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 空がまた、新しい色をしていた。僕は心から、その光景を『美しい』と言い切ることが
出来ない。
 学校が終わったあと、すぐ寮へ帰るのもなんとなく躊躇われて、僕は一人図書室に残り
本を読んでいた。もし僕が本当に「本の虫」の如く読書が好きで、いつもいつもあの場所
で本を読み続けていたとしても。とても高校在学中の三年程度では読みきれないくらいの
蔵書が、あの空間には収められている。一応漫画なんかも置いてあって。……何故か「三
国志」が全部揃ってるんだよなあ。一応歴史物ということで、娯楽とはまた別な位置づけ
が為されているのかもしれない。

 歴史、というと。歴史に関する文献は世の中には溢れているのだけれど、『ひとつの出
来事を語る』為に費やされる時間というのは、果たしてどれくらいなのかと。そんなこと
を考えたりもする。
 時間の流れそのものの感じ方は、恐らく等しいもの。しかし、そこで起こった出来事、
または其処に至るまでの経緯、事後、そしてそれに関する感情。それらのことを、それら
に関与した当人達以外が正確に語ることなど出来はしない筈。実際に体験した本人ですら
語るのに時間がかかりそうなことを、当人ではない『誰か』が語るとするならば、それは
ぎりぎりまで突き詰めた研究等による『推論』を述べる他ない。

 時間がかかるのかもしれない。そう、例えばある出来事。言葉にして、たったひとつの
言葉を、伝えるだけだった出来事ですら、きっと。

 冬が近づき、日は大分短くなってきていた。この、陽が沈む間際の、黄昏の時間。太陽
は傾く程に紅い色を映えさせるのだけど。丁度、陽が沈みきる直前の、ほんの五分ほど。
普段は見ることが出来ないような、新しい色を見せる。僕はこの時間が好きだ。
 色にして、……紫。それすらも正しいとは言えないが、そうとしか表現出来ない色合い
の、曖昧な空間を。僕は独り、歩く。

 新しい色の空。何故この色がいつも『新しい』かと言えば。毎回、微妙に色が異なって
いるような気がするからだ。
 そして、自分で『好きだ』と言っておきながら、それを『美しい』と言い切ることをし
ないのは。僕が、自分の感覚というものを素直に信じることが出来ないからに他ならない。
審美眼がどうこう言うつもりは全くないが、多分、僕は『僕自身』を、誰よりも疑ってい
ることに間違いはないと思う。

 もう少しで、寮に辿りつく。着いたらまず適当に夕食を食べて、シャワーを浴びて……
課題なんかに手をつけて、早めに寝よう。それでいつも通りの、一日が終わり。明日もま
た、普段と変わらない一日が始まるに違いない。

 そんなことを考えながら、目的の場所へとやってきた時に。入り口の辺りで、とある人
影を見つける。
 男子寮なのだから、その存在そのものに違和感を感じる。長い髪は、深まり始めた秋を
感じさせるような少し冷たい風に吹かれて揺れていた。
 彼女は、門の端の場所に背を預けながら、本を読んでいる。新しい色をしていた空は、
もうその色を潜め。辺りは暗くなり始めている。

 僕の視線の先にある存在が、僕という存在に気付かない筈もなく。一瞬僕の方へ眼を向
けてくる。

 こんな場所で、こんな夜更けに此処に居るということは。それは彼女に、誰か待ち人が
居るからに違いないということは十分に予想出来る。もしその彼女の待ち人が、僕ではな
かったら。僕はその存在を気にしつつも、素通りして寮に入ればいいだけだったのだ。

「ジュン……」

 しかし、彼女は僕に声をかけてきた。そこで始めて気付く。年にしては大人びた、その
声の主に。

「水銀燈、どうしたんだよ」

 また、風が吹く。ひかりの少ない今でもわかる位の、美しい銀髪。胸元に付けられた制
服のリボン。そして膝よりも上にある短めのスカートが、なびく。

「どうしたんだよ、とは随分ねえ。久しぶりにお話でもしようと思っただけよ?
 ……めぐも、心配してたんだから」

 彼女の言に、僕は何も応えない。正確には、返す言葉が見つからない。

 先生に告白してから、もう二週間が経とうとしている。あの時僕は、たとえ振られてし
まった事実があったとしても。またいつものように、保健室へ顔を出せることが出来るだ
ろうとタカをくくっていた。
 しかし実際、いざあの場所へ向かおうとすると、足を踏み出すことが出来なくなってし
まっていた。

 それは自分でも不思議な感覚で、……そしてどうしようもなく、『ああ、自分の感覚な
んてやはり信用出来ないもんだな』と。半ば他人事のように考えたりもしていた。

「最近は……放課後は図書室に居るからな。読書の秋って言うだろ」
「……そうねぇ。ね、これからちょっと散歩しない? 夜だけど、天気もいいし」
「結構遅い時間だぞ。門限は大丈夫なのか?」

 女子寮には、種々の防犯の意味を込めて、門限が設けられていた筈。男子寮はその辺り
が結構杜撰で、適当な時間に戻れば済むことになっている。まあ、こんな山奥に不審者が
やってくるということもないのだろうが。

「大丈夫よぉ。門限はあっても、在室チェックは入らないからぁ。それにね、結構抜け出
 してる娘だって居るのよぉ? 彼氏がここに居る娘なんて、特にそうねぇ」

 ああ、なるほど。僕の知り合いには居ないが、先輩ともなってくると……彼女らしき人
物を連れ込んでいることも、たまにある。朝、何故か女子が男子寮の中に居たり。本来バ
レたら停学ものなのだろうけど、結構うまくやっているようで。

「抜け出すって言ってもな。別に朝まで話をする訳でもないだろうに。寮の入り口、閉ま
 っちゃうんじゃないのか?」
「その辺りは手配済みよぉ。一階に住んでる友達に、窓空けといてって頼んであるから」

 やれやれ、しょうがないな。
 促され、僕達は学校へ続く森の道へと向かっていく。


―――


 ほう、ほう、と。夜の獣が、息を漏らす。ひとの気配は、僕ら以外には感じられない。
ただ、静かな空気が、この森の中には収められている。
 中途半端に舗装された道のせいで、一歩一歩踏みしめた時の足音は目立たない。揃わな
い歩調で、僕達は歩き続ける。

「……」 「……」

 特に、何も語らなかった。足元を見続けるのも何だか気が滅入ると思ったから、何とな
く上を見上げてみる。
 木々の隙間から、半分よりも欠けた月が見える。所々、道沿いに灯りは灯っているもの
の。街の照明の無いこの辺りでは、月の光はその存在を大きく誇示していた。

「……綺麗ねえ」

 僕の仕草を察したのであろう水銀燈が、同じように空を見上げていた。

「ねえ、ジュン。この三日月は、上弦? 下弦?」
「ん、どっちかなあ」
「なによう。中学校理科でやったでしょう?」
「そんな昔のことは、忘れちゃったな」
「もう……あ、こっちに行きましょう。丁度休めるところがあるからぁ」
「お、おい。引っ張るなって」

 少し強引に手を引かれながら、舗装道路からちょっと外れた場所へと誘われる。
 多少足場が悪くなったのだが、すぐに開けた所へと辿りついた。

「ここは……」
「ふふっ、すごいでしょう」

 眼の前には、大きな切り株がある。樹齢にして、何年ほどのものだったのだろう?
真ん中にそれが配置されているその場所は。丁度森の樹木の切れ間に位置しているの
か、月の光を遮るものは無かった。
 夜だと言うのに、明るい。そんな印象を受ける。水銀燈は僕の手を離し、丁度切り
株の前まで駆け出していって、くるりと僕の前を向いた。
 夜の光に、彼女の銀髪がよく映えている。その中で微笑む彼女と、この夜の空気。
何て幻想的な光景なのだろうと、僕はその姿に少し魅入ってしまう。

 彼女は切り株に腰掛ける。

「ほら、こっち空いてるわよぉ」

 彼女が座った後でも、切り株にはもう一人座れる位のスペースが残されていた。
 僕は無言で、彼女の隣に並ぶ。また、空を見上げた。欠けた月が、僕達を照らして
いる。……この月は、上弦? 下弦? いや、どうでもいいか。

 こうして、水銀燈と直接顔を合わせるのは久しぶりだ。彼女は今も普通に、保健室
に顔を出しているのだろう。僕があの場所へ行かなければ、逢うこともない。それは
当たり前のことだ。

 携帯のメールは、ちょこちょこ送られてくる。だからそれに応じて、他愛の無い返
信をする。彼女は先生から、『あの出来事』について聞かされているのだろうか。届
くメール中に、それに準じた内容が触れられたものは無かった。彼女なりの気遣いな
のかもしれない。有難いといえば有難かった。

 そして今、彼女が僕に直接逢いに来たということ。メールでは触れなかったことを、
話にやってきたに違いないと思う。

「最近はどう? いっつも素っ気無い返事だから、ちょっと様子がわからかったわよぉ」
「さっきも言ったけど、読書にいそしんでるよ。それ以外は、いつも通り。可も無く不
 可も無く」
「……保健室には、もう来ないの?」
「……」

 まさしく当たってしまう、僕の予想だった。

「先生から、何か言われたのか?」
「違うわよぉ。暫くジュンの淹れる紅茶も飲んでないしね。めぐに言われてどう、って訳
 じゃないわ」

 彼女は、僕の眼を見据えてくる。吸い込まれてしまいそうな色をした、深い、紅の瞳。

「そうか」
「そうよぉ」

 無意識とは言えど、確かにあの場所を避けている節はあった。時間にして、どれ位だ。
何週間か経って、もう一ヶ月にもなるだろうか?
 あれほど毎日顔を出して、通いつめていると言っても良い位だったのに。

「ねぇ、ジュン」
「なんだよ」

 一瞬の間を空けて、

「……気にしなくっても、いいわよぅ!」

 バンッ! と背中を叩かれる。

「いって……! 何すんだよ……!」

 平手が炸裂した背中を擦りながら横を向くと。穏やかに微笑んでいる水銀燈の顔が、そ
こにはあった。

「失恋なんか、だなんて……そんなことを言うつもりじゃ無いわぁ。貴方は飄々としてる
 けど、傷つくときは傷ついてる筈。
 だけど、それを何時までも引っ張ってるのも……こころの健康には、良くないでしょう?」

 ……飄々としてる、というのはどうかわからないが。言葉の最後の方は、間違ってはい
ないだろうと思う。

「まあ、な。それにしても水銀燈。何だか口調が先生みたくなってるんだが」
「何言ってんのよぅ。私とめぐは、ジュンよりもよっぽど長い付き合いなのよ?」
「成る程、確かに」
「そうよぉ。明日あたり、顔出してみて。絶対、いつもと変わらないわよぉ」

『いつもと変わらない』様子が、ありありと想像出来てしまう。拘り続けるのも、僕らし
くない、かな。

「それにね」

 不意に、水銀燈の声のトーンが落ちた。

「皆、心配してたんだからぁ。めぐも。勿論私も。――それに貴方、最近雛苺とも、お話
 してないんじゃない?」

 指摘された、事実。先生に告白した直後、中庭で真紅と話をした。その時、彼女に言付
けされたこと。

『貴方はあの娘の、傍に居てあげて』

 僕はその言葉を、この一ヶ月間は守れて居ないように思う。真紅曰く、雛苺は僕のこと
が『好き』であって――少なくとも、僕はそれに対する答えを出すことが出来なかった。
 普通に朝挨拶をする位ならするのだが、積極的に僕から話しかけることは無く――彼女
の方も、以前のように僕の席へやってくることも無くなっていた。
 雛苺と二人きりにならなければ、必然的に真紅と会話する機会も無くなる。僕はそんな
状況を何かの猶予として捉え、それに甘えていたのかもしれない。

「『最近ジュンに話しかけづらい』って言ってたんだから。……駄目よぉ、せっかくの幼
 馴染なんだし、仲良くしなきゃ」

 ――わかってる。わかってるよ、そんなことは……
 ぐっ、と僕は胸を抑えながら言う。

「随分おせっかいだな、水銀燈」
「……!」

 返しの言葉の語気が、少し強くなってしまった。……なんてことだ。彼女の言ってるこ
とは全く以て正しくて、単に僕がイライラしているだけで……この程度のことで、熱くな
ってしまったとでも言うのか。これこそ、僕らしくないんじゃないか。

「悪い。――その、」
「いいのよぉ。私もちょっと無神経だったわねぇ……ごめんなさい」

 無神経なのは、むしろ僕の方だ。いよいよ、申し訳ない気持ちで一杯になる。
 けれど、おかしいのは。どうして雛苺の話題になって、こんなに胸が苦しくなるのだろ
うということ。
 ――まずい。この呼吸は、まずい――

「――はっ、……」

 つぅ、と。嫌な冷や汗が、顔を伝った。どうしてこんな時に……!
 こんなんじゃ、今度は水銀燈に心配をかけてしまう……

 そう思っていると。背中に、そっと手があてがわれた。先ほどは力一杯叩かれた所と、
同じ部分へ。

「大丈夫よぉ。……落ち着いてねぇ」
「っ……」

 その姿勢のまま、僕は呼吸を落ち着かせることに専念する。彼女の掌は、制服ごしでも
暖かかった。ゆっくり、ゆっくりと……僕は夜の森の空気を、少しずつ吸い込む。

 そうやって、どれ位の時間が経ったかはわからない。吹き付ける風が、丁度良い位の涼
しさを身体に運んでくれる。
 ふわり、と。水銀燈の髪がなびいた。絹のように、滑らかな髪。

「――ありがとう、水銀燈。多分、……もう大丈夫だから」
「いえいえ。やっぱり、発作はたまに出るのねぇ」
「発作、っていうかな……うん、よくわからないんだ」
「……」

 僕の背中から、手の感触が離れる。もうすっかり、呼吸は落ち着いていた。

「ジュン、貴方は……"沢山の空気を、吸い込みたがる"。自分の意志とは裏腹に……
 過剰な摂取は、身体にはどんなものだって毒になる。けれどそれが止められない」
「? ……何を言って――」
「もう少しだけお話に付き合って、ジュン。雛苺がねぇ……ジュンに話しかけられなかっ
 た理由が、もうひとつあるの」
「どういう、ことだよ」

「……彼女、留学するつもりなのよぉ。絵の勉強をする為に、フランスへ行くって」
「――!」

 雛苺が、……日本から居なくなる?

「一応長期の予定みたいだけど、流石に一生逢えなくなるって訳でもないし……
 けど、今の貴方達を見てると、ちょっとねぇ。とにかく、一度保健室に来なさいよぉ。
 あの娘も、すぐ居なくなるって訳じゃないからぁ。

 ……美味しい紅茶を淹れてくれたら、それでチャラにしてあげるわぁ」


――――――


「ありがとう、この辺で大丈夫よぉ。あんまり寮に近づきすぎると、ジュンが捕まっちゃ
 うからぁ」
「――そうか、わかった。その、……今日は、ありがとな」
「礼には及ばないわぁ。紅茶もまだ飲ませてもらってないし。真紅がね、私の淹れた紅茶
 だと文句言うのよぉ。全く……」

 ちょっと不満気な水銀燈だ。
 あれから僕達は、また暫く話をしていて。一応学校の敷地内とはいえ、夜の一人歩きは
危ないということで彼女を女子寮まで送ったのだった。

「それにしても、なかなか気遣いがわかってるわね、ジュンも。これでもう少し、『察す
 る』方も上手くなってくれれば、言うことないんだけどぉ?」

 いたずらっぽい笑みを浮かべる彼女。こんな表情はまあ、年相応なんだよな……

「それじゃあ、また明日」
「ああ、おやすみ」

 一応、入る場所は正門から。庭に侵入してから、件の一階に住む友人の部屋の前へと回
り込む手筈らしい。大丈夫なんだろうか?

 門の手前辺りで、水銀燈がくるりとこちらを向きなおす。

「ねえ、ジュン。貴方は、――」
「――どうした?」
「……なんでもないわぁ。おやすみなさい、ジュン」

 何かを、言いかけたような仕草を残して。小走りにかけていった彼女の姿は、すぐに見
えなくなってしまった。

 僕も、戻ることにしよう。予想よりも、大分遅くなってしまったけれど。
 それでも、水銀燈には感謝している。彼女の言葉をそのまま借りると、こと『察する』
という点については僕は全く彼女に敵うべくもない。それは勿論、先生にもだけど。

 ぼんやりと、道を歩く。夜の風が頬にあたって、心地良かった。
 明日は、どうしよう。――そんなの、決まってる。久しぶりに、保健室に顔を出すのだ。
 水銀燈は、まず居るとして。雛苺も、やって来るに違いない。そうしたら、何を話そう
かな。留学についても、ちょっと尋ねてみようか。何しろ、将来の彼女の夢は画家だから。
留学も、良い経験になるには違いないのだろうし……

 先生、か。また、前と全く変わらないまま接するのは、ひょっとしたら難しいかもしれ
ない。……けどまあ、その辺りも出たとこ勝負だ。
 他愛ない、話をしよう。どんなことでもいい。本当に、他愛のないこと。

 僕は空を見上げながら、考える。もう月は、最初に見た場所よりも大きく位置を変えて
いる。
 そうだな。『上弦と下弦の区別って、どうするんでしたっけ』と。
 そんなことを聞いてみようなんてことも、思ったり。

 頭上には、何処までも夜が広がっている。新しい色の無い、見慣れた夜だ。
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