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私の名は真紅。
普段は、紅茶を愛飲している。
けれども、たまにはお酒が飲みたくなるときがある。
そういうときは、いつものバーに行く事にしている。
駅のそばにあるビル中のひとつ、地下2階にその店はある。
取っ手のない漆黒の扉の中央に、Jade Sternと金色の小さな文字が刻まれている。
その分厚く、重い扉を押す。
「いらっしゃいませ」
名も知らない物憂げなジャズとともに、声が聞こえる。
けれども、薄暗い照明に目が慣れないため、すぐに動けない。
しばらく辺りを見渡す。
蒼と緑の灯りが所々にある。
数人が座れるカウンターに、テーブル。
店内に、植物は見当たらないが、カウンター奥の棚には、
長髪の女性の写真とともに、使い込まれた如雨露と鋏が飾られている。
あの不思議な扉のせいなのか、照明のせいなのか、店内の雰囲気のせいなのか
どことなく、日常世界とバーの空間は別次元のような気がする。
ようやく、目が慣れてきたところで、
白い制服を着た、オッドアイ、短髪のバーテンダーが言う。
「こちらへどうぞ」
導かれるままに私は席につく。
 
何を飲もうか?
原点回帰ということで、一番最初と同じ頼み方にしようか。
「甘味の少ないロングカクテルを。ジン・リッキー以外でお願いするわ」
彼に連れられてこの店に来た時の注文と同じだ。
ただし、彼は「甘味のすくない、ロングカクテルを」を頼み、ジン・リッキーが出てきた。
カクテルの名が出てこなかったので、彼に習って
私は「彼と同じような味のもの、けれど彼とは違う種類のものをお願いするわ」と頼んで、
ミントなどを使ったカクテルがでてきた。
名前を尋ねると、「今思いついたもので、名前は付けていません」と返された。
そのころ、カクテルの名前はほとんど知らなかったけれど、
カクテルの名で頼むものだと思い込んでいたから、こういう頼み方は少し意外だった。
昔を思い出していると、
「あなたの注文から生まれたカクテルです。
 名前は“翠星石”。どうぞ。」
とバーテンダーがカクテルを差し出す。
前とは違い、無色ではなく、
翡翠のような緑色になっていて、チェリーが一つ沈んでいる。
ツンと香るミント。けれども、嫌な感じではない。
爽やかで、すっきりとした味だ。
最期に甘いチェリー。
懐かしい味だけれど、あのころとは少し違うより私好みになっている。
バーテンダーの技量に驚きつつも、私はそのカクテルを楽しむ。

「ギムレットを」
小説で、「ギムレットには早すぎる」なんて、セリフがあったので、
当時、私が覚えていた数少ないカクテルの一つだ。
お酒の飲み方は、当時の彼に影響されはしたけれど、結局自己流になってしまった。
お酒の飲み方は色々ある。
誰かと楽しむために、飲むお酒もあるだろう。
あるいは、お酒そのものが、大好きな場合もある。
何かを忘れるため、飲む時もあるだろう。
彼のお酒の飲み方は変わっていた。
あの時、酔いが少し進んだ彼は、少し恥ずかしそうにこういった。
「僕は、忘れないために飲むんだ。
 おいしいお酒と一緒に、記憶を全身にめぐらせる。
 きょうの記憶を留めるために、僕はここにいる。」
私は、彼に似合わないキザなセリフだったせいか、
あるいは、お酒が記憶を留めたから分からないが、
このセリフをよく覚えている。
私の飲み方はというと、思い出すために飲んでいる。
あの時の記憶を思い出すために飲んでいる。
 
「マティーニを」
彼と、最新作を見に行くからということになり、
家のビデオで予習した、007シリーズででてきた、カクテルだ。
ジェームズボンドが飲むくらいだから、辛口のお酒だろうと思っていたけれど、
ここのバーは辛口のマティーニではなく、少し甘味があるマティーニを出す。
バーテンダーが言うには、
「確かに、ドライマティーニを好む方も多いですが、
 僕としては、少し甘味のあったほうが、よりおいしいと思います。
 マティーニはバーテンダーによってかなり味が変わりますよ」
だそうだ。私は、ほとんど別のバーに行かないので、
味の違いは残念ながら体験したことはない。
マティーニを味わいながら、昔の続きを思い出す。
彼は、その後、私との別れをきりだした。
海外に行くから、何時帰ってくるかもわからないから、真紅を待たせておけない。
そんなこと私はどうでもいいから、私はずっと待っているから、
そういっても彼は聞かなかった。
結局、彼と私は分かれた。
けれども、私は彼を待っている。
それを、思い出すために、ここで飲んでいる。
彼は私のことを覚えていると思い出すため。
彼も記憶を留めていることを信じるため。
…………今日は、これでおしまい。
私は、お酒は強いほうだけれども、酔い潰れては、思い出した意味がないから。
あなたが帰ってくるまで、私はきっとここに通い続ける。
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