第1部_第1章 現代人の孤独と不安(うつろ・孤独

このページはhttp://bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65933からの引用です
 

ロロ・メイ著作集1 「失われし自我をもとめて」(1953)

 

 
投稿者 メッセージ
Post時間:2011-10-29 16:15:44

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 現代人にとって、
 主たる内面的問題は何であろうか。


戦争。徴兵の脅威、経済的不安があげられる。
しかしかかる現代不安の外的原因を一枚はいでみるとき、
われわれの見いだす内的葛藤は何であろうか。

たしかにいつの時代もそうであるが、
現代においても、人々が訴える不安の症候は、
不幸であり、結婚とか職業をめぐる不決断の姿であり、
また、生活面での全般的な絶望、無意味さ、などである。


しかし、これら症候のもとにあるものは、一体何であろうか。

二十世紀のはじめ、このような問題のもっとも共通な原因として
フロイドが手際よく記述した点は、
生命のもつ本能的・性的な面を うけいれることの難しさ、
および、性的衝動と社会的タブー との間に生じる葛藤であった。

1920年代に
オットー・ランクは次のように述べた。

人間に関する心理学的問題の根底をなすものは
劣等感、不充足感
(inadequency)、罪悪感であった。

30年代になると、心的葛藤の焦点は 再び移動した。

カレン・ホルネィの指摘するように、 
その共通分母は
個人および集団間の 敵意 であった。
しかも この敵意は、
しばしば、だれが誰に先んずるかという 競争心 に結びついていた。



(* 20世紀はじめ=ビクトリア朝の厳格な風紀
   20年代=第一次大戦後のアメリカの台頭・好景気・ロシア革命後の労働運動の昂まり
   30年代=世界恐慌後の大不況 )
 
 
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       うつろな人間 (1)


今世紀になって持続的にみられる現象であるが、
人々が自発性の欠除
(*原文ママ)について語り、あるいは決断不能について嘆くとき、すぐにわかることは、
基底にある問題は、人々が 自分自身の欲求ないし願望を 明確に体験できないでいる、ということである。
人々は 苦しい無力感を抱いて、落ち着かず動揺しているのである。
というのは、人々は空しさ(vacuous)、空虚さ(empty)を感じているからである。

ひとが援助をもとめてくる訴えは、たとえば愛情関係がたえず破綻に頻していることや
結婚プランの挫折、結婚相手への不満、であるかもしれないが
やがてかれらの口をついてでるのは、あこがれている結婚相手への期待が
実は、自らの内にある欠除感、空虚感 を満たすためのものだということである。
彼、彼女が不安でいら立たしくなってくるのは、その事実を打ち明けないからだ。

こういうひとたちは、自分が何を期待「すべき」かについてはすらすら語る事ができる。

(たとえば、大学をうまく卒業し、就職し、恋愛し、結婚して家庭をもちたい)。

しかし、ちょっと反省してみればわかるように
自分が述べ立てていることは、自分自身が望んでいるものというより、むしろ
自分に対し、他人や両親・教授・雇い主 が期待している内容を オウム返しに繰り返してる
に過ぎない。

二十年前には、かかる外面的な目標はまじめにとりあげられた。
しかし今は、自分で語るときでさえ、
両親や社会が、かかる要求をすべて求めているのではない ことを承知している。 
すくなくとも理屈のうえでは
両親は子どもに、自分自身で決定を下す自由をあたえている旨(むね)を
繰り返し話している。さらに、かかる外的目標の追求が、
自分の
(*内的な空虚を満たす)助けにはなるまいと思っている。

しかしそれは ただ、 自分の問題をますます困難にするだけである。というのは、
彼は自分自身の目標についての 確信や 現実感をもちあわせていないからである。
ある人が述べているように、
自分というものは 他人のすべてが私に対して期待するものを反射する鏡
といえる。




 
  
 
 
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       うつろな人間 (2)


(*強い社会的禁止による性的抑圧が内向して神経症をもたらしていた2,30年前に比べて)
今日、多くの人にとってセックスは
空虚で、機械的な、内容のない経験になっている。
(略*安定した男性とボヘンミアン的興味が一致する男性のどちらと結婚すべきか
決められない女性が、夢の中で、大勢の人に投票で決めて貰うエピソード。
ただ、彼女が目覚めた時、彼女は投票結果を思い出せない。)


 おそらく読者の中には次のように推測する人もあると思う。 すなわち

自分の感じ取っているもの、欲しているものの正体がつかめないこの空虚さ、
この無力さの原因を次の事実にみている。
その事実とは、われわれの生きているのは不安の時代、
すなわち戦争、徴兵、経済変動の時代であり
われわれがそれをいかに見るにせよ、
われわれの前方には不安な未来が控えているという実感である。
だから 人は何を計画すべきかわからず、
何をやっても無駄だと感じ取っているのも不思議ではない、



しかしこうした結論は、あまりにも皮相的である。問題の根はもっと深いようである。
いわば、戦争とか経済的混乱、社会変動は、一つの症状であって、
共通の原因は社会の基底にひそんでいる。
われわれの論じているその症候をめぐる心理学的問題も、症候群にすぎない。


  ほかの読者たちはまた別の問題を提起するかもしれない。 すなわち
心理学的援助を求めに来る人々がその空虚さ、うつろさを感じ取っていることは
 おそらく真実だろう。しかしこれらは神経症的問題であって、
 必ずしも大部分の人については、あてはまらないことではあるまいか。
」 と。

たしかに、
精神療法家や精神分析家の診察室にやってくる人々は全住民を代表するものではない。
こういう人は、社会の中では比較的感受性の豊かな、天分にめぐまれた人であることが多い。
要するに、
その基底にある葛藤を当座の間、おおいかくすことのできる「よく適応している」市民に比べて
合理化の点でうまくいっていないため、援助の必要な人たちである。

たしかに、フロイドが述べているように1890年代や今世紀の当初一年頃、
性的症候を訴えてフロイドのもとへ赴いた患者たちは、
そのビクトリア文化を代表する人たちではなかった。そうした患者のまわりの大部分の人々は
]ヴィクトリア朝風の習慣化したタブーの下で、またその風潮を一応合理化した上で暮らしていた。
しかも性は嫌悪すべきもの、できるだけおおかくしておくものと考えられていた。
第一次大戦後の1920年代になると、これら性的問題は表面化し、一般化してくるようになる。

当時、ヨーロッパだけではなくアメリカでも世間づれした人は、そのほとんどが
性的衝動と社会的タブーとの間の葛藤を経験していた。これは、十年ないし二十年前には
ほんの少数の人がとりくんでいた葛藤であった。
  このようにして比較的少数だが、
内なる統合をめざして闘う過程で精神療法に援助をもとめる人々は、
その社会の心的表情の下にひそむ葛藤や緊張をきわめてあざやかに示す、重要な
バロメーターの役を果たしている。
このバロメーターは慎重に考慮されねばならない。というのは
まだ起こっていないが、やがて社会にひろく展開するやもしれぬ分裂や、
問題の所在をもっとも的確に示してくれるからである。




 
 
 
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Post時間:2011-10-31 01:25:18
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       うつろな人間 (3)

現代人の内的空虚さの問題が観察されるのは心理学、精神分析家の診察室の中だけではない。
私が本章を執筆中、目にふれ注目したすぐれた著書に 『孤独の群衆』 がある。

著書デビット・リースマン
exlink.gif(*wiki)は、現代アメリカ人の性格を見事に分析して、
そこにこの同じ空虚さを見いだしている。


  第一次世界戦争前のアメリカ人の典型は
内的志向型
(inner derected)であった。
当時のアメリカ人は自分に教えられた通りの基準をうけ入れ、
さきのヴィクトリア朝風を保っているような生き方をしている。
このタイプは、強い超自我
(*内的規制・倫理観_フロイトでは主に父親との関係で発生するとされる)
に支配されている情動的に抑圧された人間をめぐる精神分析初期の記述に
一致するものである。


  しかし、現代アメリカ人気質の典型は
外的志向型
(out-derected)である、とリースマンは言っている。
現代アメリカ人のねらいは、
自分が目立つことではなくて、その社会によく「適合」(fit in)してゆくことである。
自分に対する期待をたえずキャッチしてくれるレーダーを頭にとりつけ、
そのレーダーの指令するままに動く生活にたとえられる。
このレーダー型の人間は、
自分のいろいろな動機や指示を他人に仰いでいるのである。
自分を一組の鑑とみた人間に、反応はするが、選択のできない人間である。
すなわち、その人間には、自分自身を動機づける感情的中心がなにもないのである。



ここで、いまは過去となった
ヴィクトリア朝の内的志向型(※伝統志向型)の人間を賛美しようというつもりはない。
かかる人々は外的規範を内面化し、
意志力や知性をこま切れにし、
さらに感情を抑圧することによって、自己の力を獲得できたのである。

このタイプの人間は、実業界で成功するには好都合なタイプともいえる。
彼らは、石炭車や株式市場を操作するのと同じやり方で、人間を
処理できたのである。

 (略)
ジャイロスコープ型の人間は、厳格さ、独断性、不寛容 のゆえに、
子ども達にしばしば破滅的な影響を及ぼすことになる。
私の判断だと、こういう人の態度や行動は、
社会における態度が、破滅寸前にいかにかたく結晶するものであるか を示す例となる。

「鉄の人」
(iron man)の時代が挫折したあと、
空虚の時代がいかに当然のこととしてやってくるかは容易に理解できる。すなわち
ジャイロスコープを彼らからとり去ってごらんなさい。彼らはうつろなものになってしまう。
実際、そのジャイロスコープ型の人物の死去に際しても、われわれは全然涙を流さなかった。
(*略した中で例示されていたのは新聞王exlink.gifハースト
十九世紀にみられるこれら最後の代表的人物をよく理解しておくことの主たる価値は
もはや、われわれは偽の「内なる力」というものにかどわかされることがなくなることである。

心的な力の獲得には、ジャイロスコープ方式は、不健全で 結局、敗北に終わるということ、
および  内的志向型(*伝 かわる道徳的代用物であるということ、
この事実をわれわれがはっきり見定めるとき、
われわれは自分自身の中にあたらしい力の中心を発見しなければならないことを
いっそう痛感することになろう。


 実際、現代社会は、
ジャイロスコープ型人間の厳格な規範 に変わるものをまだ発見していない。
リースマンの指摘にあるように、 
「外的志向型」の人間は一般に、受動性と無感動の態度 がその特質をなしている。

今日の若い人たちに全般的な傾向として、
彼らは人より卓越したい、トップになりたいというような衝動的野心を断念している。
たとえこのような野心をもちあわせていても、彼らはそれを欠点とみなし、
これは父祖以来の習俗からでた残存物である、といったような言いわけをしている。
人々の希望は、たしかに
目立たない程度に仲間から受け入れられ、グループの一員に自分が吸収されることである。
この社会的傾向は広い意味で、
心理治療の場面で個々人の中に見いだされるものに酷似している。




 
 
 
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       うつろな人間 (4)


exlink.gifパウル・ティリッヒが述べているように
フランスのブルジョア中産階級 の上層部は、数十年前、
商工業活動のもつ無意味な、機械的なきまりきった仕事の単調さに耐えるため、
すぐ近くにボヘミアニズムのセンターを設けていた。
「うつろな人間」は、ときどき、その生活の単調さを吹きとばさねばならない。
自らそれをやれないなら
他人がやるその 噴出と自己同一化する ことによってのみ、その単調さをまぬがれうる。


社会によっては、その空虚さが
「適応可能」(adaptabia)という装いのもとに、かえって探求の目標とさえなっている。
(*重役の妻たちの役割に関するライフ誌の「ワイフ問題」という記事_一部略)
他の一切の原理に優先する原理は、
あまり立派すぎるな」(Don't be too good)ということだと「ライフ」誌は述べている。

とにかく、遅れないでみんなについてゆくことが重要なのである。
 しかし周囲の圧迫の強い、未開の時代においては、
 積極的であることが、事実そのまま他人に先んずることであったが、
 今日では、他人に同調してゆくことの方が、他人にたちまさることでもある。
 とにかく、他人に遅れずついてゆくことである。
 たしかに、われわれは前進しようと思えば、前進できる。
 しかしそれはほんのわずかである。 そのタイミングが難しい。



行動すべてが会社側によって条件付けられる。
現代社会は、その反対給付として、いっそうの安全性、保険、定期休暇 などを与えるという形で
その社会構成員の「面倒をみてくれる」。
「ライフ」誌によると、「会社」はオーウェルの小説『1984年』にでてくる
独裁者を象徴する「兄貴分」(ビッグ・ブラザー)になってきた。

『フォーチュン』誌の編集者は、かかる結果を「やや恐るべき事態」とみている。

 「適合(conformity)ということが、宗教に似通ったなにかに高められつつある。・・・
  おそらく、アメリカ人は、独裁者の命令によってではなく、
  お互いうまくやってゆきたいという拘束されない欲求によって、
  蟻の社会(ant society)をつくるだろう・・・



今日では、その空虚さは、多くの人たちにとって、
退屈の状態から、危険の見通しをはらんだ無価値感(futility)絶望の状態へ変わった。
ニューヨーク市の高校生たちの間に、薬物常用者が増えつつある事実が指摘されている。
これは、これら青年たちを待っているものが、
軍隊生活や不安定な経済状態のほかにはほとんど何もないということ、しかも
積極的、かつ建設的な目標を持ち合わせていない、という事実をはっきり示すものである。

人間は、長期間、空虚さのままに生きることはできない

ある人間がなにかある目標に向かってたえず成長し続けていないということは、
ただ停滞しているということだけではない。潜在力の抑圧は、
病的状態や絶望のもとであり、 最後には破壊活動に変わってゆく。

  この空虚体験の心理学的要因は何であろうか。
 

 
 
 
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        うつろな人間 (5)    (*last)


人間というものは、
あたかも充電に必要な蓄電池のように
静的な意味で、空虚なのではない。

空虚体験は、むしろ一般に、
自分の生活や住んでいる世界をうまく切り回していけない
という無力感にある。

内的な空虚さは、
自分自身の生活を立てるにあたって、自分自身を一個の主体として行為することができず
自己に対する他者の態度を変容したり、自己の周囲の世界に有効に働きかけられない

という不確実感が長期にわたって蓄積されたことの結果である。

そのようにして、今日非常に多くの人の経験している絶望感や空無感のもつ
深い意味に気づくことになる。 まもなく、自分が欲しているところのもの、
自分が感じとったものが、ほんとうは全くたいしたものではないので、 
自ら欲すること、感じること断念してしまう。



無感動や感情の欠除はまた、不安防御の働きをする。
人間はどうするすべもない危険にたえずさらされているとき、その最後の防衛戦は、
少なくとも危険を感ずることさえ避けてしまうことである。


exlink.gifエリッヒ・フロムの指摘によると、
もはや現代人は教会や道徳律の権威下に生きているのではなく、
世論の如き「匿名の権威」
(anonymous authorities)のもとで生きている といわれる。

権威は公衆それ自体であり、
しかも公衆は、いわば他人の自己に対する期待が何であるかを発見するためのレーダー
を備えた個人の集合体である。

公衆というものは、そこここにいるトム、メアリー、ジム、キャシーなどから構成されており、
しかも、その一人一人が、実は世論という権威の奴隷なのである。
このことについてリースマンは、
公衆は、亡霊・変化(ブギーマン)・怪物(キメラ)におびえているのだ と、
きわめて適切な指摘をしている。大文字「A」のついた 無名の権威である。
しかしこの われわれ自身 には、
個人の中心というものが欠けている。




順応性と 個人的空虚さ というこの状態にわれわれがおびえる理由がある。
20年前、30年前のヨーロッパ社会における 倫理的、情動的空虚さは、
その空虚さに立ち入り、それをみたすため、
ファシズム的独裁を無防備に受けいれることになった。


 この空虚感と無力感のもつ最大の危険は、
それが早かれ遅かれ、苦痛にみちた不安および絶望に至りつく ということであり、
しかもそれが訂正されないかぎり、
価値意識の喪失、もっとも高貴な人間性をも阻止してしまうことである。


その至りつく結果は、人の心をいじけさせ、貧困化し、
あるいは、破壊的権威主義に降伏してしまうこと である。










 
 
 
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Post時間:2011-10-31 19:49:28
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   孤独 (1)


 現代人にみられるもう一つの特質は、孤独ということである。

この感情は、自分が「局外者であるという気持ち」、孤立している状態 といわれる。
あるいはもっとしかつめらしい表現だと 疎外感 とも呼ばれている。

自分たちにとって、このパーティやあの晩餐会に招待されるということが どんなに重大なことであるか
が力説されるのは、
そうした集まりの中で楽しんだり、仲間をつくったり、体験や人間的なあたたかみを分かち合いというのではなく
(往々にして人々は楽しむどころか、単に退屈している)
どちらかといえば、
招待されている、というそのこと自体が重要なのである。

というのは、自分が招待の数に加えられているということが、
自分は孤独ではないというということの証左になるからである。



多くの人々にとって、孤立していることは、この上なく恐ろしいおびやかしであり、
孤独のもつ積極的な価値をほとんど知ることなく、
ときどき、自分はひとりぼっちになるのではないか という予想だけでひとく恐れてしまう。

「多くの人々は、孤独の自分を認知することを恐れ、 自分自身というものを全く発見できないでいる。」
と、アンドレ・ジィドは述べている。



空虚と孤独感はつれだって出てくる。

たとえば、
愛情関係の破綻について話すとき、われわれの感ずるのは
失った相手についての悲しみや屈辱感ではなくて、むしろ
手中のものを失ったような「空虚感」である。


孤独感と空虚感との間の密接な関係について、その理由を発見するのはそう難しくはない。
自分が何を欲し、なにを感じているかを、何らかの内的確信をもって認識しないとき、
心的外傷を残すような変動期に、いままでそれに従うよう教えられてきた
ありきたりの欲求や目標
が、もはや安全なものではなく、なんらの方向指示を得られないとき、
いいかえれば 社会変動という外的混乱のただ中にあって内的空虚をおぼえる時、
われわれの感ずるのが 危険である。


そしてごく自然な反応として、あたりに他人の存在を求めて見回すことになる。
他人が自分になにか方向を与えるなり、あるいは
少なくともたった一人でおびえているのではないことを知って、他人から慰めてもらいたがっているのである。


空虚と孤独感は このように、
不安という同一の基本的経験のもつ
二つの局面 をあらわしている。

 
 題名:#8
Post時間:2011-10-31 20:34:32
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      孤独 (2)


おそらく、読者は
最初の原子爆弾がヒロシマの上空に炸裂したとき、津波のごとく襲ってきたあの不気味な不安を
想起されることと思う。

そのとき、われわれが身に覚えた危機感は大きかった。
これから一体どんなことが、起こるか皆目理解できなかった。
その瞬間、大勢の人々のとった反応は、不思議なことに、突然の深い孤独感であった。


exlink.gifノーマン・クザン(*カズンズ)は『現代人の廃退』の中で、
あの人類に深い動揺を与えた歴史的瞬間に、現代知性人の等しく体験する
深いほんとうの感情を表現しようとしているが、
それは原子放射線からいかに自己を防御すべきかとか、
政治的問題、ないしは自己崩壊にいかに対処すべきかという問題ではなく
その論説はもっぱら、孤独についての思索に終始している。

「全人類の歴史は、いわば人間の孤独をのがれ、
 その孤独を超克してゆく努力の歴史であった。」と彼は言う。



人が空虚感にとらわれ、恐れを覚えるとき
出てくるのが 孤独感 である。



しかし、それは野生の動物が群れをなすことによって身を守るのと同じく
群衆の中に身の保護を求めているのだとはいえない。
また、他者を求めることは、単に内なる空虚さをみたすための努力とはいえない。
―たしかに、これはわれわれが空虚感にとらわれ、不安を覚えるとき、
人間が仲間を求める理由の一つではある。
もっと根本的な理由はほかにある。

すなわち、人間は
他者とのかかわり合いの中にあって、はじめて自己というものを体験するのであり、
他者不在で孤立したとき、人はこの自己の存在喪失感におそわれる。



人間は、いわば、生物社会的な哺乳動物
(biosocial mammal)であって
長い幼児期にわたって、身の安全のため父母にはじまる他者依存の生活を送る。

この幼児期の他者関係の中に、人生の指針となる自己意識を抱くようになる。

(かかる重要点については後の章で詳しく論じよう)ここでは、
孤独感の中には、 自己定位のため他者関係への欲求 があることを指摘するに止める。


 

 
 題名:#9
Post時間:2011-10-31 21:59:10
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     孤独 3


孤独感の生まれるもう一つの大きな理由は、次の事実にある。 すなわち 
現代社会は、自分が社交的に受け容れられるということを、あまりにも強調しすぎている
という事実である。
 
またその社会的順応性ということが、
不安をいやす主たる方法であり、かつ人間的威信の保たれている証拠でもある。
このように、自分はいつも他人から求められており、決して孤立してはいないということが
「社会的成功」であることをたえず証明しなければならない。

われわれは、十分好かれてさえいるなら、
すなわち観念上、社会的に成功しているなら、ほとんど孤独をかこつ(*嘆く)ということはあるまい。
いいかえれば、好かれなくなったということは、実は競争に失敗したことである。
ジャイロスコープ型人間の尊重された時代、ないしそれ以前の時代にあっては、
人間の威信を示す主たる標準は財政的成功であった。

それが今日では、他人によくよく気に入られていることが、
財政的成功や威信を保持するための条件になっている。
「うんと気に入られることだ。そうすれば、お前たちは何も心配することはない。」
と、『セールスマンの死』の中で登場人物ウィリー・ロマンは、せがれたちを前に説いている。


現代人の孤独をうらがえせば、そこにあるものは、孤立することへの非常な恐怖心になる。


「孤独から全面的に逃れ出るため」一時的に 孤独を選びとることは許されてよい。
しかし、もしあるパーティの席で、自分が孤独を好むのは、休息や逃避のためではなくて、
孤独それ自体のよろこびを味わうためだ、 と言ったとすれば、
人々はそういう当人はどこか悪いのではないか―けがらわしさあるいは疾病のような、
他人から棄てられる条件が本人のまわりに匂っていると思うかもしれない。

そしてあまり長い間、孤立状態のままにいると、人々は彼を失敗者と思うようになる。
というのは、人が孤独を選びとるということが信じがたいことだからである。


招待の数に加えてもらいたい、ほかの誰かが招かれているのなら、自分もそのパーティに出たいという
現代人の強い要求の背後には、孤独の恐怖がひそんでいる。
「約束で日がつまってる」という状態にしておきたいという気持ちは、
仲間うちで味わうことのできるよろこび、あたたかさ、感情、観念、体験の豊かさ、
くつろぎからくるほんとうの喜び、といった現実的な動機を超えるものである。
実際、かかる(*現実的な)動機は、招待されたい という強迫的性格のものとはほとんど無関係である。

世間づれした人たちの多くは、これらの点を十分承知している。
そして「否」がいえるようになりたい、と望んでいる。

しかし、多くの人が熱望していることは、招待に応じて出かけるチャンスを得ることである。
そして普通の社会生活にとって、招待をことわるということは、早晩自分が招かれなくなることを意味する。
地下から、氷のような頭部をもたげてきた冷酷な恐怖感は、自分がすっかり締めだされてしまい、
外側へおっぽり出されてしまうのではないかという恐れである。


 
 
 
 
 題名:#10
Post時間:2011-10-31 23:07:19
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      孤独 4


  たしかに、いつの時代にあっても、人々は恐怖を恐れ、それを逃れようとしてきた。

十七世紀のパスカルは気晴らしのため人間がいかに努力するものであるかを観察し、
これら大量の気晴らしのもつ目的は、己自身についての思索を避けることであったと
彼は見ている。
  キルケゴールは、百年前に次のように述べている。
「今日、人々は孤独な思索のときを避けるため、気晴らしや調子の高いトルコ兵の音楽など
 できることならどんな手段でも利用する。それはアメリカの森林で
 原住民が野獣をさけるため、たいまつや叫び声、シンバルの音をかきならすのと同じである。」

 
しかし、キルケゴールの時代と違う点は、
その孤独への恐怖がはるかに広くゆきわたっている現象であり、
気晴らし、勝負ごと、「好かれている」ことなど 恐怖防衛策が
はるかに枠の決まった、強迫的な性格を帯びてきていることである。


*現代アメリカ、典型的で比較的裕福な夏を避暑地の海辺で過ごす人たち
彼らは休暇を取っているので、暫時、自己逃避や自己保持のために
職場を離れている。彼らは、パーティで同じ顔ぶれにあい、おなじカクテルを飲み
同じ話題について語り、時には話題にことかくという状態を繰り返しながら
そのパーティをあきもせず続けている。

大切なのは、話の内容ではなく、なにかが、たえず話されているということである。
沈黙はおおきな罪悪なのである。というのは沈黙は孤独と恐怖を招くからである。

自分の話すことにあまり多くの内容をくみとったり、深い意味を含ませてはならない。
すなわちあなたは、自分の口にすることばについて、理解しようとしないとき、
かえって有効な社交の機能を果たすからである。

こうした避暑地に来る人々すべてが、何かにおびえているような不思議な印象をうける。
それは何であろうか。

その様子は「ヤタタ」(むだ話
*スラング)が、神をなだめるための未開社会の儀礼や
呪術的な踊りの役を果たしているのにそっくりである。 
(略)


われわれの不安は、ときどき、朝、目をさましたとき、
できるものならすぐにも忘れ去ってしまいたいような恐ろしい悪夢の形であらわれることもある。

孤独に対するわれわれの恐怖は、不安そのものの形をとってはあらわれず、
不思議な思考となってあらわれる場合もある。

自分があるパーティに招かれなかったということを知ったとき、
(*そのパーティの主宰者は)私を愛していないにしろ、
他のだれかが自分を愛しているということをひょっと思い出させるなり、
過去のしかじかの時に、自分は成功もし人気もあったということを、はっきり教えてくれるような
名状しがたい考えである。
この自己を 再保証してくれる過程はきわめて自働的で、われわれはそれに気づかず、
ただそれが引きつづき自尊心の慰めになっていることに気づくだけである。


二十世紀半ばに住む人間として、もしわれわれが率直に自分自身の中を見つめるなら
すなわち習慣化している自己の仮面の下をのぞきみるとき、
いかに表面は仮想をこらしているにしても、
ほとんど断ゆることなくつきまとう 孤独への恐怖 が見いだされないだろうか。 

 
 
 題名:#11
Post時間:2011-11-01 00:38:24
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      孤独 5(*last)


孤独の恐ろしさは、“自己認識(awareness of oueselves)を失う”のではないか
という不安からでる恐怖である。

もし語りかける相手もなく、声を空気中に発散するラジオもなく、
長時間、一人ぼっちでいることを考えるなら、人間は「途方にくれて」、
自己と環境との限界を失い、ぶちあたる対象もなく、
自己を方向づける何ものも持たなくなってしまうという恐れを抱くであろう。

興味のあることであるが、もし人間が長い間、ひとりぼっちでいるなら、
疲れるほどに働くことと、遊ぶこともできなくなり、寝れなくなってしまうとよくいわれる。
一般に自分では、これは説明はできないけれど、
目ざめと睡眠との間の区別がつかなくなってしまう。

これはちょうど主観的自己と 自分をとりまく客観世界との間の区別がなくなるのと
同じである。


人間はすべて、自己自身の実在感の大部分を、
個人が彼に語りかけること、および 
他人が彼について考えているその内容から得ている。


しかし多くの現代人は、自己の実在感覚をたしかめるために
あまりに他者依存的になってしまったため、
他人にたよることなしには、自己の存在の意味が失われてしまうのではないかと
案じているほどである。
砂の上のいずれの方向へも流れゆく水のように、
自己が「分散」してしまう とみている。

多くの人は、他人のあとにつき従うことによってのみ、
生活の中に方向が与えられると思う盲人に似ている。

この状態が極限までくると、恐ろしいことに 
自己の生きる指針の喪失がやがて精神疾患の症状を招きかねない。

実際、
正常と精神病とのきわどい境界領域に立つとき、
人間がことに切望するものが
しばしば、他者との接触を求めようとする要求であることは 注目に値する。
これは人間としてはごく自然ないとなみである。
というのは、かかる他者との関係を求める意欲こそ、
人間をこの現実界へつなぎとめるものだからである。

しかし、われわれがここで論じている問題には別の起源がある。
合理性とか、画一性、メカニックスなどを 
過去四世紀間、強調し続けることによって、訓練されてきた西欧人は、
たえずこれら画一性や機械的な基準に合わない自己の側面を極力抑圧してきた。
しかし残念だが、これは成功していない。

自己の内なる空虚さを身に感じている現代人は、
自分自身を方向づけるいままでの習慣的なやり方がおびやかされ、
身のまわりに他者が居合わせてくれないとき、
はじめて自己の内なる根源力(inner resources)に立ち帰ることになる。

これは現代人が、その発達(*内なる根源力)を無視してきたことがらである。それゆえ
孤独は、現代人にとってもはや想像上のものではなく、現実の脅威である。

 「好かれている」という社会的に受けいれられている状態は、
孤独を寄せつけないでおくうえに、たいへん大きな力をもっている。
人間は居心地のよいあたたかみを身に感ずるからである。
すなわち
当人は集団の中に没入してしまう。

人間は、精神分析的なシンボル説でいうと、
あたかも子宮への帰還を願っているように、集団の中へ再度吸収されてしまう。
それによって、一時的に、孤独から逃れることができる。

しかしそれは、当然として 自己同一性をもった自己の存在を放棄するという
高い代償を払うことになる。
そして長い時間をかけて、
その孤独を建設的に克服できる唯一の方法、
すなわち、自己の内なる根源力や方向感覚を発達させ、
その力を他者との意味ある連関性の基礎として用いること をしなくなってしまう。

「はく製人間」は、いかに彼らが「身体を寄せ合っている」にしても
ますます孤独に追いやられる運命にある。
そのわけは、
うつろな人間は、愛の基礎となるものを持ち合わせていないからである。






 
 
 
 
 
 
 題名:#12
Post時間:2011-11-01 19:54:04
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      不安と自己への脅威 (前)


  不安 という現代人のもう一つの特質は、
空虚感や孤独感にもましてさらに基本的なものである。


というのは、「うつろであり」、孤独であることは、それが
不安とよばれるあのとりわけ神学的な苦痛や混乱に身をさいなまれないなら
それほどわれわれを悩ますものではない。


日々の新聞に接するだけで、われわれがいかに不安の時代に生きているかがよくわかる。
三十五年にわたる二つの世界戦争、経済変動、不景気、
ファシスト的暴虐の爆発、共産主義的全体主義の勃興、そして果てしのない半ば戦争状態 
(略)

exlink.gifバートランド・ラッセルが、
今日の事態をもっとも困難にしているのは
 安心している人はばかであり、
 何らかの想像力や理性的判断のできる人間は疑惑にみち、いかにも不決断だ。

                     と記しているのも不思議ではない。


事実、「不安の時代」ということばすら、すでに陳腐なものになってきた。
なかば不安状態
(quasi anxiety)のままの生活がきわめて日常化してしまい、
そのため真に恐るべきことは、事実に目をおおってしまい、現実を看過してしまう危険である。


今後も二十年、三十年の間、われわれは
世相の激変や国家間の衝突、戦争を目撃し、また戦争の噂を耳にしながら暮らすことになろう。
そして「想像力と理性」の持ち主である人間のとり得る態度は、
かかる変動を率直にみとめ、勇気と洞察をもって
自己の不安を建設的に善用できないものかどうか考察することである。



今日の戦争、不景気、政治的圧迫こそ、現代不安の原因の
全てであると解することは謝りである。
というのは、われわれの不安それ自体がかかる破局的状況の原因でもあるからである。

たとえば、ファシスト的・ナチ的全体主義は、
ヒットラーとかムッソリーニが権力把握を決意したために起こるようなものではない。

むしろ国民が持ちこたえ得ないほどの 経済的苦境に立ち、
心理的にも、精神的にも空白であるとき、
全体主義は、その空虚さを満たすために立ちあらわれるのである。

そして人々は、もはやこれ以上耐えてゆくにはあまりにも重荷の不安を逃れるため、
自らの自由を売り渡してしまう
のである。


一人間がある期間にわたってたえず不安な状態におかれているとき、
彼は精神身体医学的な病気に身をさらすことになる。

また、ある集団自体が
結束して着手すべき建設的な方途もなく、
たえず不安に悩まされている時、
その集団構成員は、早晩、相互に対立し合うことになる。

(*アメリカの場合)
国家自体が混乱と混迷の状況にあるとき、マッカーシズムの暗殺行為、魔女狩り、
それにあらゆる人間をして自己の隣人に対し疑惑の目を向けるような一般的な圧迫など
ある種の毒に身をさらすことになる。




 
 
 
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 題名:#13
Post時間:2011-11-01 21:19:20
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      不安と自己への脅威 (後)


社会から他人に目を転ずると、そこでわれわれの見るものは、
神経症とかそのほかの情緒障害の頻発という形の
きわめて明確な不安の発生である。

これはフロイド以来のあらゆる人間が認めているところであって、
これらの症候の根本原因は 不安 である。

不安は、精神身体医学的障害をめぐる心理学的な意味での共通分母である。
潰瘍、そのほか多くの心臓疾患があげられる。
結局、不安はかつて猛威をふるった結核の現代版で、
人間の健康や幸福の最大の破壊者といえる。


 個々の不安を掘り下げてみると、そこには
戦争に対する脅威や、経済的不安よりもさらに底の深い不安のあることがわかる。
われわれの不安は、
どの役割を追求すべきか、行動のためのいかなる原理を信ずべきか、
それがわからないためである。

われわれの個々の不安は国家全体の不安にどこか似ているところがあるが、
そこには、われわれがこれから向かうべき方向についての
根本的な混乱と当惑 があるといえる。

われわれが常に教えられているように、
われわれは経済的に成功したり、金持ちになるためか、
それともだれからも好かれるような人間になるために競って努力すべきものだろうか。
両者をともに満足することはできない

これは目的や価値についての大いなるとまどいといえる。
exlink.gifリンド博士夫妻の1930年代の中西部の町の研究「過渡期のミドル・タウン」によると、
 このアメリカの典型的な社会に住む市民たちは、
パターンの葛藤する混沌たる状況の中にあって、 
 そのパターンのどの一つとして完全に避難の対象になるのでもなく、
 しかしいずれの一つも明白に是認されるというものはなく、混乱を免れてはいない。


1930年代と現状との間の主たる相違は、その 混乱が
いまや、感情と欲求のレベルまでさらに深く浸透しているということである。

  かかる困惑の中にあって多くの人は、exlink.gifオーデンの詩に出てくる若者のように、
  食い入るような内なる不安を体験している。 
    「  次第に時間は迫ってきている。
       一体われわれは求められることがあるだろうか。
       われわれは少しも望まれていないのではないか。  」


 かかる問題に対する解答は簡単だと思う人があれば、
 その人は問題を理解してもいないし、また
 われわれが住む時代をも理解していないことになる。

 exlink.gifヘルマン・ヘッセが言うように、
現代人はすべて、二つの時代、二つの生活様式の間にはさまれ、
 その結果、人々は自らの時代それ自体を理解できず、
 よるべき基準もなく、安全性も約束されず、
 ほかの人々に単に黙ってついてもゆけないでいる。



  しかし不安状態は 葛藤がそこにあることを示し、
しかもその葛藤が存続しているがぎり、建設的な解決も可能である。
事実、われわれが現におかれている混乱状態は、次でみるように、
現在の破局的状況を示すものであるとともに、将来における新しい可能性を予知
するものである。
不安の建設的な利用の仕方によって、欠くことのできないものは、まず第一に、今日の
個人的にも、社会的にも危険な状態を率直にみとめ、直視することである。

これを実行する一助として、 不安の意味 について、さらに明確な理解をしておきたい。


 

 
 題名:#14
Post時間:2011-11-01 22:25:49

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        不安とは何か (1)



   不安とは、どのように定義されようか。
 また不安と恐怖はどのように関係しているのか。


もしあなたが大通りを横切ろうとしたとき、あなたの方に向かってくる車に気づいたとすれば
そのときあなたの心臓の鼓動はますます早くなり、
あなたの目は車とあなたの間の距離に集中し、道路の安全地帯までの距離が
とっさに計算される。 そしてあなたは急いで横切ることになる。


  ここであなたは恐怖を感じたのであり、
  それがあなたを安全地帯へ走らせる力 となったのである。


しかしもしあなたがその道を急ぎ渡ろうとした時、今度はその反対側から
向こうの道をやってくる自動車にはっと気がついたとすれば、
あなたはどう進むべきか途方にくれ、道の中央に突然釘づけにされる。
心臓の鼓動はますます早まる。しかし今度は、上述の恐怖体験に比べて、
あなたの様子はいわば恐慌状態であって、視力は急にぼやけてしまうかもしれない。
おそらくあなたはそれを抑えていると思うが、あなたは
どんな方向でもいいから走り出したい衝動に駆られる。
車が通りすぎてしまったあと、軽いめまいを覚える。


   これが不安である。


恐怖の場合は、何が自分を嚇やかすのか、それを見定めることができ、
その状況におかれることによって体内のエネルギーも動員され、
知覚の働きはいよいよ鋭敏になり、その危険克服のため走り出すなり、
しかるべき方法によって事態を処置できる。

しかし不安状態にあっては、
その危険に対処するため、とるべき手段がわからないままにおびやかされる。
不安は、
自分が何かに「とらわれている」とか、
「圧倒されている」という感じである。
そして知覚がますます鋭くなるのとは反対に、全般的に不明瞭になり、
ぼやけてしまう。
 
 
 題名:#15
Post時間:2011-11-01 22:53:37
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        不安とは何か (2)




不安のあらわれ方には、軽い程度のものと強烈なものとがある

だれかある重要な人物と面接する前のかすかな緊張も一種の不安である。
その試験によって自分の将来が決定的となり、
しかもその合否に自信の持てないときの動揺する気持ち、これもまた不安である。
飛行機事故に遭遇した恋人の安否が心配なとき、あるいは
自分の子どもが湖水での嵐で溺れたのか、無事帰ってくるのか、身のこわばるおののき、
われわれは、さまざまな形で不安を経験する。

身をさいなまれるような内なる苦しみ、
胸をしめつけられるような思い、
全般的な狼狽あたかも身の回りの世界がすべて
濃い灰色ないし暗黒の中にとじこめられるような感じ、
自分の上に大変な重みがのしかかってくるような気持ち、
あるいは、幼児が迷子になったとき体験するようなおののきの感じとして表現される。


   実際、不安はありとあらゆる形をとってあらわれ、
   そのはげしさもさまざまである。
   それというのも不安は、
   自己の存在、ないし人間が自己と同一化するところの何らかの価値が
   危険にさらされたときに生ずるところの、
   人間にとって根本的な反応様式である、 といえるからである



   恐怖は自己の一側面に対するおびやかしである。

  子どもがけんかをしている時、子どもは傷をするかもしれない、
しかしその傷は、その子どもの全存在をおびやかすような性格のものではない。
  また、大学生は中間試験を前におびえるようなことがあるかもしれない。
しかし、彼は自分がその試験にパスしなかったからといって、
天が頭上に落ちてくるようなことはないと思っている。

(だが)おびやかしが、やがて
その全自己をおおうほど大きくなれば、そのとき人は 不安 を体験することになる。

   不安というものは、われわれの自己の「核心」にせまるものである。
   すなわち、不安とは、
   自覚存在としての自己がおびやかされるとき、われわれが感ずるところのものである。

 

 
 題名:#16
Post時間:2011-11-02 00:45:43
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        不安とは何か (3)


 不安体験を不安体験たらしめるものは、その体験の量ではなくである

路上で、友人だと思った相手が、すれ違いにことばもかけなかったとき、
われわれは何か不快なものを感じる。その後味の悪さはそれほどひどいものではないに
しても、なにか心に食い入るような違和感がいつまでも消えないという事実、
なぜ彼は自分を無視したのかという「理由」が気になり、心を離れない。

こうした事実こそ、そのおびやかしが、
われわれの内なるなにか本質的なものに対するおびやかしであることを示している。

その強烈さが限界に達したとき、 不安は、
人間という動物が、それを受け継いでゆかねばならぬもっとも苦渋にみちた感情体験である。

 「現在の危険は、未来に想像されるものよりはるかに小さい
 とはシェイクスピアのことばである。
 人は、はたして救われるのか、救われないのか、
 それもわからず、いつまでも不安と疑惑の苦しさにさらされているより、
 むしろ 自ら救命ボートをとび出し、溺死の道を選んでしまう。

死のおびやかしは、不安をもっともよく象徴している。
しかしこの「文化の発達した」現代に生きるわれわれの大部分は、
銃口をつきつけられるといったふうの死のおびやかしにさらされることは少ない。

われわれが自己の存在にとって本質的なものと考えている価値
おびやかされるとき、どっと不安がおしよせてくる。

 おそらく科学史に残るような人物トム-彼の胃には穴があいていたため
  ニューヨークの病院の医師たちは、その穴を通して、トムがおかれた不安、
  恐怖、そのほかのストレス状況のときに示す精神身体医学的な反応を 観察することができた。
  トムは病院で仕事が続けられる、それとも生活保護を受けねばならなくなるのか
  不安でたまらなくなったとき、次のように叫んでいる。

  「もし自分で家族を養えないようなら、いっそ桟橋から身を投げてしまった方がいい!」


すなわちこれは次の事実を物語っている。

  自尊心をもった稼ぎ手であるという自己の存在価値がおびやかされるなら、
 トムはもうはや人間としての自己存在の意味をみとめず、死んだ方がよいと判断するのである。


これは実際、あらゆる人物にとって、その方法は異なるにせよ、
何が真実のものであるかを証明している。

たとえそれが、成功であったり、
あるいは誰かを愛すること、ソクラテスの場合のように、真実を語る自由、
アークのジョン
(Jeanne d' Arc=ジャンヌダルク)のごとく自己の「内なる声」に忠実であることせよ、
何らかの価値が人間存在の核心的な理由とみなされている。
そして、もしかかる価値が破壊されてしまうようなことがあれば、
その人は、人間としての自己存在もまた消えてしまったほうがよいと思う。

「われに自由を与えよ、しからずば死を与えよ。」 ということばは、
単なる修辞でもなく、また病理的減少でもない。

ほとんどの現代人にとってもっとも支配的な価値は、
ほかから愛されること、受けいれられること、そして認められることであって、
現代の多くの不安は、
好かれなくなり、 
孤立を強いられ、 
見捨てられるのではないか  という脅威である。


いまあげたような不安の大部分は「正常不安」である。

すなわち、現実の危機状態に相応した不安である。

たとえば、火事、戦争、ないし決定的な大学の試験に際して、
人は多かれ少なかれ不安な状態におかれる。 その不安は現実に即したものである。

人はすべて成長発達するにつれて、また人生途上、
さまざまな危険に遭遇するとき、いろんな形で正常不安を体験する。


これらの「正常危機」に直面し、それを通過してゆくことが多ければ多いほど、
すなわち、離乳、就学、職業の選択、配偶者決定に責任がもてるようになるにつれて、
一方では、神経症的不安を感ずることが、それだけ少なくてすむことになる。



 

 
 題名:#17
Post時間:2011-11-02 00:50:15
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        不安とは何か (4)

  正常不安は、回避することのできないものである。

自己意識はこの不安を率直にみとめねばならない。
本書は、過渡期と言われる現代に生きる人間の正常不安に主として焦点をあて
この不安に対する建設的な遭遇方法について述べたい。

  しかし、もちろん多くの不安は神経症的なものである。
少なくともわれわれはこれをはっきりさせねばならない。

ここでもしある一人の音楽家の青年が、その最初のデートにでかけ、
わけのわからない理由でその少女をたいへん恐れ、しかもかなりみじめな時間を過ごしたとしよう。

そのとき、青年は自分の生活から、少女達への関心をふり捨て、
ただひたすら音楽に没頭することを誓い、現実問題から身をかわしたとしよう。

しかし数年後、成功せる独身音楽家として、自分が婦人たちに対し、不思議と内気になっており、
顔をあからめずに婦人に話しかけることもできず、秘書がなんとなく怖ろしく、
演奏会の打合わせのため、接触しなければならぬ委員会の婦人議長にひどくおびえている自分に気がついた。

彼はその婦人が自分を射殺する恐れのないこと、
また実際自分を攻撃するほどの力のないことも承知している。
すなわち、その不安は現実の危険をそぐわないものであり、
自己自身の内なる無意識的葛藤から生じているものである。

読者は、この若い音楽家がその母親とある重大な葛藤状態にあるに違いなく、
 その葛藤がいまや無意識なものに化し、
 婦人全体を恐れるようにさせているのではないか
 とお考えのことと思う。

たいていの神経症不安はかかる無意識的な心的葛藤に起因するものである。

当人は、おびやかしを感じている。
しかしそれはまるで幽霊におびえているようなもので、自分の敵の所在もつかめず、
それに対していかに挑戦し、またいかに避難すべきかもわからない。


こうした無意識的葛藤には通例、
当人が自分は弱くてとてもそれに真っ向から直面はできないと思った、
なにか以前におびやかされたこと、に原因がある。

たとえば、 
支配的で、所有欲の強い両親とうまくやってゆかねばならず、
両親が自分を愛していないという事実を直視しなければならない子どもの場合があげられる。

ここでは、その現実問題は抑圧され、
後ほどそれは、神経症的不安を伴った内的葛藤として再びよみがえってくる。


神経症的不安の処置方法は、
その人が恐れている元の現実をあきらかにし、正常不安 ないし 恐怖 として、切り抜けることである。 
いかに重症の神経症的不安を扱うにせよ
その慎重かつ賢明な手段は、専門的な精神療法を受けることである。

 
 題名:#18
Post時間:2011-11-02 03:59:32
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        不安とは何か (5)

 次章以下でのべる主なる問題は、正常不安の建設的な活用方法を理解することである。

それを行うためには、一つのきわめて重要なポイント、すなわち
当人の不安と 当人の自己認識とのあいだの関係をもっとあきらかにする必要がある。

戦争とか火事のような恐怖体験のあと、
「あたかも目がくらむようだ」ということばを人々はしばしば口にする。
これは、いわば、不安が、自己認識の支柱になるものをたたき出してしまう からである。

不安はいわば地雷に似て、
自己意識の最深層ないし「その核心」を打ちのめしてしまうのである。
しかも、われわれが、自己自身を客観界で活動できる人間、主体として体験するのは、
この層においてである。

このように、不安は、その程度の差こそあれ、
われわれの自己意識を破壊する傾向にある。


たとえば、戦争の例をとると、
敵がこちらの最前線を攻撃してくるのであれば、
防御にあたる兵員は、恐怖にもめげず、戦闘を続行する。
しかし、もし敵がその前線よりはるか後方の
通信センターの爆破に成功したとしよう。
そのときには、味方の軍隊はその方向を失い右往左往するばかりで、
もはや戦闘単位としての 自己存在を喪失してしまう。

そのときの兵士たちの状況が、不安ないし恐怖状態だといえる。

これが 不安というものが人間に対しいかなる意味をもつかを示している。
不安は人間に生きる方向を失わせ、
自分が何であり、だれであるかについて、
もはや明確な認識が不可能になってしまう。

そして自分のまわりの現実感がぼやけてしまう。


このとまどい、
すなわち、自分が一体何ものであり、なにをなすべきかについてのこの混乱は
不安特有のもっとも苦しい一面であるが、
しかし不安には、積極的で、望ましい側面もある。

不安というものがわれわれの自己認識を亡ぼしてしまうものであるのとちょうど反対に
自己認識こそまた、不安を消し去ることができるものである。
いわば
自己意識の認識が強くなればなるほど、それだけ不安に対抗し、
不安に打ちかつことができるようになるのである。

 

 
Post時間:2011-11-02 04:11:39
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        不安とは何か (6) last

 不安は熱病に似て、内部での戦いが信仰していることを示すものである

熱は肉体がその生命力を動員して、
たとえば肺における結核菌のごとく、伝染に抗して戦っている症候である。
これと動揺、
不安も内で、心理的ないし精神的戦いが進行していることの証拠である。

上述のように、神経症的不安は、
われわれの内に未解決の葛藤が存在することのしるしであり、
その葛藤が存続するかぎり、われわれはその葛藤の原因が認識でき
より高度な健康のレベルで、その問題解決の可能性のあることを示している

神経症的不安は、
いわば解決されるべき問題の所在を教えてくれるごく自然な方法である。



同じことが正常不安についてもいえる
正常不安のあることは、われわれの予備軍を招集し
敵の脅威に応戦の要あることを示すシグナルだといえる。

いまあげたように、熱病が肉体の力と伝染菌との戦いのあることを示す症状であるごとく
不安は一方では自己としてのわれわれの力と、
他方ではわれわれの自己存在を絶滅させようと迫ってくる危険、
この両者間にたたかいのある証拠である。


その脅迫の方がますます優位を占めるつれて、
それだけ自己認識は弱まり、削滅せられ、閉じこめられてしまう


しかしわれわれの自己意識能力が強力であればあるほど、すなわち、
こちらの自己認識と、自己をとりまく客観界の認識、
この両認識の能力が強化されればされるほど、
いよいよ、いかなる脅威にもおびえずこれを克服できるようになる。


結核患者に熱のあるかぎり、回復の希望をつなぐことができる。
しかし、肉体のほうが「断念」してしまうような最終段階にくると、その熱も去り、
患者には死が訪れる。

まさに、これに似て、個人または国家として、
われわれが当面する困難を切り抜けようとの希望が失われるとき、
そこに生ずる唯一の事態は、無感動(アパシーapathy)状態への退去であり、
もはや不安を建設的な意味にうけとり、かつこれに建設的に対処できなくなることである。


では、次に、われわれのなすべきことは、
自己についての意識の程度を強化し、自己のまわりの混乱やとまどいにもめげず、
これに耐してゆけるような 力の中心を自己の内に見いだすことである。

これが本書で考究したい主眼である。

しかしまず第一に、
われわれの上に、今日の苦境がいかにのしかかってきているかを、
より明確に認識することから始めたい。

          

        
 
  (*第一章おわり)

 
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最終更新:2015年05月15日 04:28