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 人形のようだ。

 グラスを傾けながら、彼女はふと、そんなことを思った。
 思い込んでいることほど、他人の言は受け入れがたいもの。
 透き通るグラスの中で揺らめく琥珀を、丁度眼の高さに持って行きながら。それをとりとめもなく揺り動かしてみて、彼女はぼんやりと、かたちにならない何かに想いを巡らせている。

 それはある種、楽なことだったのかもしれない。

 僅かにかたちになるものは、果たして自分を慰めるものに成り切れていたかどうか、恐らく彼女自身も理解していない。

 それでも良いかと、少し考えて。
 そして直ぐ、その言を翻したくなる。

 ぐるぐると巡り、廻り続ける。じっ、と、既に揺らめきの収まった琥珀を、長めのまつげと共に瞬かせながら見つめるその様子は、どこか艶かしくもあった。

 その彼女の隣には、もうひとり。物憂げな彼女に全く引けをとらない……道行けば、十人男が居ればその内の八人は確実に振り返るような。そんな容姿の女性がちょこんと座っていた。

「難しいことを、難しいと一言で言ってしまうのも、案外悪くないんじゃないですか? 巴」

 右眼の眼帯の位置をなおしつつ、ふわりとしたウェーブがかった髪を少しかきあげて、うつくしい彼女はそんなことを言う。

 それを受けた、物憂げなひとり――巴、と言う名前の彼女――は、特に何も返すことをしなかった。

 巴は、くぃ、と。手に持っていたグラスを傾ける。琥珀が彼女の喉を通り過ぎて、落ちていく。
 暫しの、静寂。五分ほどたっぷりと間を留めてから、巴はさっきの彼女と全く関係の無い一言を発した。

「スコッチはだめね。1ショット幾ら、とか。そんなの関係なくして、次にいきたくなっちゃうから」
「ストレートでいくからでしょう、それは。生粋の呑兵衛の台詞ですよね、それも」

 そんなこと無い、と。喉まで出かかった言葉を、くっと抑える巴だった。

「僕としては、お客様が気持ちよく呑んで頂けるなら、それ以上のことは御座いませんが」

 カウンターの向こう側でグラスを磨きながら、それほど会話らしくも無い会話に白崎は言葉を挟みこんだ。
 
 薄暗い照明の下に居た客は、二人。店内の静か目なBGMが、聴こえるか聴こえないかのボリュームで鳴り響いている。

 白崎一人が店を経営していたのなら、これもそれほど珍しい状況では無い。彼は元々、客の多寡には頓着しない男だった。
 ただ、今日は。彼の他に、もう一人。バイトの娘が、シフトで店に入っていた。

「ま、私もそうねぇ。あ、次はこれいってみるぅ? マッカランの……」

 言いながら、自分が呑む分の酒を造ろうとしている彼女。本来酒を呑みながら仕事をするバーテンダーは頂けないものなのだろうけど、普段の彼女の仕事振りから、その辺りはどうやら御免となっているようである。

「水銀燈のお薦めなら……それ頂けますか?」

 巴よりも先に、眼帯の彼女が受け応える。
 水銀燈はこの店の正社員と言う訳ではなかったが、妙なところで客に人気があった。だから普段は、彼女がシフトに入っている時などは、もっと客が入っていてもなんらおかしいことは無かったのだが――

「今日は自分も呑める余裕があっていいわねぇ。貴女達にもいっぱいお薦め出来るわよぉ」
「水銀燈さん……貴女は忙しい時も呑んでるでしょうに。まあ、問題ありませんが」

 ――どうやら店員の二人も、全く気にしていない様相だった。

 そんなやりとりに、巴は参加しようとする素振りが見られない。
 お互い近い空間に居ると言うのに、どこかぽつんと、遠い場所で独り立ち尽くしているような。そんな雰囲気を、漂わせている。

 気分が落ち込んだ時。酒を呑んで良いタイプと、良くないタイプがあって。彼女はどうやら、後者の様子であった。

 するすると独りグラスを空にしていっている辺り、勿論彼女は『呑めない』だとか『弱い』だとか、そういう話を以て『良くない』訳では無い。

 むしろ方向としては、逆。彼女はこの酒好きの面子(白崎はそれほどでも無いので、女性陣、という表現が本来は正しい)の中においても、相当呑める方だった。

(ひとの気も知らないで、なんて陽気なのかしら)

 ストレートで静かにグラスを煽り、チェイサーで口の中を落ち着かせる。巴はそうやって、外見はとても落ち着いた素振りではあったけれども、内心はどんどん自分のこころの中へ落ち込んでいっている最中。

(まあ、こうやって呑めるなら――別に構わないけれど)

 そして、その辺りの分析を、巴自身完了している。よって彼女は、少しほろ酔いになりながらも、意識はまだまだ正常に域に留まっていると言えた。

 そんな幕間が繰り広げられているこの場所は。
 昼間は、夢見るような喫茶店。夜は、やさしい時をもたらすバー。
 巴は、彼女自身よりもよっぽどお酒がすきな、うつくしい彼女に連れられて、ここへやってきた。


 さっき出かかった言葉を呑みこんだのと同じように、今度は溜息が出そうになるのを堪える。

 だけど、彼女自身は。
 その留めた溜息が、落胆のせいか、感嘆に拠るものか。
 少し、わからなくなってきていたのだった。



【ある日の幕間】



「今日は呑みにいきませんか? 良いお店を見つけたんですよ」

 大学の講義が終わって、何をしようかと考えていた巴に雪華綺晶は声をかける。
 暇を持て余しそうになっていた彼女にとって、それは願ってもないことだった。まして、雪華綺晶の誘いならば、なおさら。

「いいわよ。貴女、本当にお酒がすきなんだね」
「貴女もなかなかですよ、巴」

 他愛ないやりとりが、彼女達の日常を作り上げる欠片だった。ひとつひとつは小さくて、ともすれば儚く消えていくかもしれないもの。
 けれどそれは、よくよく眼を凝らしてみると。小さな小さな輝きを放っているのかもしれないと、巴は少しメルヘンチックなことを考える。

「でも、少し時間があるでしょう。何処かで暇でも潰す?」
「そうですね。ただあの店、ご飯もとっても美味しいんですよ? 食べていかなくても十分だと思います」

 私は幾ら食べても平気ですが――などとのたまう眼帯の彼女は、どうやら相当健啖な様子。
 それに対し巴はと言うと、普段の彼女の事情を知ってか知らずか、苦笑いを浮かべるのだった。


―――


「こんな路地にお店があるの?」

 少し訝しんだ様子で、巴は言った。
 明るい内なら、良い感じの小道であろうと、彼女自身思ったかもしれなかった。しかしながら、時は夕暮れ、辺りは大分薄暗くなってきている。

 今は、隣に雪華綺晶が居るけれど。彼女の着ていた白いワンピースの袖を少し引っ張ろうとして、ついに彼女はそれをしなかった。

「大丈夫ですよ、巴。人通りは確かに少ない方ですけど。まあ、本当にいざとなったら」

 貴女が守ってくれるじゃないですか――なんて。にこにこしながら言う、雪華綺晶。

 巴は、大学に入ってからは竹刀を持ち歩くことをしていない。ただ、高校時代から巴と同級生である雪華綺晶は、彼女に武道の嗜みがあることを知っていたし、またそれが相当の実力であることも理解していた。

 それを受けた巴は、いよいよ何も言い返せなくなる。

 確かに、彼女を守る為ならば、と。一瞬本気で棒切れでも落ちていないかと、あたりをきょろきょろと見回してしまったのは、雪華綺晶には秘密だった。

 対する眼帯の彼女はと言うと、巴のそんな仕草に、少し勘違いをした様子である。

「色々お店が入ってるんですよ、ここも。私の叔父の店も、ちゃっかりあったりします」
「そうなんだ」
「ええ。とは言っても、今はまた海外に行っていますし、お店は閉まってますけどね。妹のところに居るのは知ってるのですが、私なんかほっとかれてばかりです」

 ふぅ、と。小さく溜息を、ひとつ。
 表面上は寂しさなどを見せることは無い雪華綺晶にしては珍しいことだ、と巴は考える。
 彼女に妹が居ることは元々知っていたのだけれど。普段家族の話をすることなど滅多に無かったし、まして彼女が自らその話題に触れることは今までも皆無だった。

「着いたらわかると思いますけど、結構良い雰囲気の店なのですよ?」
「へぇ……」

 何か気の利いた返事でも出来れば良かったのだが、生憎巴にはそんな返しが思いつかない。ただ相槌を打つだけになってしまっていた。

「あと、ちょっと貴女は驚くかもしれませんね」

 ふふふ、と。悪戯っぽい笑みを浮かべて、雪華綺晶は笑った。
 それに対する巴はというと、頭にクエスチョンマークを浮かべるばかりで、その驚きが何に拠ってもたらされるものなのか、見当もつかない。

 二人分の足音が響く路地の突き当たりに、果たして辿りつこうとしていた場所があった。

「ここですよ」

 重めの扉を開いた先には、薄暗いオレンジ色の光が満たされていた。

「いらっしゃいませ……おや、雪華綺晶さん。今日はお早いお着きで」

 細い眼鏡をかけている、切れ長の眼をした紳士風の男がひとり。

「友達を連れてきましたの。……と、まだ彼女は着ていないのですか?」
「ええ、珍しく。先程連絡がありましたが、もう少しで来るみたいですよ」
「あらあら。――と言っても、元々の出勤時間よりもまだ早いでしょうに」
「そうなんですよね。其処がまた律儀と言うか、なんと言うか」

 二人のやりとりに対し、巴は既に入っていけない様子になっていた。
 そういう状況自体、彼女自身は慣れっこであったので、特に気にもしていなかったのであるが。会話の途中、白崎は不意に巴の方へ意識を向けた。

「――と。失礼致しました、お嬢さん。雪華綺晶さんの、お友達なのですよね?」
「ええ、……はい」
「巴、と言いますの。とっても良い娘なんですよ」

 自己紹介のタイミングを取られてしまった感があったが、『良い娘』と言われた巴はそれほど悪い気もしていない。

「そうですか、それはそれは。――巴さん、ですね。白崎です。ここでマスターをやらせて頂いて居ります」

 以後、お見知りおきを――

 そんな恭しい言葉と共に、深く礼をされたものだから、巴は驚いてしまった。
 悪いひとでは無さそうだ、けれど。どこか芝居がかったところがあるひとなのだな、等と彼女は考える。

「白崎さんって、普段からそのような話し方なのですか? 私が初めてここにきたときも、そんな感じでしたよね」
「ああ、まあ……」

 雪華綺晶に指摘され、何処か照れた風になる白崎である。

「昔からですよ。本当に昔からの癖なのです」

 ――演劇でも、やっていたのかしら。巴はそんなことも思い浮かべていた。

 ぼぉん、と。古めかしい感じの音が一度鳴る。店内に備え付けられた、年代物の柱時計から響いたものだった。巴は自分の腕時計を確かめて見ると、丁度六時半を回った所。
 オレンジ色の照明に反射して、彼女の左手首で柔らかい輝きを放っている小さめのそれは、巴のお気に入りの一品だった。

「付けてくれているんですね、嬉しいです」
「うん……」

 それはつい先日の巴の誕生日に、雪華綺晶がプレゼントしたものである。

『巴は、飾り気が少々足りないのです――』

 ちょっとは可愛らしいものを付けてみては如何ですか――そんな言葉と共に、果たして時計は巴の腕で輝くことになった。

 飾り気、と言っても。雪華綺晶は、巴が派手な装飾を好まなそうなことを何となく察していたのかもしれない。
 サイズも小さめ。銀の文字盤に、ワンポイントの薔薇の刻印が刻まれている――シンプルな腕時計は、普段巴が着ている服装にもぶつからないだろう、という雪華綺晶なりの配慮だった。

 だから雪華綺晶はと言うと、着ている服装も割と清楚な彼女が、自分のあげたプレゼントを使ってくれていたのは、心から嬉しい出来事だったのである。

 無論、巴が決して洒落っ気の無い服装をしている訳では無い。この日の彼女は薄めのグリーンのキャミソールに白のシャツを合わせ、すらりとした長い脚がよく映える細身の黒い七分丈のパンツを身につけていた。
 ブランド物を購入する性癖は彼女には無かったし、ひとつひとつのアイテムが高価と言う訳でも無いけれど、ファッションに対しては全くの無頓着でも無かった(実際、普段持つ小物については、それなりの拘りを見せている)。
 足元はアウトレットで一目惚れて購入した、ヒールが少し高めの水色の留め紐がついた、春先でも暖かい日なら全く問題の無い塩梅のサンダル。これは普段動きやすい履物を好む彼女としては、少し珍しいことであると言える。

 ――ピアスは開けていないから。次はイヤリングをプレゼントしてみようかしら。

 自身、割とスカートで合わせる服装がすきな雪華綺晶が、もっと巴に女の子らしい格好をして欲しいな、と考えていることを、勿論巴は知る由も無い。

「仲良きことは、というものですかね。――さて。お二人とも、次は何に致しましょう?」

 白崎がそうやって次のグラスを促した時、慌しくドアを開ける音が裏口から響いた。

「すみません、遅れましたぁ……」

 謝罪と共に店内へ現れた女性の長い銀髪が、少し乱れている。
 それを、すぃ、と右手で梳いて整えながら。よっぽど急いで居たのか、肩でしていた呼吸を、何とか落ち着かせようとしていた。

 それを見て、巴は思わず声をあげる。

「水銀燈……!? 貴女、ここで働いていたの?」
「あらぁ、巴じゃなぁい。珍しいわねぇ……と言いたいところだけど。雪華綺晶の紹介なのね?」
「ええ。巴を驚かせようと思って、連れてきたんですよ」
「あら、そうなのぉ。ゆっくりしていってね? 白崎さん、ちょっと着替えてきますね」
「はい。貴女はそもそも遅刻していると言う訳でも無いのですから、どうぞごゆっくり」

 白崎の言葉を受けて、いそいそと裏手に回る水銀燈。
 その様子を見ながら、巴は少しぽかんとしていた。雪華綺晶が『驚かせよう』と思って彼女を連れてきたのなら、その企みは十分に成功していると言えた。

 水銀燈と言えば、学内でも知らないひとが居ないというほどのうつくしい女性である。昨年などは、一年生でありながら大学のミス・キャンパスに選ばれそうな勢いだった。本人は目立つのがあまりすきでは無いのか、早々にそれを固辞していたけれど。

 彼女の周りには学内でも綺麗どころが集まっていて、彼女の一番の親友である真紅、そして雪華綺晶、巴(巴には全く自覚が無い)や更に他の彼女の友人達までも、ミス・キャンパスの候補に挙がったりしていたのであるが。それは本人達の預かり知らない所で進行していた話だったので、のらりくらりと交わしていたのだったが、これは余談である。

「バイトをしているのは知っていたけど、ここで働いてるなんて気付かなかったわ」
「昨年の冬あたりからでしたかねぇ。仕事振りとしては本当に申し分無いですよ」

 働いてる最中に呑まなければ、もっと良いのですが――そんなことを言いながら、白崎は苦笑いしている。

「彼女、割と秘密主義ですからね。私も真紅から聞いて、ここに着ましたから」

 アイラモルトを傾けながら、いつもの微笑みを浮かべながら語る雪華綺晶である。

「さて……今日も頑張ろうかしらねぇ。お客様は――ちょっと少なめだけど。今日はゲストが豪華ですもの、問題無いわぁ。是非愉しんで頂かないと」

 素早く着替えを完了した水銀燈が、戻ってくる。
 黒のスーツパンツに白いシャツを合わせ、普段は下ろしている長い髪を銀のバレッタで留め、アップにしている水銀燈。そんな彼女の姿を見て、巴は感嘆の息を漏らす。

「すごい……何だか格好良いね、水銀燈」
「あらぁ、褒めても美味しいお酒くらいしか出せないわよぉ? でも、貴女に褒められるとまんざらでも無いわぁ。ありがとう、巴」

 にこり、と。零れるような笑みを浮かべる水銀燈。
 接客業者としての凡そ全ての資質を備えているのではなかろうか、などと巴は思った。

「さて、じゃあ私も早速ひとつ何か作ろうかしらぁ」

 言いながら、ばっちり自分がキープしているボトル――I.W.ハーパー101プルーフ――を、ショットグラスに注ぎ始める水銀燈だった。

「珍しい組み合わせ――と言う訳でも、無いわねぇ。結構いつも一緒に居るものね、貴女達」
「巴は私の大親友ですから。美味しい情報は、教えない筈が無いですよ」
「美味しい、ねぇ。成る程。そろそろ雪華綺晶も、お腹の空きごろかしらぁ?」
「うふふ。実のところ、そうなんですよ。貴女のこと、待ってました」
「じゃあ、腕を振るっちゃおうかしらぁ……水銀燈特製リゾットをご馳走しちゃうわぁ。白崎さん、材料は揃ってますよね?」
「えぇ。仕込みは完了しておりますよ」

 さすがぁ、と言いながら。裏手のキッチンへ水銀燈が姿を消す。この店でのフードメニューは、ほぼ彼女に一任されてると言っても過言では無かった。 

 そのやりとりを眺めながら、巴はと言うと。
 呆気にとられながらも、料理もこなせる水銀燈に対して、少しの嫉妬を抱いている風な様子だった。

 雪華綺晶は、いっぱい食べるからなぁ。私には、無理かなぁ。でもでもやっぱり、料理は練習した方がいいかしら――

 こと自己否定においては、彼女は一度はまり出すと止まらない。
 手始めに呑み始めたジャック・ダニエルは、既にストレートで四杯目を数える。
 お酒の勢いも手伝って、彼女はどんどこ自身の思考へと埋没していく。

 その後出されたリゾットはと言うと、大層美味しいもので。ゲストの二人は、大満足である。

「料理、普段から作ったりしてるんですか?」
「あぁ、趣味みたいなものねぇ。私はお酒もすきだし、ここで働けるのはほんとに良かったわぁ。元々、こういうところで働いてみたいっていうのもあったしねぇ」
「そうなんだ……」
「お店を持ちたいとか、そういうことを思ったりもするのですか?」
「今のところは、考えてないけどねぇ。白崎さんの下で、一杯修行してからねぇ」
「や、それだと大助かりなのですが」

 彼女はきっと、こうやって自分のやりたいことを実現していくに違いない。
 いずれは、自分のお店を開いたりするのかな。
 ああ、私とは大違いかも――

 思いながら、くぃ、と。三分の一程も残っていた琥珀を、呑みきってしまう巴。
 感情のデフレスパイラルは、どうやら止まりそうにも無かった。

「次は――何かスコッチで、お薦めはありますか?」
「あぁ。それでしたら、こちらの――」

 自分で頼んでいるというのに、その実感が殆ど巴には伴っていない。

 雪華綺晶と一緒に店へ来て、彼女自身はもう少し、心が躍っても良かっただろう。
 しかしながら、容姿端麗な水銀燈の料理に舌鼓を打ちつつ、それに満足している自分の隣に居た彼女の様子を見るにつけて、『それに比べて自分は』と、そんなことばかり考えてしまうのだった。

「難しいなぁ」

 何事も、思い通りにはいかない。そんなことを考えつつ、ぽつりと巴は零す。

(やりたいこと、か。そんなことひとつ、見つけられない私は――)

 まるで人形のようだ。今まで、学校の進路、部活動や自分の役職だって、自分の意思で決めたことが、あっただろうか――そう、思い始めていた。

 実際彼女の人生における決定は、ほぼ彼女自身の意思に拠るものでは無かった。
 ただ、ひとつだけ、彼女自身も忘れていることがあるのだけれど、その時点で巴はそれに気付かない。

 難しい、という一言を聞き取っていた白崎は、その言に対しては、静かにグラスを磨きながら、眼を瞑り何も答えない。
 問われなければ語らないと言うのが、彼のバーテンダーとしてのモットーである。

「難しいことを、一言で難しいと言ってしまうのも、――」

 巴の心中を知ってか知らずか、雪華綺晶は言うのだった。



―――



「あら、テープの――オペラですか?」
「ええ、そうです。よくご存知ですね、雪華綺晶さん」
「こんなのがBGMでかかってるの、日本中――や、世界を探しても此処くらいよねぇ」
「静かな感じが良いのですよ」

『テープのオペラ?』

 繰り広げられた会話に、巴は暫し熟考するが、ついていくことが出来ない。
 隣に居る彼女にまたしても浮かんでいるクエスチョンマークを察した雪華綺晶が、言葉を発する。

「ああ――『テープ』というグループの、『オペラ』という名前のアルバムですよ、巴」
「へぇ……」

 巴は半ば、気の利いた返事をすることを諦めていた。

 料理も、お酒も美味しい。
 だけど何故、こんなにも寂しい気分になるのだろうか――?

 それは六割は彼女自身の性格と、残りの四割程はお酒のせいである。

 そして、そんなお客様の心中を察する(勿論、その内容までは伺い知れないけれど)のが、一流のバーテンダーの仕事。
 そう白崎が考えたかは定かでは無いが、夜の部において彼が珍しくも自分から言葉を発したのは、そんなタイミングだった。

「巴さん、お薦めのカクテルがあるのですが――宜しければお試ししてみますか? こちらの御代はいりませんから」
「え――良いんですか?」
「勿論ですとも。初めてお越し頂いたお客様には、サービスしておきませんとね」
「そういえば、私の時もそうでしたね――巴、これは受けておいて損は無いですよ」
「ええと、じゃあ、……お願いします」

 『女性客には、甘いのねぇ』と。水銀燈でジト眼で見られながら、白崎は少し焦った風にカクテルを作りにかかる。

「某バーテンダーの漫画に出てから有名になったみたいですね、このカクテルも。こちらになります」

 差し出されたグラスには、美しい三色の彩りが添えられていた。

「きれい……」

  スィート・ベルモットの深い紅に重ねられた、グリーン、ホワイト。まるで宝石のような輝きを持つグラスに、女性陣は三人三様、眼を奪われていた。

「それではこう、――こちらのグラスに移します。そしてステアで……」
「あっ、色が崩れちゃうじゃないですかぁ」
「いえ、良いのです。元のままならば、ビジュー。宝石、と言う名前もついていますが。この色合いならば――」

 ――アンバー・ドリーム。琥珀の夢を見せる、カクテルになります。

 そう言って、白崎はグラスを巴の前に差し出した。

「琥珀の、夢……」

 ウィスキーの様に透き通った琥珀では無かったけれど、深い色合いを含むグラスに、巴は魅せられる。

 一口、口へ運び。『美味しい』と、素直な感想を彼女は漏らしていた。

「左様で御座いますか、大変恐縮で御座います」

 静かな笑みを浮かべながら、白崎は言う。

「そうですね……僕に出来ることと言えば、昼間ならば紅茶を淹れることくらいですが。夜であれば、こうやって一言、『美味しい』と言って頂けるような、そんなお酒を造ることは、バーテンダーとしては光栄の極みです。

 ひとつのグラスに込める想いと言えば、まずは其処。
 そして、お客様が其処に込める想い――夢、と言って良いかもしれません。そんな夢
は、またお客様の数だけあります。

 巴さん。貴女が此処に込める夢は――ひとつ、貴女の心の中に。きっともう、決まっているものかもしれないと、僕は考える訳ですが。

 夢は、うたかた。だからこそ、自分の今在る姿と、重ねようと願うものなのかもしれませんね」

 少々、出過ぎましたか――そんな一言。深い礼と共に、白崎の言葉は終わる。

「私の、――」

 巴は暫し、考える。
 彼女としては、自身の将来的な夢について、具体的な内容を考えたことは無かったから、この時もそれについては想いを巡らせることは無かった。

 ただ。今、こうやって、ゆったりとした時間を――雪華綺晶と、過ごしているということ。今はそれで良いかもしれないと、そんなことを思っていた。


――――


 少し呑みすぎたかもしれない――

 明日の午前、講義が無くて良かったと。ほろ酔いから少し進んだ状態の頭で、巴は考える。

 白崎のカクテルを呑んでから、他の客がちらちらと入り始めて。賑やかになってきた時分から、二人は店を後にした。

 巴と雪華綺晶の家は割と近い所にあって、先程まで呑んでいたバーとそれほど離れていないものだったから。二軒目にいくのはよしておこうと言う話になり、それぞれの家路につく最中だった。

「大丈夫ですか? 巴。大分呑んだようですね」

 雪華綺晶はそう言うが、実際の所、摂取した酒の量としては、巴よりも彼女の方が多い。それでも全く意識の変わりようが見られない辺り、彼女の酒の強さが伺い知れるというものである。

「大丈夫……けど、ちょっと弱くなったかも」

 対する巴も。バーボンやスコッチを何かで割ることもなくするすると呑み続けてこの程度の状態で済んで居るならば、文句のつけようが無い。

「ねぇ、雪華綺晶」
「なんですか?」
「えっとね……水銀燈を見て、ちょっと思ったことなんだ」

 巴は、バーで感じていたことを雪華綺晶に吐露し始める。

「水銀燈は、すごいよね。バイタリティがあるっていうのかな、夢を実現する力っていうのが、あるのかも」

 そうですねぇ、と。雪華綺晶は巴の言葉に答える。

「水銀燈も……色々あったみたいですからね。今の仕事をしているのも、紆余曲折があったと、少しばかり聞き及んでおります。彼女は普段はあんな感じで、明るく振舞っていますけど。その実、かなりナイーブなんですよ」
「そうなの?」
「ええ。彼女には言わないで下さいね」

 本人に言うと、怒るかもしれませんから――

 いたずらっっぽく、眼帯の彼女は言った。

「私も、あんな風に――とまでは、言えないけど。自分でやりたいこと、決められたらいいのになぁ。私なんて、ひとの顔色伺ってばっかりで。まるでお人形さんだわ」

 巴は普段、こころには思っていても、ここまで自分を卑下する言葉を他人に零したりはしない。恐らくは、酒の力が、ほんのちょっと悪い方へと、彼女の考えを運んでいたのだ。

 空に投げ出された言葉は、何を以てしても、自分の口へ収め戻すことが出来ない。
 はっとした巴は、口を抑えながら、己の投げ出してしまった言葉を後悔していた。

「ごめんなさい、私――」
「いえ、大丈夫ですよ。それにしても巴、貴女は自分で『決めたこと』が何ひとつ無いと、そう言うのですか?」
「え……」
「私は、覚えてるんですけど。貴女が、この大学へ進学を決めた理由――」

『雪華綺晶が行くから、私も其処に行きたいの。良いでしょう? ――』

 巴は高校の三年次、そんなことを言っていたのだ。

「嬉しかったんですよ。私は貴女のこと、大好きなんですから。其処まで想われるだなんて――嬉しくない筈が、ありません」

 いつもと変わらない笑みを浮かべる、雪華綺晶だった。
 その表情に巴はもう、参ってしまう。

 実の処、巴は雪華綺晶に恋愛感情に近い念を抱いていたけれど、まだまだそれは自覚を伴うものでは無くて。女同士で付き合うだなんて、想像がついている筈も無かった。

 雪華綺晶は雪華綺晶で、『大好き』の言葉が、恋愛感情のそれとして言い切った訳でも無い。その辺りは巴も、何となく理解していただろう。

「うふふ。明日の午前、授業無かったですよね?」
「え? うん――」
「じゃあ、私の家に来てください。宅呑みの準備は、もう出来上がってるんですから」

 そう言われて、巴には断る術が無かった。

「さ、いきましょう」

 雪華綺晶は巴の右手を引く。

「ちょ、ちょっと待って、――」

 穏やかな夜。

『夢は、うたかた――』

 白崎の言葉を、巴は思い出している。

 巴の眼の前をなびく、柔らかい髪。
 其処から漂う芳香を吸い込んで、彼女はふと考える。

 今度は私から誘って、あの店へ行こう。
 美味しいお酒を呑んで。
 その後私の家で、とっておきの料理を、彼女にご馳走してあげるんだ――

 其処までいきつくのに、結局かなりの時間を要することになることを、その時の彼女は知らない。

 左手首で輝いている、お気に入りの時計を覗き見る。
 今丁度、十一時を回ったところ。

 ひとつの、何気ない幕間。
 それを通り過ぎていった彼女達の物語は、これから先も続いていく。

 夜は夢を見る時間。
 くるくると変わり続けていたBGMも今は無くて。

 ひとときの夢を見るのも悪くないかもしれないと、巴はそんなことを改めて思いながら。

 自分の手を引いて先を行く大切な友達に連れられて。
 高めのサンダルをこつこつと鳴らしながら、暖かい春の夜風を切って走り出す。

 その音だけが、ただ。月明かりの下で、響いていた。



  


【ある日の幕間】あなたとみるゆめ  おわり




  
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