ロロ・メイ[わが内なる暴力] ロロ・メイ著作集3 . 2009年08月11日(火) 17:17 No.00001
ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)訳:小野泰博 誠信書房
(発行:昭和55年) 借り先:公立図書館 *=引用者による補、それ以外の()部分はオリジナル
第一部第一章 狂気と無力感 ロロ・メイ著 2009年08月11日(火)
17:19 No.00002
『権力』というコトバは、ラテン語のPosse
つまり「~ができる」という意味に由来する。
赤ん坊がこの世に生まれるや否や、母乳を求めて泣き、
かつ腕を振り回すなどのさまざまな形で、
そのパワーを出現させるのを見ることができる―
―人間存在における他者への働きかけ としての
協力的・愛情的な側面は、
対抗(coping)と権力の側面と手をとりあってゆく。
およそ生の満足のあるところ、そのいずれをも無視できない。
大地への感謝や、仲間の支持が得られるのは、
われわれが権力(*パワー)を放棄することによってではなく、
そうした権力(*パワー)を、協力的に利用することによって得られる。
 ̄ ̄ ̄
抗しがたい必然性に対抗できる幼児の能力は、
成長するにつれて自尊心(self-esteem)保持のための戦いと、
人間としての存在意味を求める戦いになってゆく。
認めてもらいたいという叫びは、
基本となる心理学的な叫びになってゆく。
すなわち、私は、自己主張できることによって、そこに意味をもたせ
意味を「創造」するこの世の中で
「われここにあり」という自己主張ができなければならない。
しかも私は、
この戦いにたいする自然の側のとほうもない無関心に直面して
これを行動に移さねばならない。
第一章 狂気と無力感 (*無力感) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火)
21:54 No.00003
私は、権力というものを、われわれの敵に適用さるべきものといった
誤った表現としてのみ扱う立場を離れ(即ち、敵は権力に駆られているが、
当方は慈悲と理性と道徳によって動かされている、といった言い方)、
それ(*権力)を
生命課程の基本的側面を述べたもの としてとりあげる。
人間生活の大部分は、
一方では権力
(即ち、他者に影響を与え、重要な対人関係の場で自我感を確立してゆく効果的な方法)、
他方では、無力性との間の葛藤として見られ得る。
この感情(無力感*)をシュレジンガーは
『絶えず他者に取り囲まれ、つきまとわれ、追跡されている気持ち』
と書いている。
またモーゲンソーは、政治的なコメントを与えている。
『何世紀にもわたって、
それを得るために人間の戦ってきた多数決のルール(majority rule)は、
つぎのような状態を生み出してしまった。
つまり、150年前に較べて人間はいよいよ無能化し、
自分たちの政府に影響を与えがたい状況になってきている』
以下われわれ個々人の身に覚えのある無力感をとりあげてみよう
―われわれは多くの人に影響を与えることもできない、
―もはや自分は物の数ではないどうでもよい存在だ、
―自分たちの親がその生涯をかけてきた価値は
われわれにとっては実体のないものであり無価値なものである、
―自分自身他の人々に対し意味のない『顔のない他者』であると感じとっている、――
自らが自分自身にとっても無意味なものに感じられるということ、
実際これらのことは認めたくないことである。
第一章 狂気と無力感 (*暴力の基盤) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火)
22:05 No.00004
(アメリカで*)捨て去られつつある価値を二つあげると、
自己-確信(self-affirmation)と
自己-主張(self-assertion)である。
われわれは、自分の無力感をおおいに増大させ、
暴力噴出の場を設定しつつあるのである。
暴力の育つ基盤はほかでもない
無気力(impotencet)とアパティ(apathy=感情的鈍磨、無関心)である。
人々を無力化することは、
暴力をコントロールするよりも むしろ、それを増進させる。
現代社会における暴力行為は、主として
自分たちの自尊心を確立し、自我のイメージ(self-image)を防衛し、
自分たちもまた意味のある存在であるということを
他に示そうとする人たちによって遂行されるのである。
それらはなお、
積極的な人間関係をとり結びたいという欲求のあらわれたものである。
暴力は、力の過剰から生まれてくるのではなく、
無力性のゆえに生まれてくるのである。
第一章 狂気と無力感 (*具体例-ハナ・グリーン) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火)
22:39 No.00006
「ハナ・グリーンが自分の分裂病体験をもとにした『デボラの世界』を見ると
(16歳の*)彼女は素直で、おだやかさそのものであって、全然怒りを示すようなことはなかった。
彼女は、その必要があるときにはいつでも、
私的な霊界の神話へ引き上げてゆき、
神話的人物と話をしていた。
彼女を治療していた精神科医フロム=ライヒマン博士は、
この神話を尊敬の念をもって扱っており、
ハナに対し、少女にとってそれが必要なかぎり、
とり去ってはならないということを断言している。
(*ところが、博士の夏休み中、彼女を担当した)若い医師は、快活で勇気のある人であったが、
神話的世界を破壊しようとしたのである。
その結果は悲惨なものであった。
暴力の爆発によって、患者は自分自身とロッジ(治療所*)にある自分の所有物に点火し、
生涯にわたる傷跡をのこしてしまった。
若い医師の誤りは、
その神話がハナの存在に意味を与えているものである
ということが解せなかったということである。
-------------------------- 問題はその(*ハナの)神話が正しいか間違いかではなく、
彼女にとってその神話が果たしている機能のことである。
どんな攻撃的な行動も不可能に見えたこのおだやかな患者は、
素直な状態から、全くの暴力に揺れ動いたのである。
これは病院の付添人にとっては、
暴力のように見えかつそのように感じられるかもしれない。
しかしそれは疑似暴力(pseudo power)つまり、
無能力が別の形で表現されたものである。
この患者は今日では『狂気』の沙汰のように扱われるかもしれない。
そのことは
彼女が現代社会で受け入れられている基準に合わない、
ということを意味するのである。
つまり、
現代社会はすべての社会と同様、
素直で、おだやかな『顔』を好んでいるのである。
理解しておく必要のあることは
暴力は、
抑圧された怒りや激怒の最終結果 であって、
患者の無力感にもとづく、永続的な恐怖 とむすびついていることである。
この狂気という疑似暴力の背後には、応々にして、
何らかの生きる意味、
つまり、
他人と違う自分を認め、なんらかの自尊心を確立する方法を見つけようと
格闘している人物 がいるのである。
第一章 狂気と無力感 (*具体例-プリシラ
1) ロロ・メイ著 2009年08月11日(火)
22:57 No.00007
「若い音楽家プリシラ―彼女のロールシャッハテストを行った者によると
彼女は『片足を分裂病にかけ、片足をバナナの皮の上に置いていた』
彼女は決して腹を立てることができなかった。
彼女の自尊心は弱々しく、漠としてほとんどなきに等しいものであった。
しばしば経験したことであるが、
性的にも金銭的にも自分が喰いものにされるようなとき、
彼女は防ぎようもなく、それ以上のことについてはだめ、
という線を引くすべを知らなかった。
また自分を支える怒りを全然もたなかった。
(このような人間は、他人の喰いものになりやすい
-少なくとも、そうすることによって、
なんとか他人との人間関係や存在意味を保っているものと思われる)
腹を立てることができないことと並んで、
それに伴う必然的な結果として、深い無力感、それに、
人間関係において他人に影響を与えるなり、働きかける能力を
ほとんど完全なまでに欠いていたのである。
しかし、多くのボーダーライン患者を治療してきてそう思うようになったが、
このような人物は全く別のもうひとつの面をそなえている。
プリシラの見た夢
―切り裂いてカバンに入れられた身体の夢、血と闘争の夢―
は、彼女の意識面の生活が従順であるだけに、夢のほうは暴力的なものになっていた。
われわれは、精神病患者には共通の特徴があり、
その人達の無力感、
それと平行するものが慢性的不安であり、
これが無能力感(impotence)を生む原因であり結果であることを知っている。
-------------------------------------------------------------------
ある思春期の少女は、
昼の日中にたが入りのペチコートを着けたイブニングドレスを着て私に診てもらいに来た。
彼女にしてみれば、
どれほど自分が私の注意や関心を必要としているかを示すジェスチャーとして、
おそらく彼女の持っているもっとも美しいものの一つを身につけて来たのであり、
それは場所柄を心得ぬものであるとみなされそうだということなど、
とんと気づいていないのである。
プリシラのような人物は、こうした生き方をもはや支持できなくなるとき、
彼女の中で何ものかが音をたてて崩れていき、
狂気以外の何ものでもない状態に移ってしまうのである。
その時の人格は、いままでの彼女とはまったく正反対のものになったように見える。
プリシラの見た夢のように、夢のなかの暴力が覚めた生活の内容となる。
その人格は全く狂気のように見える。
彼女自身を含めて、
狂気が日常化してくると、人はおびえるなり自殺を企て、
手首を切り、血を病院のドアになすりつけるが、
これは付添人やインターンを、自分がどれほど必要としているかを
劇的に示すためである。
彼女は、自分自身をはじめ、
自分の投影のきく範囲内のものに対し、
はっきりとした暴力を示す。
第一章 狂気と無力感 (*具体例-プリシラ
2) ロロ・メイ著 2009年08月12日(水)
00:36 No.00026
「彼女(プリシラ)は、人間が生きてゆく上にきわめて重要な何かを語っていた。
つまり人間は
『自分の言うことを聞き、認め、知ってくれるだれかを必要としている』
ということである。
これによって、人は、
自分は大事なのだ、
自分は人類のひとりとして存在しているのだ、という自信を与えられるのである。
プリシラが私に向かって腹を立てることができた日というのは、
記念すべき日であった。
そのとき彼女は、
広い世間のなかでの他人との接触場面で、自分を防衛でき始めたこと、を
私は承知したからである。
彼女は、
人を愛しうるとともに、
独自性を持った他人からも愛される人間としての自分の能力を
進んで発揮できるようになった、ということである。
|