第3章「再会」


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 その夜のアリスは、テレビの野球中継を見ながら軽い夕食を済ませた。
 故郷である『構造体』から出た後に簡単な料理は覚えたものの、レシピ通りに作れることもあまり無く、つまりは料理が下手だった。それでも今日の野菜炒めは美味しい方だったと、彼女は自己評価した。
 食器を適当に洗い、アリスはベッドに腰掛ける。テレビでは青い縦縞のユニフォームを着たバッターが力強いスイングでボールを打ち、彼方へと飛ばす光景が映されていた。それをぼんやりと見ていたアリスは妙な衝動に駆られ、握りこぶしを作ってバッターのフォームを真似し始める。手首と腕と腰に力を込め、彼女は架空の棒を2回、3回と振るった。
 自分のフォームに満足出来た彼女はテレビを消し、ベッドの上で仰向けに倒れる。
 これから服を着替えて、それでホンシアを探しに行かないと。
 アリスはホンシアの故郷、シンガポールの事を思う。シンガポールについてウェブで調べたアリスだったが、東京との違いが分からないというのが彼女の感想だった。ただ、ライオンが有名であるということだけは印象に残った。
 ライオン。猛獣。ホンシアもライオンなのかしら。でもライオンというよりは鳥みたいだったわ。鷹みたいな。
 アリスはシンガポールのビル街を舞う、ホンシアの姿を想像した。高層建築物の森で育った猛禽。両親が死んだ事によって巣立ち、また森に戻ってきた。今度の森は東京。故郷を思い出すような極東の摩天楼。
 鷹と形容したホンシアに対して、自分自身は何なのか。アリスは考え始める。
 その鷹を捕まえるんだから、私は狩人かしら。だけどそんな怖そうなのじゃなくて、鳥よりも自由で、かわいいのが良いわ。でもそんなもの、あるのかしら。
 時折アリスは自分を何かに例えようとして、色々と考えることがあった。しかし、いつも良い例えが得られずに失敗し、ある答えに帰結する。今回もその例に漏れず、アリスはいつもと同じ結論に辿り着く。
 私はやっぱり、私だわ、と。

 昨日と同じ服を着て、アリスは『不思議の国のアリス』となって空に舞った。風は穏やかで、昨日と何もかも同じ。ただ違うのは、凶器を秘めていることだけ。
 発光ダイオードと蛍光灯に輝く人工の森を眼下に見下ろし、アリスはさて、どこへ飛ぼうかしら、と辺りを見回す。
 昨日は偶然会うことが出来たけど、今日はどうかしら。もし逢えるとしたら、やっぱり昨日と同じ場所だと思うのだけれど。
 アリスはふと、「犯人は犯行現場に戻ってくる」という言葉を思い出す。ホンシアがいるとしたら犯行現場以外に無い、そう確信したアリスは昨日の現場に向かって加速度を発生させた。
 背中に付けた物が落ちないように、それを押さえつける力にも気を付けながら。

 確かにいるとするならこの場所だった。だが期待はしていなかったアリスは、昨日と全く同じように長い銃を持ってビルに背中を付けるホンシアに驚くと共に、嫌な予感がした。
 また昨日と同じようにあの銃を撃つのならば、一体、誰に向かって?
 アリスは奈々子が心配していたことを思い出す。あの時は大丈夫と言えたが、実際に目の前にするとやはり不安を覚えた。胸の高鳴りを感じた。
 次第に不安の感情とは別の何かが、彼女の鼓動を益々速めていく。脳裏に過ぎるのは、奈々子と出会う前の記憶。剣とバールのようなものが音を立てながら交差し、離れ、また交差し。そしてさらに昔の記憶。長い金髪、不敵な笑み。
 漂う不安と湧き出す闘志、そして嫌悪。複雑に絡み合った感情がアリスを縛り付け、慎重にさせる。静かに近づきながら、目はホンシアの一挙一動を見逃さずに。そしてアリスは撃たれること無く、ホンシアを攻撃射程に捉えた。
 ゆっくりと、ホンシアがアリスに視線を合わせる。
「や。また会ったね」
 片手を挙げてアリスに挨拶をするホンシア。
「昨日は驚かせちゃったかな。ごめんごめん」
 屈託の無い笑顔を見せる彼女を、アリスは油断せずに見つめる。何一つやましい事が無いような表情をしていても、相手は昨日、人を殺しているのだ。しかもこの場所で。
 なのに、この笑顔。油断出来なかった。
「まさか今日も会えるとは思わなかったよ」
「私も思わなかったわ」
「そりゃそうだよね。でも良かった、色々と話もしたかったから」
「何の話?」
「アナタの話。だって夜の空で知らない人に会ったのなんて初めてだし」
 それに気になる格好だったし、とホンシアは付け加えた。
「私の話……」
 アリスは相手の言葉を反芻する。
「そう。英語が通じるけど、やっぱりアメリカ出身とか?」
 アリスは首を振って否定する。
「アメリカじゃないわ。生まれたのは……」
 『構造体』の話は他人にするな。奈々子とそんな約束をしていたことを、アリスは思い出す。
「……秘密」
 だから、そう答えた。
「秘密ね。じゃあ私も秘密」
 微笑むホンシア。私は知ってるのだけれどと思いながら、アリスも微笑んでしまう。
「日本には何しに来てるの?」
「えっと、お仕事よ」
「お仕事、ね」
 意味有りげに笑うホンシア。銃口は下を向いていた。
「飛ぶのが上手みたいだけど、他の魔力も使えるの?」
「ええ。壊したり切ったり、火をつけたり氷を作ったりも出来るわ」
「全部出来るの!?」
 驚いた表情を見せるホンシアに、若干アリスの緊張が緩む。
「そうよ、全部」
「凄いな……私は飛ぶのが精一杯」
「練習すれば出来るんじゃないかしら?」
「練習したんだけどね。全然駄目だった」
 ホンシアは笑いながら言った。
「残念だわ、楽しいのに」
「飛んでるだけでも楽しいけどね。あっ、そうだ!」
 何を思いついたのか、ホンシアが声を上げる。
「えっと、アリス。折角だからちょっと飛行の腕前を見せてよ。私より飛ぶの上手いんでしょ、アナタ」
 笑顔のまま、ホンシアが言う。だが、アリスは見逃さなかった。 
 魔導士は集中力が高い。大シンボルであり、人間以上の身体能力を持つアリスなら尚更である。ホンシアの右人差し指がさりげなく銃のトリガーに掛けられたことに、だから彼女は気付けた。
「まずはさ、くるっと1回転してみて」
 それは、戦闘開始の合図だった。
「えっと……」
 1回転すれば、背中も見えてしまう。それは出来ない相談だった。心を決めたアリスは、にこやかに、天使のような愛くるしさを湛えた笑顔でこう謝った。
「ごめんなさい」
 即座に背中に張り付けていたバールのようなものを加速度で頭の上まで上昇させ、両手で力強く握り自分の腕力に加速度発生の魔力を加えた豪速の鈍器として彼女は振り下ろした。
 視認不可能のスピードで振り下ろされたそれは、アリスの脳内ではただの峰打ちだった。バールのようなものはホンシアの頭部を打ち付け、彼女は頭上に星を回転させながら気を失うはずだった。だがそれは飽くまでアリスの予想であり、実際は人間を粉砕するのに充分な威力を凌駕していた。

 僅かに後退していたホンシアがそれを避けられたのは、まさに奇跡だった。

「ちょっと、避けちゃダメよ」
 アリスはバールのようなものを振り上げ、構え直しながら言う。構え直したその姿は、バッターボックスに立つ野手のようにも見えた。
「避けちゃ駄目って、避けなきゃ死んでたって!!」
 自分の幸運と直前の恐怖に肝を冷やしたのか、ホンシアの顔からは汗が噴出すように出ていた。
「そうかしら?」
「脳髄をブチ撒けながら、身体ごと100m以上下の地面に叩きつけられてた。アナタにとっては望み通りのことかも知れないけどっ!」
 怒りの表情を露わにするホンシアに対して、アリスは首を傾げる。
「私はただ、貴女を捕まえたいだけだわ。殺しちゃ駄目って、言われてるもの」
「全然っ、そうは見えなかったって!」
「うーん、それじゃあもっと手加減して……頭狙ったのも駄目ね、もっと別の場所を……」
 ブツブツと独り言を言いながら、バールのようなものの握りを調節し始めるアリス。その隙にホンシアがライフルを構え、銃口をアリスに向けた。
 だが、遅すぎた。
 彼女が銃口を向けた瞬間、アリスは既にホンシアの右手側、ライフルの銃身のすぐ真横にいた。ホンシアは驚愕の表情となり、気付いたかのようにライフルの下を見た。
 彼女は見てしまっただろう。アリスの両手で握られたバールのようなものが野球のバットのごとくスイングし、今まさにボールに見立てた何かを打とうとする瞬間を。
 アリスとホンシア、目線の高さは同じ。アリスにとってのストライクゾーンにあるのは、即ち、腹部。己の内臓を破裂させる凶器の運動を、ホンシアはその眼で見ていただろう。
 アリスが手加減したから、ホンシアには理解する時間もあったのだろう。恐怖する時間もあったのだろう。覚悟する時間もあったのだろう。 
 だから、助かる時間もあったのだろう。

 ホンシアの腹部を直撃するはずだったバールのようなものが金属音を響かせ、突然その運動を停止した。アリスの持つバールのようなものの先端付近。ホンシアの腹部の左、直角に曲がった爪の内側。そこに第三者の剣身があった。
 ホンシアの直下にいつの間にか現れた、1人の男。切り揃われた黒い髪、薄茶で薄手のロングコート、端正な顔はどことなく、アリスに近い雰囲気を感じさせる。その男の剣が刃先を上に向け、バールのようなものを受け止めていた。
 アリスはバールのようなものに力を込めたまま、男の顔を確認する。そして驚いた表情を一瞬だけして、すぐに苦々しい表情を浮かべた。

 こんなのは何度もあったわ。
 お互いに信頼してたから、何度あろうと大丈夫だった。
 お互いのため、お互いがより強くなるために。
 守るために、叶えるために。
 それでも、こんなのは初めてだわ。
 貴方が私の邪魔をするなんてことは。

「どうして……」
 どうしてなの、ローエングリン――
 
 その湖には微かながら、薄白い霧が掛かっていた。薄曇りの朝を思わせる柔らかい光が湖面を銀色に鈍く輝かせ、雪原の銀世界にも似た静寂を醸し出している。
 そして静かなその世界を破壊するかのように、アリスの声が響き渡る。
「ていやぁぁあああーーー!!」
 バールのようなものを振り下ろした先に、剣と男がいた。真っ白な世界に合わせたかのような白の髪と白のロングコートの男。その男が両手で握り締めている剣によって彼女のバールのようなものは受け止められ、受け流される。力を込めたアリスの武器は傾けられた剣に沿って滑って行った。 
 「また……!」
 即座に男から飛び離れ、距離を取るアリス。
 湖面から数メートル上、薄霧の中で2人は戦っていた。戦いというよりは訓練であり、遊びである。自分の力を誇示するためにこれを申し込んだアリスであったが、逆に相手の技量を見せ付けられる結果となった。
 これまでに3回戦い、アリスの全敗。彼女の攻撃は悉くかわされていた。攻撃を受け流し、隙の出来た瞬間に勝負を決する。それが守護のイメージから生まれた大シンボル、 「守護の王」の称号を名付けられたローエングリンの戦法だった。
「もっと積極的に戦って欲しいわ」
「力任せのお前には、頭を使わないと勝てる気がしない」
 その言葉が遠回しに自分を馬鹿にしているように聞こえて、アリスはむっとする。
「私だって、頭を使っているんだから」
 アリスは加速し、先ほどと同じようにバールのようなものを振り下ろす。ローエングリンも同じように受け止め、そのまま受け流そうとする。
「させないわ!」
 アリスは魔力を高め、ローエングリンが耐え切れない程の圧力でバールのようなものを押し当てた。
「ぐっ……」
 その腕と魔力で受け流すには重すぎる力なのだろう、ローエングリンの表情は険しくなる。勝てる。そう確信したアリスはさらに力を加え、押し切ろうとする。
 だが、思いもよらないことが起こった。ローエングリンの身体全身がまるで振り子のように回り始めたのだ。剣とバールのようなものが凌ぎ合う点を中心として、下を向いていた彼の両脚が上に向かって弧を描く。
 その奇妙な行動にアリスは呆気に取られ、そして我に返った時には既に遅かった。剣の傾きではなく全身の傾きによってアリスの全力は受け流され、バランスを崩した彼女は湖に突っ込みそうになる。必死で押さえ留めたアリスはどうにか湖に落ちずに済んだものの、首の後ろに刀身の冷気を感じ、認めるしかなかった。
「私の負けだわ」
「4戦4勝だ。もう少し頭を使った方が良い」
 そう言って、ローエングリンは剣をアリスから離した。
「あんな変なやり方、ずるいわ」
 もう少し頭を使った方が良い。先ほどよりも直接的な物言いが、負けただけでも充分悔しいアリスをさらに不機嫌にしていた。
「相手の考え付かない事をする。そうすれば相手に隙が出来て、勝利の糸口が見出せる。戦いは自分の力と相手の力を如何に利用するか、それが重要だ」
「むぅぅ……」
 悔しさを包み隠さず表情に示すアリス。一瞬、ローエングリンが鼻で笑ったかのように見えたので、彼女は手に持っていたバールのようなものを思いっきり振ってしまった。
「がっ……!?」
 激痛に顔を歪めるローエングリン。アリスの一撃は、見事に彼の右足を殴打した。
「やった、当たったわ!」
 初めての有効打にアリスがはしゃぎ出す。
「相手の考え付かない事って、つまり不意打ちが強いってことだったのね」
「それも……ひとつだが……」
 身体を丸めて、あざが出来た脚を両手で押さえるローエングリン。
「大丈夫?」
 アリスは心配そうに顔を覗き込む。それと同時に、湖の何処かから声が聞こえてきた。
「ローエングリン!? ちょっとアリス、貴方何したのっ!」
 『構造体』の1つ、『トルソー』での2044年、6月。
 アリスと奈々子が出会う半年前であった。

 湖に浮かぶように建つ休息所で、3人はテーブルを囲んでいた。
 湖に落ちないよう、柵がぐるりと張られた円形の床。そこに円柱が立ち並び、上には円形の屋根が乗っている。そしてテーブルも椅子も円形。真っ白な円で統一されたその場所からは、湖の全方位が見渡せた。
 静かにして幻想的な湖を望むための建築。 だがアリスは、どうもこの建物が気に入らなかった。正確に言えば、湖も含めて。白を基調としたこの空間が全て、エルザがローエングリンのために作ったとしか思えなかったからだ。
 エルザ――アリスの暴撃で腫れたローエングリンの脚に包帯を巻く、栗毛色の髪の少女。肩まで伸びた髪は少し巻き気味であり、アリスのストレートに比べ幼くも見える。あどけなさと好奇心溢れる瞳の輝きは、しかし少女の心情を映し切っているようでもあった。
 やっぱり、私って邪魔なのかしら。 
 穏やかな微笑を浮かべつつローエングリンの手当てをするエルザを見ながら、アリスはそう思わずにはいられなかった。
 
 アリスが生まれ故郷を離れる際に、人間世界の案内役として付けられたのがローエングリンだった。ローエングリンに学ぶことで、人間に溶け込めるようになるだろう。そんなようなことを言われたアリスだったが、お目付け役として付けられた気がしてならなかった。
 ローエングリンとアリスは1年かけて世界の主要都市、いくつかの『構造体』を回った。その間、何度も立ち寄ったのがこの『構造体』、『トルソー』だった。
 『トルソー』は人間の胴体をモチーフにしたようにも見える、全長2500mの巨大建造物である。大部分はノルウェー海の底に埋もれており、アリスとローエングリンは入城する度に『トルソー』の潜水艦を使用する必要があった。位置も陸からは離れており、そこまでの手間をかけてまで何度も通う理由はアリスには存在しなかった。しかしローエングリンは『トルソー』を拠点とすることを命令されていたため、アリスも渋々付いて行く他無かったのである。

「ホントに、アリスったら乱暴なんだから」
 包帯を巻き終えたエルザが、アリスの方を向いて言った。
「悪いことをしたわ。ごめんなさい」
 そう言いながらも、微笑ましくエルザを見ていたアリスはつい、にやついた表情をしてしまった。
「本気で悪いと思っているようには見えないわ、もう」
 不満そうにエルザは言ったが、ローエングリンに向き直るとすぐに笑顔に戻った。そんなエルザの愛嬌が眩しいのだろうか、ローエングリンは無言だ。
 2人の姿を見ていると、何故だかアリスの口元も自然に緩まってしまう。片や命令に従い、世界を探索する白い騎士。片や愛らしさを纏い、天衣無縫な少女。大シンボル『守護の王』と、『トルソー』の城主。夢物語が現実の光景となっているような2人は、『夢の女王』であるアリスが望む世界を具現化していた。
 まるでおとぎ話の王子様とお姫様みたいだわ。この2人みたいに、世界がもっと素敵になれば良いのに。
 アリスはそう思いながらも、2人だけの世界に紛れ込んでしまったことに居心地の悪さも感じていた。もし湖の霧が無くて、空が青だったら。そしてこの建物が別の色だったら。私ももう少しは居やすくなるのかしら。そんなことを思う日も、時々あった。
「ここにはあと何日居るの?」
 エルザの問いに、ローエングリンはしばし沈黙した後、答えた。
「まだ決めていない。アリスが飽きる頃には出て行くつもりだが」
「もう飽きてるわよ」
 そもそも『構造体』の中が窮屈だから外に出たアリスだ。出来ればローエングリンだけここに置いて、自分独りで行きたかった。
 真面目なローエングリンは許してくれないでしょうけど。
「なら、もう外に出るか」
「……冗談よ。もう少しここに居たいわ」
 そう言うしかなかった。一瞬、エルザが不安な表情をしたから。
「ねぇ、ローエングリン。もう『女王』の命令なんて無視しちゃえば良いのよ。そうすれば外に出なくても良くなって、ここでゆっくり暮らせる。でしょ?」
 エルザの言葉の中の単語に、アリスは反応してしまう。 
 『女王』――倒すべき相手。
「そういうわけには……行かない」
 静かに首を横に振ったローエングリン。
「聖杯なんて物が何処にあるかは分からないが、命令は命令だ。アリスの案内のついでにでも、やらなければならない」
「ついでだったら、やらなくても良いのに」
 アリスはわざと不機嫌そうに言った。
 ローエングリンが『女王』から下された命令、聖杯の探索。聖人の血を受けたその杯には神秘的な力があると、アリスはローエングリンから聞かされていた。だが、アリスにはさほど興味のある物では無かった。
 もし私が奪い取れたら、『女王』は嫌な顔をするのかしら。でもそんな物を探すより、ローエングリンにはエルザと居て欲しいわ。
「……正直な所、最近少し飽きてきた」
 ローエングリンの言葉に、アリスは少し驚いた。思い起こしてみれば、確かに近頃のローエングリンは人間都市に行っても外出せずに、ただ本を読んだり、外の景色を眺めたりと様子がおかしかった。
 あれはそう、聖杯探しがつまらなくなってきたって事だったのね。
 いつも「命令」で動いていたローエングリンがそのような感情を抱いていたことに、アリスは嬉しくなった。
「そうよね。やっぱり飽きちゃうわ」
 嬉しさを口元に現しながら、アリスはうんうんと頷く。
「それなら、今回はゆっくりしましょう。せめて暑い夏が終わるまで、のんびりと」
「そうだな……それも良いかも知れない」
 それを聞いたエルザは、「本当!?」とはしゃぎ出した。
「それならローエングリン、ここに居る間、外の世界のことをいっぱい聞かせて欲しいの。今までちょっとしか聞く時間が無かったから、お願い」
 優しく、しかしどこか寂しげに微笑むローエングリン。
「ああ。話なら語り尽くせない位、山ほどある」
 エルザは『トルソー』の城主。アリスやローエングリンのような大シンボルとは違い、外に出ることは出来ない。城主として、『トルソー』を守らなければならない。
 ここは少し退屈だけど、そんなエルザが喜んでくれるなら良いわ。退屈しのぎにはそうね、ローエングリンと勝負するのが一番ね。ローエングリンに負けてばかりなのも悔しいし、ここに居る間に勝てるようになりたいわ。それにもし勝てるようになったら、ローエングリンも何か命令させてくれるかも。そうしたらそうね、私一人で外の世界に行けるようにして貰って、ローエングリンにはずっと、エルザと一緒に居るように命令しちゃいましょう。
 それが良いわ、そうね、そうしましょう。

 それから6ヶ月の後のことだった。
「……行くのか」
 ホテルの椅子に座って、窓の外の景色を見たまま――英国の冬空は曇りだった。そんな寂しい景色から眼を移すことも無く、ローエングリンが言った。
「ええ。もう10連勝したんだから。貴方といなくても、ちゃんとやっていけるわ」
「それは勝負の面だけだ。人間の常識というものを、お前は弁えていない」
「それも問題無いわ。奈々子って日本人と一緒に日本に行くって、前に言ったでしょ?」
 アリスはいつもの「アリス服」の上にコートを羽織る。
 この国にいた本当のアリスも、こんな格好をしたのかしら。
「信用出来るのか、その女は」
「きっとね。これでやっと、念願の日本暮らしが出来るわ」
 アリスはローエングリンの背中に目を向けた。何処となく、元気が感じられない。
「もしかしてローエングリン、寂しいのかしら?」
「ああ」
 冗談めいて言ったのに、思いがけない言葉を返されたアリス。
「……貴方がそんな事言うなんて初めてね」
 アリスはローエングリンの傍に歩み寄る。
「最近何か変よ、ローエングリン。何かあったのかしら?」
「……」
 ローエングリンは、答えない。
「『トルソー』を出た辺りからよ。この3ヶ月、貴方ずっと不機嫌だったわ。前はもう少しだけ、笑っていたわ」
 ローエングリンは、答えない。
「何が気に入らないの、何がそんなに嫌なのかしら?」
「……なぁ、アリス」
 ローエングリンは、答えた。
「お前は『女王』のこと……どう思っている?」
 突拍子も無い質問に、アリスは面食らった。
「いきなり何を言うのかしら。そんなの決まっているわ。大嫌い。いつか必ず、あのふんぞり返った態度に一撃食らわせて、目に物見せてみせるわ」
 アリスは拳を握り締めながら、地べたに這いつくばる『女王』を想像した。
「そうか……」
 ローエングリンは何事かを考えるかのように目を閉じ、黙った。
「ローエングリン……?」
 沈黙が部屋に張り詰める。しばしの後、ローエングリンが口を開いた。
「……いや、何でも無い」
 余りにもな言葉に、アリスは拍子抜けしてしまう。同時に、ローエングリンの態度に沸々と怒りが込み上げて来た。
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさい!」
 大声を出し、アリスはローエングリンの前にあった木製のテーブルを拳で叩いた。四本の脚が衝撃で折れ、テーブルが崩れ落ちる。
「行くなら早く行け……待たせているんだろ、連れを」
「連れじゃないわ。奈々子よ」
 最後まで窓の外の景色から目を離さなかったローエングリンに背を向け、アリスは部屋の入口に向かって歩き出した。途中で旅行鞄を拾い、ドアの前まで行った所で、足を止めた。
「ローエングリン」
 アリスはローエングリンの方に向き直す。
「私の方が強いんだから、もう1つお願い、聞いて貰うわよ」
「……何だ」
「エルザのこと、これからずっと守ること。いいわね」
「……それだけは」
 そこで言葉を切り、ローエングリンが静かに立ち上がる。やっと窓の外を見るのを止め、彼はアリスと正対した。
「それだけは、絶対に守る。約束だ」
「約束……そうね、約束よ」
 アリスは笑顔で返した。ローエングリンは笑っていなかったが、アリスは信じることが出来た。
 ローエングリンが何を考えているのかは分からないけど、今もローエングリンは、エルザの事を大事に思っている。この約束だけは、必ず守ってくれる。だから私は、安心して奈々子と行ける。
「遅れるぞ」
「ええ……約束よ、ローエングリン」
 機嫌が悪いのは、きっと『女王』に嫌な命令でもされたんだわ。それで機嫌が悪いのよ。今は駄目でも、その内いつものローエングリンに戻る。晴れない曇り空が無い様に、いつか。
 アリスはそう信じて、部屋を出た。
 アリスはそう信じて、奈々子の元へ向かった。
 そう、信じていたのに。

「どうして……ローエングリン……」
 北欧から遥か離れた東京の上空で、ローエングリンはアリスの放った一撃を妨げた。それはあたかも、アリスの思いを無下にするかのように。
 アリスと同じ高さまで上昇したローエングリンが、口を開く。
「……退いてくれ、アリス」
「……何を言うの!」
 アリスは腕の力を強めた。共に旅し共に過ごした男が、エルザを守るという約束を果たしているはずの男が、こんな所でこんな事を。アリスにとって、それはあまりにも不愉快だった。
「『守護の王』が、1つの約束も守れないなんて……」
「……」
 ローエングリンは静かに剣を傾けた。彼の常套手段。受け流すための動作。
 が――
「させない!」
 アリスは言うと同時に、バールのようなものから右手を放し、加速させる。ローエングリンの顔面に高速の拳がめり込んだ。
「ぐっ……!」
 怯むローエングリンに対し、片手で持ったバールのようなもので第2撃。それを剣で跳ね返すと共に、後方に下がるローエングリン。
 2人の間に10m近い間合いが出来る。退避していたホンシアは、まだ落ち着かない呼吸でそれを見ていた。
「女の子の足元から邪魔をするなんて、紳士のすることじゃないわ!」
 バールのようなものを突き付けるようにしてアリスが言った。さっきの打撃により、右手がジンジンと痛む。
「拳を顔面に当てるなんて、女の子がすることじゃ無い」
 顔を右手で抑えながら、それでも剣を正面に構えるローエングリン。
「それだけ、気に入らないってことなのよ」
「……だろうな」
 その態度でさらに腹を立てたアリスは、魔力で全身を加速させる。風を切るスピードで振り下ろしたバールのようなものは、しかし両手で握られた剣によって受け止められた。
「相変わらず、単調さは拭えないな……」
「それはどうかしらっ!」
 アリスのつま先がローエングリンの腹部を蹴る。ローエングリンの顔が苦痛で歪むが、剣は緩まない。それどころか体勢を崩したアリスの隙を突き、バールのようなものをあっという間に押し返した。上から剣を押さえつけていたはずのバールのようなものは逆に剣によって押さえ付けられてしまい、アリスとローエングリンの顔は接するほどに近くなる。
「なかなかやるわね、流石だわ」
「……もう一度言う。退くんだ、アリス。お前と戦いたくは無い」
「叩きたくなるようなことをしたのは、そっちの方でしょっ!!」
 アリスの頭突きがローエングリンの額を潰す。自分への衝撃も考えて魔力による加速は行わなかったものの、ダメージはそれなりにあったようだ。バールのようなものは剣から解放され、アリスはそれを振り上げる。そして――
「動かないで」
 ホンシアの銃口が、アリスの後頭部に突きつけられた。
 アリスはバールのようなものを振り被ったまま、自分の置かれた状況に冷や汗をかいた。ゆっくりと視線を下に向けると、既にローエングリンの剣はアリスの胴に当てられている。ローエングリン自身は額に手を当て痛そうな表情をしているが、攻撃を外す確率は無い。
 万事休す、ってこういう事なのかしら。
 アリスの心を震えさせる何か、恐れが。驚きでもなく、不安でもなく、死を予感させる直接的な恐怖。とても久しぶりな、あの時以来の恐怖。
 そしてあの時と同じように、恐怖を与えた当の本人がそれを否定した。
「ホンシア、銃を下ろせ」
 ローエングリンが命令する。
「でも……」
 ホンシアは不服そうだ。銃を下ろした途端に逆襲される可能性は充分にあると考え、それを警戒しているのだろう。
「大丈夫だ、下ろせ」
 ホンシアは銃を下ろした。アリスは振り上げた武器をそのまま、何もしない。
「アリス、さっきも言ったように、戦うつもりは無いんだ」
 ローエングリンも剣を下ろす。アリスは振り上げた武器をそのまま、何もしない。
「だから、お前も下ろせ」
 アリスはしばしの間、睨むようにローエングリンの顔を見つめた後、ゆっくりとバールのようなものを下ろした。
「それで、一体どういうことなのかしら」
 聞きたいことは山ほどあった。ここで何をしているのか。どうしてこんな所にいるのか。ホンシアとどういう関係なのか。
 そして、約束は。
「……『女王』の命令なのかしら」
 一番可能性のある考えを、アリスは口にした。するとローエングリンは数秒黙った後、静かに頷いた。
「……ああ」
 アリスは眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「私との約束より、エルザより大切なのね」
「……」
 ローエングリンは答えない。
「どうなの。答えなさい、ローエングリン!」
 再びアリスの内に怒りが込み上げる。アリスの大声に驚いたのか、ホンシアがライフルを構えた。
「やめろ、ホンシア」
 ローエングリンが制す。渋々そうに、ホンシアは銃を下ろした。
「アリス、お前との約束が守れなかったこと、それは謝る。だが、これは重要な任務なんだ。とても、重要な」
「重要、一体何が重要なのかしら」
「言うことは出来ない。それほどに、重要だ」
「私には、何も言えないってことね」
「……その通りだ。お前には何も話すことは出来ない」
「子供騙しだわ」
 アリスは次第に悲しくなってきた。
 別れる前の態度も嫌だったけど、今の態度はもっと嫌だわ。そんな理由で、何が納得できるというの?
「白かった髪も、白かった服も、全部汚して……」
 その姿が、貴方の本性なのかしら。そう続けようとして、アリスは言えなかった。
「この国では、あの姿はあまりに目立ちすぎる。紛れるためには髪も染める必要があった」
「何もかも……全部変わったってことね」
 もう、私の知ってるローエングリンはいない、いいえ、違うわ。私の思っていたローエングリンは、エルザと共にいたローエングリンは、きっとほんの一面に過ぎなくて。 結局、『女王』の犬なのね。ローエングリンは『女王』の騎士なのね。『女王』のためなら、姿形も変えてみせる。それが、本性。
 もう、いいわ。
「……分かったわ」
 アリスは静かにローエングリンから背を向ける。
「さよなら」
 アリスは飛ぶ。自分の部屋、居場所に向かって。突然の再会、突然の失望。受け入れたくなかったのかも知れない。引き止めて欲しかったのかも知れない。
 だからいつもよりも、速度が出ない。
 一体エルザになんて言えば良いのかしら。今もローエングリンの帰りを待っている、あの子に。きっと、何も言えないわ。ローエングリンの本性を知った今は、何も言えないし、会うことなんて、出来ないわ。
 泣きたくなるのを堪えながら、アリスは何故か、奈々子の笑顔を思い浮かべてしまう。
 今は、どうしてかしら。あの顔が懐かしくて、暖かくて…… 

「良いの?」
 ホンシアが飛び去るアリスを見つめながら言った。
「……」
 ローエングリンは答えない。
「しょうがないなぁ」
 そう言って、ホンシアが飛び始めようとする。
「どこへ行く」
 ローエングリンの制止にホンシアは振り返った。
「あの子、放っておけないでしょ」
「……駄目だ」
 ローエングリンの表情を見て、ホンシアは呆れたかのようにため息を吐く。
「アナタ、何かに必死に耐えてるみたいに見えるけど、それで良いの?」
「あいつを巻き込みたくは無い」
「もう充分巻き込んでると思うけどね」
 ホンシアは前に向き直り、アリスの飛び去った方角へ加速する。1人残されたローエングリンは、ただその姿を見つめるだけだった。

 ローエングリン、エルザ、奈々子。3人の顔が頭の中で代わる代わる浮かび、ついにアリスは空中で立ち止まり、泣いてしまった。悲しくて、悔しくて、泣き虫なアリスは。
 生まれ故郷を捨てたアリスにとって、ローエングリンとエルザがいた『トルソー』は帰れる場所だったのだ。少し居心地が悪くても、そこはアリスが居ても良い場所。3人で居た時間は、掛け替えの無いものだった。
 悲しいのはきっと、ローエングリンが約束を破ったからじゃない。もう、あの時間には戻れないって、気付いたから。ローエングリンがあの『女王』をエルザよりも優先したのなら、あの風景を、あの一時を、私はどう信じればいいの?
 裏切られたのは私じゃなくて、あの日々。ローエングリンは汚したのよ、あの世界を。
 でも、どうしようもない。
 どうしようもなくて、アリスは泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けて。
 そして、差し出された。
「……?」
 顔を上げると、ホンシアがハンカチを差し出していた。
「ハンカチくらい持ってないと。女のたしなみ以前のことでしょ」
 さっきまでローエングリンと一緒にいた、敵――ホンシアが、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「……ひっく、うぅ……ありがとう」
 相手は敵。『女王』の命令で動くローエングリンに協力しているのだから。
 だけど、でも。
「まったく、ひどい男だよね」
 話してしまえば、きっと楽になれる。
「あんな人だったなんて、思わなかったわ」
 ハンカチで涙を拭いながら、愚痴を溢すようにアリスが言った。
「そりゃ、久しぶりに会った知り合いにあの態度じゃねぇ……」
 ホンシアは一呼吸置いてから、慎重さが感じられる声調でこう切り出した。
「ローエングリンと……どういう関係?」
 アリスはハンカチを右目、左目と当て、胸のつかえを捨て出すように息を吐いた。
「友達……いいえ、先生と生徒……兄と妹みたいなものだったのかも知れないわ」
「やっぱり深い関係だったわけね」
「そうね……ええ、きっとそうだわ」
 旅した時間。エルザの湖での時間。時間、記憶、その多さが、深さ。
「なのに事情もろくに話さないで追い返すなんて、ホント最低だね」
「最低よ……」
 再びこぼれ出す涙を拭いながら、嗚咽のように吐き捨てる。
「でもさ……」
 意味有り気に言葉を切るホンシア。アリスは顔を上げ、その顔を見る。
「でも……何かしら?」
 何か思う所があるのか、ホンシアはアリスの顔をじっと見つめた後、右人差し指を立てた。
「1つだけ、お願いがあるんだけど」
「……どんなお願い、かしら」
「もうさっきみたいに、不意打ちで私を襲わないこと。このお願い聞いてくれるなら、良いこと教えたげる」
「良いこと……?」
 良いことなんて、あるのかしら。こんなに泣かされた後で、一体、どんな?
 きっと無いと、アリスは思った。それでも、彼女は頷いていた。優しい人の優しい言葉を断れるほど、涙が乾いていないから。
「交渉成立ね。じゃあ、教える」
 ホンシアは不敵に笑い、こう言った。
「ローエングリンは、『女王』の命令なんかで動いてはいない」
 アリスは一瞬、何を言われたか分からなかった。ホンシアが「多分ね」と付け加えた後、やっと言葉が出た。
「それって、それってどういう意味……なの?」
 まだ把握していない様子で、アリスが呟く。
「ローエングリンは、確かにある人の命令で私と一緒に行動してる。でも、その人は『女王』なんて奴じゃなければ、ローエングリンと旧知の仲なんかじゃ全然無い。むしろ私の方がその人と知り合いって言えるかな」
「よく……分からないわ」
 小首を傾げてしまうアリス。ホンシアは「うーん」と小さく唸った。
「つまり、ローエングリンは嘘を吐いてるってわけ。きっと、アナタに嫌われるためにわざとね」
 さらに頭が混乱してしまうアリス。嫌われるために、嘘を吐くですって?
 なんで、どうしてなのかしら。
「全然、まったく分からないわ」
 それが悲しくて、アリスはまた泣いてしまいそうになって、それを見たホンシアが慌て出す。
「あーーっ! えっと、えっとだね。危ないから、そう、危ないから!」
「危ないから……?」
「そう、そういうこと。アナタが私を襲ったように、敵が多いの。だから、アナタを巻き込みたくなかったんだよ、多分」
 アリスの脳はその言葉を理解しようと働き始める。
 奈々子は、ホンシアが人をいっぱい殺したって言っていたわ。だからきっと、ホンシアが嫌いな人はいっぱいいるのよ。それでホンシアと一緒に居るローエングリンも、一緒に狙われる。ローエングリンの近くに居たら、私も狙われるのかしら。そうならないように、ローエングリンは酷いことを言ったのかしら……
 アリスの脳はそう解釈し、自分なりの言葉を発しさせた。
「私が誰かに襲われないように、わざと突き放すようなことを言ったのね」
「そういうこと。賢いじゃん」
 思いがけない言葉に照れてしまうアリス。普段、奈々子に馬鹿扱いされているためか、アリスにはその誉め言葉が妙に恥ずかしかった。
「でも、どうしてローエングリンはその誰かの命令を聞いているの?」
「うーん、それは……」
 言いづらそうにホンシアが口ごもった時、携帯端末への着信を知らす音が鳴った。ホンシアがズボンのポケットから端末を取り出し、確認する。
「あぁ、ゴメン、そろそろ戻らないと行けないみたい」
 ホンシアは飛んできた方角へゆっくりと移動する。
「あと、約束。ちゃんと守ってね」
 アリスはホンシアとの約束を忘れかけていたが、とりあえず頷いた。それを見届けたホンシアは闇夜に飛び去り、アリスはどんな約束をしたかを思い出そうとしながら、その姿を見送る。
 ホンシアの姿が完全に見えなくなった辺りで、アリスはしてしまった約束の内容を思い出した。
 ――不意打ち禁止。
 つまり、不意打ちじゃなければ良いのかしら。でもそれじゃあ逃げられちゃうかも知れないわ。
 約束を破る、ということも頭を過ぎったが、アリスは絶対にしたくなかった。たとえ『女王』の命令じゃなくても、ローエングリンは約束を破ったのだから。同じことをしたくは無かった。
 そして、アリスは思う。『女王』の命令じゃないとしたら、どうしてローエングリンは日本にいるのかしら。ホンシアと一緒に居るのも、何故だか分からないわ。分からないことだらけ。こういうの、やっぱり嫌だわ。
 人間社会は不思議の国だけど、ローエングリンの心は地底の国みたい。何も見えないし、しかも嘘吐き。何か理由があるとしても、私には言って欲しかったわ。
 アリスはまた寂しくなり、涙がこぼれそうになった右まぶたにハンカチを当てる。そしてハンカチを返していなかったことに、彼女は気付いたのだった。

 ホンシアへ帰還する旨を連絡したローエングリンは一人、ビルの屋上で佇む。
 東京の夜は輝きに溢れている。それでも、夜を掻き消すほどでは無い。街の明かりは照らしたいものがあるからこそ灯るのであって、夜を昼にするためにあるのでは無い。照らされぬものは幾億もある。ホンシアもローエングリンもアリスも、照らされてはいない。
 だからこそ、戦えるのだ。
 ローエングリンは携帯端末で自分の雇い主へと接続する。彼と出会えたのは幸運だったと、ローエングリンは雇い主と言葉を交わす度に思う。理由は違えど自分の目的に賛同してくれ、協力を惜しまないその男。むしろ、協力しているのはローエングリンの方かも知れなかった。
 『構造体』で生まれたシンボル達は皆、人間に対しての敬意を刷り込まれていた。だがそれとは異なる畏敬の念を、ローエングリンは雇い主に抱きつつあった。シンボルが刷り込まれた敬意は人間の想像力の豊かさに対してのものだと彼は聞いていたが、その彼が雇い主に抱いたのは強さに対する敬意だった。
 老齢に差し掛かるのも間近であるというのに肉体の鍛錬を怠らず、魔力も強力だった。だがそれ以上に、自分の命を引き換えにしてでも目的を達しようというその意志が尊敬に値した。
 ローエングリンはまだ、その覚悟を決めていなかったから。
 雇い主との回線が繋がり、尊ぶべき声が聞こえてきた。
「首尾はどうだ、ローエングリン」
 自信の滲み出た、それでいて落ち着いた声。ローエングリンは時折、その声が『女王』の声に似ていると感じていた。だが『女王』の声に感じた威圧感が、雇い主の声には無い。それは厳格な主従関係が無い故なのか。
「やはり、ホンシアが出会ったのはアリス……私の古い友人でした」
 ローエングリンが今日この場所にホンシアと共に来たのは、それを確かめるためだった。ホンシアが「不思議の国のアリスそっくりの魔導士」を目撃したと聞いたローエングリンは、それが日本に旅立ったアリスだと判断し、雇い主にその事を話した。すると、出来ることなら計画に参加させたいという意見と共に、再度現れる可能性があるのでホンシアと共にアリスが現れた現場で待て、という命令が下された。
 その思惑通り、アリスは現れた。
「そうか、会えたのだな」
 驚きの感じられない雇い主の声。ローエングリンはそれが気になった。
「それで、だ。協力してくれそうかな、彼女は」
「いえ。恐らくは何者かの刺客でしょう。我々の行動が既に感付かれているか……何にせよ、協力は仰げないでしょう」
「刺客か。だがそう考えると妙だと思わないか。不用意かつ無意味にターゲットと接触しすぎている。再度接触を試みたのはな、ローエングリン。お前の友人だからという理由だけでは無く、刺客としては軽率すぎる彼女が、明確な害意を持った者ではないと判断したからだ」
「ですが、結局は……」
 言いかけて、ローエングリンは雇い主の声に込められた悪戯めいた含みに気付く。
「まさか、貴方の差し金ですか」
「いかにも」
 悪びれる様子も無い、ニヤリとした表情を感じさせる声で雇い主は言った。
「何故、そのようなことを」
 冷静な調子で口に出したが、ローエングリンは内心不快に感じていた。危うくホンシアが殺害される所だったのだから、当然である。何故アリスにホンシアを襲わせたのか、彼は納得できる理由を欲した。
「正規の手続きで借りる事は出来ないからな。ホンシアの捕獲命令を与えることでお前と接触させ、そしてこちら側に協力させる算段だった」
「捕獲?」
 その単語に、ローエングリンは面食らった。
「殺害では」
「いや、捕獲命令だが。それほどに乱暴だったのか、彼女は」
  ローエングリンはあの時の光景を思い出しながら、思索する。
 ホンシアに対するアリスの一撃、あれは明らかに人間を殺しうる速度だった。だが、「あの」アリスのことだ。人間を殺す加減と、痛めつける加減。その加減がままならないと考えても何ら不思議は無い。むしろ、峰打ちのような繊細さを求める攻撃を猪突猛進とも言えるアリスが出来る方が不自然だ。
 そんなアリスなら捕獲が殺害になりうるだろう、ローエングリンはそう結論した。
「私の思い違いでした。失礼しました」
 端末越しに雇い主の、年齢を感じさせる笑い声が聞こえて来る。
「やはり乱暴者か、彼女は。何とも頼もしいな」
「いえ、厄介なだけです。やはり彼女を引き入れることは、あまりにも不安定要素が多――」 「ローエングリン」
 雇い主が言葉を遮る。僅かな沈黙の中で、夜風が強くなりだした。
「彼女を巻き込みたく無い気持ちは分かる。だが、既に彼女は巻き込まれている。ならば、しっかりと事情を説明した上で、彼女の意思を尊重すべきではないか?」
「……ホンシアにも、同じようなことを言われました」
「そうか……」
 再び訪れた沈黙の中、ローエングリンはアリスが去った方角の空を見た。アリスもホンシアも、飛ぶものは何一つ見えない。
 雇い主のため息が聞こえ、声が続いてきた。
「彼女を巻き込んだのは……私だ。私を憎らしく思っても良い。軽蔑の眼差しにも耐えよう。私は、何としても成功させたいのだ。どうなろうと、何をしようと、だ」
「分かっています」
 口に出してみたものの、同意する感情はローエングリンの中に無かった。
「……アリスの説得はホンシアに任せる。お前には現在の状況を調べて欲しいのだ。狙撃は2回で充分なのか、それともまだ行う必要があるのか。それらの動向を調べ、報告を頼む。うまく誘き寄せられることが出来るかどうかが、鍵なのだから」
「了解しました。可能な限りの情報を収集します」
「頼んだぞ」
 そう言われ、雇い主との通話は終了した。
 ローエングリンは携帯端末を持った自分の手が震えていることに気付いた。顔もきっと、険しいだろう。自分の中の不安が、露呈しているのだ。
 雇い主に対する忠誠は揺らいでいない。彼の言うことがもっともであることを、ローエングリンは理解している。それでも、アリスを計画の一員として誘いたくは無かった。自分を不安にさせる予感、絶望的に拭えない予感があるから。この計画がその予感に続いている以上、彼は何としてでもアリスを近寄らせたくは無いのだ。
 彼は、ローエングリンは予感していた。
 雇い主との計画は失敗し、誰一人生き残れないことを。

 

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