9章「暴力の解剖」

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投稿者 メッセージ
Post時間:2009-08-19 18:13:57
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 第九章 暴力の解剖

暴力というのは、パーソナリティが、
自らの助けにならない抑圧的文化内の優勢な敵(odds)に対して戦いを挑むときの
まったく当然の結果である、ということをわれわれは見落としがちである。

静かな時期のあとに、しばしば暴力が出てくる。
このアパティ(*感情鈍磨)の下に潜んでいる力がどれほど爆発的なものであるかについて
その正体がわかるのは、後になってである。

 1 暴力の精神神経学的側面

 その典型的かつ単純な形態では、暴力は閉じ込められた情熱の噴出である。

ある個人(あるいは集団)が、
長期にわたって自分の正当な権利であると思っているものを否定されるとき、
そして、残りの自尊心をも浸食してしまうような不能感に絶えず打ちひしがれているとき、
その予測できる最終結果として暴力がでてくる。
暴力とは、
自らの自尊心や運動や成長の、障害とみなされるものを
破壊してしまおうという衝動の爆発である。

人間がこの破壊願望のとりこになってしまうと、立ちはだかるいかなるものでも
破壊してしまうほどである。したがって、
その人間は、盲目的になぐり出し、しばしば自分の面倒を見ている者や、
そのプロセスでは自分自身をも破壊してしまうのである。

この(*暴力という)身体的なできごとは、
心理的なコンテキスト(*文脈・前後関係)の中で起こる。
刺激がみえないうちに増進したりあるいは突然出現するようなとき
なぐる、という衝動は、考えるいとまもないほど速やかに出てくる。
 ただ努力することによってのみ、われわれはそれをコントロールする。
(*例えば)フットボールの選手は、つぎのプレイで自分の力を表出するチャンスがある
ということを思い起こすことで、暴力をふるいたい衝動を抑えるのかもしれない。


われわれは、文明化したほとんどの生活活動のなかでは傍観者であって、
腕力に訴える表現は禁じられている。
われわれの暴力衝動をコントロールし方向付けることはむずかしい亊である。

ジェラルド・クラウザノウスキーは、
攻撃性が暴力に対して持つ関係は、不安がパニックに対してもつ関係と同じである、と述べている。
攻撃性が、われわれの中で、あたかもスィッチが入れられたかのように感じられると、
われわれは暴力的になるのである。

 
 
 
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Post時間:2009-08-19 18:29:13
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「攻撃性」は対象にかかわりを持つ ―われわれは、
 だれに対し、何に腹を立てているかを承知している。 
「暴力」では、対象-連関性が消滅してしまう。
 われわれは、荒れ狂い、手の届く範囲にあるものなら、
 だれかれ問わずなぐりかかっていく。
人の心は混乱に陥り、敵の認識はぼやけてしまう。
そして環境の認識ができなくなり、
何が出てこようと暴力をふるいたいという内的強迫を
行為にあらわそうとする。


 クルト・ゴールドシュタインが述べているように、
人間は抽象的に思考できる被造物であるとともに、具体的な状況を
超越できるものである。
暴力的な人間の場合、その抽象能力は解体してしまい、これがために
狂気じみた行動がでてくるのである。 

たいていの暴力沙汰は突然に噴出する。
暴力の場合、インプットされる刺激とアウトプットされる腕力(筋肉)との間には
直接の結びつきがあるのだろうか。

 W.B.キャノンの生理学実験室での古典的研究以来、一般に認められていることは
脅威に対し生物体は三つの反応を示すということである。
 攻勢に出て戦うか(fight)
 退くか        (flight)
 遅延反応(delayde response)を起こすか のいずれかである。

(*例えば)地下鉄の中でとつぜん誰かが私をあらあらしく押しのけるとき、
私の血流の中にはアドレナリンが注がれ、
血圧は筋肉にいっそうの力をつけるため上昇し、心臓の鼓動は急速になる。
これらのことによって、
私は不快な奴と戦うなり、あるいは相手の圏内から逃げ出す準備が整う。
この「逃走」は不安と恐怖の中でおこってくるものであり、
その「戦い」は攻撃と暴力の中でおこってくるものである。

 こうした生理学的な変化とともに、暴力体験は、人間に大きなエネルギーを与える。
当人は、自分が備えているとは自覚していないある種の超越的な力を感じるのである。
マーシデス(*第2章の黒人売笑婦)のように、その人はこの気持ではるかに効果的に
戦うかもしれない。

 第三の可能性は、自分の反応を遅延させることができるということである。
(これはたいていの人が実際に行っていることである。)
遅延反応ができる能力は文明のたまものであり、文明の重荷でもある。
 われわれは、出来事を意識に吸収できるまで待ち、
 なにが最上の反応であるかを決定するようになる。
これによってわれわれに文化が与えられるのであるが、
それによってわれわれは神経症をも得ているのである。

典型的な神経症患者は、
幼児期に解決されることのなかった古い戦いを
自分の廻りにいる新しい人間関係の対象を相手にして戦うことに、
全生活をかけることになる。


 
 
 
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Post時間:2009-08-19 18:41:39
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 状況を私がどう解釈するかによって、
敵意を込めて打ち返すか、
それとも単にほほえんで、申し出があれば言い訳を受け容れる用意をするかが決まる。
解釈は意識的な要素だけでなく無意識的な要素をもとりこむ。
すなわち、私がそれにある意味を付し、私が世界を敵意あるもの、
あるいは友好的なものとして見るのである。

ある人間が自分の廻りの世界をどのように見、
どのように解釈するかは、当人の暴力にとって重要なことである。

その解釈が、病理的なものであれ、あるいは単に想像的なものであれ、
幻想的なものであれ、あるいはまったくの間違いであれ、
それは、その状況を変えるものではない。
 妄想性の人(paranoid)は、他人が魔力を使うと信じるがゆえに、
他人を弾丸で撃ち殺そうとする。彼は自己防衛のために撃つのである。
これを「妄想性」と呼んでみたところで、
その(彼の)象徴的な解釈の背後まで見通すことができなければ、(そして少なくとも一時的にせよ)
殺害者がそれを見ているその通りに世界を見ることができないなら、役には立たない。



----------------
国際関係においても、多国民の運動についての象徴的な解釈は、暴力や戦争の理解
にとって重要である。
 暴力のその根は無気力(impotence)にある、とわれわれは言ってきたが、
このことは、個々人の場合も民族集団ごとについてもその通りである。
しかし国家ごとについては、
暴力の出どころは、無気力になるのではないかという「脅え」(threat)である。
国家ははるか外の周辺で自国を防衛する必要ありと見ており、
軍事競争の面でどれほど不安定なバランスがとれていようと、他国が
自分たちの国を凌駕するだけの軍事力を気づき上げていないかどうか
(*という「脅え」を)意識していなければならない。
(*しかし)他国の動きを誤読することによって、各国民は、
妄想患者のやるようなことをしでかしてしまうことがありうるのである。
 
 
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Post時間:2009-08-19 20:15:47
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 3 破壊的暴力

 暴力は行動によって自我を統一するものである。
サルトルは、暴力が自我を創造していくと書いている。
暴力とは、自らの持てる力を立証するために、
あるいは、自我の価値を確立するために、自らの力を組織化することである。

それは一切を危険にさらし、一切をゆだね、一切を主張する。
暴力は、合理性を無視してまで、自我の中にある個々別々の要素を統合する。
自我の統合は理性を迂回するレベルで行われる、と私が以前述べた理由はこれである。


暴力的な人間の内では、その動機、その帰結がなんであれ、
一般的にその結果は、その状況下にある他人に対して破壊的なものである。

暴力が噴出するとき、私はもはやサイドライン外側でぼんやり傍観しておられない。
私は、私の全コミットメントの表現として、自分の身体を危険にさらすことを要求される。
ひとたび暴力が発生するや、
いかなる願望もあるいはものを考える時間も残されていない
―われわれは非合理の世界にいるのである。
 理性はもはや、命令の装いさえ持たなくなる。


 
 
 
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Post時間:2009-08-19 23:13:14
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 4 建設的な暴力

 心理的にいうと、人間が人間以下のレベルで生きている数知れない状況がある。

人びとは、ある暴力は、生命付与的なものであることに気づいている。

 過度にはにかみやの人 、自ら関係を結ぶことのできない邪推深い人、
 深く愛することができない人、 あるいは、他人に与えることのできない人、
 自分を豊かにしてくれるはずの経験から自らを孤立させてしまう人、


こうしたリストを上げてゆくと切りがないが、こうした人びとは、全て
なにがしかの暴力が混入した方が矯正するのに役立つかもしれないような人びとである。
しかし暴力の求めているものは、合理性を超えて進む努力の爆発であり、
自我を危険にさらすことであり、一切にコミットすることであり、人に充実感を与えることである。

  いままでに生涯にわたってすなおであった婦人が、怒りをぶちまけ、
  長い攻撃演説(triade)をぶつとき、われわれはほほえみ
  黙って喝采している自分に気づくのである。即ち、
  彼女はもはや無感動ではないのである。


  私の友人の二人の息子は大学を卒業し、親戚の者がふたり病気になったため、
  緊張の多い状態に追い込まれていた。
  二日後に、息子のひとりは、怒って自分の帽子を引きちぎり、
  もう一人の息子は壁に向かって二つの灰皿を投げて壊した。
  私の友人が言うには
「それは性質(たち)のよい暴力だった」そうである。


怒りの爆発は、心理学的なかかわりを解きほぐし、
よりいっそう率直な自己に正直な生き方を促進してくれる。
それゆえ、たいていの人は腹を立ててしまった後でより快的になるのである。

                             (*「快的」訳文ママ)
 
 
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Post時間:2009-08-19 23:40:32
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 われわれは、暴力というものが
人間的なレベル以下のレベルで自我を統一させてくれる、と述べてきた。
今日、そうしたことが頻繁に起こっている
―(フランツ・ファノンは)アフリカにいるこうした(いささかの自覚もなく
人格的な尊厳もない生き方をしている)人びとについて書いている。
彼らは、中央アメリカ、南アメリカ、インド、中国に住む何百万の人びと(*1972年当時)
およびこの豊かな国(北米)の中で標準以下の暮らしをしている何百万の人びとと同様、
ただ人格的に不完全にしか形成されていない人間としての生活を送っているのである。
こういう人にとっては、暴力は心理的・精神的な存在のレベルを高めてくれるかもしれない
 もの心ついた自我を、人間らしい意識レベル以下のレベルで暴力が統合させてくれるのと
ちょうど同じように、暴力は未発達な人を人間的なレベルまで持ち上げてくれるかもしれない。

それは政治的反抗の形をとるかもしれない。

(*たとえば)フランツ・ファノン
―黒人の精神科医としてまたアルジェリアの反抗に参加した人として、
彼は建設的な暴力の模範を見事にしめしている。
,,ファノンの書物(“地に呪われたる者”)は、
原住民の価値、彼らの隠れてはいるが芽のでる可能性のある意識、
彼らの未来の自由といったものを、熱烈に確認している。
彼は、これは暴力なくしては成就しないもの、と考えている。
これらの人びとは、何世紀にもわたる搾取に苦しみ、
それが惹き起こすアパティ(*政治的無関心・あるいは人間的鈍磨)に
耐えてきた人たちである。したがって、心理的にも精神的にも
生きていく上には何がしかの暴力が必要であったのである。

,,ファノンは、一精神科医として、彼が治療したアルジェリアの黒人について
私たちに語ってくれた。
夜は抵抗のためにたたかい、昼間はタクシーの運転手をしているある黒人がいた。
彼の妻は、フランス人兵士によって連れ去られ、次々と強姦され、
それから、夫についての情報を引き出すために殴られた。こういう仕打ちを受けた
人間はうつ病にならざるを得ないし(ファノンはそのため彼を治療していた)、
しかも自尊心をもつものなら反抗者にならずにおれないだろう。

「救いなき時代にあっては、人殺しをしたいというような狂気じみた衝動は、
 彼らの集合的無意識の表現である。
 暴力は抑圧された怒りである」 
               《「地に呪われたる者」サルトルの序文》 
 
 
   
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最終更新:2015年05月13日 00:36