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「……そう。確実なのね?」
 
 今しがたチェックインしたばかりのツインルームの窓辺に佇み、緋色のスーツを着こなした乙女は、超然と下界の雑踏を見おろしながら訊き返した。
 彼女の長く艶やかなブロンドが、降り注ぐ柔らかな日射しに輝く様子は黄金の滝のようで、まさしく神秘的と評するに相応しい眺めである。
 その横、いかにも寝心地のよさそうな広いベッドには、寄り添うように置かれたスーツケースが、ふたつ。一方は、彼女の持ち物。もう一方は――
 
「すべての航空便のリストを照会して、疑わしい荷物がこの国に搬入されたことは掴んだです。名義は違いますけど、たぶん偽装だと……」
 ブロンドの乙女に答えた人物の持ち物だった。栗色の長い髪と、緋翠の瞳が特徴的な、これまた見目麗しい乙女である。
 少女のあどけなさを微妙に残す面差しをしてはいるが、しかし女性へと確実に成熟しつつある娘だった。
 
「たぶん、なんて曖昧なことでは困るわね、翠星石。私たちは、この国の警察機構よりも速やかに、かつ秘密裏にアレを奪還しなければならないのよ」
  
 言って、ブロンドの乙女は翠星石と呼んだ娘へと、顔を向ける。
 澄んだ蒼眸。陶磁器を彷彿させる白皙。切手のデザインにもなった菱川師宣の作に『見返り美人』という絵があるが、このブロンドの乙女も、まさしく見返り美人だ。
 彼女は緩やかな仕種で窓辺を離れると、ベッドの端に細い腰を下ろして、スーツに皺が寄るのも構わず横たわった。
 
「アレは世に出してはならない代物なのだわ。本当なら、絶やしてしまうべきかも知れない。それほど危ういモノよ」
「解ってますです。先行したエージェントも極秘に調査を進めてますから、ほどなくアレの所在が掴めるでしょう」
「……そうね。貴女たちを信頼しているわ」
「真紅はリーダーらしく冷静沈着に、どーんと構えてればいいですよ」
 
 そうね。真紅と呼ばれたブロンドの乙女は微笑と賛意の句を返すと、静かに瞼を閉じた。よく見れば、美しい顔立ちには化粧で隠し切れない疲労が表れている。
 ここ最近の騒動で満足に眠れず、そこに時差の狂いまで重なっては、いかに屈強な男でも厳しいものがあろう。ましてや華奢な乙女では、限界が自ずと知れる。
 
「正直、身体が言うことをきいてくれなくなってるわね。二時間ほど眠らせて。いつものCDを用意してちょうだい」
「はいですぅ。紅茶の支度と、スコーンも焼いておくですから、ゆっくり休むといいですよ」
 
 翠星石がポール・モーリアのCDをプレイヤーにセットする横で、真紅は深い眠りに沈もうとしていた。翠星石に靴を脱がされ、ベッドに寝かしつけられる間も覚醒しなかったほどに。
 けれど、安らぎを求めたはずの眠りでも、真紅のココロが休まることはない。悪夢に呑み込まれてしまうのが常だったからである。
 アレの所在と、アレに関連した者たちの名は、彼女の感情に絡みついた縛鎖。そしてまた、真紅は夢魔の戯れに囚われる……。
 
 
       §       
 
 
 なにかを作る場合、想いの強さだけで成し遂げられることは希である。多くの場合、そこには様々な制約が絡んでくるからだ。
 たとえば、時間の少なさであったり、技術的な問題であったり。とりわけ大きな問題は、資金の窮乏だろう。この問題解決に腐心しない者など、まず存在しない。
 目指すモノが本格的になればなるほど、その影響力は顕著となる。必要な機器や材料を調達するにも、まずは潤沢な資本があればこそ。
 カネ、モノ、ヒト。これら必須の三要素が揃ってこそ、ピラミッドなどの世界遺産に見られる、人類史に燦然と記憶される偉業を成し遂げられるのだ。
 
 桜田ジュン少年の場合は、どうなのだろう? まずは、ヒト。これは、薔薇水晶という講師や、パトロンとも言うべき姉の存在を見れば、充分にクリアしている。
 手先の器用さや裁縫の技能、自由に使える時間など、有形無形のモノも申し分ないほど基準を満たしていた。ジュン本人は、まだ自身の技能を過小評価している様子だが……。
 更に、最後のカネ。これもまた、幸いなことに恵まれている。ジュンが自ら稼いだ資金ではないが、彼のために用意されたことに変わりはない。
 
 結論として、既に必須の三要素は揃っていた。目的の達成は、もはや約束されたも同然だった。実に素晴らしい。
 ただ一点――ジュン自身が、どれほど長く情熱を保ち続けられるのか、その不確定要素を除けば。
 
 
「あー、ダメだ。頭と手が、ちっとも働いてくれないよ」
 
 講義を始めてから早三時間――聞こえよがしに放たれたジュンの弱音が、二人の乙女の関心を誘う。ジュンにしてみれば、いつもの独り言だったのかも知れない。しかし、彼女らにとっては違う。
 先に口を開いたのは、本講義の同窓の徒である黒髪の少女、柿崎めぐだった。彼女の前に広げられたスケッチブックも、真っ白いままだ。「桜田くんも、苦戦してるみたいね」
 
「柿崎さんも?」
「もやもやしたイメージは、あるんだけど。それを視覚化するとなると、なかなかね」
「僕は、イメージすら浮かんでこない」
 
 元々が冷やかし半分での参加だっただけに、ジュンは具体的な案を練っていなかった。人形製作にしても、漠然とした甘い認識でいた。出来映えのパーツを取っ替え引っ替えするブロック遊びみたいな感じだろう、と。
 ところが、蓋を開けてみれば本気も本気。最初から全力疾走の様相を呈している。だのに、スタート直後にもう蹴躓いてしまったような、ジュンはなんとも惨めな想いに苛まれてしまうとは……。
 やはり僕には無理なんだろうか? そんなネガティブ思考は、いつもの悪い癖。気持ちを切り替えるべく、ジュンは独りごちた。
 
「とっかかりさえ掴めれば、すんなり進めそうなんだけどな」
 
 ジュンの言い分は満更、負け惜しみでもなかった。人形に着せるドレスのデザインなら、すぐにでも2、3パターンを出せる自信がある。無論、それ以上だって。
 しかし、肝心の『とっかかり』――すなわち、どんな人形にするのか、そのインスピレーションが一向に閃いてくれなかったのだけれど。
 
「あまり気負っては、ダメ」
 
 いままで彼らの作業を見守るだけだった薔薇水晶が、静かに語りだす。「作ろうとしないで。鏡面のようにココロを鎮めて、内側から自然と生まれてくるのを待つの」
 急いては事をし損じる、と。そう言いたいのだろう。けれども、時間だって無限に費やせるワケではない。ましてや、回数に限度のある講座だ。
 ドレスの縫製までカリキュラムに含まれているとなれば、可能な限り予定を前倒しにしたいと浮き足立つのも、やむを得ない人情だろう。
 
「せめて今日中には、大雑把な人形の仕様を決めちゃいたいんだ。顔とか身長なんかの外見を」
「そうよねー。私も、やるからには中途半端で終わらせたくないし」
  
 薔薇水晶はピンと立てた人差し指を、そんな二人の前で左右に揺らした。外人がよくやる、ダメダメのジェスチャーだ。
 
「それじゃ本末転倒。この講座が目的としているのは、あなたたちだけのお人形を生みだすこと。なんでもいいから、とりあえず完成させるなんて主旨に反するわ」
「僕たちだけの人形って言っても……」
「……ねえ?」
 
 ジュンとめぐは口ごもり、顔を見合わせる。自分たちだけの人形とは、つまりオーダーメイド。一品物なら、すべてが該当するのではないか。
 彼らの認識は、薔薇水晶の失笑を買った。しかし、それは嫌味なものではなく、幼子に言って聞かせる母親にも似た包容力に富んだ艶笑だった。
 
「あなたたちだけのお人形は、あなたたちの理想や欲望を投影した、鏡像。要するに――」
 
 言って、薔薇水晶は琥珀色の瞳を、ジュンに投げかけた。「ジュンが望むことは、なぁに?」
 続いて、彼の隣りへと滑った視線が、めぐを射抜く。「めぐは、なにが欲しいの?」
 あなたたちは、満たされない渇望を潤したくて彷徨い歩き、ここに辿り着いた遭難者。薔薇水晶の琥珀色の瞳から、少年と少女に向けた無言の意志が伝わってくる。いまこそ本音をさらけ出せ、と。
 
 暫しの静寂があって。「私は……」
 めぐが蚊の鳴くような、か細い声で呟いた。「ずっと逢いたいと願ってた。私だけの天使に」
 
 もちろん、天使は空想の産物である。どんなに追い求めたところで、彼女の胸裡にしか存在し得ないアストラル。その天使の手を握ることなど、誰にもできない。生みの親とも呼べる、当の本人でさえも不可能なのだ。
 けれど。そう、けれど。もしも、少女の夢想が、人形という媒介を得たとしたら。
 
「……そうよ。私が生みだしたいのは、天使なんだわ」
「めぐの扉は、そこにある。あなたが抱いている理想のすべてを、お人形に投影しなさい。一片も残さず、完全に。あなたがココロから欲すればこそ、あなただけのお人形は顕現する」
「だったら、僕は――」
 
 長い長い孤独と退屈の中で、ジュンが強く望んだことと言えば、やはり自分を完全に理解してくれる者が欲しい、の一点だろう。
 たった一人で構わなかった。性別や年齢差など、二の次だった。しかし、探してみればインターネットでも、オンラインRPGでも出逢えなかった。安らぎをくれる親友なんて、どこにもいなかった。
 現実は理想どおりにいかなくて、ジュンはいつからか、自分の人生さえ巷に溢れる三流映画のごとく見なすようになっていた。悉く展開が読めてしまう、くだらなくて退屈な映画でしかない、と。
 本当は誰かと繋がりを持っているはずなのに、その確かな絆が見えず、感じられず……結果として『怖れ』の台頭を許した節はある。端的に言って、心身共にボロボロだった。
 もしかすると、あの性格の悪い『怖れ』もまた傷つき拗くれた少年のココロが一抹の慰みに生んだ、ひねくれ者の友だちなのかも知れない。
 
「僕は、よき理解者を求めてる。いつでも傍にいてくれて、なにもかもを打ち明けられる相手、的確なアドバイスをくれるココロの拠り所が欲しいんだ」
 
 薔薇水晶の眼が、すぅっと涼しげに細められた。柔らかそうな唇の隙間の奥には、並びのよい白い歯が見え隠れしている。
 いつもながらの艶然とした笑みに、ジュンの背筋が粟立つのを感じた。もしや、この娘は魑魅魍魎の類ではないのかと、突拍子もない怖気さえ浮かんでくる。その一方で、とり殺されても構わないかも……などと狂気も生まれていた。
 どうして、こんな風に感情が乱れるのだろう? ジュンの困惑を見抜いてか、薔薇水晶は手を打ち鳴らし、場の空気を引き締めた。
 
「つまり、姉妹や兄弟が欲しいの? それとも、親友や先生?」
「どっちかと言えば、親友かな。歳は同じで。家族よりは遠くて、だけど、しっかりと絆で結ばれてる感じがいいんだ」
「それは、男の子? 女の子?」
「……どっちか片方しか選べないのなら、難しいな。できれば両方って言いたいよ」
 
 ジュンの優柔不断さを笑い飛ばすでもなく、「そうよねえ」と賛意を表したのは、めぐ。左手で頬杖を突き、右手では器用にペンを回している。
「私は一人っ子だけど、桜田くんの気持ち、解るよ。家族よりは親友がいいって言う、その距離感がね」
 
 しみじみとした口振りに、ジュンを揶揄するような響きはない。向けられた彼女の眼差しも、真剣そのものだった。
「家族なんて――」淡い光沢のリップグロスを塗っただけの唇が、妖しく躍る。「重たいだけの、煩わしい虚飾よ」
 
 思いがけず、冷たい響き。地の底から囁かれたような低い声に、親愛の情は欠片も窺えなかった。年齢的にも、まだまだ養われている身だろうに……なぜ、そんな突っぱねた物言いをするのか。
 ジュンと薔薇水晶が訝しげな目を向けた先では、めぐが物憂げに睫毛を伏せていた。奇妙な湿り気を帯びた空気が、彼女の長く艶やかな黒髪と相俟って、不安を掻き立てる闇へと変化してゆく。
 だが無論、そこに実際の翳りが生まれたわけではない。めぐの痩身から放射される正体不明の陰気に、ジュンたちの視覚が錯綜しただけである。すべては幻影だ。
 ひとつ瞬きした後には、相も変わらず頬杖を突いた乙女がいた。黙々と右手でペンを回し続けている様子はどこか朦朧とした感じで、ココロここにあらずと言った風情だった。
 
 直後、めぐの細い指から滑り落ちたペンは、渇いた音を立てて机上に転がった。
 それを合図に、めぐの双眸に意志の光が戻る。彼女の無気力や無感動を、そのまま練り上げて作ったかに見えた無表情も、一変して無邪気な少女のはにかみとなる。
 憑き物が落ちたような――の形容そのものの激変だった。あるいは、滲みだしたナニかが、瞬時にして内面へと引っ込んだだけなのか。
 ジュンの脳裏を、とある存在が掠める。自分に宿っている『怖れ』……めぐの内面にも、ジュン同様に暗澹たる別人格が大きく育っているのかも知れない。
 
「やぁね。二人して、なに神妙な顔しちゃってるの」
「だってさ、なんか切実な言い方するんだもん。気になるだろ、普通」
「たとえ冗談でも、あまり家族を悪く言うものではないわ、めぐ」
「むむ……孤立無援だわ。これは分が悪いわね。ごめんなさい、いま言ったことは忘れて」
 
 鼻の頭をポリポリ掻きながら、めぐは朗らかに笑う。よほど自身の感情を誤魔化し慣れているのか、無理に貼り付けたような不自然さは、どこにも見受けられない。
 更に眉間の皺を深くするジュンだったが、そもそも、彼らの目的は人形製作。それをおざなりにしてまで執拗に続ける話題でもないと思い直して、彼は表情を和らげた。
 薔薇水晶もすぐに興味を失ったらしく、元々の話に立ち返った。
 
「とりあえず、ジュンが理想とする親友のモデルを、ココロに描いてみて。男の子でも、女の子でも、すべてをスケッチブックという鏡に写し出してみるといい。そこから、ジュンの天使は生まれてくるから」
「トレーディングカードなんかを手当たり次第に集めて、その内から気に入ったデザインの一枚を選り抜くようなものか?」
「その喩えが適切とは思えないけれど、可能性を広げる点では、そうとも言える。取捨選択するも、複数のカードから長所を集めて融合するのも、あなたの望むままに」
「私も、同じ作業をするべきなの?」
「そうよ。あなたたちの傍に、天使は隠れている。Angel of Music。その聖なるアストラルを迎え入れるための器を、生み出してあげましょう」
 
 天使――と、薔薇水晶は呼んだ。彼らが創り出そうとしている人形は単なる偶像ではなく、天からの使いを迎え入れるための器なのだ、と。
 冷静に考えるならば、大それたこと。敬虔な宗教家ならば、神の御業を冒涜する畏れ多い所行とひれ伏しているところか。人間の欲望で、歪んだ神聖を創造するなど烏滸がましい、と。
 だが、それこそ無用の危懼というものだ。どれほど人に似せたところで、人形は人形。個々の空想を映す鏡にはなれども、魂の拠り所とはなり得ない。
 
 第一、人間が欲望に忠実であって、なにが悪い? この世に、私を捨てて公に尽くしている人間が、どれほどいる?
 ジュンは自答する。皆無だろう、と。誰であれ、なにかのカタチで己が欲望を満たなければ、精神の安寧を得ることなどできない。ジュンにとってのネット通販が、それだった。
 だからこそ、禁欲の生活などと言う自己欺瞞を肯定する気はなかったし、エゴイズムの最たるものだと軽蔑してさえいた。
 
 ともかくも――それ以上の思考を、ジュンは止めた。彼にしてみれば、この講座はあくまで趣味の延長。遊びの範疇を逸脱するものではなかった。
 どうせ頭を使うのなら、宗教的な倫理の検討ではなく、人形のデザインを思案するほうが有意義だ。それが本来の目的でもあるのだから。
 煩瑣哲学の真似事など、ベッドに潜り込んでからすればいい。睡眠薬の代替え品くらいにしておくのが適当だろう。
 
「じゃあ、もう少しだけ頑張ってみましょう」
 
 薔薇水晶の仕切り直しに、ジュンとめぐは居住まいを正し、ペンを手にする。
 難しいことは切り捨てて、人形のことにだけ想像力を逞しくすること。ただ、それだけ……。
 
 それからの数時間、ジュンたちは昼食を摂ることさえ忘れ、幼児のごとく無心で走らせ続けた。
 粛々たるプレハブ小屋に特異な抑揚をもって響くペンの音は、天使の秘めやかな息遣いのようであり、また荘厳な教会に流れるパイプオルガンの音色にも似ていた。
 
 あるいは――本当に、境界が存在しているのかも知れない。
 ふと、ジュンはそんな言葉遊びをしてみた。
 
 
       §
 
 
 遅い昼食も兼ねたティータイムで、記念すべき第一回の講座は円満に締め括られた。お茶請けに供された薔薇水晶のお手製クッキーは、市販品と遜色ない出来映えだった。
 とは言え、ジュンもめぐも天使のイメージを集約させるには程遠く、スケッチブックには数ページにわたって試行錯誤の痕跡が見て取れる。
 あまりに多くを書き込みすぎて、線が緻密な箇所は黒く塗りつぶされたかのようだ。清書する際には、相当な苦労を強いられることだろう。
 
 そんな彼らの努力の結晶を眩しげに見つめながら、薔薇水晶は、そこはかとなくサディスティックに唇の端を吊り上げた。
「デザインは、宿題。次回までに、三面図を仕上げてきて」
 
 次回とは、確認するまでもなく来週の土曜日であるが、そこは普段でも時間に余裕のあるジュンのこと。一週間もあれば余裕だろうと、いつもながらの楽観に行き着いた。
 事実、彼の中にはもう、ほぼ完璧な姿の天使が顕現していた。それを、塑像のように、この現世に浮かび上がらせればいいだけだ。
 そう言えば、国語の教科書で似たような小説を読んだなと、ジュンは思い出した。
 
「それじゃあな、薔薇水晶。また来週」
「さよなら。私の天使に逢わせてあげるから、楽しみにしててね」
 
 スケッチブックを胸に抱えて口々に別れの挨拶をするジュンとめぐに、薔薇水晶は笑顔で手を振って見せた。
「……ええ、待ってるわ。二人とも、暗くなる前に帰ってね。この頃、なにかと物騒だから」
 
 つい先日の、女子高生失踪事件について言っているのだろう。これまで至って平和な地域だっただけに、周辺市民の動揺たるや非常なものだった。
 警察の捜査で微量の血痕が発見されてからは、夜に出歩く人がめっきり減っている。子供たちも、どんなに遊びに夢中でも、夕方の五時になると家に帰る。
 薔薇水晶の家が警備会社と契約しているのも、扱っている商品もさることながら、今回の事件に影響されたのかも知れない。
 
「解ってる。柿崎さん、途中まで送っていくよ」
「あら、ありがと」
「ボディーガードにしては頼りないけどな」
「その卑下は余計だなぁ。子供っぽいわよ」
 
 実際、中学生なんて子供だし……。ジュンはそう切り返そうとして、止めた。ムキになって子供アピールしても、なんの得にもならない。
 彼の腕時計は午後四時を報せていたし、無駄口を叩く暇があるなら、それこそ早く帰宅すべきだった。
 そして彼らは、実際にそうした。
 
 
       §
 
 
 急速に夜の気配が近づいてくる中、ジュンとめぐは黙々と並んで歩いた。気が急いているのか、めぐの歩調は速い。うっかりすると置いていかれそうになる。
 ジュンの胸に、やっぱり僕って信頼されてないのかな……なんてネガティブ思考が膨らんでくる。
 悪い癖だとは彼も自覚していたが、往々にして、悪い癖ほど治りにくいものだ。よほど強烈な修正が入らない限りは、そのまま。
 
「あのさぁ――」
 けれど、さすがに沈黙は耐え難かったのか、めぐが躊躇いがちに口を開いた。「さっきの話、憶えてる?」
 
「え? なんだったっけ?」
 
 もしや、ソーロー乙の件だろうか? それとも、家族が煩わしく思える話? めぐが話した印象でジュンの記憶に濃く残っていたのは、それらだった。
 訝しげな顔を向けるジュンに、めぐは曇りかけた微笑を返した。
 
「ほら、薔薇水晶が言ってたじゃない。私たちの傍に天使は隠れているって話よ」
「ああ……あれね。いかにも女の子らしいメルヘンだよね。電波じみてるとも言うけどさ」
「桜田くんって、身も蓋もない言い方するのね。一言多いって、疎まれてたりしない?」 
「根が正直な上に口下手なんでね、御世辞とか社交辞令は性に合わなくって」
「ほほーう、臆面もなく言うじゃない。つまり、いろんな意味で損な性格ってコトか。幼稚とも言うけど」
「……柿崎さんもなにげに、無駄に敵を作るタイプだね」
 
 今日が初対面の二人だと言うのに、チクチクと刺々しい会話をしている。けれど、互いを不愉快に思ってはいない。罵り合っているような嫌悪感もない。
 むしろ、ここまで打ち解け、親近感さえ抱いていることが、彼らにとっても不思議だった。似た者同士と言われれば、そうなのかも知れない。
 もっとも、どこが似た者同士なのかと問われれば、ジュンもめぐも、その答えを明確に告げられはしなかったのだけれど……。
 
 二人は、悪戯な子供みたいに微笑み合った。
 今の彼らには、それが丁度いい距離感の解答だった。
 
「話を戻すわね。桜田くんは、自分の傍にいる天使を呼び出す自信、ある?」
「既に、天使が存在すること前提なんだ?」
「だって信じてるもの。女の子だし」
「そこはキリスト教徒だしって答えるところじゃないか?」
「細かいことは言いっこなし。それで、質問の答えはどうなのよ」
「……あるには、あるよ。姿は、もう見えてる。あとは綺麗に描き出してあげるだけだ」
 
 ジュンの口調には、迷える者に特有の揺らぎがない。めぐは「へぇ」と感嘆した。
 それから、なんだか夏目漱石の『夢十夜』みたいよねと呟き、胸に抱くスケッチブックに眼を落とした。
 
「ああ、それだそれだ。なんか引っかかってたんだけど、やっと思い出せたよ」
「なんのこと?」
「僕も、さっき同じこと思ったんだ。仁王は元から木の中に埋まっていて、それを掘り出しているだけだって言うエピソードだろ?」
「そうそう。あれと同じ感覚で、サクサクッと天使を生み出せたら楽よね」
「まぁね。等身大の人形製作なんて、そんなにインスタントじゃないだろうけど」
 
 正面、側面、平面の三面図を来週までに作ってこいと薔薇水晶が言ったのも、人形の各パーツを作るために必須だからだろう。
 デザインの精密度が、立体の構築――すなわち人形の完成度に影響を及ぼすことは、ジュンのような門外漢でも想像に難くない。最初が肝心なのだ。
 
「とりあえず、この一週間を大切にしようよ。後悔しながら製作を続ける羽目には、ならないように」
「そうね……あ、ここまででいいわ。家、もう近いから」
 
 めぐが、どこにでもある小さな交差点で立ち止まり、言った。気づけば、周囲はいよいよ日暮れ間際で暗く、空はすっかり青色を失っている。
 近くに聳える大学病院の陰に入ってしまったのも、暗さを助長しているのだろう。仰ぎ見る病棟は、その内に宿す妄執を声なき声で叫んでかのように、おどろおどろしい。
 そこに夕焼けの炎にも似た色合いが手伝えば、知らず、胸が怪しく騒ぎだすのも至極当然なのかも知れない。魂に刻まれた『怖れ』が反応しているのだろうか。
 辺りからは、すっかり人通りも消えて、それがまた不気味さを煽る。誰彼の区別なく、いたたまれなくさせる場所なのだろう。
 
「解った。じゃあね、柿崎さん。また来週」
「ええ、また来週。送ってくれて、ありがと」
 
 手を振って別れる。そんな他愛ない行為が、ジュンには、とても懐かしく感じられた。今ではもう、友だちと雑談に興じたりすることもなくなり、すっかり忘れかけていた感覚だ。
 けれど、呼んでくれる声に気づきさえすれば、誰も孤独になんてなりはしない。それを、こうして思い出せただけでも、人形製作講座を受講した価値はあった。
 
「ありがと、か。お礼を言うのは、僕のほうだよ」
 
 小走りに去ってゆく娘の後ろ姿に囁きかけて、ジュンもまた我が家へと走りだした。
 
 
       §
 
 
 ジュンが日頃の運動不足を呪いながら、何度かのインターバルを挟んで我が家まで完走したときには、すっかり日が落ちていた。
 確か、こんな時間帯だったんだよな……と、ジュンは夜闇に包まれながら、本当になにげなく、女子高生が失踪した事件の新聞記事を回想した。
 唯一の手懸かりである血痕が見つかった現場は、ありふれた住宅街の児童公園で、その日だけ照明が壊れていたと聞いている。
 捜査は身代金目当ての拉致誘拐の線で進められているが、犯人からの脅迫や要求は依然としてなく、それがまた近隣住民の不安を煽り立てていた。
 
「ま、夜陰に乗じてしか女の子を狙えないヤツなんて、非力な卑怯者なんだろうけど」
 
 勿論、女の子だけをターゲットにしているとは限らない。犯人が単独犯であるとも、偏執狂な男だと言う確証もない。ただ単純に、意図の解らない気持ち悪さを、ステレオタイプな変質者像に当て嵌めただけだ。
 ジュンも、それ以上の好奇心や探求心を発揮するつもりはなかった。想像を逞しくさせるだけ無駄と、達観しているらしい。
 
「いいさ、どうでも。僕に被害が及ばない限りはな」
 
 結局、多くの動物がそうであるように、ジュンもまた無関心を装った。誰しも、自分に関わりのないものには無頓着だ。あるいはトラブルに巻き込まれたくなくて、現実から目を背けようとする。
 たとえば、いま現在どこかで犯人が新たな犠牲者をその毒牙に掛けつつあったとしても、ジュンの与り知るところではないし、よしんば察知できても助ける術などない。
 祈ったくらいで遠い異国の瀕死の重傷者を救えるのであれば話は別だが、そんな能力が人間に与えられていたなら、世界はとっくに不幸な者のいない楽園と化しているだろう。
 
 だったら、下手に首を突っ込みすぎて、厄介事に巻き込まれるなんて馬鹿げている。ジュンとしても、事件よりは日々の食事や人形製作の進捗のほうが重要だった。
 街のあちこちに掲げられた目撃情報を募る看板を見かけるたび、有力な証言など出てきっこないだろと冷笑せずにいられなかったのも、所詮は他人事にすぎなかったからだ。
 
「今日の夕食は、なんだろうな」
 
 どこかから漂ってくるカレーの匂いに胃を刺激されつつ、ジュンは門柱を通り抜けた。やはりクッキーと紅茶ぐらいでは、育ち盛りの少年を満たすには物足りない。
 ――が、突如として奇妙な違和感に苛まれ、彼は歩を止めた。自分の家には間違いないけれど、いつもと様子が違う。
 
「……やけに暗いな」
 
 一番の違和感は、桜田邸をすっぽりと包む闇の濃さだった。その次は、不気味なまでの静けさ。
 どの部屋も窓が完全に閉ざされ、これまた例外なくカーテンが引かれている。玄関前のライトは疎か、一切の電灯が点いていない。まるっきり空き家の様相だ。
 
「姉ちゃん、買い物にでも行ってるのか?」
 
 しかし、駐車場に目を転じれば、そこには姉の自転車が置きっぱなしになっていた。買い物なら、どんなに近所でも自転車を使うのに。
 では在宅だとして、どの部屋からも蛍光灯の明かりが漏れてこないのは、なぜか?
 
「さてはアイツ、昼寝してるな」
 
 今日は土曜日。ひととおりの家事を済ませて、小一時間ほど身体を休めるつもりが、うっかり日暮れまで寝過ごしてしまった――と。そんなトコロだろう。
 ジュンは苦笑しながら、玄関のドアノブを回した。案の定、鍵はかかっていない。あまりにも不用心すぎて、ジュンは開いた口が塞がらなかった。
 弟には喧しいくらい注意喚起しておきながら、本人はこの体たらくである。強盗が入ったら、どうするつもりなのだろうか。
 玄関のドアだけは、オートロック式にすべきかも知れない。半ば本気でそう思い始めていたジュンは、ドアを潜るなりギョッと目を見開いた。
 
「なん……だ、これ?」
 
 開いたドアから射し込む薄明かりに照らされた家の中は、まるで竜巻でも発生したかのごとく、メチャクチャに荒れていた。姉の所業ではあるまい。荒らされていた、と言うのが正解か。
 とにもかくにも、ジュンは照明スイッチに腕を伸ばした。幸いにしてブレーカーは落ちていなかったらしく、室内の惨状が白光の下に曝される。
 いったい、どうなっている? 吐きだしかけた独り言を、彼は呑み込んだ。家を荒らした犯人が、まだ室内に身を潜めているかも知れない。
 
 迷った末に、靴を履いたまま廊下を進んだ。床に散らばる物で足を怪我しないようにとの配慮と、いざとなれば、そのまま外に飛び出すための用心だ。
 ジュンは正体不明の侵入者に怯えながら、階段の陰や居間を見て回った。どこもかしこも、およそ収納スペースと思われる箇所は、徹底的に暴かれていた。
 そして、ダイニングルームを覗き込んだ彼は――

「うおっ!?」
 
 それまでの慎重さなどすっかり忘れて呻き、踏み込んでいた。キッチンの陰に誰かが隠れているかも……なんて警戒心は、当然のごとく頭から消え失せていた。
 唯一、ジュンの瞳に映っていたのは、テーブルの脇に倒れて動かない姉の姿だけだった。
 
 


 
 第四回 「All I Ask of You」に続きます。
 
 
 【三行予告】
 
 幸せと、嫌な思い出……。
 楽しい時間の流れに、突如として訪れた災厄は、更なる悪夢への扉か。
 少年の疑問は、少年への質問は、いかなる答えに流れ着くのか。
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