《.2》




 その日は、宵の内から雨が降っていた。

 世紀末と呼ばれ、人々が来る二十一世紀に様々な想いを馳せていた年。ある者はノストラダムスの地球滅亡の予言に、またある者は世紀の切り替わりの際に起こるかも知れないというコンピューターの異常に。

 そんな年の八月十九日、僕は普段通りに家から駅で二十分の場所にあるキャンパスに通い午前中だけの講義を聴き、普段通りに帰りの電車に乗り駅を降りて家路を辿っていた。

 駅の西口で傘を広げる前に、煙草に火を付ける。煙草はチリチリと黄褐色の光を放った。
 今日はこれで十本目だった。朝起きた時に五本、大学で四本、そして今火を付けたので十本目。

 その頃の僕は、かなり行き詰まっていたと言えるのかも知れない。心が、行き詰まっていた。



----------



 僕の両親は帰る家が無い。それ程、家には帰らないのだ。
 両親は医者であり、特に父は国内でも著名な外科医で、常に全国各地の病院へ赴き講義や公開オペなどを行っており、麻酔医の母は父の医療チームの一員として父をサポートしている。

 幼少期を祖父母の下で過ごした僕は、両親がとても忙しいことは理解していた。そして僕がその事で淋しくて泣いたりしたら、両親にも祖父母にも迷惑を掛けるという事も。
 運動会ではいつも祖父母が応援に来てくれた。重箱に詰められたおにぎりや玉子焼き、タコウインナーにエビフライに唐揚げ。どれもとても美味しかった。
 祖父母は、本当に僕に良くしてくれた。まさに我が子のように僕を育ててくれた。

 僕は、祖父母があまり好きでは無かった。

 いつからか僕と祖父母の間に、壁を感じていた。二人があまりに僕を愛していたが為に、僕はむしろ引け目を感じていたのだ。

 彼らは僕の親ではない、だから甘えてはいけないんだ。そう自分に言い聞かせていた。
 その自分なりのけじめのようなものが、結果として祖父母との壁を生み出していた。その壁は柔らかく限り無く薄いのだが、決して触れる事の出来ない、まるでシリコンのような壁だった。
 家の中で僕は孤独を感じていた。

 愛される孤独。

 その頃の僕は人に話し掛けられた時は素直に応対できるのだが、自分から話し掛けるのは苦手だった。

 学校では決して孤立していた訳では無かった。人に話し掛けられて、返す。それの繰り返しだった。
 クラスメイト達は、物腰の柔らかい良い人だという印象を受けたらしく、僕はクラスの中でも中の上から上の中という極めて無難な地位を行ったり来たりしていた。

 中学に入ると、祖父母のもとから離れ、両親が手配したマンションに移り住む事になった。
 正直、とても喜んだ。あの祖父母の家――むしろ、それを中心とする世界の全て――には、気の休まる場所が無かった。

 その頃の僕は、まるで自分の事を動物園の一角に設置されたふれあいコーナーにいる人気者のウサギのような存在だった。

 狭い柵付きの空間に放り出されたウサギ。柵の入り口から一斉に飛び出してくる子供達。子供達は我先にウサギを追い掛け、捕まえて、ペタペタと背中を撫でる。
 彼らにとってみればそれは愛情表現以外の何物でも無いのだが、ウサギにとってみれば大きなストレスとなるのだ。
 気の休まる場所が僕には無かった。

 転校先の中学でもそんなウサギのような生活サイクルは変わらなかった。というより、むしろ悪化していた。

 両親がくれたマンションは、広々とした3LDKだった。システムキッチン、ゆったりとしたバスルーム、二十畳のリビング。一人で暮らすには十分過ぎる広さである。

 それがかえって、僕の孤独感を増幅させてしまったのだ。
 広場にぽつんと取り残されたウサギ。周りにいた子供達はみんな帰ってしまっている。
 小学生まで味わっていた孤独とはまた違ったものだった。

 誰も居ない孤独。
 
 僕はその孤独を埋めるように趣味を探していた。
 そして僕はアクアリウムと服という趣味を見付けたのだった。

 六十センチのガラスケースの中に広がる、川の一部をカッターで切り取ったような美しい空間。
 均整のとれたデザイン、上質な素材を使ったシンプルでしたたかな存在感を発する服たち。
 そのどちらも、僕の孤独を、その上にアスファルトを敷くように埋めてくれた。

 高校に入り、一年を無難に過ごし、そして槐と出会った。
 何故僕が槐と仲良くなり、かけがえのない親友になる事が出来たのか。それは僕にも良く分からない。
 ただ、五月の最初の席替えで僕と通路を挟んで隣同士になり、彼は服が好きでヴォーグを愛読していて、僕も服が好きで十二月号のヴォーグを愛読していた。それだけなのだ。

 高校二年の七月頃、ベクトルというものを習った。直線の向きと大きさを示す指標のようなものだ。
 僕にとってそれは革命的な概念となり、それ以来僕は人生をベクトルに例えるのが好きになった。

 人はあらかじめベクトルを持っている。そのベクトルは大きさが無限大で、先っぽには自分がいる。もしそのベクトルの方向に夢や目標とするものが無い場合、その方向を夢や目標のある方向に変える。
 その繰り返しが人生なのだ。そしてそのベクトルが他の人のベクトルと交わることが、人と交わるという事なのだと思っていた。

 つまり僕は、人のベクトルと交わるギリギリのところでその方向を変える、という事を繰り返していたのだ。
 そう思うことで、僕が感じていた孤独感が幾分か解放されたような気がした。

 そして僕が初めて交わったベクトル。それが、槐だった。
 その頃僕は、彼も僕と同じベクトルとベクトルの間を折れ曲がり続けている存在だと思っていた。

 しかし、彼は違った。僕のように交わる事にビクビク怖れをなしてなどいなかった。
 
 僕が初めてベクトルという存在をを知り感動したその半年後、今度は空間ベクトルというものを習った。今までのはあくまでも二次元の話で、今度は高さという厄介な概念がお出まししたのである。

 縦、横、高さ。

 その時、僕は悟った。
 槐は、きっと僕らより高いところに居るのだ。だから彼は初めから夢に向かって一直線のベクトルでいることが出来るのだと。他の人と一見交わっているように見えるけど、それは高さが違うねじれの位置にあって、決して交わってはいないのだ。

 しかし、そう考えると、僕が槐と交差したのはどうしてなんだろうか?僕は他の人のベクトルと交わる事が出来て、彼は交わらない。それなのに僕とは交わった……?
 そもそも、こんなに孤独に苛まれているのに、僕はちっともベクトルが良い方向に進んでいないじゃないか……?

 結局僕の人生ベクトル論は高三の始めまで様々な論議が頭の中で飛び交った結果、破綻してしまった。



----------



 槐が日本を発って早二年。
 僕は、大学という新しい広場に思わぬ苦戦を強いられていた。

 そこのウサギは、仲間同士で寄り添い合い、よそ者を受け付けない排他的な連中ばかりだった。仲間内でいつも行動して、トイレ、昼食、移動に帰宅まで全て仲間同士で動いていた。

 そして、今までは僕の横に当たり前のように居た槐は、今は海という高い柵の向こう側に居るのだ。
 高校の二年間弱をほとんど唯一の友人である槐と過ごしていただけあって、彼が居ないという現実を受け入れるには二年という期間はあまりにも短過ぎたのである。

 当たり前だったものが居ない孤独。

 僕は二十年で三つの孤独を味わった。どれも異質で、それでいて確実に僕に得体の知れない不安と恐怖を与えていた。
 アスファルトはいつしか、服と水槽だけでなく、アルコールと煙草も加わっていた。
 アスファルトは、荒れた道の上に敷かれるだけである。見かけは修復されたようなのだが、その下にはでこぼこの道が広がっている――。

 その日も、いつものように家に帰り水槽のライトを付け、そこに広がる息を飲むような光景を肴にしてビールを飲み、酔い潰れて寝る、という堕落したサイクルを送る予定だった。

 そんな帰り道で、水槽の水替えをいつしようかと考えていた僕の目にとある女性の姿が映った。
 その女性は傘を持っていないのか、カフェのビニール張りの雨避けの下で誰かを待つように佇んでいた。
 彼女は入り口の石段にしゃがみこみ、足元の雨の流れをじっと見ていた。
 
「傘、持っていないんですか」

 気が付いたら、不意に僕は彼女に声を掛けていた。
 これで人生二度目の声掛けだった。
 その事に気付いた時には、既に彼女はこちらを見上げており、もう後戻りできない状況に置かれていた。
 先程は顔が見えなかったので、綺麗なブロンドヘアーの人だなあ程度に感じていたのだが、こちらを見詰めてくる彼女の白い薔薇のように純白の肌、吸い込まれそうな緑の瞳、端整で上品な輪郭は明らかに日本人のそれでは無かった。
 これでペラペラと知らない言葉で話し掛けられでもしたらたまったものではない。

 フランス語か、英語か、ドイツ語か。英語くらいしか分からないのに彼女はどの国の言葉で返してくるだろうと分かりもしない予想をしていたら、

「ええ。電車の中に置きっ放しにしてしまって」

 と、全く予想していなかった日本語で彼女は話し掛けてきたのだ。

「そうなんですか」と僕は動揺を悟られないように続けた。

「本当、記憶力って全然信用出来ないですよね。空はこんなに藍色の雲に覆われているっていうのに、傘の存在にも気付かないでここまで歩いてきて、ポツポツと雨が頭に当たって漸く思い出すんだもの」
「はは、本当ですね」
「あーあ、操り人形のように全ての記憶に糸が括り付けられていたら良いのに」
「操り人形みたいに?」
「そう。それで必要な時にクイッてその糸を引っ張ったら、必要な記憶を思い出せるの」
「うーん、でもそれだとさ、誰がその必要な記憶を引っ張るの?」
「うーん…神様かしら」
「それじゃあ神様は大変だね。十本の指で何兆、いや数え切れない程の糸を操っているって事になる」
「きっと指も沢山あるのよ」
「はは、それは想像したくないな」と僕は噴き出した。
「そうね」と彼女は笑った。白薔薇の肌よりも更に白い歯が彼女の深紅の唇から零れた。

 久し振りに味わう奇妙な感覚だった。
 また僕は、自分から話し掛けている。今度は女性に。今までまともに話した事も無い女性と今こうやって会話を何とかして繋げている。手繰り寄せた糸の先に付いている言葉が、僕の口から発せられている。
 それは奇妙ではあったが、どこかくすぐったく、そして僕を優しく満たしてくれる感触がした。

「もしもし、聞いてる?」

 どうして話し掛ける事が出来たり出来なかったりするのだろうか。槐、そしてこの女性。何か共通した部分でもあっただろうか……。

「もしもーし!」
「うわっ、な、何?」
「何、じゃ無いわよ。急に黙りこくるんだもの。凄く険しい顔をしていたわよ」
「本当に?」
「ええ。マッターホルンみたいに」
「マッターホルン?あの断崖絶壁?」
「そう。それぐらい険しい顔だったわよ」
「マッターホルンかあ」
「それにしても、何をそんなに考え込んでいたの?」
「ええと、どうして君に話し掛けることが出来たのかなって」
「えっ、どういう事?」
「いや実はね、僕は人に話し掛けられるのは全然大丈夫なんだけど、自分から人に話し掛けるのは凄く苦手なんだ。でも、今こうして君に話し掛ける事が出来た。以前もこういう事があってね。高校の同級生だった。そいつは今ここには居ないんだけどさ」
「へえー」
「そいつに話し掛けた時も不意にだったんだ。どうしてだろう」

 ううん、と立ち上がって彼女は唸った。小さな拳を口元に持って行った、まるで考える人の上半身だけのようなポーズが何とも愛らしい印象を受けた。

「と言う事は、あなた、大学では独りぼっちなの?」
「ああ、まあ」
「そう…」

 そう言ってまた彼女は上半身だけ考える人のポーズをとった。

「分かんない」
「そりゃそうだ」
「でも、分かった事がある」
「何?」
「あなたは、きっと誰にでも話せるよ」
「…どうして?」
「だって、私にも、そのお友達にも話し掛けられたんでしょう。だったら大丈夫だよ」
「うーん、どうだろう」
「きっとあなたは意識して話すのが苦手なんだと思うの。話し掛けなきゃ、と思うとついビクビクしちゃう。でも気負いせずに話し掛けるってことは出来るんだよ、きっと。要はきっかけが必要なんだと思う、あなたには」
「きっかけ?」
「そう。あなたのお友達さんとの時はどうだったの」
「そいつは雑誌を読んでて、それがたまたま僕が持ってた本と同じで――」

 僕が「あっ」と言うのと同時に彼女も「あっ」と言った。そして「ほらね」とクスクス笑った。

「やっぱり。私の読みは正しかったのね」
「そうか、きっかけかあ」
「うん。それにそんな風に話し続けてたらいつかは大丈夫になると思うわよ」
「そうかなあ」
「そうよ。頑張って」

 頑張って。
 その一声が、僕の枯れた心に降り注ぐ優しい雨のように染み渡った。身体中に温かい血が駆け巡るようにその言葉は僕の身体中を巡り、揉みほぐしていった。
 頬に熱いものを感じた。それは彼女がくれた優しい雨が溢れ出てきたものだった。

「大丈夫、泣いてるよ?」と彼女は顔を覗き込みながら言った。
「う、うん、大丈夫」僕は涙を手の甲で拭きながら答えた。
「そう、なら良かった」
「あ、あのさ」と言った僕の声はまだ少し上ずっていた。
「何?」
「本当にありがとう」
「ふふ、私は何もしていないわよ」
「ううん、君は僕を助けてくれた」
「口から出任せを言っただけよ」
「そんな事無いさ」
「そうかしら」
「うん。仮に出任せだったとしても、僕の心には響いたんだ。だから、ありがとう」
「…ええ、分かった。どういたしまして」

 そう言って彼女はニコッと微笑んだ。僕も微笑み返した。
 その微笑みを見ていたらある事に気付いた。
 彼女は雨宿り中で、僕は傘を持っている。至極当然の事ながら、こういう時は傘に入れてあげなければならない。
 さあどうしよう。
 その行為が相合い傘だという事くらい誰だって分かる。しかし見ず知らずの人間を、それもほんの三十分ほど前に出会ったばかりの女性をそう易々と傘の中に入れる訳にもいかない。

「もしもーし」
「…何?」
「何じゃないわよ、もう。またぼうっとしていたじゃない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「マッターホルンみたいな険しい顔で?」と笑いながら僕が言うと、
「そう、マッターホルンみたいな顔で」と彼女はクスッと笑いながら返した。
「あのう」
「何かしら?」
「どうやって帰るの?」

 そう僕が訊くと、彼女は待ってましたと言わんばかりにニコッと笑って、

「隣、宜しいかしら?」と言った。

 その時の彼女の笑顔は、一生忘れる事は出来ないだろう。
 まさしくその笑顔は煌めく雪のように白い薔薇で、その美しさは世界中のどんな誉れ高い薔薇も敵わない程だった。



----------



「ねえ」
「何?」
「見て」

 彼女は足元を指差して言った。その先には歩道と道路の間の段差があり、そこには雨が集まって出来た川が流れていた。

「私ね」
「うん?」
「人間って、雨粒みたいなものじゃないのかな、って思うの」

 そう言う彼女は、遠い目をしていた。

「どうしてだい」
「皆最初は、こうやって空から降ってくるの。そして他の雨粒と混ざり合って、川を作るの。ちょうどこんな風に」
「なるほど」
「そして皆、川を目指すの」
「どうして?」
「海に行くためよ」
「海?」
「そう、海。海に流れ着くために、こうやって他の雨粒と混ざり合って、川を作るの。この川はきっと、排水溝を通って行くのでしょうね」
「何だか嫌だな」
「それでも、ちゃんと海に辿り着くわ。皆必ずね」
「良かった」
「それでね、川ってさ、進む道は決まっているじゃない。きっとそうなのよ、私達も」
「どういう事?」
「私達も進む道がきっと決まっているのよ。右か左か。どんなにその二つの選択肢で迷った挙句右を選んだとしても、それはきっと決まり切っている事なのよ。川の流れのように、一本道」

 また、彼女は遠くを眺めていた。まるでその視線の先に雄大な川の流れとその遥か向こうに広がっている大海が見えるかのように。

 さっきの可愛らしい、子供のように無垢な笑みを浮かべた彼女はそこには居なかった。彼女の瞳には、ぽっかりと木の虚のような穴が空いていて、そこには虚ろな寂しさがふわふわと浮かんでいた。
 僕はその表情にどうしようもない不安と恐怖を覚えた。その悪寒は、僕がこの二十年間で経験してきた孤独に味わされてきたものと似ていた。
 川を猛スピードで飲み込んでいく土石流のような不安と恐怖。今はまだ息を潜めているが、いつか確実に彼女を呑み込んでしまう。そんな気がしてならなかった。



----------



「さて、僕の家はここなんだ」僕は自分の住むマンションを指差して言った。

「へえ、おっきいマンションね」
「一人暮らしなんだ」
「へえ、こんな広いのに一人暮らし?ご両親は?」
「全国を飛び回っているよ。医者なんだ、二人とも」
「そうなんだ、…凄いね」
「まあ、確かに凄いのかもね。ほとんど休み無しだって前に会った時に言っていたし」
「違うのよ」
「えっ」
「あなたが。きっと、ずっと独りだったんじゃないかなあって」
「小六までは祖父母の所に預けられていたよ」
「中学からは?」
「ずっと一人暮らし」
「すごーい」

 キャッキャッと無邪気にはしゃぐ彼女の顔を見ていると、何だかほっとした気持ちになった。それはやはり、先程のあの虚ろな瞳を見てしまったからなのだろう。

「でもね、僕には熱帯魚や水草たちがいるから」
「熱帯魚?」
「そう」
「何がいるの?」
「沢山だよ。グッピーにチェリーバルブにコリドラスにオトシンに…って、分かんないか」
「うん」彼女は素直に答えた。
「はは、ごめん」
「良いわよ。だって話してる時のあなた、とっても良い顔なんだもの。話、遮れないよ。大好きなのね」と微笑みながら彼女は僕に言った。
「ああ」
「その顔、友達の話をしている時にしなきゃ駄目よ?」
「はは、確かにその通りだ」

 その後暫く、二人は黙ったまま傘の中に居た。パラパラと雨がビニール傘を叩く音が耳にこびりついた。
 いつまでもこの場所で彼女を傘の中に入れている訳にはいかなかったので、僕は彼女に傘の柄を差し出した。

「この傘、君にあげるよ」
「えっ」
「だって、もう会うことも無いだろう。だから返す約束を取り付けても仕方が無いよ」
「…そうね、じゃあこの傘は私が貰って行くわ」

 そう言って彼女は傘の柄を取った。僕の手に触れないように、僕の持つ手の少し上を、そっと。

「ありがとう」
「うん。それじゃ、さようなら」

 そう言ってマンションに向かい、入口のドアを開けようとした時だった。不意に後ろから彼女が叫んだ。
「私、オディール・フォッセー。あなたは?」
「白崎だ」と僕も叫んだ。

 それを聞くと彼女は笑いながらペコリと頭を下げ、そして歩いた方向を逆送していった。
 僕は彼女の去り行く背中をじっと見ていた。
 いつまでもいつまでも。

 それが、僕とオディールの出会いでもあり、別れの始まりだった。
 それは川の上流から流れてくる水がやがて海に流れ着くように、当たり前の事であり必然の事だったのかも知れない。



----------



 食台に並べられた料理はどれもとても美味しそうだった。長旅で疲れた僕の腹はこれでもかという程グルグルと鳴った。

 ミネストローネにバジルのパスタ、メインにはタラのムニエル。何とも日本人らしい組み合わせである。
「美味しかった。ご馳走様でした」と僕が言うと「御粗末様でした」と巴がニコッと笑い返してくれた。

「なあ、槐」
「何だ」

 僕らは食後のワインを飲んでいた。胃の辺りに溜ったアルコールが程よい熱を発していた。

「約束の時間だ」
「そうだな」と言って、槐はソファから立ち上がった。
「ついて来てくれ」
「どこに行くんだ?」
「僕のアトリエだ」

 白。それが彼のアトリエを見た時の率直な感想だった。
 壁、床、家具、全てが白に統一されていた。照明がかなり淡い光だったから良かったものの、普通の蛍光灯ならまず間違いなく眩し過ぎて雪目のように目が眩んでいただろう。それくらい真っ白だった。

 しかし、その部屋には唯一、白くないものがあった。
 熱帯魚の水槽である。
 彼が以前僕の部屋に遊びに来た時に、やたら必死に眺めていたのは覚えていた。まさか彼も始めていたなんて思いもよらない事だった。

「君もやっていたんだ」
「ああ、君の家の綺麗な水槽がどうしても欲しくなってね。つい買っちゃったんだけどさ。まあとりあえず見てくれないか」

 彼の水槽の中では、たくさんのネオンテトラとグリーンネオンテトラが群栄していた。
 およそ六十センチの水槽に百五十匹近く居るだろう魚達は、まるで糸で操られているように水槽の中を一斉に左右に行ったり来たりしている。
 ネオンテトラの青と赤のコントラストとグリーンネオンのほんのり緑がかったブルーが背景の白に浮かび上がる光景は息を飲むほど素晴らしかった。

 しかし、水草がやつれていた。
 本来ならば柔らかいグリーンの葉を八方に伸ばすヘテランテラもある頂端がしおれ黄色くなっていて、ロタラ・マクランドラの鮮やかな赤色を発する筈の葉はどす黒くなっており、他の水草達も元気が無く、葉の表面には薄く緑の斑点のような苔が付着していた。

「これはまずいな」僕は水槽を眺めながら言った。
「やっぱりか」と槐はうなだれた。
「この水槽さあ、いつからあるんだ?」
「結婚してすぐだから、かれこれ二年弱」
「リセットは一度もしてないよな」
「ああ」

 ううん、と唸りながら僕は水槽を見つめていた。濾過器にも特に異状は無く、フィルターの色も程よくバクテリアが住み着いていることを示す薄茶色をしていた。となると…。

「この底砂の赤玉土はいつからのだ?」
「ええと、確か去年の始め頃からのだったかな」
「これだ」

 睨んだ通りだった。

「この赤玉土が良くなかったんだ。これはね、水の栄養分を初めのうちは吸収してくれるけど、やがて溜りに溜ってこれ以上吸収が出来ないって状態になるとね、栄養分を吐き出してしまうんだ」

 へーっ、と槐は感嘆の声を上げた。

「だから水の中が富栄養になってるんだ。きっと苔達がその栄養を吸収して強くなっているんだよ」
「下剋上だな」と笑いながら槐は言った。
「とにかく、土を換えなきゃ」
「分かった。しかし、今日はもう遅い。明日しようか」

 時計は、十一時を過ぎていた。

「ああ、分かった。明日しようか」
「よし、決まりな」
「あれ?という事はさ、僕がここに来た理由って…」
「ああ。水槽を見て貰うためだ」
「………」

 はあ、と僕はがっくり肩を落とした。やっぱりだった。
 この程度ならわざわざ僕を呼ばずに、行きつけのペットショップの店員さんでも呼べば良いし、あるいは電話での応対でも十分対処出来た筈であるのに。
 そういう良く言えばおおらか、悪く言えば大雑把なところが彼らしいと言えば彼らしいのである。

「はは、そんなにがっかりするなよ。君には他にもここに来た目的があるんだろう」
「いやまあ、そうだけどさあ」
「なら良いじゃないか。ついでだと思って、なあ」

 最早、言い返す気も失せてしまった。彼の屈託の無い笑いを見てると不思議とそういう気が起きなくなるのだ。それが彼の能力なのかも知れない。

「分かったよ」
「サンキュー」彼のスマイルがますます大きくなった。
「じゃあ明日掃除と土の入れ換えね。その後何か買いに行く?」
「そうだな、少し水草を足したいからペット屋に行こうか」
「了解」
「じゃあ、さっきの続きだ」
「勿論。まだ飲み足りないよ」

 そう言って僕達は、グラスに残った赤ワインを体に溜める為に白い部屋を後にした。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2008年02月27日 16:42