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 ※おことわり : 一部、bieroかも知れません。




レースのカーテンを擦り抜けてきた朝日に頬を撫でられ、彼は目を覚ます。
スプリングの効いたベッドの中で、可能な限り、小さく身を捩る。
あまりゴソゴソと動いては、いけない。
なぜならば、それが毎朝の約束事なのだから。

そぉ……っと、ベッドランプの下に腕を伸ばす。
手探りで求めるのは、この間、新調したばかりのメガネ。
程なく、冷たい金属のフレームに指が触れた。
再び、静かに手繰り寄せたソレを耳に掛けて、首を僅かに傾けると――


そこには、いつもどおり、愛しい人の寝顔があった。
彼は、三度、吐息する。

ひとつは、起き抜けの小さな欠伸。
ふたつめは、今朝も隣に彼女が居てくれたことへの安堵。
そして、みっつめは――

「おはよう……今日も素敵だよ」

彼女の寝顔の美しさに魅せられた、感嘆の溜息だった。



  『褪めた恋より 熱い恋』



柔らかな朝日の中で、彼女は幸せそうに微睡んでいる。
メガネを外した素顔は、いつもながら息を呑む可愛らしさだ。
昔のアニメソングではないが、彼女の目元を飾るそばかすだって、彼のお気に入り。
普段は結い上げているストレートの黒髪も、今は解かれ、彼女の背中へと流れていた。

まだ充分に瑞々しい肌の一点……
胸元には、昨夜、彼が付けた愛のあかしが、幾つもアザとなって残っている。


彼は時計を一瞥して、彼女の肩に触れて、そっ……と揺り起こした。

「んっ…………あ、ジュンジュン……おはよ~」
「おはよう」

ねぼけ眼を、こすりこすり。
欠伸を堪えながら、草笛みつはムニャムニャと挨拶して、また眠ろうとする。
彼――桜田ジュンは、そんな彼女に優しい眼差しと苦笑を向けて、肩を竦めた。
毎朝の事ながら、彼女は寝起きが悪い。
週末ならば、そのまま眠らせてあげるのだが、今日は平日。

だから、ジュンはいつもどおりに、彼女を叩き起こす。
滑らかな頬を両手で包み込んでの、フレンチキス。
これで彼女が起きなかったことは、一度としてない。

今朝も例外なく、みつはパッチリと目を覚ましてくれた。



二人が同棲を始めてから、早くも半年が過ぎていた。
高校を卒業した彼と、念願かなって自分の店を開いた彼女。
丁度いい契機とばかりに、よく考え、話し合って決めたことだった。

以来、ジュンは彼女のマンションで家政夫のような生活を送る傍ら、
服飾のデザインを独自に研究して、愛する彼女をバックアップしている。
みつが店に行っている日中は独りきりだが、その程度の孤独は、
引きこもり時代で慣れている。
実際、ジュンは寂しさよりも、みつの為に尽くせる喜びを強く感じていた。



朝食は、簡単なシリアル。
向かい合って、雑談を交わしながら食事するのが、いつものスタイルだ。
ジュンは、彼女の服装に目を留めて、わざとらしく首を傾げた。

「今日は、10月にしてはあったかいのに、タートルネックのセーターなんだな」
「…………バカ」

みつは耳たぶまで真っ赤に染めて、もじもじと肩を竦めた。
メガネの奥のつぶらな瞳には、咎めるような色が、ありありと浮かんでいる。


「普通の服じゃあ、首筋の……が見えちゃうんだってば」




玄関で出勤する彼女を見送った後、ジュンは家事を始める。
変遷の中の不変……全ては、いつもどおり。

何かもが巧くいっていた。まさしく順風満帆。
『人間万事、塞翁が馬』というけれど、今の彼らにとっては、
遠い外国の他人事みたいに思えていた。不幸など無関係だ、と。
仮に、ちょっとの不幸に見舞われたところで、二人なら乗り越えられる。
そして、ずっと、このまま満ち足りた生活が続いていくのだと信じていた。


――年が明けて、いろいろ落ち着いたらさ……籍、入れないか?

昨夜、夕食を終えて、くつろいでいる時、ジュンは切り出した。
今までだって新婚生活みたいなものだったし、あまり気にはしていなかったのだが、
姉、桜田のりに「ちゃんとしなきゃダメよぅ!」と叱られたのだ。

便宜上。ジュンにしてみれば、その程度だった。
籍を入れようが入れまいが、みつと一緒に居られれば幸せだったのだから。

けれど、それが男女の考え方の相違というものらしい。
ジュンの言葉を聞いた彼女は、優に五分は呆然としていた。
そして、いきなり泣き出してしまった。
みつの嗚咽を聞いていたら、何故かジュンの胸も熱くなって……
気付けば、彼女の肩を抱き寄せて、彼も涙していた。

(幸せすぎて泣けるってこと、あるんだなぁ)

カーペットに掃除機をかけつつ、昨夜のことを思い返す。
嬉しくて、幸せすぎて、床に就いても眠れなかった。
愛し合い、疲れ切って眠ったのは、午前五時くらいではなかったか。
思い出すと、つい頬が緩む。しかし、それはすぐに引き締められた。

  こんなに全てが順調で、いいんだろうか? 
  その内に、幸福の代償を請求されはしないか?

今まで、こんなにも幸せを感じた試しがなかったジュンは、
巧くいきすぎることが却って不安だった。
ある日、突然に、この生活が破綻してしまうことを、何より恐れていた。

「……バカだな、僕は。そんな映画みたいなコト、滅多に起きるわけないだろ」

独りごちて、掃除機のスイッチを切った。
これで、家事はあらかた終わり。洗濯は少ないから、明日、纏めてやればいい。
ジュンは自室兼作業場に入って、スケッチブックを手に取った。
閃くままに走り書きした数々のアイディアは、その殆どが具現されている。
さながら、予言書といったところか。
ページを捲る指が、真っ白な紙面を引き当てて、止まる。奇しくも最終ページだった。

(今は、彼女のためにドレスを創ろう。
 この不安を焼き尽くすほどの、熱い想いを込めて)

ジュンは一心不乱に、スケッチブックにペンを走らせ始めた。



一時間ほどデザインを考えていたが、どれもイマイチで、しっくりこない。
描けば描くほど、マンネリに見えて苛立ちが募った。
どれもこれも、既視感ばかりが目立ってしまう。


「あー……ダメだ。ちょっと休憩するか」

睡眠不足による為か、それとも気負い過ぎなのか。
とんと素晴らしいアイディアが湧いてこない。
こう言うときは、気分転換が1番の妙薬だ。


「ひと眠りしてもいいけど……シリアルとか、いろいろ切らしてたよな。
 散歩がてら、近くのコンビニでも行ってくるか」

小腹も空いたし、ついでに菓子パンと、栄養ドリンクでも買ってこよう。
ジュンは外出着に着替えて、玄関に向かった。
ドアノブを回して、きちんと施錠されているのを確かめ、エレベータまで歩を進める。

午前10時過ぎ。
この時間、大概の家庭では夫や子供を送り出して、主婦が家事に勤しんでいる頃だ。
ドアが並ぶ通路に、擦れ違う者は居ない。
秋の陽気の下、遠くからゴミ収集車の暢気なメロディが聞こえてくる。
体育祭シーズンも過ぎたし、この分だと年末なんて、あっと言う間だろう。
そんな取り留めないことを考えている内に、エレベータに辿り着いた。
しかし、その扉はピッタリと閉ざされ、貼り紙がしてある。

「定期点検中? しまった、今日だったか」

みつの部屋にも、エレベータの点検作業を報せる紙片が投函されていた。
それは、ジュンも目にしていたし、承知しているつもりだった。
けれども、あくせくと時間に追われない生活を送っている彼は、
規則正しく暮らしている人たちに比べて、曜日や日付の感覚がルーズになっている。
ゴミ出しの曜日を間違えることも、しばしばだった。


とにかく、ここで文句を呟いていたところで、定期点検が早く終わるワケでもない。
ジュンは動かないエレベータの前を離れ、階段まで歩くことにした。
前方から歩いてくる人影が目に映ったのは、その時だった。
向こうも彼に気付いたらしく、あ……と微かな声をあげて、口元に手を翳した。


「……よ……よお」
「あ……えと…………おはよう、かしら」

ジュンのぎこちない挨拶に答えるのは、同じ階の住人にして、高校時代の級友。
彼の下駄箱に、ラブレターを投函したこともある娘だった。

あの頃の自分は、精神的に幼かったと、ジュンは思う。
疎ましく思うあまり、彼女の想いを拒絶することに、罪悪感など抱かなかった。
みつと過ごしてきた時間が、ジュンを良い方に変えてくれたのだろう。
恋愛の対象とは見なしていないのは、今も変わらないけれど、
以前のように、目の前に佇んでいる娘を否定するつもりは無かった。

「こんな時間に逢うなんて、珍しいな。寝坊したのか、金糸雀」
「なっ! 違うかしら。今日は講義が無いから、二度寝してただけかしら」
「二度寝と寝坊って、違うものなのか?」
「似て非なるものかしら。トカゲとイモリみたいなものかしら」
「例えがミョーだけど……ま、いいや。僕はコンビニ行くから……じゃ、またな」

「ええ、また――」と、いかにも名残惜しそうに、金糸雀は寂しげに目を伏せる。
そんな彼女の脇を、ジュンは大きな欠伸をしながら擦り抜けて、階段を目指した。
今日は、いつになく眠気が強い。やはり、早めに買い物を済ませ、仮眠しよう。
ドレスのデザインは、納得がいくまで、じっくり仕上げればいいのだ。

そう思った直後、ジュンは突如、急激な墜落感に襲われて、思案を中断した。
世界が目まぐるしく回り、腕と言わず足と言わず、身体中に激痛が走る。
そして、トドメと言わんばかりに、ジュンの後頭部が強打された。
自分の身に起きた事を理解しようと目を見開くが、視界が霞んで何も判らない。
徐々に暗転してゆく視界に、黒い人影が駆け込んできた。

「ジュンっ! しっかりするかしら、ジュンっ! いま救急車を――」

懸命に呼びかける金糸雀の声も、彼の遠退く意識を引き戻すことは出来なかった。




気付いたときは、病院のベッドの上だった。
目を覚ましたジュンの顔を、目を泣きはらした、みつの顔が覗き込む。
彼女の後ろには、心配そうな金糸雀や、姉のりの泣き顔もあった。
金糸雀から連絡を受けて、二人とも取るものも取り敢えず駆けつけたのだろう。
みつに対しては店の経営が軌道に乗り始めていただけに、申し訳ない気持ちで胸が痛んだ。


(ごめんな……心配かけちゃって)

謝らなければいけない。
そして、仕事の方を優先してくれと、頼まなければならない。
今が大事な時だというのに、見舞いや看護で、店をなおざりにしては駄目だ。

しかし、ジュンは返事を出来なくて、愕然とした。まったく声を出せない。
ばかりか、身体を……指の一本も動かせなかった。
一体、何がどうなったというのか。
焦って全身を動かそうとするも、できるのは、せいぜい瞬きすることくらいだった。



脊椎や頭部強打による、神経伝達系の損傷……医者は、そう言った。
運動神経に障害があって、横紋筋の随意性が著しく疎外されているらしい。
内臓器は不随意筋である平滑筋のため、影響が出ていないが、
随意筋の方は、瞼など僅かな箇所が、辛うじて動かせる状況とのことだった。

みつはワナワナと震えながら医者に詰め寄り、治る見込みについて訊ねた。
だが、返答は鉄槌の如く、彼女の希望を砕く。

「あなた、医者でしょうっ?! なにか……なんとかしてよ!」
「みっちゃん、落ち着いて! お願いだから、冷静になるかしらっ!」

半狂乱になって喚く彼女の腕を、のりと金糸雀が両脇から抱え込んだ。
みつは、そんな二人を突き飛ばしかねない勢いで捲し立てる。
金糸雀は懸命にしがみつき、涙声を振り絞って、押し止めようとしていた。
その騒ぎを聞きつけ、病室の入り口に、看護士や入院患者たちが集まりだす。

(……止めてくれっ!)

心の中で、ジュンは叫ぶ。
苦痛に歪む、みつの顔を見るのが辛かった。
悲痛に打ち震える彼女の嗚咽を聞くのが、すごく苦しかった。
自分のせいで、親しい人たちの人生を狂わせてしまうことが、とても悲しかった。

(お願いだ! みんな…………もう止めてくれよっ!)

胸に渦巻く、やるせない想いを、声に出したい。
大声で叫んで、この喧噪を鎮めたい。

なのに、ジュンは唇を開くどころか、身体を起こす事すらできなかった。
涙さえ、溢れることはなかった。



それからの日々は――
ジュンにとって、絶望の連続だった。


――僕は、人形になってしまったんだ。


いや……人形ならば、まだマシだ。食事も、排泄の心配も、しないでいいのだから。
呼吸をする必要もなければ、眠らなくたっていい。
誰も居ない部屋で独り、日当たりの良い窓辺に座って過ごす日常。
移ろう季節を横目に、ぼんやりと主人の帰りを待っているだけが、生活の全て。


……ああ。
いっそ、そうなれたなら、どれ程か幸せだろう。
今の状態は、苦痛しか生み出さない。
生きる上で必要不可欠な食事ひとつとっても、そう。
内臓に問題が無いため、点滴だけに頼らず、流動食も摂らされるのだ。
自分の意志で顎を動かせないから、喉にチューブを押し込まれて、流し込まれる。

それは食事ではなく、餌付け。無理矢理に、エサを食べさせられているに等しい。
ジュンの心は屈辱にまみれ、自由にならない身体に憤った。
鬱積した黒くドロドロした感情は、彼の理性を、光の射さぬ深淵に引き込んでいく。
そして、彼の精神は闇の中で縮こまり、例えようのない深い哀しみに啜り泣くのだった。



そんな、ある日のこと。
茫乎とした眼差しを、秋晴れの空に彷徨わせていたジュンの耳に、
どこからか、女の人の澄んだ歌声が流れ込んできた。
筋肉は動かせずとも、鼓膜さえ震えれば音は聞こえる。
どうやら、開け放した窓の外から、届いてくるようだった。


(歌か……いいな。歌えるほど元気なら、もう退院が近いんだろう)

そう思った直後、不意に歌声は止み、程なく、言い争う声に変わった。
どうしたと言うのだろう?
気になって耳を澄ましたジュンは、なんとか、幾つかの単語を拾う事ができた。

(めぐ……って名前なのか? 治らないとか……死ぬとか言ってたな)

病院とは、なんとも厭な空間だ。死が日常的すぎて、現実よりも身近に感じられる。
ジュンもまた、めぐという女性の言葉に感化され始めていた。

(このまま治らないなら…………いっそ、死にたいな)

生きていながら、死んでいるに等しい今の状態は、自分のみならず、
周囲の人々も不幸に陥れている。
心から愛している彼女――草笛みつを苦しめている。
自分が彼女の幸せな未来を遮る壁になっているのだと思うと、死んで詫びたくなる。
けれども、今のジュンは、自分の舌を噛み切ることすら出来ない、無力な人形。




みつは毎日、欠かすことなく病院を訪れては、ジュンの世話をしていく。
時に、汚物の付着したおむつさえも、彼女は厭な顔ひとつせずに変えてくれる。
その度に、嬉しさと同時に、自分の存在が足枷でしかない事実を思い知らされ、
ジュンは気が狂いそうになった。

――悔しかった。ただただ、口惜しかった。
死にたいとすら思うのに、麻痺した身体では、自殺も叶わない。
自力で彼女の元から離れていけない自分がもどかしくて、呪わしくて――

それなのに、ジュンの双眸から感情が溢れることはない。
相も変わらず、電池じかけの人形みたいに、瞬きと呼吸を繰り返すだけ。
口内に溜まる唾液すら自力で飲み込めず、機械で吸い出していなければ窒息する。
人間としての尊厳もない、この状況は、はたして生きていると言えるのだろうか。


(僕は、いつになったら……死ねるんだ。早く死なせてくれよ)

生気のない目を外の景色に向けていたジュンの耳に、めぐの歌声が忍び込んできた。
いつもながら綺麗な声だ。最近では、この歌を聴くのが心の慰めになっている。
死にたがりの女性が、気紛れで奏でる歌。
そこに癒しを求めるのは、同病相憐れむ、というやつかも知れない。

ジュンが瞼を閉じて聞き入っていると、不意に、歌声が止んだ。
だが、いつものような苛立ちの声は聞こえない。
代わりに、驚くほど優しい声が、誰かに話しかけていた。

「いらっしゃい、水銀燈。
 ねえ……知ってる? この病院の10階に、眠り姫が居るんだって。
 死んだら鳥になりたいと思っていたけど……ずぅっと眠り続けるのも素敵よね」

聞いて、ジュンは『本当に、そうなのか?』と思った。
楽しい夢を、終わることなく見続けていられるのなら、そんなに幸せなことはない。
だが……その夢が、耐え難い悪夢だったとしたら?
丁度、彼が置かれているような、酷い状況だったなら、同じ事が言えるだろうか。

ジュンは心の中で、声しか知らない女性に、話しかけた。


(傲慢だな、君は――
 綺麗な声で歌うことが出来る。自由に動き回ることが出来る。
 今みたいに、親しい誰かと言葉を交わして、笑い合うことも出来る。
 その気になりさえすれば、僕の首を絞めて、殺してくれることだって出来るのに。

 なのに! 君は『死にたい』だなんて言う! 傲慢すぎるよ!)

めぐに向けた憤りは、深い哀しみとなって彼自身に跳ね返ってくる。
そして、ジュンは誰にともなく祈った。


(お願いだ――せめて、涙を流させてくれ。行き場のない感情を、吐き出させてくれ)




店の定休日を翌日に控えた夕方、みつがジュンの集中治療室を訪れた。
宿泊の許可を得たらしい。結構な荷物を持参している。

「今日は久しぶりに、ずっと一緒だね、ジュンジュン」

陽気に軽口を叩いて、少女のように屈託なく笑う彼女を見ていると、
ジュンの心は幸福感よりも、罪悪感で満たされていった。
気苦労の欠片も表さず、献身的に世話を続ける姿は、彼に苦痛しかもたらさない。
惨めだ、と思う。何もかも、みつに頼り切りの自分が。
そして、そんな無力な自分を見られるのが、筆舌に尽くしがたいほど恥ずかしかった。


――もう、来ないでくれ。

一言だけでも伝えたい。
いっそ、胸に積もり積もった憂鬱を声にできたら、どれほど気楽だろう。

「この間、ジュンジュンにデザインを頼みたいってお客さんが、お店に来たの。
 最近、めきめきと知名度あがってるんだよー」

我が事のように、嬉しそうに語る。
ジュンの話をする時、みつはいつも幸せそうだった。
こんな状態になった今でも、それは変わらない。

何故なんだ? ジュンには、彼女の心境が理解できなかった。
知名度が上がろうと、客から依頼があろうと、彼には何もできない。
家や店に居たって邪魔なだけ。招き猫でも置いた方が、よほど店の看板になる。
つまりは、ただのガラクタ野郎なのだ。
こんな足手まといのジャンクなんか、さっさと見限ってしまえばいいのに。
何を好き好んで、この人は苦労を背負い込むのだろう。
意志の疎通もままならない二人を残して、時間は滔々と流れゆく。


午後になって、のりが病室に顔を覗かせた。みつと同様、姉も毎日、彼の元を訪れる。
普段どおりの、どこか間の抜けているような、朗らかな笑顔。
のりが振りまく雰囲気は、病室の重く沈んだ気配を和ませてくれる。

「あらぁ……草笛さん、お疲れみたい」

彼女は、みつが欠伸を堪えて目をショボショボさせている様子を見て、
心配そうに表情を曇らせた。
ハッと我に返り、みつが「平気よ、これくらい」と気丈に微笑む。
けれど、のりは不安げな顔を崩さなかった。

「ダメよぅ、無茶したら。あなたまで病気になったら、どうするの?
 ジュン君だって、きっと悲しむわ。ここは私に任せて……仮眠してきて。ね?」
「…………それじゃあ、お言葉に甘えておくわ。ちょっとの間、お願い。
 ロビーに居るから、何かあったら遠慮なく呼んでね」

のりの細やかな配慮に感謝の意を示して、みつは財布だけを手に、病室から出て行った。


扉が閉ざされ、足音が充分に遠ざかると、のりは微笑みを貼り付かせたまま、
ジュンのベッド脇に置かれた椅子に座った。
そして、慈愛に満ちた眼差しで、無表情の彼の顔を、穴が空くほど見つめる。
優に五分は、そうしていただろうか。
徐に、のりの唇が動き出した。

「ねえ……ジュン君は今、幸せ?」

幸せなもんか! ふざけたこと言うな、お茶漬けのり!
お見舞いに来てくれた人に対して、とんでもなく無礼だと承知しつつも、
ジュンは胸裏で毒突かずにはいられなかった。
彼の心境を知ってか知らずか、のりは小さく吐息して、言葉を続ける――


「そんなワケないわよねぇ。だって……何も、出来ないんだもの。
 お姉ちゃんね、ジュン君の身体を元どおりに戻せるなら、何でもしてあげたい。
 そう思って、ずぅっと頑張ってきたの」

姉の朗らかな笑顔に、ふぅ……っと、悲しげな影が差した。

「……でもね、もうダメなの。ごめんね、ジュン君。
 お姉ちゃん……もう疲れちゃった。ジュン君の姿を見ているのが、辛いのよぅ」

寂しそうな呟きを放つのは、思い詰めた表情の、のり。
ジュンはいまだ嘗て、そこまで悲壮に満ちた姉の顔を、見たことがなかった。


「ジュン君も……楽になりたいでしょ?
 これ以上、苦しむのはイヤでしょ? だから……ね」

おずおずと差し伸べられる姉の両手が、ジュンの肌に触れる。
秋の風で冷やされた指が、ジュンの首に絡み付いてくる。
そして――


「お姉ちゃんが、ジュン君の望みを……叶えてあげるから」

肩で荒い呼吸を繰り返す姉の両手に、じわじわと力が込められた。
気道と頸動脈が圧迫されて、苦しさが増していく。
けれど、ジュンは何故か、嬉しかった。
自分の本音を理解してくれた姉に、心から感謝していた。

うれしい! 嬉しい!
やっと楽になれる。苦痛でしかない毎日から、解放してもらえる。


(……ありがとう、姉ちゃん。
 これで、僕は望みどおり死ねる。もう、誰にも迷惑かけずに済むんだ)

望みが叶うというのは、こんなにも幸せなことなんだな。
ジュンは、段々と薄れゆく意識の中で、漠然と思った。

のりの両手から、力が抜けることはなかった。
衝動的な行為ではなく、散々に悩み、葛藤した末の決断だから躊躇がない。
ジュンとしても、それは望むところ。
中途半端に絞められる方が、死を迎えるまで、苦しみが長続きしてしまう。


「ごめんね……ジュン君。ごめ……んね、ごめんね……」

のりの声は、震えていた。
顔に合わない大きさの丸メガネの奥で、つぶらな瞳が絶え間なく涙を溢れさせている。
譫言のように謝り続けながら、眼は真っ直ぐに、弟の最後を見届けようとしていた。

そんな健気な姉に、ジュンは心の中で呟く。恨みっこないだろ、と。
子供の頃から、のりは甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
引きこもっていた時ですら、決して諦めずに、根気よく見守ってくれた。
そして今も、ジュンの願いを見抜き、叶えようとしてくれている。

――伝えたい。今まで言葉にしてこなかった、この気持ちを。

鬱血で顔が破裂しそうだったが、ジュンは姉に向けて、瞬きをした。
まだ、自分の意志で動かせる瞼で、ありったけの感情を表現した。
正しく通じるかなんて解らないけれど、どうしても――伝えたかったから。

ぱちぱちと、一定間隔で、五回のまばたき。
『ア  リ  ガ  ト  ウ』の想いを込めた、ラストレター。


(姉ちゃん、気付いたかな。いや……気付くわけないか。昔っからニブいもんな)

もしも笑えたなら、ジュンは声をあげて笑っただろう。
首を絞められて、声が出なくとも、満面に笑顔を湛えただろう。
だが、そう出来なくても、彼は満足だった。
この魂の器を捨てることで姉や、みつ、金糸雀を辛苦の縛鎖から解き放ち、
自分も楽になれる。
なぁんだ、良いことずくめじゃないか……と。

(あれ? なんだか……楽になってきた。あと……十秒も保たないな)

命のカウントダウンを始めたジュンの脳裏に、みつの微笑みが過ぎる。
とても、とても、幸せそうに笑っている――
念願の店を開いた時だったか、あれは。

  自分だけの宇宙を創る

それが、出会った日に聞かされた、彼女の目標だった。
ただひたすらに突き進んで、多少どころではない痛みを味わい続けて、漸く手にした幸福。
自分が死ぬことで、あの笑顔を、彼女の幸せを守ることができる。
ジュンにとっては、それが何よりの手向けだった。

(ああ、そうだ。彼女に『さよなら』言うの忘れてたな。
 今頃になって思い出すなんて、つくづくタイミング悪いな、僕も)

もう……間に合わない。カウントは、残り4。
カウント3。ジュンの頭の中で、諦念が溶けていく。
意識が失われていき、何もかもが真っ白になっていく。カウント2。
そして……。

カウント1を切った直後、病室の扉が、勢いよく開かれた。
間髪いれず、なにか重たい物が、下半身に落下した感触。
解放される気道。急速に薄れゆく窒息感。
頭部に停滞していた血液が、ありとあらゆる血路を迸り、全身に駆け巡っていく。
血管が、ちくちくと痛んだ。

「馬鹿っ! なんてコトしてるのよっ!?」

激しい怒気を含んだ声が、病室に轟いた。
鬱血により暗転していた視界がクリアになるにつれて、ジュンは状況を悟った。
みつに突き飛ばされて、のりは彼のベッドに倒れ込んでいた。
弱々しく嗚咽して、肩を震わす姉を、みつが力任せに引き剥がす。

「出てって! もう帰って!」

ああ、まただ……。
反論もせず、ただ謝りながら、みつに追い立てられる姉の弱々しい姿を見て、
ジュンは悲しみのあまり、胸が張り裂けそうだった。
愛する人と、愛する姉が、醜く啀み合う世界なんか欲しくなかったのに。

(どうして僕を苦しめ続けるんだ。いい加減にしてくれよ!)

病室の扉を閉ざすバシンという大きな音は、みつの怒りの具現だった。
出会ってからこの方、こんなにも彼女が激憤した様は見たことがなかった。
みつは何時だって、おおらかで優しく、大人の余裕を備えていたから。

だが、今の彼女は違う。彼女自身、暴走しそうな感情を持て余している。
辛うじて、理性で押し止めている様にみえた。
ドアに鍵をかけた姿勢のまま、ジュンに背を向け、立ち尽くしているのも、
怒りに歪んだ醜い顔を見せたくないが為だろう。


「ゴメン…………ね」

消え入りそうな頼りない声が、ジュンの耳朶を打つ。

「取り乱したりして、本当に……ごめんなさい。でも、私――
 さっきは、どうしても自分が抑えられなかった。
 ジュンジュンを奪われると思った途端、アタマに血が昇って……
 考えるより先に、身体が動いていたの」

ゆっくり、ゆっくりと――
「私には、もう……」

みつは、肩越しに振り返った。止めどなく、涙を溢れさせながら。
「あなたの居ない人生なんて……考えられないんだもの」


泣きながら微笑み、覚束ない足取りでベッドに歩み寄ったみつは、
ジュンの身体にのしかかって、彼の頬を両手で挟み込んだ。

「あなたは、私の夢。たくさんの希望が詰め込まれた、宝箱みたいな存在なの。
 自分のセンスを磨くことも、お店を持つことも、全ての目標は通過点でしかないわ。
 私は、ジュンジュンと一緒に、どこまでも歩いて行きたい。
 一生かけても辿り着けないかも知れないけど、あなたと手を取り合って、
 遙か彼方にある何かを追いかけ、ガムシャラに生きていきたいのよ」

続く言葉を紡ぐ直前、みつは物言わぬジュンの額に、キスをした。
そっと触れた合うだけの唇から、微かに震えが伝わってくる。
潤んだみつの瞳が、真っ直ぐにジュンを見つめていた。


「夢って、そういうものでしょう?」


――夢。
それは儚くも美しくて、虚しくも縋ってしまう、哀しい響き。
けれど、それなくしては、誰も明日への希望を見出せはしない。
ジュンの心もまた、同じだった。
いや……誰よりも夢を欲していたのだと、気付かされた。

(――バカだ! 僕は、なんてバカだったんだ。
 みんなの為だなんて物分かりのいいフリして、苦痛から逃げようとしていた。
 彼女の夢を邪魔しないように、死のうと思っていたなんて、何も解ってなかったんだ!) 


ジュンが自殺することは即ち、みつの夢を奪うことに等しかった。
守りたくて、良かれと思っていた事は、皮肉にも彼女の未来を閉ざすことだった。
馬鹿げている。筆舌に尽くしがたいほど馬鹿げている。

過ちに気付いた途端、ジュンの胸に蟠っていた黒い情念が消えていった。
空を覆い尽くす暗雲も、風が吹けば切れ間が生まれ、太陽の眩しい光が射し込んでくる。
風は、変化を表す詞。たかが微風でも、集い合わされば竜巻にすら姿を変える。
人の心も、同じことだ。
僅かな心境の変化が、漆黒の闇に希望という光明をもたらし、夢を見出す契機を与え得る。

(もう一度、生き直したい。今度は僕だけの為じゃなく、みんなの夢として。
 転んでも立ちあがり、醜態を晒しても、立ち止まらずに歩いていこう。
 彼女の幸せを守るためなら――――僕は、何だって出来るんだから)



夜も更け、消灯時間がやってくる。
みつはジュンの世話をした後、彼のベッドに突っ伏して、すぐに寝息を立て始めた。
病院のこと、店のこと、家に帰れば家事もこなさねばならない。
線の細い彼女の体躯には、想像を絶する疲労が蓄積されていたのだろう。

肩に掛けたカーディガンが、ずれて落ちそうになっている。
今はまだ、それを掛け直してあげることすら出来ないけれど――
ジュンは心の中で、みつの寝顔に囁きかけた。

(二人で、夢を追いかけていこう。もう、置き去りになんてしないよ……絶対に)


その日から、ジュンは生まれ変わった。彼の瞳には、強い意志が宿っていた。
もう、茫乎とした視線を彷徨わせることは無い。
生きていくために不可欠な夢を、手に入れたのだから。

この身体を、もう一度、動かしたい。
そして、彼女に触れたい。力強く、抱き締めてあげたい。
二人の恋は、この程度で褪めてしまう脆弱なものじゃないと証明する為に。
そして、熱く恋を燃えたたせて、愛へと昇華させる為に、今一度――

(僕はまだ、死んじゃいない。身体だって、全部が壊れたわけじゃない。
 回路の一部が損傷したって、バイパス回路を繋げれば、また動かせる筈だ)

かつて、錬金術におけるヘルメス思想では、人体を宇宙と対比して、ミクロコスモスと呼んだ。
抽象的だけれど、神秘性を表す言葉として、深遠なる宇宙は最適だろう。
人間の可能性は、無限大。
どれほどの偉人であれ、自己の可能性を完璧に把握することなど出来ない。
ジュンにだって、奇跡を起こす能力が眠っているかも知れないのだ。
以前ならば、端から諦めて努力を放棄しただろうが、今の彼は違う。

(医者は、治療の手助けをしてくれるだけ。
 結局のところ、僕の身体は、僕にしか治せないんだ)

元通りに動けるようになれるのか。それとも、一生このままか。
答えは、希望という扉の向こうにある。その扉を開く鍵は、ジュンの手の中にある。
みつに教えられて見つけた、夢という名の、小さな鍵が。




三ヶ月後――
年も明け、正月の忙しなさを人々が忘れ始めた頃の、夕方。

「来たわよー、ジュンジュン。調子は、どうかなー?」

今日も病室に顔を見せた彼女に、ジュンは俯いていた顔を上げ、頷く。
彼の手元には、広げられたスケッチブック。
まだ思うようには手指を動かせないけれど、入院生活の退屈な時間を、
デザインの研究へと割り当てているのだった。
手を動かしながらの方が、脳がより多くの刺激を受けるので、アイディアも閃く。
おまけに、運動神経のリハビリにもなるとあっては、正に一石二鳥というものだ。
一週間前まで呂律が回らなかった口調も、今では会話に困らないほど回復していた。

「……今日は、寒かっただろ」

窓の外に広がる、どんよりと暗い冬の空を一瞥して、ジュンが問いかける。
みつは「そりゃあ冬だもの」と口の端を上げて、彼のベッドに腰を掛けた。

「ほぉら……ね」

と、差し出された手が、ジュンの頬を撫でる。
ジュンはペンを置き、スケッチブックを閉じて、みつの冷え切った手を握った。
少し、ガサついた感触。気のせいではなく、彼女の手は以前より痩せ、肌荒れしていた。
朗らかに笑って見せていても、疲れは健康状態となって、如実に現れるものだ。


ジュンは、不意を衝いて、彼女の細腕を手繰り寄せた。
みつが、小さな驚きの声をあげて、前のめりに倒れ込んでくる。
年上で、自分より背の高い彼女だけれど、ジュンは真っ正面から抱き留めた。


「……寒いなら、こうして、汗ばむくらいに温めてやるよ。
 疲れたなら、いつだって寄りかかれば良いよ。どんな時も、僕が支えてやるから」

彼女の背に腕を回して、ジュンは自らの言葉を、実行に移した。
いつか抱いた願望のままに、力強く抱き寄せる。
彼の腕の中で、みつは、ちょっとだけ息苦しそうに呻いた。

「ずっと側にいるから……ずっと側にいてくれ」

耳元で囁いた言葉への返答は、ジュンの耳元にかかる、優しい微笑み。

「変わったね、ジュンジュン」
「……そうか?」
「うん。以前は、少しあどけなくて……恋人とはいえ、弟に近い存在だった。
 でもね、今は逞しく見える。ボーイフレンドから、頼れる男性に成長した感じかな」
「子供扱いされてたなんて、ちょっと気に入らないな」
「まあまあ。拗ねない拗ねない」

ぎゅっ……と、みつの腕が、ジュンの身体を抱き締める。

「――私に夢を見せてくれるのは、あなただけなの。
 だから、離れたくない。このまま――」


私を離さないでね。
まるで幼子の様にしがみつく彼女の頬に口付けて、ジュンはみつの髪を撫でた。

「イヤだと言ったって、離してやるもんか。
 どんな不幸も、困難も、僕らの絆を深めるキッカケにしてやるだけさ。
 全ては目標。夢への通過点に過ぎないんだから。そうだろ?」
「…………ええ。私たちの夢は、まだまだ遠くにあるけど」
「歩いていけば良いさ。二人で手を繋いで――
 差し当たっては、姉ちゃんとの仲直りが、記念すべき第一歩だな」
「そうね。私は、とっくに彼女を許しているんだけどなぁ」
「姉ちゃんの方は……どうだろう?
 愚行を悔いて、早まった真似してなきゃいいけど」
「彼女は見た目よりずっと強い人だから、大丈夫だと思うよ。
 なーんか解るのよ。私と彼女って、性格的に似てるのね、きっと」

「心配なら、電話してみる?」言って、みつが自分の携帯電話を取り出す。
それを受け取ったジュンは、御礼がわりにと彼女の唇を奪って、自宅にダイヤルした。


「…………もしもし。姉ちゃん?

 あ、あのさ……会えないか…………うん。

 これから――――僕たちと」




『醒めた恋より 熱い恋』  完

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