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あの男の人は、何の目的があって、この丘の頂きに近付いてくるのだろう。
分からない。解らないから、怖くなる。
もしかしたら、ただの散歩かも知れない。
でも、もしかしたら蒼星石の姿を認めて、危害を加える腹づもりなのかも。

(どうしよう……もしも)

後者だったら――と思うと、足が竦んで、膝がカクカクと震えだした。
住み慣れた世界ならば気丈に振る舞えるけれど、今の蒼星石は、迷子の仔猫。
あらゆる物事に怯えながら、少しずつ知識を蓄え、自分の世界を広げていくしかない。

「こんな時、姉さんが居てくれたら」

蒼星石は、そう思わずにいられなかった。
知らず、挫けそうなココロが、弱音を吐き出させていた。
彼女だったら、どうするだろう? なんと言うだろう?
止まらない身体の震えを抑えつけるように、ギュッと両腕を掻き抱いて、考える。

答えは、拍子抜けするほど呆気なく、蒼星石の胸に当たった。
もし彼女だったら、迷わず蒼星石の手を引っ張って、こう言うだろう。

  『なにボサッとしてるですか、蒼星石っ! 早く隠れるです!』

途端、本当に腕を引かれた気がして、蒼星石は大樹の陰に駆け込んだ。



  ~もうひとつの愛の雫~
  第17話 『風が通り抜ける街へ』



横になって見上げていた時には気付かなかったが、木の幹は、目を見張るほど太かった。
蒼星石の脳裏に、カリフォルニアにしか分布しないと言うセコイアの大木が浮かぶ。
セコイアほどの高さは無いものの、この木も、なかなかに大きい。
幹の回りは、優に30メートルくらいありそうだった。
これなら、かなり離れた海の上からでも、充分に目印となり得るだろう。

蒼星石は、大きく張り出した根元にしゃがみ、息を潜めていた。
さくさくさく……。風に乗って耳に届く、草を踏む音は、止まる気配を見せない。
真っ直ぐに、彼女が隠れている大樹まで近付いてくる。

いっそ、男の人とは反対側の斜面を、駆け下りてしまおうか。
そんな衝動に駆られ、腰を浮かしかけるのだが……結局、走り出せない。
脚に、力が入らなかった。


そして、とうとう、足音は停まった。
あの男の人は、もう、この木まで辿り着いてしまったのだ。
音を立てたら見付かっちゃう。蒼星石は、なおいっそう、木の根元で縮こまった。
吐息ですら聞こえてしまうのではないかと、口元を手で覆いながら。


「おーい。出てきたまえよ」

いきなり、木の幹の向こうから声を掛けられて、ドキン! と心臓が一拍する。
制服のブレザーの下、窮屈になり始めたワイシャツの奥で、胸がドキドキしている。

――どうしよう。どうしよう。どうしよう。

男の人の声は、明るくハキハキしていて、悪意を感じさせるものではなかった。
でも、お芝居かも知れない。のこのこ出て行ったところを、乱暴する気かも。


返事をするのも躊躇われて、蒼星石は涙ぐみながら、小さくなっていた。
そこへまた、男の声が届く。

「居るのは分かっているよ。麓から、君の姿が見えていたからね。
 ああ、そうか…………怖がっているんだね? まあ、無理もない」

どうやら、相手は蒼星石の心情を、お見通しらしい。
けれど、彼女を怖がらせまいとして、穏やかな口調を努めている風ではなかった。
至って自然な口振り。胡散臭さは、感じられなかった。

「安心したまえ。僕は、君を出迎えに来たのだよ」


出迎え――という単語を聞いて、蒼星石のココロが少し動いた。
不安は拭いきれないけれど、このまま隠れていたって、事態は好転しない。
窮余の策というワケでもないが、相手を信用してみるのも、ひとつの手だろう。
迎えと言った以上、人里に案内してくれる期待は持てそうだ。

蒼星石はブレザーの袖で目元を拭うと、怖々、木の幹から、そっと様子を窺った。
そんな彼女を見て、相手の男性が、にこりと爽やかな笑みを向けた。

「そんなに怖がらなくてもいい。苛めたりはしないから」
「あ……あの……ぅ」
「ん? なにかな」
「キミ……あ、いえ……えっと、貴方は――」
「? ああ、僕の名前かね」

言うと、男性はすらりとした顎に指を滑らせて、小さく頷いた。
そして、ひと目で不慣れと判る、不器用なウインク。


「これは失敬。僕の名は、結菱二葉。よろしく、可愛らしいお嬢さん」

歳は23、4と言ったところか。パッと見、爽やかな青年で、信用はできそうだ。
それに、お世辞であっても、可愛らしい『お嬢さん』などと言われて悪い気はしない。
初めに抱いていた緊張も、言葉を交わす毎に、和らいでいった。

「そ、蒼星石っていいますっ! こちらこそ、よろしく」

条件反射的に名乗って、ぺこりと会釈した蒼星石に、二葉は「ふむ」と唸って、
自分の顎を指で撫でた。眉間には、くっきりと縦皺が刻まれている。

「君も、『異邦人』なのだね」

徐に紡ぎ出される、どこかで聞いた憶えのある言葉。
カミュの小説より先に、友人たちとカラオケに行ったコトを思い出す辺り、
蒼星石も、至って普通の女子高生。
文学よりも、友情を優先してしまうお年頃である。

――あなたに、この指が届くと信じていた。

以前、翠星石が気持ちよさそうに唄っていたフレーズが、ふと浮かぶ。

(ボクの指は、姉さんに届くの?)

不安なココロが、疼く。もしかしたら、もう二度と――
そこまで考えたところで、蒼星石はイヤイヤをして、悪い想像を振り払った。
姉を捜す旅は、まだ始まったばかり。諦めたら、本当に会えないまま終わってしまう。

「あの……結菱さん。『異邦人』って、どういう意味なんですか?」
「それについては、歩きながら話そう。立ち話というのも、なんだからね」
「……はい」


「着いてきたまえ」と歩き出した二葉の後ろに、蒼星石も続く。
彼は意外に歩くのが速くて、蒼星石の足取りは自ずと、小走りになった。
不安と相俟って、心臓が壊れてしまいそうなほどバクバクしている。

「さて。蒼星石……と呼んでいいのかな?」

二葉の方が幾つか年輩なので、構わないという意味で、蒼星石は頷いた。
彼も、それで察したらしい。ちらりと白い前歯を見せて、頷いた。

「では、さっきの質問だが……
 見てのとおり、ここは君が暮らしていた世界とは違う。それは解るね?」
「ええ。つまり『異邦人』って言うのは、文字どおりの意味なんですか?」
「単なる旅人というだけではない。異質という意味合いが、極めて強いのだよ」

同じコトではないのか。
そう彼女が伝えると、二葉はターコイズブルーの海を指差し、言った。

「世界には、死者が訪れる楽園が幾つか存在する。ここも、そんなひとつだ。
 そして、この名もない島を囲む大海原は『無意識の海』と呼ばれている」
「無意識の……海?」
「そうだよ、蒼星石。死んだ者の魂は、無意識の海を漂流し、楽園に辿り着く。
 その際に『記憶の濁流』に洗われ、生前の記憶を失うのが通例なのだよ。
 喜怒哀楽、あらゆる『しがらみ』を捨て去る。生前の姿さえも、例外ではない。
 そうして無垢な魂となって、生まれ変わるまでの間、この島に滞在するのだ」
「え? でも……」

蒼星石は、生前のことを憶えている。姉のコトも、祖父母や親友たちのコトも。
彼女の容姿だって高校生のままだし、二葉にも、ちゃんと身体がある。
二葉の言うとおりならば、自分が何者かすら、判らなくなっているハズだ。
腑に落ちない顔の蒼星石をみて、二葉は引き結んでいた口元を綻ばせた。

「そう。君は、記憶を失っていない。それこそが『異邦人』たる証なのだよ」

そして、彼は付け加えた。「かく言う僕も、だがね」


前世の記憶を持ったまま、この島に辿り着いてしまった蒼星石は、
なるほど、確かに無垢なる魂からすれば、異質な存在だろう。
でも……どうして、そんなコトが起こり得るのか?
瞳で問いかけた蒼星石に、二葉は頸を横に振って見せた。

「僕にも解らないよ。なぜ、記憶を失わずに、無意識の海を漂流できたのか。
 もしかしたら、船のようなもので航海してきたのかも知れないな」
「船…………渡海……」

ここに来る前まで、偶像と話していた事柄が、思い出された。
――補陀落渡海。あの時、偶像を『客船』に見立てたのは、偶然なのだろうか。
どうあれ、蒼星石が蒼星石のままで居られるのは、彼女のお陰に違いない。
ならば、失わずに済んだ記憶を有効に活用するのは、彼女への恩返しとなろう。

「結菱さん。つい最近、髪がとっても長い女の子が、来ませんでしたか?」
「……その子は、蒼星石にとって、とても大切な人なのだね。
 異邦人になってしまうほどに、特別な――」
「はい。双子の姉なんです」
「双子か…………奇遇なことだ。実は、僕にも双子の兄が居るのだよ。
 僕らの場合は、ケンカ別れしたまま今に至……おっと、話が逸れたな。
 さっきも言ったが、殆どの死者は、記憶と共に生前の姿も失ってしまう。
 だから、僕も未だに、彼女を――いや、重ね重ね、失敬。忘れてくれたまえ」

慌てて言い繕った二葉の不自然な態度は、しかし、蒼星石の興味を引かなかった。
なぜならば、彼女は落胆し、途方に暮れていたからだ。
もし、翠星石が外見の特徴を失っていたら、どうやって探せばいいのだろう。
誰が見ても分かるほど肩を落とした蒼星石を、二葉は気遣わしげに見つめた。

「残念ながら、僕はその女の子を見ていない。
 ここ暫く、島の反対側にある、もうひとつの集落に赴いていたものでね。
 だが、気落ちすることはないよ。
 気休めではないが、総ての魂が、記憶の全てを失うワケではないからね。
 ひょっとしたら、その娘も……生前の姿で、あそこに居るかも知れない」

言って、二葉の人差し指が示す先には、海岸線に沿って大きな街並みがあった。


あの街に、翠星石が居るかも。
そう思うと、逸る気持ちを抑えきれなくて――

蒼星石の想いは、ひと足早く、潮風が通り抜ける街へと向かっていた。



  ~もうひとつの愛の雫~  第17話 おわり





三行で【次回予定】

  少女は、死者の街を、ゆらゆらと彷徨う。
  追い求める姉の背中へと、道標は続く。
  もう一度、しっかりと抱きしめたくて……彼女は腕を伸ばした。

次回 第18話 『あなたを感じていたい』
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