(第五章)「病気論」~正常・異常・病気とは何か ~鬱・強迫

このページはhttp://bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65931からの引用です
 

kusamura(叢)フォーラム

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                          病気論Ⅰ

                  一 


異常という概念を解釈するとき、わたしたちはどこかで
正常とはどんなことか了解していることになる。



正常という概念ひとによってさまざまに理解されるだろうが、
いままでやってきた文脈では、
(1)内臓系の 揺動や摂動から跳出(表出)された
   情緒や情念のあらわれ方と、
(2)それに結びあった感覚器官の働きから表出された
   感覚の作用が、
ともにある輪郭と規範を保った状態のイメージとして与えられる。


これは当然
内臓系や感覚器官系の働きに伴う
エロス覚の表出もまた正常な異性愛的な状態にあること、

また
精神神経的な過程の末端が、運動(行動)機能のほうに開いている
通路
にも障害がないことを含んでいる。



それで情緒や感覚の動きに
輪郭と規範の正常さ という概念を対応させたとしても、
どんな状態か具象的に語ることはとても難しいことになる。
だが正常という概念の輪郭や規範は、
べつにその時代の社会常識(多数認識)できまるわけでもなければ、
最大分布値できまるわけでもない



どうきまるかを問わないとすれば

人体の編成固有部分が、
輪郭と規範の極大と極小の差異恒常にしていて、この差異
正常さという概念の本質に合致しているとみなすことができる。

この正常という概念はもっと違う言い方もできる。


感覚器官の働きが現実から退こうとはせず
内臓系の 心の働き跳出(表出)をさまたげられる過重な負担も受けない状態
だというように。



今度はこの正常の規定からまた逆に 精神の「異常」やその異常とは違った
異常としての「病気」を規定することができるに違いない。


 
 
 
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Post時間:2010-08-20 18:07:08
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異常」とは
感覚器官が 現実の一部に圧倒されて働きかけることをやめ
現実の欲求するまま
無意識のなかの衝動を抑圧させた状態 のことで、

病気とは 
感覚器官が現実に圧倒されることは異常とおなじだとしても、
現実に働きかけようとせずに、
内臓系の心の働きの内部分野に
新しく架空の現実をつくりあげ、
それを心の働きで
把握しようとしたり、感覚的に(幻覚的に)感受しようとしたり
関係づけようとしたりする
ことを意昧している。

このばあい新しくつくられた架空の現実は、
元の現実の 名残、記憶痕跡、表象などから素材をとってつくられるもので、
またつぎつぎに新しく変化し
じぶんを更新してゆく

それを把握しようとして 感覚器官の働きも 
架空の知覚である幻覚をつぎつぎにつくりだすこともあるし、
架空の意味づけに当る妄想にのめりこんでいったりすることもありうる。

そして新しく架空につくりあげた現実世界が、
ほんとうの現実にとって代る極限
まで行ったとき、
病気は完成された姿をみせる とおもえる。

異常ではそこまではいかず
新しい架空の世界が、
一日中遊びの世界に没頭しているままごと遊びや、
人形遊びの幼児たちの世界とおなじで

現実世界のおもかげをどこかで模倣し、それを宿している


 
 
 
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Post時間:2010-08-20 18:30:44
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 この 異常と病気の違いはもっとさきまでいうことができる。

 感覚系の働き現実の一部分から退いてしまうと、
すくなくとも感覚系と連結している内臓系の心の働きは、
負荷と感じるか、抑圧と感じるほかない。


これを解消するには、
心の働きが
負荷をよけて通るような通路をつくるか、
抑圧を無意識のなかに封じこめてもちこたえてゆくことになる。

これは異常ということに共通したヒトの状態にみられる基本的な型をつくる。


  病気のばあいの基本的な型は、
外界の現実にたいして感覚系の働きがすべて撤退してしまい、

その代りに
内臓系の 心の働きの分野に新しい架空の現実をつくっている状態
にたとえられる。

この新しい架空の現実に対応するように
新しい心の 働きがつくられる。

この新しい心はまた
架空の心の働きで、知覚としてでてくるばあいも、
妄想のような架空の意昧づけとしてでてくるばあいも、
正常なときに可能な 唯一の新しい架空の現実といえる睡眠状態の「夢」
の光景や意味づけの、秩序の無さに似た状態
になる。

重複、
 圧縮、
  脈絡の無さ、
     飛躍、
       中絶
等々。
これは病気という概念に新しい意昧を与えている。


 
 
 
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Post時間:2010-08-20 19:34:23
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 熱愛している対象を失ったとき
わたしたちは誰も悲哀にくれる。


この悲哀は心身をもぎとられたような喪失感からはじまる

錯覚であれ真実であれ、
感覚と心の動き、それに伴うエロス覚、
このすべてをあげて対象にむかっていた精神が、
その対象といっしよに失われ、回復できない空隙ができた との思いが、
この、もがれたような喪失感を裏づけるようにみえる。

悲哀はもっと深刻なところまですすんでゆく

フロイトの表現をつかえば
深刻な苦痛にみちた不機嫌、
 外界への興味の喪失、
 愛する能力の喪失、
 あらゆる行動の制止

などがつぎつぎに起ってくる
この状態になれば 
愛する対象がどんなもので、どうだったかとはかかわりなく
体壁系の感覚表現の障害と、
内臓系の心の跳出(表出)の障害それ自体が、
内向的にむかっているといってよい。

これは異常といえる心的な状態だが、
この悲哀の状態を異常と呼ばないことがあるとすれば、
時が経てば、しだいになだらかに回復して 悲哀が薄れるに違いない
信じられているからだ というにすぎない。

この悲哀は
メランコリー(鬱)と呼ばれている。


 
 
 
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Post時間:2010-08-20 19:41:09
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悲哀メランコリーとの違いは、フロイトによれば
自責や自嘲の形をとる自我感情の低下
があるか ないか だとされる。

フロイトのいうこの「自我感情の低下」は、
わたしたちの文脈に沿っていえばふたつかんがえられる。

ひとつは
正常な状態での 感官系の感覚の働きと 内臓系の心の働きが
ともに衰え、
平常な輪郭と規範の状態にくらべて衰弱し 萎縮してしまった状態
をさしている。

もうひとつは
感官系の働きが衰弱したため 
内臓系の心の働きは
じかに愛する対象の不在という現実を負荷され、
現実を 架空の心の状態に対応する幻想の現実につくりかえてとり込むため、
その幻想の現実分に席をゆずっただけ、
心の跳出(表出)は低下した
状態になることだ。


このどちらのばあいをかんがえても
重要なのはただひとつだとおもえる。


悲哀を異常だとして、
この異常は 愛する対象を失ったときにその対象が何で
それを失ったためにじぶんが失ったものは何かを
知っているかいないか
ということだ。

悲哀はそれを知っているが、
メランコリーでは失われた対象は何かは知っているが、
それによってじぶんが何を失ったのか は意識のなかには入ってこない

これは病気といえるものだ。
このことがなぜ重要かといえば、
悲哀とメランコリーの境界で
ぬきさしならない矛盾に出あうからだ。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 00:53:19
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ひとりの幼い女児がたまたま
妹や子どものように擬人化して愛玩していた人形をもって
道路を横ぎっているとき、トラックをよけようとして人形をとり落とす、

人形は車輪に榛かれてつぶされてしまう。

愛する妹や子どもを慄死させたのとおなじことで、
幼女は悲哀の状態に陥る。
あれは人形だからまた買ってあげるからと
母親や姉たちが説得しても幼女の悲哀はとりのぞけない


幼女の悲哀は異常というべきだが、
その異常は人形を擬人化して 生命ある妹や子どもと 等価な死と受けとめ、
悲哀にくれているのだ。

愛する対象が何であるか、
この幼女にとっては 愛する対象の喪失が
悲哀の異常を生み出したのだ。


この問題は もっと逆立ちして、
矛盾した例をみつけることもできる。
それは悲哀の病気、つまりメランコリーの領域といっていい。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 01:25:23
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ひとりの愛犬家の未亡人がいた。

彼女は愛する犬に人の名をつけ、
座敷内で飼って共棲していた。
或る日 この犬が 鍵のかかっていない留守中に、
外にとび出して彷徨しているうち、交通事故で死ぬ


女主人は悲嘆と喪失感からはじまり、
深刻な苦痛にみちた不機嫌、 外界への興味の喪失、
愛する能力の喪失、あるゆる行動の制止
を持続させ、そこから
回復するとはおもえぬ状態に陥ってしまった。


またその状態のなかで、あのとき鍵をかけ忘れなかったら
愛犬を死なせずに済んだという自責感から、架空の現実の意識を侵入させて
「自我感情の低下」をきたす。

それはフロイトのいうメランコリーの状態、
いいかえれば病気にひとしかった。



ところで不思議なことに女主人公は、
以前に愛する夫の死に出あって悲哀を体験したこともあるのだが、
そのときでも今度の愛犬の死ほど切実な悲哀にも
メランコリーの状態にも陥らなかった。


女主人は悲哀をメランコリーにまで陥没させた状態に
いたったことで、たしかに病気といってよかった。

しかし、ほんとうに病気だといえるのは、
愛犬のほうが(つまり家畜のほうが)
愛する夫(人間)よりも悲哀やメランコリーをよりおおく喚起できたと
いう普遍性
のなかにあるといえる。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 15:17:01
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 わたしたちはここで
異常と病気との逆説的な相違の条件 に直面している。


犬(家畜)を愛し共棲するとは、
愛犬を
無条件に反射的に愛した と 等価な愛の反応 が返されてくる状態
を意昧している。

その愛の表現は、
犬という種属の固有性に制約されるとしても
無条件的なことには変りない。

もし愛が
内臓系の心の動きの跳出(表出)と
体壁系の感覚的な接触のふたつの要素、
それに伴うエロス覚の対象への充たされた備給から成るもの だとすれば、


女主人公と愛犬のあいだの「」は、
わたしたちの文脈の「大洋」的な世界、
いいかえれば母親と乳(胎)児のあいだの感情の世界、
あるいはそれ以前
(それ以前があるとして)の世界と等価な
初源的な「愛」
になぞらえられる。

それは幼稚で単純ではあるだろうが
初源的で母型的な意味の強さをもっている。

女主人公と死んだ夫との愛は、
すくなくとも言語が「愛」の意識面を吸収した以後
相互的な「愛」の条件が合致したあとに成立したものだ。


愛の喪失や 愛する対象が失われ消失したときの悲哀とは、
言語が介在することなしには成り立たない。


メランコリーにまで陥没したとき、
はじめて「自我感情の低下」といっしょに、
悲哀は「大洋」面に接触するといえる。

わたしたちは
動物(生物)や「植物」にたいする「愛」と、
人間を対象とする「愛」との質的な差異が、(*言語の介在 引用者)
量的な差異に変換するときのメカニズムを、
悲哀の異常と病気から 逆に推論
することができよう。


 
 
 
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Post時間:2010-08-22 16:53:09
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自責や 自己非難 を伴った「自我感情の低下」は、
自責や自己非難のほうに重量がおかれるばあい、

愛する対象を失ったとき
その対象にたいする問責や非難をふくんでおり、
それが自身にたいする問責や非難転化されるため、
その分だけ「自我感情が低下」した
とかんがえれば、つじつまがあうことになる。



別の言い方をすれば、
自責や自己非難はそのまま
自己愛から「大洋」面に接触した自体愛の姿になって
病気は完成される。

そしてこの完成された病像では
愛する対象が自体愛的であったために
病像が自体愛的な姿をとる
とみなすほかないことになる。
「動物」(家畜)や「植物」にたいする愛は、これに類似している
とかんがえられる。




 
 
 
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Post時間:2010-08-22 17:09:29
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パラノイアいいかえれば
妄想が自己の被害に回帰することを主な症状にする「病気」が、
つよい同性愛的願望から由来していること、
そしてその願望を防衛しようとする反応から
妄想(追跡)が形づくられていくことは、
フロイトがシュレーバーの自伝的記述を分析しながら、
決定的につきつめたところだ。


フロイトがかんがえたのは
自体愛の過程と対象愛を択ぶ過程の中間
自己愛ともいうべき段階が長期にわたってあり、
しかもその段階を過ぎても 自己愛の痕跡は残ってゆく
ということだった。

この自己愛の時期は、
じぶんの性器に愛が集中される。
この段階のつよい残留力にひきとめられたものは、
じぶんとおなじ性器をもった対象に固執するため
同性愛を択ぶことになる と
フロイトはかんがえた。

彼はもうひとつ特徴のあることを述べている。

同性愛者が
じぶんの感覚的な倒錯につよい抵抗をもち、
その傾向を昇華しようと
文化的価値の高い事柄に 情熱的に力を傾ける ことが、
とくに多い
と指摘していることだ。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 17:30:10
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ここで述ぺてきた文脈ではフロイトのいう
自体愛(Autoerotismus)とは
「大洋」感情の波をさしていて、

母親に潜在している自己愛か、
または
乳(胎)児の受動的なエロスと生命の未分化な起源
からしかやってこない。

そして
母親に潜在する自己愛が圧倒的なことは
滅多にかんがえられないとすれば、
乳(胎)児がおかれた
エロスと生命の未分化な状態
にしか 自体愛の根拠は求められない
ことになる。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 18:37:24
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母親は
海の雰囲気自体であり、同時にその雰囲気のなかに
男性的(乳〔胎〕児にとって)な器官である乳房をもって
存在している。

また乳(胎)児は
男児も女児も、ともに
女性的であるほかに生命を維持していけない


この
「大洋」の世界における
乳(胎)児の自体愛まで 退行
することができれば、
同性愛的欲求が主要な座を占めることができる
とみなされる。

そこでフロイトが
段階としてかんがえた同性愛の欲求は、
思春期以後における
性愛の「大洋」期への退行
としてかんがえることができるはずだ。

ただ成人では、
乳(胎)児が
エロスと生命の未分化としてもっていた自体愛の傾向は、
異性愛と同性愛の
二重性としてあらわれる
ことになる。

同性愛者が
この二重性のうち同性愛をとくに選択したり、
主な傾向として同性愛に固執したりするのは
「大洋」期に、
母親が充分な男性的なエロス覚を 乳(胎)児に与えなかった
ためだ、
とみなすことができよう。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 18:55:15
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 同性愛的な欲求がどうして妄想を形づくることができるか

については、フロイトは
充分に異論の余地がない見事な解釈を与えている。
フロイトの言い方に沿っていえば、


同性愛の機制を男性を例にとって

公式私(一人の男性)が、彼=他の一人の男性を愛する

によってあらわすとする。
これはすぐに反対機制で、

私は彼を愛さないまたは私は彼を憎む
におきかえることができる。

命題私は彼を愛する」も、
命題私は彼を憎む」も、両価的だから、
どちらが投影されたとしても
彼は私を愛する」または「彼は私を憎む

という機制が表出され展開されることになる。
これは
愛(憎)によって
「彼」「私」 を 追跡してやまぬ妄想を形づくることに
つながってゆく。

 
 
 
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Post時間:2010-08-22 22:47:13
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  たまたまこの「私」がタクシーに乗ることがあった。
タクシーの運転手がハンドフォンをとって
じぶんの勤めるタクシー会社に
「これから何々(地名)へ向います」と連絡した。

「私」は 運転手が警察に「私」の所在を知らせたのだ 
との妄想を発展させ、
「私」はどこにいても追跡され監視されている
と思いこむ。



愛するも憎むも、いわば
内臓系の心の跳出(表出)に関わっているのだ。



パラノイアを「大洋」感情への退行としてみれば、
愛するも憎むも自体愛(憎)であって、
現実の対象を必要とはしない


この言い方に語弊があるとすれば、
対象が母親、
あるいは誰でもいい
 とかんがえてもおなじで、
許されることになる。


そこで
運転手であれ偶然の通行人であれ、
追跡(被害)妄想の相手になるためには、
たまたま彼の眼ざしにとまる(注意のまとになる)
だけで充分なこと は申すまでもない。

また、追跡(被害)妄想で
「私」を追いかけ、害を加えようとしているのは、
かつて「私」が愛した「彼」だ

ということはいうをまたない。

 
 
 
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Post時間:2010-09-12 04:36:53
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 追跡妄想から誇大妄想への転帰は、地続きのようなものだとみなされる。

妄想のなかの追跡者が パラノイアの病気では、
かつてじぶんの愛した者であるかぎり、
愛した者はどんな(優れた)人物であることもできれば、
たまたま読んだ本のなかにあらわれる歴史上の偉人であることもできるはずだ。

そうだとすれば 
優れた偉人から追跡されるじぶんもまた優れた偉人であって当然なことになる。
ここには 誇大妄想の原像 ともいうぺきものが見つけられる。


最近わたしが読んだある宗教家の本に、
この 宗教的誇大妄想 の典型的な病気があらわれていた。

彼は憑依の状態でつぎつぎに偉大な歴史上の人物に乗り移られ、
その託宣を蒙っているうちに、逆に
じぶんがそれらの歴史上の人物に乗り移り、それを支配し指導した時期があった

と信ずるようになる。

歴史上の人物が時代をとび越え、じぶんに乗り移ることができるかぎり、
じぶんもまた時代をさかのぼって歴史上の人物に乗り移ることができるはず
だ、
ということになる。
そこには典型的な宗教的パラノイアの例が示されていた。

 
 
 
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Post時間:2010-09-12 05:49:43
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このような宗教的誇大妄想が伝染性(伝道性)をもっているのはどうしてだろう
これこそがほんとうに重要な課題であるのかもしれない。


これにはいくつかの理由をあげることができそうにおもえる。
いちばん大きな理由は、


誇大妄想が
その宗教者を じぶんが同一化した偉人や
書物の記述のレペルにある
切迫感や切実感を伴って引き上げているため、
それだけの影響力を架空につけ加えられ、そのため、
疑似的な魅力があるのだ。


またもうひとつまったく対照的な理由もあげられる。

宗教的なパラノイアが
じぶんを追跡するものは誰でも注意を注いだものでありさえすればいい
とみなしているように、
信者はまた 宗教者の被害妄想を投射され、
じぶんのほうでもその宗教者の説くところに
いつでも愛される機制を見つけだすことができる
ことになる。

ただ待ちのぞんでいるものがあるかぎり、
信者の可能性は開けているのだ。


 
 
 
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Post時間:2010-09-12 07:03:02
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 フロイトは被害妄想について追跡妄想とまったくおなじ機制をかんがえている。

「私はを愛しているのではない」は、性的におきかえられ
「私は彼女を愛しているのだ」に転化され、つぎに追跡妄想とおなじように、
彼女が私を愛している」に逆転される。

この逆転の契機は
受動性、いいかえればいつも「愛される(……される)」という
パラノイアの根本的な図式にあるとみなされている。


この機制は男女の三角関係の嫉妬妄想にもあてはまる

彼女が「私」と
「私」の親しくしている「彼」とのあいだに大なり小なり両価的な関係をもっている。
そこで「私」が
彼女と「彼」とのあいだに嫉妬を感じることがあるのは、
いわば正常な機制に属している。

その正常さは
彼女は「彼」を愛しているのではないかという
「私」の疑念からやってくる。
あるいは逆に「彼」は彼女を愛しているのではないかでもよい。


この 嫉妬感情が妄想的な領域でありうるのは、
この正常さの中間に
「私」と「彼」とのあいだの同性愛願望が潜在しながら、
彼女はじぶんより「彼」を愛している、あるいは
「彼」はじぶんが彼女を愛しているのを知りながら
「彼女」をじぶんから奪おうとしている
とかんがえるときだといえよう。

このばあい、ほんとうに重要なのは、
「私」が「彼」に同性愛的な願望をもっていて、
それが「私」の彼女にたいする愛よりもつよい
あるいはその愛をひきもどすほどの大きさをもっているのに、
彼女と「彼」のあいだの愛情の問題に転化されているということだ。




この観点からすれば、たとえば漱石の『行人』の一郎が
妻と弟の二郎との関係というよりも
妻が弟二郎にたいして愛をもっているのではないかと疑い、
妻と二郎を一夜、和歌山の宿にいっしよに泊るよう仕向ける

この物語が成り立った根拠は、
一郎の二郎にたいする同性愛的な愛(憎)が、
妻にたいする嫉妬や疑惑としてあらわれたから
だ と解することができる。
『こころ』の「先生」が、
友人が下宿先の未亡人の娘を好きなのを知りながら、
友人を出し抜いてその娘との結婚をとりつけ、その行為が
「先生」の生涯の罪責感になって明治の終りとともに自殺する物語も、
おなじように
「先生」の友人にたいする同性愛的な性向がなければ成り立たない。

 
 
 
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パラノイアは
同性愛の願望を原衝動として潜在させながら
男女の関係を形づくるとき、妄想をつくりあげる病気を意味している。

この同性愛の願望が異性愛の願望と同等であっても、
また異性愛を超えるものであっても、病気ではなく正常だといえる時期がありうるとすれば、
わたしたちの文脈でいう「大洋」の時期
(*胎・乳児期_引用者)のほかはありえない。

そこでは同性愛も異性愛も
ともに自体愛の自在さに同一化してかんがえることができるからだ。
対象にたいする注意の過剰がそのまま妄想を形づくることができるパラノイアの病像は、
この「大洋」期では成り立ちようがない。
注意が過剰であっても過小であっても、
そこでは母親のほかに対象になるものは存在しない
からだ。


 
 
 
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 パラノイアは愛だけにかかわっている病気といっていい。


だが現在まで分類されたどんな妄想形成をかんがえてみても
正常と異常と病気の境界をきめることは、ほんとうは難しいといわなくてはならない。
むしろ不可能というべきで、
「愛する」 という対象的な心身の行動 の全体を病気へ至る道
とみて、妄想形成の過程をかんがえるほうがよいとさえおもわれてくる。

そして
妄想を剥離してゆくために人間は生涯を費やすように出来ている
という言い方もできる。








                   (*了) by引用者
 
 
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第6章 病気論Ⅱ は分裂病に関する考察です。

なお原文には章数はありません。
 
 
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最終更新:2015年05月14日 04:57