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《.1》




 八月のグラスゴーは、日本人の僕にしてみればとても夏を感じさせるような気温では無かった。
 おまけに天気も変わりやすい。昼間は丁寧に磨かれたガラスのように澄み切った青空が広がっていたのに、夕方には既に空は灰白質の息苦しい雲に覆われていた。
 まるで不安定でゆらゆらと移り変わりやすい思春期の心のような気まぐれさである。

 傘を持っていなかった僕は、路地裏のこぢんまりとしたカフェの雨避けの下で一人佇んでいた。

 頭上では雨が雨避けのビニールを叩く音がする。足元では空から降り注ぐ雨が集まり、小さな川を作っている。川は緩やかに流れ、ある川は排水溝に流れ落ち、ある川は小さな水溜まりを作り、ある川は石畳の間をあみだくじを伝っていくように流れている。

 ふう、と灰に溜った煙草の煙を吐き出す。煙は肌寒い八月の風と戯れるように舞い、そして散った。

 ふと、こんな事を考える。
 人は、雨粒のようなものなのかもしれない、と。

 地面に降り立った雨粒は、他の雨粒と混ざり合い、流れて行く。

 もしかしたら、運良く壮麗な大河に流れ込み、やがて広い広い海に辿り着く事が出来るかもしれない。
 はたまた、側溝に流れ着き、下水を通った後に辿り着くのかもしれない。
 どこにも辿り着くことが出来ずに、僕の足下のこの石畳に留まり、やがて降り注ぐ陽の光に照らされ、蒸発し消えてしまうのかもしれない。

 一直線に進むことは出来ない。曲がり角や分かれ道、どこかに必ず曲がらなければならないところがある。

 降ってくる一粒の雨をじっと見詰めても、地面に落ちた雨の行く先が分からないように、当の本人は自分の行く先はおろか今自分がどこを流れているのかも知ることはできない。
 ただ他の雨粒と共に流れに身を任せるだけなのだ。

「僕は一体どこを流れているんだろうな」

『あなたは、きっと清らかな小川を流れているわ――』

 そんな事を、思い出していた。



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 雨は、本降りになろうとしていた。
 北欧の夜は陽が沈むのが遅く、もう夜の八時を過ぎているというのに空はまだ陽の光が差していた。
 とは言っても、上空を灰色の雲が占拠しているので決して明るいという按配では無く、街灯が付いているのに何の違和感も感じない程薄暗かった。
 街灯は、薄明かりの中に柔らかい黄色の空間を足元に作り、やはりそこにも雨は降り注いでいた。緩やかな勾配の石畳の上を、小さな川は流れていた。

 周りの家はどれも中世のような古めかしい石造りで、家の中からは親子の団欒の声、そしてそれを喜ぶように犬のクゥーンという可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。

 雨に濡れた仄かに苦い石の匂いが鼻腔を突く。それは、八月には似つかわしくない、肌寒さを助長させる匂いだった。この中途半端な寒さが一番風邪を引きやすい、性質の悪い寒さのような気がしてならない。

 かれこれ一時間はここに居たのだろうか。
 先程までは買い物帰りの仲睦まじそうな老夫婦に挨拶されたり、向こうのゴミ置き場を猫の親子が漁っていたりなど、本通りから一本か二本入った裏通りらしい、情緒を感じさせる光景がここには広がっていた。

 ところが今はそんな様相が嘘のように通りから人は消え去り、食事にありつけた猫の親子は壁伝いにどこかへ行ってしまい、後に残されたのは右も左も分からない異国人の僕と冷たい無数の雨粒が織り成す静寂だけだった。
 まるでデパートで親とはぐれ散々探した挙句入り口の前で待ちぼうけしている子供のような状態だった。
 周りには知っている人はおろか、誰も居ないのだ。孤独と言われればそうなのかもしれない。しかし僕はこの空気に妙な懐かしさを覚えていた。
 今スコットランドで独りぼっちの日本人の僕と、あの時日本で独りぼっちだったスコットランド人の彼女――。

 もう一度煙草を吸って、吐く。白い煙はふわふわと綿菓子のように眼前を舞い、風に飛ばされた。飛ばされた先を見ると、男が歩いているのが見えた。

 街灯に、男のシルエットが浮かび上がった。右手で傘を差していたが、左手には折り畳み傘があった。

「済まない、白崎。遅れた」
「良いよ、槐。こうして路地裏で雨に打たれてぼうっとしているのも詰まらなくはないさ」
「そうか。それならこれを買ってくる必要は無かったのかもな」

 そう言い槐は、ポケットから缶コーヒーを取り出した。

「気が利くな、槐」
「欲しいのか」
「当たり前だろう」
「はは、そうか」と言って彼は僕に缶コーヒーを渡した。触ってみると暖かかった。

「じゃあ、頂きます」

 僕はブラックの缶コーヒーのプルタブを開けた。



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 槐とは高校からの付き合いである。
 高二の時、クラス替え後初めての席替えで隣の席になったのが始まりだった。
 きっかけは彼が見ていた欧米のファッション雑誌だった。
 ヴォーグかい、という僕の呼び掛けに彼はこちらを見ることなく、ああ、とそっけなく答えた。

「珍しいね、イギリスの雑誌を読むなんて。辞書無しで読めるなんて凄いじゃないか」
「向こうで四年生まで過ごしてたから」彼の目線は変わらなかった。
「帰国子女って訳かあ」
「そういう事になるな」
「へえ、格好良いな。でもね、実はその雑誌、僕も持っているんだ」

 そう言って、学生鞄の中から一冊の雑誌を取り出し、彼に見せた。彼はその本をまじまじと眺めているようだった。ただし、その顔は窺い知ることは出来なかった。

「君も読んでるのか」

 彼は初めてこちらを見た。地毛の金色の髪にほんのり青みがかった瞳が印象的だった。

「うん、でもこれは去年の十二月号のなんだ。古本屋でたまたま見つけて、つい買っちゃったんだけどさ。やっぱり生きた英語は難しいよ、学校で習う何倍も難しい。辞書を引き引きさ」
「日本語の方が難しいさ」
「そうかなあ」僕はニヤッと笑って見せた。
「そうさ」彼もニヤッと笑い返した。

 その後、互いに服飾関係に興味のある者同士、すぐに打ち解けた。
 元々自分から人にアプローチするのが殊更苦手だった僕がどうしてあの時槐に話し掛けることが出来たのかは、今でも不思議である。

 彼はポストモダン芸術の影響だとか新鋭のデザイナーだとか、今まで誰に話しても理解されないような話が出来る唯一の相手だった。今まで僕の中に溜め込んでた知識を使う最高の相手だった。
 彼は美術の面でも秀でていて、彼のスケッチブックには彼が考えた服のデッサンがビッシリと書いていた。僕もそれに倣って絵を書いてみたのだが、なかなか彼のようにはいかなかった。

 よく二人で色んな店を回ったりしたものだった。そして服もたくさん買った。バイトをして貯めた15万円で一着のジャケットを買ったり、二人で貯めた30万円で革のジャケットを買ったり、とにかく僕達二人の服に対する金銭感覚は浮き世離れしていた。

 それでも僕達は楽しかったし、有意義だった。高校生活というものを、満喫できたのだと思う。二人は、親友と呼ぶに相応しい間柄だった。

「白崎、お前は進路はどうするんだ?」

 それから一年と半年が過ぎた、枯葉のもつれを北風が解くような冬のある日、槐は僕に訊いてきた。

「僕は自分の店を持ってみたいかな。大学に行くよ」
「そうか。君は頭が良いから行けるさ」
「だったら良いんだけど。それで、君はどうするんだい」
「僕は日本を出ようかと思う」
「ええっ、どういう事だい?」

 つい大声を出してしまった。全く以て予想だにしていなかったのだ。槐は僕に落ち着けと促した。

「日本を出て、デザイナーになるための勉強をしようと思っているんだ。日本じゃ学べない事を沢山学んで、いつか一流のデザイナーになる」
「そうか。だが、日本を出るとは言っても、出たところでどうするんだい。大学か何か通うのかい?」
「グラスゴーに美術学校があるんだ」
「グラスゴー?」
「スコットランドで二番目に大きい街さ。そこの美術学校が有名でな。チャールズ・レニー・マッキントッシュて人が作ったのさ」
「アール・ヌーボーの?」
「そう。よく知ってるな」
「聞いたことはあるかな」
「そうか、やはり君は物識りだ」
「君には構わないさ」
「どうだろう」
「さあね」と言って、僕は立ち上がった。

「でも、凄いじゃないか、デザイナーなんて。僕なんかより遥かに具体的に考えているんだな」
「でも、君より遥かに漠然としている」
「そうかなあ。僕は羨ましいんだけどな、君のそれだけの決断力が。君の将来のベクトルははっきり定まっているじゃないか。一直線、ビシッと夢に向かって。僕は不確かだ。まだ基準点から方向も成分も定まっていない、不確かなベクトルのままだ」
「僕にはそうは見えんがな。君だって店を持つ、というベクトルがあるじゃあないか」
「そうかなあ」
「そうさ。頑張れ」
「分かったよ。君も頑張れ」
「そうだな」と言って、彼も立ち上がった。

「まあ、夢だけで終わらないよう頑張るさ」

 一年後、彼はスコットランドへと旅立った。彼はグラスゴー美術学校に入学し、僕は国立大学に入学した。
 彼は別れ際、空港で僕に彼が今まで集めたファッション雑誌、業界の著名人の本など沢山のものをくれた。雑誌ヴォーグの各ページには彼の日本語訳をしたメモ帳が入っていた。
 それらは今でも、大切に仕舞ってある。



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「しかし遅かったな。六時頃には着くと言っていたのに、もう八時半だぞ」
「うん。向こうの空港で僕が乗る予定だった飛行機が遅れちゃってさ」
「そうだったのか。その時に連絡寄越せば良かったのに」
「まあ良いじゃないか。どこで電話しても、結局僕はこの雨避けの下で君を待っていたことになっていただろうからね」

 僕達はまだ雨避けの下にいた。雨足は強まり、ビニールを打つ雨の音もポツポツからザアザアになっていた。

「二年振りか」とコーヒーを飲みながら彼は言った。
「もうそんなに経つのか。早いな」と僕もコーヒーを飲みながら返した。

「で、どうなんだ、仕事の調子は」
「まあまあかな。ちょっと余裕も出てきたし、バーみたいなのも始めようかなって思ってるんだ。昼はショップ、夜はバー」
「大変だな」
「どうだろう。始めてみないと分からないな。それに今は不安より楽しみって気持ちの方が強いかな。やってみたかったんだ、マスター」
「君が、か。あれだけ自分から話に行くのが苦手だった君がねえ」と、彼はおちょくるように言った。
「おいおい、僕だって人と話をするのは得意になったさ」
「どれくらいだ」
「ああ、馬鹿にしてるだろう。普通に接客できるんだぞ?」

 そう言う僕を見て彼はハハハ、と笑った。僕もつられて笑ってしまった。

「そうか。珍しい事もあるもんだな。何にせよ、また新しい目標が出来た、って訳か。良い事だ、新しい事にチャレンジするのは」
「君はチャレンジの連続じゃあないか」
「そうなのか?」
「そうだよ。毎期毎期新しいテーマじゃないか」
「まあ確かにな」
「だから、チャレンジの連続なんだ」
「なるほど、そう言われればそうかも知れない」

 そう言って彼は傘を僕に渡した。
 「ありがとう」と言い、僕は傘を受け取った。

「こんな所で長話するのも悪くないが、君みたいに雨宿りをしなきゃいけない人にとっちゃ迷惑だ。家に行こう」

 僕はその意見に賛同して、雨避けを出た。川の幅は広く、水溜まりは大きくなっていた。

「何だか、思い出すなあ」
「何をだ?」
「あの時もこんな風に雨が降っていたなって」
「…彼女の事か」
「うん」

 その後、彼は何も話を切り出そうとはしなかった。その沈黙を僕は受け入れ、二人は漸く陽が稜線に隠れ始めたグラスゴーの街を歩いていった。



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「ただいま、巴」
「お帰りなさい。あら、いらっしゃいませ。お久し振りですね、白崎さん」
「お久し振りです、巴さん。また数日お世話になりますが、宜しくお願いします」と僕が会釈すると、
「こちらこそ、宜しくお願いしますね」と巴も会釈を返した。

 巴は槐の妻である。元々欧米ブランドをメインに取り扱うファッション雑誌の編集者をしていた彼女は、三年前の冬頃に雑誌の取材で彼のもとを訪れた。その際互いに意気投合し、七ヶ月の交際を経て、一昨年の七月にエディンバラで結婚式をあげた。

 つまり、僕が最後に二人に会ったのはその時なのである。
 その時彼女が着ていたウェディングドレスの高貴なイメージが強く残っていたので、彼女の普段着にエプロンという至って庶民的な出で立ちはとても新鮮だった。しかし、彼女の立ち振舞いはやはり上品で気立てが良く、きっと誰からも好感を得られるのだろうという確信を持たせてくれる。

「相変わらず美人さんだねえ、槐」と僕はからかってみたのだが、反応したのは彼女の方で、さっと頬を朱に染めた。慌てて僕は謝った。彼女も僕に謝った。  本当にごめんなさい、と彼女は謝り、またキッチンへ向かった。

「なあ、槐」靴を脱いで靴箱に入れながら、僕は槐に訊いた。

「もうそろそろ良いだろう?」
「何の話だ?」と肩をすぼめながら返した。

「とぼけるなよ、どうして僕を呼んだんだ?電話口でも教えてくれなかったし、そこまで出し渋るような事なのか」
「ううん…まあ、飯を食った後にでも話すさ」
「今話してくれ」
「僕は腹が減った」

 彼の『腹が減った』の言葉は、もうその話題はおしまいだ、という事である。はあ、と溜息を吐いて僕はリビングの方へ向かった。

 リビングはキッチンとカウンターで繋がっていて広々としていた。あまり家具の数が多くないのもあるのだろう。
 部屋はとても綺麗に整頓されていた。テーブルには淡いベージュのクロスが掛けられていて、中央にはセントポーリアの鉢植えが置いてあり、小さな紫の花弁が可愛らしかった。
 部屋の端には前の持ち主の頃からあるらしい暖炉が備え付けてあり、パチパチと小気味良い破裂音を立てていた。
 壁は白の壁紙で統一してあり、所々に小さい額に入った絵画が飾ってあった。
 
「前に来た時も思ったんだけどさ」
「何だ?」
「この部屋って君の考案なのかい?」
「どうしてだ?」
「何と言うか、デザイナーの家ってもっと小洒落たもんだと思っていたからさ」
「ああ、その通りだ。僕はこの家に関しては一切口出ししていない。全て妻のアイデアだ。あいつ、君が言ったような洒落た部屋じゃ落ち着かないらしくてさ。まあ僕もそんな部屋に四六時中居たらイライラして敵わんだろうしな」

 そう言って彼は巴の手伝いに行った。
 巴はスープをかき混ぜていた。煮込まれたトマトと月桂樹の香りが部屋を満たしていた。そして槐は野菜を手慣れた手付きで切っていた。
 どの角度から見ても、仲睦まじい夫婦だった。男は材料を切り、女は鍋の番をする。その光景を、暫く眺めていた。
 どこかで見たことあるような、無いような――空に溶け合っている最中の飛行機雲の切れ目のように曖昧な感情を僕は抱いていた。

 壁に目線を移し、壁に掛けられた絵画を眺める。一輪のポピーの淡い水性画や、グラスゴーの大聖堂を描いた油絵。それらの絵の右端には『Enju』とサインがしてあった。
 その中に一枚だけ、『Enju』ではないサインの絵があった。その絵には『Shirasaki』と書かれていた。

 一人の少女が立っている。奥にはエディンバラ城が丘の上にそびえ立っている。周りは藍色に包まれ、雨が降っている。少女は降り頻る雨のなか傘も差さずに耳を澄ましている――。
 『一時の銃声』。僕がそう名付けたその絵は数年前、僕が槐にあげた作品である。

 その絵をぼうっと眺めながら、曖昧な感情――六年前の事を思い出していた。
 僕の前に舞い降りた一粒の雨。そしてその雨粒の行く先を。

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