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化け物退治」(2006/07/14 (金) 02:51:01) の最新版変更点

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 にわかには信じ難いことだが、金糸雀は、化学の授業を受け持っている。  当然ながら、毒物劇物取り扱い責任者の資格を有していた。  一体、どこの誰が、彼女にそんな資格を許したのか。法の良識を疑わざるを得なかった。  ほら、今日も実験室から緊張感の欠けらもない鼻歌が聞こえてきた。 「ふふふーのふーん、エストロゲーンにプロゲステロン、イソフラボーンにカルシウム、ヤクルトヤクルト、ちょっと加え……」  白衣をまとった金糸雀が、手に取った試験管の中身を、極めてアバウトに、ビーカーの液体に投入する。  ぽん、と小さな破裂音を響かせて、白い煙が立ち昇った。 「あっという間に完成よーーっ!!」  金糸雀は、緑色の液体が入ったビーカーを、得意そうに掲げてみせた。 「ふっふっふー、苦節三か月……遂に、遂に完成なのかしら。この薬さえ、この薬さえ飲めば!! ほんの数か月後には、このカナも、背ぇすらーり、おっぱいぼいーんのナイスバディに大変身なのかしらーーっ!! 楽してズルして、この学園のナンバーワンの座はカナのものになるのよーーっ。もう誰にも、ちんちくりんだなんて莫迦にさせないんだからーーっ!!」  早速、できたばかりの液体を服用しようとするが。 「…………何だか、とっても苦そうね……」  さすがに、見るからにグロテスクな液体を前に、逡巡してしまう。金糸雀は一計を案じた。 「そうだわっ。自分で飲めないなら、まず誰かで試してみればいいのよ。そうと決まれば、善は急げなのかしらーーっ!!」  嬉々として、実験室を飛び出していく金糸雀。薬のビーカーを、テーブルの上に置きっ放しにして。  一匹のトラ猫が、実験室に入ってきた。雛苺と金糸雀が、餌を与えているデブ猫だ。小腹を空かせて、金糸雀を頼ってきたのだろう。  テーブルの上に飛び乗った。見慣れないビーカーに気づく。猫の習性として、くんくんと臭いをかいでみる。うっと顔を背け、踵を返した。後ろ足が、ビーカーを倒した。  どろりとした液体が、テーブルの横に備えつけられた流しに注ぎ込まれた。  金糸雀は不在のようだ。猫は、何事もなかったかのように、立ち去った。 「一体、何なのだわ、金糸雀?」 「いーから、いーから、付いてきて、真紅」  ふっふっふっ、まずは誰よりも胸の小さな真紅で、薬の効き目をばっちりチェックするのかしらーーっ。  しかし、その目論見は、脆くも崩れ去る。  空になったビーカーを前にして、あんぐりと口を開け放つ金糸雀。  真紅が、不審そうな目を向ける。 「金糸雀。あなた、まさか……また妙なことを企てていた訳じゃないでしょうね?」 「えっ……ななな何のことかしら、真紅? 無闇に人を疑うのは、良くないことなのかしら……」  真紅は得心が行かなかったが、その時は実害もなかったこともあり、結局は引き下がった。  後にまさかそんな事態になろうとは、誰が予測できただろうか。  翌日の四時間目の授業中。  翠星石と雛苺の二人が教鞭を振るう、調理実習室。  がさがさがさがさっ。  廊下から耳障りな音が響いてきて、生徒たちがざわめく。  熱弁を妨げられたことが、癇に障った。翠星石は、勢い良く扉を開け放って、怒鳴り散らした。 「一体どこのたわけです? この翠星石の授業を妨害する不届き者は……」  翠星石は、言葉を失った。廊下にひと気はなかった。が、その違和感にはすぐに気づいた。  天井にべったりと、黒く平べったいものがへばりついている。てかてかと脂ぎった、その手前のほうの先端からは、長さ2メートルの黒い髭がだらりとぶら下がっていて、びくんびくんとしなっていた。  翠星石の全身に、かつてない怖気が駆け巡った。 「ひぃいいいいいいいいッ!!!!」  声にならない悲鳴が上がると、それはどさりと床に落ちた。六本の足を駆使して体勢を立て直し、一直線に彼女に向かって突進してくる。  翠星石は慌てて扉を閉めるが、一歩及ばず。扉のすき間に、頭部を挿し込まれてしまう。  調理実習室は、騒然となった。 「そっそっそっ、それは一体何なのーーっ、翠星石ーーっ!?」 「ばばば莫迦苺っ、何、呑気なことを抜かしてやがるですかっ、さっさと扉を押さえるのを手伝うですっ!!」 「あっあっあっ、あいなのーーっ!!」  しかし、生徒達も一致団結しての奮戦も虚しく、とうとう扉をこじ開けられてしまう。  突き飛ばされ、尻餅をつく、先生と生徒達。彼女らに覆いかぶさらんと、黒い流線形は、後ろの四本の足で立ち上がった。  天井に届きそうな勢いだった。異形の化け物に追いつめられ、翠星石と雛苺に、もうなす術はなかった。すっかりすくみ上がってしまい、立ち上がることすらままならなかった。二人は、お互いの体に、ひしとしがみついた。  と、その時だ。化け物の背後から一本の腕が突き出され、ポリマーフレームの小型拳銃の銃口が、触角の生えた頭部に押し当てられる。  グロック26のトリガーを二度絞った。  耳をつんざくような乾いた破裂音と共に、外骨格の破片が、体液が、翠星石と雛苺の全身に降りかかった。 「きゅ~~ん……」  翠星石は、目をむいて昏倒した。  崩れ落ちた化け物の背後から現れたのは、当然ながら雪華綺晶だった。 「……大丈夫?」 「うううっ、酷い目に遭ったの……ああっ、翠星石……翠星石っ!? 大丈夫なのっ!? しっかりするのーーっ!!」  気絶した翠星石の体をかっくんかっくんと揺さ振る。雪華綺晶は、慌てる雛苺を制し、翠星石の脈を探った。 「……大丈夫。気絶しただけ……」 「ほっ……良かったなのーーっ」  ぱっと笑顔を輝かせた雛苺は、直前までの恐怖などどこ吹く風に見えた。顔をしかめて、全身に浴びた化け物の体液を拭い取る。  背後の生徒達は、未だに青ざめた表情のまま、ぶるぶると小刻みに震えているというのに。  歴戦の勇者も、これには内心舌を巻いた。 「むむっ、これは……どっからどう見ても、クロゴキブリなのーーっ。羽化していないから、まだ幼虫なのーーっ」  実は生物の授業も受け持っている雛苺が、きっぱりと断言した。 「……でも……どうして、こんなに大きく……」  雪華綺晶が、至極当たり前の疑問を口にする。しかし、今は、そんな悠長に論じている場合ではなかった。  校舎のそこかしこから、絹を裂くような悲鳴が、助けを求める叫び声が、聞こえてきたからだ。  雪華綺晶は、ポケットから彼女のロッカーのキーを取り出すと、雛苺の前に差し出す。 「……雛苺……お願いがあります。私のロッカーの一番下……アルミ製のアタッシュケースが納められています……それを、取ってきてください……」 「あいなのっ、分かったなのっ」  雛苺は、きっと信頼に応えてくれる。雪華綺晶は、小さく、しかし力強くうなずくと、調理実習室を飛び出していった。  残った雛苺は、まだ教室の隅で縮こまっている生徒達に、檄を飛ばす。 「A班とB班は、気絶した翠星石先生を保健室まで運ぶのーーっ。残りの班は、食材を、ゴキブリに見つからない場所に隠すのーーっ」  逃げ惑う生徒達、先生達。学園は、すっかりパニックに陥っていた。  雪華綺晶は、コンシールドキャリーの小型拳銃――彼女は、実銃を帯びたまま、授業を執り行っていたのだろうか?――を身構えたまま、慎重に先へと進んでいく。  と、廊下のど真ん中で、呆然と立ち尽くす薔薇水晶を見つけた。慌てて駆け寄った。 「ばらしー、ばらしー……?」  肩を揺すって、意識を回復させる。これが薔薇水晶以外の誰かだったら、何のためらいもなく平手打ちするところだが、雪華綺晶は、たった一人の肉親である彼女にだけは、手を上げられなかった。 「……き、きらきー……一体、何が起こっているの……?」 「……分からない。でも、安心して……有栖学園は、この私が護るから……必ず……」 「こここ……腰が抜けたのだわ……」 「ふええええええええ~~~~んっ、お母様ぁ~~~~っ!!」  さすがに相手が悪すぎたのか。真紅と水銀燈の二人は、もう頼みにできそうになかった。 「くっ、来るなっ!! 生徒達は、生徒達は……この僕が護るんだっ!!」  蒼星石は、逃げ遅れた彼女の教え子数人と共に、教室の隅へと追いつめられていた。  両膝をがくがく震わせながらも、手に取ったモップで懸命に防戦する。が、どれだけ文武両道に優れた蒼星石だろうと、常軌を逸した生理的嫌悪感に打ち勝つのは、容易ではなかった。  醜悪な化け物が、後ろの四本の足で立ち上がり、残る二本の足を振り回すと、モップは簡単に弾き飛ばされてしまった。  悲鳴が上がった。蒼星石は、糸の切れた操り人形のようにへなへなと崩れ落ちると、それでも教え子達をかばうように両腕を広げた。  黒い影が、圧しかかってきた。  乾いた破裂音が、教室の窓ガラスをびりびりと振動させた。  雪華綺晶は、小さく舌打ちをした。  二発撃った。しかし、ゴキブリの頭部のぬめった曲面に弾かれてしまった。  グロック26に装填されているのは、9ミリ弾。しかも隠し持つことを念頭に設計されているこの銃は、銃身が短く、弾の威力を充分に引き出せなかった。  雪華綺晶は、素早く間合いをつめると、至近距離からもう一発。今度は、頭部を貫通した。濁った体液が、蒼星石たちの頭上に撒き散らされる。  薬室も含め、弾倉が空になった。撃った弾数はちゃんと数えていたし、重さでもそれが確認できた。 雪華綺晶は、反射的にマガジンを交換しようと、懐に手を入れた。 「雪華綺晶っ、後ろっ!!」  蒼星石が叫ぶ。はっとして後ろを振り返ったときには、もう遅かった。頭上から落ちてきた黒い巨体が、雪華綺晶をなぎ倒した。  教室には、もう一体潜んでいたのだ。  錆びた鉄の味が、口一杯に広がった。胃液が喉に逆流してきて、ごぼごぼと咳き込んだ。  雪華綺晶は、どうにか意識をつなぎ止めた。  体長二メートルはある巨体が、倒れた彼女の上に圧しかかってきた。  グロック26は、どこかに弾き飛ばされてしまったようだ。彼女は、右わき腹のナイフシースからサバイバルナイフを引き抜くと、刃渡り13センチのブレードを、外骨格のすき間に突き立てた。  きんっ。と甲高い金属音を響かせて、それは呆気なく根元から折れた。普段から携行しているのは、あくまで非常用の物に過ぎない。こんな化け物を相手にすることなど、誰が想定できただろう。  ゴキブリの大顎がかちかちと打ち鳴らされ、雪華綺晶の喉元に迫った。 「雪華綺晶っ!!」  蒼星石が、床を滑らせてモップを寄越した。雪華綺晶は、素早くそれを引き込むと、その柄をゴキブリの喉元にあてがった。  力くらべになった。モップの柄が、それを支える両腕の骨が、ぎしぎしと軋んだ。体の薄い節足動物の重量は見た目ほどではなかったが、それでも大の男を上回った。 「きらきーっ、大丈夫なのーーっ!!??」  雪華綺晶は、横目で声の主を探した。おろおろと狼狽する雛苺の足元には、銀色のアタッシュケースが見えた。彼女は、ちゃんと約束を果たしたのだ。 「……ひないっ……ちご……ろく、さんっ……はち……」  雛苺は、わずかに戸惑ったが、すぐにそれがアタッシュケースの開錠の数字だと気づいた。  大急ぎでダイヤルを回す。ケースを開け放った。 「ええっとぉ……」  一番大きな金属の塊をウレタンの緩衝材から引き抜いて、床を滑らせて雪華綺晶に渡した。  ヘッケラー&コック社製のサブマシンガンが火を噴いて、辺り一面に汚物をぶちまけた。  掃討戦が始まった。  完全武装した雪華綺晶に、予備の弾薬を抱えた雛苺が付き従った。  手首を負傷した蒼星石は、生徒達の避難誘導に当たった。  しかし、そんな彼女らの東奔西走など露ほども知らず、実験室にこもって何やら怪しげな企てに意気込む乙女が一人。  そう、我らが金糸雀だった。 「ふっふっふー、これで準備は万端、整ったのかしら……」  白衣を身にまとい、ほくそ笑む彼女。テーブルの上には、昨日の緑色の液体と、苺大福の山が積み上げられていた。液体は、新たに作り直したものだ。 「ふっふっふー、真紅では失敗したけれど、まだ雛苺がいるわ……この薬を注入した苺大福をちらつかせれば、ヒナを欺くなんて簡単っ!! カナってば、何て頭がいいのかしらーーっ。我ながら恐ろしく感じることがあるわ……ふっふっふー、天才はいつの世も苦悩するものなのねーーっ」  がさがさがさがさっ。 「さーっきから、何をごそごそ騒々しいのかしら? 今は、まだ四時間目の授業中のはずよ……?」  金糸雀は、勢い良く廊下への扉を開け放った。  ゴキブリと目が合った。 「……………………へっ?」  目をぱちぱちと瞬かせる。お互いの顔は、20センチと離れていなかった。ふと、ゴキブリがにんまりと笑みを浮かべたように感じた。 「きゅ~~……」  金糸雀は、へなへなと崩れ落ち、そのまま意識を失った。  ゴキブリは、金糸雀を踏んづけて、のしのしと実験室へ侵入した。  テーブルの上に載せられた、液体と苺大福の存在に気づいた。  窓の外から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。  即座に窓を開け放ち、外の様子を確認する雪華綺晶。しかし、目に見える範囲に人影はなかった。  校舎のそちら側は、生徒達が避難しているグラウンドとは反対だ。何かの聞き間違いだろうか。  再び悲鳴。今度ははっきりと確信した。視界の外のどこかで、誰かが危機に瀕している。  二人が今いるのは、校舎の三階だ。回り道している余裕はない。雪華綺晶は、フックつきロープを取り出すと、窓の桟に引っかけ、するすると降りていった。  さすがに雛苺に同じ真似はできない。 「きらきしょーーっ、頑張るなのーーっ!!」  背中に精一杯の声をかけた。  雪華綺晶は、我が目を疑った。  数々の戦場を渡り歩き、幾多の死線を潜り抜けてきた。  胆力には自信があったはずだ。その自信が今、揺らぎつつあった。  校舎の陰で、一人の女生徒が追いつめられていた。  三階建ての校舎が、やけに小さく思えた。  それは、まるで戦車のような威容を放っていた。戦車そのもの、いや、それ以上と言っても過言ではなかった。  体長8メートルはあった。  校舎の一角――実験室のあった辺りが大きく崩れ、壁に抜け殻の断片が引っかかっていた。抜け殻の大半は食べてしまったようだった。  巨大な成虫は、折りたたんだ背中の羽を、ぶるぶると震動させた。  雪華綺晶は、突進した。  腰だめに構えているサブマシンガンは、ヘッケラー&コック社製のMP7A1。ドイツ連邦軍に正式採用されて間もない、最新鋭の歩兵用小火器だ。  しかし、いくら高性能とは言っても、基本的に対人用の武器だ。未知の敵を相手に、一体どれだけの効き目を発揮できるのか、実践してみなければ判らない。  雛苺は、こう疑問を呈していた。 『ゴキブリはお日様の光が苦手なはずなのに、何で平気なの?』 『内骨格のない節足動物なのに、あんなに大きくなって、何で自重で潰れないの?』  それは、今までの常識が通用しない、未知の生き物だからだ。  雪華綺晶は、ぎりぎりまで肉薄して、全弾を頭部に叩き込むつもりだった。 「……ここは、私が引きつけます。あなたは、早く逃げて……」  腰を抜かした女生徒にそう告げるが、彼女は、雪華綺晶が動揺を見せるほどの化け物と相対していたのだ。おいそれとは立ち上がれなかった。  雪華綺晶は、右手で銃を構えたまま、左手を大きく振ると、巨大な化け物の注意を自らのほうに招き寄せた。そのままじりじりと後退し、化け物を女生徒から引き離す。  充分な距離を確保できたときには、雪華綺晶は、すっかり袋のネズミになっていた。  三方を建物に囲まれ、残る一方もモンスターの巨体に封じ込まれている。  ゴキブリは、大顎をがちがちと打ち鳴らした。あの大きさの顎なら、雪華綺晶の首など一噛みで食い千切られてしまうだろう。  ゴキブリは、後ろの四本足で立ち上がると、頭部を雪華綺晶に寄せてきた。  雪華綺晶は、MP7A1の狙いを定め、トリガーを引き絞った。  マガジンが空になるまで撃ち尽くした。  しかし、脂ぎった頭部に損傷を受けた様子はなかった。  雪華綺晶は、目を見張った。3メートルと距離を置かず、一点集中で全弾叩き込んだはずだった。  4.6ミリの弾では駄目。サブマシンガンを投げ捨てると、腰のホルスターから大口径のハンドガンを引き抜いた。  両手でしっかりとホールドし、狙いを定め、連続してトリガーを絞った。  デザートイーグル.50AE。実用的な自動拳銃としては、最強の座をほしいままにしている。そのはずだった。  跳弾が、雪華綺晶の肩をかすめた。ジャケットが切り裂かれ、血がにじみ出した。  口径0.5インチ――12.7ミリのマグナム弾を食らっても、ゴキブリは平然としていた。傷一つ負わせられなかった。  対戦車装備でもなければ、歯が立たない。しかし、今以上の装備は、手元に置いてなかった。元より、背水の陣から抜け出す手段がない。  かつてない絶望感が、どっと押し寄せてきた。全身から血の気が失せ、感覚が薄れ、まるで宙に浮いているような気分になった。  最愛の妹の微笑みが、脳裏をよぎった。  死ぬのは怖くなかった。ただ、彼女に二度と会えなくなるのが、無性に哀しかった。  雪華綺晶は、妹と交わした最後の約束を思い出す。 『……安心して……有栖学園は、この私が護るから……必ず……』  これだけの化け物を野放しにしたら、今度こそ死傷者が出るのは避けられないだろう。  雪華綺晶は、腰のベルトに釣り下げた手榴弾を二つ、両手に取ると、それぞれのピンを口でくわえて抜いた。  ゴキブリが、彼女の頭を食い千切ろうと、ゆっくりと頭部を近づけてくる。  雪華綺晶は、最凶の敵を道連れに、自爆するつもりだった。  間一髪だった。 「きらきしょーーっ、上を見るのーーっ!!」  血塗られた戦場に、もしも天使が舞い降りるなら、それは雛苺の姿をしているに違いない。雪華綺晶は、そう思った。  今の彼女は、孤独な戦いを強いられている訳ではない。かけがえのない仲間が一緒だった。  三階の窓から、フックつきロープがぶら下げられる。  雪華綺晶の脳裏に、天啓のように一つのアイディアが形を成した。  両手の手榴弾のレバーを外すと、ゴキブリの足元をすり抜けるように、勢い良く転がす。  素早くロープをよじ登った。  二つの手榴弾は、ゴキブリのすぐ後ろで爆風を放った。  度肝を抜かれたゴキブリは、何を考えたか、全力で校舎に突っ込んだ。いや、それが奴らの習性だった。奴らは、前にしか遁走できないのだ。雪華綺晶の賭けが、見事に的中した。  建物全体が、どうと大きく震えた。ロープにしがみつく雪華綺晶のすぐ足元の壁が粉砕され、がらがらと崩れ落ちた。  コンクリートの中からむき出しになった鉄骨が、ぐにゃりと折れ曲がっていた。  ゴキブリは、しばらくの間、六本の足をぴくぴくと痙攣させていたが、やがて沈黙した。  こうして、死闘は幕を下ろしたのだ。 「ぐずっ……ぐずっ……どうしてカナがこんな目に遭わなきゃならないの……カナ、何も悪いことはしていないのに……」  今回の事件の張本人であることが露見し、金糸雀は、学園中に散らばった汚物の処分を命じられた。  幸いにして、被害が彼女に請求されることはなかった。校舎は、それはもう酷い有り様だった。巨大ゴキブリに崩された壁も凄かったが、雪華綺晶が開けた銃痕の数も半端ではなかった。  しかし、校長が何を仕出かすか分からない有栖学園では、校舎にも多額の保険がかけられていた。  金糸雀は、一生を棒に振らずに済んだ。  涙を呑んで、火バサミで、四散した肉片を拾う。 「ぐずっ……ぐずっ……みんな、憶えてなさぁい……有栖学園一の頭脳派である、この金糸雀が……いつかきっと見返してやるのかしらーーっ!!」  まだまだ騒動のタネは尽きそうになかった。
  にわかには信じ難いことだが、金糸雀は、化学の授業を受け持っている。   当然ながら、毒物劇物取り扱い責任者の資格を有していた。   一体、どこの誰が、彼女にそんな資格を許したのか。法の良識を疑わざるを得なかった。   ほら、今日も実験室から緊張感の欠けらもない鼻歌が聞こえてきた。 「ふふふーのふーん、エストロゲーンにプロゲステロン、イソフラボーンにカルシウム、ヤクルトヤクルト、ちょっと加え……」   白衣をまとった金糸雀が、手に取った試験管の中身を、極めてアバウトに、ビーカーの液体に投入する。   ぽん、と小さな破裂音を響かせて、白い煙が立ち昇った。 「あっという間に完成よーーっ!!」   金糸雀は、緑色の液体が入ったビーカーを、得意そうに掲げてみせた。 「ふっふっふー、苦節三か月……遂に、遂に完成なのかしら。この薬さえ、この薬さえ飲めば!! ほんの数か月後には、このカナも、背ぇすらーり、おっぱいぼいーんのナイスバディに大変身なのかしらーーっ!! 楽してズルして、この学園のナンバーワンの座はカナのものになるのよーーっ。もう誰にも、ちんちくりんだなんて莫迦にさせないんだからーーっ!!」   早速、できたばかりの液体を服用しようとするが。 「…………何だか、とっても苦そうね……」   さすがに、見るからにグロテスクな液体を前に、逡巡してしまう。金糸雀は一計を案じた。 「そうだわっ。自分で飲めないなら、まず誰かで試してみればいいのよ。そうと決まれば、善は急げなのかしらーーっ!!」   嬉々として、実験室を飛び出していく金糸雀。薬のビーカーを、テーブルの上に置きっ放しにして。   一匹のトラ猫が、実験室に入ってきた。雛苺と金糸雀が、餌を与えているデブ猫だ。小腹を空かせて、金糸雀を頼ってきたのだろう。   テーブルの上に飛び乗った。見慣れないビーカーに気づく。猫の習性として、くんくんと臭いをかいでみる。うっと顔を背け、踵を返した。後ろ足が、ビーカーを倒した。   どろりとした液体が、テーブルの横に備えつけられた流しに注ぎ込まれた。   金糸雀は不在のようだ。猫は、何事もなかったかのように、立ち去った。 「一体、何なのだわ、金糸雀?」 「いーから、いーから、付いてきて、真紅」   ふっふっふっ、まずは誰よりも胸の小さな真紅で、薬の効き目をばっちりチェックするのかしらーーっ。   しかし、その目論見は、脆くも崩れ去る。   空になったビーカーを前にして、あんぐりと口を開け放つ金糸雀。   真紅が、不審そうな目を向ける。 「金糸雀。あなた、まさか……また妙なことを企てていた訳じゃないでしょうね?」 「えっ……ななな何のことかしら、真紅? 無闇に人を疑うのは、良くないことなのかしら……」   真紅は得心が行かなかったが、その時は実害もなかったこともあり、結局は引き下がった。   後にまさかそんな事態になろうとは、誰が予測できただろうか。   翌日の四時間目の授業中。   翠星石と雛苺の二人が教鞭を振るう、調理実習室。   がさがさがさがさっ。   廊下から耳障りな音が響いてきて、生徒たちがざわめく。   熱弁を妨げられたことが、癇に障った。翠星石は、勢い良く扉を開け放って、怒鳴り散らした。 「一体どこのたわけです? この翠星石の授業を妨害する不届き者は……」   翠星石は、言葉を失った。廊下にひと気はなかった。が、その違和感にはすぐに気づいた。   天井にべったりと、黒く平べったいものがへばりついている。てかてかと脂ぎった、その手前のほうの先端からは、長さ2メートルの黒い髭がだらりとぶら下がっていて、びくんびくんとしなっていた。   翠星石の全身に、かつてない怖気が駆け巡った。 「ひぃいいいいいいいいッ!!!!」   声にならない悲鳴が上がると、それはどさりと床に落ちた。六本の足を駆使して体勢を立て直し、一直線に彼女に向かって突進してくる。   翠星石は慌てて扉を閉めるが、一歩及ばず。扉のすき間に、頭部を挿し込まれてしまう。   調理実習室は、騒然となった。 「そっそっそっ、それは一体何なのーーっ、翠星石ーーっ!?」 「ばばば莫迦苺っ、何、呑気なことを抜かしてやがるですかっ、さっさと扉を押さえるのを手伝うですっ!!」 「あっあっあっ、あいなのーーっ!!」   しかし、生徒達も一致団結しての奮戦も虚しく、とうとう扉をこじ開けられてしまう。   突き飛ばされ、尻餅をつく、先生と生徒達。彼女らに覆いかぶさらんと、黒い流線形は、後ろの四本の足で立ち上がった。   天井に届きそうな勢いだった。異形の化け物に追いつめられ、翠星石と雛苺に、もうなす術はなかった。すっかりすくみ上がってしまい、立ち上がることすらままならなかった。二人は、お互いの体に、ひしとしがみついた。   と、その時だ。化け物の背後から一本の腕が突き出され、ポリマーフレームの小型拳銃の銃口が、触角の生えた頭部に押し当てられる。   グロック26のトリガーを二度絞った。   耳をつんざくような乾いた破裂音と共に、外骨格の破片が、体液が、翠星石と雛苺の全身に降りかかった。 「きゅ~~ん……」   翠星石は、目をむいて昏倒した。   崩れ落ちた化け物の背後から現れたのは、当然ながら雪華綺晶だった。 「……大丈夫?」 「うううっ、酷い目に遭ったの……ああっ、翠星石……翠星石っ!? 大丈夫なのっ!? しっかりするのーーっ!!」   気絶した翠星石の体をかっくんかっくんと揺さ振る。雪華綺晶は、慌てる雛苺を制し、翠星石の脈を探った。 「……大丈夫。気絶しただけ……」 「ほっ……良かったなのーーっ」   ぱっと笑顔を輝かせた雛苺は、直前までの恐怖などどこ吹く風に見えた。顔をしかめて、全身に浴びた化け物の体液を拭い取る。   背後の生徒達は、未だに青ざめた表情のまま、ぶるぶると小刻みに震えているというのに。   歴戦の勇者も、これには内心舌を巻いた。 「むむっ、これは……どっからどう見ても、クロゴキブリなのーーっ。羽化していないから、まだ幼虫なのーーっ」   実は生物の授業も受け持っている雛苺が、きっぱりと断言した。 「……でも……どうして、こんなに大きく……」   雪華綺晶が、至極当たり前の疑問を口にする。しかし、今は、そんな悠長に論じている場合ではなかった。   校舎のそこかしこから、絹を裂くような悲鳴が、助けを求める叫び声が、聞こえてきたからだ。   雪華綺晶は、ポケットから彼女のロッカーのキーを取り出すと、雛苺の前に差し出す。 「……雛苺……お願いがあります。私のロッカーの一番下……アルミ製のアタッシュケースが納められています……それを、取ってきてください……」 「あいなのっ、分かったなのっ」   雛苺は、きっと信頼に応えてくれる。雪華綺晶は、小さく、しかし力強くうなずくと、調理実習室を飛び出していった。   残った雛苺は、まだ教室の隅で縮こまっている生徒達に、檄を飛ばす。 「A班とB班は、気絶した翠星石先生を保健室まで運ぶのーーっ。残りの班は、食材を、ゴキブリに見つからない場所に隠すのーーっ」   逃げ惑う生徒達、先生達。学園は、すっかりパニックに陥っていた。   雪華綺晶は、コンシールドキャリーの小型拳銃――彼女は、実銃を帯びたまま、授業を執り行っていたのだろうか?――を身構えたまま、慎重に先へと進んでいく。   と、廊下のど真ん中で、呆然と立ち尽くす薔薇水晶を見つけた。慌てて駆け寄った。 「ばらしー、ばらしー……?」   肩を揺すって、意識を回復させる。これが薔薇水晶以外の誰かだったら、何のためらいもなく平手打ちするところだが、雪華綺晶は、たった一人の肉親である彼女にだけは、手を上げられなかった。 「……き、きらきー……一体、何が起こっているの……?」 「……分からない。でも、安心して……有栖学園は、この私が護るから……必ず……」 「こここ……腰が抜けたのだわ……」 「ふええええええええ~~~~んっ、お母様ぁ~~~~っ!!」   さすがに相手が悪すぎたのか。真紅と水銀燈の二人は、もう頼みにできそうになかった。 「くっ、来るなっ!! 生徒達は、生徒達は……この僕が護るんだっ!!」   蒼星石は、逃げ遅れた彼女の教え子数人と共に、教室の隅へと追いつめられていた。   両膝をがくがく震わせながらも、手に取ったモップで懸命に防戦する。が、どれだけ文武両道に優れた蒼星石だろうと、常軌を逸した生理的嫌悪感に打ち勝つのは、容易ではなかった。   醜悪な化け物が、後ろの四本の足で立ち上がり、残る二本の足を振り回すと、モップは簡単に弾き飛ばされてしまった。   悲鳴が上がった。蒼星石は、糸の切れた操り人形のようにへなへなと崩れ落ちると、それでも教え子達をかばうように両腕を広げた。   黒い影が、圧しかかってきた。   乾いた破裂音が、教室の窓ガラスをびりびりと振動させた。   雪華綺晶は、小さく舌打ちをした。   二発撃った。しかし、ゴキブリの頭部のぬめった曲面に弾かれてしまった。   グロック26に装填されているのは、9ミリ弾。しかも隠し持つことを念頭に設計されているこの銃は、銃身が短く、弾の威力を充分に引き出せなかった。   雪華綺晶は、素早く間合いをつめると、至近距離からもう一発。今度は、頭部を貫通した。濁った体液が、蒼星石たちの頭上に撒き散らされる。   薬室も含め、弾倉が空になった。撃った弾数はちゃんと数えていたし、重さでもそれが確認できた。雪華綺晶は、反射的にマガジンを交換しようと、懐に手を入れた。 「雪華綺晶っ、後ろっ!!」   蒼星石が叫ぶ。はっとして後ろを振り返ったときには、もう遅かった。頭上から落ちてきた黒い巨体が、雪華綺晶をなぎ倒した。   教室には、もう一体潜んでいたのだ。   錆びた鉄の味が、口一杯に広がった。胃液が喉に逆流してきて、ごぼごぼと咳き込んだ。   雪華綺晶は、どうにか意識をつなぎ止めた。   体長二メートルはある巨体が、倒れた彼女の上に圧しかかってきた。   グロック26は、どこかに弾き飛ばされてしまったようだ。彼女は、右わき腹のナイフシースからサバイバルナイフを引き抜くと、刃渡り13センチのブレードを、外骨格のすき間に突き立てた。   きんっ。と甲高い金属音を響かせて、それは呆気なく根元から折れた。普段から携行しているのは、あくまで非常用の物に過ぎない。こんな化け物を相手にすることなど、誰が想定できただろう。   ゴキブリの大顎がかちかちと打ち鳴らされ、雪華綺晶の喉元に迫った。 「雪華綺晶っ!!」   蒼星石が、床を滑らせてモップを寄越した。雪華綺晶は、素早くそれを引き込むと、その柄をゴキブリの喉元にあてがった。   力くらべになった。モップの柄が、それを支える両腕の骨が、ぎしぎしと軋んだ。体の薄い節足動物の重量は見た目ほどではなかったが、それでも大の男を上回った。 「きらきーっ、大丈夫なのーーっ!!??」   雪華綺晶は、横目で声の主を探した。おろおろと狼狽する雛苺の足元には、銀色のアタッシュケースが見えた。彼女は、ちゃんと約束を果たしたのだ。 「……ひないっ……ちご……ろく、さんっ……はち……」   雛苺は、わずかに戸惑ったが、すぐにそれがアタッシュケースの開錠の数字だと気づいた。   大急ぎでダイヤルを回す。ケースを開け放った。 「ええっとぉ……」   一番大きな金属の塊をウレタンの緩衝材から引き抜いて、床を滑らせて雪華綺晶に渡した。   ヘッケラー&コック社製のサブマシンガンが火を噴いて、辺り一面に汚物をぶちまけた。   掃討戦が始まった。   完全武装した雪華綺晶に、予備の弾薬を抱えた雛苺が付き従った。   手首を負傷した蒼星石は、生徒達の避難誘導に当たった。   しかし、そんな彼女らの東奔西走など露ほども知らず、実験室にこもって何やら怪しげな企てに意気込む乙女が一人。   そう、我らが金糸雀だった。 「ふっふっふー、これで準備は万端、整ったのかしら……」   白衣を身にまとい、ほくそ笑む彼女。テーブルの上には、昨日の緑色の液体と、苺大福の山が積み上げられていた。液体は、新たに作り直したものだ。 「ふっふっふー、真紅では失敗したけれど、まだ雛苺がいるわ……この薬を注入した苺大福をちらつかせれば、ヒナを欺くなんて簡単っ!! カナってば、何て頭がいいのかしらーーっ。我ながら恐ろしく感じることがあるわ……ふっふっふー、天才はいつの世も苦悩するものなのねーーっ」   がさがさがさがさっ。 「さーっきから、何をごそごそ騒々しいのかしら? 今は、まだ四時間目の授業中のはずよ……?」   金糸雀は、勢い良く廊下への扉を開け放った。   ゴキブリと目が合った。 「……………………へっ?」   目をぱちぱちと瞬かせる。お互いの顔は、20センチと離れていなかった。ふと、ゴキブリがにんまりと笑みを浮かべたように感じた。 「きゅ~~……」   金糸雀は、へなへなと崩れ落ち、そのまま意識を失った。   ゴキブリは、金糸雀を踏んづけて、のしのしと実験室へ侵入した。   テーブルの上に載せられた、液体と苺大福の存在に気づいた。   窓の外から、甲高い悲鳴が聞こえてきた。   即座に窓を開け放ち、外の様子を確認する雪華綺晶。しかし、目に見える範囲に人影はなかった。   校舎のそちら側は、生徒達が避難しているグラウンドとは反対だ。何かの聞き間違いだろうか。   再び悲鳴。今度ははっきりと確信した。視界の外のどこかで、誰かが危機に瀕している。   二人が今いるのは、校舎の三階だ。回り道している余裕はない。雪華綺晶は、フックつきロープを取り出すと、窓の桟に引っかけ、するすると降りていった。   さすがに雛苺に同じ真似はできない。 「きらきしょーーっ、頑張るなのーーっ!!」   背中に精一杯の声をかけた。   雪華綺晶は、我が目を疑った。   数々の戦場を渡り歩き、幾多の死線を潜り抜けてきた。   胆力には自信があったはずだ。その自信が今、揺らぎつつあった。   校舎の陰で、一人の女生徒が追いつめられていた。   三階建ての校舎が、やけに小さく思えた。   それは、まるで戦車のような威容を放っていた。戦車そのもの、いや、それ以上と言っても過言ではなかった。   体長8メートルはあった。   校舎の一角――実験室のあった辺りが大きく崩れ、壁に抜け殻の断片が引っかかっていた。抜け殻の大半は食べてしまったようだった。   巨大な成虫は、折りたたんだ背中の羽を、ぶるぶると震動させた。   雪華綺晶は、突進した。   腰だめに構えているサブマシンガンは、ヘッケラー&コック社製のMP7A1。ドイツ連邦軍に正式採用されて間もない、最新鋭の歩兵用小火器だ。   しかし、いくら高性能とは言っても、基本的に対人用の武器だ。未知の敵を相手に、一体どれだけの効き目を発揮できるのか、実践してみなければ判らない。   雛苺は、こう疑問を呈していた。 『ゴキブリはお日様の光が苦手なはずなのに、何で平気なの?』 『内骨格のない節足動物なのに、あんなに大きくなって、何で自重で潰れないの?』   それは、今までの常識が通用しない、未知の生き物だからだ。   雪華綺晶は、ぎりぎりまで肉薄して、全弾を頭部に叩き込むつもりだった。 「……ここは、私が引きつけます。あなたは、早く逃げて……」   腰を抜かした女生徒にそう告げるが、彼女は、雪華綺晶が動揺を見せるほどの化け物と相対していたのだ。おいそれとは立ち上がれなかった。   雪華綺晶は、右手で銃を構えたまま、左手を大きく振ると、巨大な化け物の注意を自らのほうに招き寄せた。そのままじりじりと後退し、化け物を女生徒から引き離す。   充分な距離を確保できたときには、雪華綺晶は、すっかり袋のネズミになっていた。   三方を建物に囲まれ、残る一方もモンスターの巨体に封じ込まれている。   ゴキブリは、大顎をがちがちと打ち鳴らした。あの大きさの顎なら、雪華綺晶の首など一噛みで食い千切られてしまうだろう。   ゴキブリは、後ろの四本足で立ち上がると、頭部を雪華綺晶に寄せてきた。   雪華綺晶は、MP7A1の狙いを定め、トリガーを引き絞った。   マガジンが空になるまで撃ち尽くした。   しかし、脂ぎった頭部に損傷を受けた様子はなかった。   雪華綺晶は、目を見張った。3メートルと距離を置かず、一点集中で全弾叩き込んだはずだった。   4.6ミリの弾では駄目。サブマシンガンを投げ捨てると、腰のホルスターから大口径のハンドガンを引き抜いた。   両手でしっかりとホールドし、狙いを定め、連続してトリガーを絞った。   デザートイーグル.50AE。実用的な自動拳銃としては、最強の座をほしいままにしている。そのはずだった。   跳弾が、雪華綺晶の肩をかすめた。ジャケットが切り裂かれ、血がにじみ出した。   口径0.5インチ――12.7ミリのマグナム弾を食らっても、ゴキブリは平然としていた。傷一つ負わせられなかった。   対戦車装備でもなければ、歯が立たない。しかし、今以上の装備は、手元に置いてなかった。元より、背水の陣から抜け出す手段がない。   かつてない絶望感が、どっと押し寄せてきた。全身から血の気が失せ、感覚が薄れ、まるで宙に浮いているような気分になった。   最愛の妹の微笑みが、脳裏をよぎった。   死ぬのは怖くなかった。ただ、彼女に二度と会えなくなるのが、無性に哀しかった。   雪華綺晶は、妹と交わした最後の約束を思い出す。 『……安心して……有栖学園は、この私が護るから……必ず……』   これだけの化け物を野放しにしたら、今度こそ死傷者が出るのは避けられないだろう。   雪華綺晶は、腰のベルトに釣り下げた手榴弾を二つ、両手に取ると、それぞれのピンを口でくわえて抜いた。   ゴキブリが、彼女の頭を食い千切ろうと、ゆっくりと頭部を近づけてくる。   雪華綺晶は、最凶の敵を道連れに、自爆するつもりだった。   間一髪だった。 「きらきしょーーっ、上を見るのーーっ!!」   血塗られた戦場に、もしも天使が舞い降りるなら、それは雛苺の姿をしているに違いない。雪華綺晶は、そう思った。   今の彼女は、孤独な戦いを強いられている訳ではない。かけがえのない仲間が一緒だった。   三階の窓から、フックつきロープがぶら下げられる。   雪華綺晶の脳裏に、天啓のように一つのアイディアが形を成した。   両手の手榴弾のレバーを外すと、ゴキブリの足元をすり抜けるように、勢い良く転がす。   素早くロープをよじ登った。   二つの手榴弾は、ゴキブリのすぐ後ろで爆風を放った。   度肝を抜かれたゴキブリは、何を考えたか、全力で校舎に突っ込んだ。いや、それが奴らの習性だった。奴らは、前にしか遁走できないのだ。雪華綺晶の賭けが、見事に的中した。   建物全体が、どうと大きく震えた。ロープにしがみつく雪華綺晶のすぐ足元の壁が粉砕され、がらがらと崩れ落ちた。   コンクリートの中からむき出しになった鉄骨が、ぐにゃりと折れ曲がっていた。   ゴキブリは、しばらくの間、六本の足をぴくぴくと痙攣させていたが、やがて沈黙した。   こうして、死闘は幕を下ろしたのだ。 「ぐずっ……ぐずっ……どうしてカナがこんな目に遭わなきゃならないの……カナ、何も悪いことはしていないのに……」   今回の事件の張本人であることが露見し、金糸雀は、学園中に散らばった汚物の処分を命じられた。   幸いにして、被害が彼女に請求されることはなかった。校舎は、それはもう酷い有り様だった。巨大ゴキブリに崩された壁も凄かったが、雪華綺晶が開けた銃痕の数も半端ではなかった。   しかし、校長が何を仕出かすか分からない有栖学園では、校舎にも多額の保険がかけられていた。   金糸雀は、一生を棒に振らずに済んだ。   涙を呑んで、火バサミで、四散した肉片を拾う。 「ぐずっ……ぐずっ……みんな、憶えてなさぁい……有栖学園一の頭脳派である、この金糸雀が……いつかきっと見返してやるのかしらーーっ!!」   まだまだ騒動のタネは尽きそうになかった。

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