40.【どうか】【泣かないで】
 
泣き疲れるなんて、何年ぶりだろう。おなかに鈍い痛みが滞っていて、力が入らない。
半身を起こす程度でさえ、恥を忍んで水銀燈先輩の手を借りたほどだ。
しゃくりあげながら鼻をかむ私の背中を、先輩は何も言わずにさすってくれた。
 
「ありがとです。……案外、優しいですね」 
言った後で、案外は余計だったと首を竦めたが、幸い、先輩の折檻はなかった。
酸性雨のようにチクチク滲みる辛辣な言葉は、容赦なく浴びせられたけれど。
 
「バカみたぁい。いつまでも子供みたいに泣き喚いちゃって、ほォんと鬱陶しいわねぇ」
「でも、私……人を傷つけてしまったです。ケンカは嫌いなのに、ついカッとなって……」
「だから、バカだって言うのよ。貴女だけに非があるなんて、誰も思ってやしないわ」
 
だとしても、罪は罪。社会的にも、相応の罰を受けねばなるまい。
退学――の二文字が頭に浮かび、失笑を禁じ得なかった。入学式も迎えずに、退学。
水銀燈先輩の口癖じゃあないけれど、ホントに、バカみたい。
 
実際問題、私の処分はどうなるのかな。情状酌量で、執行猶予がついたりする?
できることならば、退学処分になっても、ここの管理人を続けたいけれど……。
 
そんな私の思考は、部屋のドアをノックする音に妨げられた。
「だぁれぇ?」先輩の誰何に、ドアが返事代わりの微かな軋みをあげる。
訪問者は、のりさん。絶えずハンカチを当てている目元が、赤く腫れていた。
 
「本当に、ごめんなさい」震える声で言って、のりさんは深々と頭を下げた。
ジュン君を、どうか許して欲しい、と。先に手を出したのは――謝るべきは、私の方なのに。
 
「もう泣かないでくださいです。のりさんに悲しまれたら、私も辛くなるですから」
そう告げた私に、彼女が返した言葉は、やっぱり「ごめんね」だった。
本当に、懐が深くて、気心の優しい人だ。それに引き替え、弟ときたら!
こんなにいい人を悲しませる桜田ジュンに対する憤りが、私の中で再燃しだしていた。
 


 
 41.【春風に】【吹かれて】
 
クサクサした気分を変えたくて、お洗濯をしようと思ったら……洗剤がなくなっていた。
誰かが使い切って、そのまま補充し忘れたのだろう。まったく困ったものだ。
女所帯だから、こまめに片づけているなんていうのは幻想で、実際はだらしなかったりする。
特に、水銀燈先輩はストッキングを無造作に脱ぎ捨ててたりして――まあ、それはともかく。
 
折角だし、どうせ気分転換するのなら、散歩がてら買い物してみよう。
近所のホームセンターに行けば、洗剤の品数も豊富に取り扱っているはずだ。
そんな思いつきから、穏やかに吹き抜ける春風の中へと、歩を進めた。
 
「あ、そう言えば、ティッシュも無くなりかけてたですぅ。シャンプーも」
 
私は髪が長いので、どうしても整髪料を他の人より多く使う。
だからって、今日明日にも蒼星石なみにバッサリ短くする気なんか、更々ないけれど。
「ふーむ。いろいろ買い揃えたら、荷物が持ちきれないかもしれないですね」
 
誰かに手伝いを――と思うが早いか、庭先で適任者を発見。
せっせと何か拾い集めているチビ苺に、私は声をかけた。「なにしてるですぅ?」
 
「あっ、これ? きれーな色の花弁だから、貼り絵するなのよー」
いたずらな春風が、どこからか運んできたのだろう。それは、桜の花弁だった。
チビ苺は訊いてもないのに、絵画の創作が趣味で、よく描いているのだと語った。
 
「翠星石は、どっか出かけるなの?」
「ええ、ちょっと買い物に。一緒に行くですか?」
 
誘うと、チビ苺は「行く行くー!」とはしゃいだ。
こちらの思惑も知らないで……この人懐っこさはホントに、子犬みたい。
店までの道すがらも、チビ苺は、あれやこれやとキャンキャン話しかけてきた。
それを煩わしく思う一方、ささくれ立った感情に不思議な潤いを覚えていたのも、また事実。
こういうのも悪くない。春風に吹かれながら、私は、安らいだ気持ちになっていた。
 

 
 42.【アシタ】【晴レタラ】
 
礼節を重んじることは大切だ。殊に、集団生活の場においては。
そう。頭では解っている。実行できるかどうかは、また別問題として。
 
「――と言うワケなのですぅ」
「へえ……」
「なんですか、ばらしー。その『どうでもいい』っぽい態度は。私は真剣に悩んでるですよ」
「……頭痛が痛い?」
 
目下のところ私を悩ませているのは、桜田ジュンのこと。
本当は、顔も会わせたくない。ましてや、会話なんて。
でも、私心は別として、一度はお詫びにいかないと、とは思っていた。
のりさんと顔を合わせるたびに気まずい想いをするのは、もう嫌だから。
 
――で、結局は、いつもの展開。この引っ込み思案には、我ながらヤキモキさせられる。
いっそ直情的に行動できたならば、どんなにか気楽だろう。
あるいは、強力な後押しで、なし崩し的にコトが運んでくれたなら――
そんな安易な発想から、薔薇水晶に相談してみたのだけど。
 
「さっきっから、気のない返事ばっかりじゃねーですか! 真面目に聞きやがれですぅ」
「そう言われても……共感できないし。私なら、悩む前に行動する」
 
確かに、薔薇水晶は『思い立ったらまっしぐら!』な、羨ましいほどにポジティブな娘だ。
うだうだ言うばかりで動かない私を、薔薇水晶も間怠っこしく思っているに違いない。
しかーし! できないものは、できない。恐怖心を克服するキッカケがない限りは。
 
「おk……それじゃあ、こうしたら? 明日のお天気で……決める」
薔薇水晶は私の鼻先を指差して、言った。「誓って。必ず、宣言どおりにするって」
 
いいかもしれない。「じゃあ、晴れたら謝りに行くです!」
私は声も高らかに宣誓した。実はインターネットの天気予報で、明日は雨だと知ってたけどね。
 

 
 43.【ばーか】【ばーか】
 
翌朝――起きるなり、私は目を見開いてしまった。
天気は、恨めしいまでの快晴。どこが雨なのかと問いたい。小一時間、問い詰めたい。
気象庁にクレーム入れる前に、状況証拠を揃えるべくインターネットで確認すると、衝撃の事実が!
 
「……違う地域を見てたですぅ。あぁもう、なにやってるですか、私のバカバカっ!」
 
頭を抱えて屈み込んでいると、ドアが軽やかにノックされ、「おはよ。晴れたね」と。
ニタニタ笑いの薔薇水晶が顔を覗かせた。「これも……天運」
 
「わ、分かってるですよ! 乙女に二言はねーですぅ!」
「その意気、その意気……頑張って」
 
指先だけで、ぱちぱちと拍手する薔薇水晶。
この娘は、この娘なりに、私を励ましてくれているのだろう。
まあ、とりあえず朝食が先だ。おなかが減っては24時間戦えないリゲインの法則。
そのついでに、ジュンが在宅かどうかを、のりさんに確認しておこうと思った。
 
 
――で、私は今、桜田邸の前にいる。意を決してドアホンを鳴らすが、応答なし。
いるのは判っているので、諦めずに鳴らし続けていると――「誰だよ、うるさいな!」
不機嫌さも露わなジュンが、ドアを開けて顰めっ面を現した。
 
「あっ、おまえは!」
「ひぁっ! あああ、あのあの……えっと、こここの前の……私、はな、はながしがっ」
「……はあ? とりあえず、あがれよ。こういうの、あんまり人目に晒されたくないんだ」
 
とは言っても、家にあがれば、こいつと二人きり。なにをされるか、分かったものじゃない。
今更ながら、のりさん同伴でコトに臨めばよかったと悔やんだけれど、もう遅い。
 
ここまで来て引き返すのも癪だ。スケベなことされそうになったら、花瓶でドタマかち割ってやる。
うっし! ややもすればカクンと折れてしまいそうな膝に気合いを入れて、私は歩を進めた。
 

 
 44.【きっと】【笑っている】
 
ジュンは相も変わらず不機嫌そうに押し黙ったまま、私をリビングまで先導してくれた。
 
「座って待ってろよ。なにか、飲むもの用意してくる」
「お構いなくです。長居する気なんか、端っからねーですから」
 
ぶっきらぼうな命令口調にカチンときて、つい、険のある言い方をしてしまう。
それを受けて、ジュンも険しい顔をしたけれど、声を荒げることなく私に背中を向けた。
 
ソファーに腰を下ろして、溜息。謝罪に来ていながら、口喧嘩を吹っかけるなんて、どうかしてる。
なんで、私はこんなにイライラしているの? 自分の心が解らない。
自覚できないナニかが、私の心境に化学変化を及ぼしているだろうか……。
 
ややあって、ジュンが小ぶりなトレイを手に戻ってきた。
二つのマグカップは、何の変哲もない緑茶で満たされ、湯気を立てている。
お茶請けとして、市販のビスケットとクッキーが、銘々皿に取り揃えられていた。
 
「まあ、飲めよ。毒や薬なんか入れてやしないからさ」
「……別に、そんなこと、心配してないです」
 
マグカップを手に取り、口に運ぶ。それを少しだけ啜って、思わず顔を顰めてしまった。
とんだ出涸らし! 風味も抜けきってるし、こんなもの、お茶じゃない。ただの、黄緑色のお湯だ。
さては、この間の意趣返しのつもりかと思いきや……
ジュンは平気な顔で、メチャ不味い着色湯を飲んでは、クッキーを囓っている。
 
恐るべき味覚オンチ。……と言うか、食への拘りが、ジュンからは感じられなかった。
あるいは万事が、そうなのかもしれない。この人は、人生にさえ拘りを持ってない気がする。
だから、いつだって、つまらなそうな顔をしているのだ。
 
たったひとつでも揺るぎない自負を見つけられたなら、きっと笑っていられるだろうに……。
のりさんのためにも、それを一緒に探してあげたいけれど、私には難しいかもしれない。
 

 
 45.【君の名に】【咲く】
 
なにはさておき、当初の用件を済ませてしまおう。
私は気を取り直して、居住まいを正すと、額が膝に届くぐらいに頭を下げた。
「先日は酷いことして、ごめんなさいです。火傷まで負わせてしまって――」
 
「ああ……話って、そのことか。謝らなくたっていいよ、別に」
こちらが拍子抜けするほど呆気なく、ジュンは言った。
「僕にも非があったしな。言い過ぎたと反省してる。悪かった」
 
あれ? なんだろう。この前のピリピリした感じとは、雰囲気が違う。憑き物が落ちたような穏やかさだ。 
訝しげな私の目つきを察知したらしく、ジュンは気まずそうに目を伏せた。
 
「なんて言うか……いきなり未知の領域に連れてかれたんで、テンパってたんだよ。
 あのアホ姉貴にしつこく勧められてて、苛ついてたのもあったけどさ」
「それなら、今日は違うですか?」
「住み慣れた家だからな。ホームグラウンドなら、気持ちにも、ゆとりが生まれるさ。
 もっとも、うるさいアホ姉貴がいるから、安息の地とは言い難いけどな」
 
なんとなく、得心がいった。たぶん、ジュンは他人より少しだけ理想家肌で、ナイーブなのだ。
高望みや社会的な名声を欲してはしても、傷つくのを恐れて一歩を踏み出せないタイプ。
もしくは、もう胸の奥に深い傷を負っていて、痛みのあまり動けないのか。
必死に虚勢を張って、自分の周りを防護壁で固めてしまおうとするあたり、後者のような気が、しないでもない。
 
「大学は、夜学だと聞いたです。そこは、居場所じゃねーですか?」
「違うな」電光石火の即答。
「それを期待して進学してみたけど、なにか違うんだよ。僕の居場所は、もう現実になんか存在しないのかもな」
 
その唾棄するような物言いに、私は危うさを感じた。極限まで引き延ばされ、切れる寸前のゴムを想って、胸が騒いだ。
よくないことが起きる予感。このまま、放置しておいたらいけない。
別に、ジュンなんて、どうでもいいけれど……こいつの名に不名誉な徒花が咲けば、のりさんが深く悲しむ。
だから――私は膝を進めた。のりさんのためにも。
 

 
 46.【お願い】【忘れないで】
 
「じゃあ、どこなら居場所になるですか」
 
訊いた私に返されたのは、言葉ではなく、無気力で弱々しい笑み。
ジュンは大仰に肩を竦めた。「樹海……とでも言って欲しいのかよ」
 
また、ひねた受け取りかたをする。いったい、なにが原因で、こんなにも性根が捻れてしまったのだろう。
それについて更に疑問を投げ返すと、今度は微かな怒りを孕んだ視線と声が、私にぶつけられた。
 
「なんなんだよ、おまえ。ウザイな……。もう、ほっといてくれよ。
 くだらない説教なんか聞きたくないね。用が済んだのなら、もう帰れって」
 
ジュンの陰湿な想念が、前のめりになっていた私を押し戻す。正直、近寄りがたい。
少しはマシな人かと見直しかけていたけれど、ただの誤解だったらしい。
根が腐ってしまった樹は、もう救いようがない。緩やかに枯死するのを待つだけだ。
 
「……そうですね。お邪魔したです」
ソファーから腰を浮かせる。しかし、そこで、私の中の負けん気に火が着いた。
帰れと言われて、素直に従うことへの反撥。多少なりとも言い返してやらないと、気が済まなかった。
  
「だけど――変わろうとする気持ちは、忘れないで欲しいです。
 いつか、居場所が見つかるといいですね。じゃあ……アバヨです」
「余計なお世話だっての。もう来なくていいからな」
 
背中に、弱々しい呟きが届いたけれど、私は振り返らなかった。
ジュンも、それは望んでいないだろうと思ったから。
そう。私は気づいていた。この人は、どこか私と似ている。
引っ込み思案な性格とか、ペースを乱されると弱い点とか、素直じゃないトコロとか。
もしかしたら……さっき感じた私のイライラは、同族嫌悪だったのかもしれない。
 
心の裡で、私は繰り返した。前に進もうとする気持ちだけは、忘れないで――と。
 

 
 47.【ヘドロが】【降り注ぐ】
  
桜田邸からの帰り道、私はジュンのことを考えていた。
どうして、あんなにも鬱ぎ込んでしまったのか……その理由が知りたかった。
彼は、なにから逃れようとして、小さな世界に閉じ籠もってしまったのだろう。
 
周りが優しくなかったから?
たぶん違う。そもそも、取り巻く全てが苛烈だったら、大学に行く気になどならないだろう。
のりさんを始め、家族は今でもジュンの味方なのだ。
 
――なんて考えつつも、的を外しているなとも思う。
優しいとか厳しいとかの単純な理由ならば、この問題は、とっくに解決していたはずだ。
しかしながら、今だにジュンは居心地の悪さの中で、悶々と生きている。
 
 
やおら、異臭に鼻を衝かれた。そよ風の不意打ちに、私の思考が中断される。
今更ながら、私はドブ川の側道まで戻っていたことに気づいた。有栖川荘までは、もう遠くない。
 
にしても、酷い臭いだ。春先でさえ窒息しそうなのに、真夏なんて、どうなるのかしらん。
フェンス越しに覗けば、毒々しいとしか形容し得ない澱みが横たわっていた。
両岸ばかりか、水底さえもコンクリートで固められてしまった小川の、死骸だ。
動きを止めた腐り水から、ぽこり、ぽこり……得体の知れない気泡が生まれている。
不気味に隆起するヘドロには、およそ生き物の息づかいなど感じられなかった。
 
ヘドロは、自然界が処理しきれなかった栄養分の、なれの果て――
ふと、私の中に閃くものがあった。彼を腐らせているのは、与えられすぎた優しさなのではないのか、と。
さっきの短い会話からも、彼が、のりさんを疎ましく感じている気配は伝わってきた。
 
ジュンは、気づいていたのかもしれない。
自分の居る場所が、消化しきれない愛情のヘドロに埋まりつつある事実を。
大学に進んだのも、ヘドロの溜まり場から逃れたいがためで……
その試みの達成を願いながら、私は、ヘドロが生み出すあぶくの群れを眺めていた。
 

 
 48.【あの橋の】【向こうで】
 
「こんなところで、道草を食ってらしたのね」
 
不意に間近で話しかけられて、私はビクンと身体を震わせた。
どうやら、ヘドロの溜まりを眺めている間に、すっかりドロロの脳髄になっていたらしい。
我に返ってみれば、雪華綺晶さんが腰に手を当てて、呆れ顔をしていた。
 
「暢気ですこと。先程から、白崎さんがお待ちですわよ」
「はい?」
「はい? じゃなくて――」むぎぎ……と、雪華綺晶さんに、頬を摘まれた。
「今日が、理事長に回答する期限の一週間でしょう。もしかして、忘れてましたの?」
 
言えない。すっかり忘れてたなんて、口が裂けても言えない。
けれど、沈黙は肯定と同じ。私は雪華綺晶さんに襟首を掴まれ、引きずられていった。
――が、ドブ川に架かる小さな橋を渡った、まさにその時。
 
「あ! ちょ、ちょっと待ってです! 待ってってば! お願い!」
 
慌てて雪華綺晶さんを止め、私は渡ってきたばかりの橋の向こうに目を遣った。
そこには、全速力で追いかけてきたのだろう、肩で息をするジュンが立っていた。
 
私たちを隔てる川。川や辻は昔から、現世と異界の境界とされてきた。
ふたつの世界を繋ぐのは、橋。川を渡る――かわる。もうダジャレでも言霊でも、どうでもいい。
私は、橋の向こう側へと、手を差し伸べていた。
 
「来るです、ジュン! 居場所は、きっと見つかるですよ! 私も手伝ってやるですから!」
 
ジュンが、僅かに後ずさる。表情にも、見る間に怖れの色が表れてくる。
でも、決して踵は返さなかった。気持ちを鎮めるように、暫し瞑目、そして……
双眸を見開くや、ジュンは走り出した。私たちの居る、こちら側へと。
繋いだ彼の手は、女の子の手かと思うほど柔らかく、しっとり潤っていた。
 

 
 49.【仲良く】【喧嘩しな】
 
私とジュンは、雪華綺晶さんに牽引されながら、有栖川荘への帰還を果たした。
取るものも取り敢えず、白崎さんの待つ食堂へと向かう。住民の全員が、顔を揃えていた。
 
「やあ、おかえりなさい。ふむふむ……そこの彼が、管理人代理ですか」
「え? いや、僕は――」
 
この期に及んで、まだキョドるか。こうなれば、回りくどいことは抜きだ。
余計なことを出さない内に、強引にでも話を進めてしまおう。
 
「ですぅ! 私とこいつで、ちゃちゃっと勤めちまうですよ、イーッヒッヒッヒ!」
「なっ?! おま――」 
「承知しました。それでは、早速こちらの契約書にサインしていただけますか」
「だから、僕――」
「はいですぅ! ほれ、おめーもサインしやがれです。変わるためですよ!」
 
安っぽい殺し文句に、どれほどの効果があったかは定かでない。
けれど、ジュンは渋々ながらもペンを取って、「契約します」と誓った。
 
「やば……ハンコ持ってこなかった」
「拇印で結構ですよ、拇印で。ああ、翠星石さん。胸のことじゃありませんからね。出さないでくださいね」
「なに言いだすですかぁ! そんな、おバカな間違いしないですぅ!」
 
……危なかった。素で勘違いしてた……ボイン。 
ともあれ、無事に契約は交わされ、ジュンは正式に有栖川荘の管理人代理として雇われることとなった。
学生だけどいいのかな、との疑問に、白崎さん曰く。
「大丈夫ですよ、学長は放任主義ですからね。よきに計らえとのことです。これにて一件落着」
 
この嬉しい誤算には、しかし、嬉しくない誤算もセットで付いていた。
契約書を熟読したところ、ひと回り小さなフォントで『管理人代理は住み込みに限る』との記述が!
そのことでジュンと言い合いになったが、後の祭り。暫くは口喧嘩が絶えそうもない……。
 

 
  ・想いの果てに 編 に続く
 

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最終更新:2009年06月24日 00:53