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  『貴女のとりこ』 第十二回 


日常の世界では、巴と雪華綺晶が行方を眩ませてから、早くも四日目を迎えていた。


――女子高生、失踪のナゾ。

テレビのワイドショーでは、あざといタイトルを銘打って、
連日、無責任に情報を垂れ流している。
しつこく繰り返される近所の住民への取材VTRを見る度に、
ジュンは嫌悪感で、反吐が出そうだった。
どうせ、有名人のスキャンダルなどが発覚すれば、忽ち興味を失うクセに。

懸命の捜索活動にも拘わらず、依然として、遺留品すら見付からない。
しかも、雪華綺晶の狂気じみた所業を聞きつけて、警察も狂言誘拐の線を疑い始めた。
巴に行方を暗ます動機は無いため、自ずと、雪華綺晶に容疑が傾いてゆく。
彼女たちの失踪当時、屋敷に居たジュンや薔薇水晶、執事から数名の使用人に至るまで、
重要参考人として調書を取られた。


だが、知らないものは知らない……。
解らないものは答えられない……。


念のため、屋敷の家宅捜索も行われたが、鑑識官や捜査員は少し調べただけで、
アッサリ引き上げてしまった。
奇妙なことに、誰も地下に続くエレベーターには興味を示さなかったのだ。
まるで、エレベーターなど端から存在していないかの様に。

学校でも、日が経つに連れて、この話題に対する関心は急速に薄らいでいった。
生徒たちは、徐々に近付いてきた夏休みや、その前にある期末テストの準備に忙殺され、
いつまでも赤の他人に降りかかった不幸なんかに、構っていられなかったのである。

今日も、薔薇水晶は一限の授業をサボって、独り、屋上にきていた。
教室には居たくなかった。あんな、片時も心休まることのない、魂の牢獄なんかには……。
空は、彼女の心を写す鏡の如く、低く垂れ込めた暗い雲で覆われていて、今にも泣き出しそうだ。


――などと思っている間に、ぽつり、ぽつりと、空から雫が落ちてくる。

だが、そんな事にはお構いなく、薔薇水晶は指が白くなるくらいにフェンスを握り締めて、
ただただ薄暗く沈んだ街を見下ろしていた。
雨粒に顔を打たれる度に、右眼を、しばしばと瞬かせながら。


「お姉ちゃん……巴ちゃん…………いま、どこに居るの?」

呟いた声は、梅雨の湿った風に吹かれて、いずこかへと押し流されていく。
濡れゆく街並みに、二人の手懸かりを探そうと目を凝らすけれど、見付かるはずもない。
立ちこめる雨霞が、薔薇水晶に目隠しする。

風が、二人の臭いを消しさってゆく。
雨が、二人の足跡を洗い流してゆく。

時が、二人の記憶を、みんなから奪ってゆく。


ざあざあざあ――――

雨足が強まってきても、薔薇水晶はフェンスの側を離れようとせず、街を凝視し続けていた。
降りしきる五月雨が、彼女の髪を、制服を、そして…………心まで、濡らしていく。
肌に貼り付くワイシャツが、身も心も、じわりじわりと凍えさせていった。

(…………寒い)

暦の上では夏でも、雨が降れば気温は下がる。濡れた肌から、体温は奪われていく。
薔薇水晶は両腕を掻き抱いて、ぶるるっ! と身を震わせた。
これでは姉や親友を探す以前に、風邪を引いてしまう。雨具を取りに戻った方が良いだろう。
身体の芯から湧き起こる悪寒で、薔薇水晶の歯が、かちかちと小刻みに鳴った。

「お姉ちゃん。巴ちゃん。ちょっと……傘を持ってくるね」

ついでに、体操着とジャージに着替えてこよう。これでは下着が透けてしまって、とても恥ずかしい。
そう考えて、踵を返し、一歩を踏み出した途端、薔薇水晶は突然の目眩に襲われ、
かくんと膝を折ってしまった。

「あ…………れ?」

全身から力が抜けて、踏ん張ることも出来ずに、雨水が溜まったコンクリートの床に、
ばしゃりと頭から倒れ込んだ。
ここ数日、雪華綺晶と巴の安否を気遣うあまり、殆ど眠っていない。
その影響だろうか? 身体に力が入らない。俯せになったまま、起き上がることもできなかった。
水たまりに浸かった左頬から、どんどん体温が吸い出されていく。
命まで流れ出していくような錯覚。

(……私、どうしちゃったの?)

霞んでゆく視界の向こうで、空が眩い輝きを放った。
数秒遅れて、耳をつんざく轟音。
それが合図だったかの様に、雨足が更に強まり、薔薇水晶の身体を打ち据える。ちょっと痛い。
時折、暗雲の中で、思い出したように乱舞する光……。
水たまりに落ちて砕けた飛沫が眼に入って、薔薇水晶は反射的に右眼を閉ざした。

途端――――
瞼の内側に、見たこともない光景が、ありありと浮かんできた。
夢? 幻覚? それとも、妄想?
いずれにしても、鮮明すぎる。


窓の無い、薄暗くて、窮屈な空間――

部屋の片隅で、明々と炎が燃えている――

あれは、護摩壇だろうか――

その前で、一心不乱に祈祷を捧げている、髪の長い人物――

祈りの声は聞こえない。でも、薔薇水晶には判った――

あれは、女性。自分や雪華綺晶と似た色の、髪の持ち主――


(誰なの? あなたは、誰?)

問いかける声は、声にならない。
どれだけ叫ぼうとしても、彼女の喉から声が出ることはなかった。
薔薇水晶は、たまに、こんな感じの夢を見る。意味不明だが、妙に明瞭で、現実的な世界。
風や気温、色彩、臭い、音すらも感じられるのに、自分からは何も発せられない、不条理な空間。

そもそも、夢は実生活の記憶が、眠りの中でランダムに再生されるもの。故に、不規則で不条理。
ならば、この空間の映像も、どこかで見て、記憶の引き出しにしまわれていたのかも知れない。
ただ、収納した場所を、忘れていただけで……。

(もしかしたら、映画か何かのワンシーンだったのかなぁ)

そんな事を考えて、記憶を辿ろうとした矢先、目の前の光景が波紋のように揺らぎ、
俄に暗転していった。踏み締めていた床の喪失感と、それに続く墜落感。
真っ暗闇の中を、どこまでも落ちて行く。いつ終わるとも知れない、垂直自由落下――

(あわわわっ…………だ……ダメ! 焦っちゃダメだよ。落ち着かなきゃ)

こんな時は、素数を数えるんだ……と、誰かが言っていた気がする。
薔薇水晶は頭の中で、重力加速度に自分の体重を乗算して、運動量を計算してみた。
力学の公式と重力加速度の値さえ知っていれば、小学生でもできる算数を。

(…………えっと……)

けれど、薔薇水晶の混乱した思考では、答えを導き出せなかった。
頭の中に、もやもやと白い煙が立ちこめた感覚。思考は、浮かんだ直後に砕けて、白い霧になる。
右も左も判らない。同じ所で堂々めぐり。迷い道、くねくね……。

(……寒い……よぅ)


止まない雨の中、俯せに倒れたまま、濡れそぼっていく。
今は授業中。休み時間になったところで、雨が降り続いている限り、誰も訪れない。
明日まで降っていたら、一晩中、このままという事も有り得た。

(お姉ちゃん……巴ちゃん……ジュン……みんな……)

意識が、遠くなる……遠退いていく。生存本能が、喧しく警鐘を鳴らし始めていた。
でも、限界。誰かの叫び声を聞いた気がした直後、薔薇水晶の意識は、ぷつりと途絶えた。




――――闇の中で、彼女は目覚めた。


気怠い微睡み。隣に添い寝している人形の、硬い感触。
在るべきモノが、そこに存在する安堵に、自然と安堵の吐息が零れた。


雪華綺晶は、枕元に置いた巴の携帯電話を手探りで掴み当てると、電源を入れた。
何秒かの起動時間の後、ディスプレイが青ざめた光を放つ。
仄かな照明を向けると、穏やかな巴の寝顔が、青白く浮かび上がった。
しっかりと閉ざされた瞼と、うっすらと開かれた唇。

「んふふ。おはよぉ……巴ぇ。今日も綺麗ですわよ」

血の気を失って、更に白さを増した肌は、正しく白皙。
それが故に、左の目元にあるホクロが余計に際立って見える。
雪華綺晶は巴のチャームポイントを、右の人差し指の先で、つんと突っついた。

ふに…………と、粘土を押したような感触。
年頃の乙女の、瑞々しく、張りのある肌とは全く異なる手応え。
でも、それでいい。雪華綺晶は、そう思った。
目の前に横たわっているのは人間の娘じゃなく、精巧に作られた、自分だけの人形なのだから。

雪華綺晶は、巴の頬を両手で包み込み、室温で生暖かくなった肌を、愛おしげに撫で回した。
そして、まだしていなかった目覚めのキスを交わす。巴の唇は、カサカサに乾いていた。

「あらあら、可哀想に。後で、私のリップクリームを塗ってあげましょう。
 それよりも、お口を開きっぱなしにしていたら、みっともないですわ。
 ちゃぁんと、閉じておきましょうねぇ…………あらぁ? 閉じませんわね」

顎を閉ざそうとしても、巴の身体はカチコチに固まっていた。
いわゆる、死後硬直という現象である。
概ね、死後2、3時間で顎や頬の筋肉が硬直を始め、およそ12時間で全身が硬直。
30時間を過ぎる頃まで硬直状態が続き、以降、ゆっくりと解硬、軟化していく。

また、硬直から軟化に至る経過は、気温によっても変化してくる。
夏期は硬直の発生と解硬が早く、硬直時間は36時間程度とされるのに対して、
冬期は硬直発生と解硬が遅く、硬直時間は夏期の約2倍に延びるのである。
この性質を利用すれば、死亡推定時刻が割り出せるのだ。

今更ながら、雪華綺晶は困ったように眉根を寄せて、小首を傾げた。
さっきまでは、人形なのだから硬くても良いと思っていたのに。

「どうしましょう。こんなに固くなってたら、着せ替え遊びも出来ませんわねぇ。
 マッサージでもすれば、柔らかくなるのかしらん?」

質の悪い冗談にしか聞こえない発想を、雪華綺晶は実行に移した。
両手で巴の身体をまさぐり、爪先から踝、脹ら脛、太股と揉みしだいてゆく。
ほっそりと引き締まった腰回りと、肉付きの薄い脇腹はパスして、胸、肩と移動する。
最後に両腕を……指先まで、丹念に。

しかし、それで元の柔らかさを取り戻せるはずもなく、雪華綺晶はすっかり、
二の腕が怠くなってしまった。明日に筋肉痛になっているかもしれない。

仕方なく、元通り横たわって、何気なく、携帯電話の時刻を見遣る。
日付は6月21日の水曜日。時刻は、午前11時ちょい過ぎ。
真っ暗闇の中に居続けたことで、時間の感覚は、ほぼ失われていた。

「えっと…………ここに閉じこもったのが、土曜……違う。日曜日の午後でしたわね。
 でしたらぁ、もう――――」

雪華綺晶は、曜日を口に出しながら、指折り数えた。
いつもだったら、即、暗算で出せるだろう答えを。
徐々に薄くなっていく酸素、蒸し暑さ、空腹などが、彼女から正常な判断力を奪っていた。

「ああ、そうそう。もう4日目になるのですわねぇ」

答えを手に入れた雪華綺晶は、子供みたいに、屈託なく笑った。
その直後、彼女の腹が、くるるる……と、小さく鳴く。
とっくに限界を越えて、既に失われたと思っていた空腹感が、甦ってくる。胃が、活発に動き始めていた。

「…………お腹……空いた」

食べるモノなど、有りはしない。朦朧としていても、そのくらいの事は理解していた。
空腹を紛らすために、また眠ってしまおう。
雪華綺晶は携帯電話の電源を落とすと、巴の頬を撫でながら、瞼を閉じた。


――しかし、眠れない。空腹が、眠気を妨げている。胃の痛みすら覚えていた。

「困りましたわね。水で、お腹を膨らませてきましょう」

再び、光源を手にして、雪華綺晶は洗面台に赴いた。そして、貪るように、水をガブ飲みする。
汗を吸ったドレスが濡れてしまったが、喉の渇きと、胃の空腹が満たされた快感によって、嫌悪感は払拭されていた。
幸せ一杯の表情で、雪華綺晶が顔を上げると、洗面台の上にある鏡が視界に飛び込んできた。
そこにある、窶れきった酷い顔。それが、彼女の偽らざる姿。
暗黒に潜む穢れは、穏やかに……だが確実に、雪華綺晶をも蝕み始めていた。


  ~第十三回に続く~
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