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 暦の上ではもう既に夏は終わっていると言うのに、この暑さは一体何処からやってくる
のだろうかと……長月の時期になれば毎年思ったりするのだ。
 『月が出ている時間が長いから、長月だ』なんて古文の先生が言ってたっけなあ。名称
暗記なんて所詮こじつけにすぎないものだけれど、この覚え方は結構好きだったりする。
本当に月の出ている時間が長いのかは知らないが、秋は月が綺麗な季節なんてことは周知
の事実だったりするから。
 今、壁にかけられたカレンダーは九月の頁になっている。部屋の灯りを消しているので
視認することは出来ない。
 ただ、月明かりが。街から少し離れるだけで、こんなにも月のひかりが眩しく感じられ
るだなんて、ここにくるまで知らなかった。
 月が、こんなに綺麗だなんて。多分、当たり前のことを、僕は知らなかった。

 知らないという事実は、……知ることによって覆される。当たり前だ。このふたつは、
相反するものなのだから。ひとつの事象に対し、『知らない』と『知る』が同居すること
は有り得ない。

 知識や体験として知らなかったことは、こうして些細なきっかけで身体の中にいつの間
にか染み込んでくることもある。それは悪いことではない。
 ただ、もし自分の『知らない』ことが。それが、『知りたくない』ことだったとき。ひ
とはどうなってしまうのだろう。

 真実。ひとつの真実が暴かれる度に、ひとつの傷が付けられるのだと僕は思う。僕が中
学校の時、クラスの嘲笑を僕が知ってしまった時のように。
 仮に僕が、友人たちによる陰口の雰囲気を悟っていたとして。それを知らなければ、僕
はショックを受けることもなかったのかもしれない。

 知らなければ? ……いや、違う。直接伝えられたのは、奴らの口からだったとしても。
何となく察してしまった空気に耐えられず、『僕の方から、問いただした』のではなかっ
たか? 

 記憶が、曖昧だ。あの時期、そうだ、中学生活も全体の半ばを過ぎた頃の出来事。僕が
学校へ、行かなくなってしまった時。……結局僕は、自分から、知りたくもないことを暴
いてしまったのではないかと思う。

 ……思う、だって? おかしい話だ。僕が確かに経験し、知っている筈のことを、確証
を以て断言できないとは。それはどうしようも無い矛盾。『僕は知っているのに、はっき
りとは知らない』と言っている。

 別に今、思い出さなくてもいいことだ。ひょっとしたら、人間の記憶というもの自体が
そもそも曖昧なもので。それこそが、先ほど僕の言った矛盾を解消してくれる答えなのか
もしれないのだから。

 そう言えばあの頃は、大変なことが色々あったから……勿論、僕の体験は僕の中では辛
いものだけれど。恐らくそれよりも大変な事態に遭遇してしまった人物が、身近に居たん
だ。
 雛苺。僕の幼馴染。彼女の両親が亡くなってしまったのも、確かその頃で――

『――そうね、ジュン。貴方は少し間違っているけど、概ねそう』

 花火大会の夜に聞いた彼女の言葉を、思い出す。彼女という存在が、雛苺の中に出来上
がってしまったことに――雛苺の両親の他界という出来事が関わっている。
 しかし、僕は少し間違っているということを言っていた。何が? 何が違うのか?

 夏休み中は水銀燈に引っ張りまわされて、勿論その輪には雛苺、たまに先生、――そし
て真紅も居た。けど、僕が真紅という存在を認めたということ以外は、何も変わらない日々
が続いていた。そんな時の流れの中で、僕はあの日の夜に言われた僕の『間違い』を、彼女
に確かめることが出来ないでいる。

 ひょっとしたら、知らなくてもいいことなのかもしれないから。知らなければ、それでい
いのかもしれないから。

 呼吸が、苦しくなる。僕はぎゅっと胸を右手で抑えて、また夜の空を見上げた。
 月は相変わらず煌々と輝いていたし、その位置が先ほどから大きく変わった様子も無い。
部屋にかけてある壁時計を見ると、――ベッドから起きだした頃には頂点に居た長い針が、
足の遅い短い針を、とうの昔に追い越してしまって……また元の頂点へと戻ろうとしている。

 いつの間にそんなに時間が経ったのだろう。それは、今僕が体験している事実を以て答え
とする他は無いのだけれど……ただ、ひとつだけ、思った。
 『長月』というのは、月が出ている時間が長いのではなく。綺麗な月が出ているのを眺め
ている時間が長くなってしまうから、そう呼ばれるのではないかと。


――――


「まだまだ暑さは続くみたいだね」
「ほんとねぇ……まあ、ここは冷房が効いて涼しいから問題ないんだけどぉ」
「ジュンー、紅茶飲みたいのー」
「……」

 おかしいな……一学期までは、確かにもっと静かな場所だった筈なのに。何時の間にこ
れほどひとが集うようになってしまったのだろう?

 時は放課後。最近では、帰りはまっすぐ寮へは向かわず。とりもあえず保健室へと向か
うのが日課となってきている。授業もあまりサボりすぎると出席点が危うくなってくるの
で、自分としては割りと建設的な選択であったと思う。
 特に具合が悪いと言うわけでもないのに保健室に入り浸っている様は、周りからすれば
どのように映るだろうか。
 ――いや。この学校では、例えそんな行動を訝しがっても、陰口を叩くような輩は居な
い。コミュニケーションを全く取らない訳ではないけど、いい意味で『他に深く干渉しな
い』のがここのいいところだ。決して無関心という訳ではなく、適度な思慮を皆持ってい
るということである。それは普段クラスメートと接していてもわかることだ。

 まあ、だからこそ。こうやっていつも集まっている僕らは、異色であることには間違い
ないのだが。

「そういえば雛苺。結局夏休み中には完成したのか? コンクール用の絵は」

 僕らの遊びに付き合いながらも、根詰めて描いていたらしい絵。一学期に美術室で見た
時は、素人目に完成も間近なのではないかと思っていた絵……

「んー、もうちょっとなのよ。締め切りは来週だし、今日あたり仕上げちゃうのー」
「そうか、頑張れよ」

 そう言って僕は彼女の頭を撫でる。昔から変わらない、癖。

「えへへ~」

 その時の彼女の表情を見てると、こっちも何だかくすぐったい気分になるのだけれど。
これが父性って奴なのだろうか?

「桜田君の調子はどうかな。どっか具合悪いところは無い?」
「はい、大丈夫です」
「そう? 良かった」

 穏やかな微笑みを浮かべる先生だ。僕が今考えていた(ひょっとしたら間違いかもしれ
ない)父性とは対照的に、こちらはまさしく『母性』。その笑顔を見るだけで、僕は何だ
か安心出切る。

「あらぁ? ジュン。何だか顔が紅いわよぉ?」

 不意に、流し目で僕に絡んでくる水銀燈。

「馬鹿、そんなことあるかよ」
「あれ? ……本当だ。桜田君、熱でもあるの?」

 そんなことを言いながら、僕の額に先生が手を当ててくる。……ひんやりとして、少
し気持ちいい……

「うーん……やっぱり熱、あるんじゃない? お薬だそっか?」
「い、いえっ、大丈夫ですっ」

 僕はその手が額から離れてから、手元にあったカップの中身を一気に飲み干してしま
った。

「……鈍感って罪ねえ、めぐ」
「? なんのこと? 水銀燈」
「何でもないわぁ」

 本当だ。何を言ってるんだ、こいつは。

「ふう……もう一杯くらい飲もうかな……お、雛苺もカップが空いてるな。飲むか?」
「そうね。頂くわ、ジュン。さっき2℃程ぬるくなっていたから、淹れる際には気を遣っ
 て頂戴」
「……うお、真紅か。相変わらずいきなりだな」
「あら、私が用意した葉なのよ? 私だってそれを楽しむ権利があるでしょう」

 しれっとした口調で言ってのける真紅。そりゃあ毎回少しは驚くが、もうこの変貌にも
大分慣れてしまっていた。

「まあ……いいけどな。アッサムはと……ミルクは大目でいいな?」
「ええ、お願い」
「ジュン、私もお代わりちょうだぁい」
「はいよ」

 傍から見れば体のいい給仕のような扱いをされているのだが、この保健室独特の空気の
せいか不思議と嫌な感じはしない。……下僕根性か、ともし言われるのならば。それに返
す言葉は、多分無いのだろうけど。

 それにしても。真紅がこうやって"表"に出てきて……そしてまた、不意に引っ込む。雛
苺が元に戻る際の昏倒時間は確実に短くなってきていたし。この間戻った際などは、ほと
んど違和感なく僕との会話に対応してみせた。

 何か、変化があるのだろうか。そしてこれに……雛苺自身の"何か"に、影響の及んでい
るということなどはないのだろうか。
 その時僅かに彼女の方に向けた視線を敏感に察したのか、真紅は僕にまた声をかけてくる。

「どうかした?」
「何でもないよ」
「そう、ならいいけど。私も気にしすぎたわ、ごめんなさい」
「……」

「何と言えばいいのかしらね。何気ないことでも、ある行動から思考を読み取りたいとい
 うのはひとの性なのかもしれないわ。
 どんな思想だって、それに基づいて行動した結果からがどうかという観点から捉えるこ
 とが出来るかもしれないのだから」
「ふぅん……観念は行動の前段階、ってことかな。パースだっけ?」
「そうね、先生。かといって私がプラグマティストという訳ではないけれど」

 二人の会話に、置いてけぼりを食らう僕と水銀燈。
 観察眼に優れているのかどうかはわからないが、真紅という存在は妙に鋭い所があるの
だということもわかってきた。僕は紅茶を淹れ終わり、彼女達の元へ持っていく。

「うーん、おいしいわぁ。ありがとぉ」
「……そうね、腕を上げたんじゃないかしら。いい子ね、ジュン」

 褒められて、悪い気はしない。……加えて、学年でも一、二を争う可愛さを持つ二人な
のだ。

「や、まあ。たいしたことないよ」
「おやあ、羨ましいね桜田君っ」
「……からかわないでくださいよ、先生……」

 ひょっとしたら下らない、だけど穏やかに過ごせる時間。こんな時は、人生の中で必要
なものなのだろうか?
 僕はすぐそうやって、すぐどうでもいいことを考える。この考えこそが、無駄なものか
もしれない。


――――


「さて。私は一旦戻るわ。美術室に行っててもいいけど、この辺りをぶらつくことにしよ
 うかしらね。多分あの娘も……まあ、どうだかわからいけど」
「私も寮に戻ろうかしらぁ。仲のいいお二人に、後はお任せするわぁ」

 そういい残して、真紅と水銀燈は保健室を出て行ってしまった。必然的に、ここへ残っ
たのは僕と先生だけになる。

「……もう。素直じゃないんだから、あの娘も。もうちょっとお話していってもいいじゃ
 ない。ねえ、桜田君?」
「何言ってるのかわかりませんよ」
「うーん……」

 そんなことを言って、少し複雑そうな表情を浮かべる先生だ。
 それから暫く、二人とも無言。僕は手元に残っていた紅茶をすすりつつ、先生は自分の
机に戻って何やら作業を始めた。

 この部屋の壁にかけられている時計は、秒針の刻む音がしないタイプのものだ。滑らか
に、とても滑らかに。規則正しく、廻り続ける。だから今此処では、僕がティーカップを
机に置く微かな音や、先生が紙に何かを書き付けているような小さな音しか聴こえない。

 会話は無かったけど、別に気まずくは無かった。やっぱり、居心地が良かったから。
 居心地がいいってことは、……其処に居合わせたひとと、いつまでも居たいということ
なのだろうかと。多分柄にもないことを考えた所で、不意に先生が言葉を紡ぎ始める。

「ねえ、桜田君……君は、好きな娘とかは居ないのかな?」
「……えっ?」

まさに虚を疲れて、僕はまともに返すことが出来ない。

「ほら。桜田君若いんだし。恋愛はいいものだよ、青春って奴かなあ」
「……」
「あの娘達。――水銀燈や、ヒナちゃん――真紅ちゃんは、ちょっと特別かな。まあとり
 あえず、あんな可愛い娘なんてなかなか居ない――」
「――先生」

 先生が言いかけた言葉を、僕は自分の言葉で制した。先生の話を邪魔するなんて、多分
これが初めてだった。
 どくん、と。心臓が一際大きく鳴った感触を自覚する。僕は、――僕は、

「先生、何でそんな話を急にするんですか」
「え、だって――」

 僕は、何を話そうとしているのか、

「そんな話、しないで下さい。だって僕は、」

 何を、

「多分。多分、僕の好きなひとは――先生なんです」

「――えっ……」

 かち、こち、と。そんな秒針の刻む音がしているならば、きっと良かった。だけどこの
部屋にそんなものは期待出来ないから、……先生の言葉が宙に放り出されてから、――全
くの、静寂に包まれてしまったのだ。


――――


「そう、なんだ……」

 やっと開かれた先生の口からは、そんな言葉が発された。
 僕は――後悔する。どうしてあんなことを、口走ってしまったのだろう。
 確かに、先生と居る時は居心地が良かった。そして出来るなら、……長い時間、一緒に
居たいとも思える。――他の存在を、冷めた眼で見続けていた僕が。

 けど、一度出てしまった言葉は、自分の口の中に戻すことが出来る筈もない。ならば僕
は、

「先生は……どうですか」

 このまま前に進むことしか、出来ないのではないだろうか。

「えっとね……びっくりしちゃったけど……急だったから。えっと、"好き"って言うのは、
 その……恋愛的に、ってことなんだよね」
「――そうです」

「そっ、かぁ……うん、えっと……」

 先生は、どうやら応えあぐねている様子。こんな状態を見れば、――まあ、返事は聞か
なくてもわかってしまうんだけどな。こんな酷く困っている先生なんて、多分見たことな
いし。

「その、ね。桜田君。参ったな、私、こういうの慣れてないからさっ。あはは……
 嬉しいんだよ、男のひとから"好き"って言って貰えるだなんて。しかもこんな若い子に。
 うぅ……

 ……うん、でも。ごめんなさい、桜田君。私はこの学校の教師で、君は生徒。うぅん、
 そんなことも建前だね。今桜田君、すっごく真剣な眼をしてる。だから私も、ちゃんと
 言わなきゃ……」

 その言葉に続き、先生は僕の眼を見据え、言った、

「私は君の思いに、応えられない」

――わかっていた。きっと先生なら、そう言うだろうと。

「そう……ですか。すみません、困らせてしまって」

「謝らないで。そうしなきゃいけないのは、私の方だから。桜田君の気持ちに気付かなくて、
 軽率なこと……さっき言っちゃったし。ごめんなさい、本当に」

 うーん。人生で初めての経験とは言え、これが俗に言う失恋って奴なのか。
 はっきりと言われてみると、今はそれほどダメージは無いんだけど。後からじわじわく
るものなのかなあ……

「あんまり気にしないで下さい、先生。そうですね――言うなら、先生がよく言ってる
 "青春"って奴じゃないですか、これも」
「あはは……返す言葉がないなあ。けど桜田君。君はすごく魅力的な男の子だから……私
 よりも……や、こういう風に言うのは駄目かな、年上として。

 私くらい魅力的な娘を、ちゃんと捕まえなさいっ! 勿論、フリーの娘を狙うのよ?」

「――ははっ。了解です、先生」

 こんな時まで、先生は本当に"先生らしい"。こんな先生だから、――ああ、そうだった
のか。さっきの告白はきっと、勢いなんかじゃなくて。僕は本当に、先生のことが好きだ
ったんだ。

 そうやって、暫し談笑。今の状況を傍から見れば、つい先ほどひとつの告白劇がここで
あっただなんて信じてくれないだろう。それくらい和やかな雰囲気だった。

「それにしても……むぅ。桜田君が年上好みだったとは誤算だったな……同じ世代に魅力
 的な娘なんてほんと一杯居るのに。や、皮肉じゃなくってね」
「先生は十分魅力的なんですが」
「言うねぇ。……ふふっ。でも私は駄目だよ」
「恋人とか――居るんですか」
「うぅん――でも、好きなひとが居るんだよ。それこそ、誰にも譲ることが出来ない気持
 ちって奴なのかなぁ。……皆には内緒にしてね? 特に水銀燈と――真紅ちゃん。あの
 娘達は、ほんと鋭いから。何を察されちゃうかわかんないし」
「そうですか……はい、わかりました。先生の好きなひとについては言いません。
 けど、僕が振られちゃったこと位は、愚痴っぽく言うかもしれませんけどね」

「うん……ごめんね」
「いえ、いいんです」

 うん。此処だけ見れば、どっちが年上かわからないような気もするけど。新しい先生の
一面を見ることが出来て嬉しいと感じてしまうのは――やっぱり僕が、馬鹿だからなのか
なあ。

「言葉にして……はっきりわかった気がします。僕は、先生のことが――好きでした。
 年の差なんて、関係ないんです。先生と一緒に居たいと思えるし……これが通ってれば、
 きっと良かったんでしょうけど――」

 その先の言葉を紡ごうとして、僕の言葉は止まる。
 先生が……不意に。僕の身体を、包み込んでくれたから。

「――!」
「うん……うん。ごめんね……本当に、ごめん。私は、桜田君の想いに応えられない……
 おかしいね。普段生徒の気持ちを聞くのが、私の役割な筈なのに。今、どんな風に君に
 接していいのか、わからないんだよ。――だから。こうしてるのは――本当に、私も、
 ……何言ってるのか、わかんないよね。

 だけどね……少しの間……このままで……」

 先生の腕に抱きとめられ、僕は言葉を返すことが出来ない。
 ただひとつ、わかっていたのは。この先僕が生きていって、――こうやって、先生の身
体の暖かさを感じることは。きっと、無いのだろうということ。

 僕は眼を閉じる。今、少しだけ。本当に少しだけ、このまま先生に包まれたままで居た
い、なんて。そんなことを、その時僕は考えていたのだと思う。

 ふわ、と。鼻の奥をくすぐる香り。本当に僅かだけど、先生の身体から漂う、花の香り
は……先生が前に貰ったと言っていた、ライラックの香水によるものだった。
 学校ではつけないって言ってたんだけどな、確か。

 ――うん、多分。あの香水は……先生の言う『好きなひと』から送られたものなのかも
しれない。
 薄紫色の花びらをつけるライラックの花言葉は、"初恋"だと前に聞いた。
 これが今僕が感じる香りが"それ"だとするならば、――随分、もっともらしい。本当に
もっともらしいことではないか。――


――――――


 廊下を歩いている間、ただ僕はぼんやりとしていただけのように思う。
 先生への告白のあと、僕はとりもあえず帰りの挨拶を先生に済ませてから保健室を後に
した。先生は何だか心配そうだったが、それは杞憂というものだ。僕自身、自分でも形と
してはっきりしなかった気持ちを外に出して、そりゃあ多少落ち込みはするものの……驚
くほど、何処か清々しい感情を抱いたりもしていたから。

 何処を目指すでもなく歩いていると、長い渡り廊下へと差し掛かる。途中、中庭へ出る
為の備え付けの扉があって、僕はそれに手をかけた。

 九月の青い空は、八月のそれよりも高い場所にあるように感じた。雲ひとつ無い空とい
うもの見るのは、本当に久しぶりであるような気がする。
 秋に差し掛かっているとは言えどまだまだ暑かったし、空調の効いていた保健室から出
た直後であったせいか、歩いているだけでじんわりと汗が滲んでくる。

 目線を空から落としてみれば、植えられた薔薇が花開いている。九月の薔薇は、春に見
られるものよりも控えめな淡い色をしている印象を受ける。
 いくら今が暑くてもきっと、それこそあっと言う間に秋は深まるに違いない。そんな予
感すら覚えさえるような、儚い色だった。

 中庭には丁度陽射しを遮る屋根のついた場所があって、其処にはベンチが備え付けられ
ている。風通しも良いから、其処で休むのも悪くないだろうと考える。

 生徒も大概帰ってしまった後だから誰も居ないと思っていたのだが、そのあてが外れる。
どうやら先客が居るらしい。
 しかも、それは僕の見知った姿であった。独り静かに、本を読んでいるようだ。

「……読書の秋ってやつか? 真紅」

 話しかけられて、本から視線を上げ、僕の顔を見る彼女。

「そうよ。私は秋じゃなくても読むけれど。……折角来たのだから、座ったらどう?」

 促され、僕は彼女の隣の空席へに腰掛ける。

「……」 「……」

 僕が居たところで彼女は何も語らなかったし、僕も別に口を開かない。彼女はまた読書
を再開し、僕は眼の前に咲き乱れている薔薇を眺めているだけ。

 そうやって暫く、無言の時間が続く。最初に見込んでいた通り、穏やかな風が流れてき
て心地よかった。
 このまま時間が止まってしまってもいいな、と思う。さっき先生に抱きとめられていた
ときにこそ、そう考えてもいいようなものだろうけど。不思議と、今。この、どうしよう
もない程穏やかな状態になって始めて、そんな考えが浮かんだ。

 眼を瞑り、このまま眠ってしまってもいいだろうかと……そう思った時、彼女は一言、
ぽつりと零す。

「どうして、わかったの?」
「え?」
「私のことよ。どうして雛苺じゃなく、私が真紅であることがわかったの?」

 ああ、そのことか。言われて見れば、そうだな。……なんでだろう?

「えーと。まあ、本読んでたところとか……」
「雛苺も、読書くらいするわよ」
「そ、そうだよな。あー……」

 少し悩んで。僕はひとつの、しかし曖昧な答えを示す。

「……雰囲気、かな。はっきりとした理由はないんだ。ただ、これは"真紅"だって思った。
 言えることとしたら、多分それだけ」

 僕の言葉に対し、彼女は特に大きなリアクションを示した訳ではなかった。一言、

「そう」

と、なんとも淡白な言葉を返してくる。

「『そう』って……それで納得しちゃうのか」
「貴方が言うなら、それが答えであることに間違いではないでしょう?」
「そりゃあそうだけど」
「まあ……いいのだわ。けど注意するのよ? 多分……私"達"は特別だけど。あの娘はき
 っと、自己を私と間違えられたら、きっとショックを受けるに違いないわ」
「……」

 そよ風は相も変わらず、流れ続けていた。また五分ほど何もお互い語らない時間が続い
たのだけれど、その静寂を破ったのはまた彼女の言葉であった。
 そしてまた僕は、

「ジュン、貴方には」

 息を、呑んだ。

「貴方には、――自分が好きだと思えるひとは、居るのかしら」

 ――ふむ。今日は、"そういう"日なのかもしれないと、考えたりもする。何とも下らな
いことだ。

「ねえ、ジュン。恋愛って、多分存外に素敵なものね。きっとそれに想いを馳せている間
 は、他のどんな些細な悩みも吹き飛ばすことが出来る。それはすごいことよね?
 でも、それ故に――今度は、その事象について心が煩わされることになる」

「どうして今、そんな話を?」
「さあ。何となく、そんな気分だっただけ。だって――貴方には想い人が居ることを、私
 は知っているから。あの娘は、それを察するには純粋すぎるの。ただ眼の前に、自分が
 好きだと思える存在があればそれでいい。

 まあそれだからこそ、私という存在も否定されるのかもしれないのだけれど。だって私
 は、……もうあの娘の"眼の前"に、姿を現すことが出来ないから」

 そう言った彼女は、本を読むことはやめていて。既に何処か遠い所を見つめている
ようであった。

「雛苺――あの娘はね。きっと、貴方のことを好きに違いないわ。勿論それは、兄妹愛と
 か、そういう部分を超えたところの話で。貴方がどう思っているかはまた別の問題ね」

僕は何も返さない。――彼女の話す言葉が、何処か遠い場所から。僕の全く関係の無い所
から発されているような、そんな気がした。

「貴方は、これから先、長い人生を生きていく。その上で、色々なことがあるでしょう。
 私という存在を認識したことも、人生の中では些細な出来事のひとつ。

 けどね。私が言いたいことは――あの娘が。雛苺が、貴方のことを、とてもとても、大
 切に思っているということ。それだけは忘れないでほしいの。前も言ったけれどね。貴
 方はあの娘の、傍に居てあげて」

 言葉を紡ぎ続ける彼女の眼は、真剣だった。ちゃかしている雰囲気など、微塵にも感じ
ない。だから僕は答える。――きっと、ひとつの問いに答える為に。己の人生の全てを費
やしてしまうひとだって、居るのだろう。勿論僕のこの答えは、そんな大層なものではな
いのだけれど。

「ああ。……わかった。胸に刻んでおく」
「鈍感な貴方にしては殊勝な解答ね」
「気分さ。僕は気まぐれだから」
「ふふっ……そういうことにしておこうかしらね」

 正直、戸惑っている。僕が失恋直後だからとか、そういう部分はうっちゃっておくとし
て。僕は雛苺という存在を、今まで恋愛の対象として捉えたことなどなかったから。
 そりゃあ彼女は可愛いし、スタイルもいいし……きっと異性として、それこそ十二分に
魅力的であることに間違いはない。
 けれど、なまじ幼馴染であるが故に。彼女という存在を、『異性として好きである』とい
う様に思うことはなかった。

 こんなことを僕に伝える、真紅という存在。彼女の存在は一体、何なのだろう……

「私? 私は"私"。それ以上でも、それ以下でもないのだわ」
「……だから。なんでひとの考えてることがわかるんだよ」
「さあ? ジュンは考えてることが、顔に出やすいから。――それはともかく。私という
 存在に考えを巡らせて、貴方こそ何か得があるとでも言うのかしら」
「それはわからない。だけど、どんなことだって無駄なことはないんじゃないか」
「あら、貴方からそんな言葉が出るのは少し意外ね」

 彼女がその言葉を発してから、僕らはそれぎりまた、無言になった。

 遮られた屋根の向こう側。其処には何処までも高い、青の空が広がっているに違いない。
僕はベンチに背を預けて切って、見える筈もない青空を見ていた。
 彼女はまた、読書を再開し始める。何の本を読んでいるかはわからないけど、また哲学
に関する文を読んでいるに違いない。

 人生で初めて、失恋というものを経験した日。特に自分の心情に大きな変化があったとい
う感慨もなく、ただ時は流れていった。
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