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「おや、どこからおいでになったのですか? 斯様な何もないところまで」

「ほう、面白い話を求めていたらいつのまにかここに、と。なるほど、なるほど」

「ですが先ほど申し上げたとおり、ここには何もございません。あなたの求めるものは見つからない、と思
いますが…」

「…では、あなたのご期待に沿えるかどうかは分かりませんが、ここは一つ、私めがお話をして差し上げま
しょう」

「…私ですか? いえいえ、そのような物騒な類のものではございません。ただのお喋り好きな、一匹の兎
でございます」

「では…そうですね。こんなお話など如何でしょうか?」

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「それじゃあ真紅、行ってくるよ」
「ええ、行ってらっしゃい、ジュン。早く、帰ってきてね」
 ああ、とにこやかに言葉を返し、彼は出社していった。結婚して三年になるが、毎回この時間になると、
自分が彼─ジュンの、妻なのだな、と再確認する。その事実は私に、ささやかな幸せを感じさせてくれてい
た。

 さて、彼が仕事に出かけたなら、私は私の仕事を。洗濯、掃除、その他諸々。子供はまだいないけれど、
今のこの生活には満足している。今日のこの日だって、冬だというのに日差しが暖かくて、とってもいい日。
 一通りの家事を終え、時計に目をやると、すでにお昼を回っていた。
「あ、そうだ。今日は卵の特売日だったわね」
 そう一人ごちて、私は少し遅めの昼食をとる。昔は苦手だった料理だが、主婦暦三年ともなると流石にそ
れなりのものは作れるようになった。…時間や慣れというより、私の場合「ジュンにおいしいものを食べて
もらいたい」という気持ちが、上達の秘訣だったようだ。その事実と、自分に、苦手な料理も克服できてし
まうほどに愛している人がいる、ということが、またも私の心に温かな感情を芽生えさせた。

 そして、三時を少しだけ回り、やや寒さが身にしみだしてきた頃。
 スーパーでの買い物を終え帰る途中、私はふと、足を止める。いつもの帰り道の途中、電柱の下に露天商
が座っていたのだ。こんな住宅地では売れるものも売れないだろうに、なぜもっと街中に出て行かないのだ
ろうか、などと考えたが、このような怪しげな男に関わったところで何かいいことがあるわけでもなし。さ
っさと通り過ぎるに越したことはない。
 しかし、そう思っていたはずなのに…

「お姉さん…退屈してるね?」

 その一言は、とても怪しげに、私の心をくすぐった。
 確かに、今の生活には満足している。夫だって申し分ないし、大きな不幸だって起こっていない。むしろ
毎日が常に幸せで、これ以上に満ち足りた時間はないだろう、とさえ思っている。…でも。
「…いやぁ、退屈、ってほどのもんでもないかなぁ。ただ、幸福だけど、ちょっとした変化が毎日の中にあ
れば、ってそんな顔だぁ」

「誰が言ったのかねぇ。『男は安定を求め、女は変化を求める』なんて言葉があるぐらいだ。お姉さんの気
持ちはな~んにも悪いことじゃないさ」

「ただ、ちょっとだけ…まあ、やっぱ『退屈』なんだろうねぇ。…かと言ってこの程度のことを人に相談し
て余計な心配をかけたくない、って面だ」
 そのとおりだ。私は、これが贅沢な悩みだと理解している。今だって、休日はジュンと出かけたりしてい
るし、別に彼が無理解だというわけではない。ただ、それでも、毎日にちょっとした刺激が欲しい、なんて
考えているのも事実。なぜこの男は、そんな、悩みというほどでもない微細な心情を言い当てることができ
るのだろうか。驚きとともに、少し薄ら寒いものを感じる。

「い~いモノがあるんだよ。コレを押せば、ほんの小さな変化が訪れる、ってな魔法のアイテムさぁ」
 そう言って彼が差し出してきたのは、パソコンのマウス程度の大きさの、板のようなものの真ん中に、不
恰好な赤いボタンが一つ、付いているだけの、一見すればガラクタにしか見えないような代物だった。
 普段ならば、そのような怪しげなモノを信じる私ではない。だけれど、先ほどの心の中を見透かしたよう
な言葉をすでに聴いてしまった私は「信じてみてもいいかも」などと考えてしまった。
「お姉さん美人だし、千円でどうだい?」
 さらに、この追い討ち。千円程度の金額であれば、と私は深く考えることなく、彼の提案を受け入れるこ
とにした。
「毎度ありぃ。…そうだ、お姉さん。それは魔法のアイテムだけど、魔法を起こすからにはそれなりの力も
使う。力には代償がつきもんだ。…使いすぎには、ご注意を」
 品物を受け取ってその場を後にしようとしたとき、なにやら男が忠告めいたことを言っていたが、すぐに
でもそれを試してみたい衝動に駆られた私は、注意深く耳を貸すことなく、足早に家へと歩みを進めた。

 帰ってみて改めて、妙な買い物をしてしまった、と冷静になったのだが、もう千円払って品物を受け取っ
てしまったのだから後の祭り。露天商なんてそうずっとひとところに居るわけでもないだろうし、もう返品
なんてできないだろう。
 仕方がない、そう考えた私は、とりあえず彼の言っていたことが本当か確かめるべく、ボタンを押してみ
た。
………なにも怒らない。
「やっぱり、騙されたのね。…まあ千円程度だし、勉強になったと思って諦めましょう」
 誰が見ているわけでもないのだが、これ見よがしに大きなため息をついて、私は残りの家事にとりかかっ
た。

 その夜、帰ってきたジュンを見て、私は目を丸くした。
「ジュン…どうしたの、その花束」
 ジュンが手に持っていたのは、目を見張るほどに美しい、真っ赤な薔薇の花束だった。別に今日は何かの
記念日だったわけでもないはずだが…
 ジュンの話によると、昼間外回りの営業をしていたときにふと目に入ったらしい。その時間帯といえば、
ちょうど私が露天商からあのガラクタを買わされて、愚かにも試してみた時ではないか。
「なんだか気に入っちゃってさ。いつも家事ありがとう、ってことで帰りにその花屋に寄って買ってきたん
だ」
「ジュン…ありがとう。愛しているわ」
「ああ、僕もだよ。真紅」

 そのことは私の中でのその「ボタン」への評価を急上昇させた。それからというもの、私はこの不思議な
ボタンの虜となった、ちょっとつまらない、なんて思うとすぐさまボタンを押した。
 起こったことの殆どはちょっとした怪我をする、とか、買っておいた宝くじが5,000円くらいで当選する、
なんて程度の、端から見ればなんでもないことばかりだったが、私にはそれで十分だった。私が怪我をすれ
ばジュンは心配し、細やかな心配りを見せてくれるし、宝くじが当たった日には「あぶく銭は使うが吉さ」
なんて外食してみたり。そんな何気ないことが、私の日々の生活に、ちょっとした感動や、潤いを与えてく
れるのだった。
 そして、起こることの小ささは私の欲望に拍車をかけ、私はついに一度に何度も何度もボタンを押すよう
になっていった。

 そして、ある日。

「ほら、久々に紅茶淹れてやったぞ」
「ありがとう、ジュン。貴方は本当に気が利くわね」
 なんてことのない休日。優しい夫に、理想の住まい。ちょっと退屈したら、あのボタンを押せばいい。私は、
自分の幸せは、今ここに完成した、とちょっとした自己満足に浸っていた。
 少しよそ事を考えながらカップに手を伸ばしたためか、間違えて紅茶をこぼしてしまった。いけないいけな
い、などと考えながら、布巾を取ってこようと席を立った、そのとき。

「…ジュン、台所って、あそこだったかしら?」
「何言ってるんだ真紅? ギャグのつもりか?」
 ジュンは笑いながら言葉を返してきた。彼の反応はもっともだと思う。私だって、急にそんなことを聞かれ
たら、はしたないが吹き出してしまうだろう。しかし、何かがおかしい、何か、何かがどんどん、どんどん、
流れていくような、変わっていくような、そんな感覚。
「…真紅? 大丈夫か。頭でも痛いのか?」
「い、イ、いい、エ…大丈夫よ、ジゅン。わ、わたし? …は、だい、じょう、ぶ」
 映像が、音声が、思考がぐにゃりと歪んでいく。どんどん、どんどん、私を置き去りにして。 

 今「大丈夫」と言ったのは誰? 私? わ、たし? 「わ」は誰が言ったの、「た」誰がいったの、「シ」は
誰がイッタノ? シコウがオイツカナイ、どんどん「ワタシ」が変化しテ、ワタシでなくナっていクコれは私?
「コレ」と考えたトキのワたシと「わタシ」とカんがえた時のわたシハ別のモのでハ? どれがわたし? どレ
ガわたし? イつになっタら、わた・しはわたしに・オいツク・ノ

「おい、真紅? どうした、妙な顔をして…おい、真紅! …しん……! …! …」

わたし私わたシワたシワたしwaたしワたshiわたしわたしこれわたしじゃないあれわたしじゃないそれわたしじゃ
ない考えreばkaんガえるホドわたシが遠ノいてイク私ワタシwaタshiジュンがわタしを呼んデいるじゅんがヨんで
いruジュんが呼nでiるジュンgaヨんでいルのはどノワたし? 本トウにそれはワたし? ワタシはどれワtaしは
どれワたしwaどれワたshiはどれwataシはdoれwaたシはどれいや…いや…いや…






いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!! 







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「私たちは、常に変化しております。物質的な意味でも、精神的な意味でも」

「十年前の自分を構成していたものは、今の自分の中には一つも残っておらぬのです」

「刹那に変化していく中に、どうにかして継承性を認めるからこそ、我々は我々でいられるのですが…」

「彼女は変化を求め過ぎた。そして、最後に変化したのは、『彼女の心』」

「ボタンを何度も押さなければ、『ちょっとした心変わり』程度で済んでいたのでしょう」

「しかし、過ぎた変化は彼女の手を離れ、加速し、ついに人の手ではその中に継承性を見出せぬまでの速度で起こる
ようになってしまったのでございます」

「かくて女の矮小な自我は崩壊し、彼女は『そこにあるはず』の自己を永遠に求めるだけの存在と相成りました、と
いったところでこの話は終わりといたしましょう」

「…はぁ。面白くなかった、と。ハッピーエンドの方がお好みでしたか? 生憎、私めはこういったお話しか存じ上
げておらぬものでして」

「ほう、出て行かれる、と。面白い話を探しに。…でも」




『ど こ へ 行 か れ る の で す ?』 




「最初に申し上げたじゃありませんか。『ここには何もございません』と。何もない、ということは、何もない、と
いうそれだけの意味しかもっておりません」

「ましてや…出口など、望むべくもない。ここに迷い込んだ時点で、貴方も、私と、同じなのですよ」

「どうか心行くまで、悪趣味な兎の、悪趣味な話をご堪能くださいますよう…満足だって、ここにはありえないので
すがね。くっくっく…」

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