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Dolls' House 第六話 むらさきくつしたはまっている』

 

 おとうさま。

 おとうさま。

 わたし、どうなってしまったの?

 あれ、左目が見える。

 ……ううん、見えなくなった。

 右手がくずれてく。

 左足がくずれてく。

 頭が。なでてもらった、作ってもらった、頭なのに。

 おとうさま。

 わたし、どうなってしまったの?

 わたしは────

 

 ひ、と息をぎこちなく吸って、彼女は目覚めた。

 ぼやけた視界が、少しずつ糸を結んでいくように固まってゆく。

 部屋の天井だ。薄暗くて、少しだけあおい。夜の気配がたっぷりと残った、朝だ。

「……?」

 体の感覚をじっくりと検分するように確かめてから、そっと右手だけを夢に見た自分の動きとそっくりに動かす。まるで、だれかの頬に触れるように。

 何かをつかもうとするように手をかざすが、天井に届かないそれからは何の記憶も感情も起きなかった。

「……なんだろ、あれ」

 不思議な夢を見たというだけではすませてはいけないように思うが、どうしたらいいか見当もつかない彼女は仕方なくベッドから起き上がる。右手。左足。寝起きで少しだけゆらゆらする頭。全てがいつも通りで、問題などどこにもない。

 なりだす五分前の目覚まし時計をあらかじめ止めて、薔薇水晶は名残惜しい寝床から抜け出した。

 十二月二十三日、冬休みの一日前の朝のことである。

 

   +

 

 階段を危なっかしくおりてリビングのドアを引くと、金糸雀(秋の末の好成績ですっかり調子を取り戻している)と雛苺が大はしゃぎでぐるぐると走り回っていた。それを翠星石が躍起になって止めようとして、結局は追いかけっこに参加する形になっている。

 何事かと「双子の」姉である雪華綺晶に目配せをしようと彼女をそれとなく探したそのとき、蒼星石がため息とともに後ろからリビングに入ってきた。

「やあ、おはよう薔薇水晶」

「……おはよう」

「ああ、彼女達は気にしないであげて。一応姉さん、朝食を作ってくれたみたいだから」

「……そう」

 眠い目をこすって食卓につき、いつもよりは簡素なトースト(バターのみ)に手を伸ばす。指先に焼きたてのパンくずのざらつきを感じたとき、三人の会話から雪が何だとか雪だるまをどうするとかいう会話が聞こえてきた気がして、薔薇水晶は何の気なしに目の前の窓を見やった。

 前庭に、すねが半分ほど埋まるくらいの雪がつもっていた。

 ああなるほどと納得して頷くと、彼女の隣に雪よりも白くつややかな髪をもつ彼女の姉が座ってきた。水銀燈だ。大学生の彼女は他の姉妹よりも生活ペースがやや遅いので、すっかり着替えた薔薇水晶とはうってかわってゆるゆるのパジャマ姿で下りてきていた。

「おっはよ、薔薇水晶。積もったわねえ」

「……銀姉」

 さくさくとトーストをかじりながら、薔薇水晶は彼女の黒いパジャマを眺め回す。

「……やっぱり、銀姉には黒が似合う。銀姉、細いから、輪郭が曖昧になるようなだぼだぼパジャマが……高ポイント、だね。個人的には、青と白の縦ストライプとかも、捨てがたいかな」

「いきなり何を言うのよぉ」

 ぺし、といさめるように水銀燈に新聞紙で叩かれるも、なぜか「でへへ……」と嬉しそうな朝の薔薇水晶である。

「これがないと……朝って感じが、しない」

「おばかさぁん」

 水銀燈も慣れているのか、ゴロゴロとじゃれてくる薔薇水晶を片手で受け流し、もう片方で新聞紙を読んでいた。しばらく水銀燈にくっついたり一緒に新聞を眺めたり(実は読んでいる訳ではない。彼女は新聞の四コマとテレビ欄と投稿川柳の専門である)していた薔薇水晶だったが、ふと気づいて顔をドアの方に向けた。

「あれ……そういえば、真紅ときらきーは?」

「んー? 起きてるんじゃないのぉ?」

 片手だけで器用に淹れたコーヒーをすすりながら水銀燈はそんな希望的観測を述べたが、そういうちょっとした願いというものは得てして否定されるものである。

 どたどたとはしゃぎまわるかしまし三人衆の足音をはねのけて、階段から二人分の必死な騒音が降ってきた。

 それらは一気にリビングに迫り、起き抜けの姿を現す。

「水銀燈! 寝坊――してしまったのだわ! 送りなさい!」

「銀薔薇のお姉様、ごめんなさい、寝過ごしてしまいましたわ……」

 乱れた息づかいだけを残して、部屋は静まり返った。先にその場にいたメンバーは時計を見てようやく青くなり、縋るように水銀燈に視線を集める。ニュースの音が控えめに今朝一番の事件、この地域では珍しい積雪とそれに伴う交通混乱を伝えている。

 万事、毎度ながら、窮す。

 水銀燈は、ぐっとコーヒーを飲み干して、薔薇水晶をそっと引きはがし、息を吸い込んだ。

 そして立ち上がり、一息に叫ぶ。

 

「総員、発車準備よぉ! 真紅、雪華綺晶は身支度! 翠星石はお弁当準備! 金糸雀と雛苺は車の除雪! 車を傷つけたら自分がジャンクになると思いなさぁい! もう修理には出さないようにねぇ! 蒼星石、戸締まり! 薔薇水晶は私の手伝い! 時間はもうないわよぉ! 各自、行動開始!!」

「Yes, sir!」

 その朝の八人姉妹たちは、全員が必死で、いつも以上に団結していたという。

 

   +

 

 私立有栖学園。

 公立ならば本来祝日である今日は休みであるが、そこは私立の特権である。

 学校のイベントが多くにぎやかである代わり、こうして些細なところで容赦なく休日をつぶしてくる。

 さてそんな今朝の学校の廊下は人数こそ少なかったが、珍しい雪に騒ぐ生徒達でにぎわっていた。彼らの多くは雪にぬれて重そうな制服をまとっていたが、冷えたその廊下を横切る三人、薔薇水晶と雪華綺晶と雛苺は比較的いつも通りの装いであった。

 無事に水銀燈デリバリーが成功したのである。

「それにしても、雪すごいのー! ヒナったらガッコも忘れて喜んじゃったのよ」

「私もとても驚きましたわ。今日の部活は雪だるま作りにしましょうか」

「うんっ、きらきー!」

「ふふ」

 修理して間もない愛車のワゴンを飛ばして、水銀燈は渋滞した道路を無理矢理に切り抜けていった。曰く「どうしても落とせない補講があるのよぉ……!!」とのこと。

 比較的大人である真紅、雪華綺晶、蒼星石は半泣きで遅刻してもいいからやめてとトリガーハッピーならぬハンドルクレイジーになりかけた長女を止めにかかったが、一方で無茶や危険は大歓迎組(言わずもがな翠星石、雛苺、金糸雀、薔薇水晶)はやんややんやと囃し立ていいぞもっとやれの大歓声。

 結局何回もクラクションを鳴らされつつも、時間通りに高校についたのである。

 しかし実際に学校についてみると、電車やバスで来ている生徒のほとんどが足止めをくらって遅刻である。問い、水銀燈の苦労とは一体なんだったのか。答え、姉の慈愛とちょっとの徒労。

 また擦り傷を作りかねないデンジャラスドライブを反芻して、雪華綺晶は申し訳なさそうにマフラーに口を埋めた。

「それにしても……無理をさせてしまいましたわ。お姉様に。寝坊なんかしなければ」

「いいんじゃないの……すごく、楽しかったし」

「んもう、ばらしーちゃんはそういうアトラクションが好きだから……」

「ヒナはそんなに好きじゃないの」

「じゃあいつか遊園地に行ったら、私と観覧車に乗りましょうね」

「うん! 春になったらね!」

 寝起きの時よりははっきりした顔をして窓の外を眺める薔薇水晶を覗き込み、雪華綺晶は首を傾げる。

「そうそう、ばらしーちゃんは雪だるま、作りますの?」

 結構な近さで話しかけてきた雪華綺晶に面食らって少し歩を緩めつつ、薔薇水晶は首を振った。

「ううん……ごめん。今日、買いにいかなきゃ、いけないものが……あるから」

「あら。この雪ですし、無理しない方が」

「転んだら大変なのよ、ばらしー」

 口元に可憐な指先をやる雪華綺晶、幼子のように無邪気に笑いかけてくる雛苺にほんのりと笑いかけ、薔薇水晶は少し遠い目をした。

「でも、行かなきゃ。……サンタさんより先に、手に入れないとね」

 アッガイシリーズが完成するんだ。と宣言する薔薇水晶の目元には、彼女にしかわからない温かさがそっと宿っていた。

 

   +

 

 薔薇水晶の本棚には、色とりどりのアッガイのプラモが八つ並んでいる。本来の色のものの横にずらりと連なるそれらは、彼女の姉達のイメージカラーに模したオリジナルの配色がなされている。黒、黄、緑……と続いて、白で終わっている。

 彼女はそれで終わらせたつもりであったが、ある日部屋に遊びにきた水銀燈が「これ、あなたの色はないのぉ? それじゃ寂しいわね」と何気なく言ったために、紫色の自分バージョンアッガイを制作することになったのだ。

 しかし時代と季節と金銭は非情にも過ぎ去ってゆくものである。

 新しいアッガイを購入しようとする薔薇水晶の財布には、デパートで冷やかし客、スーパーで一般人、駄菓子屋で英雄になれる程度の小銭しか入っていなかった。

 そこで彼女は、万能レッドアーミーことサンタクロースに頼ることにしたのである。

 彼なら、きっとかなえてくれる。そんな確信が彼女にはあった。八人姉妹全員の願いを聞き入れ、誰一人として忘れることなく、十二月二十四日にプレゼントの箱を置いていってくれるサンタさんは、大して信心を持ち合わせていない薔薇水晶が信じる唯一の神様であった。

 とはいえ、もう薔薇水晶だって大人である。全部をサンタさんに請け負ってもらうわけにはいかない。だから、なけなしの貯金を振り絞って塗料だけでも自分でそろえる、それが今年のクリスマスの一大決心だった。

 

   +

 

「……で、皆のプレゼント、何が欲しいかきいたのかしら? 水銀燈」

 メモ帳を眺めながらすいすいと人ごみをかわしていく水銀燈を追いかけながら、金糸雀は少し声を張って呼びかけた。

 彼女はまだ制服姿で、上にダッフルコートを羽織っている。分かりやすく学校帰りの姿である。今日の学校は終業式だけで早上がりである上に、出席状況が悲惨だったため仮休校となり、金糸雀は大学にて一限を終えた水銀燈に合流することができたのである。

 クリスマスソングと普段より浮き立った密かなざわめきがあふれるここは、この町で一番大きなデパートだ。二人はその中をくまなく歩き回り、メモした品物を一つ一つ買い集めて回ろうとしていた。

 八人姉妹の長女と次女、彼女達がサンタの正体であることはほとんどの妹達が気づいていたが、だまされるのも一興、隠すのもまた一興である。おおっぴらには話にあがらないようになっていた。

「ほら。ね。お姉ちゃんをなめないで頂戴」

 やっと追いついた金糸雀に水銀燈はピッとメモをわたす。受け取ったそこには、自分のもの含め八つのプレゼントが箇条書きされていた。分かってはいたものの、いつの間に聞いて回っているのかと感心して金糸雀は「ほおー」と不思議な声を上げた。

「さすがお姉ちゃん、かしら」

「どっかの高校生とは違うのよぉ。それにしても金糸雀、あなた勉強しないでこんなところまでついてきて平気なの?」

「いっ!? それは~……か、カナだって毎日勉強してるかしら! だから、今日くらい平気なのっ」

「そぉう。ま、あなた案外頭いいものね」

「ふぇ、そ、そうかしらぁ。えへへ」

「そうやって調子に乗りさえしなければね」

「うっ……手厳しいかしら……」

 たどり着いたプラモデルコーナーで、水銀燈は見慣れた形の箱を手に取った。意味もなく口にした言葉に返された楽しそうな、嬉しそうな答えが耳にかすかに蘇った。

(そ……そうかな。だって、自分の作るなんて、なんか……ナルシストみたい)

(そんなことないわよぉ。全員そろわなきゃ、面白くないじゃなぁい)

(だ、だって自分の色なんて分かんない、よ)

(そうねえ……紫。薔薇水晶、あなた紫っぽいわねぇ。それも薄紫あたり、どうかしらぁ? 素敵よ、似合ってる)

(そ、そうかな……そうかなぁ、銀姉)

 目を細め、プラモデルの箱をを見つめながら考え事をする水銀燈の背中を、金糸雀は軽快に叩いた。

「ちょっと! 水銀燈!」

「へぇあ!? な、何よぉ」

「それ、ばらしーのかしら?」

「そうよぉ」

「じゃぁ早く買う! ほら、時間はあんまりないかしら」

 買い物カートに箱を入れて、押して歩いてゆく金糸雀を水銀燈がぼんやり眺めていると、彼女は怪訝そうに振り返った。「……どうかした?」

「え、何でもないわぁ」

「そう?」

 二人で並んで歩き、次のプレゼントを探す。しばらく進んでから、金糸雀はふとつけたすように言った。

「最近、ばらしーと水銀燈って仲いいかしら」

 驚いたように目を丸くして言葉に窮した水銀燈にかえって焦って、金糸雀はカートを押す手に力を入れた。

「そ、そんなに驚かないでほしいかしら。何となく言っただけだし、仲いいのはいい事だし、ね」

「そうよねぇ」

 いつも通りのペースを取り戻した二人であったが、水銀燈はなんとなく飲み下せない感覚を覚えていた。気にしないようにしていたことの核心を突かれたような気がしたのである。

 片手に、今朝の薔薇水晶の髪の手触りが浮かび上がる。

 やや寝癖が自己主張していた前髪。

 ……なんて言ったらいいか、分からなかった。

 

   +

 

 薔薇水晶が軽くなった財布と重くなった鞄を抱えて家に帰ると、玄関には水銀燈と金糸雀と真紅の靴が並んでいた。どれも雪が入ったりしてすっかり濡れてしまっている。後で新聞紙でもつめてあげよう、と薔薇水晶はとりとめもなく考えた。

 ただいまぁ、とリビングの扉越しに投げかけると、くんくんがどうしただのジュンがどうしただのとあれこれやりあう威勢のいい声が聞こえてきて、その合間に息継ぎでもするように「おかえり!」「おかえりなさぁい!」と投げ返された。

 また水銀燈と真紅が口喧嘩(名ばかり。仲良くけんかするあれのようなものである)しているらしい。巻き込まれないようにこっそりと別の入り口からキッチンの方に入り込んで、スナック菓子を二袋ほどくすねて、薔薇水晶は猫のように二階に上った。

 上ってすぐの部屋は、金糸雀の牙城である。ノックして入ると、「あああ、やっぱり日本史はキツいかしらあああ……はっ、ばらしー」と窮状丸出しの受験生が転がっていた。

 はいこれ、とスナック菓子を差し入れて、何も見なかったふりをするから……と言い残して部屋から出る。「見なかったふり」だ。「見てはいる」のだ。ともかく長い廊下を渡りきり、突き当たりにたどり着くのは、末っ子八女、薔薇水晶の部屋だ。

 滑り込むように部屋に入り、暖房のスイッチに十六連打を食らわせる。……最終的にオフになってしまった。「偶数め……」とそっと毒づき、もういちど押してから机に向かった。

 体を投げ出すように椅子に座ると、背中に向かってふきつけてくる暖かい風を感じた。

 ───朝の目覚めがすっきりしないと、一日は何故だか磨りガラスみたいに薄暗くなる。

 ベッドを横目で見ると、今日の始めの不思議な感覚が断片的に思い出される。崩れる夢。忘れた誰か。忘れては行けない、誰か。雪。薄青い朝。鳴らさなかった、目覚まし時計。

 薔薇水晶にとって、それらのかけらは集まっても一つの形をなさなかった。なんとなく、朝を迎えるのにつまづいてしまっただけだ。それだけ。塗料だって買ってきたし、皆いつも通り元気。学校は今日でおしまい。クリスマスと、お正月がまってる。

 ……悪い事は、ない。今日は、ツリーの買い出しに行くしね。

 そっと瞼を閉じて、するすると息を吐き出した。

「なんだろう、変な感じ」

 声に出してみても、形が分からない。それなら。

「気にしなくてもいいよね……」

 ぐんと上半身を引き戻して、すっかり慣れっこの授業中に居眠りする体制になる。吐息が机から跳ね返って頬を少し湿らせた。

「銀姉」

 何故その名前を呼んだのか、その理由は彼女も知らない。

 

「おーい、ちょっとばらしー!」

「なーにー? ……ちぇ、今なんかいいとこだったのに」

「そろそろツリーを買いにいくかしらー!」

 

   +

 

 おとうさま。おとうさ、ま。

 ここはどこ。おとうさまは、どこ。

 いいえ、おとうさまはここに。

 ───ちがう?

 なに? これは?

 

 頭に、手がのってる。

 頭? 私、体、なくしちゃったのに。

 おとうさまの体。わたしの体。もらった、だいじな、わたし。

 

「はじめまして、薔薇水晶」

 

 だれ? おとうさま?

 ───ちがう。

 違う。この人、お父様じゃない。

 ……お父様じゃ、ない。

 

「私は槐ではないよ。私は、」

 

 ───聞きたくない!

 

「私はローゼン」

 

 ああ。体が、戻ってる。

 お父様は、いないけど。

 声が聞こえる。大きな手。

 

「分からないかもしれないし、知りたくないかもしれない。けれど、私は君に話さなくてはならないんだ」

 

 いやだ。おねがい。

 わがままかもしれないけど、この願いをなくさないで。私だけのお願いじゃないの。いやだ。

 

「いいかい、薔薇水晶。これは、この世界は────」

 

   +

 

 二十四日の朝。

 階段から落ちた夢から覚めるときとそっくりに、薔薇水晶は体を引きつらせて目覚めた。

 天井がゆっくりとした速度ではっきり見えてきた。今度は、白い。日が昇って、それが雪に反射して部屋に差し込んでいるんだろう。とても穏やかな朝だった。

 じっとりと濡れた首を感じながら、薔薇水晶は身を起こす。息は乱れ、体はひどく汗をかいていた。まるでなにかから逃げ出してきたようだった。

 しかし、逃げ出してはいない。彼女には受け止めるという選択肢しかなかった。

 時計をちらりとみる。九時五分。自分と同じような夢を見て飛び起きているだろう姉達のことを思った。はたして、彼女達は自分と同じことを感じているだろうか。明るい朝にしてはあまりに静かな家の空気を探りながら、薔薇水晶は自分の手をじっと見た。

 

 

「どういうことです、これは……どういう事ですぅ」

 上半身を跳ね上げ、片手で額を支えながら翠星石は一度深呼吸をした。カーテンで仕切られたとなりの部屋に横たわっているだろう双子の妹の息づかいを探って、しかしうまく読み取れずに彼女はそっと呼びかけた。

「蒼星石」

 う、と曖昧な声を上げて起き上がる妹の気配があった。翠星石はすぐにでも彼女の顔を見なければいけないような気持ちになり、目の前のカーテンを勢い任せに取っ払う。

 蒼星石は驚いているとも納得しているともとれる表情で翠星石の方を向き体を丸めていた。

 しばらく二人で、どうしようもなくおびえる鼓動を撫で付けるようにそのままの姿勢でうつむいていたが、あるときどちらからともなく手を伸ばし、握り合った。

 記憶よりもずっと大きな手でお互いに温め合っていると、静かな家の中で彼女達しかいないような気分になってきて、その想像は双子の胸にそっと積もり毛羽立った感覚を鎮めていった。

 視線を、指を絡ませ、おでこを軽くぶつける。

「大丈夫ですぅ」

「うん。きっと、大丈夫だね」

「さ、皆に会いにいくですよ」

 

 

 雛苺は夢に見た大切な人に手を伸ばし、そのさきに天井しかないことを時間をかけて理解した。

 食べられた。……大切な妹、雪華綺晶に。洗いざらい思い出してしまった今、幼い彼女はどうするべきかすぐには思いつかなかった。

 誰かに縋る? 泣きつく? そんなことばかりが目覚めたばかりの甘ったるい頭をかすめていったが、雛苺はかたく目をつむり唇をかみ、ずいぶんと長いこと悩んでから部屋を出た。

 ヒナはもう、お姉さんなんだからね。

 ドアを開きざま、彼女はそう自分にささやいた。

 ひんやりとした空気が足下にまとわりつく廊下を少しだけ歩いて、入ったのは彼女が一番恐れるはずの雪華綺晶の部屋である。

 雪華綺晶本人もおびえられて当然と思っていたらしく、布団を握って自分の元にたぐりよせた格好のままぴたりと止まって雛苺を呆然と眺めていた。

 そんな様子の彼女にかまう事なく雛苺はずんずんと向かってきて、どうしようもなく何か──それはおそらく拒絶とか、喪失とか──を恐れた雪華綺晶は押し殺した声で叫んだ。

「お姉様、こないでください」

 見開いた雪華綺晶の瞳の奥には、彼女が思い出した狂気とそれに対する嫌悪と恐怖が全てない交ぜになって溶け込んでいた。それを見据える妙にまっすぐな雛苺の視線から逃れるように雪華綺晶は顔を歪ませて頭を横にふった。

「こないで、どうか。私、お姉様に───お姉様、には、もう触れません。ごめんなさい。私……ごめんなさい、だって」

「せや!」

「お姉……ゔ!?」

 雛苺は狂気の淵に誘われかけている雪華綺晶に向かって飛び込んだ。その頭は雪華綺晶の胸のど真ん中にヒットする。強制的に空気を失った胸が焦って元に戻ろうと引きつったが、そこに雛苺はさらに顔を埋めてきた。

 むせる雪華綺晶を、雛苺はありったけの力で抱きしめていた。……いや、抱きついていたというほうが正しいかもしれないが。

「きらきー!」

「え、えほっ、な何です、ふぅっ」

「……の、バカっ!!」

 顔を見せないように布団ごと雪華綺晶にくっつく雛苺はそういったあと黙ったが、雪華綺晶が困っているとぐずったようにこう付け足した。

「きらきー、優しいのよ。ヒナの妹、なのよ」

 ようやくこれだけを形にして、あとはうなり声を上げる雛苺を見つめ、雪華綺晶はおずおずとその背中に手を回した。

 上下する肩。

 許してもらえるとも、そうしてもらいたいとも、彼女は思っていなかった。だけど、たった今こうして与えられているちいさいけれど優しい温もりにはきっと応えなければいけないと、雪華綺晶はぎゅっと手に力を込めた。

「はい、お姉様」

 と、そこに金糸雀が飛び込んできた。彼女は一瞬だけ疑念と怯えを含んだ視線を雪華綺晶に向けたが、すぐにそれは涙でにじんで分からなくなった。寸でのところで目の端からその雫がこぼれないように細心の注意をはかりながら、金糸雀は二人の元に歩み寄り、雛苺と同じように雪華綺晶にぶつかってきた。

 今度はうまく受け止めつつ、雪華綺晶はゆっくり目を閉じた。

 

 

 水銀燈はいつもより三秒ほど長く壁掛け時計を横になりながら眺めていたが、それ以降は普段と変わらず軽快に起き上がって髪を軽く整え、部屋を出た。

 先に階段を毅然とした横顔を携え下りてゆく真紅を見かけ、彼女も水銀燈に気づいたのかはたと立ち止まった。

 横目しれっと様子をうかがってくる真紅と、ドアの前で腕を組み斜に構えてたたずむ水銀燈。若干緊張した視線の交換があったが、水銀燈はすぐに肩をすくめてみせた。

「……アンタ、気にしてるぅ?」

 水銀燈がややおどけたようにみえ、真紅もそんな対応にしっくりきたので目を閉じて眉を上げてみせた。

「さあて、なんのことかしらね。例えば黒い悪党のこと?」

 お互いにクスリと笑い合って、真紅は落ち着き払って階段を下り、水銀燈は「おばかさぁん」とぼやいてそれに続く。

 どうしようもなく絡まった糸に気づいてしまったが、それを解くのは今ではないし、解くコツを見つけた気がする──と、二人は知らず知らずのうちに同じ事を考えていた。

 

   +

 

 姉妹達の夢枕に立った「お父様」。彼は彼女達の父であった。もとい、制作者であった。

 穏やかな午後の日差しが差し込むどこともつかない部屋のなかで、彼は彼女達を抱きながらとつとつと話しうる限りの全ての真実を語った。

 ここはnのフィールドのなかの彼の「領海」、夢のなかであること。

 やがてここはなくなって、彼女達はこの夢から覚めてしまうこと。

 目覚めない姉妹もいるということ。

 しかしなおす方法もあり、それを探さなければならないこと。

 そしていつか、きっとまた会えるということ。

 彼は一人一人に、それぞれ最適な言葉を探して、託していった。

 彼女達には、疑う余地などなく。まして、逆らうという選択肢もなく。

 目覚める頃には、全ての記憶が戻っていた。

 

「しっかし、すっかりだまされてたですぅ! 翠星石としたことが」

 目玉焼きをのせて少しは昨日より豪華にしたトーストを八人分作りながら、翠星石は肩をすくめた。口元にはすこし寂しそうな笑みがにじみ出ている。よくできていやがる夢ですよ、と卵を割ると、真紅は彼女らしい言い草に軽く吹き出した。

「まあ、そうね。私も全然、大きな体を気にしていなかったもの。向こうに戻っても上手に動けるかしらね。不安だわ」

「アンタの事だからすぐに慣れるわぁ。筋肉馬鹿だものね」

「筋肉ー! 真紅のきんにくなのー!」

「ちょっと水銀燈! 雛苺に変なこと仕込まないでちょうだい!」

「ヒナだって分かってやってんのよー」

「ちょ、雛苺ったら黒いかしら! ……翠星石、もうもらっていい?」

 金糸雀がおずおずとキッチンを覗き込む。バターが熱く溶ける香りに満ちていた。

「おー、どんどん食べるといいですよ! どうせ目が覚めたら元通りだから体重の心配もナッシングですぅ!」

「そ、それは嬉しいね……!」

 蒼星石はやたらと目を輝かせてその話題に食いついた。金糸雀はすかさず彼女の後ろに回っておなか周りに手を回した。その間二秒。キッチンからリビングへの移動速度を考えると、イジリアタッカーとしては申し分のない行動力である。

「おおーっとぉ? 蒼星石、もしかして太ったかしらぁ?」

「や、やめてよ金糸雀!」

「ああー蒼星石には気の利く美少女翠星石ちゃんが夜中にクッキーとかを差し入れてあげてたですからね」

「姉さんのバカ! 言わないでよ!」

「わお……お姉様、食べごろ………」

 金糸雀に後ろからホールドされた蒼星石に、指をワキワキとさせて雪華綺晶がにじり寄る。その殺気、本物である。ぴしゃりと真紅が制止という名目の突っ込みを入れる。

「雪華綺晶、それきつすぎるわよ」

「すみません、お姉様。それじゃ(もちろん、性的な意味で)を追加したらどうでしょう?」

「ああ、アリね」

「真紅うううう! 信じてたのにー!!」

 軽い笑いが部屋の床を転がっていって、壁にぶつかって勢いをゆるゆるとなくしていった。

 卵がフライパンの上でじれるように焼ける。

 ふう、と誰ともなくため息をついた。

 いきなり放り出された(いや、戻されたといってもいいが)現実に馴染むには、九ヶ月という時間はあまりに長かった。

 空元気を出し切った彼女達は思い思いに椅子に座ったり、キッチンに立ったりしてやり場のない時間を受け流していた。

 ふと何の動く気配もない二階をそっと見やって、

「薔薇水晶、下りてこないわね」

 真紅が言う。滑り台から落ちるように部屋の温度が下がった。

 彼女達は触れなかったのだ。

 この現実を八人全員が受け止められる訳がない。

 だれかは必ず事実と自分を許容できずに折れてしまうものが出るということ、それはきっとある「支え」を持たないものだろうということ、その心の曇りは、単純に手を取って励ますだけでは取り払えないだろうということを、全員が何となく分かっていた。

 

 支えを持たないもの、それは唯一「姉妹ではない」彼女のことであった。

 薔薇水晶。ローゼンではなく槐によって、ローゼンメイデンたちをかき乱すために作られた少女。

 

 姉妹達は彼女の部屋に入ることもできず、ずっと躊躇していた。できれば彼女から出てきてくれるよう祈っていた。

 罪と孤独ばかり背負ってしまった末っ子としての薔薇水晶は、そのドアを開けて抱きしめるにはあまりにもろいものに思えて仕方なかったのだ。

 どうしていいか分からず、しかし必ず救いたいと願い、手を伸ばしかけたまま固まってしまった七人の姉たちはリビングで立ち往生した。

 決して七人の姉妹達の間に何のわだかまりもなくなったというわけではないが、それでも七人と一人との溝はどうしようもなく深く抉られていた。

 何か言おうと喉を詰まらせる姉妹達の上を、オーブントースターでトーストが二枚ほど焼き上がった音がはねた。慌てて翠星石がそれを皿に移し替えて目玉焼きをのせると、水銀燈はすいっと一枚だけ皿を取ってくるりときびすを返した。

「ちょっと行ってくるわぁ。翠星石、私の分はちゃんと取っておいてねぇ」

 

   +

 

 お父様。

 お父様。

 お父様。

 

 ────私、一緒にいられなかった。

 

   +

 

 薔薇水晶は布団にくるまっていて、体のどこも見せまいとかたくなになっているようだった。その大きな繭は水銀燈が入った気配にも無反応で、水銀燈は困ったように肩をすくめた。

「……寝坊助さぁん。もう、お昼になるわよぉ」

 机にコトンとトーストの乗った皿を置き、水銀燈は薔薇水晶の布団ロールが転がったベッドを背もたれに座り込んだ。

 カーテンは閉め切られていて、部屋には日差しで温められた窓辺の気配と夜中の残した冷気がバニラとチョコのマーブルアイスのように混ざり合っていた。

 二人きりの空間。それほど珍しいことではなかったが、今は二人の間でかみ合っていた歯車のどれか一つが外れてしまったようで、その不具合はしびれるように別の歯車を狂わせ、すっかり別の動きを始めたようだった。

 雪が屋根から滑り落ち、車の上に落ちる音が遠くで聞こえた。

「トースト冷めるわよぉ」

「……いらない」

 ついに薔薇水晶がくぐもった声を発した。すねている子供のような口ぶりに聞こえたが、もちろんそんな単純な話ではないと水銀燈も分かっていた。

「……ごめんなさい」

「なにがよぉ」

「きらきーに、あげてね」

「駄目よぉ。今日はクリスマスイブだし、それにこんなときだからこそ食べなきゃ駄目になるわよぉ」

「今更だもん」

 けだるげに水銀燈は片足を折り、その膝に頬杖をついた。

「なにがいまさらなのよ」

「今更……」

 布団の山がやけどを隠す獣のように一層ちぢこまった。薔薇水晶は喉を締め付けられたような音を綿の内側でこもらせていたが、次第にその言葉の出来損ないのような波の中から一つ二つと形のあるものが打ち寄せられてきた。

「───今更、だもん。私、もう、だめに……なってるから。お父様にも、置いて、いかれて。……銀姉、私が、ひどいことしたの。真紅助けたのに。でも、真紅も、私が……皆、みんな――」

「……蒼星石は私がやったわよぉ。雛苺は雪華綺晶ね。あの子のやり口が一番キツいんじゃないかしらぁ?」

「銀姉、私が、だましたの」

「あれは私がバカだったのよ」

「────水銀燈」

 急に薔薇水晶の声に芯が通った。毅然としたそれは、かつてドールだった時のただ一つの目的のためだけに残忍にひた走っていた水晶のような彼女のものに似ているようで、本当はずっとずっと傷つきやすいものに変わってしまったようだった。

 一瞬それにつられて水銀燈も目つきを鋭くしたが、すぐに解いた。

 ベッドの上の塊が、かすかに震えていたからだ。

「私は、あなたの姉妹じゃない……ただの敵。あなたたちローゼンメイデンの戦いを穢した、贋作」

「………薔薇水晶、」

「私は、違う。銀姉――水銀燈とは、ちがうの。真紅とも、翠星石蒼星石、金糸雀、雛苺、雪華綺晶ともちがう。違うの」

 崖から落ちていくように語気が強まっていく。息継ぎする音。

「────いらないじゃない! 私の分なんて、やっぱりいらなかったの! 全部七つですむことだった! 紫なんていらないの! 最初からいらなかったの……っ!」

 水銀燈は机の下に目をやった。紫の塗料がこっそりと置かれていた。

 薔薇水晶の色。

 末っ子が完成するための塗料。

「……ひとりに、してほしい」

 そういわれ、水銀燈は何か考え込んでから立ち上がりじっと薔薇水晶を見た。決して目に映らない彼女の姿まで透かし見るように。

 粘性のある水の中を泳ぐように部屋を横切り、水銀燈は出て行こうとする。

 ぽつりとつぶやく。

「薔薇水晶。……眼帯、つけてるの」

 答えはない。

 今度こそ水銀燈は立ち去った。

 液体のようになった空間は淀み、固体に近づいてゆく。

 布を隔てた薔薇水晶には、それも、水銀燈も、止める事はできなかった。

 

   +

 

「───ま、こんなもんですかね。翠星石と蒼星石の誕生日飾りが残っていてよかったですぅ」

「翠星石、薔薇水晶は……」

「んー……まだちょっと、へこんでるみたいですぅ……」

「……そっか」

「かなりあー、水銀燈帰ってきたのー」

「おっ、ついにツリーにとりかかれるかしら」

「ただいまぁ、ツリー飾り買ってきたわよ」

「遅いのだわ。さて、靴下をつるしましょう」

「ツリーの箱、まだあけてませんわお姉様……」

「料理はどんな具合かしら?」

「完璧も完璧、一度冷めてもばっちりいけちゃう新作ディナーですぅ!」

「けーき! ケーキこれからとってくるのー!」

「か、カナもいくかしら!」

「うん、いってらっしゃい二人とも。持ってきたら、そうだね……玄関、寒いよね? 水銀燈」

「そうねえ、あそこならケーキも悪くならないわよぉ」

「お姉様方……私も……連れて行ってくださいまし……」

「なの!?」

「かしらぁ!?」

「雪華綺晶、あなたどれだけケーキに執着してるの……末恐ろしいのだわ」

「さ、ともかく準備をつづけるわよぉ」

「まさかこうなるとはね……」

「蒼星石、大声でクリスマスパーティーじゃないとかはネタバレしちゃいかんですよ」

「姉さんがしてるってば」

「はぁ……あなたたち……」

 

   +

 

 気づくと夜中だった。

 息苦しい布団の中から頭だけ出すと、部屋はすっかり暗くなっている。

 水銀燈がいなくなってから、薔薇水晶はとりあえずトーストをつめこんでからベッドに帰りずっと思案に明け暮れていた。

 ……はずだったが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。情緒のかけらもない自分に、薔薇水晶は浅く嘆息した。

(銀姉、追い払っちゃった)

 ほとんど丸一日寝転がっていたために歪んで感じる世界をいつも通りの世界に解読しつつ、冷たくなった床に足をつける。

 冬の温度は頭まで突き抜けて、薔薇水晶はようやく頭にかかった霧がそれに駆逐されていくのを感じた。

(……嫌われたよね)

 一応着替えておこうか、もう開き直ってパジャマのままでいようか決めるためにクローゼットをそっとひらくと、まず始めに靴下が目についた。

 ───今日、クリスマスだった。みんなパーティーしたかな。してくれたかな。

 本棚には自分のいないアッガイシリーズが並んでいて、それで今年のプレゼントに自分の分をお願いしたことを思い出したが、薔薇水晶を明るくさせることでもなかった。

(サンタさんにまで、嫌われたくないな……)

 もうパーティーを終えたのか、それとも会場を移してしまったのか、家はすっかり静まり返っていた。

 紫色の靴下。お願いごとのポスト。

 薔薇水晶はそれを握ってだいぶ悩んだが、誰もいないなら平気かなと肚を決めてそれを吊るしにいくことにした。

 

 

 電気をひとつもつけないでなんとかリビングにたどり着く。

 ドアを開けると、いつもと少し違う香りがした。パーティーのにおいだ。翠星石がまた腕によりをかけて『……』料理を作っていたらしい。

 やや暗闇に慣れかけた隻眼をこらして雪明かりに火照る窓辺をにらむと、テレビの横に雛苺くらいの高さのクリスマスツリーが鎮座しているのが分かった。

 なにかパーティーの残骸が残っていやしないかと慎重に足下を確認しながら、かつ音を立てないようにそろそろと近づいてしゃがみ、ちかくに余っていた紐を使って紫色の靴下を吊るした。

 自分の色。自分の願い。

 暗闇でも分かる七つの色の靴下。ひとつ、紫色が仲間に入った。

 自分の願い──これじゃないの。

 私の、バカ。

 薔薇水晶が膝に顔をうずめたとき、ぱちりと音がしてドアの方から赤みがかった廊下の光が差し込んできた。それは一人分の影を伴ってまっすぐに薔薇水晶のもとへ伸びている。

 

「さぁて……ようやくつかまったわねぇ」

 

 水銀燈、だった。

「ぎ……っ」ぎんねえ、と言いそびれて、また見つかってしまい妙に気まずかったので薔薇水晶は硬直する。家にいたの? 寝ていたんじゃなかったの? と心の中で問いかける。

「ふふ、そんな罠にかかった兎みたいな顔しないの」

 その声はいつもより優しい。水銀燈は大きな袋を小脇に抱えていて、それはなにか角張ったものをたくさん入れているように見えた。

 水銀燈はツリーのもとまで歩み寄り、膝をついて袋を置いた。

 がさごそと中をあさり、ツリーの根元に一つ一つ大事そうに並べていく。

「これが金糸雀の、これが雛苺、私、真紅、翠星石、蒼星石、雪華綺晶……で、」

 はい、と渡されたのは薔薇水晶が見慣れたあの箱だった。

「いらない訳ないじゃなぁい。あなたの分」

 最後のアッガイシリーズ。末っ子の紫。

 薔薇水晶は胸にさっきまでくるまっていた布団を詰めていくような気分になって、口をただ曖昧に開いていた。

「……これ、」

 言いかけたときだった。

 ───よく知っている柔らかい香りに包まれた。

 薔薇水晶の視界にかすかな明かりに照らされほんのりと浮かび上がる水銀燈の髪が映り込む。

 頭と、背中が、温かい。

 あれ、お父様に抱かれていたときにちょっと似ている。

「これだけ一緒に過ごしておいて、妹じゃないなんて言わないでちょうだい」

 ああ、銀姉のこんなに苦しそうな声、初めて聞くかも。と、事態を半分しか飲み込めていない薔薇水晶は間抜けな事を考えていた。

 いとおしむように頭を、髪を、手が伝っていく。

 懐かしい。

 初めてだけど。

 水銀燈はいつもの口調からすこししかるように変えて薔薇水晶に語りかけた。

「勝手に私たちが、私が、あなたを嫌っているなんて勘違いしないで。この九ヶ月がなかったことみたいに言わないで。思っていることを無理に隠したりしないで」

 そこで一旦体を離して、水銀燈はその紅い目で薔薇水晶の金色の片目を捉えた。互いの瞳にはドールだった頃には見せなかったような光が溶け込んでいた。

 水銀燈は薔薇水晶の頭に両手を伸ばすと、慌てて止められる前に彼女の眼帯を外した。

「妹なんだから、ちったあ甘えなさいよぉ。そんなおまじないなんてしてないで」

 眼帯に隠されていた目は決してうつろな眼窩などではなく、双方変わらない金色の瞳。しかしちがったのは涙である。

 たった今現れたばかりの片目は、堰を切ったように涙を流していた。

「ちょっと……何を」

「一回も泣いていないんでしょぉ? そりゃそうなるのも当たり前よぉ」

「や、やだ、止まってよ、止ま……」

 そこでもう一度抱きしめられ、薔薇水晶は全ての涙を止める術を失った。

 

 時折、ずっと向こうで車が過ぎてゆく。

 しかしそれもけっして一人の少女の押し殺した泣き声を隠すには至らなかった。

 夜の深みに響く時計の針の音が規則的に部屋を闊歩していた。

 この家で一度も見せた事のない涙は、ようやくその勢いを落としていった。

「……銀、姉」

「なぁに」

「ローゼンがね……言ってた。私、ローゼンに、新しい体……もらったんだって。ローザミスティカはないけど、きっと動けるって」

「……じゃあ、ちゃんと妹になれたじゃない」

「……うん。それは私の、本当じゃ、ないけど」

「じゃあ半分妹ねぇ」

「へへ」

 薔薇水晶はより強く水銀燈に抱きつき、胸元に顔を押し付けた。

「───私ね、お父様を探さなきゃ。体もらうまえの、私みたいに、nのフィールドに……迷い込んでるらしいから。だから、nのフィールドにいようと……思う。多分、銀姉にも……会いに、いけない。けど、きっと会いにいくから。ずっと忘れないで、いつか絶対、会いにいくから。帰ってくるから」

「……バカね。その前に、私からいくわよぉ。みんなだって、きっとたまには手伝ってくれるわ」

「……ん。ねえ銀姉」

「なによぉ」

「今までずっと黙ってたけどね」

「けど?」

「もう言うことにした」

「ふふ、何かしらぁ」

「───好き。銀姉、私、銀姉のこと、すき。大好き」

 グラスを指ではじいた時のように空気がピンと張りつめて、薔薇水晶は全てを言ってしまったことをちらと後悔したが、それを打ち消すように水銀燈は笑った。

「薔薇水晶、あなた半分妹になったのよねぇ……じゃあ、もう半分は?」

「……」

 なるほど、と薔薇水晶は思った。

 しかし水銀燈からもらった甘い『正解』はあえて口にせずに、薔薇水晶は彼女に体重を預けた。

「……いわない」

「あら、強情」

 ツリーには八つの靴下。紫にとなりあって吊るされているのは、黒。

「薔薇水晶、私も、」

 

 そのとき、リビングのドアがはじけるように開いた。

 

「あ」

「……え?」

「な……こ、これは……」

 薄明かりを背後にしょっているのは、翠星石。

 なにかいけないものでも見てしまったような、むしろずっと待っていたような、複雑な顔色を呈してから、翠星石は階段の上に向かって号令を打ち上げた。

「ヤローどもー!! 水銀燈が薔薇水晶をロウラクしているですよー!! やるなら今ですぅー!!!」

『応ッ!!』

 薔薇乙女らしからぬ威勢のいいコール&レスポンスを経て、六人姉妹たちは一斉にくらい部屋になだれ込んでいた。おのおの何か小さいものを持っている。

 誰かが明かりをつけ、同時に手に持ったそれが密着した二人に発射される。

 すぱぱぱん、と軽妙な破裂音が続いた。

 闇に慣れた目がようやく状況を映す──クラッカー?

 

『おめでとう、薔薇水晶!!』

 

「……へ?」

 ここ数十秒の展開を全く把握できていない薔薇水晶に、真紅が普段見せたこともないような満面の笑みを向けた。

「名実共に妹になった、あなたのためのお祝いよ」

「で、でも……クリスマスパーティ、もうやったんじゃ……」

「誰が仲間はずれにすると思って? 今日はもうそんなのやめにして、あなたのためにパーティを開くことにしたのだわ」

「そんな……」

「薔薇水晶」

 おなじみのツインテウィップのように厳しげな口調で真紅は断言する。

「いいかしら? 私たちは全員、あなたを妹だと思ってるわ。……もちろんあなたは私にとどめを刺したし、他の子たちにも大変なことをやってしでかしたけれども、今は……大切な妹なのよ。だけどね、いくら私たちが薔薇水晶あなたを姉妹だと思っても、あなた自身がそう思ってくれないことには始まらないの」

「真紅……」

「ああ、貴方……眼帯、外したのね。初めて見たわ」

 リミッターが外れてしまっている薔薇水晶がまた泣きじゃくりそうになったのを、慌てて翠星石が止めにかかる。

「ああ、やめですやめです! そーいう辛気くさいの! ほら、もう結構な夜中ですけど、構わんですよ……パーッとやるですぅ!」

 その一声に、さっきからうずうずしていた雛苺と金糸雀は一気にはしゃぎまじめ、S極がN極に吸い寄せられるように薔薇水晶(と、水銀燈)に突進した。

「よかったのよ、ばらしー!」

「お姉ちゃん心配してたかしらー!」

「くるしいくるしい」

「ちょっとアンタ達! 三人分の体重を腹筋だけで支えてる私の身にもなってみなさぁい!」

「えへへー!」

 その間にも知覚できないレベルの速さで行動していた雪華綺晶は、テーブルの上に作ってあった料理を並べ始めていた。今にもつまみ食いと称して全て平らげそうな鬼気迫る挙動である。

 慌てて蒼星石が手伝いはじめた。

「き、雪華綺晶……落ち着いて。まだまだあるから。たくさんあるから! ね!」

「おおおおなかがすいてやややばいですわ……あ、お姉様これって温めます?」

「あー、これとこれはいいですよ。でもこっちはあっためた方が美味しいですね」

 流れにおいていかれてあっけにとられる薔薇水晶に、水銀燈がそっと耳打ちした。

「皆ね、あなたのこと心配してたのよぉ……翠星石は遅くなることを見越して、冷めても美味しいメニューを選んでたし。実はケーキも、急いで別のメッセージにしたのよぉ」

「……?」

 二人の妹のような姉を首根っこからぶら下げて無理矢理にテーブルまで歩くと、その真ん中にクリスマスケーキだったものが据えられていた。

 ただし、サンタのお菓子がいたところには不自然な空白ができていて(誰かが証拠隠滅に食べたらしい)、チョコでできたメッセージプレートには「メリークリスマス」ではない言葉が躍っていた。

 

『みんな なかよし』

 

 自分たちで(雛苺か金糸雀だろう)書いた字らしく、お店のプロがつくるものには到底及ばぬたどたどしい筆跡だったが、その言葉は姉妹達の胸に一つの未来を導いていた。

 それは今まで傷だらけになった手を、はねのけていた手を、しっかりと握るための鍵。

 薔薇水晶は、泣きはらした顔をぐいっとこすって、ちょっぴり不器用に笑った。

「ありがと、───お姉ちゃん」

 

   +

 

 死屍累々。

 時計がてっぺんをずっと過ぎてからも騒ぎに騒いでいた姉妹達は、パーティーの片付けはおろか自分たちすらしまわないままに、おのおの床なりテーブルなりに突っ伏して動かなくなっていた。

 特に薔薇水晶、彼女は涙はおろか感情すら眼帯で押さえていたらしく、さらに「もう未成年とかそんなの関係ないよね!」とうっかりチューハイを飲んで出来上がってしまった蒼星石に絡まれ。

 ……酔っぱらったノンリミッター薔薇水晶がどうなったか、おそらく形容できるものはこの世にいないだろう。

 せめて大まかに「銀様はわらしのサンタさんらったのねー! うひひ!」やら「きらきーの太ももぉ! きらきーのふくらはぎぃ!」やら「ツンデレ翠星石先生おいしいれす」などの迷言が飛び出したとだけ言っておこう。

 そして明け方。

 何はともあれ疲れきった薔薇乙女たちの中、大量の翠星石の自信作の大半をぺろりと消費した雪華綺晶が一番に復活した。

「うう……頭痛い……」

 ずるりと乱れた髪が顔を覆うままに床から起き上がった雪華綺晶、その容姿は意図せずおどろおどろしいことになっていた。

 みず……みず……とテーブルの上を探る姿はすでに名作Jホラーである。

 ようやく指先がコップにふれ、誰のものか考えもせずに中に入っている液体を飲み下す。

 どうやらオレンジジュースらしい。アルコールだったら今度こそ彼女は再起不能になっていただろう。

 一息ついて広めのリビング(残念な乙女達が転がっているため足の踏み場はないが)を見渡すと、ツリーの下に八つ、何かが転がっていることに気がついた。それは箱だったり袋だったりと大きさはまちまちで、それぞれ黒、黄、緑……白とそれぞれ違う色をしていた。

(何でしょうか……? プレゼントならもう昨日開けたはずですわ)

 ゆらゆらとJホラー状態で歩み寄り、大して何も考えずに雪華綺晶は大きな白い箱の包装紙を丁寧にはがした。

 ───何か、見たことのある革製の鞄が現れる。

 抱えられる大きさのそれは、広い面の中央に薔薇のモチーフがあしらわれている。雪華綺晶の鼓動が早まった。

 これは。もしかして。これは。

 震える手で、鞄の留め金をはずす。

 ゆっくりと、開くと。そこには、

「──お父様」

 純白の雪の中から生まれたような、幻色の人形が横たわっていた。

「私、」

 これは、私だ。

 疲れきって眠りこける姉妹達を起こさぬよう、雪華綺晶は透明な声でそうつぶやいた。

「私……」

 第七ドール、雪華綺晶。その存在は精神のみにして、現実の体を持たず。

 それ故に起こった悲劇。

 しかし、これはそれを食い止めるため、差し出された手だった。優しい手。彼女の父親の手。

 ───私、今度こそ……今度こそ、きっといい子になりますわ。

 そっと一粒だけ流した温かい雫は、ドールのまとう柔らかなレースに音もなく吸い込まれていった。

 

 

 さあ、夜が明ける。

 有栖川町八人姉妹の朝がやってくる。

 

 

 つづく

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