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《.3》




 駅の西口には相変わらず人が溢れていた。出口から様々な方向へ人は歩いてゆき、人の流れはまさに川のようだった。

 結局、その後一ヶ月では大した変化は僕の身辺に起きることはなかった。
 当たり前である。
 たかが一ヶ月でそんな劇的な変化が起こるほど世の中は都合良く動いてはくれないし、肝心のきっかけも路傍の石のようにどこにでも転がっているという按配では無いのだ。

 僕のベクトル論が机上の空論となったのも当然だったのだろう。人生、ベクトルのように行くことは無い。紆余曲折の後にやっと人は目標に辿りつくことが出来るのだ。僕がそうであったように。

 それでも僕の心地は晴れ晴れとしていた。まあこの先何とかなるだろうという気がしていた。オディールの言った通り、側溝を流れていようといつかは川に流れ着くのだ。

 帰り道、いつもの曲がり角を左に曲がって少し歩くと、あのカフェが見えた。
 ふと気付けば、僕はレモン色のワンピースを着た女性がその雨避けの下にいないかどうか探していた。
 その頃の僕は時々、無性に彼女に会いたくなることがあった。しかし、その日以降毎日、休日もわざわざ散歩に出掛けてカフェの前を通ったにも拘わらず、彼女の姿を見つけ出すことが出来なかった。
 僕はどうしても彼女の事が忘れられなかった。透き通るように白い肌につややかなブロンドの髪。時折見せた純真で無垢な微笑、そして深く果てしない暗闇をたたえたあの表情――。

 その日も、彼女はそこにいなかった。 







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 玄関の鍵を開け、部屋の明かりを付けた。二十畳のリビングに敷き詰められたフローリングにまんべんなく塗られたワックスが照明の明かりを反射させていた。

 水槽の電灯のスイッチを付けた。前々日に水槽の水替えをしただけあって、水槽と部屋との境界線が分からないほどに水は透明だった。
 僕は一糸乱れぬ群泳より賑わう水槽の方が好きで、色々な魚を投入していった結果、統一感の感じられない何とも風情の無い水槽になってしまったのである。しかし、それはそれで色々な表情が見られて面白いものだった。
 水草は前から後ろにかけて高さを少しずつ高くなるように剪定してあって、それはさながら新緑の葉を敷き詰めてできた階段のようだった。
 その中をグッピーやらコリドラスやらオトシンクルスやらチェリーバルブやらが、がやがやとわめき散らすように水槽の中を縦横無尽に泳いでいた。まるで春の緑溢れる公園を駆け回っている子供たちを眺めているようだった。
 何匹かで固まって、水底を大きく伸びたヒゲで餌を探すコリドラスやグッピーの雄が雌に求愛している姿、他の魚たちが水槽の中層を悠然と泳いでいる姿は見ていて飽きがこないものだった。

 それから僕は、煙草を片手にぼんやりと今日の夜ご飯や三週間後の試験の事を考えながらぼんやりと水槽を眺めていた。

 どれくらい経った時だっただろうか。突然、家の電話が鳴ったのである。ほとんど部屋を飾るオブジェと化していた電話からの電子音に僕は少し感動を覚えた。ちゃんと機能していたんだ。

「もしもし、白崎ですが」僕の声は緊張で少し上ずっていた。
「もしもし」相手の声は落ち着いた中年独特の低さを帯びた声だった。
「父さん?」
「ああ」
「…………」
「久し振りだな」
「うん」 

「元気にやってるか」
「うん。何とか」
「大学はどうだ」
「ぼちぼち」
「そうか」
「…………」
「二年振りかあ。大学進学のお祝いパーティーの時以来だな」
「そうだね」
「楽しかったなあ」懐かしむような声で父が言った。
「うん」
「母さんも元気だ」
「そう」
「声が聴きたいか?」
「いや、大丈夫」
「そうか」
「…………」
「魚たちは元気か?」
「うん。この間グッピーが一匹死んだ。一年くらい経ってるから多分寿命だと思う」
「そうかあ」
「…………」
「この間ヒューストンで講義をしてきたんだ。でかい病院なんだ。ガン治療の最先端でな、アメリカ中から患者が集まるんだ」
「ふーん」
「それでな、そこの大学の教授と宇宙センターに行ってきたんだ。宇宙食を貰ってなあ。後、ウイスキーも何本か貰ったんだよ。他にも――」
「家に来るの?」

 煩わしかった。
 父のこの核心には降れず、遠回しな語り口から段々要点に近付いていく語り方が僕は大嫌いだった。
 僕が中学に入り一人暮らしを始めた頃から、まるで放射状に伸びる螺旋階段をゆっくり降りていくようなこの語り方にだんだん変わっていったような気がする。

「…遊びに行って良いか?」声を潜めるようにして、乞うような口調で父は言った。
「良いよ」
「そうかあ」溜息混じりに父が言った。
「いつ来るの?」
「そうだな、来週の今辺りに来れるかと思う。母さんも一緒だ」
「そう」
「…………」
「楽しみにしてるよ」
「ああ。上手いウイスキーだ、楽しみにしてくれ。じゃあな」
「うん。じゃあ」

 そう言って僕は電話を切った。電話の液晶面には父のPHSの電話番号が表示されていた。
 両親が来ようと来まいとどっちでも良かった。でも、もし受話器を取る前に液晶の存在に気付いていたら、きっと僕はその受話器を取らなかっただろう。そして父もきっと、留守番電話にメッセージを残すことは無かったのだろう。
 僕と両親の関係はその程度のものであったのだ。一本の透明なビニール糸で繋がった程度の希薄な関係。鳥と違って、ウサギに刷り込みの習性は無いのだ。
 ウイスキーが飲める以外に父がここに来る意義が僕は何一つ見出だせなかった。 






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 父の突然の電話から三十分ほど経った後、今度はインターホンのベルが鳴った。

 僕のマンションは一階のエントランスのドアにロックが掛けられてあり、鍵を差すか解除キーを入力しないと開かないしくみになっている。
 来客は用のある人が住む部屋の番号を入力し、呼び出しボタンを押す。すると、その部屋のインターホンが鳴るのである。

 煙草の火を消し、重たい腰を上げインターホンの受話器を取った。

「はい、どちら様でしょうか」
「あのう、白崎さんで間違いないでしょうか」それは女性の声だった。
「はい、間違いないです」
「…えっと、白崎くん、かしら?」
「えっ、はい、そうですけど」
「良かったあ。私です。オディール・フォッセーです」

 ええっ、と思わず大きな声を出してしまった。ギョロッとした目でこちらを注意深く見ていたコリドラスはびっくりして水槽の裏に隠れてしまった。

「ど、どうも。お久し振りです」
「久しぶり。元気してた?」
「うん。あのさ、ちょっと待って、今ドアを開けるから」そう言って僕はインターホンに付いている解除スイッチを押した。

 それからすぐに玄関のドアをノックする音が聞こえた。僕は急いで玄関に向かい、ドアを開けた。 


「こんにちは」と僕。
「もう六時半よ。こんばんはの方が正しいんじゃない」とオディール。
「確かに。それにしてもどうしたの?」
「ええと、はい、これ」

 そう言って彼女は僕が貸した傘を差し出した。きれいに畳まれていて、心なしか汚れも落ちているような気がした。

「これって」
「ええ。やっぱり返さなくちゃと思って」
「そんな、良かったのに」
「いいじゃない。何だか高そうだし。それに私には少し大きすぎるんだもの」
「君のお父さんは使わないの」
「私、一人暮らし」
「あっ、そうなんだ」
「ふふ、白崎くんと一緒ね」と彼女はクスッと笑った。
「はは、そうだね」と僕も笑った。

 そして彼女は「じゃあ私、帰るね」と言った。
 折角わざわざ傘を届けに来て貰ったのに茶の一杯も差し上げないのも何とも上手くないと思い、家に上がってはどうか、と僕はオディールに言った。
「本当?あなたの家の水槽、見てみたかったのよ」 






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「うわあ、凄く綺麗」と水槽を眺めながらオディールは言った。
 オディールは水槽に齧り付きっぱなしだった。数匹で固まって逃げるコリドラスを追い掛けたり、脱皮したエビの抜け殻や水草が葉の裏から酸素の気泡を出す様に感動の溜息を漏らしていた。
 僕はそんな彼女を横目に見遣りながら夕飯の支度をしていた。僕がもう遅いから夕飯をご馳走したいと申し出たら快く受け入れてくれたのだった。
 野菜のスープとミートスパゲティと水菜とレタスとダイコンのサラダ。一応、ヘルシーさに気を遣ったつもりのメニューだった。


「美味しい。とっても」各品目を一口ずつ食べて彼女は言った。
「ありがとう。よく分かんないけどこんな感じで良かったのかな」
「ええ。このスープは?」と自分のスープを指差して彼女が訊いてきた。
「実は余り物のポトフをミキサーにかけただけ」
「へえー」
「ポトフって、色々使い道がある便利な料理なんだ。こうやってミキサーにかけてスープになるし、カレーにも使えるんだ。良いダシが取れてるからね」
「凄い、何か料理の鉄人みたい」
「はは、何それ」

 食べ終わった後、オディールはまた水槽を眺めていた。立っているのも辛そうだったので椅子を貸してあげた。

「ご両親はたまにはいらっしゃるの?」水槽を眺めながらオディールが訊いてきた。
「一年に一回か二回くらい。ほとんど来ないよ」
「そうなんだ」
「さっき電話があってね。君が来る三十分くらい前だったかな。来週来るって」
「良かったじゃない」
「そうかなあ」
「そうよ。家族は大切にするものよ」水槽の方に顔を向けたまま、彼女ははっきりとした口調で諭すように僕に言った。

 お礼に皿を洗うと彼女は僕に言った。遠慮したのだが、どうしてもお礼がしたいからとそれを拒んだ。
 そして彼女は皿を洗い終わり、その後また水槽を眺め始めた。僕はその姿をぼうっと眺めていた。

「そういえば」彼女はこちらを振り向いて言った。
「なに?」
「友達は出来た?」
「えーと…ううん、まだ」
「そっかあ」そう言ってまた水槽の方に顔を戻した。
「ねえ」
「なに?」
「これ、何て言う水草?」
「どれ?」僕は椅子に座る彼女の横に行って、訊いた。
「これ。この芝生みたいな水草。これが一番綺麗」
「これはリシアって言うんだ。苔の仲間なんだ。ほら、ひとかたまりのように見えるけど、本当は銀杏の葉のミニチュア版みたいな一つ一つが集まって出来てるんだ」
「あっ、本当ね。ねえ、どうしてこれだけ金網の中に入ってるの」

「ああ。これは元々浮き草なんだ。無理矢理沈めて使ってるんだ。だから光や二酸化炭素、栄養にうるさくてね。たくさん必要なんだ。しっかり手入れしなきゃ下の部分から溶けてしまう。でも上手く馴染んでくれれば、こんな風に立派に成長して泡の絨毯を作るんだ」

 リシアは、その枝葉のような体に光合成で生じた酸素の小さな気泡をびっしりと見に纏っていた。その光景は息を呑むほど綺麗だった。

「何だか」
「えっ」
「何だか、恋みたいね」
「恋?」
「そう、恋。ただぷかぷか浮かべているだけじゃ駄目なの。そして水に沈めた後もしっかり育ててあげないと枯れてしまう。でも丁寧に育ててあげれば、こうやって輝きを発するのよ」
「ロマンチックだね」
「ふふ、そうかしら」と彼女は笑った。
「本当、綺麗ね」

 それから二人は黙って水槽を眺めていた。魚たちは相変わらずせわしなく動き回り、水草は次から次に酸素の気泡を水中に吐き出していた。
 時折、僕は彼女の方をちらっと見た。彼女もこちらを見ていたらしく、ぷいっと視線を水槽の方に逸らすのだった。
 短針は“九”に差し掛かろうとしていた。しかし彼女は帰るような素振りを一切見せず、ただじっと水槽を眺めていた。そして、その状況を楽しんでいる僕がいたのもまた事実であった。
 そうして僕らは水槽と横顔との間で視線の追いかけっこを小一時間続けたのだった。

 九時三十分を過ぎた頃、彼女は帰ると言った。

「あのね、白崎くん。ひとつお願いがあるの」
「なに?」
「これからも水槽を見に来て良いかしら?」 






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 それから程なくして、僕とオディールは付き合いを始めた。正式に交際を申し込むということはしなかったが、お互いにその事は分かっていたし、今更改まって交際を申し込むのも何だか気恥ずかしかったのだった。それはオディールも同じ気持ちだったのかも知れない。

 彼女はその日以来ほぼ毎日僕の家にやって来て、水槽を眺めていた。
 僕は彼女に、餌当番の役割を任せた。きっと喜んでくれるだろうと思ったからである。
 事実、彼女は「見て見て、グッピーが口をパクパクしてる」とか「凄い、この赤い魚、ハヤブサみたいに餌を取ったあ」とか「コリドラスって砂底をほじくって餌を探すのね。可愛い」などと楽しんでいてくれた。

 ある日、彼女は涙を流し「メイメイが死んじゃった」と言った。メイメイというのは、コリドラスパンダと言う、パンダのように目元にぶちがある魚のある一匹である。彼女の特にお気に入りの魚だった。
 彼女が埋めてあげたいと言ったので、僕はいつも魚が死んだときは埋めている近くの公園に連れていった。

「ここには何匹くらい眠っているの?」
「そうだな、五十匹くらいになるのかなあ」
「そんなにいるんだ」

 メイメイを土の中に埋め、手を合わせた後彼女は、

「みんな、新しい仲間よ。仲良くしてあげてね」と言ったのだった。

 彼女は同じ大学だった。僕は経済学部経営学科、そして彼女は農学部だった。
 大学二年生はまだ養成期間だったのだが、キャンパスが違っていたためお互いの事を知らなかったのである。
 彼女と僕が同じ大学だった事は、僕にとって思わぬ好転へとつながった。

 彼女は、大学でも一、二位を争うほどの人気だったのである。

 それ故に、僕とオディールとの交際の噂は全キャンパスを水溜まりに落ちた波紋のようにすぐに広まっていった。僕に話し掛けてくる人も急激に増えた。そのおかげで、友達と呼べる存在も出来たのだった。

 オディールに会うまでは、槐とその周りのごくわずかな部分が僕の世界の全てだったと言える。そして境界線には柵が張り巡らされていた。
 しかし、オディールはそんな僕の柵を取り払ってくれたのである。僕の世界は、驚く程広がった。それまで全く見えていなかった世界が見えるようになった。
 それはまるで、小さな川が他の川と混ざり合うようだった。僕という雨粒だけで構成されていた川に槐やオディールという雨粒が混ざり合い、そして他の川と合流する。
 オディールと僕の交際が始まった瞬間、その瞬間がまさに、それだった。

 両親は結局、家には来なかった。後日、家に留守番が入っていた。急に予定が入り行けなくなったという旨の伝言だった。
 それは決して珍しくないことだったので特に気にも留めなかった。
 僕がその事をオディールに話すと「残念ね」と、あの時と同じような翳りの見える表情で言った。

「折角久しぶりの再会だったのに」
「別にいいよ、慣れっこだし」
「どうしてよ、折角来てくれるって言うのに」
「うーん」
「とにかく、次はちゃんと来て貰うように言いなさいね」
「分かったよ」
「約束よ」
「ああ、約束だ」 






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 僕とオディールとの出会いから三ヶ月ほど経った時のことだ。
 その日は珍しく朝からオディールが家に来たのである。
 特にすることも無かったので、二人でのんびり公園を散歩した。
 その公園は僕の家から歩いて十分くらいのところにあり、ちょうどその頃銀杏の木の葉が黄色く紅葉していて、辺り一面が黄色に染められていた。
 そこで二人はベンチに腰掛け、その黄色い世界をずっと眺めていた。
 取り留めの無い話をしていると、時間はあっという間に過ぎ去ってしまった。
「今何時?」
「ちょっと待って。三、二、一、はい。ただいま一時です」
「えっ、もう一時?」
「うん。早いなあ、時間が過ぎるのは」
「本当。大人になればなるほど早く感じちゃうわ」
「まったくだよ」
「そう、一時なのね…」

 そう言ってオディールはぼんやりと空を見詰めた。
「ねえ」空を眺めながら彼女は言った。
「何?」

「何?」
「ワン・オクロック・ガンって知ってる?」
「…一時の銃?」
「えっ?」
「だから、ワン・オクロック・ガンなんだろう。一時の銃だよ」
「…ふふっ、そう、一時の銃。どんな銃だろうね」
「うーん。やっぱり何か一時に関する凄い力があるんだよ」
「どんな力?」
「そうだなあ。撃たれた相手は今一時だってことを強制的に確認しなければならない」
「あはは、何それ」
「体が勝手に動いちゃうんだよ。腕時計とかを見なきゃ気が済まなくなるんだ」
「じゃあ、周りに時計がどこにも無い場合はどうなるの?」
「時計がある場所まで走っていく」
「うわー、それは嫌だ」
「だろう?地味に嫌な能力なんだよ」
「本当、いやらしい力ね」
「それで、本当の意味は?」
「ふふ、秘密よ」
「ええっ、秘密?」
「そう。秘密」

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