音響を立てて地面に叩きつけられた。
 
 何か重い物がバウンドし。
 
 しかし更に加えられた力に地面へと押し込まれ、抑えつけられ、潰れる音。
 
 
 
「いやあああああああああああ――――――――――――――っっ!!!!」
 心が壊れそうなくらいの、金切り声。
 
「……繰り返すようだが、『筋は悪くなかった』。…だが、実に残念だったな」
 遠くから誰かが鼻で笑う音と共に、思い出したように付け加えられた言葉が聞こえた。
 
「――300年ほど、年季が足りなかったようだ」
 
 高らかな哄笑が、脳に響く。
 
 
 
      ※     ※     ※     < 6 >     ※     ※     ※
 
 
 
 元よりネコはその長い寿命のせいで、外見と実年齢が一致しない事の多い種族だが、
 それでもディンスレイフは、その中でも特に特別な存在だったと言える。
 
 老化はしっかり進んでるし、声変わりもしていて、生殖能力にも問題はない。
 しかし外見に関しては、その余りにも過大すぎる内に秘めた魔力に成長が阻害されてか、
 おおよそ400年近くも前に、成長はこの姿のままで完全に止まってしまったきりだった。
 
 だからマダラの美少年、それが正真正銘、彼の本当の、偽り無き姿。
 ……誰もが信じず、そうしてガキのくせにとタカをくくってくれる、実に便利な身体だ。
 
 
 
「あっ、ああ、あああ…ああああああ、あああっ、ああああああああああああ――
「《――動くな》」
 
 ピタリと。
 無様にも腹を裂かれて地面に落ち転がった、大好きなイヌのご主人様に這い寄ろうと、
 意味不明な嗚咽をあげてのたのたとしていたヒト召使いの少女を。
 ただの杖の一振りにて、黙らせ、その場に縛り付ける。
 
「……! …! …!!!!」
 それでも必死に口をパクパクさせて。
 ダダをこねるように動けない身体を動かそうと必死になっているこの小娘は。
 
 ……自分も同じように死にそうになっている事に、気がついているのか、いないのか。
 
 
 
 興奮物質が過剰分泌されてるせいで、本人は自覚症状がないようだが。
 …舌がもつれ、四肢が上手く動かないのは、
 ほとんど裸同然で冬空の下に放置されたが故に、既に低体温症を起こしているからだと。
 …その興奮状態が過ぎ去れば、すぐにでも猛烈な睡魔が襲って来て。
 弱く脆いヒトの身、この季節の夜と明け方に掛けての冷え込みに耐え切れず、
 まず間違いなく天への階段に足を掛けるのは確実だと。
 
「…っ! …ッ! …!! !!!」
「…………」
 そんな簡単な事も判りもせずに、無理なのに諦めず主の下へと這い寄ろうとする。
 そんな姿が、無様にも、けれど――
 
 
 ――指が折れていたのは左手の方だったなと思いながら。
 
 とりあえず、思いっきり靴の裏で踏んでやった。
 
 
 
「ッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
 
 本来なら絶叫や七転八倒もしている所。
 だが、しかし彼の《縛》は完璧だ、それすらもこの娘には許さない。
 ヒトは別世界からの来訪者だけあってか、そのほとんどが魔法への耐性が薄い。
 それに加えて魔法の「ま」の字も知らぬこの小娘が、
 彼の術をレジストできる可能性は万に一つ、億に一つもありえないだろう。
 ……この世界のヒトとは、それ程までに弱いのだ。
 
 もっとも本や歌劇の中では、ここで『愛の力』や『心の力』が奇跡を呼んだりもするのだが。
 しかしそんな事が現実には決して起こらない事を、ディンスレイフはとてもよく知っている。
 
「……その程度の痛みにすら耐えられぬか、小娘」
「っ!!」
 もはや声を欺く必要もない、本来のテノールに戻して冷笑をぶつけてやる。
「…あのハウンドは、貴様のその十倍百倍の痛みにも耐えたというのにな」
「!!!!」
 そうしてその度に、いちいちビクンと身を引き攣らせるこの小娘が、実に可愛らしい。
 
 
「……憎いか? このディンスレイフが」
 足蹴に、嗤いながら。
「これだけの『力』、これだけの『強さ』を持ちながら、しかしそれを己の為にしか使わず、
弱き者達を虐げて甚だしい、この私を自分勝手だと、傲慢だと、キチガイだと思うか?」
 その瞳の色と変化に、存分にそれを楽しむ。
「 …… く だ ら ん 」
 下目遣いに見下ろしてやって。
「……それこそが貴様らの『甘え』、貴様らの『傲慢』だと、何故気がつかない?」
 間違いなく『輝石級』、その輝きを、存分に味わう。
 
 
「強者は弱者の為にと力を尽くして、弱者の為にと存在して、それが当たり前の存在か?」
 その弱さが、うっとおくも好きだ。
「誰かが得た力、誰かが得た幸福は、分け合うものか? 皆で仲良く平等に?」
 その愚昧さが、忌々しくも好きだ。
「そうして、それが当然か。弱者は守られて当然で、世界の一番の権利者は大多数の弱者か」
 弱い者が必死にあがいてもがき暴れる、その様を見るのが大好きだ。
 
「『強者』は常に『強者』としての自覚を持って行動せねばならず、
『弱者』の妬み嫉みは、黙って甘受するのが『強者』としての当然の務めだと?
『持てる者』は常に『持てる者』としての自覚を持って行動せねばならず、
『持たざる者』の悪意を甘受するのは、『持てる者』に生まれたが故の義務だと?」
 蔑み、笑い、見下しながらも。
 しかしそれだけは、紛れも無く嘘ではない。
 
「そうしてそれに従わぬ生意気な強者は、数の暴力でよってたかって鎖に縛り、誅して滅す…」
 本当はそんな自分を心のどこかで卑下しているからこそ、指摘された点に反応する。
 そんな矛盾した相手の心を、ザクザク貫いて矛盾を論破し、のたうつ様を見るのが好きだ。
「……それを貴様らは、【正義】とか、【法】とか、【人間社会】とか呼ぶのだなぁ」
 そうしてそんな永遠の矛盾した思考に悩む者のそれを指摘して、
 苛め抜いた挙句に精神に亀裂を生じさせてやり、苦しむ嘆く様を見るのが好きだ。
 
 
「……貴様らだけだぞ?」
 ある者は【金】を、ある者は【善意と良心】を、ある者は【名誉と忠誠】を信念とし。
「獣も、虫も、魚もそうではないのに。…貴様ら人間、貴様ら獣人だけが、それを振りかざす」
 そうしてこの者は、【法と秩序】を信じようとした。
 
「…昔々、ある村の子供が、言いつけを破って森の中、獣の領域に入り、故に食い殺された」
 それも、【法と秩序】にしか生きられぬ不器用なイヌの主を愛するがゆえに。
「『心優しい』両親は、子を殺された恨み哀しみを理由にして、国の騎士団に訴えを届け……」
 一緒にその道を歩んでやろうと、一緒に信じてやろうと、【法と秩序】を信じようとしたのだ。
「よって騎士団は、人里に害為し、子供まで喰らう悪逆の獣めと、その獣達を駆除・殲滅した」
 嗚呼、美しきは献身愛。
「どこにでもある物語、どこの国でも良く見かける光景。…しかし、しかしだな」
 なんともいじらしい主従愛ではあるが、しかし――
 
「…ここにどれだけ、獣人と呼ばれる者達のエゴが含まれているか、」
 ぐっと覗き込んだ顔に。
「娘、お前には判るか?」
「…ッ!!」
 ビクリと身を竦めさせる、この娘の顔にありありと浮かんだ唾棄と憎悪。
 …しかし放たれる人語を解するが故の、迷いと苦渋が愚かしくもゆかしい。
 
 
 ――これだから、『ヒト』という生き物は面白い。
 もっとも弱く、もっとも力の無い、天涯の孤独、異なる世界からの異邦人のくせに、
 しかしそんな自分の立場を判るからこそ、だからこそ誰よりも『理解しよう』と力を尽くし。
 …そうして『中途半端な力しか持たぬ者』達の、もっとも優れた『補器』となる。
 
 王侯貴族や上流階級に限らず、彼らが愛され愛でられる理由が、理解はできる。
 『弱く力無きを、嫌が応にも自覚させられ、しかしそれでも前に進もうと、歩み止めぬ者達』
 ……『支える者』たるのに、これほどの適任適材は、なるほど無い。
 
 
「…『獣』は、自分の家族や子を殺されても、恨まぬし哀しまぬ。それが自然の摂理だからだ」
 しかし『補器』故に、『主体』の存在意義が傷つけられれば同じように傷つく。
「癒しを求めて哀しみなぞに溺れたり、復讐という名のくだらぬ逆恨みにも囚われたりしない」
 『補器』故に、主人の信念を砕かれれば、ヒトの信念もまた一緒くたに砕ける。
 
「狩り易い老獣や幼獣を襲い、足の遅い子持ちの雌が襲われるは、至極当然の真理だろうに」
 ――なれば、それを砕くのも一興よ。
「なのにお前達は、なぜそれに憤る? 守れぬ自分達ではなく、襲った相手に責任の転嫁を?」
 ――信じたい。信じてやりたい。信じてあげたいという、その切なる思い。
 
 ――しかし真理と論理による論破の前、信じられなくなった時。
 ――主を信じてやりたいという気持ちが叶わなくなった時、この娘の心は瓦解する。
 
 
「……なぜ言わぬ? 『憎いから、邪魔だから、目障りだから下等な獣共を滅したのだ』と!」
 ――その煌めきが、見たい。
「なぜ言えぬ? 『そうだ自分は傲慢だ、強者が弱者を蹂躙して何が悪い』と豪語できぬ!?」
 ――追い詰められて、『自分』を守る為の標榜を全て剥ぎ取られて。
 ――ひぃ、と泣き声を漏らしながら、砕け散るその心の、なんという美しさよ。
「なぜ飾り、彩り、幻に隠す! ただのエゴを、しかし善意や正義、社会という修辞の数々で!」
 ――命が、魂が、自壊する間際に放つ最後の煌めき。
 ――死んでいないだけで、生きていない者達が、唯一輝ける最後の瞬間。
 
「っはははははは!! そうまでして自分が正しい、自分は悪くなかったと思い込みたいか!
人間、集団、社会という名の虚飾を使って、悪いは相手、仕方なかったんだと言い訳したいか!」
 現に目の前の小娘は、泥と涙と鼻水と涎でぐしょぐしょの顔で。
 呪縛の下にある身体を、いやいやするように身じろいで。
 ほとんど半裸の身体を、ビクビクと。
「本当に、どいつもこいつも、『自分』を守るので忙しいことだな! っはははははははは!!」
 胸や秘所を隠そうともせずに。
 折れた指ごと、左手を自分に踏みつけられながらも。
 少しでも自分の論破から逃げるように、嗚咽を漏らしながら耳を地面に押し付けて。
 
「はははははははは…ははは……」
 眼も、歯も、きつく食いしばって。
 醜態を晒しても、死の迫る最中に、それでも信じようと。
「…はは………」
 
 ……ギリギリと食いしばって、しかし耐えるその心。
 
 ……そうまでして。
 
 ……そうまでして、しかし信じたいというのか。
 
「…………」
 
 
 
 ……愚かな娘だ。
 
 思考放棄してしまえば、あるいは正気を手放してしまえば、楽になれるというのに。
 あのハウンドと違って、おそらく何の軍事訓練も受けていない素人の身に、
 しかしここまで意地を張る、それがどれだけの苦痛であるか、本音を言えば、理解はあり。
 
「……クズが」
 吐き捨てた言葉に、気丈にも噛まれた奥歯。
「どうしてこんなクズを、あれだけの男が必死で守ろうとしたのか、さっぱり理解できん――」
 そんな彼の言葉に、しかし今度は芋虫みたいな身体をビクリと震わせて。
 
「――というのが、建て前なのだが、な、」
 だが左手に乗せていた足を、ふいに脇にどけてやると。
 
「……しかし今は……、……本音を言いたい気分だ」
 くん、ともたげた杖に、横たわったその身を念動で持ち上げる。
 
 
 
「――『美しく』、『強い』な。……お前達は」
 
 
 ……彼の口から零れた言葉が、よほど予想外だったのだろう。
 
 流石に相手が怪訝そうな、困惑したような表情を、ほんの僅かだが浮かべたのが分かった。
 
 持ち上げたヒトの女の身体に、だけど涙に濡れた頬を、ゆっくりと撫ぜてやる。
 ……途端に背けられ、再度歯を食いしばった相手の顔の反応に、
 "嫌われたものだ"と内心で笑いつつも、しかしそうでなくてはと嬉しくなるのも事実だ。
 
「……たまに、お前達のような者がいる」
 
 ――5年ぶり、10年ぶりの輝石級。
 
「……どれだけこのディンスレイフが押し潰しても。…傷つき、泥にまみれはするが、
だけど決して砕け散らぬ、頑なにも宝石のような心を持った、『弱くも強い』者達が」
 
 ――ちらりと背後を見やった姿に、横たわる黒衣のイヌを見、
 
「『死んではいないが生きてもいない』弱者達の中にあって、しかし真に『生きる』者達。
この世界で、この劇場で、弱く儚く惨めに無様で、だけど実は最も『美しいもの』……」
 
 ――憎しみに燃える相手の瞳を、歪んでいるとはいえ慈愛を持った目で見つめながら。
 
「……私がもっとも好きで、そして何よりも愛して堪らないものだ」
 
 
 
 
 
――なんと弱い
――なんと不完全な
 全てを持ち備えるディンスレイフは、そんな世界と人間の様子を、ただそうとしか感じない。
 
 
 本当に、愚かだと思う。
 四元や五行、自然の力に乗っ取ってといいながら、自然を乱す事甚だしいネコやヘビの国も。
 月の力を借りるといいながら、月を利用しているウサギの国も。
 神に伺いを立てると言いながら、神をシステムに組み込んでいるキツネの国も。
 実に、『ものは言い様』というやつではないか。
 敬っていれば、感謝していれば、しかしどれだけ利用して、力を搾取してもいいわけだ。
 …ちょうど弱者達が、形ばかりはペコペコしながらも強者の財を奪っていくように。
 
 しかし、自分はそんな事はしない。
 自分はそんな言い訳や虚飾、言い様によっての誤魔化しなど用いない。
 どうせ結局は奪う事には変わりないのだから、最初から奪う。
 自然を利用し、精霊を利用し、神すらも足蹴にして、月すらも組み敷き力を搾取する。
 誰もがそんな彼の力の使い方を見て、鬼畜、外道と罵るが、
 しかし現に、そんなやり方によって、だけど彼の力は比類ないほどに強く大きく美しく。
 ――ならば、それが答えだという事ではないか。
 
 
 また愚かだと思う。
 ちょっかいだしたがりのお節介焼き、『表』では八方美人に、法と正義を唱えるイヌの国も。
 力ばかりで頭の悪い、しかしそれを正当化するのに忙しいトラの国も。
 置いていかれまいと焦って慌てて、しかしそこを掬われ転んでもがいているカモシカの国も。
 力弱きが故に海へと逃げ込んで、それをすっぱい葡萄の理論で陸を諦めたサカナの国も。
 ライオンも、オオカミも、ヒョウも、トリも、また同じく。
 自らの国のイデオロギーを主張し、自らの種族のイデオロギーを主張する事に忙しく。
 似通った容姿と考え方の者達でコロニーを作って、馴れ合い争う様はご大層で。
 
 誰も、彼も、頭の悪い、要領の悪い。
 群れて、馴れ合って、誤魔化すことしか出来ない、嘘だけは得意なクズばかり。
 力のない故に哀れであり、頭が悪いが故に哀れだと彼は思う。
 
 ディンスレイフには、そんな彼らが理解ができない。
 そんなくだらない事に拘泥して、必死になっている彼らの行動が、理解ができない。
 最初から自分は自分だと、自分一人でも別に証明できたディンスレイフには、
 何をそんなに、彼らは『自分達は誰か』という事を証明するのにムキになるのか分からない。
 隣の豊かな国を妬んで、持たぬが故に羨む事甚だしく、我も我もと幸せを求め、
 そんなかの国々の様を、弱いという事、豊かでないという事は哀れだな、位にしか思えない。
 ……そうしてそんな彼の考え方を、誰も『実力で』改める事が出来なかった。
 弱きに矛盾した世界の馴れ合いを、彼にも納得できるように正当化できる者はいなかった。
 ――ならば、それが答えだという事ではないか。
 
 
 死に掛けた事が、無いわけではない。
 伊達に大陸全てを敵に回す身、滅ぼされかけた事だって、何回かあった。
 
 並みの者ならばその前に立つことすら出来ぬディンスレイフなれど、
 昔――三代前の弧耳国の巫女長とやりあった時、とんでもない呪いを身に受けて。
 あるいは先代のアトシャーマの女王とやりあった時、レシーラの怒りに身を焼かれて。
 または100年程前、威信を掛けたル・ガルの大討伐隊に包囲されて。
 自慢ではないがカドゥケウスを奪って逃走する際、あのザッハークともやりあった事もある。
 ……特にル・ガルの大討伐隊に囲まれた時など、
 まさか『たかが一人』相手に三万もの軍を動員して布陣してくるとは思わなかったので、
 流石のディンスレイフも本気で死に掛け、逃げる事に全力を尽くさざるを得なかった。
 
 そうして命からがら逃げ延びて、瀕死に追い込まれ、生死の境を彷徨った事も二度三度。
 もしくはそこまで行かずとも、窮地に追い込まれ、敗走を余儀なくされた事は数多無数。
 
 ……しかし、それでもディンスレイフはここに健在している。
 それほどまでされても、しかし誰も彼を完全に滅ぼす事が、『獣』を殺す事が出来なかった。
 ――ならば、ただそれだけが真実ではないか。
 
 譲らず、妥協せず、分かち合わず。
 邪魔する物は全て押しのけ、欲しい物は全て手に入れての、この大道。
 しかし誰も彼を滅する事ができないなれば、なればそれこそが唯一に全ての証明よ。
 ――誰も止められないならば、結局それはそういう事でしかないのだから。
 
 
 騎士に、魔法使いに、軍人に、兵士に。王族に、貴族に、商人に、平民に。
 その誰もが、彼が振りかざすそれを『詭弁』だ、『屁理屈』だと言いながら、
 しかしではと言われて振りかざすのは、どれも道徳論に感情論、理屈の通った説明ではなく。
 そうしてきちんとした反論らしい反論もできずに喚くだけ喚いた後、みな無様に死んでいった。
 …言葉で言うなら誰にでも出来る、陰口を叩くだけなら誰にでも出来るというのにだ。
 
 『世界は貴様の劇場ではない』、『人の社会は幻ではない』、『愛や優しさは確かにある』。
 そう言うだけなら、誰にでも出来て。
 実に多くが彼の言葉に憤ってそう反目し、しかし結局証明できず、
 そうして彼の嬲りに心を砕かれ、あるいは信じていた物を壊され死んでいった。
 
 喜劇、悲劇、また喜劇。
 惨めに命乞いをする者もいたし、仲間を裏切って、自分だけは助かろうとする者もいた。
 恋人を差し出せば助けてやると、あるいは子供を差し出せば助けてやると言ったら、
 ちょっと痛みと苦しみを加えただけで、本当にそれを差し出して助かろうとした奴らもいた。
 勿論そんな奴らは、反対側の恋人や子供だけ助けての全殺しに決定。
 醜いもの、弱いもの、愚かなもの、つまらないもの、興醒めなもの。
 …善悪うんぬん以前に、彼がつまりはそれが嫌いなのだと、分かっていなかった連中だ。
 そうして残った方の恋人や子供も、生き残ったとは言えそんな相手の裏切りに呆然と佇み。
 
 ……何が『世界は劇場なんかじゃない!』だ、紛れもなく劇場ではないかと。
 事実の前に霞む奇麗事、くだらない、馬鹿馬鹿しいと。
 
 
 そう思いながらも、しかしディンスレイフがこの道に入って、確かすぐの出来事だった。
 
 
 ――ネコの剣士の男と、同じくネコの狩人の女
 
 ――事を構えるまでに至った事情は忘れたが、その時も相手は二人。
 ――構図も今と同じで、早々に弓を折られ、負傷してリタイアした女を男が庇う格好に。
 
 ――そしてまたその時も、相手の男の剣の実力は『エセ一流』止まりだった。
 
 ――半端な才能を、しかし努力でカバーした、よく練られた熟練の剣。
 ――二流を超えてはいたが、しかし一流には届かない、天才の剣ではない秀才の剣。
 
 例によって相手の実力に合わせて程々の手加減をしてやったディンスレイフに、
 相手は意外にも善戦したが、しかし最後には力尽き、女を庇って膝をついた。
 
 そうしていつもの如く始まるディンスレイフのねちねちタイム。
 『まずは心を壊してから』『その後に肉体を破壊する』
 当時も変わらなかったディンスレイフの腐れた美意識による、
 相手の信念・信条・主義主張を破壊する、莫大の力を背景とした絶対理論による心の蹂躙。
 時折の肉体的苦痛や拷問、脅迫などを交えながら、それはいつものごとく進んで……
 
 
『ああそうだよクソガキが、確かに世界はてめぇの言う通り劇場だ!』
 最後の最後、追い詰められてとうとう開き直ったかと笑い。
 ……しかし、そう言った奴を見たのはこれが初めてだと。
『でもな……踊るしかできない、端役の二流役者だからってバカにしてると痛い目みるって事』
 最後の最後、一枚ずつ人間が心を守る為の薄衣を剥ぎ取られて行って。
 しかしその局面、『劇場じゃない』と言い張る奴はいても、『劇場だ、でもそれの何が悪い』と
 言いきれた奴は今まで居なかったと。
『惚れた女の手前のダメ男の意地って奴、ガキのてめえに見せてやるぜ!!』
 満身創痍、死にかけのこの期に及んで、のたうちあるいは罵詈雑言を漏らした者はいても、
 こういう風に不適に笑って、こんな冗談めかした言葉を吐けるような人間など居なかったと。
 
 ――そう気がついた時には、すでにディンスレイフの顔は恐怖と驚愕に彩られていた。
 
 当時は彼も150を越えたばかりのまだまだ若輩、今と比べては術も未熟。
 奪った国宝や魔導器も数える程、カドゥケウスやガーヴオブローズも未所持だったとは言え。
 
 ……しかしつい先刻まで完全に圧倒していたはずのエセ一流を相手に、
 だけど信じられない猛攻、死に掛け相手に追い詰められている自分の姿があった。
 半身を凍らせ、また半身を風に切り刻まれ、その上炎を纏いながら、
 けれど血を吹き上げて限界を超えて振るわれる膂力に、壊れたが如く獣のような雄叫び。
 さっきまでは傷一つつけられなかったはずの自分の結界に、
 とうとう相手の一撃がヒビを入れたのを見た時、ディンスレイフの恐怖は限界に達し……
 
 ……全魔力を込めての大火弾、自分もあおりを食らって手酷い火傷を負いながらも、
 無様にも尻餅をつき、手を泥に汚して、ようやく止まった黒こげの相手を目前に。
 
 ……だけど、『何か』を感じたのは事実だった。
 
 
 ――そうして、それよりももっと信じられなかったのが。
 
 こんなのに焦りまで感じ、無様にも尻餅までつかされて。
 …しかし弱きはともかく、『強い』相手には敬意を払うのを忘れないディンスレイフである、
 正直心の底では素直に感嘆、信じられない奇跡を目の当たりにさせてもらった礼も兼ねて、
 男が守ろうとした女の方は、せめて命を助けてやろうと思ったのだ。
 
 なのに。
 
 助けてやろうと、せっかく彼が言ったのを無視して。
 原型すら留めていない黒焦げの男の亡骸、耐え難い異臭を放つそれに這い寄った女が、
 ……次の瞬間懐剣で自分の喉を掻き切って、男の上にと倒れ込んだのである。
 
 
 信じられなかった。
 理解ができなかった。
 これには当時のディンスレイフも、唖然として立ち尽くすしかなく。
 そうしてさらに信じられなかったのが、女の死に顔の、その安らかさ。
 
 こんな気持ち悪い黒焦げ死体に、どうしてこんな顔で抱きついて死ねるのか。
 なんで助けてやると言ったのに、わざわざ死を選んだのか。
 確かに世界が劇場なのは事実だが、しかしあるのはただ無様な喜劇と悲劇だけのはずで。
 誰だって死ぬのは怖いはずじゃないのかと。
 死んでやると言い、だけど現実には自分一人じゃ死に切れないのがこいつらじゃないかと。
 …実際彼が今まで見てきた奴らだって、みな命を惜しがって、少しでも苦痛から逃れようと、
 くだらない反論、無駄な意地、自分だけが可愛く、そうして一矢も報いる事ができずに。
 
 ……なのにこいつらは何なのだろうと。
 結局はただの自己満足じゃないかと、『理屈』では理解できず、『理屈』ではそう思って。
 
 ――でも、男の限界を超えた奮迅に感じていた『何か』が、
 女の行動とその死に顔を見た時に、確かな形となって、彼の心に生まれ落ちるのを感じて。
 
 
『すごい……』
 カラン、と杖を取り落として、二人の死体の前に座り込みながら呟いていた。
『すごい……すごい…、すごい、すごい! すごい!! すごいっ、すごいぞ、すごいっ!!』
 呟いて、叫びに変わりながら、何度も何度も、まるで子供のように。
 打ち震える歓喜に、背を走るえも言われぬゾクゾク、下半身に集まる興奮と快感。
 気がつけば涙を流して、ズボンの中に射精しながらも叫んでいた。
『綺麗だ…、ああ、綺麗だ…! ……なんて、なんて綺麗なんだ!!』
 
 泣いて、泣いて、泣いて喜びながら、自分も二人の死体をいとおしむように撫で。
 ……そんなあの時の感動は、今でも忘れられず、そうして言葉にも表せない。
 
 
 あまりにもつまらない、何の為にあるのか、ディンスレイフには分からなかった世界。
 
 ……でも、世界は醜くなんかなかった。
 ちゃんと美しかったのだ。
 
 くだらなくも虚飾とエゴに満ちた、醜くも愚かに哀れな喜劇と悲劇ばかりではない。
 …真に美しくも輝ける、本当の愛の物語も、ここにはあったと。
 その事を証明し、また彼に教えてくれた彼らの事は、今でも一日足りとて忘れた日はない。
 彼らこそが、初めてちゃんと行動でディンスレイフに証明してくれた相手。
 言葉ではなく、行動で持って、愛の存在を証明してくれた相手だった。
 
 初めて弱者の為に墓を作り、思い立って『サンプル』も採取し。
 ――そうして蹂躙の道行きの中の、ディンスレイフのもう一つの探求の旅が始まった。
 
 
 
 
 
「……今なら、分かる」
 浮かんだ身体の背に手を回し、そっとかき抱いてやりながら耳元に囁いて。
 覗きこんだこの少女の瞳の色は。
「ああ、綺麗だ」
 涙に濡れて、星月の光を反射し。
 彼への憎悪の炎に、愛する者を失った事への哀しみ、何も出来ぬ自分への自己嫌悪、
 …そうして、だけどだけど、燦然と輝くのは強く強き意思の力。
 逃げ出したい程の痛みと苦しみと哀しみに、しかし愛ゆえに立ち向かう信念の炎。
 
「あのハウンドは、お前にこの目をさせたくなかったから……」
 それこそが、真の輝石。
「……愛しき者にこの目をさせたくないからこそ、お前達は頑張るのだな」
 信念という名の金剛石に、怒りという名の紅玉を持って、哀しみという名の青玉を含む。
 優しさという名の翠玉に彩られて、そうして輝くは愛という名の真珠の玉。
 その全てを一つに含んで涙に濡れて、どんな宝石よりも美しい、世界を美たらしむ真の宝石。
 修辞と虚飾に満ち溢れた稚拙の劇場を、しかし輝かせる本物の色がここにある。
 
「無駄な足掻きとは分かっていても、…ああ、だが」
 マダラのネコの少年魔法使いと、宙に浮かんだ半裸のヒトの女。
 背の高さが同じくらいな事からも、一見すれば絵になる光景と見えるかもしれないが。
 だけど現実にはこの女の瞳が映して、自分に放つのはただ憎しみに蔑みのみ。
 彼女が愛するのは自分ではなく、後ろでくたばった大柄な獣男だ。
「このディンスレイフの目には、その足掻き、決して無駄ではない、しかと映ったぞ」
 ――しかし囁いて、それで良いと。
 ここで自分への憎しみ以外のものが瞳に宿るような事、ディンスレイフは望まなかった。
 それだからこそ、この世界は美しいのだから。
 
「『いのち』の煌めき。…虚飾と幻の世界にあって、お前達弱者だけが作れる『本物の美』」
 持つ者は、少ない。
 出せる者は、ほとんどいない。
 サーガ《叙事詩》やオペラ《歌劇》、シネマ《観劇》のように、そこら中には溢れていない。
 現実という名の劇場において。
 しかもこの土壇場にして、死の間際。
 全てを剥ぎ取られた後に、しかしなおこの宝石を輝かすことの出来る人間は、実に稀だ。
 痛苦を越えて、死の淵にあり、しかしなお自分ではない、相手の事を思える人間は。
 
 
「…ッ、……ッ、……ッ」
 《縛》下にあって、だけど声も上げられず啜り泣くのはヒトの娘。
「…そう、自分を責め虐めるな」
 それに今度ばかりは嘲りも蔑みもなく、ディンスレイフは労わりとねぎらいの言葉を掛ける。
「…お前は実に優れた『補器』だよ。…自身は気がついていないかもしれないがな」
 『奇跡』は、しかし現実には物語のようには起こらない。
 『奇跡』は、待っていても来るものではない。
 そうして『奇跡』を他力本願に期待し待ち望む者の所に、決して『奇跡』はやって来ない。
 
「お前がいたから、あのハウンドはあそこまで頑張れた」
 しかしある者は兄弟を、我が子を、友達を守ろうと。
 またある者は恋人を、主を、召使いを守ろうと。
 心に『輝石』を持つ者達が、最後に自分ではない何かを、他人を守ろうと行動する時に。
 限界を超えて招聘された、実にささやかな、…しかしありえないはずの光景がそこに広がる。
「お前がいたからこそ、自力で奇跡を手繰り寄せ、限界を超えてまで身体を動かせたのだ」
 ある者はとっくに限界を超えた体、最後まで我が子を彼の炎から守り続けた。
 ある者は敬愛の主を守る為に、とうとう立ったままに絶命した。
 ある者は普通なら気が狂うはずの痛苦を越えて、尚このディンスレイフへと肉薄し。
 そうしてある者は、最後の最後でありえないはずの動き、絶対におかしい動きを見せた。
 
「お前とあのハウンドは、だから二人で一人。…合わせてこそ評価されるべき対象だ」
 それはウサギの国の因果操作などと言ったような、理屈に収まる技すら越えて、
 愛の為にと死を覚悟した人間が、限界を超えて力ずく、強引に呼び寄せた自力の奇跡。
 いずれもが結局はディンスレイフには届かない、
 せいぜい元の肉体の力を120%、150%程度引き出した程度に留まる力。
 天使を呼んだわけでも、死人を生き返らしたわけでもない、実に些細なありえる奇跡。
「ただ己が力のみで奇跡を手繰り寄せる者達に、しかし私は賞賛を惜しまない」
 …だが、それでも奇跡は奇跡、ありえない光景はありえない光景。
 そうして愛でるべき、行動を通して証明された、この世界の真の美なのは違いなかった。
 
 
「…それでも、やはり憎いか? このディンスレイフが」
 正した問いに。
「…!! …ッ!!!!」
「…ふふ、それでいい」
 だけど瞳を見ただけで変わらないと分かる答えに、今日もディンスレイフは心晴れやかだ。
 
「……憎め、憎め、好きなだけ憎め」
 それが、彼の美学だ。
「好きなだけ陰口を叩き、悪し様に罵り、地団太踏んで悔しがり、憎しみの炎を燃やすといい」
 理解などされずとも良い。
「毒を盛り、罠を仕掛け、あらゆる策謀を巡らせて、数の暴力で私を殺しに来るといい」
 彼はそれを求め。
「…私は、強者は、しかしその全てを跳ね除けて、なおこの王座にと君臨し続けよう」
 故に今日も、その道を他の誰かに譲る気はない。
 
「……私は、他の卑怯者達とは違い、お前ら弱者からその権利を奪いはせぬ」
 『その権利』を奪わない。
 そんな卑怯は決してしない。
 力強く、ゆえに搾取しておいて、しかしなのに嫌われまいと、まだ愛されようとする卑怯者達。
 そのような『心の弱い』者達の真似を、だけど彼はその美学から決してしない。
「私は強者として蹂躙しお前達から奪う。奪われるお前達は存分に妬んで憎むがよい」
 『憎む権利』を奪わない。
 弱者も、人間も、獣も、自然も、精霊も、月も、神も、国も、社会も。
 だけど存分に彼を憎み、また怨んで良いのだ。
 彼はそれらから簒奪し、しかしその行為を修辞や虚飾、幻などでは飾ろうとせぬ。
 そうして故にこそ強者として、純光の真理の下にと立ち行ける。
 
「……理解できないか? …だが、出来ずとも良い……」
 唾を吐きかけようとして、だけど《縛》にできなかった相手の少女の頬を、優しく撫でる。
 ――理解などされずとも良い。
 
「……それで良いのだ。強者と弱者、分かり合えず、喰らい喰らわれが世の摂理なれば」
 揺らした猫耳、屈託のない笑顔に、そっと胸に当てた手。
 ――理解などされずとも、けれど彼の胸の内には、確かに、この『美』が。
 
 
 
「……ぅ……」
 …背後から上がった声に、素直に驚いて振り返った。
 自分とこの娘以外、この場に喘ぎ声を上げられるような者はというと――
 
「……驚いた」
 
 ――身じろぎして、微かに胸を上下させ。
 しかし濁った目に虚空を見つめ、辛うじて生きているのは紛れも無く黒衣の軍犬。
 
「ッ!!!」
「…まさかここに来てまだ生きているとは、呆れるほどに頑丈なのだな」
 声にならない叫び声を上げる少女を横目に、なれど素直に感嘆もしよう。
 
 確かにイヌはオオカミやトラ程ではないにせよ、頑健かつ強靭な肉体の持ち主だ。
 あまり差の無いメスはともかく、オスの成人ともなると、確かになかなか死ににくく、
 急所を一撃か、明らかに即死な攻撃でも入れられない限り、即死は無いのが常なのだが。
 しかし、それでも満身創痍の重度中毒。
 終いには彼の《ヘレスベーグ》に腹を裂かれて、おびただしい血を流しながらも、
 それでも息が絶えないのは、やはり軍人としての鍛え抜かれた肉体によるものなのだろう。
 
 ……恐らく精神は完全に砕け散り、もはや自分が誰なのかも思い出せまいとしても。
 
「…っ! …ッ! …!! !!!」
「……ふむ」
 生きていると分かった相手に、途端にそれでも必死に駆け寄ろうとするこのヒトの女を見て、
 ばさりと衣を翻して顎に手をやり、ディンスレイフは考える。
「……このまま野ざらしにしておいても、放って置けばあのハウンドはじきに死ぬ」
 そうして娘の前に立ちはだかると、聴こえるように。
「……お前も同じ頃、一刻二刻と持たずして、共に凍えて野垂れ死ぬだろう」
 憎しみに燃えながらも、涙して前へとあがこうとするこの娘に。
「本来ならば、その様をじっくりと鑑賞して楽しんでもいいのだが……」
 わざと酷薄な事を言って、その反応を楽しみもして。
 
 
「……だが、今は、そんな事でこの美を穢したい気分ではないな」
 
 
 だしぬけに ふっ、と息を吐くと、ふいにディンスレイフは肩の力を抜いて呟いた。
 …それはちょうど、面白いが見ていて疲れるような、
 手に汗握る大興奮の映画を見終わった後の、軽い虚脱の観衆のようでもあって。
 
 ──だから、気まぐれも起こす。
 杖をかざしてもたげると、痺れたまま宙に固定されたヒトの女の身体を持ち上げて。
 
「生を戦い抜いた、強き勇士の魂への崇敬を、このディンスレイフは忘れない」
 ……《縛》こそ解かず。
 しかし瀕死の男の、すぐ傍らに。
 壊れ物でも置くかの如きに、そっと柔らかに置いてやった。
 
「……『真美』への礼だ、せめて苦しまず、望む死に方で死なせてやろう」
 …だが、自分の温情すらも最早目に入らず、おそらくは男の姿しか見えていないか。
 すかさず脇目も振らず、男の身体へと泣き縋る女の姿は、美しくもいじらしい。
 
「…なにがいい? 黄泉の女王の迎えが良いか? 永久氷晶の中に眠るが良いか?
レシーラの怒りに焼かれて死ぬ? ディストーションに飲まれての完全なる滅を望むか?」
 一応聞いてはみた。
 …だが、もう二人とも、死の淵にあって思うのはただお互いの事だけならば。
「……そうか、そうだな、ならば……」
 多分聞こえも、見えてもいない。
 そんな二人だけの世界を、いとおしむかのように。
 
 思い立って見回した周囲の風景。
 季節は冬であり、しかもここは雪に覆われた冬の山、《火》の相からは最も遠い場所。
「……少し『状況』が思わしくないが」
 レビーテーション《浮遊》の法を片隅に組みながら、再度地を蹴って宙に浮かび。
「しかしたまには、本式に乗っ取ってやるのも悪くはない」
 そうして精神を統一すると、静かに杖を構えて、本式の魔への構えに入った。
 
 
 本来、生物の死体を火葬に附して……骨と灰だけになるまで焼くとなると、
 膨大な火力と、またそれと同じだけの膨大な時間が必要となる。
 だから《火蝶陣》の蝶を数百羽、たとえ《ナインテイルズ》の凶火を用いたとしても、
 できあがるのは、せいぜい芯までウェルダンの炭化した死体。
 
 ――『消し炭に変える』――
 炎魔法使い達がよく使うニュアンスだが、これがなかなかに難しく――
 
 
「この大魔法はな、天上の門に燃えるという、魂の罪咎を洗い焼く、聖の浄炎を呼ぶ法で……」
 ――しかし、『彼』には出来なくはない。
 もちろん、圧倒的に効率の悪い、別に灰まで変えなくても相手は普通に死ぬ以上、
 『ここまで魔力を使ってする事か?』『何の為にあるんだかよく分からない』と、
 使用効率だけを考えているような、最近の愚かな魔法使い達は見向きもしない魔法だが。
「……そうして私が、最も好きな、美しい魔法だ」
 ――だけどそれでも、『彼』はこの魔法が好きだった。
 
「安心しろ、一瞬とて苦しくはない。…腐りゆく死体を、長らく野に晒すような醜の恐れもない」
 ――『炎』はいい。
 ――全てに残酷で平等だ。
 強きも弱きも、老いも若きも、男も女も、善人も悪人も、好かれる者も嫌われ者も。
 あらゆる物を分け隔てなく、有無を言わさず全てを飲み込み、ただことごとく灰燼に還す。
 ……だからディンスレイフは、そんな『炎』が大好きだった。
 
「美しきに応じ、ただ一握の白い灰になって、ゆるり大地にと還るがいい」
 …本音を言えば、彼が普段生き抜いた輝石達にそうする様、生かして帰してやりたいが。
 しかし『見逃さない』と言った以上、その自分の言葉には従うのが彼の《ルール》。
 …何よりも気に入った登場人物も殺せるようでなければ、舞台監督としては二流の極。
 
 なにより『炎』は温情など介さぬ以上、耐えられぬならば、ただそれまで。
 
「天の国にと寄り添って。……せめて来世では、同じ種族に生まれ変われると良いな」
 
 だからせめて訓示をくれて、……なれど、滅す。
 
 
 
 三柱を起こし、七大のチャクラを正中に沿って流転させ、四十七の魔力経絡を全て開く。
 
 たかだか二人を相手に対し、《至天の一瞥》にの一割を含めて、
 全保有量の三割近い魔力を使ったのはいささか使いすぎの観はあったが、
 しかしなれば今更もう一割ほど使ったところで、使い過ぎなのに変わりはあるまい。
 この者達にはそれだけの価値があると、なにより彼本人が認じ認めた。
 
 五元の相生原則に従って、魔力を輪転・増幅させ、
 天の運行と地脈の流れ、定められた数の歩を踏まい、チャントを歌ってルーンを描く。
 唱と謡、踊と印。
 魔法科学の進歩によって廃れつつある、古(いにしえ)に乗っ取った正当の魔術。
 
 
「《――イグナ・ロデ・アダマ アダマ・エクサ・メタリカ メタリカ・ウル・ハイドレ
ハイドレ・リザリス・シルフェ エト・エルア シルフェ・セルケ・イグナ リダーン……》」
 
  良き物語だった。
 
「《……アルタナ・テラナ アンダナ・ギアナ オウバ・カオティナ オウト・オウディナ
ロンデ・ロンデランダ オウバ・イセリア セウザン・ウル・メニ オウバ・クシェロデ……》」
 
  その手を汚した迷えるイヌのお巡りと、それに光を与えた迷子の子猫の物語。
 
「《……ロディオン・ギルティエンド セレスティアン・アーナ・セレスティアン・フレイマ!
ダンシェンダ・ソウリー・ケングダンム テュンソナーデ・エル・アンシェリューン……》」
 
  どこにでもあるような取るに足らない、しかしささやかな日常の中にあって、
  種族と主従、人獣に貴賎を越えて、友たろう、信じ合おうと、愛を育んだ物語。
 
「《……イクストルーメ ダーテン・ノーレ ディザ・シーパン ソウリー・エト・マーター! 
ルク・リザリス・スワントワイト・アッシャ リーダ・ギュートネ アベルブ・セレスティアンッ!》」
 
  そうして残酷にも降って湧いた突然の不幸にそれは引き裂かれ
  守りたいという願い、信じたいという想い、何よりも美しく切ないその心、
  …しかしこの現実という名の劇場において、儚くも叶わず散り落ちる。
 
  幸せの対極たる不幸、成功のする者達の隣にあっての失敗。
  素直になれず、だからこのような結果となってしまい、
  しかして末期、最期の瞬間は、だけど手を取り合って、安らかに。
 
 
「ケテルゥ 《 天(てん)》!」
 
  それは良き物語だった。
 
「マルクゥ 《 地(ち)》!」
 
  そうしてそれは良き物語として、これからも彼の胸の中にと在り続けるだろう。
 
「キャティレト 《 猫(ねこ)》!」
 
  ……終幕、だ。
 
 
 
 
 
                                        【 狗国見聞録 結の事 】
                                          ~『獣』と、『人』と。 ~
 
 
 
 
 

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