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R.―


 かなしいこと、かい?

 ――どうだろう。世の中にかなしいことは、結構多いとは思うよ。けれど、僕はそうでも無い。かなしいことよりは、さみしいことの方が多いような気がするんだ。そこは君と一緒だね、きっと。ひとは、独りだとさみしい。……うん。それはとっても、さみしいことだから。

 ――ああ。姉さんかい? うん。姉さんは僕に、そんな素振りは見せないんだ。人一倍さみしがりなんだろうけど。素直じゃない――ああ、それも確かに……ふふ、そうだね。不思議だな、何だか。……や、本当に不思議な気分だよ。

 君と話しているのは、楽しいな。何だか気分が紛れる。――僕はね、結構我侭な方だと自分で思うんだ。誰かと話していたい、だなんて。普段は独りで居るとは好きなくせに、たまに考えたりもするんだよ。……君はどうだい。――うん……そうか。僕と君は、何処か似ているところがあるのかもしれない。

 もう少し、話していても大丈夫かな。――僕は大丈夫。あんまり無理すると、姉さんに怒られちゃうかもだけど――君とはまだ暫く、こうやって話をしていたいんだ。

 大丈夫、平気さ。今日は調子が良いもの。昨日は、少しきつかったけどね。――あはは。その辺は嘘ついても仕方ないだろう? 波がある感じなんだ、どうやら――



――――――――――



L.3

「――ま。いいです、その辺は。とりもあえず――その、何ですか。ご馳走様、でした」

 頭を下げつつ、改めて彼女は口を開いた。

「どういたしまして。御気に召して頂いたなら、こちらも幸いというものだ」

 こんな時に、気の利いた言葉でも返せれば良いのだけれど。僕はそういった言葉が咄嗟に思い浮かぶ様な感じではないのだった。

「うーん……でも、何だかあれですねえ」
「え?」

 何処か納得がいかぬ、という感じで彼女が言葉を発する。
 ――この甘味では、彼女の謝罪に足りなかったか。そんなことも考えたりもしたが、続けられた彼女の言は、僕の想像とは裏腹のものだった。

「これじゃちょっと、私が受けたもてなしの割が大きすぎるですね。余計な分、こっちからお返しさせて貰うですよ」
「……余計な分?」

 その内容は明瞭であった筈なのに、思わず言葉を返してしまう。

「あー、もう。花も恥らうこの乙女がですね、尽くされた礼を返すと言ってるです! 断るつもりなら、そりゃあ野暮ってもんですよ」
「……」

 先刻も思ったが。花も恥らう乙女は、こんな有無も言わさぬ問いはしないだろうよ。

「はは、わかった。しかし、どんなものを期待すれば良いのかな、僕は」

 そう問うと、如何にも自身満々といった様子で彼女は言う。

「此処の甘味もなかなかですけど、私だってこれに負けないものを作れるですよ。そりゃあ、ほっぺた落ちるです。多分、食べたことないでしょうしね。それでいて、結構手軽です。――あ、おめーは甘いものは平気です?」
「僕は酒呑みじゃあないんでね。とりあえず旨いものなら歓迎だ」
「じゃあ決まりですね。生憎今すぐという訳にはいかんですが……近い内に、食わしてやるですよ」

 余程それを作り出す腕に覚えがあるのだろう。料理の類――と考えて良いのかな、これは。
 食べたことの無い――そう思うと、彼女が僕にくれようとしてるものについて、流石にそれが何であるかということまでは想像がつかない。
 それにしても、近頃の女学生は、外で勉学に励んでいるとはいえど。その様なたしなみまで、身に着けているのが普通なのだろうか。

 そういった事情に疎い僕は、とりもあえず彼女の言を呑むことにしたのだ。



――――――



「大分暗くなってきたですねえ……」
「そうだな」

 瓦斯の灯りが、煉瓦の道をぼんやりと照らしていた。ふと上を見上げれば、まだそれほど高い位置にない三日月が視界に入る。何処か薄紅く、空の口元に笑みを浮かべているようだと思った。

 いつかのあの日も、こんなうすぼんやりと紅い三日月が、空に在ったのを覚えている。そんな光景は頭に残っているというのに、その時の僕が何をしていたのかは、欠片も記憶に残っていない。
 僕の視線を追った彼女が、ぽつりと呟く。

「今夜も良い夜になりそうです。――今は違いますけど、時間が経って高く昇ると、月はもっと白くなりますね。……なんでだろう、ってたまに考えるです」
「深く考えたことはないな。……なんでだろう?」

 恐らくして、僕達二人にとってはこの先何の足しにならないであろう会話を、とりとめもなく紡ぎ続けていた。『うさぎの』を後にして歩き始めてから、たかだか十分も経っていない。その短い間、終始このような塩梅である。

 無言を嫌ったのではない。何か、話し続けていたかった。ただ、それだけ。

『――多分それも、同じなんですね。おめーも、私も』

 彼女のあの言葉の真意を、僕は問いただしたりはしていない。僕の中に居る"考え虫"の五月蝿い声に従った訳では無かったが――結局それをしたも同然になっている状況が、何処か癪に障る。多分、そんな感情を誤魔化そうとしながら、僕は言葉を発し続けているのだろうか。

 わからない。己のことなど、全くわからない。

『弱い。どうしてそんなに、弱いのか。いつだって誤魔化そうとする、そうやって逃げている。仕方の無い、本当に仕方の無い奴――』

 ……ああ。本当に、そうかもしれない。――や、"かもしれない"等と。そんな可能性の話云々では無く、僕は全く以て矮小な、弱い人間であるのだから。それは疑いようも無いことだ――

「なんか、不思議ですねえ」
「――どうした?」
「どうもこうも。こんな風に歩いてるってのも、不思議な縁だって言っただけですよ」

 不思議。確かにそうか。
 港の道で文字通り衝突した僕等が、こうやって並んで歩いているなど、そうそうある縁では無かろう。

「小粋な出逢い、という訳ではなかったろうがね」
「……まあ、そうですね。こんな浪漫のねー出逢いなんぞ、私も初めてです」

 ふん、と。鼻を鳴らして彼女は言った。

「浪漫、か。そんなの中々、普段歩いていて出くわすものじゃあ無いだろうな。そういったものは、物語の中で沢山なのかもしれない」
「物語、ですか……」

 その言葉を反芻するかのように彼女が呟いた後、一瞬の静寂が訪れる。

 物語。近頃では、女流の文学も大分増えてきた。僕も少しばかり眼を通したことがあるが、矢張り独特であるな、とは感じている。男には感じられない感覚というものを、女の眼を通し、描く。それは何処か新鮮であったし、面白い読み物として捉えてはいたが。

 物語は、本当に沢山ある。僕が生きている内に、果たしてどれくらいの物語に触れることが出来るかなど、わからない。もともと読み物を読むなど、本当に暇な時にしかしないことではあったけれども。
 男気溢れる"それ"も幾らか読んではきたが――そう言えば、男気という言葉は見たことがあるが、女気、という記は知らないな。

 女気か。もしあるとすれば、どういったものがあるかな。何処となく温藉(しとやか)であるだとか。ひとつ凛とした、たしなみがあるとか――そういった塩梅なのであろうか。
 もっとも。もしそうであるならば、今僕の隣に居る彼女など、その範疇には入らぬだろう――そんなことを思い、笑いを零しそうになる。彼女は、……生意気と呼ぶのは好まないのでしないが、まあ活発な女子の部類に入るのではないか。

「何、にやにやしてるですか。独り笑いは旨くもねえですよ?」

 顔に出てしまったか。僕は痒くも無い頭をばりばりと掻きながら、返す。

「や、――なんでもない。今日はそれにしても、付き合ってくれて有難う。礼を言わせて貰う」
「……別に。私は奢られた身ですからね、大層なことは言えんです」
「まあ、そう言うなよ――そうだ、明日はどうしようかな。久しぶりに本でも読んでみるか」
「本、ですか? まあ、おめーも眼鏡をかけるような具合ですから――文学青年に見えないこともないですねえ」

 はは、と。思わず苦笑してしまう。僕は学校に通っている訳でも無いし、――家の財を食いつぶす、ただの放蕩者と殆ど相違無い。

「読み物、――って言うのも、存外良いもんです。私は読むってよりは、専ら書き物をやる方ですが」

 少し意外な言葉を、彼女は漏らす。や、意外と言ってしまうのも、彼女にとっては失礼であろうから、それを声に出すことはしない。

「小説か何か、か?」
「……ああ。そんな大層なもんじゃねーですよ。ただ、こうやって勉学に励まさして貰ってるですから――覚えた文字だって、使ってやらんことには少し勿体ねえ話だと思ってるだけです。ちまちまと日記みたいなもんを書いたりする位ですから……まあ、他のひとに見せられるような代物じゃあないことは、確かですね」
「へえ、筆まめなんだな」

 日記、とは言えど。仮にそれを文字通り毎日記しているとしたら、それはそれで大層なものだと思う。
 日々の出来事を、言葉で残すということ。――僕ならば、それをしようとすること自体が、まず無いだろうから。その日その日、何となく過ごしている己にとって。人生の記録を残すということは、本当に意味の無いものだ。

 言葉は、残る。帳面だろうが、そこらの紙だろうが、一度書いてしまえば、残る。どんなことで、あろうとも。

 良い思い出も。かなしい、出来事も。時が経てば、記憶の中ではどんどん薄らいでいって、そしてその内忘れてしまうに違いない。そんな儚いそれらを、文字として残してしまったら。永い時を隔てた後、それらを眼にした時の己は、果たして何を思うだろう。

『覚えていたくもない出来事を残し、何になる?』

 ――それはわからないさ。

『忘れようとすること程、こころの内に残る。……違うか?』

 ――だから、わからない。否、――本当は、気付いているのか。だから僕は、日々を何も考えず、平穏に過ごすことを望む。

 内から響く声が。"考え虫"のものなのか、それとも己のものなのか。最早区別がつかなくなってきている。

 二度の静寂。昼間の喧騒は何処へやら、夕暮れ時の町並みは、驚く程静かであって。彼女の鳴らす編み上げ靴の足音だけが、こつこつと良く響いていた。

「――私が、」

 呟くような、本当に小さな声を、彼女は発する。

「私が日記を書くのは、――出来事を、忘れないためですよ。言葉は、残るです。誰に向けたものでも無い――自分自身に。遠い先に居る筈の己に向けて書いている――お手紙、のようなものかもしれませんね」
「……手紙……」

「それでなくても、私は忘れっぽいですからねえ。そうやって残しておかないと、……話しておこうと思ったことも、忘れちまうです」
「誰に、向けて?」

 そう言うと、彼女は一瞬俯いたが。直ぐにいつもの表情に顔を戻して、話を続けた。

「妹が、居るです。ちっと身体が弱くて、床に臥せってるですが――その分私が、周りのことを教えてやるですよ」

 ――身体が弱くて、か。
 周りのことを、教えてやる――その行為に、遠い既視感に似た何かを覚える。

 電信で話した彼女は、胸の病であると言った。――今眼の前に居る、妹想いの姉が彼女にも居たならば――彼女が繰り返していた、『世の中のさみしさ』も。幾分は、紛れるかもしれない。

 僕は、やさしくはなれなかった。同じ様に、病に臥せっていた幼馴染の彼女の存在から、眼を逸らした。ただ二、三度の見舞いしか、していなかった。元々、ひとと逢うこと自体が宜しくない病であったなど、そんなことを言い訳にして――

『――嬉しい。来てくれたのね』

 綻ぶような笑みを浮かべた彼女を、結局僕は、今でも鮮明に心へ浮かべることが出来る。

「大事にしてやれよ。――僕には、出来なかったことだ」
「え……」

 それぎり、僕等はまた無言になる。
 とある建物の前に辿り着いた時、並んでいた彼女は一歩僕より前に踏み出して。くるりとこちらを向きなおした。

「此処で、大丈夫です。――もう、着きましたから」
「――時計屋の娘、だったのか」

 其処は、この街唯一の時計屋であった。此処が、彼女の生家。結構歩いたと思っていたが、それほど僕の家から離れていないのに少し驚く。

「私は時計を作る腕なんぞ、持ち合わせちゃあ居らんです。専らおじじの仕事ですよ。おめーも、時計のひとつでも持ってみたらどうですか?」
「考えとくよ」

 持ってみたらどうか、と言われても。それほど安いものでも無し、むしろ高価であるから、ほいほいと買い付ける訳にもいくまい。

 港で起こった不思議な出逢いから、今に至るまで。何刻も経っていなかったけれど、これで終わってしまうをを些かさみしいと感じる。

 そして。僕はひとつ、多分ひとと逢った時に、一番初めにしておかなかればないことを、していなかったのだ。

「なあ、――随分遅くなってしまったが、訊いてないことがあった」
「――何です?」

「君の、――名は」


『逢えないひとの名前を覚えてしまうっていうのは、存外にさみしいことだと思うんだ、――』

 電信での、彼女の言葉。
 今僕の眼の前に居る彼女とは、再会の約束らしいものをしているから――訊いてみようと、思ったのだ。

 あ、と言った感じで口に手をやった彼女は、少し微笑んでいた。

「はあ――ま、多分それは、お互いにとって大事なことじゃあ、無かったですね。大事じゃないことは、直ぐ忘れるです。――あるいは、他にもっと、大事に思うことがあったか……ですよ。きっと」

 どうだろうな。僕はこの彼女の言には、特に何も返さない。

「おめーとはまた逢うことになるでしょうから、自己紹介はしとくですよ。そんな縁なら、次逢った時に名前もわからんと言うのは――少しかなしいじゃないですか」

「かなしい、のか? ……さみしいんじゃあ、無しに」

 気が利かない、というのは。正に今の己を表す為の言葉であるか。先程から僕は、彼女の言葉尻ばかりを捉えて、阿呆のように繰り返しているだけ。
 そんな僕の言を捉えた彼女は、何だか可笑しそうな、それでいて少し困ったような、曖昧な表情を浮かべた。

「ああ、何だか似てるかもしれませんね」
「――?」

 僕が彼女の真意を訊ねる間も無く。
 すぅ、と。姿勢を正して。何だか改まった様子で、彼女は言った。

「いいんですよ。今のは、ただの独り言。それで、私の名前は、――」




――――――――――




 独り、家路に着く。こうやって歩いていても、彼女が鳴らしていたようなこつこつとした足音は響かない。己が踏みしめる、ぺたりぺたりとした感触しかない。

 ――煉瓦道に、草履は合わないか。

 些か、どうでも良いことを考えていた。

 近い内に、彼女は件の『礼』をしたいと言うから、三日程後、陽の高い内に家へ来いと言った。ただし、学校へ行っている時は勿論不在。だから、帰っている頃合を見計らって欲しいとのことで。

『え? ――そりゃあ、すぐわかるです。また港でも歩いてれば、学校が終わった頃に女学生がその辺で騒ぎ始めるですから』

 女子からの誘いなど、滅多に受けるものでは無かったから、少しばかり緊張してしまった。

 明日の予定は未だ立たなかったが、本を読む気は失せてしまった様に思う。
 どうしようか。そう思いながら、空を見上げる。

「……」

 うすぼんやりとした瓦斯の灯りの向こう側に、何時の間にか大分高くなっていた三日月が、白く煌々と輝いていた。

 雲ひとつ無い、くらく深い藍色の空に点々と見える星が、何となくうつくしいと思う。
 こういった、何気ない、感動に似たような――ものを。文に記すのは、ひょっとしたら良いものだろうか。

 そんなことも考えたが、……矢張り柄でも無いと思い直し、それを直ぐに取り消してしまう。

 幾分風が吹いて、潮の香りが街へ運ばれてくる。今は涼しいが、明日もまた暑い一日になるに違いない。

 彼岸まで、あと少し。
 明日は――あすこへ、行く事にしようか。
 彼女が居なくなってしまってから――ただの一度も、赴こうとしなかった己が、そういう気分になったのが何故なのか、答えは出ない。

『……』

 珍しく、"考え虫"が何も言い出さない。だから、本当に静かな夜になる。
 ――そうだ。そろそろ、彼岸の花が……あすこにも、咲き乱れる頃か。

 今日は、不思議なことづくめだった。そう思いながら、家に辿り着くまであと少しの道すがら。僕は足を止め、暫くの間、空に輝く白い三日月へと顔を向けて――眼を、細める。

 高い位置にあるそれが、相も変わらず、空の上で笑みを浮かべ続けていた。




――――――――




R.― 日記


『……――

 ちょっと血を吐いた、と。妹は、いつも通りの顔で言う。
 心配ない、いつものことだから。そう語る妹の笑顔が、痛々しい。

 妹は特に、私に対して隠し事はしない。無理もしない。日々の出来事、……多くは、散歩で見つけた綺麗な草花や、そんな他愛ないことで……そして一部は、己の体調のことを、私には教えてくれる。

 彼岸の花が、とても綺麗だと言っていた。
 私はあすこへ、あまり行って欲しくない。あの花の、本当に紅々とした色は――吐く血を、思い起こさせる。
 しかしながら、それをすることが妹の望むことならば。私はそれを遮ることなど、出来る筈も無い。

 其処で、ひとりの男と出逢った様相だった。
 眼鏡をかけた男子、というと……私は彼のことを思い出してしまうのだが。
 悪い風体では無いと語った。が、名前を言うことは、ついにお互いしなかったと、妹は笑った。

 私としては。妹に悪い虫がつきはしないかと、ちょっと心配になったりするのだけれど。もう逢うことも無いだろう、と。いつも通りの微笑みで、妹は言ったのだ。

 ――……』



『快復まで』




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