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 人気の無い、放課後の校舎。辺りはすでに薄暗い。
「うゅ……」
 2階への階段を、ひとり上る雛苺。薄闇に怯えながらも、階段を一歩一歩踏みしめていく。乾いた足音がコン
クリートの校舎内に響き、寂寥感を煽った。校内に流布している不吉な噂を知らずとも、この無言の薄闇がもた
らす言いようのないわびしさと恐怖感を感じずにはいられないだろう。日中は喧しいほどに賑やかな校内――雛
苺はそれも苦手であったが――が印象に残っている分、がらんとした放課後の学校は時間が止まった世界のよう
にすら思えてくる。
 普段であれば、こんな場所には1分たりとも留まることは出来ないはずだった。が、逃げ出したい気持ちがこ
み上げるたびに病室に残されていたメッセージが頭に浮かび、その都度勇気が湧き起こってくるのだった。
「トモエ……今、行くの……待ってて、なの……!」
 やっとの思いで2階へ辿り着いた。音楽室の扉は、階段の目の前にあった。ただならぬ妖気のようなものが、
扉の奥から漂ってくるように思えた。
 恐怖と、それを打ち消そうとする巴への思いが錯綜する。雛苺は大きく息を吸い込み、止めた。金属のレバー
のようなノブを掴み、一気に回しながら扉を引いた。
「トモエっ!」
 溜めていた息を、叫びながら一気に吐き出した。だがその声は、気密性の高い暗黒の部屋の中に吸い込まれる
ようにかき消えてしまう。怯えた小動物のように縮こまりながら、息を呑んで室内を見回す雛苺。
「ひっ……!」
 誰かに見られているような気がして、小さく悲鳴をあげた。なるべく見ないようにと思っていても、どうして
も目に入ってしまう――壁に飾られたベートーヴェンの肖像画が、闇の中でうっすらと不気味に浮かび上がって
いたのだ。雛苺は、思わず目をつぶった。
 直後、かすかに何かが聞こえた。
「ひな……いち……ご……」
「……トモエっ!?」
 目を見開いて、叫んだ。それは確かに、巴の声に似ていた。
「ひな……いちご……」
 もう一度声が聞こえたとき、雛苺は声が発せられている場所をはっきりと知った。
 奥に置かれた、グランドピアノの側。奏者用の椅子に腰掛ける、細身の女の子と思しきシルエットがぼんやり
と浮かんでいる。その体つき、その髪型――おぼろげに窺える影の特徴は、雛苺のよく知る人物に酷似していた。
「トモエ!!」
 雛苺はすぐに駆け寄ろうとした。照明を点けて確認しようという発想は浮かばなかった。とにかく一刻も早く、
無事な姿を見たい。せき止められていた感情が、今にも決壊しそうだった。
 が、足が止まった。
 暗闇の粒子が脈動する。喉の奥が、むせ返りそうになる。
 何かが、違う。何かが――
「ちがう……の…………トモエじゃ、ないの……!」
 そう呟いたとき、闇の中で何かが光った。巴と思われた人影の頭が、ぐい、とこちらを向いたのだ。光ってい
たのはその影の両目だった。夜行性の猛獣のような、おぞましいほどの殺気に満ちた邪悪な瞳が、獲物を補足し
たかのごとく輝きを増した。
 と、突然巴の顔が落花生の殻のように、ぱかり、と縦に割れた。次の瞬間、顔の中からどす黒い大蛇のような
触手状のものがどっと湧き出し、「獲物」をめがけて一斉に襲い掛かってきたのだった。
「ひうぅっ!!?」
 雛苺の全身が総毛立った。体中の血が逆流するほどの戦慄をおぼえ、乳児のような喚き声をあげた。背後のド
アを目指して一目散に突進した。ドアノブを握りしめると狂ったようにがちゃがちゃと上下させ、扉が開いた途
端、勢いにまかせて廊下に飛び出した。
 が、勢いが余った。雛苺の軽い身体はバランスを失い、前のめりに転倒した。
「あぅっ!?」
 床に額をしたたかに打ちつけ、危うく気を失いそうになる。どうにか起き上がろうとするが、這いつくばった
姿勢のまま、足腰が震えてしまっていた。身動きの取れなくなった「獲物」を捕えんと、忌まわしい触手の群れ
がうなりをあげて躍りかかった。
「きゃああぁぁぁっっ!!」
 しかし、触手の先端は空を切った。むなしく床をえぐった。何者かが後ろから雛苺の腕を掴み、思い切り引っ
張り寄せたのだ。
「雛苺! 大丈夫か?!」
「ジュン!!!」
 親しみのある声の主に、飛びかかるようにしてしがみつく雛苺。床にぶつけた頭の痛みも、止まらなかった身
体の震えも、一瞬にして何処かへ行ってしまったようであった。
「ったく、なんで僕たちが来るまでじっとしてなかったんだ?」
 校舎に足を踏み入れる前、雛苺はジュンにメールを送っていた。一人で巴のところへに行く覚悟は出来ていた
が、薄暮を背に浮かぶ校舎の物々しさに不安をかき立てられ、誰かに知らせずにはいられなくなったのだ。
「だって……だって! トモエが……うぅ……っ……」
「泣きじゃくるのは後になさい。今はとにかく、逃げるしかないのだわ!」
 嗚咽を漏らしそうになる雛苺を、真紅がぴしゃりと制した。
「ひな……いちご…………まっ……て……」
 虫唾の走るような、戦慄すべき声。音楽室の入り口に、巴――の姿をしていたもの――が迫っている。墨汁よ
りもまだ濃い漆黒の顔面からは無数の触手が伸び、凶暴な毒蛇のように鎌首をもたげて今にも「獲物」に襲い掛
かろうとしていた。
 平穏な日常からは考えられない、悪夢的な光景。だがジュンたちには、頭の中を整理する暇も、恐怖におのの
いている暇も残されてはいなかった。
「ひえぇっ! もう、ヤバイかしら!!」
「雛苺! しっかりつかまってろ!!」
 ジュンは雛苺の小さな肢体を抱き上げ、駆け出した。転がるように階段を駆け下り、あっというまに1階の廊
下へたどり着く。腕力も体力も人並み以下のジュンだが、生存本能にかき立てられたそのスピードは凄まじいも
のがあった。真紅、金糸雀が必死にその後に続いていく。
 だが、暗黒の陰影の迫る速度は逃走者たちを凌いでいた。泥の中を這いずり回る蟲のような、生理的嫌悪感を
催させる音が、恐ろしい速さで迫ってくる。昇降口までは、まだ距離があった。
「金糸雀! 急ぎなさい!」
 テニス部に所属している真紅は、足が速い。金糸雀は徐々に引き離されつつあった。
「そんなこと言ったって、これで精一杯かしらぁっ!!」
 ヘドロを思わせる臭気と鞭のうなるような音がすぐ後ろでして、金糸雀は縮みあがった。その背中を、触手の
一撃が捉えようとしたその時――
 ジュンたちは疾風のように駆け抜ける「何か」とすれ違ったような気がした。
 次の瞬間、
「――あーどない はーれいっ!」
 呪文のような声が、廊下に鋭く轟いた。荘厳としか言いようのない声――同時に、稲妻のような強烈な閃光が
辺りを包み、凄まじいばかりの衝撃音が響きわたった。
 金糸雀を襲おうとした触手が千切れ飛び、廊下にぼとぼとと落ちて蠢いている。人の形をした黒い影は、喉の
辺りを押さえて苦しげに悶えた。
 ジュンたちは、立ち止まった。
 おぞましい影の前に、いつのまにか一人の少女が立ちはだかっていたのだ。
「薔薇水晶! 間に合ったか!」
 頼もしげな少女の姿に、歓喜の声を張り上げるジュン。
 雛苺からメールを受信した後、ジュンは薔薇水晶に援護を求めるメールを送っていたのだった。
「忌まわしき『旧支配者』にはべる者……不浄なる邪神の下僕、『心喰らうもの』よ…………去れ!」
 凛とした声が、恐怖の闇を打ち破るかのようにこだまする。
 逃げることも忘れ、少女と異形の怪物の対峙に目を奪われるジュンたち。真紅にいたっては、ほとんどこの世
の終わりを見るような目で唖然としてしまっている。
「薔薇水晶……貴女は、いったい……?」
「逃げてっ!」
 鋭い声が飛んだ。昨日会った少女とはまるで別人のようだった。弾かれたように、ジュンたちは駆け出した。
 昇降口が目の前に見えて来たとき、背後から稲妻のような閃光が幾つも走り、猛獣の咆哮を思わせる、けたた
ましい絶叫が聞こえた。
 この世にあらざるものが最期に残した、断末魔の悲鳴であった。

 昇降口の扉を目の前にして、ジュンはようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ、ここまで来れば……」
 抱きかかえていた雛苺を下ろすと、鈍い感覚が両腕に一気に広がった。今までの緊張感で忘れていた疲労が、
ここにきて蘇ってきたようだ。
「いったい、あれは……な、何者だというの……?」
 体力には自信のある真紅も、さすがに息を切らしている。真紅の言う「あれ」とは、巴の姿を装ったこの世な
らざる影のことか、あるいは薔薇水晶のことなのか。恐らく両方だろうと、ジュンは思った。
「雛苺、大丈夫か? もう出口だぞ」
 暗がりの中、雛苺に声をかけた。返事はない。うつむいたまま、辛うじて立っているというありさまだった。
「もしかして、気絶しちゃってるかしら……?」
「どうしたの? 雛苺」
 真紅が心配そうに雛苺の顔を覗き込んだ。直後、ひっ、というしゃっくりのような声を漏らしてその場にへた
り込んでしまった。
「なっ……」
 ゆっくりと顔を上げる雛苺。ジュンも金糸雀も、はっきりと目撃した。雛苺のくりっとした両瞳が、墨で塗り
潰されたように漆黒に染まって見えたのだ。
 が、違った。闇に慣れた目でよくよく見れば、眼球が収まるべき窪みには何も存在していなかった。そこには
果てしなく続く洞窟のような戦慄すべき暗黒がぽっかりと口を開けて、禍々しいまでの瘴気を漂わせていたのだ
った。
「う……あ……」
 雛苺の眼窩が、揺れた。口元がゆっくりと開き、白い前歯がわずかにのぞいた。笑っているのだ。
 そのうち表情を形作る頬の筋肉が、壊れたかのように何度も収縮を繰り返した。下顎が限界近くまでくわっと
開かれ、底無し沼のような喉の奥からから狂気じみた大音量が発せられたのだった。

「きゃははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 ジュンは、危うく失神するところだった。真紅も金糸雀ももはや生きた心地もせず、雛苺の狂ったような哄笑が響く
中、ただただ身を震わせることしか出来ない。異変に気づいた薔薇水晶が駆けて来る足音すら、耳に届いてはい
なかった。
「しつこいヤツ……!」
 駆けつけた薔薇水晶は、耳をつんざく笑い声に顔をしかめながらも、雛苺の細い首を躊躇なく両手で締めあげ
た。げえっ、という潰れた蛙のような声が漏れ、笑いは止んだ。
「薔薇水晶! 何を……!?」
ジュンが叫んだが、薔薇水晶は意にも介さず、鋭い視線を雛苺に浴びせた。
「――ざあざあす ざあざあす なあさたなあだ ざあざす!」
 早口に呪文を詠唱した途端、雛苺の小さな身体はバネのようにびくん、と跳ね、崩れるようにして床に倒れた。
「雛苺っ!」
 ジュンが駆け寄り、雛苺の上半身を抱えあげる。気絶してはいるが、両目はきちんと瞼で覆われており、表情
も先程までの狂気が嘘のように穏やかさを取り戻していた。
「真紅、救急車!」
「わ、わかったのだわ」
 いまだに震えの収まりきらない真紅だったが、ジュンに言われてすぐにいつもの気丈さを取り戻した。携帯電話
を素早く操作し、冷静な声で場所と状況を伝える。
「い、いったい何が起こったかしら……雛苺までおかしくなっちゃうなんて……あれが、薔薇水晶が昨日言って
 た『悪魔』の所業かしら……?」
 腰を抜かしたような姿勢のまま、肩を震わせ続ける金糸雀。
「『アクマ』っていう言葉は、分かりやすく説明しようと思って、使っただけ。ヤツは……人の精神を乗っ取る、
 化物…………そして、古よりこの星に住まう、邪悪な『旧支配者』に連なる眷族…………」
 気を失った雛苺の髪を優しく撫でながら、薔薇水晶は言った。
「この子の、巴を想うココロに付け入り……巴の姿を使って、この子を、餌食にしようとした……」
「じゃあ、巴は……」
 ジュンの言葉に、無言で頷く薔薇水晶。
「巴を襲ったのも……ヤツに、間違いない。この子をおびき寄せる、オトリにするため……」
「巴が無傷で済んだのは、そのせいか……でも、なんで雛苺が標的に? そんな回りくどいことしてまで」
 ジュンの疑問は続く。
「それはまだ、分からない…………最初は、何者かが、ヤツを召喚したんだと思う。けど……この子を狙ったの
 は、おそらく召喚者の意思では、無い…………」
「もう、わけがわからないのだわ」
 真紅が言った。自分の理解の範疇を遥かに超えた出来事の連続に、もはや匙を投げてしまったようだ。
「とにかく、ここを出よう。雛苺が心配だ」
 ジュンは雛苺の身体を再び抱えあげ、昇降口から外に出た。蒸し暑い熱帯夜の空気にむせそうになりながらも、
ようやく人心地ついた気分であった。
 まもなく、救急車がやってきた。ジュンと真紅、金糸雀は雛苺に付き添う形で病院へ向かい、薔薇水晶は宵闇
の中を何処かへと去っていった。
 長い一日が、ようやく終わった瞬間だった。

     *     *     *

 翌日。
 昼休み。ジュン、真紅、金糸雀の3人は職員室に呼び出され、B組担任の梅岡に昨日の放課後の件でさんざん
にしぼられた。別段の用も無く放課後の校舎内に入りこみ、しかも幼馴染とはいえ下級生が病院へ運ばれる事態
になったのだから無理もない。昨夜起こったことをありのままに言うわけにもいかないため、説教はさらに長引
くこととなった。
「は~あ、長かった……梅岡の奴、気合いの入れどころ間違ってるだろ……」
「もう、お昼を食べる時間も残って無いかしら……卵焼きを食べないと、午後の授業を乗り切れないかしら~」
「私たちは雛苺を助けようとしただけなのに……まったくもって理不尽な仕打ちなのだわ」
 ようやく解放され、口々に不満を漏らしながら教室へ戻る3人。
 薔薇水晶によって千切られたあの「影」の触手は、翌朝には跡形も無く消えてしまっていた。ジュンたちが
「事実」を語ったとしても、梅岡は信じてはくれなかっただろう。ただ、音楽室や1階の廊下には昼前までヘド
ロのような悪臭が漂っていたというが――
 幸い、雛苺は軽い打撲程度で済み、意識もはっきりしているという。検査のために1、2日は入院しなければ
ならないものの、その後は普通の生活に戻れそうだということだった。巴の精神状態が急速に回復に向かい始め
たことも、雛苺を勇気づける何よりの良薬といえた。
「けど、これで真相に近づくのはますます難しくなったな」
 生徒が相次いで病院に担ぎ込まれるという事態を、学校側はいよいよ重く見た。今後は午後6時以降の校舎内
への立ち入りを禁止し、警備員を増員して警戒にあたるのだという。
「ジュン、まだ調べるつもりなの? 事件の元凶なら、薔薇水晶がもう倒したじゃない」
 真紅は呆れたように言った。
「じゃあ真紅は、本当にこれで終わったと思うのか?」
「それは……」
「確かにあの化物は、薔薇水晶に撃退された。でも、これですべてが終わったとはどうしても思えない」
 この世のものとは思えぬ異形の者の姿と、謎の少女・薔薇水晶の秘めた恐るべき力を目の当たりにして、ジュ
ンの疑問はますます深まるばかりだった。
 あれほどの力を持っていながら、何故あの「影」は、雛苺をわざわざ学校へ招き寄せたのか。
 薔薇水晶の言った「旧支配者」「召喚者」という言葉は、いったい何者を指しているのか。
 そして鍵を握る双子の姉妹――翠星石と蒼星石は、今回のことにどう関わっているのか。
「――言われてみれば、まだまだ謎は多いかしら」
 金糸雀は唸った。
「金糸雀まで、そんなことを……これ以上深入りする必要が、いったいどこにあるというの!?」
「雛苺が狙われた理由がわからない以上、また誰かが同じ目に遭うかもしれないだろう!?」
「ちょっ、ちょっと2人とも…………あ」
 チャイムが鳴った。
 3人は慌てて教室へ駆け込み、空腹を満たすことなく授業を受ける羽目になった。

     *     *     *

 放課後。
 3階の図書室。
 閲覧者用に設けられた机と椅子は、辞書や参考書を広げた生徒たちによってすでに占められている。暑苦しい
外気と喧騒から隔絶された空間は、受験を控えた3年生にとって格好の勉強部屋であった。
 そんな中、古く分厚い本が並ぶ本棚を注意深く見つつ、ゆっくりと歩く少女がいた。さらさらとした茶色のシ
ョートヘア。その瞳は、何か計り知れぬ憂いを帯びているように暗く湿り、表情は人形のように硬く凍って見え
た。
 足が止まる。視線の先には、一冊の古めかしい本。背表紙も日焼けして色褪せたその本を、少女はやおら手に
取ろうとした。その時。
「『刃物の歴史』ねぇ……うら若き乙女が読む本にしては、ちょっと殺伐すぎやしなぁい?」
 静かな、それでいて挑発的な響きを含んだ声が背後から聞こえた。少女が振り向くと、長身の女子生徒が銀色
の長髪をかき上げていた。
「あなたは……水銀燈、さん――」
 少女は口を開いた。重く、沈んでいくような声音には、それでも強固な意志の断片が感じられた。表情は、ま
るで変化を見せない。
「水銀燈でいいわよ、蒼星石。アナタのお姉さんには、いつもお世話になってるしねぇ」
 水銀燈が答える。口元には、年長者の余裕を思わせる笑みが浮かんでいた。
「こちらこそ、姉がお世話になっています。それで……僕に、何か御用でも?」
(相変わらずの冷血少女っぷりねぇ……)
水銀燈は閉口した。普段話す機会がほとんどないとはいえ、無論、蒼星石とは初対面ではない。こうも他人行儀
な態度に出られては、さすがの水銀燈もやりきれなかった。
「少し、話があるんだけど……ここじゃあ、ねぇ。ちょっと屋上に来てくれない?」
「……」
 蒼星石は、躊躇った。その瞳の動きには心当たりがあるようにも見えたが、相変わらず感情は読み取れない。
「手間は取らせないわ。別にアナタをシメようってわけじゃないから、安心なさぁい」
 容易ならぬことを口走る水銀燈。近くの席で勉強していた男子生徒が、思わず振り向いた。
「……」
 蒼星石は、無言で本を棚に戻し、出口へと歩き始めた。後を追って、水銀燈も図書室を出る。
 2人は沈黙を保ったまま、階段を上った。
 階段の上では、屋上へ通じるドアが2人をいざなうように光を招じ入れていた。

 乾いた風が、心地良く頬を打つ。
 2人は鉄製の柵の上に腕を置き、眼下に広がる街の光景を眺めた。カラスの群れが、やかましく吠えながら西
を目指して空を横切っていく。真っ黒な羽根が一枚、ひらひらと旋回しながら落ちていくのが見えた。
「今度は、雛苺が病院に運ばれたそうですね」
 先に口を開いたのは、意外にも蒼星石の方だった。
「敬語はよしなさいな。年上を敬ってくれるのは嬉しいけどねぇ」
 微笑みながら、水銀燈は言った。
「どうやら随分な目に遭ったみたいだけど……軽傷で済んだそうよ。巴の容態も、快方に向かってるらしいわぁ」
「そう……それは良かった」
 にこりともせずに、蒼星石は答えた。
「もう少し、言い方ってモノがあるんじゃなぁい?」
 ややむっとしたように言う水銀燈。が、すぐにいつもの余裕の表情を取り戻した。
「柏葉巴……去年、図書委員をやってたそうね。ちょくちょくお世話になってたんじゃないの?」
 風が、一瞬止んだ。悪戯っぽい笑みをたたえた水銀燈を、蒼星石は黙って見返した。
「何故、そんなことを? 僕が図書室に出入りするのを、見ていたとでも?」
「私の友達に図書委員長がいてねぇ。去年、アナタが頻繁に図書室を利用していて、そのたびに巴と話している
 のを見たって話をしてくれたわ」
 水銀燈の交友関係は広い。ジュンがいざというときに水銀燈を頼る理由の一つであった。
「それで? 僕が柏葉さんと会話をしていたところで、何か不都合が?」
「別に不都合は無いんだけどねぇ……まぁ、意外なところに交友があって驚きはしたわ。けど、そんなに仲が良
 かったんなら、もう少し心配してあげてもいいんじゃない? せめてお見舞いにくらい行ってあげてもいいと
 思うんだけど」
 あくまでかわそうとする蒼星石に、執拗に迫っていく水銀燈。
「図書室に足繁く通ったのは、何が目的だったのかしら?」
「貴女には関係のないことだよ」
 刃物のようにぎらついた瞳を向けて、蒼星石は言った。強い風が再び屋上を吹き抜け、2人の髪を掴み上げる
ようにして乱していく。
 細かい砂埃が舞った。その中で、研ぎ澄まされた二つの視線がぶつかり合う。
 刹那の間、2人は呼吸をすることさえ忘れていた。
「……あまり、僕に近付かない方がいい。かぎ回ったところで、怪我をするだけさ」
 風が去り、静寂が戻った。視線を逸らし、扉の方向へゆっくりと歩き出す蒼星石。その背中が校舎内へ消えて
いくのを見届けると、水銀燈はポケットからタバコを取り出した。
「ふぅ……たいした子ねぇ」
 慣れた手つきで火を点け、白煙を吐き出しながら呟く水銀燈。
 西の空にはダークグレーの雲がかかり、赤紫色の陽光が街を妖しく照らし出していた。

     *     *     *

「知らなかったな……巴と蒼星石に、そんな接点があったなんて」
 アイスコーヒーを一口啜って、ジュンは言った。
 学校帰り、ジュンと真紅、水銀燈の3人は喫茶店「ウルタール」に集合していた。金糸雀はヴァイオリンの
レッスンのために来ることが出来ず、薔薇水晶は急用が出来たと言って姿を見せていない。
「蒼星石のあの眼は、尋常じゃなかったわ。ちょこっと揺さぶりかけるつもりが、結果としては宣戦布告になっ
 ちゃったかもねぇ」
 黒猫のイリスを膝の上にのせながら、水銀燈が言った。よほど居心地がいいのか、イリスは気持ちよさそうに
あくびをして寝に入ろうとしている。
「何が『ちょこっと』よ。いきなり屋上に呼び出して質問攻めにするなんて、喧嘩を売っているのも同然なのだわ」
 憮然とした顔でダージリンを口に運ぶ真紅。これ以上深入りしたくないとは言っていたが、結局は昨日のこと
が気になって仕方がないのだろう。
「まぁそれは極端だけど……確かに、もう少しスマートなやり方があっても良さそうなもんだな」
「あいにく、面倒くさいことはキライなのよねぇ。ま、いいじゃない。戦利品も得られたことだしぃ」
 そう言って水銀燈はバッグの中から一冊の本を取り出した。古びた本の表紙を見て、ジュンは目を見開いた。
「『刃物の歴史』って……さっき言ってた、蒼星石が読んでた本か?!」
「そういうコト。あの子と別れた後、図書室に行ってこっそり借りてきちゃった」
 転んでもただでは起きない――流石は水銀燈だと、ジュンは密かに舌を巻いた。
「でも、見たところ古いというだけで、そう特別な書物でもなさそうだけれど……」
「そう思うのなら、中身を読んで見なさいな」
 水銀燈はそう言って、かび臭さの漂う本を真紅に手渡した。真紅はやや顔をしかめながらも本を受け取り、表
紙と裏表紙を一通り眺めてから頁をめくった。途端、真紅の顔色が変わった。
「これは……いったい何なの?」
 真紅のただならぬ様子を見て、ジュンも横から本を覗き込んだ。そして凍りついた。
 そこに記されていたのは、頁を埋め尽くすようにびっしりと並んだ漢字――明らかに中国語と思われる、見た
ことのない漢字も含まれていた。真紅が頁をめくっていく。所々に図版が掲載されていたが、それは本のタイト
ルにはそぐわない、奇怪な図形や禍々しい儀式のための道具などを描いたものばかりであった。
 頁をめくるうち、水銀燈の膝の上でおとなしくしていたイリスがおもむろに起き上がり、全身の毛を逆立てて
警戒音を発した。
「これ……明らかに刃物の本じゃないよな」
「そうね。このオカルティックな内容……カバーは、あくまでカモフラージュに過ぎないのだわ」
 真紅は本を閉じた。今まで感じていた戦慄にも似た悪寒が、全身からすうっと引いていくようだった。
「蒼星石は、違うカバーをかけてまでこの本を図書室の奥に隠していた。そして、アナタたちが学校で妙なモノ
 に襲われた次の日、あの子は久々に図書室に出向いて、その本を手に取ろうとした――なぁんか、引っかかる
 と思わない?」
 イリスの背中を優しく撫でてなだめながら、水銀燈が言う。ジュンは黙って頷いた。
「この場に薔薇水晶がいないのが惜しまれるのだわ。あの子なら、この本から何かを読み取れるはずなのだけど」
 真紅の言葉を聞いて、ジュンは意外な思いがした。薔薇水晶に対してはあれほど懐疑的であった真紅だが、昨
日の一件で、その能力に疑いを挟む余地は無いと思い直したのかもしれない。
「ま、焦るコトはないわぁ。時間はたっぷりあるわよ、明後日からは夏休みなんだし」
「あ、そうか」
 今思い出したように、間の抜けた声をあげるジュン。
「あら。もしかしてジュン、忘れていたとでもいうの?」
「いや……ここ最近、色々ありすぎたからな。あんまり意識してなかったってだけだよ」
 そもそも夏休みだからといって、何処か遠くへ出かけるという習慣はジュンには無かった。去年も大半は家に
籠って、ネットに明け暮れる生活を送っていた。
 しかし今年は、妙な予感を払拭できない。夏休みを最後まで平穏無事に過ごせようとは、ジュンにはどうして
も思えないのであった。

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