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どちらかを、選べ――

右手は、大好きな姉に辿り着くための片道切符。
左手は、頑ななまでに蒼星石を繋ぎ止める、論詰という名の首輪。


本来なら、迷うハズがなかった。蒼星石は、翠星石に会うために、追いかけてきたのだから。
自らの羨望が生み出した、偶像の姉。彼女を選んでしまえば、目的は、ほぼ達成される。
左手を掴んでいる、姿の見えない者の声になど、耳を貸す義理も、謂われもない。

徐に、蒼星石は右手を挙げた。眼前に掲げられた、偶像の手を取るために。


でも――――本当に……これで、良いの?

指が触れる寸前、胸の奥から問いかける声が、蒼星石の腕を止めた。
それっきり、蒼星石の右手は、ビクともしなくなった。明らかな握手の拒絶。
置き去りにされる寂しさ、悲しさ、辛さをイヤと言うほど味わってきたからこそ、
祖父母や親友たちにまで、同じ想いをさせることに、罪悪感を抱いてしまったのだ。
たとえ、それが一抹の迷いであったとしても……。

「さあ、蒼星石。早く選ぶです」

囁かれる。姉の声色で。姉の口調で。
それは、この上ない甘味を蒼星石にもたらし、抗いがたい誘惑を芽生えさせるのだった。



  第十六話 『サヨナラは今もこの胸に居ます』



姉さんに逢いたい。叶うことなら、今すぐにでも。
でも……
お祖父さん、お祖母さん……
柏葉さん、水銀燈、多くの友人たち……
みんなを、悲しませたくもない。

「どうしたです? 決心が付かないですか。それなら……私が決めてやるですぅ」

偶像の手が、間近にある蒼星石の右手を掴もうとする。
蒼星石は咄嗟に腕を引いて、その魔手を逃れた。

「やめてよっ! あ…………ゴメン。
 だけど、お願いだから…………もう少し、考えさせて。ボクの意志で選ばせて。
 そうしなければ、ボクは――」

仮に、翠星石の元に逝く道を選んだとしても――
首尾よく、彼女に出逢って、一緒になれたとしても――

きっと、ココロは後悔の念に駆られ続ける。そう思って、怖れた。
どれだけ悔いても、時は戻せず、どれほど悩んでも、解決の術が無い。
死んだ後まで、そんな苦しみを抱えっぱなしで、幸せを取り繕うだけ。
無限に繰り返される懊悩は、やがて翠星石の存在ですら慰めにならないほど膨張し、
いつか自分の、形骸でしかない弱く脆いココロを押し潰すだろう。
そして、また……姉を……傍らに居てくれる者たちを、悲しませるだけ。

だから、進むにせよ、引き返すにせよ、いま――ハッキリさせなければならない。
全ての『しがらみ』を決断というハサミで裁ち切って、後腐れなく前進するために。
何が正しい選択で、どれが賢明な判断なのかは、ちっとも解らないけれど……
蒼星石は、偶像の膝枕に頭を預けて、静かに瞼を閉じた。



たっぷり五分は、そうしていただろうか。

「あ……あの……蒼星石?」

控えめな声が降ってきたのを合図に、蒼星石は双眸を開く。
そして、自分を見つめている偶像の姉を、まじまじと見つめ返した。

「ひょっとして、眠ってたです?」
「違うよ。ちゃんと、考えてた」
「そうですか。答えは出せたですか」
「答えは、たぶん見えてる。でも、まだ――腕を伸ばして掴む、決め手がないんだ。
 ……ねえ、ちょっと訊いてもいいかな?」

偶像は、ちょこんと小首を傾げ、唇をすぼめる。「なんです?」
その仕種は、完璧なまでに翠星石そっくりで、蒼星石の微笑を誘った。

「どうしてキミは……お祖父さんたちのコトを、口にしたのさ?
 ボクは、姉さんを追いかけるために、手首を掻き切った。
 キミが口を滑らせたりしなければ、ボクは躊躇いなく、キミの手を握っていたよ。
 お祖父さん、お祖母さん、友人たちを、全く省みることなしにね」

でも、残される者の存在を告げられて、迷いが生まれた。
自我を通しても、不幸な人を増やすだけではないかと、不安になった。
姉の独りよがりが、蒼星石に孤独と悲しみを、もたらしたように。

暫しの、沈黙。
そして、偶像の姉は、そよ風に揺れる柳の枝みたいに……ゆるゆると、頸を振った。
「……違うです。口が滑ったワケじゃねぇですよ」

過失ではなく、故意。すべては、蒼星石の迷いを引き出すために。

「じゃあ、どうしてなのさ?」なぜ徒に、混乱を招く必要があったのか。
当然の疑問を放つ蒼星石に、偶像はアッサリと、理由を差し出した。

「言ったハズですよ。私は、蒼星石の理想が生み出した幻だって。
 この世界は、蒼星石のココロが創造した、夢。
 蒼星石の『こうあって欲しい』という願望が、この景色であり、私の姿であり……
 何気ない情趣や摂理、仕種、行動理念に反映してるのですぅ」
「だから、キミも、周りの人たちへの気配りを忘れない、優しい姉さんを演じていると?」

そうですぅ。偶像の姉は、翠星石そのものの風情で、頷いた。
木漏れ日の下で、栗色の長い髪を、サラサラと、さざめかせながら。
穏やかな春の日射しを想わせる笑みを、顔いっぱいに浮かべながら。
それら全てが正しく、蒼星石の思い描いたとおりの、翠星石だった。
でも、それは所詮、精巧に造られた人形。全てが理想。
目を覚ませば、水泡のように弾けて消える、夢の中の幻影にすぎない。

「私の言葉も、考え方も、全ては蒼星石のココロが語らせているですよ。
 つまり、大切な人々を想い、気遣う優しさは、蒼星石の本音そのものなのですぅ」
「ボクの……本音」

本音とは、個性の証明。本音とは、個人の理念。即ち――――人生哲学。
復唱した直後、蒼星石の胸に引っかかっていた何かが、ぷつりと吹っ切れた。
それは、クモの巣みたいに絡み付いて、決断を鈍らせていた稚拙な感情。
だが現実は、どちらか一方しか得られないとしても、拒むことも、逃げることも許されない。
腕を伸ばし、答えを掴まねばならない――それが、大人になる、ということ。


「決めたよ。右と左……どっちを選ぶか」


明鏡止水の境地で、蒼星石が握り締めたのは――――左手。
彼女の本音は、子供の頃から、ずっと追いかけてきた姉の背中ではなく、
悲しみに打ちひしがれた人たちの元に、引き返すことを望んでいた。


「ごめんね、姉さん。キミを選ぶことは、できない」

ココロの弱さが生み出した偶像を、蒼星石は『姉さん』と呼んだ。
目の前にある、偽りの姉の顔が、束の間、呆気にとられて、

……くしゃりと歪んだ。

「ばっ、バカですね、蒼星石は。私は、翠星石じゃあ――姉さんじゃねぇです。
 何度、言ったら解るですか」
「キミは、ボクの理想と憧憬が、具現化した存在なんでしょ。
 だったら……キミは、姉さんだよ。誰が、なんと言おうとね」
「ホントに、そう思ってくれるです?」

言葉で答える代わりに、蒼星石は横たえていた身体を起こして、偶像の肩を抱き締めた。
そして、胸にせまる万感をキスに変え、彼女の唇に贈った。

「ありがとう、間違いに気付かせてくれて。姉さんが居なかったら、ボクは――」
「悩み、気付き、選んだのは蒼星石です。私は所詮、ココロを育むための肥料にすぎない」
「理想や希望――
 いろいろな気持ちにケジメをつけていくことが、大人になるということならば、
 ボクはずっと、小さな女の子のままでいたい。ただ純粋に、理想家のままで。
 でも…………それは、許されないことなんだよね」
「役目を果たした思春期の蜃気楼は、消えゆくのが定めです。だから、私も……」

蒼星石の腕に抱かれた偶像の姿が、陽光を反射する鏡の如く、眩い輝きを放つ。
それを端緒に、翠星石の身体が、晴れゆく霧の如く透け始めた。
彼女の頬を伝い落ちる涙は、顎の先まで届くことなく、空へと溶けてゆく。


  「お別れですぅ」


それが、最後の囁き。腕の中には、姉の残り香だけが、儚く漂うだけ。
蒼星石は、空虚になった両腕を掻き抱いて、姉の姿をした偶像に別れを告げた。

  「おやすみ……もう一人の、ボク。

   さよなら……姉さん」




――瞼を開けると、病室だった。
『雪国』の冒頭みたいな印象が、蒼星石の頭をよぎった。
白かと思うほど淡い青の壁は、陽の光を柔らかく吸収している。
右腕には細いチューブが射し込まれ、黄色い液体を、蒼星石の身体に運び込んでいた。

左手には、鈍い痛みと、包みこんでくれる優しい温もり。
枕に載せた頭を巡らすと、そこには――涙ぐみながら笑みを浮かべる巴の顔。
彼女の両手は、しっかりと蒼星石の左手を握っていた。

(こんなボクを、キミは待っててくれたんだね)

当分は、悲しみを引きずってしまうだろう。でも、みんなが支えてくれるなら……
蒼星石は、生きていけそうな気がした。姉の影としてではなく、自分らしい未来を。

幼い頃から、ずっと胸に秘めてきた姉への羨望に告げた、サヨナラ。
それは今も、蒼星石のココロに疼痛をもたらしていたけれど……いつか、きっと。



  第十六話 おわり





三行で【次回予定】

 その判断が正しかったのかは、まだ解らない。
 けれど、少女はずっと繋いできた姉の手を離し、自分の道に目を向けた。
 痛みを克服して、きっと幸せを見つけられると信じたから――

次回 第十七話 『明日を夢見て』
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