目の前にいるのは――真紅。
 私をじっと睨みつけて――私を床に組み伏せていた。


「あなたが……」
 ただじっと睨みつけながら、喉の奥から声を絞り出している。


「あなたが……」
 私はただ……それを真似た。
 何かしら真剣なことを言おうとしているが、ただの恨み言だろう。


「……あなたがこんなことさえしなければ……」
 ほら、やっぱり。
 私は……お父様の願いをかなえるために……ローゼンメイデンのローザミスティカを奪た。あとは、この目の前の人形のローザミスティカを奪えば……私はお父様のお望みになる人形になれる!
 目の前の人形も……これまでローザミスティカを奪った他の人形の事なぞどうでもよい。


「……こんなことさえしなければ……」
 また真似る。
 みるみるうちに真紅の怒りの色が露になる。


「……あなたが……」
「……あなたが……」
 真紅の言ったことをただ鸚鵡返しに繰り返す。
 滑稽で仕方がない。


 だって……そんなこと言った所で、他の姉妹達のローザミスティカが帰ってくるわけ無いし、返すつもりもないから。
 くすくすくす……。


 ここで暗転して、場面が切り替わる。


 目の前にいたのは――ローザミスティカを失い、ただの人形に成り果てた――真紅。
 そして、そのローザミスティカを……私は手に入れた!


 体の中が――熱い。
 でも、それよりも……これでお父様の望む人形になれたという喜びでいっぱいだ。
 すぐさまお父様の下へと駆け寄る。


 お父様は大いに祝福してくれた。
 そして強く抱きしめてくれた。


 でも――体が……本当に熱い。
 溶けちゃいそうで……。


 苦しい……。
 急に咳き込み出す。そして、目の眼帯が取れてしまう。


「ひびが……いかんっ!薔薇水晶、すぐにローザミスティカを出すんだ!」
 お父様が困惑した表情を向ける。懸命に私の体を揺さぶる。


 でも……でも、そんなことしたら……お父様の人形ではなくなってしまうから!


 痛い……。
 そのうちに顔が、腕が……体の全身が痛くなる。
 激痛が走って……いてもたってもいられない。


 私の……体が……ぼろぼろと崩れていた。


「薔薇水晶おお!」
 お父様が必死になって泣き叫び、私を強く抱きしめる。


 目の前がだんだん暗くなっていく。
 その中でも私は……ただお父様を見つめるしかなかった。


 そして――目の前は真っ暗になって――。



 ――!!


 私は思わず飛び起きた。
 息が荒くなっているのが自分でも分かる。シャツの周りはべっとりと汗で濡れていた。


 ごおおおお!


 目の前を赤い特急列車が轟音を上げて猛スピードで走り去っていく。
 その後は再び静寂。その後に聞こえたのは――


「……雨……」
 何時の間にか雨が降っていたらしい。
 それも土砂降り。
 延々と続く雨の音――そして、近くの国道を走る車の音が時折聞こえるのみ――。


 私はそう――駅のホームにある待合室にただ1つあるベンチで眠りこけていた。
 そしてあんな夢を見た……。
 しかし、人形になって崩れ落ちるなんて奇妙な夢を見て――。


 ふと、何気なく手を眺める。


 普通の人間の関節。
 人形のような球体関節ではない。


 起きたら夢のように人形になっていた――なんていうことはないか。
 ほっとする反面……そうなったらうらやましいとも思った。


 だって――あんな人間関係のいざこざなんて考えずに済むのだから――。


 私はただベンチに腰掛けながらため息を一つついた。
 そして、腕時計を見ると――16時32分。
 まだ列車が来るまで1時間半もある。


 まだ待たなければいけないのかと思いつつ、周囲を眺める。
 雨の霞みの向こうに見えるのは――緑に生い茂った山々。人家はほとんど無い。


 大分県は佐伯市にあるJR日豊線の宗太郎駅――本当に何もない無人駅でのことだった。


「……私に……構わないでよっ!私の気持ちなんか分からないくせにっ!」
 父と喧嘩した私をねぎらいの言葉をかけてくれた友人の真紅に私はそう吐き捨てた。
 気持ちをわかってあげなさい……その言葉はあの時は嫌味にしか聞こえなかった。


 小さい頃から私は父が好きだった。
 母は私を産んですぐに亡くなり……男手一つで育ててくれた。
 根っからの職人で不器用だったけど……たくましかった。
 そんな父に……あこがれていた。本当に大好きだった。
 ずっと……一緒にいたいと思っていた。


 だが、一月ほど前に……別の女の人と再婚することになった。
 私は、反対だった。
 だって……私のお父様が奪われる気がしてならなかったから!


 相手の女の人は悪い人ではなかった。
 私にも優しくしてくれた……でも、それを受け入れる気にはならなかった。
 それどころか拒絶した。


 それからというものの、父といさかいになることが多々あった。
 毎日のように繰り広げられる口論。
 相手の女の人も心配しているようだったが――そんなことどうでもよかった。


 その時から、いつも苛立つようになり……友人達にもその怒りをぶつけていた。
 今になって思えば……八つ当たりなんて大人気なさ過ぎたのだが。
 その時は本当にどうでもよいと思った。
 周囲から孤立して……独りぼっちになっても。


「私のお父様を返して!」
 私は再婚相手の女の人に食って掛かった。
 必死になって止める父。でも、それも無視した。
「いいかげんにしないか!」
 お父様は私を……引っ叩いた。


 痛かった。


 そして……こんな家にはいたくないと思い……家を飛び出した。


 でも、どうしよう。当り散らした友人に頼れるわけが無い。
 どっかぶらつこう。


 私は近くの店で着替えや旅行に必要な道具を買い込むと、駅から電車に乗り込んだ。
 最初は東京あたりにいようと思ったが、できれば人がいない所のほうが気分を落ち着けられるなと思い、東京駅から西へと向かう電車へと乗り込んだ。
 東海道線、山陽線、日豊線と電車を乗り継いで、いつの間にか大分は佐伯まで来ていた。


 そのまま宮崎まで行こうとしたものの、その先へ向かう各駅停車は5時間も後だった。
 特急列車もあったが、さすがに金もあまり使えない。
 仕方なく途中の重岡駅までバスで行くことにして、そこから先は国道10号線を宮崎方面へと歩いていった。
 しかし、電車の中で寝泊りをしていたので、正直睡眠はあまり取れていない。
 山の中を蛇行する国道を歩いていくうちに眠くなったのだった。
 途中で道路に倒れそうになり、走ってきたトラックに跳ねられそうになりながらも、何とか駅の案内看板を見つけて、この駅に駆け込んだわけだが。


 本当に山奥の無人駅。
 周囲には国道と2・3軒の家しかなく、人の姿はない。
 駅舎は無く、電話ボックスとトイレと改札口が残されているのみ。
 雨風が凌げそうなのは……ホームの上にぽつんとある待合室だけだった。
 それもバスの停留所のように、単に一つのベンチと屋根があるだけの吹きさらしのものだったが。
 時刻表を見ると、次の列車が来るのは3時間後とのこと。
 電車が来るまで寝るかと思い、背負っていたナップザックを枕にして横になったわけだった。


 ふと、駅の跨線橋の方に目をやると……人が手で頭を押さえながらこちらの方へと走ってくるのが見える。
 どうやら女性のようだった。
 10代から20代の、腰までの髪を両側で小さく結んだ女性だ。
 雨を懸命にしのごうと、私のいる待合室に駆け込んでくる。


「はあはあはあ……なんて雨なの」
 その女性は息を荒げながら、肩にかけていた旅行鞄をベンチに下ろす。
 この強烈な雨の中を走っていたのか、彼女の着ていたワンピースはずぶ濡れだった。
 そして、大きくため息をつきながら濡れた服の袖で顔についた水を拭う。


「……よかったら……これ使う……?」
 私は自分のナップザックからタオルを取り出すと、その女性に手渡す。
「…………」
 その女性はただじっとそのタオル見つめている。見ず知らずの人間のこんな反応に戸惑っているという様子だった。


「ありがとう」
 その女性はやがてタオルを手にすると髪や顔に付いた雨水を拭う。
 でも、それだけじゃ服が濡れて風邪を引くかもしれないから……。
「……これも……着たらいいよ……」
 私はさらに自分のナップザックから着替えのワンピースを取り出す。
「え、本当に。そこまではちょっと……」
「……いいから……このままだと風邪……ひいちゃうよ……」
「本当に親切なのね。甘えるとしようかな」
 その女性はワンピースを手にすると、周囲をやたらに気にし出す。
「……大丈夫……他に人はいない……」
「そう。だったらいいわ」
 ベンチの後ろに回りこみ、私の背後で着替えるその女性。
 そして濡れたワンピースをベンチに掛けると、そのままその横に腰掛ける。


「貴女って、地元の人?」
「ううん……旅行で来ているだけ……」
「にしても、見ず知らずの私にここまでしてくれるなんていい人ね」


「私は……そこまでいい人じゃない……」
 その言葉にその女性は目を丸くしながら私を見つめた。
「どういうこと。よく分からないのだけど。こんなにしてくれる人なんて……そうそう見ないわよ」
「……何といったら分からないけど……罪滅ぼしのつもり……。これまで友達にひどいことしたから……」
「そうなの……」


 目の前を大分方面行きの特急列車が勢いよく走り抜ける。
 その女性はぼんやりとその方向を眺めていた。

 
 雨は相変わらず勢いよく降っていた。
 南国特有の蒸し暑さもあり、じとじとしている。正直、不快に思う。
 その女性も同じように思っているのか、時折胸元を煽いでいた。


「周囲にひどいことをしたの……私も同じね」


 その女性はぼそりと呟いた。
 その目はただ遠くをぼんやりと眺めていて。


 そして、何を思ったのか……彼女の身の上を語り出した。


 彼女は、私も名前は聞いたことのある有名な女学校にいたという。
 在学中に一人の……女性を好きになったという。
 外見も口調も男らしい――さながら宝塚の男優のような女性だという。
 相手の女性も然り、相思相愛の中だった。


 その女学校では、生徒会長より格が上の、生徒なら誰もがあこがれるポジションがあるらしいが、相手の女性とその座を狙っていたという。
 対立候補の別の女性がいたが、その女性を陥れるためにいろいろなことをしたらしい。
 その友人の女性に無理矢理交際を迫ったり、対立候補の周囲にいた人にいろいろ吹き込んで、いざこざに巻き込んで……結果として周囲に敵を作る結果となってしまった。
 でも、そんなのはどうでもよく、彼女が愛しているその女性が憧れのポジションに選出されればそれでよい――その時はそう思っていた。


 しかし――相手の女性は実は……対立候補の女性が好きだったのだ。


 そのことを思い知らされた時……彼女の中で何かが崩れ去った。


 それ以降、2人の仲はぎくしゃくした。
 相手の女性は、もちろん君も好きだと言ってきたのだが、彼女は拒絶した。
 相談相手もこれまでやってきたことからいなく……自室で一人泣くことが多かったという。
 そしてそのまま……学校を卒業した。


「今も相手は未練がましく言ってきてるのだけどね……」
 私の目の前にいる女性はぼそりと話しつづける。
「……まだ……あきらめきれていないんだ……その人」
「そうね。しつこいと言えばしつこいのだけどね」
 その女性はため息を一つつく。
 一見すれば、彼女は相手の女性の事をあきらめたように見える。
 しかし……どこか彼女にも未練があるような口調だった。


 向かいのホームに佐伯行きの各駅停車が停まる。3両のかつては急行で使っていた車両だった。中に乗客はほとんどいなく、そのまま発車していった。
 この駅で降りる人はなかった。


 ふと、私は思う。
 お父様の事を。
 今ごろ……お父様は……どう思っているのかな……。


 私は携帯を手にした。
 電源は切ったままにしていたので、電源をつける。
 メールの一つでもあるかと思ったが、ここは山奥。
 当然、圏外になっていた。


「どうしたの?」
「……ちょっと……ね……」
 私はどうってことないという素振りをして、携帯をナップザックにしまいこむ。
「どんなことなのかしら?気になるわね」
 その女性は髪を結びなおしながら私に訊いて来る。
 どうやら興味深々といった様子だ。
「……お父様から……電話があったのかなって……思って」
「ふーん。そうなの。心配性な親なのね」


「……家出してきたんだ……」
「え?」
 その女性は驚きを隠せない様子で私を見つめてくる。
「それって、どういうことなの?」
「実はね……」


 私はその女性に……この旅行に来たいきさつを話した。
 見ず知らずの相手だ。話しても別に害になることは無い。


 お父様の再婚の事。
 再婚相手の女性を拒み、お父様と喧嘩していること。
 その苛立ちを周囲の友人に当り散らしていたこと。
 それらをすべて打ち明けた。


「また大変ね。貴女も」
 その女性は同情する素振りを見せる。
 目の前を宮崎方面行きの特急列車が轟音を上げて通過していった。


「……なんか……お父様が今まで愛してくれていたのが……嘘みたいに思えてきちゃって……」
「そう。なんか同じね。私達って……」
「……そうだね……」


 今まで愛してくれたことが全て嘘だった――。
 そんなことを思うと本当にむなしく思えてくる。何もかも……。
 そんな点ではこの人と私は同じだろう。だけど――。


 徐々にではあるが周囲が薄暗くなってきている。
 時計を見ると17時35分。夜が近づいているのが分かる。
 雨は相変わらず猛烈な勢いで降りつづけていた。


「貴女はさ……どうするつもりなの?今後」
 その女性が唐突に訊いてきた質問に言葉が浮かばない。
 何せ、ほぼ衝動的に家を出てきたのだ。
 この後何をやろうか具体的に考えているわけが無い。


「……分からない……で、貴女はどうするの……」
「私は今までのことは吹っ切って、いろんな男の人と付き合うつもり。
 ただ、今まであんな環境にいて、男なんて見ていなかったからちょっとためらいはあるから、最初にぶらっと旅行でもいって気を落ち着けてからやろうと思ったの」
「……そうなの……」
 私は相づちを打った。


 しかし……この人が話している言葉の端々や時折見せる表情から、おおよそではあるが分かる……。


 ――空威張りしているだけで、内心迷っているのではないかと。


 今まで好きだった相手の人のことを完全に吹っ切るか、よりを戻したいかで――。
 この人は恐らくプライドが高い人。
 しかし、それが大きな障害になって――実は後者を取りたいけど、取れずにいる。
 相談する相手もいなく、一人でただ苦しみ悩んでいる。
 それを紛らわそうとしてぶらっと旅行に出かけた――。
 そんな様子が手にとるように分かる。


 だが――それを思った時、はっとした。


 ……それって……私も……同じだよ……。


 正直な所――私も迷っていた。


 お父様はきっと心配している。
 できれば、もどりたい。
 でも――帰ったらあの再婚相手の女と顔を合わせる。
 そして、結婚して愛し合う様を見せ付けられる……。


 ――そんなのはいや……。


 だけど――それでもお父様といたい。一緒にいたい――。
 それでも……。


 そんな感情が頭の中で渦巻いてぐちゃぐちゃになっているのだった。
 雨はあがっていた。日もすっかり落ちてしまい、周囲に夜の帳が下りる。
 駅の構内にある数少ない外灯がその周囲を照らすのみだった。
 
 
「私には失うものなんて無いから。だって既に失っちゃったのですもの。未練はないわ」
 その女性は軽々とそんな事を話す。
 でも――表情には……はっきりと出ている。


 ためらいの色が――。


 本当に――それでいいのかと。
 完全に失ってしまって――望むものを押しつぶして――。
 ただ、これ以上傷つきたくなくて、見たくない現実から目をそむけたまま――。


 そんな彼女を見て、私は思う。


 今なら――失ってはいけないものを失わずに済む。
 逃げてもいい……ただ、本当にそれでいいのか……と。


 だけど……やはり決心は着かない。


「電車が来たみたいね」
 見るとすっかり暗くなった周囲の闇を切り裂くかのように、2つの灯りがこちらの方へとゆっくり近づいてきていた。
 先程見たのと同じ型の3両編成の電車は目の前で停車した。ドアが開く。
 コンプレッサーの音が周囲にうるさく響き渡る。


「……乗る……」
「そうね」
 私とその女性は荷物や、ベンチに掛けていたワンピースを手にすると、車両に乗り込んだ。
 車内には人の姿は無い。座席は4人掛けのボックス席が多くあり、その中の適当な一つに腰掛ける。
 電車はすぐには動き出さず、数分の間を置いてぷしゅんとドアの閉まる音が聞こえた。そして、ゆっくりと動き出して、これまでいた山奥の駅を後にする。
 その先は暗く、車窓を眺めても私とその女性の顔が二重写しになって……その向こうには近くの国道を走る車のライトがちらほらと見えるだけだった。
 時々トンネルや鉄橋を渡っているらしく、特有の轟音がしたり、車窓にトンネルの壁がかすかに見えたりしている。
 右側の座席に座ったが、単線なのか鉄橋を渡る際に、下をくぐる国道の街灯やそこを走るトラックのヘッドライトが見えた。恐らく、傍を流れる川も見えて、昼間なら渓谷の風景も楽しめたであろうが、夜の闇の中ではさすがに見えない。


 車掌が私達の乗っている車内に入り込んできた。私達の所で立ち止まると、切符の拝見をすることを告げた。
 私の向かいに座っている彼女はすぐさま財布を取り出すと、宮崎までの切符を購入していた。
 私は『鉄道の日記念JR全線乗り放題きっぷ』をナップザックから取り出し、車掌に見せる。
 車掌はそのままその場を立ち去り、前の車両に入っていった。


「乗り放題きっぷなんて便利なもの持っているわね」
 彼女は興味深々といった様子で、私の持っている切符をまじまじと眺める。
「……3日間分で全国のJRの快速クラス以下の列車だったら、1日に何度でも乗り降りできるよ……」
「そんないいものあったんだ……知らなかったわ」
「……春夏冬の学校の休み期間に18きっぷもあってそっちは5日間……ってバージョンもある……」
「それなら聞いたことあるけど……使えるのは高校までみたいね」
「それは違う……何歳の人でもいける……。お年寄りが旅行で使うとか、サラリーマンが多人数で外回りの営業に行く時に使っているのを見ているから……」
「本当?そうなの?知らなかったわ……」
 女性はさながらカルチャーショックを受けたかの表情を見せる。
 この女性は全国でも有名なお嬢様学校の出身ということだが……そんな環境で世間の事がほとんど伝わっていないのが分かる光景だった。
 女性の事が好きになったのも……そんな特殊な環境にあったからだろう。


 3つほど駅に停まった後、なんとなく山間部を抜けたのが分かる。
 人家の明かりが多くなってきた。


 ……さて……私はどうしようか……。
 外を流れる町の灯りをぼんやり眺めながら考えていた。


 時刻表を見た限り、今日ぎりぎりで鹿児島には行けるから……そのまま行っちゃうかな……。


 手にした時刻表をナップザックにしまおうとしたとき――中の携帯にメールの着信があることに気付いた。
 電波は3本立っていて、十分に届いている様子だった。
 そして――電話の着信が1件に、メールの着信が1件あるのがディスプレイに表示されていた。


 見ると――父から電話が掛かって、真紅からメールが入っていた。


 父に電話するのは――躊躇われたので、最初にメールを見ることにした。
 なんであんなに拒んだ私にメールが……?
 少し、戸惑いながらもメールを開けた。


『貴女なにやってるの。すぐに槐さんに電話しなさい。
 本当に心配しているわ。貴女が帰ってこなければ、死ぬなんて言い出しているわ。
 貴女の事情や気持ちは分かる。でもあなた自身の問題ではすまないのよ。
 私も心配なのだから。つらく当たってきたのは全く気にしていないから。
 帰ってきて!』


 あなた自身の問題では済まない――。


 その言葉を見たとき――脳天を殴られたかのようなショックを受けた気がした。


 ……私が急にいなくなったこと……あんなに八つ当たりをして喧嘩になったのに……それでも心配してくれているの……。
 ……お人好しだね……でも……


 でも……何か悪い気がする……こんな私に心配してくれているなんて……


 まるで、心にぽっかり穴が開いた気分だった。
 それまで心を埋め尽くしていたものが、突然全て消失してしまう――そんな気持ち。


「どうしたの?」
 その変化を見ていた女性。気にしているかの様子だった。


「……メールをくれたのだけどね……心配してるって……」
「それはそうでしょう。誰にも言わずに家出したのだから。友達でも心配するわ」
 他人事のように話すその女性。しかし……。


「でも、そんな友達がいるなんてうらやましいわ。真剣に貴女の事を考えてくれる友達……私にはそんな人いないから」
 その女性は表情に影を落とし、窓の外の闇を眺める。


 そう……心配してくれている人がいる。
 私自身の問題じゃ済まない。彼女だって私のことで悩み、苦しんでいるのだろう。


 もし――このまま逃げていたら……。
 ……失って、永久に縁が切れたままになるかもしれない――。


 もし――やるなら……今が最後かもしれない……。


 後で思い返せば大げさな話なのだが、その時は本気でそう思ってしまった。


 列車はやがて延岡に着くというアナウンスが流れた。同時に南宮崎行きの各駅停車が3分後に出るということも告げていた。
 ふと車窓を見ると、延岡の街並みの明かりが見える。
 そして列車はゆっくりとホームに到着する。向かい側には銀色の2両編成の車両が停まっていた。
 電車を降りると、その銀色の電車が次に乗る各駅停車とのことで、私達はすかさずその電車に乗り込む。車内はすでに数人の人が座っていた。
 適当に空いている席に座る。席は2人掛けの木製の転換式クロスシートだった。
 頭と腰と尻が当たる部分にクッションが付いていたが、本皮製のふかふかとしたものだった。見かけとは違い、結構座り心地はよい。
 数分してその電車は駅を後にする。車内に自動音声らしきアナウンスが流れる。
 どうやらワンマン運転の列車らしい。


 私は窓の外を流れる闇と街の灯りを見つめていた。


「で、貴女はこれからどうするわけ?心配してくれる友達もいるし」
 その女性も私と同じように窓の外をぼんやりと眺めながら話し掛けてくる。
 さながら他人事のように。自分にその疑問を振ろうとする気配は見せずに。


 この後どうするか……少なくともこのまま放置していてはいけないはずだ。
 でも……そうするための決心が付かない。
 これまで意地を張って……それをやすやすと収める気に……なれない……。


 それを一気に変えさせる何か……きっかけが欲しい。
 我ながら甘えた考えだと思う。
 そう、思えば今回父と喧嘩したのも、元はといえばお父様と一緒にいたい自分の甘えから来ていたのだ。
 真紅と喧嘩したのだって……こんなに傷ついた自分を癒して欲しい……そんな私に同情して、一緒になって父を責めて欲しい……そんな甘ったれた感情からだった。


 でも、真紅は私のその時の甘えとは違った言葉を投げかけた。
 だから拒絶した。
 彼女の本心さえ知らず……いや、知ろうとせずに!


 その時――昼間に見た夢の様子が思い浮かんだ――。


 真紅の気持ちなんか分かろうとせずに、真紅の命を奪い――。
 愛してくれている父の必死の忠告を聞かずに、目の前で消え去ってしまった――。


 もしこのままいけば……自分の意固地な甘えのために――友人も父も失う――。
 そうなったら……手遅れ。


 でも……分かっているのだけど……やる気にはなれない……。


「……分からない……どうしていいのか決心が付かない……」
 それしか答えられない。
「そうなの。まあ、考える時間は沢山あるからのんびりと……」
 その女性は相変わらずの様子で話していたとき――その女性の胸元から携帯の音が鳴った。


「誰なのよ」
 その女性は気だるそうに携帯のディスプレイを覗き込む。
 そこに表示されている名前を見て、さらに不愉快そうな表情になる。
「……誰……?」
「私の友達だった……生徒会長だった女からよ。何を今更……」
 その女性は留守録のボタンを押した。
 出る気にもなれないのだろう……昔の縁のある人間との会話には。
 自分から拒絶してしまっている――。


 それを見ていたら……目の前の女性が……本当に可哀想に思えてくる……。


 留守録モードに切り替わった途端に、相手の女性の声が聞こえてくる。


『……み!貴女一体どこにいるの!……めが大変なのよ!』
 相手の女性は甲高い声でヒステリック怒鳴っているようだ。名前も言っているようだが、よく聞こえない。
 それはさらに続く。


『彼女、自殺しようとしたの!』


 ショッキングな言葉が唐突に出た。
 耳にした私も思わずびっくりしてしまう。


「…………」
 それまで余裕そうな表情の目の前の女性の表情が……急に険しくなった。
「もしもし……」
 そして、さきほどとはうって変わったかのように、電話に出た。


 電話での会話が進むに連れて……彼女の表情がみるみるうちに青ざめていく……。


「嘘よ……」
 今にも泣き出しそうな顔になる彼女。
 そして……力ない様子で電話を切った。


「……どうしたの……?」
 私は呆然としている彼女に恐る恐る声を掛けた。
「…………」
 しかし、しばらく彼女は何も言わなかった。
 電話を手にしたまま――じっと下を俯いていた。全身が細かく震えている。


「……ばっかじゃない……私なんかのために……私なんかのために何で自殺なんか!」
 彼女はやがて何かを呪うかのような低い声で呟いた。
 さすがにこの言葉には周囲の他の乗客も聞き逃すわけではなく、私達のいる区画に目を向けていた。


「……どうしろっていうのよ……!」
 彼女はゆっくりと顔を上げた。


 そこには――涙を流して――下唇を強くかみ締める彼女の顔が見えた……。


 この人も……自分の好きな人が自殺しようとしてショックを受けている。


 本当は……気になって仕方がないんだ。
 もし、そうでなければ……さらりと受け流すはず!


 彼女も――自分から大切なものを失おうとしていることに……気付いた……?


 電車はどこかの駅に着いていた。高鍋駅らしいが、はっきりとは見ていない。
 他の乗客もすぐに興味を失ったのか、駅で降りたり、車窓や手元の本に目をやったりしていた。
 しかし、そんなのはもはやゆっくり見ている場合ではない。


 そして――私も思う。
 お父様の性格から――悩み苦しんで……自殺するかもしれない!
 ぐずぐずしている場合じゃない!


 となれば、やることは決まっていた――父に対して。
 そして……この女性に掛けるべき言葉も――。


「……帰ってあげて……私が言えた義理じゃないけど……」


 その言葉にその女性は涙を流すのを止め……ただ、呆然としていた。
 構わず私は続ける。


「……早く帰らなきゃ手遅れになる……失わないうちに……」


 正直、言いたいことは十分にいえていない。
 彼女の感情は……この際考えていなかった。
 余計なお世話だと逆切れするかもしれない。


 しかし……。


「…………」
 彼女は何も言わず、ただじっと瞼を赤くした目でじっと私を見つめて――


「……あははははは……」
 笑った。
 彼女は渇いた声で……笑った。
 再び、他の乗客が彼女に目を向ける。


「そうか……そうよね……」
 しばらく笑っていたが……やがてそれも止めて、彼女は私に言った。


「手遅れにならないうちに、か。そうよね。やっと決心が付いたわ」


 どうやら、彼女も踏ん切りが付いたらしい。
 自分を好きな――そして、自分が好きな人のことを失わないためにする事を。


「ありがとう。貴女の言葉でやっと吹っ切れたわ」
 彼女は安堵の笑みを浮かべた。そして……。
「お礼と言っちゃ何だけど、私も言わせて。
 貴女も――お父さんの所に帰ってあげたら。心配してるわよ」


 その通り。私もそうしなければいけない。
 正直――これで私も踏ん切りが付いた。
 途端に肩の荷が下りた――そんな気がする。


「でも、もっとも私も言えた義理じゃないけど……あはははは」
 その女性は笑い出した。
「……私もね……ふふふふ……」
 私もなぜか笑い出した。

 私達はしばらく笑い出した。
 周囲の乗客は相変わらず私達の方を見て、中には何かひそひそと話している人もいたが――そんなのはどうでもよい。
 とにかくしばらく――笑っていた。


 無機質な自動アナウンスの声が佐土原に到着するということを告げていた。
 宮崎まではあともう少しのはず。
 着いたら……真紅や……お父様に電話しよう。


 いつしか、私達は笑いは止まっていた。
 その女性はにこやかな表情で私に尋ねてくる。
「貴女、時刻表見てくれない?東京に行く飛行機とか載ってる?」
「……ちょっと待って……」
 私はナップザックから時刻表を取り出すと、ページを捲る。
 飛行機の時刻表もあったが……宮崎空港から出る便はこの電車が到着する頃にはなかった。ついで、夜行のドリームにちりんもあったが、博多に着くのは朝の6時過ぎ。新幹線を乗り継いでも昼はまわる。
「だったら、今日は宮崎に泊まって朝イチの飛行機で東京に帰るわ」
 その女性はすっかり明るい表情を取り戻していた。


 列車は宮崎に到着した。
 私達はそこで降りる。外はすっかり雨の気配は無く、星が見えていた。


「そういえば……この服、貴女に返さなきゃね」
 彼女は着ていたワンピースを指差す。
「……いいよ、それは貴女にあげる……今回のしるしとして……持ってて……」
「いいの。貴女は本当にいい人ね。貴女みたいな人と……友達になりたかったわ」
 彼女は笑みをこぼす。
「それは違うよ……今では友達と思う……」
 心を通じ合えたら……相手のことを心配し、思いやれたらそれが友達だと……私は思う。
 それに貴女にも……心配してくれている友達もいるよ。
 電話を掛けて……本当に心配してくれていたから……。
「そうね。そうだったわね。
 ホテルに着いたら……電話しよう。怒られるかもしれないけど……自分のやったことだから仕方がないよね」
 その女性は微笑をこぼしながら、やれやれといった素振りを見せる。


「本当にありがとう。これは記念としてもらうわ。あなたと会えたことの。貴女も……お父さんと仲を戻してね」
「……貴女も……相手の人と仲良くして……一緒にいてあげて……」
「じゃあね」
 その女性は手を振りながら、改札へ向かう階段を下りていった。
 私も手を振りながら、その女性の姿が消えるのを見送った――そして……。


 やるなら――今だね……。これで私の旅も終わり……。
 私は携帯を取り出す。
 相手はもちろん――お父様。真紅にも後で詫びを入れなきゃ……。
 そして、番号を確認して……発信ボタンを押した――。

         -end-



(注:この作品に出てくる薔薇水晶の話し相手の女性は他作品のキャラです。

その作品やらの内容を知らない方でも読むのに支障はないようにしたつもり(?)ですが、気になる方はこのページの下の方を参照して下さい。














(今作登場の他キャラ)

鬼屋敷桃実@ストロベリー・パニック

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最終更新:2006年10月25日 08:31