第1部_第2章 現代の病根 「重要な価値の喪失」

このページはhttp://bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65942からの引用です
 

kusamura(叢)フォーラム

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Post時間:2011-11-25 20:32:39
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              第2章 現代の病根  (*前文)

        問題解決の第一歩は、なによりその問題のよってきたるべき原因を理解することである。
        個人のみならず国家それ自体がかくも混乱と動揺の渦に投げ込まれている事態をみるに、
        一体われわれ西欧世界に何が起こっているのか。

        まず歴史的な背景を一べつするとともに、現代を不安と空虚の時代にするような、
        いかなる根源的変動が生じつつあるのか。これを考えてみたい。





             現代社会における中心的価値の喪失(1)(*個人間競争)  

 
  重要なことは、一つの生き方がまさに瀕死の状態にあり、
  もうひとつの生き方がいま生まれつつある
といった、そういう時代、
  そういう歴史の一時点にわれわれが生きているということである。


ルネッサンス以来、現代人には二つの中心的価値があった。

一つは、個人的競争という価値であった。

 経済的な私利私欲を追求し、金持ちになることをめざして働けば働くほど
 その人間はその社会の物質的進歩にそれだけますます貢献していることになるという
 信念があった。

経済におけるこの有名な自由放任
(laissez-faire)は、数世紀にわたって十分その任を果たしてきた。

 相手なり、自分なりが、その取り引きの増大、向上の拡大によって富の蓄積に努力することは、
 結果的には、その社会のため、より多くの物質財を生産することになる。
 このような考えが、現代産業主義や資本主義の初期および発達期においては真実性をもっていた。

企業競争の追求は、その全盛期にあってはすばらしい勇気ある理念であった。



しかし十九世紀ないし二十世紀になると、状況はかなり変化する
大企業と独占資本主義の支配する今日、
どれだけの人間が「個人競争者」として成功を克ちとることができようか。
医師、精神療法家、若干の農民にみられるように、
なお自らの力で経済的ボスになり得る余裕をもてる集団はほんのわずかである。

しかし彼らでさえ、物質の変動、市場の変化に従う点では例外ではない。

大多数の労働者、資本家たち、専門的な職業人、ないし実業家でさえ、
それぞれの労働組合なり、大企業なり、大学機構のごとき
広範囲の集団に適合してゆかねばならない。
さもないと、彼らは経済的に生き残っていくことが全く不可能になる。



われわれはたえず他人を追い抜くよう努力せよと教えられてきた。
しかし現実には、今日われわれの成功は、
自分の職場仲間とどれほどうまく一緒に仕事ができるようになるかに
かかっている。
今日では、一人一人のギャングでさえ、単独では成功がおぼつかないといわれる。
まずその詐欺なりゆすりの仲間に加入しなければならない。


個人的努力やイニシヤティブをとることそれ自体になにか問題があるといっているのではない。
事実、本書でとくに論じたいと思っている点をあげると、
各人、独自の能力や創造性を再発見することが必要であり、
その貴重な能力が、適合という集団主義的計略の中へ融解されてしまうことなく、
社会のためになるような仕事として活用されることである。




科学そのほかの進歩によって、世界的にもまた国内的にも、
いっそう緊密な相互依存関係におかれている20世紀において、
いまや個人主義は、
各自他人におかまいなく、われがちに私利を追求する

という形とは別の形態をとらなければならない。

 

    
         
 
 
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Post時間:2011-11-25 20:44:53
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             現代社会における中心的価値の喪失(2)(*個人主義的競争)  

 
    2世紀前なら、辺境の森林から伐り拓くべき農場をもつなり、
    前世紀にあっては、新しい事業に着手するためのささやかな資本をもっておりさえすれば、
             各自、独力で
(each man for himself)、
             という哲学が、各自にとってもっともよいことであったし、
             また社会にたいしても最善の結果を生んだ。
    しかし、社長の婦人連すら、パターン
(*社長夫人とはどうあるべきか)への適・不適が審査される時代に、
    かかる競争的個人主義ははたしていかなる効果をもっているのだろうか。



 個人的な私利の追求は、結局、平等な社会福祉を強調せず、
もはや自動的に社会の善に貢献することにはならない。

この種の個人主義的競争にあっては、
取り引きの上で、相手の失敗はそのままこちらの成功に通じる。
お互いに成功のはしごをよじ登る途上にあるため、相手の失脚は、
それだけこちらを一段せりあげることになる。


 こうした個人競争は、自然、隣人を自己の潜在的な敵にしてしまい、
人間関係に、相互の敵意や憤懣を生み、
不安をいやがうえにも増大し、
相互の孤立をまぬがれない。


この敵意がこの2~30年間に、ますます表面化する傾向にある。
そのため、その敵意をカバーするため、さまざまなくふうが試みられてきた。
 たとえば、いろんな種類の奉仕機関に加入すること、
(それには、ロータリークラブから、1920年、30年代に生まれたオプティミスト・クラブがあげられる)
 また、 みんなから好感をもたれるような仲間づくりがある。

しかしその内的矛盾は、遅かれ早かれ爆発する運命にある。



このことは、exlink.gifアーサー・ミラーの『セールスマンの死』の主人公
ウイリー・ロマンの生き方の中に、見事に、しかも悲劇的に描きだされている。


  ウイリー・ロマンが教えられ、また自分の息子たちに教えてきたことは
 仲間をのりこえ、金持ちになることこそわれわれの目標であり、
 これにはまずイニシヤティブをとる必要がある、 
 という教訓である。


 息子の少年たちがボールや材木を盗むとき、ウイリーは口さきでは叱るが、
 息子たちが大胆不敵な奴だといういことに満足しており、
 「おそらくコーチは、その進取の気性をほめてくれることだろう」と述べる。

 ウイリーの友だちは、彼に、刑務所が「大胆不敵な仲間」の一杯いるところだと忠告してくれた。
 しかしウイリーは、「株式取引所もそうなんだ」と答えている。


ウイリーは、二、三十年前のたいていの人がそうであったように、
よく好かれる」ことによって、
自分のうちにある競争意識をカバーしようとしている。

 一老人として、会社の変わりゆく政策によって、石炭殻入れに投げ込まれるように
 自分が見捨てられたとき、彼は途方にくれ、
 「しかし、自分は一番好かれていたんだのに」と繰り返すだけであった。

自分の教えられてきたことがなぜ役に立たないのかという価値の矛盾にとまどう彼は、
ついに自殺という極限にまで自己を追い込んでしまう。

 墓場で息子の一人はいう。
 「おやじはなんでも一番になろうという、結構な夢をみていた」と。
 しかしもうひとりの息子は、
 かかる価値の変動からくる矛盾を正確に見ぬいている。そして
 「父は自分がいったいどういう人間であるかすらわからなかったのです」という。






 
 
 
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             現代社会における中心的価値の喪失(3)(*理性への信頼の喪失)  

 
    今日、われわれを支配している第二の中心的信念は、人間個々のもつ理性への信頼 であった。


先に論じた個人的競争という価値に対する信念と同様、
ルネッサンス期に迎え入れられたこの信念は、
17世紀啓蒙時代の哲学的探求となって結実することになる。
しかもこれは、
科学の発達および普通教育運動に対する高貴な人権宣言としての役を果たした。


現代のはじまりである最初の何世紀かにあっては、
個々人の理性は、また 「普遍的理性」
(universal reason)を意味した
万人がそれによって幸福に暮らせる普遍原理 を発見することこそ、
知性人の立ち向かうべき目標であった。



 しかし再び、20世紀になって顕著な変化があらわれてきた。
心理学的に、理性は「感情」と「意志」から分離されるようになってきた。

デカルトは、かの有名な、肉体と精神の二分法というかたちでパーソナリティを分割した。
(この肉体と精神という問題は、本書全体をつらぬく課題でもある)

この二分法の結果19世紀から20世紀の初頭にかけて、
理性こそあらゆる問題に答えうるものであり、
意志力こそ理性を効果あらしめるもの と考えられた。
また感情は、一般に妨害するものであるが、しかも十分抑圧できるものであった。

これは一体どういうことであろうか。

われわれはそこに
パーソナリティ分割のために利用された理性を見いだす
(今日これは、知性主義的合理、と変形されている)。
その結果、フロイドがうまく記述しているように、
本能、自我、超自我間の抑圧、葛藤、という問題がでてくるのである。



17世紀にスピノザが理性ということばを使ったとき、それは、
精神が、
感情と倫理的目標、および「全人間性」のもつ諸相とを結びつける場
としての人生態度
をしめした。

今日、その言葉がもちいられる時には、
ほとんど常に、パーソナリティの分割がほのめかされている。
すなわち

  「自分は理性に従うべきか、
   あるいは、
  感性的情熱や欲求に道をゆずるべきか、
   それとも
  自己の倫理的義務に忠実であるべきか」 と。


 
 
 
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Post時間:2011-11-26 17:52:03
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             現代社会における中心的価値の喪失(4)(*理想的価値)  

 
       いま述べてきたこの 個人的競争 や 理性への信念 は、
       現実に、今日の西欧文化の発展を指導してきた信念である。 
 


しかし、その信念はかならずしも“理想的価値”ではない。
多くの人によって“理想的なものとしてうけいれられている価値は
「汝の隣人を愛せ」とか、社会への奉仕とか、
かかる教訓からなる 倫理的人間主義 に結びつくヘブライ的キリスト教的伝統のもつ価値であった。
これらの理想的価値は、
個人的競争と理性の強調と並んで、学校や教会で教えられてきた。

この二組の価値の、
一方
(*理想的価値)
古代パレスチナ、ギリシアの倫理的、宗教的伝統へその源を何世紀も遡るものであり
他方
(*個人主義・競争原理・理性尊重)はルネッサンスに生まれたものであるあるが、
両者は、ある程度からみ会っている。

たとえばプロテスタンティズムは、
ルネッサンスにはじまる文化革命のもつ宗教的側面であるが、
これは自らの力で宗教的真理を見いだそうという各自の権利や力を強調することで
新しい個人主義を表現している。



この数世紀間に、両パターン間の争いは、かなりよく調整されてきた。

人間同胞(brotherhood)の理想は、かなりの程度、経済的競争によって促進された。
科学的進歩、新しい向上建設、産業機構のさらにめまぐるしい発展、これらは、
人間の物質的繁栄、身体的健康をおおいに増進してくれた。

そして、歴史上、はじめて、現代の産業や科学は
地球上から飢餓や物質的欠乏を一掃することの可能なほど大量に生産することができるようになった。
科学と競争的勤勉さが、人類を
普遍的な同胞愛という倫理的理想へさらに近づけつつあると主張しても過言ではない。




しかし過去2~30年間のうちにはっきりしてきたことは、
両者の結合は矛盾にみちていたということである。

今日、
学校で人一番よい成績をとることであれ、
日曜学校で人気を得るため主役を演ずることであれ、
また、経済的に成功して救いの確証をつかむことであれ、
他人に一歩先んずることが強調されている、という事実は、
隣人の愛の可能性を大いに妨げるものである。

しかも、このように、ほかにぬきんずるような風潮は
同じ家族内、兄弟間で、また夫婦間の愛情をさえ、妨げることになる。


現代社会に胚胎する矛盾を示すところの終局的な爆発としては
ファシズム的全体主義があげられる。
そこではヒューマニズムやヘブライ・キリスト教的価値、
とくに人格の尊厳というようなんものは、
バーバーリズムの巨大な波の前に、ただ軽べつの目を投げかけられるだけである。



 
 
 
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Post時間:2011-11-26 18:29:15
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             現代社会における中心的価値の喪失(5)(*バラバラの人間)  

        
         読者の中には、
        「なぜ、経済的な努力が、同胞と反目することになるのか。
         なぜ、理性は、感情と相反する必要があるのか」
         と、お考えの方もあると思う。

そのとおりである。

しかし今日のような変動期の特色はこまかにみてみると、
あらゆる人が誤った問いを尋ねている、ということである。



旧来の目標、規範、原理は、なおわれわれの心情や「慣習」の中に生きているのに、
それらがもはや現実に適合しなくなっている、ということである。
したがって
大部分の人が、決して正しい解答のみつかりもしない問題を問い続け、
たえずフラストレーション下にある。
あるいは、人々は矛盾する答えの混乱のなかに迷い込んでしまう。

 教室にいるときは「理性」が働き、
 恋人を訪ねるときには「感情」が働き、
 試験勉強のときには「意志」が働き、
 葬儀や復活祭の日には「宗教的義務」が働くことになる。



このような価値と目標の区分化は、パーソナリティの統一を破壊することになる。
そして
内も外も「バラバラ」の人間(the parson in pieces)は、
すすむべき方向を知らない。



 19世紀から20世紀初頭に生きた何人かのすぐれた人物は、
 パーソナリティに分裂が起こりつつある事実を感知していた。

文学におけるexlink.gifイプセンはそこに起こりつつある事態を認識し、
芸術家のexlink.gifセザンヌと、人間性を科学的に研究しようとしたexlink.gifフロイドもそれを実感していた。
これらの人物はいずれも、われわれに新らしい生の統一の必要なことを力説している。

 イプセンは『人形の家』という劇の中で、次のことを示している。
 すなわち
 19世紀のよき銀行家のように、もし夫が仕事と家族を別々に区別して、勤め場所へでかけ、
 妻を人形のように扱うならば、その家はつぶれてしまう。

 セザンヌは、19世紀の人工的でセンチメンタルな芸術を攻撃し、
 芸術は生命のいつわりない現実
(honest reality)を扱うべきこと、さらに
 美は小ぎれいさよりも統合
(integrity)をめざすものである旨を主張した。

 フロイドは、人間がその感情を抑圧し、性や怒りがあたかも存在しないかのように振る舞うなら
 その人はやがて神経症になる旨を指摘している。 
 かくてフロイドは、
 抑圧されてきたパーソナリティの、より深い層にある無意識的「非合理」なレベルをあらわにし、
 人間が、考え、感じ、意志する、統一体になるのに役立つような技術を達成した。

 

今日おおくの人は彼らを現代の予言者であるとみているほどである。
たしかに、それぞれの貢献は、おそらく、それぞれの分野でもっとも重要なものである。

しかし彼らはある面で、新しい時代の最初の人というより、
旧い時代の最後の傑出者ではなかったか。
というのは彼らの新しいテクニックがいかに重要なもの、不朽のものであるにせよ、
彼らもやはり時代の児で、自己の生きた時代の目標に沿って進んでいた。
彼らはうつろな時代のもうひとつ前の時代に生きていた。



 さて、あいにく、20世紀なかばの真の予言者たちは、
S・キルケゴール、F・ニーチェ、F・カフカのように思える。
ここで私があいにく
(unfortunately)といっているのは、
われわれがやろうとしていることが難しいものであるということを意味する。

これらの人は、いずれも、今日、価値の破壊が起こっていること、
すなわち20世紀のわれわれを飲み込んでしまう孤独、空虚、不安、を予知していた。
彼らは、われわれが、過去からの目標に則ってはゆけないことを知っていた。

この三人は、各自がたいへんな力と洞察をもって、
ほとんどあらゆる知性人の目下直面している個々のジレンマを予知していた。


 

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Post時間:2011-11-26 19:26:44
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             現代社会における中心的価値の喪失(6)      (*ニーチェ「神は死んだ」)  

 
    exlink.gifニーチェは、
    19世紀においては、科学が製造工場になりつつあることを宣言し、

    倫理や自己理解の面で、それにふさわしい進歩もないのに、
    技術面での偉大な進歩はニヒリズムへ進む恐れあり
、と述べている。


彼は20世紀にいかなる事態が起こるかについて、
予言的な警告を発し、「神の死」をめぐる譬え話を書いている。
それは
「神はどこにいるのか」と叫びながら村の広場へかけこんでゆく狂人についての
忘れがたい物語である。     

 回りの人々は神を信じない。すなわち彼らは笑い、そして言う。
 神はおそらく航海に出てしまったのだ、あるいは、ほかへ移住してしまったのだ、と。
 そのとき、その狂人は叫んだ。
 「神はいずこへ行くのだ」と。


  私は君に告げよう。彼(神)を殺してしまったのはわれわれだ。君と僕だ。
  ……どのようにして、こんなことをやってしまったのか。……
  全地面を一掃するために、スポンジをわれわれに与えたのはだれか。
 
  われわれがこの地球をその太陽から引き離したとき、われわれは何をやったのか。
  ……いま、われわれはいずれの方向へ動いているのか。われわれは一切の恒星から
  遠ざかってゆくのか。われわれはこの瞬間にも落ちつつあるのではないか。うしろへ
  わきへ、まえへ、そしてあらゆる方向へ、
  しかも上下しながら、無限の虚無
(naught)を通るとき、われわれは道を踏みあやまらないだろうか。    
  うつろな空間の微風を感じないか。いよいよ寒気を覚えるではないか。もうこれから
  ずっと夜という夜はやってこないのか。

  …神は死んだ。神は死んだままだ。……神を殺したのはわれわれだ。…
  ここで狂人は沈黙し、再び、聞き入る人々へに目を向けた。 人々も黙って彼を眺めた。      
  ……「自分はあまりにも早く来過ぎた。」そのとき彼は言った。…
  「この恐るべき事態はまだその途上にある」と。
                                   

                                      
 (*exlink.gifニーチェ『悦ばしき知識』)   

ニーチェは、
伝統的な神信仰への復帰を呼びかけてはいない。
しかし二ーチェは
社会がその価値の核心を失うとき、何が起こるかを教えている。

彼の予言の真実性は、20世紀半ばの大虐殺、とくに
ユダヤ人虐殺
(pogrom)や暴政の打ち続く恐怖の中に示されている。
大変な事態が起こりつつあった。
現代の人道主義的、ヘブライ・キリスト教的価値がかくも軽べつされているとき、
われわれの上におおいかぶさってきたのはバーバーリズムの暗い宵闇であった。


その解決法は、
もろもろの価値の中心となるものを新たに発見することである
とニーチェはいう。
それは彼が、すべての価値の再評価
(revaluation)ないし、
価値の転換
(transvaluation)とよぶところのものである。

「すべての価値の再評価」 これこそ
人類による究極的な自己省察(self-examination)行為のための私の処方である
と彼は主張する。

いわば、近代を形成する過去数世紀にわたり、
統合の中心であった価値や目標が、もはや信服力をもたなくなったということである。


われわれの目標を建設的に選び出せるような、
そして、どの道を進むべきかを知ることができない苦しいとまどいや不安、
それを克服できるような新しい中心はまだみつかっていない。




 


           *exlink.gif晩年のニーチェ映像:youtube


         
 
 
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Post時間:2011-11-26 20:26:23
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             自我感の喪失 (1)  (*喪失の歴史)  

 

     現代のもつ、もう一つの病根は、人間存在としての価値観や威厳の喪失である。


このことを予言するかのようにニーチェは述べている。
 個人は群衆の中に呑み込まれており、われわれは
 「奴隷道徳」(slave morality)によって生きている


マルクスもまた、現代人は「非人間化」(de-humanized)の状況にあると宣言することによって
これを予告している。
カフカは、その驚くべきストーリーの中で、
人間がいか、人間としての自己同一性を失い得るものであるかを示している。



 しかしこの自我感(*自己価値感)の喪失は一夜のうちに起こったものではない。
1920年代に生きた人間は、
自我(self=*自己)というものを表面的に、
しかも過度に単純化して考える傾向が次第に高まりつつある事実を想起できる。

当時「自己表現」(self-expression)ということは、
自分の頭にふと思いうかんだことを何でもやってしまうことだ、と考えられていた。

自我とは何かでたらめの衝動とまるで同義であるかのようにとられ、
またその決断の下し方も、当人の人生哲学にもとづくだけでなく、
しばしば食事を急いだためにの消化不良ともとれる気まぐれによって決められるかのようである。


「なんじ自身であれ」(to be yourself)ということは、
好みの赴くままに、したいようにするという、最低の共通分母を満足させるための
言い訳になっている。
「自分自身を知る」(to know one's self)ということは、
ことさら難しいことだとは考えられていない。
パーソナリティの問題は、よりよく「適応する」ことで比較的容易に解決できた。

これらの見解はexlink.gifワトソン一派の行動主義のように、
過度に単純化された心理学によってさらに助長された。
犬の唾液が食事を知らせるベルの音だけで分泌するのと本質的に違わないテクニックによって
子どもを、恐怖、迷信、そのほかの問題からのがれるよう条件づけできるといって、
われわれはよろこんだ。

人間状況についての、このような皮相的見解は、
経済的進歩の自動性にたいする信仰によってさらに強化された。

われわれはすべて、たいした苦労や苦悩なしに、
ますます金持ちになれるという信念がそこに支配していた。



しかもこれらの考え方は、
1920年代にさかえた宗教的道徳主義
(religious moralism)の中に、
その決定的な味方を得ることとなった。

その宗教的道徳主義というのは、日曜学校の域を出るものでなく、
歴史上の倫理的、宗教的指導者たちにみられる深い洞察よりもむしろ
自己暗示説
(exlink.gifCoueism)や盲目的楽天主義(exlink.gifPollyannaism)に近いものであった。


事実、当時およそものを書くほどの人はすべて、
人間についての同じくあまりにも単純化された見解を抱いていた。
exlink.gifバートランド・ラッセルは、
(今日、彼の見解は当時とは全く異なっているとは思うが)
1920年代にはこう述べている。
―科学のかくも急速な進歩は、やがてわれわれに、
 その人間に好みのままのいかなる気質でも与え得るようになろう、と。
すなわち
怒りっぽい気質にせよ、あるいは臆病にせよ、性的に強い人、弱い人も、
ただ注射によって思いのままになるという夢であった。

この種、押しボタン式心理学を、exlink.gifオルダス・ハックスリーは、
その著『exlink.gif勇敢な新世界』の中でしきりに皮肉っている。


 1920年代は、人間が自己の力におおいに確信を抱いた時代のようにみえるが、事実はその反対であった。
人々が信をおいたのは、技術やちょっとした機械装置(ガジェット)であって、人間性そのものではなかった。
実際、
あまりに単純かされた機械的な自己感は、その根本において
人格の尊重、その複雑な機構、またその自由にたいする信頼の欠除を示している。


1920年代からこちら、この20年間に、
人間の力や人格の尊厳に対する不信感がますます表面化してきた。

それは、個我(indibidual self)がとるに足りない存在に見え、
個人の選択行為など問題にならないような多くの具体的な場合が
つぎつぎと立ちあられてきたということである。


大不況のごとき、また
全体主義的な動きや、制御しがたい経済変動に直面して、
われわれは、
人間としての卑小感、微力感をいやというほど味わされ、
個我は、大洋の波浪に押し流される砂粒にも似て、非力な存在と化してしまった。


 
 
 
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             自我感の喪失 (2)  (*無力な自分1:希薄な自己感)  
  
       今日、たいていの人は、自己存在としての自分が、いかにとるに足らぬもの、
       また非力なものであるかを思い知らされる材料にこと欠かない。



現代の巨大な経済的、政治的、社会的変動に直面して、
いかに対処すればよいのか、われわれはとまどう。


政治の世界はいうまでもなく、宗教や科学の世界にあっても、
権威主義がじょじょに受け入れられつつある。
それは
とくに、多くの人が明確に権威を信じているためではなく、
一人一人が無力で、不安な自分を感じとっているからである。

考えてみると、
政治的な指導者に従うか、
―あるいはアメリカにみられるように―
慣習、世論、社会的要望に従う以外、われわれは一体どんなことができるのか。

このような「推論」には、何かが忘れられていないだろうか。
それは、
人間の価値にたいする信念の喪失が、
ある程度、社会的政治的大衆運動の原因をなしている という事実である。
さらに詳しくいうと、
自我(*自己価値観)の喪失および集団主義運動の発生は、
ともに現代社会の底辺にある同じ歴史的変動の生起を示すものである。

それゆえ、われわれは両側面に向かって戦いを挑まなければならない。
すなわち全体主義およびそのほか、非人間化の傾向に反抗するとともに、
他方では、
人間の価値や人格の尊重を自ら感じとり、かつそれらに対する信念を回復する必要がある。



 現代社会における自我(*自己)感の喪失(lose of the sence of self)という驚くべき光景は、
現代フランス作家exlink.gifアルベルト・カミュの『異邦人』の中に如実にしめされている。

  それはどの点からしても例外者ではなく、ありふれたフランス人の物語である
  事実、彼は「平均的」現代人とよんでよい。

  彼は母親の死を経験し、仕事につき、日常生活のきまりをせっせとつとめ、
  恋愛事件をおこし、性的経験をもった。
  しかしこれらの経験には、すべて自分の側に、何ら明白な決意や認識がない。
  彼は後になって、ある男を射殺することになる。

  本人自身の心の中では、その発砲が偶然だったのか、それとも
  正当防衛のためであったのかさえはっきりしない。

  彼は殺人罪に問われ、恐ろしいまでの非現実感をもったまま、
  あたかも、万事が偶然彼のうえにふりかかってきたことのごとく
  処刑されてしまう。

  すなわち、彼は決して自分自身で行動しているのではなかった。



この本には、カフカの他の物語の中にみられる同じ不決断のもやに似た
挫折感や心的打撃のあいまいな影がただよっている。
まるで万事が夢の中で起こっているようで、
そこには、外界なり、自分のやっていることが、現実には、
自分とはまったくかかわり合いもなく起こっているふうに受けとっている人間がいる。

外からみれば、悲劇的事件であるに違いないが、
彼には、自己自身についての認識がないため、勇気とか絶望といったものさえ持ち合わさない人間である。

  処刑をまっている最後の時になって彼は
  exlink.gifジョージ・ハーバートのことばにあるような体験をほのかに感じとっている。

   あちこち、ぶちあたりながら
   波のまにまに漂うこわれた船

   神さま、私は私自身で決めます


全くというのではないが、この実感が貫き通されるには、まだほとんど十分な自我認識がない。
この小説には
ほんとうに自分自身にとって『異邦人』である現代人特有の、
何かつきまとわれているような、
正体の知れぬおそろしさにおののく者の姿が描かれている。


 
 
 
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Post時間:2011-11-26 22:17:24
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             自我感の喪失 (3)  (*無力な自分2:受動性)  


  自己の無力感を示す例は、現代社会のわれわれのまわりにころがっている。   


実際、それは珍しいことではなく日常化しているため、一般に
われわれはそれらをそういうものとして受けとっている。

たとえば
今日ラジオ番組の最後に「ラジオ聞いてくれてありがとう」
(thanks for listening)
きまってつけ加えるが、
聞き手を楽しませ、また一応価値のある何かを与えているほうの人間が、それを聞いている聴取者に
なぜ感謝しなければならないのか。

これは、
お客である聞き手の気まぐれによって、その行為に価値が与えられたり、
またその価値が剥奪されることを示している


ラジオの例ではその顧客は、いわば公衆という名の皇族であった。
ラジオアナウンサーのことばに似たものは、宮廷道化師にみられる。
宮廷道化師は、演技を披露するだけでなく、同時に、顧客である皇族に対し
楽しんで下さるよう懇願しなければならなかった。


この特質は、現代を貫流している一つの態度を示すものである。
現代、多くの人々は、
自己の行為の価値を、その行為自体に基づいて判断するのではなく、
その行為がいかに受けいれられるかという、その受けいれられ方によって判断する
のである。
それは
まるで、聴衆を見るまでは、常に自己の判断を保留しなければならないかのようである。

その行為が向けられているなり、その人のためにその行為がなされるといった、
その行為の受け手のほうが、その行為者自身よりも、その効果を左右できる立場にいる。

このように、
われわれは、主体的自己として生き、かつ行為する人間であるよりも、
むしろ生活の「演技者」(perfomers)であろうとしている。


  性の領域から一例をあげると
男の方で、婦人に「どうぞ満足してください」と懇願する態度で交接しているように見える。
これはしばしば現代の男性に、一般に考えられている以上に、広範囲に現存する態度である。
しかもこの態度が、
人間関係の場に、いかに影響しているかを見るため、次のことを付け加えてもよい。

もしその男性の関心が、もっぱら、婦人を満足させることにありとすれば、
その人間の男性らしい率直な態度や、活動的な力は
その対人関係の場にはいってこないということである。
しかも多くの場合、よくみてみると、
これが婦人の方で完全な満足が得られない理由にもなっているということである。

(*この時期アメリカではexlink.gifキンゼイ報告によって性生活の広範囲なアンケート結果がもたらされていた)

ジゴロ(gigolo=男めかけ)のテクニックがいかに上手であろうとも、
それを実際の情熱の代わりに選ぶという婦人があるだろうか。

ジゴロや宮廷道化師の態度の本領は、
人間の力や価値は、その人の積極的行為によってきまるのではなく、
もっぱら受け身に立つことにあるという見方である。


 
 
 
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             自我感の喪失 (4) (*ユーモア)  


  今日いかに自己感の分解がおこっているかを知るもう一つの例は、ユーモアと笑いである。   


ユーモアの感覚が人間の自己感といかに密接に結びついているかは、一般に知られていない。

普通、ユーモアには、自己感を保持する機能がある。

客観的状況に呑みこまれてしまわない主体としての自己を体験できるというのは、
人間独自の能力であって、
ユーモアはその能力の一表現である。

それは、
自己とその問題との「距離」を認識する健康な方法であり、
局外にあって、しかもある見通しをもって問題を見ることのできる一方法
である。


人は不安恐慌にあるとき笑えない
というのは、
そのときには、人はその場の状況に呑み込まれており、
主体としての自己と、自己の回りの客観的世界との間の区別を失ってしまうからである。

さらに、人は笑えるかぎり、不安や恐慌に支配されることは全くない。
ことわざにいう
「危険に際し、笑えることは、勇気のあるしるしである」
ということばの真実味もでてくる。

精神病が疑われるような人の場合、その当人にユーモアの感覚が保たれているかぎり、
すなわち、笑うことができるかぎり、あるいは、ある人が述べているように
「なんと自分は気が狂った奴だったんだろう」という気持で自分自身が眺められるかぎり、
彼は、自己意識としての自己同一性を保持していることになる。
 

 われわれだって、神経症であろうとなかろうと、自己の心理的問題に洞察が得られたとき、
普通の自発的反応は、かすかに笑うことである。
いわゆる「ははぁー」という納得了解の声である。

客観界で活動する主体としての自分自身について、新しい評価が生まれるからである。




 さて、一般にユーモアが、人間にたいし果たしている機能をみてきたので、
次は現代社会においてユーモアや笑いに対する一般的な態度がどんなものであるかみてみよう。

そのもっとも顕著な事実は、笑いが一個の商品化 されているということである。
われわれは
「一個の笑い」について語るなり、
笑いがあたかも一ダースのオレンジやリンゴのごとく計量化しうるものとして、
映画やラジオのプログラムには計算機か数量登録機によってでてくる「しかじかの数の笑い」がある
などと考える。


たしかに若干の例外はある。まれな例ではあるが、exlink.gifE・B・ホワイトの著作をあげよう。
これをみると、ユーモアというものが、いかに読者の人間としての価値観を高め、
人格の尊厳を認識させてくれるものであるかがわかる。
また回避しがたい問題に遭遇したとき、ユーモアがいかに読者の目を盲目にせず、
現実を直視させてくれるものであるかがわかる。


 しかし一般に、今日では
ユーモアと笑いは、たとえば、ラジオ用のギャグ作家の作品のように、
通信販売や押しボタン式技術によって生産される量的な形の「笑い」(laughs)になっている。
実際、ギャグ(gag=場当たり文句)という用語はぴったりしたことばである。

exlink.gifトルスタイン・ヴェブレンははっきり次のように述べている。
笑いは、ガス自体のはたらきに似て、感受性や知覚のはたらきを鈍らせる「笑いガス」としての役を果たしているという。
笑いは途方にくれたとき、
新しいしかもさらに勇気ある見通しを得るための方法よりも、むしろ
不安と空虚からの一時しのぎの逃避であって、いわば頭隠して尻隠さず式の逃避で、
完全な問題解決にはなっていない。

しゃがれ声のバカ笑い
(raucons guffaw)としてしばしば表現されるこのような笑いは、
飲酒やセックスのような単なる緊張解消機能はもっているかもしれない。
しかし
最適の現実逃避手段としてそれにふけるときのセックスや飲酒のように、
この種の笑いは、その笑いのときがすぎれば、人をもとの孤独と自己疎外に帰してしまう

もちろん
ある種の笑いは、復讐的な意味をもっている。
これは勝利の笑いであって、その笑いのかくしがたい特質は、
その笑い
(laughter)は、ほほえみ(smiling)と何の関係もないということである。



人はかくて、憤慨や激怒の中にあっても笑うことができる。
私はしばしば次のような感じをもった。
ほほえんでいるものととれそうなヒットラー写真顔のなかに読み取れる、一種のしかめ面が、
この怒りの中の笑いだと。

復讐的な笑いには、
人格の尊厳や人生の意味を喪失した人々のユーモアが繁栄されている。

自我の重要性や自己の価値に対するみずみずしい感覚が失われてしまっていることが、
ある読者にとっては、本書で展開する議論についてゆくうえで、大きなつまづきのひとつになるだろう。
世慣れた人もそうでない人も、ともに多くの人々が、
自我感の再発見という問題とがいかに重要なものであるかということに確信を失っている。

人々はなお「自己本来の自我(*自分自身)であること」(being one's self)は、
1920年代に、「自己表現」(self-expression)ということばがもっていた意味と同じ
だとみている。
したがって次のような問い方をする。
(自分たちの仮定を正当なものとしたうえで)

 自己本来の自分でないことが、非倫理的で退屈なことになるだろうか。
 また、われわれはショパンを弾くことの中に、自己を表現すべきだろうか。
 
このような問のだし方それ自体が、自己本来の自分に立ち返ることの深い意味が
いかにはなはなだしく失われているかを示すものである。
このように、
今日、多くの人々は、「なんじ自身を知れ」という教えのなかで
ソクラテスが、人間に対し、なによりももっとも困難な問いかけを行っている
ということがほとんど理解できなくなっている。

また、キルケゴールが、
もっとも高い意味で、冒険することは、まさしく、
 自己本来の自分を意識することだ

と述べている意味内容を(現代の)人々はほとんど理解できない。





 
 
 
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Post時間:2011-11-27 18:45:31
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             コミュニケーション用語の喪失 (前)  


    今日、自我(*自己)感の喪失と並んで、
深い個人的な気持を伝え合う  ためのことばが失われつつある。   


これは、現在西欧の人々が体感している孤独の重要な一面である

たとえば「愛」(love)ということばをとってみよう。
これはあきらかに、個人的心情を伝え合うのに欠かすことのできないことばであるが
今日、愛ということばが使われるとき、聞く方の耳にはさまざまに響く。
 たとえばそれはハリウッド的な愛であったり、
 流行歌の「私の私の赤ちゃんが好きなの、私の赤ちゃんも私が好きなの」
 とセンチメンタルな感情であったり、
 あるいは宗教的博愛あり、友情あり、またそれは、性的衝動でもある。


ほかのいかなる重要語、「真実」「誠実」「勇気」「精神」「自由」
さらに「自己」ということばについても同じことがいえる。
われわれは、たいていこのような言葉にたいし、
各自、自分の隣人がもっている意味とはまったく違った、私的な意味内容をかかえている。

したがって、ある人たちは、かかるコトバの使用をことさら避けようとしている。



exlink.gifエリッヒ・フロムが指摘しているように、
われわれは専門領域については、すぐれた語彙をもっている。
多くの人が、自動車エンジンの部品名をはっきりいうことができる。
しかし
それが意味深長な人間関係のこととなると、残念ながら、われわれはいうべきことばをもたない。
われわれはことばに詰まり、孤立してしまう。

exlink.gifエリオットは、このことを「exlink.gifうつろな人間」の中で次のように述べている。

  われわれが一緒にささやくとき
  われわれの無味乾燥なことばは
  乾し草の上吹く風のごとく また
  地下室の内なるガラスの上をゆくねずみの足音のごとく
  単調で意味をもたない

  



 コトバの影響力がこのように失われている事態は、妙なことに、分裂した時代の一徴候である。

ある時代にはコトバが生き生きと活動し、人を動かさずにはおかなかった。
たとえば、紀元前5世紀のギリシアを想起してみよう。
それはexlink.gifエスキュロスexlink.gifソフォクレスが、卓越したギリシャ語を駆使して名作を書き上げた時代である。
また、シェークスピアが活動し、欽定訳聖書(訳注:1611年に翻訳編集された英訳聖書)の書かれた
エリザベス朝の英語をあげることもできる。
  ほかの時代には、コトバの力が弱くあいまいで、人を動かす力もなく、よどんでいた。
たとえば、exlink.gifヘレニズム時代のギリシア文化の分裂、分散があげられる。

多くの研究から次のことがいえると思う。

 ある文化が統一へ向かって発展途上にある、といった歴史的局面にあっては、
 その文化がもつ言語に、その統一と力が反映され、
 一方、文化が変動、消散、分解の過程にあるときには、
 同じくそのコトバもその力を失うときときである。

「私が十八才のとき、ドイツは十八才だった」と語ったexlink.gifゲーテは、
その当時、国民の理想が統一と力の方向へ向かいつつあったという事実を指すだけでなく、
作家としての自己の力量を発揮する手段であるコトバもまた、
その発展の途上であったということを示している。



 今日では、語義学
(semantics*=意味論)の研究は、たしかに重要な価値をもっている。
おおいに推進さるべき問題である。

しかし、ここでつまづきになる問題は、
いったん、お互いのコトバを学んでしまうと、
もうそれ以上、心を伝え合うため時間もエネルギーも使おうとしなくなっている一方、
なぜわれわれは、
それぞれのコトバのもつ意味内容について、かくも多く語らねばならなくなったのか、
ということである。 

 
 
 
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 題名:#12
Post時間:2011-11-27 19:01:52
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Joined:2013-12-06 19:50:08
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             コミュニケーション用語の喪失 (後)(*バラバラなスタイル)  


      コトバ以外にも人間的なコミュニケーションの方式がある。   

たとえば、美術、音楽があげられる。

絵画と音楽は、
いわばその社会内での鋭敏なスポークスマンの声であって、
これは同じ社会内に住む他者だけでなく、ほかの社会、ほかの時代へも深い個性的な意味を伝達する。

しかし、現代美術や現代音楽の中にはコミュニケーションの役を果たさないコトバが見いだされる。
たいていの人、たとえ知性ある人でも、その絵を解く秘密の鍵を知らないかぎり、実際なにも理解できない。
われわれは、ありとあらゆる種類の流派の絵に接する。
印象派あり、抽象派あり、具象派あり、非形象絵画(exlink.gifnonobjekutive painting=*exlink.gifアンフォルメルがある

さらにモンドリアンになると正方形と長方形だけ、
ジャクソン・ポロックになると、大きなキャンバスにペンキをはねかけ、ほぼ偶然といっていい形を描きなぐっている。
しかも作品につけられたタイトルは描かれた日付けだけである。


もちろん私はこれら芸術家について批評がましいことをいうつもりはない。
とにかくこのふたりともたまたま見る私を楽しませてくれる。
才能ある芸術家は、こうしたわずかなコトバでコミュニケーションできるということは、
現代(*アメリカ)社会について、なにか重要なことを示していないのだろうか。


 ニューヨークには、教員およびもっとも代表的な学生団体として最大の芸術家集団である画学生連盟がある。
そこを訪ねてみると、それぞれみな異なるスタイルで、画室ごとに、びっくりさせられるだろう。
画室から画室へ、二十歩あるくたびに、感情のギアを変えてゆかねばならない。

ルネッサンス期にあっては、普通だれでも、ラファエロ、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロの絵を見ることができ、
その絵の中に、
生命一般について、しかもとくに自分自身の内的生命について理解できる何かを
自分に語りかけているのに気づくことができる。


しかし
何も教えられていない人間が今日、ニューヨーク市57番街にある画廊を歩き、
たとえばピカソ、ダリ、マアリン
(*不明、exlink.gifマリンのことか)などの作品に接するなら、
そこに人はなにか重要なものがコミュニケートされていることには同意するだろう。
しかし彼は、疑いもなく、ただ神と芸術家だけが、それが何であるかを知っていると主張するだろう。
彼自身としては、おそらくとまどい、やや苛立っているだろう。


 ニーチェによると、人間はその人の「スタイル」によって、すなわち
その人の行動に基本的な統一と差別性を与える独特の「パターン」によって認識されるはずだという。
文化についてもある程度おなじことがいえる。

しかし今日、「スタイル」がなんであるかを尋ねるとき、
そこには現代的と呼び得るようなスタイルが何もないことに気づく。 

セザンヌやヴァンゴッホの偉大な仕事にはじまる、多くの派を異にする芸術運動に共通なことは、
それらの運動のいずれもが、19世紀芸術の偽善性と感傷性を突破しようと
絶望的な努力を続けているという事実である。
意識的にせよ、無意識的にせよ、
世界を体験する自己という確固たる現実から、絵画によって語りかけようとしている。

しかし、それぞれの分野におけるフロイドやイプセンのごとく、真実を求めて
絶望的な探求を続ける姿は非常なものであるが、この努力のかなたには、
たださまざまのスタイルが雑然と並んでいるだけである


ルネッサンス期におけるほどに、
時代というものが、現代という一時期を形成するまでに変貌を終えていないことを当然考慮にいれるとしても、
しかもなお、
この各流派の雑居状態が現代の不統一を如実に示していることは事実である。


現代芸術がいかに多様であるにしても、その不調和と空虚な絵は、このように
現代の状況をそのまま反映するものである。
その光景は、あたかも真の芸術家すべて、いかなるコトバによれば、
自分の仲間に形と色をもった音楽を伝え得るものか、いま、
いろんなコトバを狂気のようにテストしているのだともいえる。

しかし、そこにはまだ何も共通言語が見つかっていない
ピカソのごとき巨匠は、その生涯にわたって何度となく、描画のスタイルを変えている。
ある面ではそれは、過去40年にわたる西欧社会の性格変貌を反映するものであり、
ほかの面では、彼が自分の仲間に語りかけのできる波長をキャッチしようと、
大洋上で空しくダイヤルを回している人間のようでもある。

しかし芸術家も、そうでないわれわれも、精神的に孤立のまま洋上にただよっている

われわれは、自分の孤独をまぎらわすため、ことばの通じ合う話題を求めて
他人とおしゃべりするのである。
ワールド・シリーズ、職場のこと、最近のニュース記事など。


心のさらに深層にある情動的経験は押し流され、
われわれは、ますます空虚で、孤独なものになってゆく傾向にある







 
 
 
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 題名:#13
Post時間:2011-11-27 19:36:47
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Joined:2013-12-06 19:50:08
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             自然への共感の喪失 (1)(喪失の歴史)  

 
      主体的自己としての自己同一性の感覚を失ってしまった人間は、また
      自然にじぶんが結びついているという感覚も失う方向にある。     



精神療法にくる空虚感をもっている人は、いかにもくやしそうにいう。
 ほかの人たちは、日没を見て感動できるのに、自分にはそれが感じられない。
 また、ほかの人の目には、
 大洋が壮大なもの、おそろしいものに見えるのに、自分は
 海岸の岩に立っても、何も大した感じがわいてこない
、と。


われわれの自然に対する関係は、われわれの空虚感によって破壊されるだけでなく、
われわれの抱く不安によっても破壊される傾向にある。
 学校で原子爆弾にたいし、いかに身を守るか
 という授業を聞いて帰った少女が
 「おかあさん、どこか空なんてないようなところへ引っ越しできないの」
 と両親に尋ねた。


この話は、
不安がいかに人間を自然から撤退させるものであるかをよく象徴している。

 もっと日常的なレベルでみると、
人が自らの内なる空虚さを感じはじめるとき、
彼は、自分の回りの自然もまた空虚で、かわききったもの、死んだものとして体験するようになる。

 この二つの空虚体験は、対生命関係の衰弱という同一状態の二側面をあらわしている。
 


自然に対する結びつきの感覚が近代において、いかに栄え、やがえ衰えていったかをふりかえってみると
われわれの自然に対する感情喪失がどんな意味をもつのか、いっそうあきらかになる。

ルネッサンスのもつ主たる特質の一つは、
あらゆる形での自然に対する熱狂がもりあがってきた、ということであった。
人間の目は動物に、樹木に、あるいは天空の星や色彩といった無生物にもそそがれた。

 中世芸術の、様式化され、こわばった自然を見たあと、
 初期ルネッサンスのexlink.gifジオットの絵画を見るとき、われわれは、そこに 生命への新しい接近感
 ―えもいわれる魅惑的な羊、生き生きとした犬、愛嬌あふれんばかりのロバなど―
 美しく描きだされているのを見る。ジオットは、岩や木を、 
 それ自体がそなえている美によって人間をたのしくしてくれる自然の形態
 として描き上げているのであって、単に宗教的なメッセージを伝える象徴的なものとはみていない。

 自然に対する新しい評価は、ルネッサンスにおける人体への強い関心となってあらわれている。
 たとえばボッカチオの物語にみられる官能性、ミケランジェロの絵画における、たくましく調和のとれた肉体がある。
 また、シェイクスピアのドラマには、生命に対する多面的で、有機的なアプローチのひとつとして
 肉感的なものがある。


しかし19世紀までに、その自然にたいする興味は、じょじょに技術的なものとなり、
人間の関心は、自然を支配し、巧みに処理することに代わった。
P・ティリッヒの見事な表現の通り、
世界は「呪術からの解放」をされてきた。

この呪術からの解放過程は、はじまりをすでに17世紀にまで遡る。
 当時デカルトは、肉体と精神の分離を説き、
 (長さと目方として測定可能な)物質的自然や肉体という客観世界は、人間の心とか「内的」体験とは
 根本において異なるものである
と教えている。

この二分法の中の「心的」側面が棚上げされてしまい、
現代人は、人間体験の機械的な、測定可能な面だけに、ことさら血道をあげることになった。

 そして19世紀までに、自然は
科学の場におけると同様、徹底的に非人間化されるなり、金儲けのための算定対象になってしまった。
計算できるもの、操作可能なものにたいする過度な強調は、
あきらかに産業主義とブルジョワ的商取引の発展と手をたずさえて出てきたと主張しても、
それは機械や技術の進歩そのものの批判をしようというのではない。

ただ指摘しておきたいことは、この発展にともなって、
自然は個人の主観的、感情的生活から切り離されてしまったという
歴史的事実である。



 
 
 
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Post時間:2011-11-27 19:59:09
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             自然への共感の喪失 (2)(*神話・民話・迷信)  

 
      
19世紀の詩人、exlink.gifウイリアム・ワーズワースは、だれよりも明白に
自然にたいする〈*近代人の)感受性の喪失をはっきり認めており、
ある程度、その原因でもある空虚をも読みとっていた。彼は、
よく知られているexlink.gif十四行詩の中で、現に起こりつつある事態を次のように表現している。


  世界はわれわれにとってもう沢山だ。
  遅かれ早かれ われわれは獲得と消費をくりかえしながら 
  われとわが力を荒廃させてゆく

  自然の中には われわれというものがほとんど見あたらない
  われわれは 人間的心情を棄ててしまった 
  むさくるしい贈り物でも捨て去るように

  その胸を月にさらしているこの海 
  四六時中 ほえ猛っているのに いまは ねむれる花のごとく 凪いでいる風

  これにたいし またすべてのものに対し
  われわれの心の琴線はもう触れあわなくなってしまった
  それはわれわれの心を動かさない 

  大いなる神 私はむしろ 使い古された信条に育まれる異教徒でありたい
  そうだ 私はこの美しい草原に立って
  私を孤独にすることの少ない光景をみたい

  海からのぼってくるプロテウスをみたい
  老トリトンの吹き鳴らす
  花輪かざりのついた角笛の声に耳傾けたい 
 

                               
(*改行 鍵写者恣意)



ワーズワースがexlink.gifプロテウスexlink.gifトリトンのような神話的創造物にあこがれたのは、
詩的空想の問題ではない。
これら人物は、自然の相を人格化したものである。
たとえば
プロテウスは、その姿、形をたえず変貌してやまない海の神であって、
運動を色彩をたえず変えていく海を象徴するものである。
また
トリトンは、海の貝殻を笛とする神であって、その調べは海浜の大きな貝にこだまする声である。
プロテウスもトリトンも、くわしくいえばわれわれが今日失ってしまったものを示している。

われわれは
自然の中に、自分自身の姿や、自分自身の心を読みとる能力や、
自分自身の体験を、より深く豊かなものにして自然へ関係づける力を失ってしまった




 exlink.gifデカルトの二分法によって
現代人は、魔女信仰から逃れるための哲学的基盤を得た。
これは事実、18世紀の妖術(witchcraft)克服に大いにあずかって力あった。
これが人類にとって大きな利得であったことは確かだ。
(*exlink.gif魔女狩りの根絶など)

しかし同時に、われわれは妖精(fairies)や小妖精(elves)、岩屋に住むという巨人(trolls)
それに森や大地に住むという小人たちまですべて、われわれの世界から追放してしまった。
人心から「迷信」や「呪術」をきれいに一掃するのに役だったという点から、これもまた一応いいことだった。
それでも、私はこれは間違いだったと思う。

われわれが、妖精たちから逃れるためにやったことのすべては、
われわれの生活を貧しくすることではなかったか。
しかも、この心情生活の貧困化は、
人心を迷信から一掃するためいつまでも変わらない良い方法といえるだろうか。


ここで古い寓話をあげてみよう。
 
 自分の家から悪い妖精を一掃してしまった男があった。
 しかしその妖精は、その男の家がきれいさっぱり空っぽになったのを知って、
 今度は、七匹のもっと性の悪い妖精をひきつれてもどってきた。
 そして事態は前にもまして悪化してしまった。



ここで述べたいのは、
全体主義的神話やexlink.gifエングラム、太陽が静止するときが来るといった奇蹟など、
新しい、しかもさらに破壊的な近代的迷信にとりつかれるのは、こうした空虚で内容のないうつろな人間だ、
ということである。

今日の世界は、呪術から解放された。

だがそれは、われわれと自然との調和をくずしてしまっただけでなく
自己自身との調和もくずしてしまった。  


 
 
 
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Post時間:2011-11-27 20:50:20
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             自然への共感の喪失 (3)(人間と自然)  

 
      人間としてのわれわれは、存在の根を自然の中にもっている。
          


それは
単に、われわれの肉体の化学成分が本来、空気や土や草と同じ成分からなっている
という事実によるものではない。

別の多面的な方法で、われわれは自然に参与しているのである。
四季のうつりかわり、昼夜の交替、などのリズムが、たとえば
身体のリズム、空腹感と満腹感、眠りと覚醒、性的欲求とその満足など
無限にあらゆる面に反映されている。

われわれが自然に関係をもつとき、それはわれわれが、
自己のよって立つ根を、その生まれた土壌へ据えるという作業をやっているに過ぎない。



しかし、もうひとつの点で、人間はほかの自然とは非常に性格を異にする。

人間は、自己自身についての意識をもっているということ、すなわち
自己同一性の認識という点が、ほかの生物体、無生物体から人間を区別する。

しかも自然は人間の自己同一性など問題にしない
自然と人間との関係性というこの重要点が、本書の中心テーマである、
人間の認識への欲求 という課題を前景に押し出すことになる。

自然は非人格的なものであるのに、人間は人格を確認できねばならず、
また
自然の静寂を自己自身の内的生命力で満たすことができねばならない。

のみこまれてしまうことなく、
自然とじゅうぶん連関をたもつには、強力な自己意識、すなわち自己同一感が必要となる。

というのは、
事実、自然の中に、その沈黙や無生物的性格を感じるということはおそろしいことである。
岩だらけの岬に立って、怒濤さかまく海上に目をやり、
しかも「海は他人の悲哀に決して涙することもなく、他人の考えていることに何の関心も示さない」
ということを、ほんとうに現実感をもって感じとるとすれば、
また
人の生命は、創造というとほうもない、やむことのない化学運動の中へ、
寸分たがわぬ計算通りに仕組まれている
のだという気持がほんとうに感じられるとすれば、
それはおそろしいことである。
あるいは、
山の峰々を眺め、その頂の高さに心を奪われるとして、しかもその同じ瞬間に、
われわれが、峰の下の岩床のうえにこなごなにななきつけられようと、
 人間としての自己の消滅など花崗岩の壁にはなんの関係もない

と認識するとすれば、それはおそろしいことである。


これは、無(nothingness)ないし非存在(non being)への深い怯えであって、
人が無生物と自己との冷ややかな関係に、直面したときに体験するものである。

そして「汝は塵(ちり)なれば、塵に帰るべきなり」
ということばは、事実、うつろななぐさめに過ぎないことを想起されたい。



 自然との関係において、このような体験は、たいていの人にとって、あまりにも大きな不安である。

人々は、自己の創造を遮断し、
もっぱら、考えを、昼食を何にしようか、というような実際的な日常茶飯事に向けることで
恐怖をまぬがれようとしている。
あるいは、
海は自身たちには危害を与えないものとして「人格化」することにより
あるいは銘々自己の神を信じ、
お前が石につまづかぬよう、神はお前の重荷を天使にゆだねてくださる
ということによって、かかる恐怖からまぬがれようとする。

 既に述べたように、
自然と創造的な関係をもつには、
深い自己認識と大量の勇気が必要になる。
しかし、自然の無生物にたいしては
自己の同一性が確認できることによって、より強靱な自我(*自己認識)が生まれるのである。

自然への関係の喪失と自己認識の喪失とは平行するのである。




 
 
 
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             悲劇に対する感受性の喪失 (前)  

 
       悲劇がわかる、ということは、
       ただ、個々の人間存在がいかにかけがいのない大切なものであるかを
       信じられるようになって、はじめて出てくる問題である。            



悲劇には、
人間そのものにたいする、つきない畏敬の念や、
人間の権利や運命への献身が含まれる。

―そうでなければ、オレステス、リア王、それに現にここにいるあなたと私が、
人生の苦闘にあって、倒れようとそれに対し立ち向かおうと、
そういうことは問題ではなくなる。

 アーサー・ミラーは、その劇作『セールスマンの死』のまえがきで、
今日という時代に、悲劇の乏しい理由について触れている。
 「悲劇的人間とは、もし必要なら、たった一つのこと、すなわち、
  自己の人格の尊厳のために、
  自己の生命すらあえて投げ出すことを辞さない人間である」



悲劇の面目は、
そこにあっては、個の人格がみごとに開花し、自我が実現されている状況にある。 
このような状況が過去の西欧において目撃されるのは、
また偉大な悲劇の続出した時代でもある。
5世紀のギリシアでは、アイスキュロス、ソホクレスが
エディプス王やアガメムノン、オレステスという傑出した悲劇を書いた。
エリザベス朝の英国に目をやると、
そこではシェークスピアがリヤ王、ハムレット、マクベスを書いている。

しかし今日のような空虚さの支配する時代にあっては、
劇作として悲劇に接することもまれである。

あるいはもし、悲劇が書かれるとしても、それは
exlink.gifE・オニールのドラマ『exlink.gif氷人来たる』にみられるように、人間生活のかくも空虚な状況を描きだしたものである。
 この劇はサロンで演ぜられる。
 その登場人物はアルコール中毒患者あり、売春婦あり、
 しかも、劇の進行中に精神病になる人物が主役を演ずる。
 これらの人は、その生き方の面で、
 人々がなにか信ずることのできた時代を、かすかに思い出させてくれる。
 
このドラマに、古典悲劇のもつ憐憫の情や恐怖感をひきださせてくれるものは、
この空虚さの支配するただ中にあって、
わずかに残っている人間的尊厳の反映である。


既述のアーサー・ミラー『セールスマンの死』は、それ自体、特定の人、
アルコール中毒患者や精神病者の身の上に起こるといった事態ではなく、
ごくありふれたわれわれの身の上にもいつふりかかってくるかもしれない
数少ないいくつかの悲劇の一つである。

 彼もわれわれ大部分の者とおなじく、このアメリカで生まれ、
 この国でなにがしかの社会的な立場をもっている人間である。

 (映画化されたものでは、セールスマン、ウイリー・ロマンは残念なことに、哀れっぽく作り上げられている。
  映画だけを見た人は、彼の体験している悲劇のほんとうの意味を見失う恐れがある)

 ウイリーは、彼の住む社会の教訓をまじめにうけとった人物であった。
 すなわち、
 成功はまじめな精力的な働きによってもたらされるものであり、
 経済的な向上はひとつの抜き差しならぬ現実であり、
 適切な社会的交際をたもっているかぎり、成功と救いもそれに伴うものと心得ていた。


 われわれが斟酌してウイリーの考えは幻想に過ぎなかったこと、さらに
 彼の不手ぎわなやり方をいろいろ評価して笑いものにするだけなら、きわめてやさしいことである。
 しかし、そんなことは何にもならない。

 大事なことは、ウイリーが何かを信頼しきっていたということである。
 彼は教えられたとおりのことが、そのとおりそのまま人生に期待できると信じていたのである。
 彼の妻は、ウイリーの失敗を息子たちに語るに当たって、
 「私は彼が偉大な人物だなんて思いません。しかし彼は人間です。そして
  あるおそろしい事態が彼にふりかかっているのです。そのところをよく注意しなければなりません」
 と語っている。

 
 この場合、事態が悲劇的なのは、ウイリーがリヤ王のごとき偉大な人物、あるはハムレットのような
 内面の豊かな人物だということではない。彼の妻が語っているように、
 「彼はただ港を探している小舟にすぎない」のである。

これは現代という歴史上の一時代、そのもののはらむ悲劇性である。
ここで教えられたとおりを信じているのに、この変化の多い時代にあっては、
その教えられたことがもはや役に立たなくなっていることに気づいているウイリーのような人間をあげていくと、
何千何万とあげることができる。
しかも、そこにわれわれは、古代悲劇にみる同じ同情や恐怖に心を動かされる。

  「彼は自分が誰であるかをぜんぜん知らなかった。」
 しかも、知る、という自己の権利をまじめに行使したのである。


ミラーによると、
「悲劇的人物にみられる内面的な自己意識の分裂は、
 当人の威厳や、 
 当人にとって当然ととられている自己の地位をおびやかすものに直面し、
 いままでのように受動的でありたくない、 
 という 意志の反抗 がそこにあらわれているのに他ならないし、
 またそれ以外ではありえない。

 さらに、 ただひたすら受け身の体勢にあり、
 積極的な反撃にでることもなく、
 自己の運命に従順なだけの人には、そうした人格の裂け目がみられない。
 たいていのわれわれは、そのカテゴリーに入る。」


ミラーはわれわれを感動させる悲劇の本質について次のように述べている。

「自分はだれかと取り替えられてしまうのではないか、
 という基底恐怖、
 いま自分は、この世界にあって、
 これこれの名前と仕事をもったしかじかの人間だと思っているのに、
 その独自性が消されてしまうのではないか、という恐怖、
 これが現代に住むわれわれの悲劇性である。 
 
 今日、 われわれの中に巣くうこの恐怖は、いまなおおとろえるどころか、
 むしろいよいよ高まりつつある現状である。」


 

ここで悲劇の喪失をなげくからといって、
われわれがペシミスティックな見方を主張しているだと解されては困る。
反対に、ミラー自身のことばによると、
悲劇の中には喜劇の場合よりも、その著者自身のより強烈な楽天観が支配している。

……悲劇のもつ究極のねらいは、観客のもっている人間という動物についての
もっとあかるい見方を強化することでなければならない。
というのは、悲劇的観点というのは、
人間の自由や自己実現の要求を真剣にとりあげることにほかならない。

すなわち悲劇は、「自己の人間性を全うしようという不屈の意志」を信じることである。 




 
 
 
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             悲劇に対する感受性の喪失 (2)  

 
    精神療法によってあきらかになる
    人間性についての智恵や、無意識的葛藤にたいする洞察、
    これによってわれわれは、
    人間の生の営みが孕んでいる悲劇的性格を確認できる新しい基盤 を与えられる。 



精神治療者は、ある人間が
自分自身と内的な戦いを繰り返し、
自己の尊厳を傷つけるような外的な力と激しい苦闘を続けるさまを、
親しくつぶさに知ることがゆるされている。

したがって治療者は
こうした人々に対しあらためて畏敬の念を抱くとともに、
人間性のもつ潜在的な威厳にふれることになる。

週のなか何度となく、相談という仕事の中で治療者が体験することは何かというと、
こうした人々が
自分自身に対してだけは、最後まで嘘でごまかしきれるものではないという事実を認め
ついに、自己と真剣にとりくめるようになったとき、その人は
いままで知ることのなかった、しかもしばしば顕著な治癒力を自らの中に発見すること

である。


 現代の病根をたずねてゆくと、それは荒涼たる診断に帰着する。
しかし、その診断は必ずしもそのまま荒涼たる予後を意味するものではない。
というのは、その積極的な側面は、
ただ前進する以外にとるべき道を持たないという事実である。

われわれは、
精神分析を経て、自我の防衛や幻想から離脱する人々に似ている。
しかも選ぶべき唯一の道は、よりよきなにものかをめざして突進することである。



 (われわれ、ということばで全ての人をさすことにして、)
自分の生きている歴史的状況を認知しているわれわれは、
老いも若きも、1920年代の「exlink.gif迷える世代」には属さない。

この「迷える」(Lost)ということばは、
第一次大戦に続く青年による反抗時代の人々に適用されるとき、それは、
人が一時的に家郷を離れてはいるが、自立して生きることがおそろしく、
重荷になったときには、いつでも引き返すことができる

という意味をもっている。
しかし、われわれはもはや、引き返すことのできない世代に属する。

20世紀半ばにいるわれわれは、
再び舞い戻ることのできない限界線を越えてしまったパイロットに似ている
嵐がこようがと何がこようと、ただ前進する以外にない。


 われわれのいまなすべき仕事は上述の分析であきらかである。
われわれは、
自己自身の中に、力と統合の根源を再発見しなければならない。
もちろんこれは
われわれ自身の中や社会の中に、統一の核心となるような価値の発見と、
その価値の確認が同時発生的である。

しかし、価値づけをおこなう先天的能力、つまり
生きるうえのよりどころとなるような価値を積極的に選択し、確認する能力 なしには
いかなる価値も効を奏さない。

 これを実行するのはあくまでも個人である。
彼・彼女は、
ルネッサンスが中世の分裂から生まれたように、
混乱の時代から生まれる新しい建設的社会
基礎固めをすることになる。


 exlink.gifウイリアム・ジェームスがかつて述べているように、
世界をより健全なものにしようと思うなら、まずなにより、
自分自身を健全にすることから始めるべきである。
われわれは、さらい一歩進めて、
自分自身の中に力の中心を見いだすことが、長い目でみると、われわれが仲間にたいしてなし得る最大の貢献である
と述べておこう。

 ノルウェー近海の漁師は、大渦巻きが自分の船にむかってくるのを見るとき、
 前進して、そのわき立つ渦巻きの中へオールを投げ込もうとする。
 もし、彼にそれができれば、大渦巻きは止む。
 そして、彼も彼の船も、無事にその危機を脱し得る。


全くおなじように、
生来、内的力の豊かな人は、まわりの人たちの間でどんな恐慌がおこっても、
その鎮め役として大きなはたらきをすることになる。

これこそ現代の求めているものであって、
新しいアイデアや発明は、いかに重要なものであろうと、社会の求めているものでなく
また、それは天才や超人でもない。
ほんとに社会が必要とするのは、「あるべき」人間の姿であって、
自分自身の中に、力の核心を把握している人物である。


こうした内なる力の源を見いだすことが、本書における次章以下の問題である。








                   第2章 了
 
 
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          (第7章、最終項目)

             真実を見る勇気 (前)(*哲学的真理探究) 


    ニーチェのひらめく警句は、新しい全景を一挙に照らし出すいなずまのようである。

彼は、「人間が誤ちを犯すのは、おくびょうだからだ」
(Error is cowadice)と宣言している。


つまりわれわれが真実が見えないのは、
書物の読み方が不十分ということではなく、あるいは
十分な学位をもっていないということではなく、
われわれに十分な勇気が欠けている、ということである。



真実ということばで、われわれが意味しているものは、科学的事実だけというのではなく、
あるいは科学的技術だけをさすというのでもない。
事実を扱うとき問題になるのは正確さということである。

ところが、
どのような仕事をするか、愛しているのかいないのか、
学校で問題を抱えたわが子をいかに助けるか、
あれこれの事柄になにを感じ、何を欲するのか、

それは、われわれを、昼間から、あるいは夜半の夢のなかですら
捕らえて離さない問題であるが、
こういう問題では、技術的な証明はほとんど役に立たない

われわれは冒険をしなければならない。
しかも最善の解答に達しうるかどうかは、当人の成熟と勇気の度合いに
非常に密接に関係している。


 真理探究に欠くことのできない内なるたたかいについて、
哲学者exlink.gifショーペンハウエルがゲーテあてに書いた手紙のなかに如実に示されている。
ショーペンハウエルは、
自分の考えが着想として自分の中に芽生えたあと、
その考えをしあげるときの労苦について、述べている。

 「…そのとき、自分は自分の魂の前に立つのだ。
  それは
  拷問台にのせられた囚人が
  冷酷な裁判官の前に立たされるようなものである。

  そして何も残らないまでに、解答を迫られる。
  教義や哲学は、
  誤ちや名状しがたい愚劣な内容に満ちている。
  しかもそうした教義や哲学のすべてが、私には、
  誠実さの欠除からきているように思われる。
  
  真理は見いだされなかった。
  それは真理を求めようとしなかったからではなく、
  その真理発見の意図はあざむかれ、
  見いだしたものは、真理ではなく、先入観であり、
  あるいは少なくとも気にいっている考えを傷つけないこと、であった。

  こういうねらいがあるため、ほかの人々だけでなく
  思想家自身にとっても、
  言い抜けが必要であった。

  哲学者をつくるものは、
  あらゆる問題に直面して、
  残らず打ち明けることのできる勇気である。

  哲学者はソフォクレスのエディプスのようでなけれがならない。
  エディプスは、
  自分のおそろしい運命をたずねあかそうとして、占ってみたところ
  自分を待っているものが戦慄すべきおそろしい事態であるとわかったときでさえ、
  俯仰不屈の探求を続けていくのである。

  しかしたいていわれわれは、心の中に、
  それ以上探求しないでくれ、後生だからと
  エディプスに嘆願する母ジョかスタを住まわせているのである。
  そしてわれわれは、彼女に道をゆずることになる。
  それが哲学が現に立っている場所に立っている理由である。

  …哲学者は、あわれみをかけることなく、
  自分自身に尋問「しなければならない」。
  しかし、この哲学的勇気は、
  内省から生じるのではなく、決意によって絞り出されるものでもなく
  心の先天的傾向なのである。」
  
(*エディプスについては次節で詳述)


精神分析家exlink.gifフィレンチ
この手紙を引用してショーペンハウエルの見方に同意している。
われわれも次の点でショーペンハウエルに賛成である。

つまり
真理がわかりたいならこうした誠実さが必要だということ、そして、
このような誠実さは知性そのものからくるのではなく
生得的な自己認識能力の一部であると述べている点である。

ただわれわれは、「それが生得の傾向」であって、
自分ではどうしようもないという点だけは賛成しかねる。

こうした誠実さは倫理的態度であって、
そこには、勇気とか、そのほか自己意識に
自分をいかに関係づけるか、の諸面が含まれている。

もしある人間が、
人間として自己実現をはかろうとするとき、
その態度はある程度発展させうるものだというだけでなく、
発展させねばならないものである。



 
 
 
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             真実を見る勇気 (後)(*エディプス) 


           真理を直視するに必要な恐るべき勇気の例として、
           ショーペンハウエルは
exlink.gifエディプス王についてよく言及し、
           真理を避けたい誘惑の例として、
           母であるジョカスタのことばについてふれている。

                       
                (*exlink.gifエディプス=オイディプス王あらすじ

エディプス王は、
自分の誕生にまつわるものとうすうす気づいている
おそろしい神秘的事実を解決しようと意を決し、
ある老羊飼いを探そうとする。

新生児としての彼を殺すよう、ずっと以前に命令されていたこの老羊飼いは、
エディプスが実際、母親と結婚したのかどうかの問題を解き得る当の人物である。

ソフォクレスのドラマで、母ジョカスタは、

(*息子であり夫でもある)エディプスを思いとどまらせようとする。

  いちばんいいことは 殺してしまうことです
  だれかがやるかもしれない
  彼がだれのことを言ったのかと なぜたずねるのです
  いえ、気にしてはなりません  ぜったいに


エディプスがなおも(*真実に)固執すると、彼女は叫ぶ

  それを探してはなりません 私は病気です それで
  いいではありませんか 
  かわいそうに あなたは 自分がいったい
  何ものなのか 決してわからないのです


しかしエディプスはひきさがらない。

  全貌がわかるまで そんなことばに
  耳をかすものか
  自分はためらわない なにが起きようと打ち砕く
  たとえそれが困難であろうと わが出生の真実を
  つきとめるまで  あとにはひかぬ


その時とき飼いが叫ぶ。

  おお 自分はいま ものを言うのがおそろしい

エディプスが応じる。

  それでもなお 自分は聞くのだ
  真実を聞かねばならぬ



自分が父親を殺し、母親のジョカスタ(*exlink.gifイオカステ)と結婚した
というおそろしい事実を知ったとき
エディプスは(*自ら両眼を刺し)失明する。

これはきわめて象徴的行為である。
「眼が暗む」(self-blinding)という動作は、
文字どおり 
人間が深い葛藤に遭遇したとき起こるものである。

多かれ少なかれ
自分のまわりの現実から自分を閉め出そうととして
自ら盲目になるのである。
いかに自分が幻想の中に生きてきたか を知ったあとのことである。

これは、
自分自身および自分の出生についての真実を
知ろうとするときの悲劇的困難、
人間の「有限性」ならびに「盲目性」を象徴する行為
と解することもできるのである。


  エディプスの状況は、例外的なものに見えるかもしれない。

 しかし、
真実を直視する彼のたたかいと、
ありふれた生活下のわれわれのたたかいとの間の相違は
程度の差であって、まったく別根のものとはいえない。

このドラマは
われわれ自身についての真実を発見しようとするときの
内的苦悩や葛藤といった

古くしてしかもつねに新しい状況をわれわれに提示してくれる。

フロイドの神話の選び方
(*“エディプス”コンプレックス)が天才技なのは、
エディプスが自分の母親と寝たということより、
むしろドラマのもつこの側面である。
真理探究には、つねに、
自分が見たくないものを暴きだす
という危険を犯すことが伴うのである。

それによって、いままで生きてきた信念や、
日常の価値から切り離されるかもしれない、という危険を犯すことが
できるためには、
自分の自己意識に対するその種の関係や、
究極的な価値にたいするその確信を必要とする。


  「真の愛知なるものは、
  人間生活においては、そうざらにあるものではない

    というexlink.gifパスカルのことばは、当然のことである。

 ここで論じてきた人間のもつほかのユニークな特性とならんで、
真実直視は、
自己を意識できる人間の能力にかかっている

人間はこのようにして、おかれている直接の状況を越えでることができ、
人生をまじめに眺め、人生を全体として把握できるのである。」


人は、自己を意識すること(self-consciousness)によって、
自己自身の内面を探求できる。

そしてそこに、
多かれ少なかれ聞く耳をもったすべての人に話かけてくる智恵を
見いだすのである。






          了
 
 
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最終更新:2015年05月15日 14:10