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   ▼ 第三幕  少女の慚愧 ▲
 
 
 
 
 いつになく難しい顔をしているな、とは思った。
 同時に、似合わない表情ね……とも。
 入学式から、ちょうど二週間が過ぎた日の放課後、すっかり人影が失せた教室に現れた桜田くんは――
 
「柏葉、頼む! どうか僕に協力してくれ。このとーりっ!」
 
 クラス委員の仕事を終えて帰り支度をしていた私に、やおら詰め寄ってきたと思えば、両手を合わせて必死に頭を下げた。
 あまりにも唐突すぎて、意味不明。いったい、どういうこと?
 彼が言葉を並べるほど実状が見えなくなるし、奇妙な仕種を繰り返すほど、私の思考は理解と程遠い場所に吹き飛ばされる。
 私を拝み倒さねばならないほどの問題って……なんだろう? 
 
「とりあえず、落ち着いて」
 
 理由も言わずにペコペコされても困る。そりゃあ幼なじみだし、私で役に立てるなら、微力ながら手伝うに吝かでないけれど。
 でも、やはり物事には順序と限度がある。桜田くんと私は、少なくとも理屈や損得抜きで協力し合えるほど特別な間柄でもないはずだ。
 そんな簡単な常識さえ失念してしまうほど切羽詰まっているなんて、かなり深刻な事態なのかも知れない。
 
「まず、ワケを聞かせてくれないかな」
「あ、ああ……そうか。だよな、うん。正直すまんかった」
「いいよ、別に」

 いつまでも本題に入ってくれないと、いくら気の長い私と言えどもフラストレーションが溜まるので、さらりと受け流す。
 まあ、聞いてしまえば私の性格的に、断りづらくなってしまうのだけど。だからと言って、無下に突っぱねることもできないし……。
 そんな風に相手を気遣いすぎるあまり、余計な苦労を背負い込んでしまうのは、いつものこと。こんな私に誰がした。
  
 ――と。私事の愚痴さておき、まずは桜田くんの話を聞いてあげなきゃ。
 夏至に向かって徐々に日は延びているけれど、春先はまだまだ夜の訪れが早い。夕方も五時を過ぎれば、急速に暗くなってしまう。
 時間の猶予がないことは彼も承知しているらしく、もじもじ両手の指を絡ませつつも、余計な前振りなしに切り出してきた。
 
「実は、さ。今度の週末……日曜日なんだけど。予定、空いてるか?」
「たぶん、なにもなかったと思う」
 
 どうして、そんなことを知りたいの? いや、答えは簡単か。つまり、暇なら手を貸せと言っているワケだ。
 女の子に助力を頼むくらいだから、力仕事ではないはず。もしかして、頭脳労働系?
 訊くと、桜田くんは小首を傾げたまま、曖昧に頷いた。彼は時々、無駄に器用な真似をする。
 
「それっぽい……感じかな。街の名所巡りとか、いわゆる散策なんだけどさ」
「社会科の宿題なんて出てたっけ?」
「じゃなくてさ、その……なんて言うのか」
 
 なぜ、ごにょごにょと口ごもってしまうの? 肝心なところが不明瞭なままだから、話の筋道が見えてこなくてイライラする。
 延々このペースに付き合わされるのは、ちょっと気疲れするなぁ。
 それに、私は早く帰りたかった。門限は午後六時と決められているからだ。
 
「ねえ。とりあえず、学校を出ましょう。話は、歩きながら聞かせて」
「あ、ああ……そうしよう」
「待ってて。すぐ支度するから」
 
 カバンに教科書やノートを詰め込みながら、私は方策を巡らせていた。
 どうすれば、効率よく話を進められるだろうか、と。

 
 
「最初に、はっきりさせておこうか」
 
 暮れなずむ街を歩きながら、切り出した。
 辺りはもう充分に暗く、互いの表情を見て取るのも難しいのに、じっと私に見つめられて気後れしたらしく、桜田くんは顔を背けようとする。
 昔から、こうだ。あまり、目を合わせて話そうとしない。親密度にもよるけれど、相手が女の子だと、その変化はあからさまだった。
 
 基本的に恥ずかしがり屋なのだろう。癖は当人が無自覚のうちに出ているものだ。
 しかし、今は時間が惜しい。私は足を止めると、昔からのとおりに彼の頬を両手で挟み込んで、ぐいと正面に向き直らせた。
 
「今度の日曜日に、なにをするの? 私に、なにをして欲しいの?」
「で――」
「で?」
「……デート、みたいな」
「ふむふむ、デートね…………で、でで、デートぉぉ?!」
「ちょ、バカ、声が大きいって」
「だだだ、だってだってそんな」
 
 突然そんなことを言われて、驚かない女の子はいない。いや、女の子に限った話じゃないかも知れないけど。
 それにしても、どういう風の吹き回し? 今の今まで、私に対して、そんな素振りを見せたことなんか一度としてなかったのに。
 探るように彼の瞳を覗き込む。今度は、私の手で固定されているから、顔を背けようがない。
 
「え、と。あ……う」
 
 見つめる先で、桜田くんの瞳は逃げ場を探そうと、ぐるぐる回っていた。ちょっと可哀想になってくる。
 そう言えば幼稚園の頃、こんな風にされて緊張しすぎた結果、桜田くんはおしっこ漏らしちゃったんだっけ。
 当時とは違うけれど、あまり苛めすぎても気の毒だ。私は、妙に熱っぽい彼の顔から、そっと手を引き戻した。
 ほんの少し、掌に湿り気を感じる。それは私の汗? それとも桜田くんの?

「……それで? どういう理由なのかな。ひょっとして――」
 
 狼狽えたココロを握り潰すように汗ばんだ拳を固め、ぐるり見回す。男子グループがクジ引きで誰かを選んで、告白ゲームでもしているのかと訝ったのだ。
 でも、私の勘繰りは空振りだった。それらしい人影は、どこにも見つけられない。
 
「あのさ」いい加減、開き直ったのか、桜田くんが決意を秘めた声を出した。「同じクラスに、桑田さんって女の子がいるだろ」

 ああ、なぁんだ。その一言で、私はおおよその流れを理解した。
 そして、胸裡で毒突いた。ドキドキして損しちゃったわ、このスットコドッコイめ。
 
 
 由奈のことなら、たぶん桜田くんよりは知っている。小学校を卒業すると同時に、学区外から転入してきた可愛らしい娘だ。
 この中学校には、周囲の三校から生徒が集まる。当然のことながら、知らない顔のほうが多い。
 それゆえに、多くの子は新天地での心細さを軽減させるべく、顔なじみ同士で群れようとする。
 私もまた多分に漏れず、小学校時代の旧友や、幼少から続けている剣道の道場仲間を探しては挨拶を交わしていた。
 
 でも、由奈は違った。入学式の日、誰とも話そうとせず、じっとなにかに堪えるように独り佇んでいた姿が思い出される。
 世の中には独りを好む一匹狼タイプの人がいるけれど、由奈は、他者を拒絶する感じじゃなかった。むしろ逆で、誰とも仲良くなれそうな印象だった。
 だから、余計に気になったのだ。もしかして、苛められっ子だったのかな、と。
 
 話しかけてみると、由奈は戸惑いの表情を作ったけれど、それも一瞬だけ。すぐに人好きのする笑みを浮かべて、気さくに応じてくれた。
 その際、自分が余所から引っ越してきたことを、問わず語りに教えてくれたのだ。
 
 
「つまり、今度の日曜日に由奈とデートするから、一緒にプランを練って欲しいのね?」
 
 人見知りで奥手っぽい割に、意外と手が早いんだね。そうからかうと、桜田くんは真っ赤になって猛然と反撥した。
 それはもう、首が折れてしまうんじゃないかしらと危ぶむほど、ブンブンと顔を振ったりして。

「違う違うっ! 誤解すんな、柏葉」
「ん? 違うの? なぁんだ、つまんない」
「……あのなぁ」
「ふふっ、ウソウソ。でも、どういうことなの?」
 
 また、話があやふやになってきた。どうも、私が尋問するかたちで話を進めるべきみたい。桜田くんとしても、そのほうが話しやすいだろうし……。
 こういう不器用さは昔っから変わらないなぁ、と彼の人柄を微笑ましく思いながら再び歩きだして、私は口を開いた。
  
「桜田くんと由奈が、日曜日にデートする。これは確実なんだよね?」
「って言うかさ、いろいろ案内してあげたくて。ほら、桑田さんって越してきたばっかりだろ」
「ああ、そうね。あの娘、そう言ってた。よく道に迷うのよって」
「だからさ、そういうこと」
 
 なるほど。席が隣りということもあって、そういう話になっちゃったのね。
 私の苗字が『け』で始まるか、あるいは『あ』行で始まる苗字の人が多くて、桜田くんの隣りに席がズレ込んでいたなら、私ともそんな展開になってたのかな?
 ……ううん。無理よね、なんてことない幼なじみだし。『転校生』に匹敵する新たなファクターがなければ、きっとイベントは発生しなかった。
 
 まあ、いいんだけど――
 
「発端は解ったけど、それで、私はなにをすればいいの?」
「柏葉に頼みたいのは、そこなんだ」
 
 言って、またもや合掌しながら、ペコペコ頭を下げる桜田くん。
 こうも拝まれると、なんだか自分が神仏にでもなった気がしてくる。現人神、巴――愚昧な衆生を救済すべく爆誕せり。……なんちゃって。
 
「もういいから。とにかく、手伝う内容を言って」
「協力してくれるのか?」
「ここまで聞いちゃうとね。って言うか、私の性格を承知の上で、この話を持ちかけたんでしょ?」
「ん……まあ、ちょっとはな。それに、こういうこと頼めそうなのって、柏葉くらいのもんだし」

 うーん。それって素直に喜んでもいいことなのかな。女の子の心情としては、とっても複雑なんだけど。
 要するに、便利で都合のいい女と見なされてるワケだし……うーん。やっぱり釈然としない。
 それもこれも、幼なじみだから? ……なんだろう、このモヤモヤした気持ち。
 
「お、おい。なに憮然としてるんだよ」
「してません」
 
 即座の切り返しに、「してるじゃんかよ」と彼の不満そうな呟きが続く。でも、それっきり。
 桜田くんは、がらりと声音を変えて、話をあるべき場所へと引き戻した。
 
「でさ、付き合って欲しいんだ」
「はぃっ?!」
「なに声を裏返してんだ?」
「ううん、ちょっと石に躓いただけ。それで、なに話してたんだっけ?」
「僕だけじゃ間が持たないだろうから、柏葉にも付き合って欲しいんだよ。桑田さんもさ、柏葉が一緒なら、なにかと安心だろうし」
「……ああ、なんだ。そういう意味ね」
「どういう意味だと思ったんだよ」
「さあ?」
 
 なんだか、もう笑うしかない心境。私って、桜田くんの保護者みたいな存在だったの?
 私としては、もっと対等の立場だと思ってたんだけど――ま、いいか。今はこの距離で我慢しておいてあげる。隣り合って歩けるだけでも満足だから。
 
「残念、ここでタイムアップね。私の家はこっちだから、ここで。集合場所とか、詳しい話は電話で相談しよ」
「あ、うん。九時ぐらいに電話するから」
「解った。それじゃあね、桜田くん」
「ああ、バイバイ」
 
 短い遣り取りをして、私たちは別れた。少ない言葉で意志疎通できるのは、気心が知れていることの証拠。そう考えると、悪くない。
 誰にともなく優越感を覚え、自然と弛んでくる唇を引き締めながら、すっかり暗くなってしまった家路を駆けた。

   ※
 
 それ以来、日に月に、私たち三人の結びつきは強くなっていった。
 由奈は人当たりのいい娘だったし、桜田くんも、打ち解けてしまえば気兼ねのない人だから。
 そんな二人の間で、私は友情を育み、満たされていたとさえ思う。
 
 けれど、私は段々と、桜田くんたちと疎遠になっていった。押し付けられるままに、なにかと面倒事を抱え込んでしまう、この厄介な性格のせいだ。
 二人と遊ぶ時間は減り、そこに重なる諸々の疲労が、疎遠の度合いに拍車をかけた。
 
「なんでも引き受けすぎなのよ、巴は」
 
 由奈はいつも、我がことのように私を気遣い、言ってくれる。「できそうもないことは、ちゃんと断ったほうがいいわ」と。
 解ってはいるのだ。自分の限界が程近いことは。でも、断ることができないの。部活も、クラス委員も、その他の諸々も。
 私だって、もっと桜田くんたちと遊びたい。この年頃にしかできないことを、いっぱい楽しみたいのに。
 
 どんどん、身動きが取れなくなっていく。気持ちが荒んでいく。
 私、どうしたらいいの――?
 
 
 
 夏休みが近い、とても暑い日だった。桜田くんのことで嫌な噂を耳にした。
 それが部活からだったのか、教室での浮ついた雑談からだったのか、場所までは鮮明に憶えていないけれど。
 でも、その内容だけは克明に残っている。性的な、吐き気を催すほどに、いやらしい話だったから。
  
  『聞いたんだけど、桜田くんって、由奈を――』
 
 聞かされたとき、私はかつてない程の怒りに、この胸が焦がされるのを感じた。
 事実無根。出鱈目。真っ赤なウソ。思いつくのは全否定の単語ばかり。 

 当然だ。私は幼なじみとして、桜田くんをよく知っている。彼の人柄から趣味に至るまで、いろいろと。
 その噂を運んできた子より……ううん、全校生徒の誰よりも。
 幼なじみの驕慢ではなく、紡いできた絆の強さなら、由奈にだって負けない自信があった。
 
 
「ねえ、巴。ちょっと聞いて欲しいの」
 
 由奈に相談を持ちかけられたのは、その数日後。部活の帰り道で、彼女は私を待っていた。
 ちょうど、由奈も陸上部の練習を終えたところだったらしい。
 
「どうしたの、由奈?」
 
 いつになく不安げな面持ち。その理由は薄々ながら予想がついていたけれど、敢えて訊ねた。
 もしも私の早とちりだったら恥ずかしいし、あの噂を由奈には聞かせたくないとも思っていたから。
 結局、そんな私の気遣いなんて不要だったけれど。
 
「実はね、すごく気持ちの悪い話を聞かされちゃって」
「どんな? 夏前にありがちなホラー話とか?」
「ホラーかぁ。だったら、まだマシだったんだけどね」
「そうなの? それ以上に由奈を気持ち悪がらせる話なんて、想像もつかない」
 
 白々しいウソだ。これも方便と、ムリヤリに自分を納得させる。
 横目に伺う由奈の様子は、変わらず。私の言葉を疑った感じはない。
 出逢った頃から、この娘は驚くほど素直なままだ。疑うよりも、まずは信じようとする。
 それはきっと素敵で大切なこと。でも、悪意に満ちた世界では致命的な弱点でもある。だからこそ、その行為は美しく見えるのだろうけど。
 
「歩きながら話しましょ」
 
 言って、由奈が先に足を進める。その引きずるような足取りは、彼女の心理状態を如実に表していた。

「ねえ。本当に、こういう噂を聞いたことない?」
 
 そんな切り出しから、訥々と続けられた由奈の話は、少しばかり私の聞いたそれとは違っていた。
 でも、詳細なんて人伝に届く間には変わるもの。その逐一を検証するなんて時間の無駄だ。
 本当に問題とすべきは、私の聞いたものと大まかな部分が同じ、と言う点に尽きる。
 
「私は、誰かが悪い噂を言いふらしてるんじゃないかって思うんだけど。巴も、そう思うわよね?」
「え……ええ」
 
 私だって、由奈と同じ考えだ。桜田くんは気の弱いところがあるけれど、だからって陰でコソコソ小賢しい真似をする人じゃない。
 ましてや件の噂話みたいな変質者などでは、断じてない。
 
 だけど――
 
 
「ああ、よかったぁ。巴なら、きっと解ってくれると信じてたわ。彼が、そんな人のワケがないものね!」
 
 
 どうしてかな?
 
 
「でも、誰の仕業なのかしら。桜田くんは優しくて、とってもいい人なのにね」
 
 
 無邪気なまでに喜色を露わにする由奈を見ていると、私の中で、なにかが怪しく騒ぐ。
 それは、今まで思いもよらなかった強い感情で、私を戸惑わせた。私にも、こんな想いが眠っていたなんて……。
 
「由奈は信じてるんだね。桜田くんのこと」

 私の声に、由奈が不思議そうに振り返る。
 
「巴?」
「でも、彼だって健康な男の子だし……どうなのかな」
「ちょっと! なに言ってるの、巴。桜田くんを信じてあげないの?」
「信じたいけど、火のないところに煙は立たない、とも言うよ」
 
 信じたい。その強すぎる想いが妄執となって、現実を歪めることも充分にあり得ることだ。
 そう告げると、由奈はこれまで見たこともない形相になって、鋭い眼光を私に突き刺してきた。
 
「もういい! 見損なったわ、巴。あなたが、そんな人だったなんて!」
「由奈こそ、桜田くんに肩入れしすぎじゃないの? おかしいよ」
「おかしいのは巴でしょ!」
 
 由奈の叫びは、涙声だった。悔しくて、悲しくて。彼女の感情がひしひしと伝わってきて、感化されそうになる。
 ……ううん。もう殆ど感化されてて、私も声をあげて泣き出したい気分だった。
 
 由奈の白い頬を、ひとすじの涙が伝い落ちる。双眸は、ひたと私を睨め付けたまま。
 震える唇で、声もなく「さよなら」と言って私に背中を向け、走り去った。
 
「本当……おかしいね」
 
 急速に遠ざかる由奈の後ろ姿は、すぐに滲んで見えなくなった。
 私はもう、涙を止められなくなっていた。元より、止める気もなかったし。
 
 由奈の言うとおりだ。おかしいのは、私。桜田くんも由奈も、大切な親友なのに……。
 私は、そんな二人が仲良くなっていくのが面白くない。有り体に言えば、不快感さえ覚え始めている。
 そして更に怖ろしいことに、彼らが不仲になるようにと密かに願っている黒い自分が確かに、この身体の中に存在していた。

 夏休みの間、桜田くんと由奈には逢わなかった。誘われても、部活で忙しいことにして、できるだけ逢わないようにしていた。
 たぶん、そのほうが私たちのためにもいい。そう思っていたから。
 私みたいな醜い性根の人間が傍にいたら、彼らの仲を邪魔してしまうもの。平常心でいられる自信も、今の私にはない。
 
 桜田くんのことは、由奈に任せておけばいいのだ。私は遠くから、二人の仲睦まじい様子を、そっと見守っていればいい。それだけで充分。
 ――そう思っていたのに、文化祭を目前に控えた全校集会のとき、それは起きてしまった。
 
 
  「やべーって、アイツ」
  「こえ――」
  「桑田のスリーサイズ考えながら描いてたんだろ?」
  「噂にもなってたじゃん。普段からエロイ目で見てたんだぜ、きっと」
  「そーそー! オナネタにしてたってな」
  「うぇ~、きめぇ――」
 
 
 なに、これ? どうなってるの? どうして、こんなことに?
 私は、なにもできなかった。でも実は、無力なフリをしていたのかも知れない。だって、だって――大きな力によって、彼と由奈を引き離せそうだったんだもの。
 この嵐のような狂騒に翻弄され狼狽える役を演じるばかりで……傍観者という、最も卑劣な加害者となった。
 
  「桜田が吐いた――」
  「うわっ、きったね……」
 
 
 誰かの放った嫌悪感も露わな言葉が、私の胸に突き刺さる。そう……汚い。私は、どうしようもなく汚い存在になってしまった。
 
 そして、翌日から桜田くんは登校しなくなった。 

   ※
 
 あの日から、学校でプリントが配られる度に、桜田くんの家を訪ねるのが私の役目となっている。
 二年生に昇進して彼とはクラスが違ってしまったのだけど、良心の呵責に堪えきれなくなった私が志願して、特別に認めてもらったのだ。
 本当は、もっと頻繁に訪れたい。親友同士がそうするように、気軽にお互いの家を行き来できたら、と思わずにはいられない。
 ――でも、できない。
 
 由奈を欺くような真似をしてしまった私。
 桜田くんを庇おうともしなかった私。
 図らずも卑怯な加害者に荷担してしまった悔恨と、どうしようもない後ろめたさが、私に口実なきスタンドプレーを躊躇わせる。
 
 
 今日も、彼の家の前まで来たけれど――ドアベルに伸ばした指は、しかし宙の一点で凍りついたように動かせなくなる。
 その先に進ませたくて力を込めるのに、腕は震えるばかり。彼を気遣う資格が、私にあるの? 越えられない壁が、私の前に立ちはだかる。
 
 失望に湿りきった重たい溜息を吐く。やっぱり意気地なしだ、私は。
 前に向かわせようとすれば、びくとも動かなかった腕が、引くときはすんなりと動く。それが、どうしようもなく悔しい。
 負け犬のように踵を返し、桜田くんの家の門扉から離れた。
 
「帰ろう」
 
 その一言だけを、唯一の置き土産に。本当は、「ごめんなさい」と言えたらいいのに。
 
 
 ねえ、桜田くん。由奈。
 どうしたら出逢った頃の、あの日曜日みたいに……また一緒に遊んで、笑い合えるのかな。
 私だけじゃ、幸せな未来が見えないよ――

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