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   ▼ 第一幕  少年の歎嗟 ▲
 
 
 
 
 ――この僕に微笑んでくれないかな。
 
 
 いつもいつも、もどかしい想いを持て余す。飽きもせずに悶々と。
 それは仄かな期待にして、切実な願望でもあった。と言うのも、僕は生来の引っ込み思案で、他人とのコミュニケーションが絶望的に苦手だからだ。
 初対面の相手に自分から話しかけようとすると、どうにも腰が引けてしまってタイミングを逸してしまう。
 その相手が女の子ともなれば、会話の場面を想像しただけで意識が遠退き、失禁しそうになる。
 
 でも、小学校の時はまだ平気だった。周りが幼なじみばかりで僕のことを分かってくれていたから、余計な気負いはいらなかったのだ。
 ところが中学校に上がって違う学区からの生徒が一挙に増えたら、もうダメ。
 教室では小動物みたいに畏縮しまくり。いつも息が詰まりそうで、朝のHRにはもう帰りたくなっていた。
 
「あの……桜田くん?」
 
 おずおず、という表現がピッタリな風情で話しかけられたのは、入学式からやっと二週間が過ぎた頃の、二限と三限の休み時間。
 声を辿って顔を向ければ、隣席の女の子が、控えめな視線を僕に投げかけていた。
 中学生になって初めて顔を合わせた生徒で、ふくらみかけの胸を包むセーラー服にひときわ輝く真新しい名札には、『桑田』とある。
 初々しくて、さらっさらのショートヘアが魅力的な、いかにも清純そうな可愛い娘だ。
 
 実を言うと、入学当初から桑田さんのことは気になっていた。冒頭の願望も、桑田さんに対してのものだ。
 けれど、前に述べた理由で、僕からは会話のキッカケを作れずじまいだった。

 それが、どうだ。いきなり青天の霹靂。仰天動地のほうが、しっくりくるかな?
 ともかくも、家族以外の女子に話しかけられること自体、僕にとってはイルカが攻めてきたにも等しい非常事態で、核戦争の勃発がまだ現実的に思えてしまう。
 緊張のあまり強張る顔の筋肉を弛めるのに必死で、上擦った声で短く答えるのがやっとだった。
 やけに喉が渇く。机の下で脚がだらしなく震えて、腰砕けの状態。
 
 こっちの緊張が伝播してしまったのか、桑田さんも気まずそうな表情になった。
 ちらちらと忙しなく瞳を彷徨わせ、机の上でもじもじと指を絡ませながら、ぽつりと呟く。
 
「え、と。……う、ううん。やっぱりいい」
「そう?」
「うん」
 
 なんなんだ。ずっと待ち望んでた瞬間だっていうのに、会話が続かない。間が重たくて、いたたまれない。
 僕から話題を振ればいいんだろうけど、どんな内容なら会話が弾むのかわからないし……。
 いっそ逃げ出したい。おしっこ漏れそう。早く授業が始まってくれないかな、なんて思ったりもする。
 だがしかし、この気まずい空気を延々と引きずって、千載一遇のチャンスをふいにしても、いいのか? いや、それは嫌だ。
 
「あぁ、ひょっとして――」
 
 逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。
 何もせずに後悔するくらいならばと開き直って、僕から話しかけた。「次の授業の教科書、忘れたの?」
 そう訊ねると、桑田さんは驚いた顔をして、すぐに照れ笑った。
 
「そ、そうなのよ。ちゃんとカバンに入れたつもりだったんだけど……えへへ」
「よくあるよね、うっかりミス」
「他のクラスの子に借りようと思ったら、みんな今日はその授業が無くて」
「借りられなかった、と。間が悪い日も、よくあることさ」
「そういう日って、なんか何もかも嫌になっちゃうわよね。ふふ……」

 なんて、表面的には軽い口調で受け答えしちゃいるが、僕の心臓は臨界寸前までドキドキしてた。
 こんな風に女の子と話せてるなんて、夢を見てるみたいだ。自分が自分じゃないような気までしてくる。これ、本当に夢じゃないんだよな?
 なんだか身体中から力が抜けていって、膀胱までが水漏れそうになった。トイレのトラブルは八千円だったっけ? いや、この際どうでもいいか。
 ここは下腹部に力を入れ直して、一念発起。僕はありったけの勇気を奮いたたせ、まだまだ新品同然の教科書を差し出した。
 
「いいよ。僕の見せてあげる。一緒に使おう」
「ホント? ありがとう」
「困った時はお互いさまだよ」
「優しいね、桜田くんって」
 
 それは誤解というか、買いかぶりだ。受け身キャラなだけであって、特に優しくはない。
 現に、桑田さんから切り出してくれなかったら、僕は気づいても知らんぷりしてただろう。
 もちろん、見せてあげるべきか葛藤しまくりで、授業を聞く余裕はなかったと思うけど。
 
「でも、よかったわ」
「えっ?」
「桜田くんって、いつも怒ってるような顔してたから、怖い人なのかなぁって」
「そ、そ、そんなこと、あるワケないよ」 
 
 うわ、どもった。なに狼狽えてるんだよ僕は。みっともない。あまりにベタな反応をしてしまった恥辱で顔が熱くなり、どこかに隠れてしまいたくなる。
 そんな僕をバカにするでもなく、桑田さんは「うん」と微笑みながら頷いてくれた。
 
「見かけで決めつけちゃうのって、すごく失礼よね。ごめんなさい」
「べ、別に、謝られる程のことじゃないと思うけど……」
「いいの、私の気が済まないんだもの。そうだ! お詫びも兼ねて、なにか御礼させて」
「えぇ? いいよ、そんなの」
「ダメダメ。言ったでしょ。私の気が済まないのよ」
「桑田さんって律儀……って言うか、意外に積極的な性格?」
「うん。よく言われるわ。おとなしそうなのに、って」

 褒められたことじゃないんでしょうけど――と答えて、ちらっと舌を見せる。陽気な仕種に、思わず笑みを誘われた。
 僕は、そんな彼女を――朗らかに笑う桑田さんを、愛くるしいと感じ始めている。
 もっと、この女の子を知りたくなっていた。
 
「桑田さんって、どこの小学校の出?」
 
 この中学校には、周辺の学区にある三つの小学校から、生徒が一堂に集められている。
 だから少子化と言われる昨今でも、一学年が十二クラスもあったりするのだ。
 
 僕は当然のように、桑田さんも他の二校どちらかの卒業生だと思っていた。
 ところが、彼女は苦笑いしながら「違う違う」と手と顔を横に振った。
 
「私、転校生なのよ。卒業と同時に県外から引っ越してきたの。お父さんの転勤で」
「そうなんだ? こっちの暮らしには、もう慣れた?」
「少しはね。でも、地理にはまだ疎いわ。どのバスに乗ればいいのか、とか。独り歩きだと、すぐ道に迷っちゃう」
「無理もないよ」
 
 同情の念を伝えたのも束の間、僕は自分でも意外なことを口走っていた。
「僕でよければ、今度の日曜日にでも案内してあげようか」
 
 なに言ってるんだ、僕は。こんなの、受け身キャラの僕らしくないだろ。誘われるならともかく、自分から誘うなんて!
 ……ああ、でも心配ないかな。どうせ余計なお節介だ。さすがに断られるだろうさ。
 やんわりと、ノーサンキュー。そうに決まってる。
 
「あ、でも都合が悪いなら仕方ないんだけど」
 
 返事を待つ時間が息苦しくて、僕は顔を逸らし、話を切り上げようとした。
 顔が熱いのは柄でもないことをした恥ずかしさからじゃなくて、きっと窓を抜けてくる日射しのせいだ。そうだったら、そうなのだ。

 桑田さんは、逸らされた僕の横顔をまじまじと見つめているみたいだ。やっぱり不自然だったかな?
 堪えきれずに、ちらと横目に窺うと、にこっ……と。
 
「ホントに? どの辺を案内してくれるの?」
 
 正直、面食らった。信じられない。なんなの、この急展開。
 自分で話題を振っておいてアレだけど、いいのかな、これで? 驚愕のあまり失禁しそうになった。
 
 ……が、今更『ウソだぴょ~ん』なんて絶対に言えない。口が裂けても言いたくない。だって、なにかを変えられそうなんだ。
 ならば採るべき道は、ひとつ。
 
「それは当日のお楽しみに」
「ははぁん……要するに、これから考えるのね」
「大正解です、はい。でもさ、行き当たりばったりも意外性があって、そんなに悪くないと思うよ」
「まあ、ね」
 
 桑田さんは人好きのする笑顔のまま、続けた。「割と好きよ、そういうの」
 ああ、なんか今、僕の心臓がズッキンドッキンとなった。
 なに意識しちゃってるんだ。桑田さんが『好き』なのは、そういう趣向であって、僕のことじゃないのに。
 ……でも、いい響きだな。『好き』って言葉は。
 
「は、はは……は」
「ん? どうかしたの、桜田くん。目元が引き攣ってるけど」
「ちょっと柄にもなく笑いすぎたみたいで。顔面神経痛かも」
「まあ大変。うふふふ」
 
 おーい、なんなの、この幸福感。夢見心地って言うか、地に足が着かないって言うか……。
 なんかもう仏陀が『我、爆誕す』と宣言して、意味不明に昇天して、とにもかくにも前後不覚に楽市楽座でワケワカメ。
 もうなんだってあり! 今なら空も飛べる! おしっこだって漏らせるはずだ!

 ああ、生きているって素晴らしい。僕は今日ほど、生きててよかったと思ったことはなかった。
 人と人が微笑みを交わし合う。たったそれだけなのに、こんなにも満たされた気持ちになれるんだから。
 
「あ、先生が来たわ」
 
 チャイムが鳴るのとほぼ同時に、次の授業の先生がいかめしい顔で教室に入ってきた。
 それまで騒がしくしていた生徒たちが、そそくさと各々の机に戻っていく。
 僕は自分と桑田さんの間に、教科書を広げた。 
 
「こんなもんで、見辛くない?」
「うん。ありがとう」
 
 小声で短いやりとりをした後、桑田さんはノートの端に、なにか走り書きした。
 それを僕に見えるよう差し伸べて、悪戯っぽく眼を細めた。
 
  『この御礼は、今度の日曜日にね』
 
 いくらなんでも幸せすぎるだろ、僕。
 不意に感極まって、涙とおしっこが溢れそうになったけれど、さすがにグッと堪えた。
 
 
 
 その後の授業内容は、よく憶えてない。ノートも、ほとんど取ってなかった。
 でも、その時に考えていたことだけは、はっきりと記憶に残っている。
 
 本当に、変われるのかも知れない……。僕は、漠然とした予感を抱いていたんだ。
 桑田さんが、この僕に微笑んでいてくれるなら、もっと社交的になれるだろう、と。
 それほどまでに、僕は愛しさと切なさと、心強さを感じていた。

 そんな些細なやりとりを皮切りに、僕らの交流は始まった。
 とは言っても、ただの隣同士。思春期の少年と少女だからって、急にテレビドラマやケータイ小説みたいな恋愛沙汰になるワケじゃない。
 中学生になりたての僕が言えた義理じゃないかも知れないけれど、世の中、往々にしてそういうものだろう。
 人と人の間には、たとえ親兄弟の間柄であっても眼に見えない壁や柵が山ほどもあって、円滑な人間関係を妨げている。
 だからこそ、言葉や仕種を駆使して、それらを取り除くことに酷く苦労しなければならないんだ。
 
 僕と桑田さんの関係について話を戻せば、至って『普通』の一言に尽きた。
 ただ、なんとなく。顔を合わせれば挨拶くらいはしたし、特に用事がなくても他愛ない雑談に興じたりもした。
 そういう適度な距離が僕には心地よかったし、桑田さんも同じだったように思う。
 更に言えば、僕らはお互いの存在に対して極力、異性を意識しないように努めていたのだ。
 
 ――なぜかって? 周囲の視線を過剰なまでに警戒していたのは、確定的に明らかだ。
 この年頃の子供といえば、それが成長過程にある証しとばかりに、男女が一緒にいるだけで冷やかそうとする。
 学校という狭いコミュニティでは、その幼稚な傾向が顕著だった。
 ほんの少し他より接点を共有しただけで注目され、冷やかされるだけで済めばまだマシ。
 それが時に子供特有の残酷ゆえにエスカレートして、陰湿な所業へと発展し得ることを、僕は知っていた。
 
 これは僕の勝手な回顧と想像に過ぎないけれど、桑田さんも経験的にそれが解っていたんだろう。
 彼女はとても利発で、他の娘たちより広い視野をもっていたから……。
 
 
 その点で、僕らは窮屈さを感じながらも、結構うまくやっていた。
 ほどほどに。そこそこに。絶妙な距離感で。たまには放課後や週末に遊んだりすることもあったけれど、それも二人きりじゃなくて。
 別々の仲良しグループに属したりもしながら、平々凡々と学校生活を消化していく日々。
 このまま三年間、中学生という時期が終わるのだろうと確信さえしていた。
 
 僕は、それで構わなかったんだ。桑田さんとの距離を、性急に縮める気なんか更々なかった。
 もっと多くの時間を費やして互いのことを知り合い、その上で然るべき舞台が整ったならば、ごく自然に次のステップへと進めばいいんだ……と。

 しかし――
 
 
   ※
 
 あの頃のナイーブすぎた僕に、どうして予想できただろう。
 それから半年後の、文化祭を目前に控えた日――ひどい裏切りに遭い、こうして不登校と人間不信に陥っている未来なんか。
 背けられた彼女の横顔が、今も僕の心を締めつける。所詮は友情でさえなかったのかと、失望すらしたさ。
 
「だけど……僕は……」
 
 今日も携帯電話のディスプレイを眺めて、未練がましく悶々とする。
 画像フォルダに残る、楚々とした私服姿で快活に笑う桑田さんの写真を見て、思う。
 こんな僕を、訪ねてきてはくれないだろうか。
 そして、あの頃と変わらないお喋りをしてくれないだろうか。
 
 
「なんて、な」
 
 自嘲して携帯電話を畳むのも、いつものこと。わかってるのさ。そんな機会は、もう二度と訪れないだろうって。
 受け身に甘んじている内は、なにも変えられやしない。他力本願。虫がよすぎる願望だ。
 経緯はどうあれ、立ち止まったのは僕の意志。そうして誰かが手を引いてくれるのを待ち続けて、取り残されてしまった。
 
 
 ふと、窓の外に意識を傾ければ、いつもより騒がしい気配。そっと覗き見ると、引っ越し業者のトラックが数台、停まっていた。
 揃いの作業着を纏ったスタッフたち(なぜか、みんな女の人だ?!)が、慌ただしく隣の家とトラックの間を往復している。
 そう言えば、隣は長いこと空き家だったっけ。ちょくちょく不動産業者らしい人間が、換気のためか窓を開けにきてたのを憶えている。
 ……どんな家族が越してくるのかな。できれば、小さな子供がいないといいな。子供の無責任な喧しさは、どうにもイライラするんだ。

 僕は窓辺を離れて、また、手の中でさしたる意味もなく携帯電話を転がし始めた。
 この気怠い静の世界にあって、それは僕の無意識下における動への渇望だったのかも知れない。
 今、窓から窺い見た外の世界は、あんなにも動きに満ち溢れている。引っ越し業者も、新しい隣人も、『自由』のなんたるかを意識することもなく気侭に暮らしている。
 
「……羨んでるのか、僕は」
 
 たぶん、そうなのだろう。僕の本音は求めている。事態の変化を。そして、他の誰かと共に行動できる歓びを。
 こうして自室に引き籠もっているのもまた僕の『自由』意志であるはずなのに、ここには外界のような動きがほとんどない。
 ――違うな。外からの働きかけがあっても、別の僕がそれを遮断しているのだ。他者との触れ合いに飢えているのに、腕を伸ばすことができない。
 
 どうしても、過去の恐怖を振り切れない。圧倒的なトラウマは、絶対に引きちぎれない鎖。唯一の逃げ場だったはずの窮境ですら、僕は自縄自縛となっていた。
 それなのに苦悩の元凶そのものの画像データを消せずにいるのは、何故だ? 僕には自傷趣味でもあるのか?
 
 縋りつける確かな手懸かりを、そこに見いだしかけているから……。そうとも考えられる。いや、そうに違いない。
 あの天にも昇る心地になれた幸せな時間が、変われたと自覚できた瞬間が、今もすぐ傍にあるはずだと信じたいのだ。
 絶対的な安心感。それなくしては、この五里霧中にあって再び歩き出すことなど、できそうもなかったから。
  
「どうして――」
 
 こうなってしまったのだろう。幾度となく繰り返してきた自問。その答えが導きだされた試しはない。
 決まりきった公式や文法がある問題ならば、なにも迷わず変数や型に嵌め込んで正解を出せる自信があるのに……。
 ……ひょっとして僕は端から、この問題を解く気がないんじゃないのか?  
 さっきとは真逆の、矛盾した想いが頭に浮かんできて、ワケが解らなくなる。
 
 そしてまた、いつものように三分と経たず、携帯電話を開いてしまう。
 ディスプレイの中の桑田さんは、変わらない微笑みを投げかけてくれる。
 
  
 僕はまだ、霧の中で右往左往するばかり。進むべき道を見つけられずにいる。

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