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  『貴女のとりこ』 第七回


ぱしゃっ……ぱしゃぱしゃ……ぴちゃ……。


どこかで、水の音がしている。何かを洗っている音。
微睡みの中で、何度も聞いた憶えがある。
巴は、いつにない気怠さを感じながら、瞼を閉じたまま、寝惚けた頭で記憶を辿った。

(えっと……ああ、そうそう。お母さんが、台所で朝食の支度をしてるのよね)

だったら、そろそろ目覚まし時計が鳴り始める頃だ。

(もう起きなくっちゃ……学校に、遅刻しちゃう)

気怠い身体を起こそうとした矢先、ズキンと頭の芯が痛んだ。
巴は、思わず呻いた。
それを聞き付けたかの様に、水の音が止む。

(お母さん……頭が……痛いの)

もしかしたら、今日は、学校を休んだ方が良いかも知れない。
母親に告げるため、眼を覚まそうとした巴の視界に飛び込んできたのは、
見慣れた部屋の天井ではなく、コンクリートが剥き出しの、素っ気ない天井だった。

(……あれ? ここ……何処だっけ)

巴は、億劫さを我慢しながら頚を巡らした。
見慣れない部屋。見慣れない景色。
まだ頭が寝惚けているのか、巴の意識は、朦朧としていた。


だが、部屋の隅にある洗面台を眼にした瞬間、ハッキリと覚醒した。


――洗面台の前に、誰かが立っていた。

――濡れた長い髪から、水を滴らせて。


「だっ、誰っ?!」

短い誰何の声を巴が発した直後、突然、周囲が真っ暗闇に包まれた。
目隠しをされたのではない。照明が落ちた――或いは、落とされた――のだ。
巴は狼狽えた。どうすれば良いのか、全く思い付かなかった。

一寸先も見えない闇の中で、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。
渇いた喉が、ひゅうひゅうと鳴り続けている。
焦りで鼓動が早くなり、頭が、ガンガンと痛んだ。

(どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう……)

対策を講じようにも、頭が痛くて、考えられない。
ただただ、額に指を当てて、頭痛に耐え続けるだけ。

ある物音が、巴の耳に入ってきたのは、そんな時だった。


しゅるっ…………しゅるっ…………しゅるっ…………しゅるしゅるっ。

闇の中で、規則正しく奏でられる衣擦れ。
狭い室内に反響して、音源の動きが判然としない。
近付いてくるのか。それとも、遠ざかっているのか。
ただ一つ確かなことは、何者かが、動き回っている――と言うこと。

(なに? なに、何、なに、ナニ?)

判る筈がない。解りたくもない。
普段から視覚に頼りすぎている為に、一旦こういう状況に放り込まれると、
もう冷静ではいられなかった。
巴は恐怖に打ち震えながら、ただひたすらに、音の止むのを待ち続けた。
荒い呼吸を聞かれないように、口元を手で覆い隠して――

(止めてっ! その音、聞きたくないの! お願いだから、もう止めてよっ)

巴が胸中で必死に叫び続けていると、願いが通じたのだろうか、パッタリと音が止んだ。
耳を澄ませても、巴の鼓膜を震わせるのは、彼女の動悸と呼吸音ばかり。

(……終わっ……たの?)

どうなったのか? どうなっているのか?
照明が消える寸前、洗面台の前に立っていたのは、誰?

覚醒した脳が活性化していくにつれて、巴は思い出し始めた。
自分が陥れられた、忌まわしい状況を。

(わたし…………きらきーさんに……閉じ込められて)

そう。
ここは、巴の部屋ではない。どこか、訳の分からない部屋なのだ。
雪華綺晶と、巴だけの、ちっぽけな巣穴。
巴は、戦慄を抑え込もうとして、身を強張らせた。

(二人だけしか居ない部屋で、誰が、さっきの衣擦れを――)

考えるまでもなく、雪華綺晶が発したものとしか思えない。
しかし、彼女は、巴が殺してしまった。
デッキブラシで頭をメッタ打ちにして、永久に目覚めなくなった筈だ。
少なくとも、巴は、そう思っていた。自分が雪華綺晶を殺したのだ、と。

(それとも、まさか……生きて……たの?)

だとしても、脳挫傷や、それに伴う急性硬膜下血腫を患っているだろう。
直ぐに起き上がって、歩き回れるとは、とても思えなかった。

巴は息を殺して、耳を澄ました。

すきま風の小さな鳴き声も、聞き漏らさぬ様に。
昆虫が歩く微かな物音すら、聞き逃さない様に。


けれど、どれだけ時間を費やそうとも、聞こえるのは自身の呼吸と、
鼓動だけだった。
先程の衣擦れは、全く聞こえなかった。

しん……と静まり返った暗黒。自分以外の気配はない。

ひょっとして、さっきのは空耳だったのではないか?
巴は、そう思い始めた。
今も続く激しい頭痛が、ありもしない物音を聞かせた可能性は、ある。

(せめて、照明が点されていれば、パッと見て確かめられるのに)

巴は、焦れた。
こんな暗闇の中では、妙な想像ばかりが、際限なく膨れ上がっていく。
得体の知れない化け物が、どんどん大きくなっていく。
際限のない空想を打ち消そうとして、照明の事だけを考えようと努めた。

(照明さえ持っていれば……キーホルダー式のペンライトとか)

一昨日、全国チェーンの電気機器店の売場で見た商品が思い出される。
あの時は不要だと思っていたのに、こんなにも早く、入り用になるなんて。

(ペンライト…………ライト……有るわ。わたし、ライト持ってるっ)

巴は気付いた。照明の代わりに成り得る物を、所持している事に。


「そうよ。携帯電話のバックライトで照らせば、少しは見える筈だわ」

部屋の隅々まで明るくは出来ないけれど、雪華綺晶が倒れていた場所くらいは、
確認できるだろう。
巴は半身を起こして、プリーツスカートのポケットから携帯電話を取り出した。
右手の指先でバックライトのスイッチを探り当て、躊躇い無く押した。

有機ELディスプレイから、光が溢れ出す。闇に慣れた眼には、眩しすぎる。
眼底に突き刺さる光芒で、少し治まっていた頭痛が呼び戻された。

けれども、巴は眼を細めて、光に満ちた四角い窓を、暫し眺めていた。
そうしているだけで、気持ちが落ち着いていく。
心の大半を占めていた恐怖心が、急速に薄らいでいった。

地獄に灯された儚い光だけれど、部屋の様子を確かめるには充分だ。
しかし、雪華綺晶の遺体を照らし出すことには、抵抗があった。
罪の意識。そして、雪華綺晶への嫌悪感。


でも、確かめなければならない。
彼女が、まだ、そこに横たわっている事を。死んでいるという事実を。


意を決して、巴は、携帯電話を闇に翳した。
床に向けて突き出した右手の正面に、白い物が浮かび上がって、巴はドキリとした。


それは――――丈の長い、白いドレス。

裾から、爪先が覗いている。

左右揃って、巴の方に向けられた爪先が。


誰かが、簡易ベッドの脇に…………立っているのだ。


これ以上、上を照らしてはいけない! 巴は本能的に、右腕を逸らそうとした。
しかし、巴の手首が何者かに掴まれ、物凄い力で、持ち上げられていく。
抗っても、抗いきれない。見たくないのに、瞼を閉じる事ができない。

足元から、腰へ。腰から、胸元へ……何者かの姿が、照らし出される。
そして、最後に浮かび上がったのは――


「……くくっ。くふふふふふっ」


濡れた髪を頬に張り付かせ、歯を見せて、にたぁ――と嗤う、雪華綺晶の顔だった。


「……………………見ぃ付けたぁ♪」


  ~第八回に続く~

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