※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

 


L.― 白い部屋の会話


「――嬉しい。来てくれたのね」

 僕の姿を見て、いの一番に発した声がそれであった。

「気まぐれだよ、ほんの」

 本当に、ただの気まぐれ。僕はなるべく、此処へ着たくないと考えている。海の近い、この療養所へ。

 病に罹るのが、恐ろしい? 流行りの、治る筈も無い病に。

 ――違う。僕は、……もう、見ていられないのだ。病に罹ったら罹ったで、それが僕の人生なのであるし。今僕の口元に巻かれている布当てだって、すぐ取り去ってしまっても別に構わない。

 彼女は前に見た時――もう随分、遠い日のことであったようにも思う――と同じ様に、温藉な表情を浮かべていた。

 艶やかな黒髪と、色白だった肌が、更に顔色の白さを――幾分悪い方へ――強調している。少し痩せたろうか。何となくやつれているように、見えなくも無い。

「今日はね、調子がいいの。咳もあんまり出ないし」
「……そうか」

 落ち着いた物言い。其処だけは変わらない。けれど、何処か。言うならばそう、彼女の存在、それそのものが、どんどん薄らいでいっている様に思えた。

 道場の、娘。僕の家とも、親同士で懇ろであることから、昔は一緒に居ることが多かった彼女。あすこに男子は産まれなかったが――幼い頃から仕込まれてきた彼女の剣の腕は確かで、仮に僕が挑んだとしたら、いとも容易く打ち負かされてしまうに違いなかった。今の今まで、……そしてこれからも、そんな機会等、訪れないのであろうけど。

 凛とした剣士を抱えた道場は。ゆくゆくは道場の跡継ぎとして、何処か良い家の婿でもとって。洋々かどうかは窺い知れぬが、まず安泰は間違いの無いものである――筈だった。

「良い、天気ね。――外は暑い?」
「ああ、もう夏も真っ盛りだ。でも、案外風も吹いているから、居心地が悪い訳じゃ無い。何、暑さ寒さも――なんとやら、だ。もう少しすれば、過ごしやすくなる」

 そっかぁ、と。床から上半身を起こして居た彼女は、静かに眼を閉じる。

「ああ、そうそう――ねえ、知ってる? ここから少し行った所に、墓地があるの」
「――ああ」
「其処に咲いてる彼岸花がね、とっても綺麗だって。他の患者さんが話してたの、聴いたんだ。見てみたいけど――あすこまで歩くのは、ちょっと大変」
「彼岸の花なんて、縁起が悪いこと言うなよ」

 何処か鋭い彼女は、先刻の僕の些細な言を汲み取ったに違いなかった。僕が返すと、彼女はくすくすと笑いを零す。

「あなたでも、そういうこと言うんだね。縁起なんて、無頓着な方だと思ってた」
「む……」

 当たらずとも、遠からじといった処。大概のことについて『どうでもいい』と言ってしまうのが、僕だ。

「私ね、――うん。結構昔から一緒に居たけど、まだまだ知らないことがあるね、あなたのこと」
「そりゃあ、お互い様だ。僕だって、お前のことは知らないことの方が多いだろうに」
「そっか、――そうかも」

 其処で彼女は、――僕の眼を真っ直ぐ見つめて、言った。
 互いに口元には、布当てをしている。本来ならくぐもって聴こえても良い筈の声が、その時は何処かとても透き通っていた様に思えた。

「来てくれたの、本当に、……ほんとう、嬉しかった。けどね、もう、――あなたは此処に、来ない方がいいよ」
「どう、……して?」

「だって――うつしちゃうと、いけないもの。それにこの間ね――鏡を見て、驚いちゃった。痩せこけちゃってるんだね、私。あんまり見られたくないかも」
「……」

 僕は、――……今度は何も、返すことが出来なかった。

「いのち、がね」
「……え?」

 彼女は、己のてのひらを、空へ掲げた。

「いのちが、零れ落ちていく。私の、てのひら、指と指の、間から。この手で掬おうと思っても、てのひらに収まりきらないで、流れていって、零れるの。――手についた血を見てると、そんな気分になるわ」

 紡がれる彼女の言葉を、僕は聴き続ける。

「家の柵(しがらみ)なんて――煩わしいって、思ってた。道場を継がせたいからって言って、良く知りもしない男のひとと縁組みさせられるのも……わかってたし。ただ、こうやって患いの身になってみると、――それも、些細なことだったなあ、って。ちょっとだけ、思うの。

 あなたは――生きて。私がこうなったのは、しょうがないもの。運が悪かったって……割り切れるかって言えば、嘘になる。ただ、病に罹ったのは……私だから。勿論、他にも罹ったひとは沢山、本当に、沢山居る。けれど、あなたじゃあ、無いの。だから――ね?」

「あ……」

 彼女は、泣いていた。嗚咽も無く、静かに涙が、零れ落ちた。
 それを彼女は、己のてのひらで受け止める。

「涙……まだ、あったかい」

 穏やかな、笑み。かなしくも、――うつくしい、笑み。

「明日、また来る」
「えっ……?」
「花だよ。見たいんだろう?」

 僕に出来ることは、何だろうと。その時、考えた。僕は彼女のいのちを、このてのひらで受け止めることも、掬い上げることも、出来ない。
 でも、それでも。してあげられることは、何なのか――そんな、ことを。

「やさしいんだね、……あなたなら、いいひとが見つかると思う、きっと。そのひとのことは、少し、――羨ましいな。あなたが仕立てた着物を、着られるんだろうし」
「……知らないね、そんなことは。ほら、もう大人しく横になってろよ」
「うん――」

 近寄って、彼女の痩せ細った身体に、手を回す。
 ――本当に、驚くほど、軽かった。

「――また、明日」
「ん、……またね」

 その時。
 さよならと、言うことが――出来れば良かった。
 でも、それをしなかった。

 ――どうして?
 だって。また再会を約束したのなら、少しの間でも、『さよなら』はさみしい。
 だから、『また』。『また明日』と、そう僕は告げ、彼女はそれに応えたのに。

 僕が彼女と交わした言葉は――それが、最期になった。




――――――――――




L.4


 一瞬、風がつむじを巻いた様相だった。土ぼこりが眼に入ってしまったものだから、僕は眼鏡を外して――滲んだ涙を、拭う。

「――はぁ」

 帽子でも、被ってくるべきだっただろうか。風が吹いているといっても、何の遮りも無い空からそそぐ陽射しは、己が思っていたものよりも若干厳しい。

 いつもはそれなりに涼しいと感じる潮風が、何だか肌にべたつくように感じる。
 ざり、ざり、と。砂利を踏みしめる草履の音を聴く者は、僕以外に誰も居ない。抜ける様な青空の下、僕は今、とある場所へ向かって歩いている。

『感傷にでも、浸りたいか? 下らない――』

 "考え虫"の声を否定するのも、面倒だった。そうでなくても、汗を流しながら、今更あすこへ向かおうとする己の姿など、滑稽以外の何物でもないと――既に自覚しているのであるから。

「さよなら、か」

 それは、別れの言葉。どんな小さな、些細な出会いであろうとも、ひととひとが別れるときは、いつだってその言葉を発する。

 僕は思う。ひととひとは、別れる『さだめ』にあるのだと。

 ――どうして?
 それは、出逢うから。
 独りをいくら望んでも。ひとには出逢う『さだめ』もまた、ある。それは確かに、ある。

 なんて、かなしい。なんてかなしく――さみしい、ことか。

「……」

 これが、下らない感傷というものなのだろうか。
 ああ。全く以て、その通りだ。

 照りつける陽射しが煩わしくて、己の手を、空を遮るように掲げる。
 てのひらの、指と指の間から、通り抜けてくる光が。流れる血潮で、紅く染まっているような気がした。

 其処から目的の場所へ辿りつくまで、つとめて何も考えないようにした。踏みしめる己の足音と、身体に当たる風の音だけが。相も変わらず、鳴り続けている。



――――――――――



 其処は、何も変わっていなかった。彼女にあの逢った次の日、彼岸の花を摘みに来たあの日から、何も。

 時の流れに拠っても、変わらない風景というものがある。ひとは――どうか。僕は、変わったのだろうか? もっとも、変わった変わらない云々については、どうでもいいことである。

 僕は本当に、しょうもないことを考えてばかりだ。酷く鬱屈しているのは己でも認めるところではだったが、別段いじけている訳では無い。
 意味が、無いから。そう、特に、意味が無い。此処はとても重要な点である思う。

 彼女が居なくなってしまって――季節は巡り。こうやってまた、彼岸の時期を迎えた。僕はその間、命の儚さなるものを、まざまざと見せ付けられた気分だった。

 ひとは、しぬ。いずれ、骨に成る。そして、土に還る。

 臨終の間際、彼女が何を想ったのかを僕は知らない。最期の言葉は、きっと彼女の家族が聴き取ったに違いない。

 僕が彼女の、その際を想う――何と、おこがましいことか。彼女は生きたかったに、違いあるまいと――そう考えることに、一体何の意味があるのか!

『よくわかっているじゃあないか。傲慢、傲慢な――』

 ――五月蝿い、五月蝿い! お前に言われなくても、僕は理解している!

「……はぁっ……」

 嫌な脂汗が、額から滲み出た。もう、拭うのも億劫だ。

 ――病を患ったのが、いっそのこと僕であれば良かったのに。そう考えたこともあった。それは疑い様も無く、『僕の考え』であったと想う。
 けれど、それは口に出さない。仮にそれを、たまに鬱陶しく感じてしまう程世話好きな姉に訊かれてしまったとしたら、多分泣くだろう。

 涙は、よくないものだ。それはかなしさだとか、さみしさだとか、兎に角にもそういった――あまり心にはよくないものの、象徴である。

 自恃だ。自恃が足りぬ。今更僕は、彼女の何を想うと言うのか。

「……」

 墓前に、立つ。此処へ来る途中の田んぼの畦道からちらちらと見られた彼岸花は、墓地にも咲き乱れている。風を受けて、ゆらゆらと揺れていた。

「今、――お前は何処で、この花を見てるのか」

 眼の前にある石くれは、何も応える筈が無い。

 僕は、涙を流さなかった。白状と言われれば、それを否定する言を僕は持たない。
 泣こうとも思えなかった――その点だけとって見れば。『白状』の言は、やはり正しいことになる。

 ただ。僕に、暖かい涙が、流れなかった。それだけのこと。それだけの、こと。

 そしてその場を後にしようと思い――立ち上がり、数歩ばかり歩いた時だった。

 ――風がやんで。辺りは一時の凪に包まれる。
 僕はまだ少し遠い位置から響く足音を、聴いた。空気の流れが聴こえない今、その足音は――小さいながら、やけによく響いていた。

 目線の、先。僕は、近付いてくる人影を見る。
 白浴衣に、薄蒼の半幅帯――それらの色の印象が、何とも涼やかであった。

 その線の細さと柔らかさから、遠眼で女子であろう――と、思う。あろう、と言うのは。相手方の髪がさほど長くなく、肩程までの幾分さっぱりとした様相であったからだった。
 そうだ。丁度、彼女と同じ位の。ただ違うのは、その髪の色は、艶のある黒では無く。――最近見知った彼女と同じ様な、淡い栗色であるということであって――

「こんにちは」

 ざぁ、と。止まっていた風がまた流れ出し、風下に居た彼女は――すぃ、と。右手で耳元の髪を梳きながら、そう発した。

「お墓参り、かい?」

 挨拶を僕が返す間も無く、続け様に彼女は言う。
 凛々しい声である、と思った。いきなりのため口ではあったものの――見た感じ、僕と同じ様な塩梅の年頃であると思い、其処は特に気にはならなかった。向こうは向こうで、どう感じていたのかは、果たして与り知る処では無かったが。

「――知り合いの。昨年、亡くなってしまった」
「そうなんだ――ぼ、や……自分は」

 少し僕から距離を置き、彼女は立ち止まる。

「自分は、花を見に。――彼岸の花が、丁度見頃なものだから。それにしても、驚いた。彼岸にはまだ早い――今位の時期なら、まだひとは居ないと思っていたのだけれど」
「……気まぐれだよ」

 気まぐれ、の言を聴き取った彼女が。己の顎に人差し指をやり、少し小首を傾げてから。何の合点がいったかは知らないが、やがて『うんうん』と、小さく頷いていた。

「気まぐれ、か。そういう気分も、あるっていうことだね」

 そう言って、僅かに微笑む彼女。

 不思議な気分だった。最近、女子との縁があるのかは知らないが――随分と奇妙なところで出逢い、会話をしている。

「彼岸の花なんて、縁起が悪いだけだろう」

 かつても思ったことを口にすると、彼女は可笑しそうに笑った。

「ふふ、縁起、――縁起かぁ。そんなことは今更という感じなんだよ、自分にとっては。確かに、彼岸の花には毒があると言うし――触ることは、しないけどね」
「今更って――そんなに可笑しいことだったか」

 癪に障った訳では無い。しかし、ただ思わずそう返していた。
 それを受けた彼女は、少し驚いた様子で、ぴたりと笑いを収める。

「――ん、ごめん。君も、姉さんと同じようなことを言うんだなぁって思ったんだ」
「……」

 姉が、居るのか。……まさか、な。
 いやしかし、彼女の様な栗色の髪は、そうそう普段からお眼にかかれるものでは無し。

「縁起、って言うのも――どうでも良いと僕も思う処だが、案外馬鹿にも出来ないんだろう。君の姉も、恐らく気遣っての言だった筈だ」
「うん……そうかもね。あと元々――姉さんは彼岸の花が、あまりすきでは無いと言ってる」

 偶然始まった会話は、あと暫く続いた。お互いの距離は、始めにふたりが言葉を交わした時のままに。僕はその折を見て――ひとつ、訊ねる。

「君は、何処からここへ来たんだ? 家が近いとか」
「……どうしてそんなことを訊くんだい」
「向こうにある、――療養所、か?」

 びゅう、と。僕の背へと吹き付ける風に、潮の香りが混ざる。彼岸の花が、我知らずと揺れている。

「……鋭いね。まぁ、自分もこんな格好だし――仕方ないかな。

 そう。ちょっと無理して、歩いてきたんだ。君はそれ以上、こちらに近付かない方が良い。もし其処から歩を進めていたなら――自分から離れるつもりだったのだけどね。うつってしまったら、本当に具合が悪いから。滅多に出られる訳じゃ無し――今日はその分、花を見て愉しむことにするつもり」

「――気まぐれに、か?」

 そう返すと、彼女は少し俯いた素振りを見せて。そして直ぐに、僕の眼を真っ直ぐに見据えた。
 陽は、まだ高い。光が眩しいのか、僅かに眼を細めていたけれど――驚く程、澄んだ瞳であった。――僕は。今眼の前に居る彼女では無い、しかし、こんな澄んだ眼を一度……見たことがあった。記憶の中に居る彼女のそれが、ぼんやりと重なる。

「ひとつは、そう。あともうひとつ、自分もお墓参りに。此処には、友達が眠っているから。君の――直ぐ後ろのお墓だね」

 そう言って、指をさす。その先には、

「え……」

 紛れも無く、僕の知っている――彼女の墓が、あった。




――――――――――――



R.― 白い部屋の会話


 あ、止まってるなぁ――え? うん。懐中時計。おじいさんから、貰ったんだ。……珍しい? そうかな。なかなか良いものだよ。螺子を巻かないといけないから、そこは少し億劫ではあるけど。それに――最近は特に、時間なんて気にしてないんだ。

 ――えぇと。何となく、気分的にかな。単にこれを見てると、落ち着くから。折角貰ったものだから、大事にしたいっていうのもあるし。止まっちゃってもね、時報かなんかで確認すれば、正しい時間にすぐ直せるもの。声でお知らせ、なんてね。――時計の意味が無い? それは言いっこなしにして貰いたいなぁ……

 うん。調子はまずまず、かな。ありがとう、わざわざ。――あはは。姉さんもよく何かと来てくれるし、寂しくないよ。いざとなったら、離れていても声は聴けるから。

 身体が弱いっていうのも困り物だよ……うん。咳は落ち着いてきた方。君も、気を付けて?  ――はは、まさか。僕の場合は、肺が軽く痛んでるっていう話なだけだよ。お薬飲んでれば、治るって。けどね、あれすごく苦いんだ。あんまりすきじゃないなぁ……

 あぁ、――ごめん。来てくれて、嬉しいよ。
 ありがとう、巴。




――――――――――――
|